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ここで、私の10才年上の姉のことを書きたいと思います。
この姉はシズコといって何故かカタカナです。私たちは兄姉が多く間違えやすいからなのか、みんなシズ
コちゃん、マサ子ちゃん(病死)とフルで呼ぶのがならわしで私もいまだに電話などで話をするときもつ
いシズコちゃんと言ってしまい姉さんとは口にでないのです。
その姉の子供たちも私が遊びに行った時など、アヤ子ちゃんアヤ子ちゃんと呼びかけにも使っていました
が、中学生ごろにはとても言いにくそうになんとも言えないテレタ感じで呼んでたのを思いだします。
よく聞いた話に子供が生まれたら、パパ、ママとか呼ばせていいると年頃になったとき父さん母さんと言
いずらくて困るそうですが、うちは主人の意思もあってパパママは使わず私から父さんがね、母さんがね、
という感じで使っておりそれが続いていたのですが、子供が幼稚園に行きだしてから何時のまにか(お)
をつけてくれるようになりお父さん、お母さんが定着しました。
話がちょっとずれましたが・・
この姉はずっと私の世話係りだったせいだけでなく一緒の病院生活とかで縁が深くずっと大人になっても
姉というより母に接する感じでした。
姉は富士山のふもとの御殿場の近くで生まれ10才ぐらいまでそこで育ち富士山の雪解け水で産湯を使い
みごとに色白で美人でした。
反面私は浜名湖の塩水にひがな1日泳いで育ちみごとにまっくろ、よく母までが『生まれながらの色黒の
ようで姉は母に似てあの子は父似で色白は七難隠すといって得だけどあんたは損だね』と言われ、近所の
人たちまで『シズ子ちゃんに似たらよかったのにね』とよく言われました。
でも私は今でも覚えてるということが意識してたのでしようけど姉をうらやむという感覚ではなく姉がほ
められるのが嬉しい方が強かった。
それは学校での成績は優秀で人気者だったそうで私には尊敬に値する人だと言えたからだと思います。
田舎の同じ町から豊田佐吉が生まれたことは前にも書きましたが、それが関連するかどうかは知りません
が、一番上の姉もシズコちゃんもトヨタ自動車へ就職しました。
ところが数年で病気となり退職して私の記憶にでてくる姉となりました。
姉はまさに芳紀(21才ぐらい)でまぶしいような美人でした。その姉に言い寄る人が2人いました。1人
は歯科医と院内の職業訓練で印刷技術の講師をしている人でしたが、姉は後者を選び共に印刷関係を学び
始めました。
将来を共にするという手段であったことは言うまでもありません。結果的にも姉がこの義兄を選んで結婚
したのはさすが、我が姉と関心しました。早く両親に死にわかれ伯母に育てられた義兄はとても心が広く
温かみのある人です。
『なんでわかるねん?人間悪いとこも必ずあるで・・冗談』・・
雑音は気にせず捨て置きまして・・二人は結婚してからは独立して私たちの実家の近くで印刷屋を開き今
に続いています。重ねて言いますが学業優秀で美人だった姉、それに愛想がよく明るかったのでよく回り
の人にも覚えられこのふるさとでの開業はすごく助かったそうです。
なぜならあちこちの会社のそこそこの地位になってる幼な友達がよく協力してくれたとのこと、つまり営
業になりたったからです。
そして太平洋の潮風に吹かれて40年以上単車をのりまわして外交、配達と大忙しいまでは顔もまっくろ
おまわりさんにも『うらやましいな〜』といわれる(ナナハン)にも乗れる免許を持ち大型車も取り誰が
見てもウン才台とは見えない若さで頑張っています。
賃貸だった家も近くで建て直し子供は女、男、男と三人に恵まれ長男、次男は年子でちょうど真ん中に我
家の息子が生まれ、田舎に帰っても良き友達となりこれも実に助かったことでした。
小さいころはさほど背丈に差はなかったのですが、義兄が大きかったせいか2人の従兄弟たちはぐんぐん大
きくなって180センチ位あるそうですが中学時代は水泳部で毎日3000m泳いでいると聞いてびっくりし
ましたが、長男は絵画方面に才能を発揮、次男はバレー部の運動に頑張ったそうです。
