思い返してみての「Moonshine」

(2002/09/27)


 あとがきとは別の切り口で、Moonshineという作品を振り返ってみることにしました。
 自作についての解説・評論というのは、なんとも間抜けだなぁとは思います。だけど新作を三本、同時並行で進めている(準備段階のものも含む)わけなのですが、それにあたって最後の長編習作「Moonshine」について、自分なりにレポートというか、この作品を何らかの形で総括しておきたいと思ったのです。
 今後の作品は、プロを目指しての応募/持ち込み用作品だったり、web等で公開するにしてもそれは習作ではないという位置づけでやっていくつもりです(気楽にだらだら書くものもあるだろうけど)。さて、ここで前者(応募/持ち込み用作品)はともかく、後者と習作の境界線というのは曖昧だけども……心構えの違いだけじゃないと思うんだけど、持ち込んだり応募したりするのと同じだけのモチベーションとクオリティで書く、けれどもその作品はweb等の場で発表するための作品である、そんな感じかなぁ。
 といった訳で、反省点、達成できたと思えること、本来やりたかったこと(そしてそれが成功したか否か)、予想外だったこと、執筆するうえでの指針にしていたこと……そういった様々なことを、書き終わって少し時間のたった今だからこそ書き綴り、今後の糧にしようと思うのです。
 そんな個人的文書をサイト上で公開していいのかどうかは判りませんが、そういった内容で、二回に分けてまとめてみます。一回目は「思い返してみてのMoonshine」、二回目は「読み返してみてのMoonshine」という感じで。

●1:舞台背景ができるまで
 おそらくはご存知の通り、「Moonshine」(以下MS)は「Moonlight」(以下ML)という小説をベースにしている部分が多々あります。
 見た目の変更点としては、まずは固有名詞からカタカナを極力省く努力をしました。個人的趣味から、「剣と魔法のファンタジー」ではなく「刀と霊術のファンタジー」にしたかったためです。って、ファンタジーはカタカナなんですがね。おとぎ話とか幻想譚と書くと、また何か違うもののような気がするもので……。
 というわけで「スピリッツパーソン(ML)」→「精人(MS)」なんて名詞変更が行われたわけです。と同時に、その単語の意味=設定も別物になりました。
 そうして個人名称を日本名にするための設定を考えました。伊達政宗とその嫡子によって世界統一が行われたというあたりは、単に僕が「独眼竜政宗」が好きだったからです。他に山岡荘八(だっけか)や横山光輝の「伊達政宗」等を読んだ覚えがありますね。「信長の野望」も伊達家でプレイするとか。「政宗があと50年早く生まれていれば」という有名な?言われ方がありますが、まさにMSはその世界だったりします。さて、言語統一やら名前の日本語化が推し進められていったという設定が、Epi.03-01で語られているのですが、このあたりは登場人物の大半が日本語名である不自然さへの説明でもあったわけです。これ以外にも「舞台が日本だから日本名の人物しか出ないんだよ!」という言いわけもできたのですが、やはり傭兵が登場する以上は各地域(各国)から人間が来るだろうし……そうするとそういう人間が一人も出てこないというのも不自然だということで、結局はそういう設定を採択しました。かつての第二次大戦中の日本が行った。日本人化教育みたいで抵抗はあったのですが。その辺は円満に行われたんだということで自分を納得させました。あくまでも名前と言葉だけですし、作中では語られてませんが、近年では名前に関しては制約も緩くなってきています(シェラがいい例ですね)。また、これも作中では語られていませんが、この統一のバックには、三人の精人とその眷族たちが大きく関わっています。でなきゃ無理でしょ、世界統一なんて(笑)
 このように、日本が中心となっているという舞台背景については作者の趣味が丸出しだったりします。ただ、現実日本に近い舞台にすることで、計測単位等のいちいち説明したくない名詞や、地名(大阪・奈良・京都とか。三郷や須賀というのは架空の地名です。偶然に実在していても、それは作中のものとは別物です……)等についての余計な質問が要らなくさせるという狙いも大きかったのですが。

