落ち無しの 備忘記録2です。

そもそも、どうして、人は苦しむのか。
肉体的な苦しみは分かるが、精神的苦しみなるものは、なぜあるのか。

同じ状況におかれ、一方は苦しみの精神状態、一方は平気のへいざ。

これは、やはり、かつての生まれ変わりの経験の中で、片方は乗り越えており、
もう片方は、これから乗り越えるべき状態の魂であるからなのか。

小さな成功体験を繰り返しておれば、同じくらいの状況で、はりきることもできよう。

しかし、失敗体験を繰り返しておれば、同じくらいの状況で、不安や恐怖ばかりが先行しよう。

大きな成功を、つまり、自分の実力に見合わない大きな成功を願い、あせった時に
人は不安と恐怖に打ちひしがれる。

しかし、実力はあるのに、不安と恐怖にあるのはどうしてか。

たとえば、世界大会で何度も優勝した者が、体は絶好調なのに、オリンピックという舞台で萎縮するように。

いいや、世界大会でも不安と萎縮の恐怖と対決したはずだ。

だから、周りの目を気にしすぎているのか。

人の目を気にせず、ただ、自分のできることを淡々と行うことのできる境地、
人間、そうありたいものだ。

心の、目標がどこにあるかでも、違ってくる。

目標がもっと先であり、今の状態は通過地点であるとき。そして、もっと先へ行く自信がある時。

人は、今の状態を楽しめるのかもしれない。

やはり、技術的実力と、もうひとつ、人間的実力なるものがあるようだ。
つまり、周りの目に対して、どこまで耐えられるか、周りの目をどこまで楽しめるかというものが。

人間的実力とは、たとえば、人間どうしの出会いや戦いのなかで、
いかに、人を引っ張っていく側になれるかという力だ。

これは、精神的な攻撃力というものもあるかもしれないが、そうでなくて、

いかに、たくさんの人を実際に愛し、たくさんの人の幸福を願い、そして、実際に幸福にしてあげる努力をしたかだ。

これは、うわべの、口だけの話ではない。

本当に人間的実力があるのなら、実際にその人の過去を見た場合
たくさんの人が助けられ、励まされたか見えるはずである。

実際に誰も助けず、だれも養わず、だれからも感謝されない人は、外見だけの人と言える。

それは、何回もの生まれ変わりのなかで、培われた実力である。

もし、人と関わることが恐怖であるのなら、実力はないのかもしれない。

もし、ある人と関わることが喜びならば、それは、生まれ変わりの過去の努力の結果かもしれない。

もし、たくさんの人と関わることが喜びならば、それは、実力だろう。

過去のことは、今に現れている。

しかし、過去に引きずられるのも しゃくである。
くやしいものだ。

だから、今から未来に向けて、人間的実力を伸ばしていこう。

いかに、たくさんの人を助け、いかにたくさんの人の幸せのために奉仕し、
いかに、たくさんの人から感謝される人間になれるか、今から挑戦していくのである。

たくさんのひとのために、努力していこう。

h17.9.20