10才の夏休みに二人は來坂して遊びにきてくれました。長男の方は両親のいい所ばかりとったのでしょうか
超美男子で近所の女の子に注目され男でも女でも美しきことはうらやましい限りです。
主人が車で和歌山白浜のパークなどへ連れて行き楽しい一日を過ごしたそうです。
今では二人とも家庭を持ちそれぞれ高校の教師となりました。
この話はもっと先になる分ですが、我が息子(保)もそこそこの高校を出たのですが電気屋の仕事にかり
出され満足に勉強もできず、どうせ潰れるであろう店に見切りをつけ自分で警察官を志望しました。
担当の教師に『何を好んで警官になるの?』と言われたそうですが、高卒でも今は警部補であり家も長期
ローンですがいま流行の3階建ての建売りに住んでいます。
この家のことですが、私の姉弟は生存者が5人、主人は7人兄妹ですが全員自分の家を持ち賃貸なのはう
ちだけなのです。
主人は『食べるものを始末してまで家を持つ必要などない』主義の人でその分遊興費にも大分回ったので
はないでしょうか?。
姉が長女を出産(3人目)した時、私はまだ夜学生でして身近かでしかも生まれてすぐに見るのは初めてだったせいもあり思わず『まあ〜猿みたい!』と言ってしまい後で姉にも話題に挙げられ『ご挨拶よね』
とちくりとやられました。
でも、2日、3日、1週間とみごとに変身していくのには、びっくりしました。
本当に可愛いい赤ちゃんになるのです。
テレビで観た記憶があるのですが、生まれたてはいっとき目がみえて、じっと母の顔をみる。
首もすわっていて両脇をささえて立たせる姿勢をさせると足を歩くように動かす。
しかし、このことはほんの1日か2日だけとか??
また生後しばらくは父方の特徴を持っているがそれが自然と消えて、誰似とか個々に変わっていくそうです。
姉の長女は菜々ちゃんと言って父親ゆずりのスラット背の高い顔も父親似ですが愛嬌は姉に似て笑うと周りまでもつい笑顔になりました。
私はまるで自分の子供のような気持ちで可愛くてかわいくてチャンスがあれば遊びにつれてまわりました。
夜学の運動会などにも顔を出してくれて、みんなのアイドルでした。
姉が私の小遣帳をみる機会があったとかで、そこここに菜々ちゃんに何々、と出てくるので少ない給料から『よくしてくれたのね』と言ってくれたのを覚えています。
当時の私の経済モットー?!は4分の1づつ法で学校。貯金。小遣い。親。とそれぞれ4分の1と決めて実行し途中から母が『わたしはなんにもしてあげられないから、結婚とかの費用も自分で貯めるように・・』と親4分の1分が貯金の仲間になりました。
保にもこのやり方を話したら息子も実行してくれて働き出して10年で頭金を貯め、前記の家を購入しました。
私も主人も年のせいか頭が古いのか何がしかのお金を月々親に渡すのが普通、と云う考えで育ってきましたが、保が我家から巣立つと同時に私たちへの援助は遠慮しました。
娘の真子(ナオ子)は私の場合と同じく将来があるので同居のときでも要求はしなかったのですが、所詮対照的、親父似で貯えることの嫌いな?タイプのようです。
菜々ちゃんは浜松市立高校へ進学し、この私立はあちこちの中学からでも10番以内にいないと入れない高校で、この高校に入れることは鼻の高いことでした。
私も憧れましたが夜学へやっと通う身でかなえられなかったのです。
そこはからたちの垣根がつづく学校でした。白い花とトゲのある軸が印象的でした。
中学時代に水泳のバタフライで中学部門の全国9位となったことがあると聞いていました。
菜々ちゃんが可愛いかったせいか、相手がハンサムすぎたのか若いままにアッサリ結婚し4人の子供をもうけました。
そして私もはじめて知りましたが二人めの妊娠の時に流産をしかけて入院1ヶ月、なんとか無事に生まれたのですが、心臓に穴が空いてると、あまり泣かせてもいけないとか、あばれてもいけないとか、育てるのにそれは苦労しているようでした。
昔は奇形があると自然流産をして生まれなかったのに医学の発展はこういうときに良し悪しかな、とも聞きました。