 他に舞台背景として定めておく必要があるものとしては、地名およびその位置関係、各種固有名詞(専門用語含む)、人種・言語の設定、重さや長さ等の単位の定義……などなどがありますが、MSは現代日本をベースにしているので、これらの大部分は現実世界のものを流用することでクリア。あとはMSならではの固有名詞だけを定めていくという、書き手にも読み手にも楽(ただし、こういった部分にオリジナリティを追及する人もいるんだよね……)な手法を採りました。言語を日本語で統一しているのに、カタカナ用語が出てきたりもしますが(メートルとか、スピードとか)、その辺はあくまでも「公用語が日本語」ってことで(汗) 設定上は妥協しています。日本語以外を排斥しているというわけではないのです。そんなわけで、日本地域の学校の授業には英語の授業があったりします。

●2:そもそも書きたかった話
 先に結論を手っ取り早く導いた上で、考察に入りたいと思います。
 MSで書きたかったのは、群像劇です。
 最初から長編として書かれたMSですが、物語の流れというか構成としては、映像作品で言うならばTVシリーズの連続ドラマ(またはアニメ)的なものを目指していました。大げさに言えば大河ドラマ?
 これはどういうことかと言いますと、物語にきちんとした区切りがありつつ、その連続で物語が進展していくといった展開だと考えています。アメリカのテレビシリーズで、日本でも人気を博した「V」という作品があるのですが、ああいったものをやってみたかったのです。もしくは連作として見たスターウォーズとかね。 一本の物語を一気に見せるような、映画的なものを目指したわけではありません。しかしこれらは群像劇じゃなく英雄譚ですね……。うーん、色んなジャンルで具体例を片っ端からあげていってみよう、映画だと「マグノリア」が筆頭で、「バトルロワイヤル」もそうなのかもしれない。あとは特撮になるけど「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー龍騎」。小説だと「銀河英雄伝説」「三国志演義」。ゲームだと「街」「FF6」とか。まぁ挙げていくとキリがないし、僕にとっての or MSの目指した「群像劇」スタイルはこういうものだ、ということで。
 とにかく、そういうスタイルでなくては書けなかったり書きづらかったり、逆に言えば書きやすくなる物語像は確かにあると思うのですよ。
 今まで「MSってどんなジャンルの小説?」と尋ねられれば、僕はいつもこう答えてました。「人間ドラマだよ」と。書いている当時はそんな答えがせいぜいでした。漠然と、その答えを差す言葉があるよう気はしていたのですが、もやがかかったようにそれが出てこなかったのです。しかし、今ならこの言葉を言うことができます。
「MSは群像劇だよ」
 週に一度のドラマだって、13回続けば13時間です。これが映画だと、多くが2時間程度、長くても3時間少々(一部例外あり)。様々な人間を様々な角度から描くには向いていないと思います。「英雄譚のはじまる日」なんて副題を付けたりしておいてなんですが、MSは本質的には英雄譚ではありません。結果的に英雄譚と呼ばれるようになった出来事を内包した、人間同士のエゴがぶつかり合う群像劇だと僕は考えています。一応、物語を通しての主人公として二人を定めてはいますが、場面単位での主役は別に存在したり、様々な人間の思惑が交錯したりと、そういう主人公以外の部分をきちんと書けていたかどうか。中途半端にでなく、密度の濃い描写ができていたかどうか。近々、じっくりと読み返してみたいですね。
 また、Moonshineという英単語にはスラング的に「ばかげている」とかいうニュアンスがあり、このあたりも物語の根底にありました。

