【第一部】

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(女性版では重複する部分があります。)

僕は大阪市で生まれた。戸籍上は次男であるが長男は幼児の頃死亡したとの事で事実上は僕が跡継ぎである。
兄妹は7人で姉が一人他は全員が妹である 父は軍需工場の工廠に勤めきわめて堅物の人間であった 昔のことであったとは云え僕から見た父はただ厳しかった。だから僕は父には懐かなかった 父としてはは僕が期待にそぐわなかったのかも知れないと思えるような存在で有ったのだろうが、その当時は一家の大黒柱たる親父が厳しかったのは何処の家庭でもそれが普通であったのだろう。
また 何しろ半世紀以上も昔のことで男尊女卑の徹底した封建主義の時代でもあった。

一方、母には僕は特に可愛がられた 何しろ一人息子である。それが当然のことであろう。
だから 懐くのはおのずと母親だけであって幼稚園の入園の時など母親から離れることが出来ずにその入園を諦めたという事実がある。まあ標準的に自立心がない情けない児であった

父は三重県尾鷲の出身である。漁師町 釣りで有名な場所であるが、家は代々かどうかは知らないが床屋であった その長男である父が後を継ぐのが当時としては一般的なのだがそれを次男に譲っておりその理由は何故であったのかは聞いていない。
だから本籍地は長いこと尾鷲になっていたが 何時かそれを大阪に移したが、別に深いわけなどはない。

母方は京都で牛乳屋をやっていたらしい だから、生っ粋の京都人である。だが何時からか大阪へ移転し今はもう祖父母もいないが母の兄弟5人はみなその近くに集結しており母親だけが少し離れた町に住んでいた。
といっても町一つ分の距離で僕が毎日母親に連れられてそこへ歩いて行った記憶がある。
それは母が着物の仕付けの仕事をそこでやっていたからである。
僕は容姿や性格などは母親似だと思ってるが何処となく親父そっくりだと姉妹に言われたことがあり やはりそのような面もあるのだろう。


話が横道にそれたが本題に戻そう。
当時、布施の横沼(東大阪市)に父方の祖母が一人で住んでいた。それで戦局の影響でか そこへ引っ越すことになった。都心より少しでも離れて爆撃から逃れるためである。
事実そのあたりは被害をうけずにすんだ。
でも母にすれば姑と同居することになるが、その期間は短かかった。
祖母は上品な人で武家の出だとの事であった。
印象に残るのは金縁のメガネと着物姿と年齢のわりには機敏に動く人である。

その頃はなだまだ着物姿の女性が圧倒的に多かった。そして履物は草履である。
祖母は当然の如く僕をだいじにしてくれたが、人見知りのひどい僕はなかなかなつかなかった。
例えば食事のとき、祖母が箸で何かをつまんで食べさせてくれるのはいいのだが、一旦自分の口にあてて与えるのである。潔癖症の僕はそれが嫌であった。不潔感を覚え受け入れを拒絶するのである。
祖母にすれば温度を確かめ与えるのが習慣だったのかは知らないが、赤ちゃんではないのだから僕には異様におぼえた。
僕は決して祖母のことが嫌いではなかった。ただ母に甘やかされて育ったせいか性格がよくなかったようである。

一方、祖母に関するこんなことがあった。
この横沼へ来てすぐのことだが、当時僕は国民学校(小学校)2年生であったが非常時の対策として本校へは登校せず寺子屋式に近くの公民館などで授業を受けることになっていた。その初日の時 女の先生であったが机に座っている僕の側に来て彼女より『あんた好きや』といわれた。
僕にすれば何のことかさっぱりわからなかったが、後日思い出して考えてみるに、祖母が前もってその先生に手を打ったのであろう、そのお返しにとった行動だと僕はそう思っている。
いつの時代でも袖の下ではある。

祖母はほどなくして故郷の尾鷲へ帰ってしまった。原因は多分僕にあったのであろう。
僕の少年時代はこれから始まるのであった。
その横沼の家のことだが、数件が向かい合った長屋であって奥に便所があり一応かたち通りの庭があってそこには雪ノ下などの草が植わっていた。
水道は設備されていたが、もう少し東のはずれ方面(河内)の長屋では井戸つきである。
大阪の地形は東の奈良県との境に生駒山脈があって、ほとんどの場所からそれを眺めることができた。

