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《GOOGLE》 (MSN) 【YAHOO】 (Overture)
2400gでは、さすがに小さくてほほがこけてるとよく言われますが、本当に細い顔で手足も棒のようでした。
お産が無事にすんで身体が軽くなったという感じがしましたが、それは一日だけでおっぱいを吸う力が弱いうえに乳首の小さい私の乳は飲みにくいようで、赤ちゃんは泣くしわたしのほうも乳房が張り切って熱がでてきました。
乳もみといわれる方がきて、熱いおしぼりを当ててもんでくださったのですが、ウメキ声がでるくらいに痛いのです。
医師からは『しっかり飲まさなかったら、黄疸がきつくなって退院できないですよ』
と叱られ吸乳器とかを使ってしぼった乳を飲んでもらって、やっと正常な退院ができました。
病院では『3時間おきに乳を飲ませるように』と指導されましたが、吾が子は1時間おきに乳をほしがって泣くので、母乳のことだからと勝手に判断し飲ませてあげました。
おかげで生後一ヶ月には4 Kgになり定期検診ではほめてもらいました。
ほほもまるくふくらんで、可愛いさも一段とましました。オシッコをまともに顔にとばされたこともありました。
病院で産んだ赤ちゃんは明るいほうばかり見るのでわずか生後七日ぐらいでもう顔のムキのくせがつき頭の片側がへこんでしまいタオルをかませたり大変でした。
近所のお産婆さんで産んだ人の赤ちゃんは、いつもそばにいて手をそえてあげられるので、『頭のかっこうがいいのよ』
と教えられました。そういえば何人か助産婦さんで生んだ人の赤ちゃんは私の知ってるかぎりはみんな型のよい頭です。
三ヶ月後には仕事をはじめましたが、赤ちゃん一人寝かせたままでした。
途中でオッパイを飲ませに戻るのですが、わずか五、六ヶ月の赤ちゃんが、出かけるのが判ってか、泣き出し仕事から帰ると顔中を涙と鼻水でクチャクチャになって泣きつかれて寝むっているのをみて、こちらまで涙があふれました。
それと、玄関に一番近いフスマの側まで必死で動いて、まだハイハイができないので足でけって移動するのでしょう。眠っている姿は今も目から離れません。
(でもある面では泣きつかれて眠るまで一人でいたおかげで、自分自身の感情をコントロールできるようになったこと、どんなことでもイヤと言ったことがない素直な子供ではありました)
ちょうど近所のお婆さんが家にきて留守番で赤ちゃんをみていてくれることになり、少しだけ心安らかに働けるようになりました。
でも…今だに私の一番悲しい記憶というか希望というか二度と取り戻せない時間ですが、赤ちゃんをじっくり、ゆっくり育てたかった。
子供が小さい間は確かに大変だけれど、とりかえすことの出来ない日々なので、本当に大切に真剣にまた楽しんで育ててほしいと思います。(10年後には長女が生まれる)
重ねて、もしかなうことならもう一度息子が生まれたときから仕事抜きで育児をやり直したい、味わいたい欲望があったことは事実です。
息子もそれを強く望んでいたことは赤ちゃんとはいえ云うまでもななかったことでしょう。
何しろ職種こそ変わっても育児に専念するときなど、ほとんどなかったのですから…。
主人は徹底したスパルタ式、そしてかぎっ子と息子にすればきつかったかも知れませんが、昨今のようなやたら甘やかす教育は結果的には芳しくないものとも考えます。
育児のいろいろを誰も教えてくれないし、私自身の経験というか育ってきたことを実行するしかありません。
私が一番実行してきたのは、どんなに小さくても立派に一人の人格を持った人、として接すること。またたいとうな人格者である、という考えを基に赤ちゃんにでも、同じように話しかけ接するということでした。
悪いことはしっかり叱りていねいにはなして聞かせること、わかってもわからなくても一生懸命しかるのです。
きっとわからなくても、お母さんがこんなに必死で言っているのだから態度だけでも何か訴えるものがあると信じてしかりました。
それとほめる時はオーバーに誉めちぎるのです。
主人に『おまえそんなに誉めたらおだてに乗る人間にならへんか?』
と言われたこともあった位。