でもこの子供は自然と穴もふさがり元気に育ちましたが、4才の時に風邪を引き痰を気管支につまらせて病院で亡くなりました。歩いて病院へ行き、死に別れで帰ったのです。
幼稚園のお友達や、周りの人たちがどれだけびっくりし、悲しんだことでしょう。
私は死人には悪いのですが大人になってからも、ひつぎの中に花をたむけるときでも、その顔をみると何時までも目にちらつき一番いやなことでした。
でも、このオイの時は思わず頬に両手を当てて泣いてしまいました。その冷たかったこと、長いまつ毛が印象的でした。
菜々ちゃんはまけずにあとの三人の子供と頑張っています。
ここで前後しますが飛び入りで少し書きます。
私の小さい頃はとてもオテンバだったと思います。女も男もなく相撲をとったり木登りしたり、カクレンボなども服を交換して隠れたり、みんなとても仲良く遊びました。
でも1回だけ今でも忘れられない出来事がありました小学1年ぐらいの時です。
電気屋さんの娘さんで美代ちゃんという細おもての大人しいお嬢さんがいました。ある学校帰りの日美代ちゃんがまつちゃんに何かいじめられて泣いているのを見た私は何故か彼の履物をとり片一方だけポーンと放り投げました。
今度はまっちゃんが泣き出しはきものも拾わず走って帰ってしまいました。やはり子供なんですね。
私はいつもの通りの帰路でまっちゃんの家の前を通って自分の家に帰りかけましたら、まっちゃんのおばちゃんが仁王立ちに待っていました。
『あんたやな!うちのまっちゃんを泣かしたのは、今度からこの前通ったら水をぶっかけるよ!』
と怒鳴られたのです。
生まれて初めて他家のおばちゃんに睨まれ怒鳴られてそれはびっくりし、こわくて、それからはいつも遠う回りですが、その家の前を通らない道をえらんで帰宅したものです。
今でもハッキリそのおばちゃんの顔を覚えていますが、もうまっちゃんの顔は思いだせません
美代ちゃんは中学生の時に私が病院に入院してるとき、はるばる電車バスにゆられて山の中までお見舞いにきてくれました。
小柄で細めの私には考えられないウソのような本当のはなしでした。
これからは、娘(長女 真子ナオコ)のことを思い出しながら書いてみたいと思います。
真子も2800gとおんなの子としてはまずまずで、保育器にも入らず元気に育ちました。
息子と10才も離れての誕生で保も私も当然ですが、誰よりも主人が喜んだのは云うまでもありません。
性格は息子と入れ替わったほうがいいと思うほど気丈夫で根性のある娘でした。
まだ、よちよち歩きの頃でも、例えば夫婦喧嘩?で主人が怒鳴っていても『うちには関係ないもん』と
言ってるように一人で平然とままごと遊びをつづけている子でした。
娘は小さい間は本当にお父っちゃん子で、娘が黒を白、と言えば白で押しとうす主人のやり方で、私がちょっと娘の頭をたたいたりすると 『あたま たたいた・・』と主人に言い付け『あやまれ!』とどなられるといった調子ですが、ある日3才ぐらいの時です。
『ぎゃー!』とすごい娘の悲鳴で、台所で夕食の支度中の私は、とんで行ってみますと主人がマッチの棒の燃えかすを手に、(娘は泣いています。
『どうしたの?』
真子が主人に注意されて『言うこときかんかったらマッチでやけどさせるぞ!』
『できるんやったら、やってみ〜と反省の色なしなので本当にやいとしたんや・・』
このようにいざとなると娘にも厳しい主人でした。
またある時など気に入らないと泣いて一人でさっさと別に部屋へ入り込み私たちが無視していると10分ぐらいすると襖を開けてニコニコしているのをみて、みなが爆笑!判りのよい子でした。
よく娘が一人いるだけで明るくなると聞きますが、ほんとにその通りです。
日ごろは甘い、あまい!! 子供は行動など好きな人に似ると云われるだけあって、ものの言いかたはまるで主人のコピー。
世の亭主族がよく メシ フロ ネル でしたが、この三語ぐらいしか言わないと冗談めいた話を聞きましたが、なに(シロ)、なに(トレ)、なに(クレ)の言いかたが多く、言葉を覚えたては覚えやすい言いやすいので、娘は主人のそのままなので、近所の主婦が目を丸くしてびっくりされたこともありました、が 主人が『タバコ』と言えばタバコと灰皿をちゃんと運んでくれたり、買い物などもよく行ってくれ私の代わりで動いてくれたのが助かりました。