水道はあったが、ガスはなかった。だから飯はかまどで薪をくべて炊き煮物などはこんろで炭火をおこした。そして練炭と称して加工した燃料を火鉢に入れよく利用していた。
いまの住宅はサッシの利用で密封化されているので、その練炭などは一酸化炭素中毒にかかる恐れがあるが、昔の家は何がしかの隙間が必ずあったので、その心配はなかったのである。
長屋の端っこの家では鶏を飼っていた。
竹で編んだ高さ1メートルほどの籠に入れ餌を与えるときは開放していた。雄鶏は朝の定刻には必ず鳴いた。いま住んでいる団地の何処かでも雄鶏を飼っていたが、鳴く時間が不定期で多分神経がいかれていたのではないかと思う。なぜなら鶏は朝鳴くものであるからである。
その家で鶏一匹を〆るのを一部始終見たことがあった。
それは首を一回転させるだけでなのである。そして羽毛は逆手に引っ張りむしっていく。
このやり方を数十年のちに僕も実行した。高麗雉の雛を貰う機会があったので、それを育てて頃合いにである。

一気に首を回転してしばらく待っていると、こと切れたときにピクンと振動した。見よう見まねで覚えて初めてのことだから、これは知らなかった。
つまり気分の良いものではなかったと云うことである。食味はこの頃、狩猟をやっていたので野生の日本雉の旨味を知っていた僕にはその差が大きかったことは否ねなかった。

長屋の筋向いに中学生の兄ちゃんが住んでいた。その兄ちゃんは僕とよく遊んでくれた。
そして海つりへ二三度連れて行ってくれた。場所はただ彼についていくだけなので波止場とだけしか判らなかったが、どうやら堺市の出島だったようである。
とにかく良く釣れた、そして種類も豊富であった本当の意味での五目釣りである。おそらくこのように釣れる場所は現在ではないのでは?とおもわれる。
堺市から泉南にかけての海辺は海水浴場が点在していて夏休みには多くの遊泳者で混雑する。

僕が幼少の頃(戦前)だったが父と海水浴場ではだしで熱い砂浜を『熱いよあついよ』と泣きながら父の後を歩んでいた。その頃はピーチサンダルなどしゃれたものなどなく、皆がはだしで歩くのが普通なのだが、大人は辛抱できても幼児の薄い皮膚では苦痛であった。
父は浜っこ出なので、さすが泳ぎは上手く僕をちょうど人命救助するようなかたちで泳がせてくれた。
その海水浴場の行きか帰りかは忘れたが、その電車が大混雑で乗るのに一苦労だったので、父が座席を確保すべく窓より入ろうとしていたとこを駅員に注意され、しきりに謝っていたのが印象づけられる。

子供の頃のあそびとして特異なのは、餓鬼どもと歩いて5キロもある楠根川へ行ったことがある。一応は竹ざおを持ってフナでも狙いに行ったのだろうが、まだフナなどの釣り方さえ知らなかったから獲物は何もなかったように思う。ただ、テクテクと現場へ行くのが楽しかったのだろう。
都会に住んでいても、これくらいの歩きは普通である。
その餓鬼とこんなことがあった。近くに俊徳道という駅がある。近鉄線で三重県の宇治山田が終点であった。
ある日二人は何の目的もなく大人の後ろをついて行き構内へたやすく入った。駅員にすれば賃金無料の年代だと見逃したのであろう。そして電車に乗り、頃合に降りてその駅の杭をよじ登り反対車線で帰ってくるのであった。いま思えば迷うことなく無事帰れたのが不思議である。

また危険な遊びとしてその駅と交差して高架の貨物線がありその陸橋にある線路下の空間にもぐり込み汽車が通過するまでの我慢くらべである。
このような遊びはたまたまおこなったことであり再々やるものではない。