書きなぐりの線だけの絵でも、いいところは誉めて壁に貼ってあげました。
後年、産経新聞に「赤ちゃんは天才」というお話が連載されましたが、残念ながら当時はぜんぜんわからなかったので、我が子には実現できなかったので孫の時にはその本を買って、と思ったのですが実現は?。
私の感じたことは何時もはなしかけていたおかげだと思うのですが、男の子なのにすごく口が早かった、もう一才半で二語文というか話が出来て周りの人がびっくりしたことです。
息子は2〜3才位から毎日本を読んで!とせがむようになりました。
特にお気に入りなのは(フランダース)の本でした。そしてほとんど暗記までして読んでるように言えたのには私もびっくりしました。
本当に素直な子で絶対『イヤ』ということを言いませんでした。ハイ−ハイとしっかり返事をしてがんばってくれました。
3才の時、私が熱をだして寝ている時に市場へ買い物に行って貰いました。
『うんいいよ、』と引き受けてくれたのですが、心配で心配でそっと後からつけていきました。
信号のない横断歩道を渡るのに右を見、左を見、また右を見、なかなか渡れません。
どうしょうと心配してると、よそのおばさんがちょうど渡りかけるのをみて後ろをすぐついて渡り、
『わあ!カシコイ!』と感激しました。
車道を横断するとあとは畑の間の道を少し歩くと市場です。私は急いでお家に帰り時々窓から見てました。
当時は買い物かごか布の袋を持って買い物に行きました。
小さい子なので持つだけでも引きずります。しばらくすると、一生懸命引きずって帰ってくるのがみえました。思わず『ありがとう、かしこかったね!』と叫んでしまいました。
これからも主に子供の成長を基準にわたしの過去をたどっていきたいと思います。
主人は『おまえは子供を育てるのには適任や。子供と語るのにもとけこんで上手やし、その点俺はあまり好きなほうでもないからな…まあ〜女の子は別やけど…おまえとは対照的や…』
『でも もうあかんよ、年のせいか以前のようにはなれないもの…』
『それでも平均点は上回っとるで…』
はなしが余談になりましたが---ある日のことでした。市場の入り口にあるお菓子屋さんの店先の床に同じ年頃の男の子がだだをこねてあお向けにねて手足をばたつかせ泣き叫んでいます。
それを見ながら通りすぎて買い物をすませて、そのお店に近づくと今度は息子が走って行って早速先ほどの子の真似をしてぬいぐるみのついた高価?なお菓子を買ってほしいとバタバタやりだしたのです。
私はまさかとびっくりしました!。
『あれはネ…高いから今は買えないの』と説明しても止めてくれません。
『そうしときなさい!母さんは帰るからね…バイバイ---!』
と先にすまして歩き出しますと、さァ-今度は息子がびっくり! あわてて『母さん!母さん!』と泣きながら追いかけてきました。
それからは、後にも先にもそれっきりしなくなりました。
それととても花の好きな子でいつも花屋さんの店先でじっとお花をみています。一度だけ『買って!』といいましたが、当時は花を買う余裕もなかったので話してきかせましたら、いつも見るだけで辛抱してくれました。
ただし、お家では極力ベランダに少しずつでもいろいろな花を育てました。
道を歩く時でも花が咲いているとそばに寄っては香りをかぎ知ってる花は名前を教えてあげ『きれいね-きれいね。』と言って楽しみました。
今でも悪かったな、と心に残ってることがいくつかありますがそのうちの一つに、やはり3才ぐらいの時に近所の3家族母子だけで或る温水プールに行った時のことです。
どうした理由か浮き袋から息子がはずれて溺れかけたのです。やはり水も飲んでしまい真っ青になって泣きました。
それは々恐怖の出来事でした。そして後々まで水を怖がり毎年実家の近くにある浜名湖へ出かけても、もひとつ泳ぎは苦手のようでした。
すぐに寒がりましたが『細い子だからかな?』と思ったりしましたがやはりあのときの心のキズからのようでした。
小学校のプールの時間もなかなかなので、ついに先生からプールに投げ込まれてやっと泳げるようになりました。
その日帰宅した息子の様子ですぐに判りました。まだ真っ青な顔になっていました。
いま孫が6才で水泳教室に通っているので『今度30mの大会に出るんだ!』と頑張っていますが、