●3:二人の主人公、一人のヒロイン。その周りの人々。
 さて、そのあたりに、主人公を拓也と音々という二人立てにした理由があります。MLは主人公である拓也の英雄譚でしたが、MSは拓也と音々を中心にした群像劇のつもりで書きました。
 ところで、群像劇では全員が主人公たりえます。と同時に、登場人物の中の一人にスポットを当てるという手法もアリでしょう。MSは基本的にこの手法にのっとって書いたつもりです。
 初期の頃から言っていたのですが、第一部の展開というのは割とカッチリと決めた上で書いていました。
 発端となるEpi.01、それを承けて物語の背景/下地を徐々に明確にしていくEpi.02。そこまでを踏まえた上でないと登場できなかった、Epi.03からの人物達。なぜなら、彼らはEpi.02までで拓也が、そして読者が知らなかった情報を既に知っている一派だったからです。ただ一人何も知らない音々が、また別の切り口から舞台背景を(それはEpi.03から登場した風間一派からの視点ですが、それが拓也一派と無関係というわけでもないわけで)、知っていくという構成でした。それは読者にとっての復習&新事実でもあります。拓也達が主に咲夜家と桜花や、樹華に連なる峰誼側から物語に絡んでいったのに対し、音々は(とりあえず)橘家側から物語に絡んでゆく。こうして主立った陣営が整ったところで、両者を繋ぐ存在であるところの晃司が登場するわけです。ちょっとこのEpi.03は後半暴走したきらいがあるので反省しているのですが(汗)
 さて各エピソードを振り返っていても仕方ないので、本題に戻ります。
 物語や戦闘の中心部に、主人公として位置づけした人物が居座ってしまう以上、どうしても英雄譚としての一面を持ってしまうという矛盾が生じてしまいます。少なくとも最終的な敵を倒すにあたり、彼らは傍観者ではないのですから。しかし、主人公は人格者でも、完璧人間でも、モラリストでも、絶対的な善人でもない。必ずしもヒーローとも限らない。ただ、たまたま彼らがMSの主人公たる資質を持っていた、ただそれだけに過ぎません。これが別の話だったら、多くの登場人物の中から、たまたま主人公にされてしまっただけ、というケースだってあり得る。主人公は絶対的存在とは限らない。いや、そうであっても構わないけども、僕はそうはしたくなかった。
 それにあたって、この二人はある課題をもって描写することにしました。
 音々には典型的な主人公像の属性を与えることにしました。ヒロイックファンタジーや活劇マンガの主人公のように善悪の区別がはっきりとしていて、悪はとりあえずぶち倒すという行動理念の単純さ。明朗快活な性格で悩みも全てポジティブに解決し、どんな困難にもけっして諦めない。見知らぬ誰かのために、信じる正義のために戦える、そんな主人公像です。それゆえにMSにおいていささか異質な存在にもなったのですが、それはまた後ほど。ともあれ、これらの設定というのは、ほとんどがMSにおける拓也に対するアンチテーゼのようなものとも言えます。
 拓也にはあえて、音々のような「いわゆる主人公像」といったようなリミッターを全て断ち切った上でキャラクタ設定を行いました。自分勝手な生き方で、周囲のことなんか知ったことじゃない。自分の欲求やエゴをむき出しにし、そのくせ精神的には極めて弱い。剣術や霊力に長けるものの、それ以外ではこの上なく脆い存在。物語開始当初こそはそういう傾向は少なかったものの、それはただ日常というぬるま湯(たとえそれが戦場であるにしても)に浸っていただけのこと。そこから乖離していくにつれて、彼の本性がむき出しになっていきます。しかしそれは正直さや繊細さの裏返しでもあります。それが詩織と出会い、ともに逃げ出し、互いに傷つけあって迎えた別れ。その後で、拓也は自身の澱みの中から、詩織への想いという光明を見いだすわけです。もっとも、こういう風に書くと拓也はすごく嫌な人間みたいですが、実際には人並みに以上には情に厚く、ベースは普通っぽい青年であることは、Epi.00〜02の前半あたりまでを読んでいただければ判って貰えると信じています。