一般的にはまずバイと称して鋳物などでつくられた径3センチ位の独楽であり、りんご箱にむしろを敷き、互いにその独楽を回してかち合って跳ね飛ばされた方が負けでそのこまは没収される。
そのバイも強くするために、いろいろ工夫されて高さを低めに作られたり5角形に削られたりで鉄工所関係にいる人は有利である。そして色もペンキで好みに塗られ、それが回転すると梅の花びらのように見えるので(梅鉢)と名付けられたのは横綱クラスでみなが羨望の眼で狙ったものである。
ほかには、べったん、ラムネ、缶けりなどが、遊びの主流であった。おんなの子はゴム飛び、なわ飛び、手まり、ままごと、などである


家の近くの公民館の隣には、だんじり が一台格納されていた。秋の祭りに使われるためである。これらは各地域ごとに用意されその時期には一斉に練り歩く。この青年団の若者たちはなぜかみな刺青をいれていた。といってもやくざでなない、そう言う風習なのだろう。
ある祭りの時であった。そのころ僕は10才ぐらいだったろうか、そのだんじりが待機状態で止まっていた。そして鐘や太鼓で お決まりのリズムを流していた。
僕はいつのまにかその鐘を打っていた。
別に習ったわけでもなく、聞き覚えのリズムで打ったのだが遜色はなかった。それよりなぜ打てたのかが不思議である。役員の人が誰かの息子と勘違いでもしたのであろう。
しばらくして僕は降ろされたが、大変満足であった。そして小さい子供でも茶碗酒を配られそれを飲んだのだが、酔った記憶はまったくない。

日本の戦局がおかしくなってきた。米国の大型爆撃機B29が大阪の上空にも飛ぶようになってきた。高度1万メートルでである。
それは肉眼でも小さく見られ、長い飛行機雲を連ねてウィーン ウィーンとそれ独特の音を発して悠然と飛んでいる。
1機か2機と数が少ないから偵察に来たのであろう。
それをかたちだけの高射砲が数発打たれるが、もちろん届くはずがない。3分の1ぐらいの距離でちょうど昼間の花火のごとく煙が流れている。

また、それを迎え撃つ我が方の戦闘機とて見られない。残念ながら当時の我が方の飛行技術ではそこまでの高度に達せられないのである。
後に雷電とか紫電改が出来たがすでに遅しであった。だから、相手任せの状態であり実に情けない限りであるが、そのときの僕は(みな一緒がと思うが・・)戦局が悪くて不安だとか負けると心配することなど毛頭なかった。
わが日本は神国であり絶対に負けないのである。そして敵兵が乗り込んで来たら竹槍をもって突撃する気力が子供心にもあった。

戦争を知らない現在の人たちにはこの様なこと理解し難いとは思うが、ひめゆり部隊の投身玉砕や特別攻撃隊と同様にその覚悟が我々子供心にも養われていたのである。
でもまだ特攻隊を志願できる年齢に達してないので行けなかったが、妻の兄はそれで戦死している。
だから、横井や小野田などは今の時代にこそ乗れたものの、僕には首を傾げたい気持ちであり、当時としては反逆者であり卑怯者であったはずである。(余計なこと言うな!陰の声)
『スミマセン・・』
政府は児童の疎開を決めた。子供の絶滅を避けるために田舎へ散らすのである。
でも全員ではなく家の場合は兄妹が7人いるが、集団疎開に決められたのは僕と次女の2人だけであった。