何しろ私も共稼ぎ主婦ですが、仕事が終わってからの家事一切は私がやりこなし、主人は何もしてくれませんしまたそれが普通でしたので、あえて主人に手伝ってほしいなどと思ったこともありません。
真子はなぜか小さい間 足が弱く歩いて5分ぐらいの所にある学校のグランドへ遊びに行く途中も何回も転ぶのです。
そこで主人はそのころ狩猟をしてたので、ポインターの訓練でボールを投げて(もって来い!)のときに娘も同時に走らせたり、車での野山には必ず連れていきました。
そして季節、季節で、つくしやらタンポポ、レンゲ、ペンペン草、ねこやなぎ、等いろいろな野山の草花をいっぱいつんできてくれるのですが、時間が経ちすぎて車の中はゴミだらけ?という感じでしたが、『お母さんへのおみやげよ』と摘んできてくれるやさしい娘でした。
おかげで足も強くなり小学校の運動会での走りはトップクラスで一年生のとき、リレーをトップで走っているとき、近くのお爺さんが『そのチビ!負けろ!まけろ!』と叫んでいました。
私はもちろんそれを聞いていましたが、クラスでも一番小さい娘なのに、私は鼻高々で応援してたのですが、そのお爺ちゃんは、負けている孫が可哀想だったのでしょうか?。
当時運動会でビデオカメラを持参してるのは主人だけで(これは商売柄)カメラを向けられると一生懸命に踊っていた娘が主人が移動してその姿が見えなくなるとピタッと踊りをやめて立ちつくすのです。
これには参りまして、後では叱ったことでした。
近所の子供たちを写してるだけでもヤキモチがやけたようです。
ちなみに一年後の運動会にはビデオカメラを持参する人が一人増えました。でもまだまだ倍率が悪く実用にはならないと主人は嘆きました。
電器製品ははしりはあまり買わない、少しまつと改良されてドンドンいいのが出てくると実感しました。
小さい子(小学低学年位)の学業成績は親の成績でもあるとよく言われますが、娘もその典型で主人が熱心に教えると100点をとり、ほうっておくと50点位、やはり努力は何事にも大切だとわかりますし、娘もやれば出来るということがわかりました。
ある日のこと主人が急に真子に『よし!今日は理科の特訓をしよう』と今まで習ったところとこれから習う分の予習で先生から質問に出そうな点を選びそこを徹底的に暗記させたのです。
翌日案の定その質問が出たとき手を上げたのが眞子一人だけだったそうです。むろんスラスラと回答できた後のクラス全員の真子をみる目が変わったとのことでした。
これもやれば出来るの自信を持たせるための主人の計らいだったのですが、主人も仕事?などで忙しいので毎日教えるわけにもいかず、ましてや私は市場内での電器屋通いに娘を同伴させないといけない年齢のため勉強は離れ勝ちで、私が店にいる間は幼稚園、学校、以外は店の内外での時間つぶしで、市場内では有線を主に演歌が流されているため、自然に聞き覚えそれをハモリながら市場内を歩いたり、近くの公園で毎日鉄棒での遊びで逆上がりを一人で出来るようになったり、たまにはある店の同年代の子と遊ぶこともありますが、このような日課でした。
もともと腕先も器用な子で、仕事もてきばきとこなすし主人のコピーといえる点は多々あります。
進学のことですが主人は学費のこともあって、高校は公立以外はダメですべり止め受験は認めずそく働くことが主義の人でした。
保のときは勿論、真子だからは通用しないと言い含めていたので、娘は必死で頑張り自分が選んだ工芸高校へみごとパスしました。
娘は小さいころから絵が上手で小4の時描いたのが入選し市内の会場へ貼り出されたことがあり親子3人で見にいったものでした。
金がないから公立で・・というのは口実で自分がそこそこの浪費家でありそれを削ってまで学費に回したくないのが事実のようです。
でも主人は言います。
『お前が苦労してまで4年間も夜学高校へ行けたのは幼稚園の先生と言う目標があったからやろ?でも実際は
