社会。('99/03/12)

 99/03/11の日記と同じ内容です。

 昔の僕は小理屈をたれる小僧だった。
 いちいちうるさい、小憎らしい(こにくらしい)やつ。
 新聞や雑誌、テレビのニュース、学校の教師、その他の大人、同じような同年代、他人から聞いた言葉で理屈をこね上げ、自分の理論のように振りかざしていた。
 ……んじゃないかと、今からすれば思う。ホントはどうだったのか判らないけど、そういう節がなかったとは言い切れない。
 当時はそんな風に思わなかったから、自分のことを子供扱いされるのが凄く嫌だった。

 そうやって蓄えた言葉の吐き出し先を求め、論争を見かけては突っかかる。自分の境遇を延々と愚痴る。今の自分の文章力ってのがそういう中で鍛えられてきた節が無いとも言い難いけども。
 最近はどうなのかな。愚痴ってるのは変わりがないけど。

 いつからか、「仁」と「義」という言葉を重んじるようになった。仁義と書くとイヤだけど。Moonlightが終わる少し前か、終わってからしばらくしてからだと思う。精神論というか、根性論というか、ああいう考え方は凄く嫌いでそれは今でも変わらない。
 自分で書いた言葉……Moonlightの前半で詩織が言った言葉だけど「想いは力になる」。自画自賛みたいだけど、この言葉に突き動かされたんじゃないかと思う。この言葉が産まれたことは奇跡だと思ってる。これ以上の言葉を書くことがMoonshineでの命題であって、それに匹敵する言葉をもうすぐ拓也が叫ぶはず。それはまだ先の話として……
 仁とは何か。辞書によると「思いやり」であり「他人に愛情を及ぼすこと」だという。
 義とは何か。同じ辞書によると「正しいこと」であり「意味」だという。僕は後者のニュアンスだと考えてる。何かをするための理由。物的なものじゃなくて、精神的な理由。
 仁を受けて義が産まれ、そしてそれがまた他人にとっての仁となる。……だと思うんです。
 漠然とそういう風に考えるようになって以来、自分が変わってきたと思う。
 社会人になったことも大きいかもしれない。自分の目で見、肌で感じ、そこから金なり地位なりモノなり……色んな結果を得る、そんな世界に立つようになってから、変化は劇的になっていたんだと思う。  その時は気付かなかったけど、気が付けばそうなっていた。
 例えば、新聞や雑誌では、外国の資本が日本企業をどうのこうのとか言ってるけど、たぶん僕らはあまり変わらないと思う。極端な例で話をすると、どこぞの一流企業をどこぞの資本が乗っ取ったとして、近所の町工場に変化があるだろうか? うちの近所には小さなネジ工場があるけど、この工場やその取引先を乗っ取ろうなんていう資本家が居るだろうか? ピラミッドの頂点の方では動きがあるかもしれない、下にも影響もあるだろう。
 でもきっと、それはあんまり大きな影響ではなく、きっと中小企業や零細企業の人達というのは昔ながらの取引先と昔ながらの仕事をして行くんだろうな、って。そういう日本的なつきあいの仕方で、日本という国は成り立っているんだから。
 騒ぐのは学者連中と大手企業の方々、あとはちょっと大きめの中小企業の社長さん、そして証券マンの皆さんくらいでしょう。でもきっと、そんなに騒ぐほどの影響は、ピラミッドの上の方だけじゃないのかな。
 楽観してる訳じゃなくて、これが三年間社会人として過ごしてきた僕の実感。むろん、たかだか三年に過ぎないんだけど、ホントの会社組織に組み込まれたことのない学生よりは的確な意見だと思う。きっと頂点では大変なんだろうけどね。とりあえず僕が居る世界はあんまり変わらないと思う。
 会社の社長が替わっても、組織そのものはあんまり変わりなく動いていくのと同じ。

 なんだか典型的な、頑固で昔気質の日本人になりつつあるような気がするんだけども。やっぱり自分の目で見て、耳で聞いて、手で触れて、肌で感じるものが全てだと思うんです。百聞は一見にしかずとはよく言ったものだよな…って思う。
 本を読むだけで楽器は弾けるようにならないし、何万回と恋愛小説を読むより一回のキスで幸せになれると思うから。って、小説を書いてる奴がこんなこと言うと自己否定みたいだけど。
 世界は広いと昔の人は言った。言い古され過ぎてダサい言葉だけど、この言葉の深さを思い知らされてる。言葉に限らず、古いけれども今でも使われるものというのは、やはりそれだけの理由があると思うんです。
 結局、人間が居る以上、そこに感情は付きまとうんじゃないだろうか。

1999/03/12 橋本竜也

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