親父が何故そう決めたかは知らないが、とにかく二人は家族と離れて生活することになったのである。
場所は福井県大野郡上庄村のとある寺であった。児童は20人余りで男性の教師が3名と若い賄い婦兼看護婦が二人いた。
その女性たちにも僕らは先生と呼ばされていた。そこでの勉学などほとんどなく毎日が平凡で説諭的な教育と定期的な運動を含む集団生活である。
男子児童と女子は完全に分離されて出合うことなど全くなかった。だから妹がどこかにいるはずなのが、存在感は意識できなかった。
その期間は1年ぐらいだったろうか、その間の記憶は3つぐらいしかない。
その中の1つにこんなのがあった。団体で田舎道を散歩中のことである。僕がふと足元に半分腐敗しているであろう柿の実をみつけそれを拾ったと同時にそれは口の中に入っていた。
体が糖分を求め自然とそのような行為に至らしめたものと考えられる。
案の定その夕刻には激しい下痢と発熱である。それで別室に寝かされた。しばらく眠ったのであろうが、ふと目覚めると襖を越えての隣室から男女のささやき声が聞こえてきた。
女性『あんた ズボンはいたままするの?』
僕は子供とはいえそれが何であるかはわかったが、意識はしなかった。でも、僕の脳裏には確実にインプットされたのである。
やはり男性 特に独身者にはこのように性の対処をされていたのであろうか?
その女性たちは決して娼婦ではない食事の用意もするし看護婦にもなる。だが、兼任で義務づけられていたのかも知れない。何事にも(お国のために勝つまでは・・)が合言葉であったからである。
僕は兵役にいってないから知らないが従軍看護婦たちは如何だったのだろうか。いやいや このようなこと詮索すべきことではないのかもしれない。
(このスケベーじじい!考えること言うたらそれしかないのか! 影の声)

次に川で水浴びでのことだが、泳げない生徒が教師に抱きかかえられて川へ放り投げられた。
スパルタ教育である。普通はこれで溺れるはずだが、彼は必死で犬掻きをしながら対岸へたどりついた。この様な教え方もあるのだなーと思った。
もうひとつ ある友達から僕の妹が誰かにいじめられていたと告げられた。そのときの僕の気持ちは複雑であった。悲しかった。だって合うことも出来ないしどうし様もなかったからである。
でも、よく考えると彼だって同じ立場で女の子のこと判るのはおかしいのではないか、さては嵌められたのでは?と今になって考える次第である。
残念だがこのはなしは妹にはまだ聞いていない。

戦争がはじまって約四年もちろん疎開先で敗戦を知らされた。そのときの気持ちは必要とあれば玉砕をもいとわない精神力はあった。組織の偉大な力と言おうか恐ろしいことではあったが・・。
そしてこれからが、僕の苦悩に満ちた?青少年時代を過ごすのであった。
ともかく布施の家は空爆にもあわずに残っていた。親父が戦況に応じて横沼へ引越ししたのが正解であったのか。
でも、もとの家も焼かれたのかどうかは知らない。工廠に近いから多分被害にあったものと思う。
でも、市内に住んでいた母方一族も全員無事だったから僕たちには空爆の恐ろしさを全く意識しない。テレビなどで観る親兄弟との引き裂かれ悲惨な結末に至った人々の多いなかで我々は誰一人としてその被害にあわなかったのは奇跡に近いといえるのだろうか?。
その実感がないのである。

でも、日本は戦争に負けたのである。当然生活苦にあえぐのは必至であり、米の配給が少ないため毎日がいも粥、重湯、だんご汁など水分で腹を満たすために多くの子供たちは胃拡張になっていた。

人間に必要なたんぱく質はほとんど縁がなかったように思う。おかずとしてはサツマイモの蔓を蕗の代用にしたり野草おもにヨモギなどをたべた。まれに母がつくってくれるダンゴ汁
ただだし汁に小麦粉のねったのを適量の大きさに落とし込むだけなのだが、これがじつにうまかった。
理屈からいえばうどんと似たようなものだが、後日我が娘にもそれを食べさせたとこやはりおいしいといわれたことがある。
文子の場合は自家製のうどんを食べたと言っていたがとにかく小麦粉などのものは出来たての味が最高である。食堂などの既製麺類でははるかに落ちると断言できる。

だが、毎日のその生活苦も親は実感するだろうが、僕ら子供たちにとっては少しの悲壮感もなく飽食時代のいまと何んら変わりがないのが不思議に感じる。
つまり子供にはいかなる環境にも順応できる要素があるということだ。