俺と結婚したのだから高卒そのもののメリットがあるか?別に中卒でも同じと違うか?』
『人にはわたくし短大でましたの・・と言うても通るで・・別に調べるわけやなし・・。』
『俺も高卒1年未満で止めたけど、覚えてるのは2つか3つで何の役にもたってないで・・ただ高卒でないだけに、職業訓練所のテレビ修理部門に入られんかったのが残念やったけど、それは独学と実業で取得したもんな。』
今は時代が違いますから高卒程度は義務教育になっても、私はいいと思いますけど、、、。
昭和40年代に田舎の姉からのさそいで、良い土地があるからとのことで、私がコツコツ貯めた金で買いました。
それは新所原駅前徒歩10分で田舎でもあり坪単位が100なので、それでは貯金が足りないからと半分の50坪に分けてもらい将来はそこで住もうか、などと楽しみにしていたのですが、48年のオイルショックで生活が苦しくなり、また事業の真似事みたいなものの失敗もかねて売り払うことにしたのです。
それで乗っていた車も軽自動車から普通者に買い換え、それはそれでいいのですが、数年後にはバブル景気でその土地の値段がどんどん上がって行くのには残念でした。
株も同様で幾つかありましたが、主人の母親宅が火災保険をやめた年に全焼し、それの建て替かえ費用の工面に売り払い、後々ドンドンと急上昇です。
もともと主人は金には縁がないと自分でも言っていますが、そうなのかも知れませんね?。
眞子から少し外れましたが、娘はその高校をいかし詳しいことは知りませんがパソコンで設計図などを書いているそうです。]]]
時々家へあそびに婚約者ときますが、決まって近所のカラオケやへいきます。
眞子は子供の頃は音痴で家でもまともに歌ったことなかったのに、今では会社関係者のトップクラスで前回母親の葬儀には多くの親戚が集まりその後は前もってカラオケの争奪戦?を計画していましたのが、出席者は8名でした。
結果は主人がトップで2位はなんと眞子でした。始めから優勝お自負していた末っ子の順子さんは3位と振るわず気落ちのようす?。
4位は私がなれました。これも主人のきびしい特訓のあかげです。と いまでは認めています。
主人が言います。『片耳が不自由なのによくよくそこまでに成れたなぁ。お前はもともと声がいいんだから、後はテンポをあわせることや。』
なにしろメロデーは無視して文字の移動だけを頼りの唄い方なので、リズムが外れたりするので、よく叱られました。
眞子は月に数回は電話をかけてくれます。私は携帯電話同士なので料金+時間が気になるのですが、あの子は時間など無頓着、延々と語りつづけます。
ほんまに経済観念のないところは、誰かとよく似ています・・。
次に家族ドライブのはなしをまとめて書きます。
息子が小さい間は、毎年夏休みに私の実家へ帰るのが一番の楽しみで、近くに浜名湖あり、同年齢のいとこたちが、5〜6人いて私のきょうだい達も子供ずれで集結してくれるので、盆正月並みの賑やかさでした。
息子が生まれたのが、東京オリンピック開催の年であり新幹線開通の年でもあり、田舎へ帰るためにはまことに有り難いことでした。
でも、当時は田舎へ帰るのがやっと位の経済状態でしたから、他に旅行とかに言った記憶はありません。
主人は結婚して長いことビール飲むのが高くてままならず、『今のように小銭があれば簡単に飲める時代がうらめしい。』 なぜなら、今は病気の関係で酒もタバコも絶っているからです。
やや径過してから所得倍増の時代になり生活も大分楽になったころ、会社の車関係を依頼してるモータースより軽自動車のフロンテを月賦で買いました。
その前にある知人より廃棄物に近い軽トラを手にしたのですが、生駒の坂を登るのがやっとの思いとの状態でこれでは安心して遠乗りなど出来ないとのことで、決断した次第です。
それからは田舎へ帰るのにもフロンテで、はいいのですが、なにぶん主人はスピード狂に輪をかけた人で、
スピード狂と云ってもその頃のフロンテは最高スピードが120キロがやっとですが、名神高速の豊中か吹田に入ると静岡の三ケ日までアクセルいっぱいでのノンストップ、が常で乗ってる私たちは、ノンビリどころか死に物狂いです。
