一 序章  漆黒の闇である。  いや。  降り仰げば、東天に細い月が姿を現している。空は青く、地面は月明かりに白く浮かびあがる。  漆黒は、髪である。つややかな長い黒髪が、木陰に潜んでいる。白い細面の中で黒曜の瞳が光った。  甲高い鳥の声が、夜更けの静けさを切り裂く。時折起こる羽ばたきが、闇に潜む小さな息づかいと気配とを覆い隠した。  幾重にも重なった木々の葉が、月の弱い光を遮り、枝の下に不気味な闇を生みだしていた。  その闇の中、小さな炎が飛び交う。  人魂ではない。  なぜなら、沈黙していなかったから。  金属がぶつかる重々しい音が、とうに夜半を過ぎた森に響きわたっていた。 「いたか?」  人魂ならぬ松明の灯りに照らされたのは、軽鎧で武装した老兵だった。  訊ねられたほうも重い鎧を着こんでいたが、こちらはまだ年若かった。 「いえ」 「だが、まだ遠くへは行っていまい」  老兵の眼が松明の炎を反射した。 「探せ! 首をとれば、褒美は思いのままだ!」  兵はふたりだけではなかった。森に木霊する物騒な音色は、少なくとも数十を数えた。  黒曜の瞳は、瞬きもせずにようすをうかがっていた。息を殺し、茂みの陰に、小柄な身を潜めていた。  兵士たちが探しているのは、彼らだったのかも知れない。  彼ら?  黒曜の双眸のすぐ傍らに、葦毛の馬がたたずんでいた。足は長いが細すぎず、胸や腹はひきしまり、筋肉が美しく盛りあがっていた。頭のてっぺんの小さな三角の耳が、小刻みに動いて辺りの音を拾っていた。  馬は一頭ではなかった。  その隣りに、若い葦毛の馬が並んでいた。体の線がやや細く、落ちつかないようすで、黒い目を油断なくみはっていた。  松明がやがて遠くへ散らばると、白く細長い人間の手が、黒髪の頭に降りてきた。 「行くぞ」  かがんでささやいたほうも黒髪だった。  おとなひとりに子どもひとり。  どちらも長い黒髪を背で束ね、粗末な汚れた木綿のチュニックにズボンを身につけており、これは町でごく当たり前に見られる成人男性の出で立ちであった。  けれども、一方は子どもであり、おとなのほうは女である。きりりとした目もと、鋭い眼光は凛々しくあったが、胸や腰の丸みは確かに女のものであった。  かすかな月光のもとでも、眼をこらしてみれば、白い細面の中に、黒い柳眉と形のいいアーモンド型の目がはっきりと認められる。もし、町中で領主の目に留まろうものなら、声のひとつやふたつはかけられたに違いない。  だが、女が容易に承諾しないであろうことは想像に難くない。双眸の光は強く、その黒曜の瞳は尊ぶことはあっても媚びはしないだろうと思われた。  黒髪黒眼の女と子どもは、流れるような動作で馬上へ上がった。まるで、生まれた時から人馬一体であったかのように、それはあまりに自然であった。  女が馬を進めると、子どももそれに倣った。  闇は、彼女らの味方であったらしい。  黒曜の瞳に映るものは、常人とは異なるのか、なんら迷いなく、確かな足取りで木の密集地帯を抜けた。  一挙に、視界が開けた。  東のあなたには平原が広がり、細い月が道しるべのように浮かんでいた。青みを帯びた光が、道を煌々と照らした。夜空は蒼く冴え渡り、寒さがしんしんと身にしみた。  はあ。と、子どもが手綱を握る手に息を吐きかけた。  しかし、それだけだった。泣き言はもとより、声ひとつ立てなかった。  まだ一〇歳ほどの年端もいかぬ子どもである。ベソのひとつもかくところであろう。  まったく子どもらしくなかった。絶えず辺りに目を配り、この非常時にも落ち着き払っていた。腰に佩いた剣はおとなの使う重い長剣だったが、いたって不自然さを感じさせなかった。並みのおとな以上の手綱さばきで、女に遅れず馬を進める。  空が白みはじめた頃、東に街が見えた。  防風林に囲まれた小さな街。  リュウイン王国の東の果て、隣国パーヴとの国境に近いエスクデールの街である。  女は道をふり返った。 