『えらいね!すごいね!』と言いながらも息子にはすまなかったと改めて思いました。
ずっと後のことですが娘の眞子も学校のプールで溺れました。溺れるものは藁をもつかむ思いで近くにいた友人の足をにぎり二人ともバタバタ溺れてるのを先生が気づき助かったのです。
兄妹とは不思議に似るもので娘も泳げるのには大分苦労したものです。
なお足をにぎられた彼女とはそれが縁で今でも親友の一人として続いています。
次に私が息子を蹴ったことです。
何故かと言いますと息子が6才のときです。
市場の前にゲームセンターができました。お使いを頼んだのになかなか帰ってきません。
やっと帰ってきたら様子がおかしいのです。
『どうしたの?』
『お母さんごめんなさい…お金みんななくなった。ゲームでお金ふやそうと思ったのに---』
最初に『ごめんなさい』と言ってることも、もう私の頭にはなく思わず蹴ってしまったのです。
よく聞きました。お家の生活費まで持ち出してパチンコ。競馬につぎ込んでしまう男の人の話。
息子が、そんな…そんな…アホの男のすることを…今もうするなんて…
私は逆上してしまったのです。
もう泣きながらお説教しました。でもそれっきりそんなことはありませんでした。
でも、蹴ってしまったことは今だに私の心の痛みです。
これに類似した?はなしがあります。
主人のことですがまだ生活経済状態が十分でないこ頃のことです。お得意さん?の友人と初めて園田競馬場へ行ったら僅かですが儲けたそうです。
本来主人はパチンコ以外の賭け事は興味はないようですが、たまたま家計の10万円を持って一人でその競馬場へいったそうです。
1レースから初めて徐々に資金が減っていき最終レースには1万円余になったそうです。
そして1000円の10点買いのひとつが万コロに当たり資金が元に戻ったそうです。
『あれは奇跡や。』といいますが、それまでは資金を黙って持ち出した家計費だけに自責にあせったそうです。
私はそれにはまり込むなら別ですが、亭主関白の主人のやることだし仮に負けて帰ってきても何も言わないでしょうが、というのもその見極めを信じているからです。
後年主人はある一定の金額を決め電話投票や現場(京都。阪神。)にも出向き競馬だけに打ち込んでいましたが、それは好きでやるのではなく利殖になるかどうかを試すためだといっていましたが、資金がなくなるときっぱりと止めました。
以後儲からないとわかると見向きもしませんから好きでないことは事実のようです。
今ではパチンコも全くやりませんし『この世の中八百長のないものは何もない』を主張しています。
『競馬でも八百長がなかったら銀行レースに終わってしまいすたれて潰れてしまう。八百長があるから経営が維持出来るんや』
『それはあらゆるものに当てはまる』 私にはよくわかりませんが・・・。
息子も近所の子供達と同じで暇さえあればキヤッチボール、野球の真似ごとをやって過ごすようになりました。習字も隣家で塾を開いていたので習わせていたのですが、基本的に下手なものはヘタで嫁の美奈から『ねえ〜あれで習ってた?』これでは子供たちに行かせるのはやめよう。
と思ったそうです。
これはどうやら主人の遺伝らしく彼も習字は習ったそうで走り書きはヘタでも筆で楷書など書くと見れる字をかきます。
息子の塾に行ってるとはかたちだけで、ほとんどが上の空か休んだりしていたようです。
でも、野球のユニホーム一式、ミットなど買いそろえてリトルリーグに入り日曜日に朝早くから出かけていたが、それも数回行っただけで主人からストップがかかりました。
当時ラジコン飛行機にこっていた主人は人から教わるのではなく自分で本を読みすべて自分ひとりで追行します。
何でもひとりでやってくれたらいいのに、この飛行機を飛ばすときはどうしても相手がいるのです。
息子も泣いて〃野球をあきらめました。今でも泣きはらしたあとの顔で記念に撮った写真があります。
まだ飛ばせたことのない未熟なうちは近くに落ちるのでいいのですが、飛ばせるようになっても私や息子を道ずれ?にします。
例えば大和川の河川敷で離陸滑走しているとき私は土手の高いところで見張り役をして飛行機が落ちたら息子と二人で拾い探し役です。