別に急ぐ旅でもないのに、主人に云わせれば『停まってる時間がもったいない』と判ったような判らないことを言うのです。
いくら言っても無駄なことだけに私も腹をくくり、事故った時はそのときと気分を変えています。
そんな状態ですので2回ほど異変がありました。といっても交通事故などではなく1度目は高温でエンジンに穴が空いてしまったのです。
勿論高速道路上でのことで帰りだったのですが、田舎の弟達に助けを依頼して修理工場もすぐ見つかり車は預けての帰宅となりました。
2度目はこれも帰りのことですが、さすがの主人も疲れを意識したのか『次のインターで休憩する』と『初めて珍しいことを』と内心おもっていたのですが、主人が左折して車から降りたと同時によろよろ!とふらつきベンチにどたん!と倒れこむなり寝てしまいました。
運転中はそんなそぶりは微塵も感じられなかっただけにさすがに私も驚きましたが、1時間ほど眠ったあとは、けろっと何時もの運転に戻って帰宅しました。
娘が生まれてからはさらに家族一同でのドライブが増えてきました。
はじめは淡路島洲本の側にある成が島という小さな島に一軒だけぼつんと国民宿舎があり毎年何回かそこへ泊まりにいきました。
その場所を知ったきっかけは、主人のあるお客さんと一緒に釣りにいってその民宿を知ったことだそうですが、その小さな島は洲本に近い面は釣りなどが主体で人ごみも多いのですが、その裏側はがらりと変わってのきれいな砂浜のいったいで遊泳にはもってこいの場所でした。
わざわざ歩いてここまで来る人が少ないせいもあってか、まるで異国の海岸の思いさえ感じられました。
主人と息子は釣りが主なので西東と別行動となりますが、私と眞子は友が島の見えるその外海で浮き袋を使って波乗り的なことをして遊ぶのですが、大きな船がと通った後は大波が押し寄せ私がキャーキャーといって大喜びして遊ぶので、はじめ怖がっていた娘もすっかりなれて大喜び 海水と戯れて遊んだものです。
眞子は学校のプールで溺れたことがあって、側にいた女の子の足にしがみつきその子も共倒れ式に溺れたときに先生に発見された助かったそうです。だから水への恐怖は染み付いているはずです。
その彼女とは今も親友として付き合ってるそうです。
夜には国民宿舎で一泊し夕、朝食は質素ながらも新鮮な魚類で舌鼓を打ち楽しい時間でありました。
ここへの道順ですが26号線で深日港まで行きフエリーで洲本までいくのですが、帰りが深日港でどっさり車が降ろされるのが、ほとんどが26号線で北上するので、その混み方にはおうじょうしました。
でも国民宿舎で夜になると満天に星が輝きこうろぎが鈴虫のようにすてきな声で鳴くのがとても印象的で、それにひかれて夜露にぬれながら草むらを歩いたものです。
また、一度こんなことがありました。
泊り客の一組に若夫婦らしい人がいました。それは女の人もフル、釣りスタイルで今では増えたとはいえ女性の釣り人はまだまだ少ないので男の主人には光ってみえたそうです。
早朝の4時ごろでしょうか、主人が揺り起こすので何事かと聞きますと、あの女性の営みの声が聞こえてくるのです。
なぜあの人かといえば私を除いて女性はあの人だけだったからです。
その頃の主人はいまと違ってまだまだ純情で初めての経験だそうです。とうぜん私もですよ。
女性と違って男性は、ましてや初めてのあの声を聞くとものすごく興奮するそうです。そして、その女性も顔も知ってるだけに妄想たけなわになるのだと思います。
おかげで私もその犠牲にお供させられました。
朝 昨日投げ釣りで放置していた針に20CM程のチヌ(黒鯛)がかかっていました。そのころ主人は海水魚の飼育にこっていましたので、ここへ来たら必ず指定の活魚販売店へ寄るのが恒例で鯛や石鯛を買って生かして持ち帰ります。
主人が趣味の記録にも別のことを書いていますが、ここではほとんどが投網で小魚ととりそれを生かして連れて帰り大きな水槽にいれてましたが、ある日毒があるというゴンズイの幼魚を20匹ほど水槽に入れたのに翌日全部消えたのが今でも不思議な出来事でした。