近くに1軒家があった。ちょっとだけ金持ちのうちであったが、親父が変わり者であまり評判はよくなかった。仕事はなんでも○×党員だと聞いたことはあるが真偽のほどはわからない。
そこに男の子が2人いて僕らともよく遊ぶがある日彼らが昼食後に腹をふくませて僕たちの輪に入り食べ過ぎたせいかどちらかが屁をこいた。
その匂いは明らかに肉類の屁である。『これ肉屁や・・』長男のほうが自慢そうにそう言ったが僕らには羨ましかったが、それに答える者は誰もいなかった。
当時としては一般人は肉類の入手など不可能だったからである。そこは特殊なルートで入ったのであろうが、僕の脳裏にインプットされた話題のひとつである。

親父は職を失い時にはアンコをしたり早朝に鰯などを仕入れて近所に買ってもらったりして生活をしのいでいた。僕は2〜3度だが奈良方面へ母親と米や芋などの買出しにいった。
多分着物などと物々交換したものと思われる。法的には違法らしいが、そうでもしなくては生きていけないのであった。

はなしはかわるが・・
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小学5年生だったと思うが、下校中のことである。前方に妹がいてそのクラスの級長Y子と副級長F子らが歩いていた。僕は級長のY子が好みであった。そこで足を早めてちょうど持っていた飴玉をF子に渡し『みなで食べてや・・』と言ったきりそそくさと立ち去るように距離をはなした。ほんとはY子にだけにあげたかったのだが、それは出来ない。

照れくさかったのである。しばらくするとF子が追いかけてきて飴玉の礼をいった。『ありがとう・・・』可愛い声であった。F子は近くの建設業を営む娘でちょっと小柄だが、眼の大きな子だった でも本命ではない。世の中ままならないものである。
これはただこれだけのはなしであるが、僕には一方的片想いの初恋だったのだろうか。
つぎに友人のT君が僕の妹とデイトしたいむねを伝えてほしいと言ってきたので、はなすと妹は了承した。
ふたりは何処へ行ったのかは知らないが、帰ってきた妹は憤慨していた。T君が強引にキスを求めてかたと言うのである。
その関係はそれまでであったのはいうまでもない。

この頃としては15才前後の男女のデイトそのものがめずらしい時代だし、まして晩生だった僕にはとうてい考えられないことなので
たいして関心もなかった。

家の近くにKという卓球工場があった。といっての小さい家内工業だが、僕の両親ともにそこで働くことになった 父はセールスで母は手作業だった。僕も時々バイトをした。

それで家の経済状態がある時期までは安定したようであった その年は僕の進学のときでもあった 今でいう中学校である。
希望校は日本工業学校5年制(後の近大付属高校)にした 特に理由があるでもなくK工場の息子がたまたまそこであっただけのことである。

彼は機械科で僕は電気科であった。家から学校までの場所は近鉄ひと駅下車して10分だが、近所学友3人は歩いて通学した。
下校してから彼らとの遊びは空手の真似事として路地にはいり板塀を握りこぶしで割るのがはやっていた。
拳を鍛えるためである そのためが拳がつよくなったようであるが、迷惑なのはその家の人たちである。
今までに一度も注意 苦情されたことがなかったが、その家が空家だったのかもしれない。

ある日2年生後半だったが、トイレで立小便をしてるとき、同僚の体格のよいのが僕の局部をのぞきこみ、『なーんや、まだそんなんか・・』と嘲笑した。僕には屈辱ではあるが返すことばがなかった。
彼は早熟で平均より早く仕上がっていたので、それを誇示したくとった行為と考えられる。
僕がおくてだからといって別にふじゅうしてるわけでなく、いずれは使えるときが来ることは間違いのないことなので、意識せず劣等感などまったくなかった。

ところがである。それが微妙に影響した事件?があったのである。

近くに足袋製造工場があった。そこに一人の娘がいた。年のころは17〜18才のまぁ美人の域にはいった。でも、うわさによると養女だとのことで、生活がぐれていた。
いわゆる(ナオデン)といってあるやくざのおんなになっていた。その娘に僕は気にいられた 僕の唇が可愛いというのである。

それで何度か遊びにつれてもらった。その行く先は戦後駅前に乱立するバラックの店や映画館のある繁華街である。
そのある地帯がやくざの縄張りらしく、映画館へはただで入るし、ある飲み屋では勝手にゆで卵をとって食べたりして僕に誇示するような行いをした。