何万円もする飛行機なので私は必死で探したものです。
その墜落は腕が大分上達したころでも3回に1回はつぶしていたようです。なぜかといいますと単独飛行なのでクラブに入っての順番待ちの休息がなく連続で飛ばすから神経が乱雑になり3回目の頃にはたいてい失敗します。
物を大切にする気など毛頭ないような気がしてなりません。
ある日など翼幅3mのグライダーを強風注意報が出てるのに『行く。』といい強行に手投げすると機体はほぼ直角に上へあがり風に流され墜落!。
そうなることは初めからわかっているのにあえて追行することが私でなくても理解し難いです。
主人の話では『グライダーは揚力のある形の翼を使っているので風の流れが速いほど上へ上がろうとしその影響で天へ向かったのだろう。』と、のんきなもの。
主翼の製作だけでも1ヶ月はかかっているのに…
壊れてもバルサ製なので修理が出来るそうですが、その期間も何日かかかります。結局それも楽しみの一つなんでしょうか?。
結局ラジコンの助手にさせられた息子の8m/mで上手になった主人の助手として働いている息子の10才位の姿がありますが決めたかぎりはイヤ〃でなくがんばっています。
私から思うのですが少年時代の一番悲しかったことだろう、と…『考え過ぎや…陰の声』
また、それに変わって嬉しかったことは妹の誕生です。
10才違いの妹でした。寝ている側に寄り添って『可愛いね、かわいいね』と繰り返して夢にまでみた兄妹の誕生に大喜びでした。近所に一人っ子はいずみんな2人か3人の家族なので『僕も弟か妹がほしい』
と常々言っていたのです。
日ごろ私の家は遊びに来る子供でいっぱいでした。息子がいなくても『おばちゃんでいいから遊んで…』
とまで言われてにぎやかなことでした。
他家の子供たちはとても食欲があって何でもおいしい美味しいとパクパク食べてくれるのですが吾子はなかなかで皆につられて食べてくれれば、とよく食事を一緒にしてもらいました。
でも小学校の間は二人とも一番小さくてヤセ子で心配しました。
外から遊んで帰ってきたとき、ほとんど夕食の支度が出来上がる頃なので串にさして少しだけ食べさせると空腹のときなので美味しいと感じるようで根気よく続けたところ二人ともやや好き嫌いのない子に育ちましたが満足のいくものではありません。
近頃では朝食抜きで学校にくる子がふえているとか・・一日のはじまりであり体力の基なのに朝食なしは私には考えられないことです。
ややましになったとは云えいつも食べっぷりの悪さに苦労しました。集団登校といって近所の子供が10人くらいずつ並んで登校しているので、つい食べなくても呼ばれると行かせることになり結局朝食抜きみたいなもので悩みのためでした。
確か1年生のときでした。参観日に教室へ行ってみるとほとんど全員が終わっているのに一人だけクラスの女の子に囲まれてモタ々と食べているのはうちの息子です。
そしてずるがしこくなってコッペパンの中に食べ残しを詰め込んで持って帰るようになりました。
叱りますと今度は下校途中のワンこちゃんを飼ってる所に置いてくるようになったのです。
それはうちの息子だけでなく同じことをする子が多いらしく、その家から学校に苦情がはいり発覚したのですが、ひどいときは10個以上もあったそうです。
ある日のこと受け持ちの先生から貧血をおこして医務室で足をあげて寝かせているので迎えにきてくださいと電話があり、さあ〜それからは食べないと行かせない強行方針にかえました。
食べ方が遅いと集団登校には加わらず一人でとぼとぼ行かせました。
その努力の結果。人並みに食べられるようになったのです。
思い起こせば食事に時間のかかるのは私がそうだったのです。結婚してのりんご箱でのはじめての食事で
私は一口の食事の咀嚼が数十回かまないと飲み込むことが出来なかったのです。
それに反して主人は標準以上の早食いでした。そして食事が終わるとさっさと立ち去ります。
私がモグモグと異常に遅い食べ方に主人は何もいいません。それが私には大きく負い目にかぶさってくるのです。
これから何十年と一緒に交わすこの食事のタイムを少しでもあわせなくては・・。
それをなおすのにたいした時間はかからなかったと覚えています。