この水槽にはサンバソウをはじめ10種類意以上の海水魚がいました。どれかが食べちゃったのでしょうね。
我が家の主人の難点は、理性が弱い部分があることだと思います。
例をあげますと今までにも書いたと思うのですが、ラジコンの飛行機を飛ばす時でも今日は風が強すぎて絶対落とす、何万円もする飛行機がつぶれる、下手するとどっかへ行ってしまって、ミスミス損になる、とわかっていても、やっぱり飛ばして消えてしまったことが度々ありました、
これが子供なら言って聴かせることも出来ますが、主人だけに一旦こうと決めた限りは決して改めことなどなく追行しますので、仕方なくのお供です。
(主人への文句はこんなときしか言えませんもの…)
でも、せっかちな反面えらい気長い面もあって、何年か深日港から淡路島へフエリーで行くときも1時間〜2時間待たされるのにわざわざ行ったこと、
ある時台風でフェリーが出なくなり、急遽コースを延長して海岸沿いに加太まで行きました。
それからは、加太がお気に入りになって何年か加太行きが実行されました
はじめは車のなかで寝ました、
その時はたしか主人のお得意兼友人の人も同行だったと記憶しています。遊びは主に投網をなげることで、収穫は鯔(ぼら)1匹でした。
真夏でも海辺の朝方は、ふるえる位寒いものでびっくりしました。多分お盆過ぎだったからかも知れません。
次回からは、赤い橋を渡るとすぐに、あたらしやと云うつり旅館があり天然温泉もあって何時でも入ることが出来、釣り船も手配してくれあさ5時とかにキチンと起こしてくれるし、夕食には生まれて初めて口をパクパクしている石鯛の姿造りを出されたのにはびっくり、海育ちの私でも知らないことでした。
さすがに最初は食べづらかったのですが、一切れ食するとそのシコシコの美味しさに夢中で食べました。
しかし釣り船だけはエンジンをかけっぱなしのせいか、船酔いと云うのを初めて経験し、その薬のおかげで、ハゲ()とかチャリコ(真鯛の幼魚)が釣れましたが、とにかくねむくなるのでダメでした。
一番忘れられない事は、主人が4人乗りのゴムボート5馬力の中古を買い込んだのはいいのですが、そのエヤー入れるのも大変だったし、海は荒れているのに有無を云わせず息子を乗せて船出?したことです。
すぐ大波で船は見えなくなるし、死ぬ思いでした。
今も主人も息子も生きているということは無事だったわけですが、その時は必死の思いでした。
おかげで3回ほど利用しただけで処分してしまいました。
浜名湖ののそばの実家の弟が、どうして僕に譲ってくれなかっのと残念がりましたが、なぜかその時は気づかなかったです。
ほかに田舎での太平洋での遊泳は言うまでもなく、能登半島の途中での金沢海浜公園とか二色浜でのアサリ取りとか、海での懐古は数々ありましたが、私も水着姿が恥ずかしい身体となって海は終わりました。
――
(大山)
――
いよいよカニだ!
息子が社会人となり、本人の経験から日本海の天の橋立の辺りは民宿が多く美味しいカニを食べさせてくれる、と聞きました。
地図で調べますと京都府の峰山町を通って日本海に面した網野町に行くと何十軒もの民宿があってカニ料理を食べさせてくれるということで、私は二つの魅力のとりこになってしまいました。
峰山町は少女の頃に文通でいろんなことを教えてくださった、中学の教師をしていらした川口おばさんが住んでいらっしゃる所でした。
わあ〜会いたい!どうしていらっしゃるのでしょう、知りたい!!と胸が高鳴りました。
『どないして調べるんや?』と主人が言うので、『そうねぇ 町役場にでも行ったらわかるんかな』
と心配でした。
当時はまだ高速道路も出来てなくて、とにかく遠かった、やっと福知山、もうじき峰山と期待に胸がふくらみました。
でも、悲しいことにもう日暮れとなり民宿にたどり着きました。
部屋に通されるとテーブルの上に大きなゆでがにが人数分1匹づつおかれていました。わアーすごい!と一斉に食べ始めました。
ところがそれはお持ち帰り用のみやげ
ガニだと知ってびっくり?、本番にはおつくりがに、焼きがに、ナベとあまりの多さに又びっくり!