 この拓也の例を筆頭(極端)として、その他のキャラクタもそういう方向性で設定されています。彼らは彼らの人生を、彼らなりの目的を抱いて生きているという根底があっての設定です。一人の英雄を引き立たせるような設定の仕方は、MSでは極力排除しました。晃司はそういうキャラクタ(引き立て役)っぽくはあるのですが、それは彼自身がそういうポジショニングを選んだというわけであって、物語上必要とされたから用意したというような、作者の意図によるものではありません。
 それらのただ一人の例外が音々なわけです。前述したとおり、主人公らしい、英雄らしい、そんな属性を付加していくことを基調に生み出されたキャラクタなわけですから。したがってMSにおいて、彼女が主人公でありつつも少し浮いたポジションにいるように感じられてしまえば、それはそのあたりが理由かもしれません。例えるなら、皆が本音で語り合う中、一人だけ正論を吐いているような、そんな違和感。もっとも、それは決して失敗ではなく、作者としては狙い通りだったのですが。だからこそエゴがぶつかり合って目先に捕らわれてばかりの集団の中で、根本的な解決方法を明示するに至れたわけですから。そして明示するだけでなく、自らそれを実行するあたりに、第二部終盤に向かうにつれて本格化してくる「主人公としての音々の資質」があったのだと僕は思います。
 詩織のことについても触れておかねばなりません。作中で彼女自身が言うように、最初は「誰でもよかった」のです。誰でもいいから、この人のために死ねるという相手を探していただけなのです。それがなぜ、拓也に惹かれていったのかということについては、まぁ彼女の趣味だと言ってしまえばそれまでなのですが……。「俺は何があっても詩織を守るよ」というEpi.02-01での拓也の言葉が引き金ですね。これにやられた、と。
 そして、弱いところも全てさらしだす拓也の姿に母性本能を刺激され、葉雪の代理とは言えはじめて「一人の人間」としての詩織を求められたこと、そういったことが積み重なって、詩織の中に拓也への想いは募っていくわけです。
 が、実際のところ「誰でもよかった」というのも事実なわけで、そういう意味ではヒロインとして「どうなのかなぁ?」という気もしなくもありません。しかし傷ついた拓也への癒しの中に自分の存在意義を見いだし、そして拓也もまた詩織からの癒しによって救済されていくのも確かなわけで。
 とにかく、歪んだ形へと当初は入ってしまった二人ですが、そこから通常の恋愛とはまるで違う過程を経て、互いが互いを他の全てを差し置いても(それも極端に)全身全霊で守りあい、信じあうような、そんな固い絆で結ばれた関係へと昇華していく。そこにはなんだか狂気じみてるというか偏執的なものが根底にはあるのですが、それでもこの構図は自分としては気に入っています。拓也のあのネガティブな資質を詩織が受け止めるというのは、ただそれとは逆の資質で癒す/中和するというものだけではなく、同じところまで堕ちることも厭わないということも含めたものだということを、もっともっと書き込みたかったですね。
 詩織というキャラクタは、僕の中では拓也以上に深くて重い人間でした。その片鱗さえも、今一つ出し切れなかった力不足が悔やまれます。