そうこうする内に彼女は僕をさそった。彼女は自宅には住んでいず近くの借家での一人住まいである。
『ひろっちゃん、今晩うちとこへ泊まりに来ぇへんか・・いろいろはなししようよ。』
『うん ええよ。』
一応母に伝えたら ただ笑っていた。結果は男と女ではなく女と男の子だったために相手の意思にそわなかったのか ただ眠っただけで二人は終結した。


日本工業学校は当時5年制であって次は大学というコースであったが、僕が3年生のときに6.3.3.といって中学を3年までとしそれまでを義務教育とかわった。
だから僕の場合は新たに高校へ再入学しなければならなくなった。その高校の名前は近畿大学付属高等学校となった。

そのころ我が家の経済は斜陽に入りつつあった。K工場の関係がうまくいかなかったことが、原因らしい。
それで進学は夜学と決まったが、すでに病魔におそわれる直前の僕としては昼間働いて夜勉学がもたなかった。
1年ぐらいで退学。それからのペースはどん底へとだどることになったのであった。

我が家は引越しすることになった 荒川区のあるアパートへである。6帖一間で炊事、トイレは共同であった そこへ家族9人が住むのである。この時期は親父にとっても人生の最低ランクだったろうと思われる。
僕は父の指示で住み込みの勤めをすることになった。正直いって父の命令は絶対であった。反感 謀反の気持ちなど考えられなかった。尊属教育は完全であった。
それが親と子供であり、年齢など関係ないのである。そして家の資産のあるなしも関係ない。

僕は飽き性分というか仕事が何をやっても長続きしなかった。その原因のなかには虚弱体質であまり体力がなかったことも含まれる。だから変えた職場の数は通住含めて20はくだらなかったと思う。
すべてが職安からのものだが、記憶にあるものを述べることにする。

まず住み込みのはじめは松屋町の玩具問屋であった。従業員いわゆる ぼんさんは僕をいれて4名であった。その人たちはある店の息子であったり、将来を目指しての修業であって何の目的もなしで入ったのは僕だけであった。
そこでの記憶はとにかく南京虫に悩まれたことである。
問屋であるため入荷物についてくるわけである。就寝時に柱をはう虫を見ない日はなかった。

あるとき従業員の一人と喧嘩になった 相手は長い棒をもってくだまくが、こちらは素手だしとても勝負にならない。口論だけでおさまったが、そこの若い親父?は理由も聞かずに俺だけを、ほほ打うちしよった。
そんな差別するような奴のもとでは働けるか!とすぐ辞めたが、さきにも云ったとうり将来店をやるものの職場であり僕の場合は該当しないのであり奴の計略にはまった感は否めない。

あとは牛乳屋。卵の問屋。最後の市場の果物屋ではすでに発病しかかっていた。
僕はもともとじっとしていることがきらいで、果物屋でも常にりんごをみがいたり、手を休めることがなかった。だから市場内での評判はよかった。
それだけに若い店主の夫妻からも良く面倒をみてもらったと思う。寝食は市場の2階だが、例えばおかずはマツタケ入りのすき焼きをはじめとし並以上のもてなしは受けた。主従関係は順風万藩であり僕が健康でさえあれば問題はなかった。

だが、下痢便秘をくりかえす(結核性腹膜炎)の兆候は出始めていた。僕は辞めることを決断せざるを得なかった。

『辞める?何でやの?できるだけのことしてるつもりやのに!!!』と信用してもらえなかった。

店主のいうとうりである。だが、病気のことは言えなかった。そして仮に健康であっても将来果物屋におさまりたくなかったし、ずるずるいるよりも早い決断がお互いのためには良かったかもしれない。

アパートでごろごろしていた僕はついに発病した。だが、医者にもかからずにんにくをすって生で飲んだりしていたが、一向に良くならずにんにくのために共同便所がそのにおいであふれて近所の人たちには迷惑をかけた。
また高熱も出だしてきた。