病院生活から彼との結婚生活に入るまでの長い期間の習慣がわずかの間の知らないうちになおってしまうなんて・・
子育てをしたい真っ最中に集金の仕事をしていた私ですが、NHKのに言って社会勉強になり人間的にも成長できたとは思いますが、本当に大変でした。
一つ。払わなくても罰則がない。
二つ。二ヶ月分の集金なので観てからしか支払わないと二月目の末しか支払わない。
三つ。支払いの良いところは丁度銀行振込制度が出来たときで、どんどん銀行に変わっていき、それ対
する保障がない。
結婚して3年間、私をはじめ義兄、義妹にまで日曜といえば応援に来て貰い大分頑張りましが、ついに
リタイヤ・・。
私には今まで自分の親、兄弟、また親しい人の中に転職をした人を知らないので、辞めたいち言い出し
た主人に仰天しました。
なんかすごく悪いこと、だらしのない事という印象でした。
今の世の中は転職はあたりまえ、フリーターとか人材派遣とか・・堂々とした雰囲気ですが、当時は悩
みました。
でも・・いかんせん一人でやる仕事を夫婦、また時には義兄妹の応援をもってもこなしきれないのでは
諦めるより方法がなく、『俺はもともと集金は腰掛や。目的は電気屋や。収入が良かったからずるずる
ここまできてしもたけど、今の状態では潮時やで・・。』
結局受信機。集金。と7年間いたNHKを離れ安定所を通じてN区の電気屋さんへ就職しました。
給料は集金の時の約半分。当時500円で1日の食料をまかなっていましたが、いくら家賃が安い市営
住宅とはいえ暮らせる金額ではなく私もまた働きにでました
昼間は保険の集金、夜はちょうどスナックへ勤める知人のはからいで一緒に働かせてもらいました。
保険の方は契約も兼ねていましたので集金当時の知り合いになった人を訪ねたりでまずまずでしたがス
ナックのほうは戸惑いがちでビール一口飲んだことのない私は『一切飲めません』と断り続けおしゃべ
りで間をもたそうと努力しました。
でも、あまりしゃべりも上手ではなく、なるべく聞き役になろうとひっしでした。
今思うとよく雇ってくれたものと感心します。
今ごろのようにまだカラオケもない時代でしたし気疲れのためか円形脱毛症にかかり10円玉くらいの
ハゲが出来て『神経からなるのよ』と教えられた私は『こんなものに負けてたまるか!』
と自分を叱咤激励し、ハゲの部分を毎日マッサージをしていたら一つだけでおさまってくれました。
夜働きに出ているということで近所の人達にも白い目でみられ、何人かの主婦がかたまっておしゃべり
をしていて私が通るとピタッと会話をやめたり、とか息子にも近所の子供たちからのいじめにあったり
もしました。
例えばゲームの中でもわざとオニばかりさせられ罰として全員がボールをうしろ太ももを狙って投げた
りお風呂でマッ青になっているのをみて問いただしたところわかったことでした。
名前を呼ぶのにもチャンとか君をつけたら仲間はずれにするからと周りの子に命令して家の息子がけが
呼び捨てにされたりとかでした。
自分のお家が安定してるからといっていろいろな事情でいろんな職業があるのに、苦労して頑張ってい
る人も多いのに、さげすみの目でみる人の多いことに悲しい思いをしました。
主人にはこの様なこと一部始終を話したら大人しく黙ってる人ではないので、控えめに息子のいじめを
ほのめかしたら『すぐ空手をならわせ!』と指示されそこへ行かせることにしました。
結果は習いにいってると言うだけでもそのハブリ(これは主人のうけうり)が効いたようです。
それとだいぶん後の話ですが、娘が同じクラスの男の子にいじめられてる話を耳にした主人は息子にこ
う言いました
『学校の帰りに待ち伏せしてその子にブリ(びびらす)かましたれ!』
息子はそれを忠実に実行し問題は簡単に解決しました。
それと、娘が中学生のとき頬に殴られた後を見て私は『どうしたの?』と聞くと同級の女の子のいじめで
やられたとのこと、主人がそれを見てカンカンに怒り私に『これは傷害や!学校へ行って抗議せー!わか
ったな!』
と何時もならそうくるはずの主人は真子を呼び『これまでの一部始終を話せ!』
10名近くの女性徒グループが教室内で囲まれたうえ殴られたこと。
理由はただ単に『生意気や』ということ。
学校側はその事実を知っていること。