●4:プロットが皆無に等しかった第二部を書くに及んで
 さて、普通はEpi.01を読んだ時点で、とくにMLを読んだ人なら間違いなく、拓也を主人公にした英雄譚だろうと予想した上で、Epi.02で彼にはあっさりと逃げだしてもらいました。その後、Epi.04で音々と共に戦線に復帰したところで、いったん全てをぶち壊しました。この時点で、第一部は英雄譚としての結末を迎えることはできませんでした。
 プロットらしいプロットはそこまでで、後は「黒い魔人」と呼ばれるまでに堕ちた拓也と、それを音々が打ち破り、その最中に詩織の帰還が行われるというくだりだけは考えていました。そして樹華が建造している「願いシステム」の存在。
 それっぽっちの素材を用意したうえで、あとはそれまでに育ってきたキャラクタに委ねることにしたのです。MSが群像劇であるということが、ここからようやく本格化してきます。
 さて、あの「光の夜」のあと、この人物ならどうするだろう? こいつはどうだ?
 試行錯誤の日々が続きました。前後してかれんソフトウェア(僕がしていた同人サークル)用の「pure」のシナリオも手がけてたので、その合間にいろいろと考えていました。

 誰が物語の語り部にふさわしいのか。堕ちた拓也にその役目は無理だ。ここは音々に出張ってもらうか? 無理だ。音々は弓崎香(Epi.03にきちんと登場してますが、一応補足しておくと倭高専時代の親友です)の死を知って、壁に直面している。「正義の味方」に、作者である僕が変化球をぶつけてしまってダメージを与えてしまった。いや、それでも音々なら立ち上がり、そして彼女らしく立ち回って暴れ回ってくれるかもしれない。
 だが、それじゃ駄目だ。荒涼とした日本自治領、外界から見放された中で日々を細々と生きる人々、そんな殺伐とした世界を描くに、音々のポジティブさは眩しすぎる。だから美咲を、香織を引っ張りだすことにした。抜け殻となった義体にすがりつつ、己の全てを投げ捨てながら(名前を変えたのはその象徴だ)、医者としての自分を求められることに微かな価値を覚え、それに依存するように生きている香織が、この乾いた舞台にはふさわしい。
 それを選択したとき、僕の中で行方不明になっていた晃司が見つかった。戦いから降りた風間と違い、晃司は舞台から降りることはないだろう。彼の目的は果たされていない。理沙も止めなければならないし、漣も救わねばならない。そうである以上、彼は何かをしているはずだ。どこかに潜伏して蜂起の時を待ち、そして力を蓄えているはずだ。
 話を少し移しますが、咲夜家における小十郎の立場は低いものでした。もとが女系一族であるうえに、彼は霊術の才には恵まれてはいなかった。「咲夜の男は、術者である女を守るためのもの」、それが不文律だった。そして彼は、狩られる側に回った咲夜家の術者達を救うために奔走する。しかしそれは不文律に縛られたわけではない。彼の義侠心と、恋人である美樹への想いから出た行動だ。この行動が咲夜家を健全な形で結束させることとなるわけです。
 それを晃司が支援していた。そういうわけで「咲夜家術者〜小十郎〜晃司」というラインができる。
 これだ!これが第二部の骨子になる。
 そうなれば導入も見えてくる。何もない状態(それが何も知らない読者の状態でもある)から語り部である香織が動き出す。その結果、前述のラインの一端を担う晃司との接触がある。そこから、ボロボロになった香織のアイデンティティの再生がはじまる。第二部を動かしていくための集団が、こうやって形成されていく。
 これが見えてようやく、第二部が動き始めました。そして、プロットとは呼べないような点の数々(黒い魔人と化した拓也との遭遇、理沙と拓也との戦闘での理沙の敗北、願いシステムの登場、詩織の帰還など)を繋ぐラインも見えてきました。そのラインの向こうに、主人公である音々に対し、いかにもヒーローらしい(女の子だけどさ)見せ場が用意でき、とそこに至る経緯も見えてきたように思います。主人公の割に第二部での出番は少なかった音々ですが、登場を境に物語を激変させるだけの存在感はやはり主人公としての格だったのではないかと。それに、ヒーローは遅れてやってくるものですしね。まぁ、復帰以降の音々の密度というか、存在感みたいなものは、徐々に強まっていったのではないかと思います。

●5:超人バトルにならないために
 意外にも、MSの作中には戦闘シーンは少ないんじゃないかと思います。シミュレーションRPG風に言うと、ドラマパートが長くて、戦闘パートが短いわけですね。
 桁外れの力を持った人間が、MS全体の登場人物の何割かは確実にいるわけです。それを仮に超人と呼ぶなら、たとえば第二部以降もしくは葉雪との接触後の拓也や、精霊術を全開で使う音々は超人に類するでしょう。桜花や、その力を借りた理沙となるとそれ以上ですね。これに対し、晃司や小十郎と言った面々はそうではなく、普通の人間なわけです。術者勢は実際に白兵戦をするわけではないので、描写する機会は少なかったのですが(だって距離が離れていると対話がないので、ドラマにしづらい)、彼らはそうはいきません。
 その上で、そういった普通の人間が戦闘で見せ場を作るにはどうすればいいか。このあたりは、全編を通しての課題でもありました。
 ただこれは結果論になってしまったのですが、普通の人間が超人相手に戦う機会は極めて少なかったのです。ただ一度、Epi.05-03で、「黒い魔人」と化した拓也を相手に、晃司や小十郎達が戦う羽目になった時くらいでしょうか。しかしあれも、拓也の強さに他の面々が圧倒された形ではありましたが、その膨大な霊力で一瞬で倒す、ということにはなっていません。超人対凡人というより、凄腕の人間同士の戦いの中で、圧倒的な格差があったというレベルに抑えきれたと思います。
 このあたりは非常に繊細に扱いたい要素でした。特別な力を持った人間相手に、普通の人間が戦いを挑んだとき、勝てないまでも一方的に負けるでもない余地を残しておく。手加減をするではなく、作者の描写の仕方と場面展開でそういう方向へ持っていく。ただ、このシーンは元々が音々のために用意された見せ場だったので、最終的には晃司達は追いつめられてしまいましたが、もし別の形だったとしたら、できるだけ少ない損害で撤退するなり、勝てないまでも追い払うなり、なんらかの勝機を見いだすなりと、単純な力の差だけでは勝敗が決まらない展開になったでしょう。微妙に違いますが、理沙と桜花が融合したあとの不安定な状態なんかも、こういった要素が少々絡んでますね。
 とにかくそうしないと、超人以外の人間に存在価値がなくなってしまう。超人だけが戦えばいい状況になる。それはMSが群像劇であると言い張るのなら、あってはならないことだと思います。しかし超人の強さは物語上、必然的に(?)存在してしまう。晃司や小十郎は凄腕の戦士であるとして、超人の領域と凄腕の領域とを、どこかで重ねておく必要があった。超人とは言え、人間+αの結果としての超人であるのだから、超人でない人間とも同じ領域を持っていなければならない。小十郎と拓也の師弟関係なんかは、そういう部分がないとあり得なかったわけです。