食べきれなくてクーラーに雪といっしょに入れて持ち帰ったほどです。
この民宿の欠点は顔が合ってもあいさつもしないへんこつそうな大将でしたが、カニはすごく好かった。
地酒も、めったに飲まない私でも、ついおちょこに2〜3杯のんじゃいました。甘くてモッタリといい香りがして最高!
そしておつくりのけんの大根も えェ〜おさとう振ってるの!!という位甘くて美味しい。
でも不思議なのはなぜみやげ物のカニを先に出したのかいまだにわかりません。一度だけでこの民宿は行かなくなりましたが、何年か通ったこの地の民宿の中ではカニは最高でした。
『松葉蟹でも本物の活けものは一部だけで他は並みか冷凍ものだよ。オール本物なら値段も5倍はするらしいよ、行った事ないけどね』
『ほんと? でも大阪で食べるよりぜったい美味しいもん』
このなかでも(浜の屋)は一回行っただけなのに10年以上いまだにはがきが来ます。夏は海水浴で、冬はもちろんカニ料理で、行きたいのはやまやまなのですが主人が酒類のドクターストップでやはり酒なしでは興味半減らしく行けなくてごめんなさい。あの美人の女将さんの顔が目にうかぶようです。
(山へ。)
雪がいっぱいあるところへ行ってみたい、雪の中をかけまわりスキーとかして遊んでみたいと、娘の希望もあって海から山へと旅行先が変わりました。
なぜか山へ山へと言いながらやはり山は無理、高原という気持ちなのか雪をめざしてドライブをつづけました。
日本海が見えそうな山また山を抜けたとき、そこでまっ白な四角い氷山かなと思わせる山がみえました。
『アッあそこに雪がある!』私も娘も大喜び、今のようなカーナビもなく地図をときどき見てはひたすらその山に近づきました。それが大山だったのです。
このようにはじめから目的地を指定していく旅ではないので、途中岡山県の鬼退治の山を越えたり温泉地など通るとき私は温泉に入るのが好きなので、『ちょっと休憩しようよ』とねだっても『旅館は宿泊するとこや、』と止めてくれません。
今までに一度だけ途中、十津川方面にきた時温泉の源泉地があったので主人は車で待機し私たちはゆっくりと入浴したことがあります。待つことが嫌いな主人にしてはよくサービスしてくれたと思います。
そこでの入浴料金はたしか一人100円でした。
大山スキー場では雪は少なめでしたが、リフトがありそれであがれば本格的にスキーが出来るのですが残念ながら私たち全員スキーは生まれて初めてなのです。
そこで息子と娘は民宿で道具を借り遊びはじめました。息子はこわごわよちよちと云った程度ですぐリタイヤ、一方娘はいとも簡単に直線だけですが滑っておりこれにはびっくりしました。
もともと運動神経はいいほうですが、年齢が若いほどその態応が早いのでしょうか。
そこの民宿で、出来たら一泊するつもりが、『1年前から予約しなければ無理です』とのことで断念。正月のことでもあり当然のことでしょう。
次は鳥取砂丘へいこうと又ひたすら走り、もう夕暮れで誰もいない砂丘を親子4人で歩きまわりはいまわりの感じで遊んでいるうちに辺りは真っ黒、電気がないので少し恐怖を感じたほどでした。
夕食に街中のすし屋さんに入りましたが、さすが海の側だけに味も上々で食べてる途中で娘がジュースがほしいと言うと
すしやさんが、『すしの時にジュースなんか飲むもんと違うよ』と言われ、なんでも娘のいいなりだった主人が何時おこるかなとハラハラしてたのに、すしのうまさに何も言わずお持ち帰りのすしまで買って、お代はもちろん私のふところは淋しいかぎりになりましたが・・・
昼間にまるい山いもがとても安く沢山かい嬉しかった。はもを入れて作る山芋だんご汁は娘が大好きで何回も楽しむことができました。
ふもとの方のひるぜん高原のあたりは、やはり牛乳とかりばがとっても美味しかった。
しかし主人は目的の猟をするところもなくスキーも出来ないし2回ほどで行かなくなりました。