同アパートに看護婦さんが住んでいた その人が時々マイシンを仕入れて僕に打ってくれた。そのマイシンを打つと高熱がさっとひいた 恐るべき効果である。だが、あくまでも一時的であってあくる日にはまた熱がでた。このようなことがしばらく続いていたが、たまらず保健所系の医院へいったのである。

そして急性肋膜炎と結核性腹膜炎と診断され、救急車で西宮へ運ばれた。そしてこれからが7年間という長期にいたる入院生活が始まるのであった。


西宮ヨットハーバーの近くに結核療養所がある。本院は尼崎市にあるのだが、ここは海浜病院と名づけられていた。そばに遺跡の砲台があり風光明媚なところであった。
僕はそこへ入院させられた。民生委員保護法と結核予防法とで入院費は無料であり毎月
ちり紙費として何がしかの金も与えられた。入った部屋は10人ほどの大部屋だったが、みなおとなしい人ばかりでやりやすかった。

僕はあまり重病人ではなく軽い肋膜炎は半年でなおり腹膜のほうはそう簡単に治らなかったが、一日寝たきりの必要はなくまあのんびり気長に無理さえしなければの生活だった。
入院生活は規則があまり厳しくなく安静時間の午後1時から3時まで以外は自由行動で病院が私設でもありその点楽であった。
時には砂浜で投げ釣りで手のひらサイズのカレイを釣ったり冬でも天気のよい日は海をデッサンしたり、友とは将棋をしたりの毎日が遊びの極楽生活であった。

海でのデッサンはその風景を俳句にしたためその頃読んでいた保健同人の雑誌社に投稿したら初めてのことなのに入選して掲載された。それは(二月の 小春日を思わせるのどかなる日なり 海を画きいぬ)としごく平凡ではあるのだが、最後の(画きいぬ)とやまかけたのがよかったのだと思っている。

前述したようにぼくは、わりと自由奔放で、ときには変人扱いにされることも平気で行った。
たとえば食事係りのおばさんに頼んで普通は捨てる鯖の頭を譲ってもらいそれを煮て食べて下痢をしたり、ここではないが山中の療養所では、しま蛇を捕まえては皮をむき数日日干しにしては焼いて食べたり、時には人に言えない行為(悪事ではない)をしてみたりしたものだった。
食事はちゃんと三食は出るのだから、決してひもじいからではない。

これらは、人がやらない行為、好奇心の実行、少年時代の英雄心の誇示によるもので、誰もが一度は(なんか聞いたことあるな?)考えることで、それを実行するかしないかの違いだけだと僕は思っている。
妻にふと思い出したとき、その話をするのだが、『その話はしないで・・』けんもほろろに拒絶される。

僕の素性なんだが、性格はおとなしく短気で内弁慶で少し神経質だがふとっ腹なめんもある。身体は小柄でやさおとこタイプ(自分では器量は並みの上だとしんじてる。)
いわゆる羽振りのきかない顔で特に腕力には自身がない。
だから喧嘩は試合ではない、命をかけるぐらいの根性の問題である・・と強がりをいってる男なのだ。

女を口説く能力に欠け、どちらかといえば硬派であり自称やくざものでもある。
といってもその筋の組織にはまったく縁がないし、一匹狼といったところか・・。
じじつ病院の各人々も一歩譲っていたようである。(自己満足?)
だから周辺にも怖いものなどなく、まあ少々のわがままも通用していた。

ここで過去の僕の汚点を言おう。それは僕は少年院あがりであるということだ。
といっても医療少年院ではあるのだが、その原因が、

この件はかつあいすることにした。僕の場合は犯罪者というよりは親父の行為に対し無意識的に僕の腕が出てそれがたまたま親父の前歯が折れただけのことで僕は罪の意識など毛頭なくといっても親父のとった行為に対しての反感もない。親父がこうせいといわれたら従うのが常識であったからである。

ただ僕が言いたいのは犯罪者がたとえ医療少年院といえども少年の更生には何の役にも立たなかったということだ。勉学や説教的な時間など何もなく、たまに行う運動以外は食事と必要者には薬があたえられる共同生活のみと言える。何十年も昔のはなしとは云え、現在でも大同小異だと考える。