 その象徴が、エピローグでの小十郎と拓也の対決シーンです。まず、これはあくまでも霊剣士としての二人の勝負だったため、拓也は必要以上の力を使わなかった。つまり、攻撃系の術を使うだの、小十郎の動きを封じる類いの術を使うだのといった、白兵戦を否定するような術は使わなかった。これは手加減したのではなく、拓也という人間の信条みたいなもんです。
 と同時に、Epi.07-02で彼が言うように「霊力の強さの問題じゃないんだ」「イメージする力と、霊力の制御方法だ」というわけで、要は力の使い方次第なわけなのです。確かに二人の霊力を比べると、小十郎は拓也の足下にも及びませんが、それでも二人の勝負がまともに成立しているのは、霊剣術というものは霊力の強さだけでは決まらないという、MSにおける戦闘技の考え方・理論のようなものがあるからだと思っていただきたいのです。

●6:物語の終焉
 Episode08-03を書いている段階では、Epilogueがどうなるかはまるで白紙でした。
 頂いた感想に多かったのが「拓也が本屋を営んでいたのは意外だったが、ラストで納得した」というものなのですが、実はあれって意図していたものではないんです。別にたまたま立ち寄った本屋で本を見かけていたり、音々からの小包が届いたとか、そういうものでも良かったのです。
 ではなぜ、ああいう後日談になったのか。まず、Episode08終了後の、各人物のその後というのをアレコレと考えてみたのです。音々が文筆業に進んだってのは、まぁなんとなく「音々=放浪=その経験を生かしてルポライター」みたいな流れがあってもおかしくないなぁ、と思うのですが、拓也の本屋に関しては自分でも意外だったと言うか。
 まず、居住地を九州島にしたのは詩織の希望です。拓也と共に(義体もいたけど)放浪したあの地が、彼女にとっての思い出の地というか楽園というか。さて戦争は終わった。さて拓也に何ができるか? 何もできそうにない。彼はこれから何がしたい? 得に希望はない。お金はある。傭兵時代に稼いだ資産は相当なもので、それは日本自治領が組織解体されて完全に月政府の管轄下におかれた段階で、銀行組織の復旧とともに正常に資産として運用が可能になっている。で、まぁたまたま手に取った本で、読書の面白さを知る。それでそのまま、それを仕事にすることに決定。ぶっちゃけた話、そういう流れがあったわけで、あのラストとの関連性というのは、そこから生まれたものなのです。ラストが決まっていたから拓也の道を決めた訳ではなく、僕なりに設定を考えた結果、たまたまラストと拓也がああいう形でつながったという、いわば偶然に過ぎないのです。

●7:「思い返してみてのMoonshine」
 書き始めた時の鮮烈な?思い出が、FF7の発売日よりも先に、Episode01-01を書き上げてやる!というものだったのを覚えています。96年末〜97年1月初旬くらいから書き始めました。当時はまだインターネット接続環境がなく、懐かしの「パソコン通信」「草の根BBS」と言われるような環境下で作品を発表していました。サイト運営を開始したのが97年3月。当時は既に就職しており、創作活動をしていることを他人に知られたくなかったため、「Zone M」というHash.がやってる無目的なサイト内に、T-Hash.氏が管理している「Light and Shine」という小説専門のコンテンツがある、という風にしておりました。ISPがHighwayの時代、URLが「〜/hash/T-Hash.html」だったのはその名残です。その後、開き直って「Light and Shine」一本で行くことにし、また本名で活動していくことにしたわけですが。
 さて、「Light and Shine」開設時点で、すでにMoonshineのテキストのストックはそこそこ有ったのですが、修正作業をしながら公開しようだとか、一気に公開するよりも小出しにしようとかアレコレ考え、一章ごとに時間をおいてアップしておりました。
 と言うわけで、次回はEpisode00から読み直した後で、改めて感想とか反省なんかを書いていきたいと思います。いつのアップになるかは未定ですが、まぁ終了記念企画ということで。

2002/09/27 橋本竜也


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