などたんたんと聞き終えて 『少し様子をみよう。』
翌日先生二人が家へ誤りに来て相手の親にも学校に来てもらい正式に謝罪させるということで決着はつき
ましたが、その母親は形だけで実が入ってなかった感がしないでもなかったです。
後々その夫婦は別れたそうですが、夫婦不仲などの環境の悪さによる子供への影響は無視できないものと
つくずく思いました。
先生が来たときの主人は温和な対応で『わざわざ来てまらわなくてもよかったのに・・』
あれだけ怒っていたのに二面性をもつ主人。
『先生が誠意をもって来てくれたんやから、あれでええんや。』との事実に、
今の主人はこの件のこと完全に記憶にはとどめていなかったようです。
仕事の話に戻しますが保が一才ぐらいのときはNHKの集金、生命保険の外交を兼ねた集金、夜にはスナッ
クと3つの仕事を抱えていました。
保険の外交では集金先で親しくなった方が2〜3人入ってくれました。そして自分の主人、そして私本人
とこれは生命保険会社があみ出した一番手っ取り早い成績をあげるための手段で、私自身も近所の数人の
主婦の方に『子ずれでもいいから・・いけるよ』と話かけ会社に通ってくれました。
しかし所詮子ずれの主婦なので本格的な外交などできず知人と家族に入ってもらうのが精一杯で数ヶ月で
みんなアウトです。
私は後に気づくのですが健康保険もなくわずかな手当てでしたが、子連れのバイトにしては数ヶ月でもあ
りがたく又社会勉強にもなりました。
ある若くて素敵な人は外交から帰るなり泣いた人もいました。
『減るもんでもなし付き合えよ!そしたら入ったるがな・・』と言われたと『すごく侮辱よ!』と泣くの
です。あたりまえです。
でも中には上手に泳いで?!成績をあげ地位も上げて結局主人に自殺されて家庭を壊した人もいました。
その因果関係はわかりませんが何をするにしても夫婦関係を主眼にすべきものと思います。
またいろんな話に共鳴し涙さえ流してくれるやさしいおばちゃんの外交員もいました。
でも私には2足いや3足?のわらじなので、どっちもつかずで後に定着したのは会社の食堂内での仕事で
した。
私の新婚生活の場となった団地は東京オリンピックの前の年に建てられた当時としては一番広い市営住宅
で250軒ほどでしたが何と翌年の東京オリンピックの年までに90人以上の赤ちゃんが誕生しました。
勿論吾家の息子もこの仲間です。
今のように子供が少ない、遊ぶ相手がいない、と嘆く方も多いと聞きますが保の時はおかげで同じ年頃の
子供はわんさといて遊び相手には不自由しませんでしたし親同士も子供を通じてすぐに仲良しとなり知ら
ない土地だからとか新しい団地だからなど心配することもなく、交際は広く仕事もしましたが、楽しい
日々でした。
幼稚園の送迎も10人くらいの子供を(10組ほどあり)二人の親が引率して交代でしました。意地悪な子
供は子供同士がよく知っていて手をつなぐのを嫌がったりですぐにわかりました。
その頃は1人だけでしたがまわりの親たちの意見では『あの母親が悪い!甘やかしすぎ!』との評価でし
たが幼稚園など団体生活をするうちにだんだんと直っていったようです。
小学校では1組に同じ団地の子供が10人くらい居るといった状態で参観日なども親同士の付き合いも賑
やかなことでしたが10年後の娘(真子)の時になるともうほとんどは2組だけとなり同階段に二つ年上
の娘さんが2人いましたが同じ学年には近所では誰もいませんでした。
でも学年違いでもいてくれて中学までは仲良くしてもらい映画やスケート、ハイキングと常に一緒にさせ
てもらい同じ年頃がいてくれたことに感謝しました。
でも高校生になるとそれぞれの散らばりで接近がなくなり簡素になっていくのはやむをえないことです。
私が子供の頃は1家庭に10人いても今のようにテレビに出るなどの珍しさはなく遊びにも勉強にも困る
ことがなかったのですが、今ごろはまわりを見ますと小さい子供たちはチラホラなのです。
私の団地が古いせいかな?とも思うのですが近くに住む孫たちの付近でもあまりいないようです。
日本全体の子供の平均が1.5人とか聞きますから無理もない話でしょうが、中国では一時子供1人の政策
をとりましたが、結果は芳しくなかったと聞いております。