「追っ手は巻いたようだ」  細い月に照らされた蒼い道には、何の人影も、馬の影も見られなかった。 「もうひと息で国境を越えられる。そうすれば……」 「伯父上が助けてくれるでしょうか?」  子どもが初めて口を開いた。  年齢にふさわしい甲高い声だった。  女は皮肉っぽい苦笑を、朱い唇の端に浮かべた。 「喜んで災いを呼びこむ者はおるまいよ。だが、この国に留まるよりは安全だろう。さすがに、あの男も隣国には手を出せまいて」 「我らはパーヴで暮らすのですか?」  子どもの表情は淡々としていて、感情が読み取れなかった。 「故郷を離れるのは淋しいか?」  女はニヤと笑った。  子どもは表情を変えない。 「いえ。この先どうするのか知っておきたいのです」 「そうだな」  女は考えこんだ。 「街に入り、人に紛れて暮らそうか。これからは食べ物にも衣類にも事欠くだろう。そなたには不自由をかけるな」 「寝首を掻かれる恐れが減るというもの。むしろ、何の不自由がありましょうや」  子どもの表情はなおも変わらない。  そういう性質なのかも知れなかった。 「かも知れぬ。だが……」  女は眉をひそめた。 「これで終わったわけではあるまい。そなたの行く末を思うと、人知れず養子に出したほうがよかったのかも知れぬ。弟のように」 「母上の行かれるところ、どこへでも参ります。たとえ地獄の果てまでも」  きっぱりと子どもは言い切った。  女は自嘲的に苦笑した。 「では、風邪をひく前に国境を越えようか」  馬の腹を蹴った。  晩秋の夜明けに、チュニックとズボンという出で立ちはおそまつすぎた。しかし、外套を羽織る暇などなかったのだ。  葦毛の馬は、二頭とも、よく駆けた。  女の腰で長剣が揺れた。  年代物で、鞘には金銀細工が施されていた。特に目を惹くのは大粒のサファイヤとルビーで、赤子のこぶしほどもあった。  剣の握りは、よく使いこまれてピカピカに光っていた。  刀身は鞘に覆われて見えないが、大振りの剣らしい。重く、両手で握る剣なのだろう。握りは、小物ならすっぽり覆ってしまえそうなほど太かったから。  その隣りに下がった短剣もまた、歴史を感じさせる年代物だった。鞘にも握りにも、長剣と同様の細工が施され、また使いこまれていたから。  街の入口にさしかかった。  防風林が道を囲み、月明かりをさえぎる。道だけが、白く芒と浮かび上がっていた。 「戻られよ! 母上!」  突然、子どもが馬首を翻した。  すばやく反転し、来た道を全速で駆け戻る。  ためらわず、女も後に続いた。  びゅう、と矢が風を切った。  ひとつやふたつではない。雨あられのように降りそそぐ。  女は長剣を抜いた。刃がギラギラと光った。手入れの行き届いた、よく使いこまれた刃だが、それ以上の何かを感じさせた。それを殺気や妖気と呼ぶ人もあるかも知れない。  両手で振るうはずの巨大な剣を、女は細い片腕で軽々と振り回した。矢は紙つぶてのようにたわいなく地上に落ちた。  子どももまた、長剣を抜いた。女のものほど巨大ではないが、おとなが振るうに足る大振りの剣を、子どもは揚々と振り回した。降り注ぐ矢の雨を、風車のようにはじき飛ばす。  馬はよく駆け、ようやく防風林を抜ける。矢の射程外まで来て、女は後ろをふり返った。追っ手の影は見えなかった。  ふたりは、歩を緩めなかった。 「モイラの森へ!」  女は叫んだ。 「今宵の敵は、人目をはばからぬ。地獄の底まで追って来ようぞ!」  ごう、と何かが轟いた。  うなりをあげ、矢が降り注いだ。  並みの矢ではなかった。風を切る音は薄暮に轟き、その大きさは音に見合うだけに巨大だった。鋭いやじりが、固い地面に突き刺さる。  弩である。地上に据えつけたバネ仕掛けから、巨大な矢が放たれるのである。その威力も飛距離も、通常の矢の比ではなかった。  ふたりは剣をかざし、矢をうち払ったが、先ほどまでのようにはいかなかった。重く巨大な矢は、ふたりの剣士の自由を奪った。そして、乗馬の自由さえも。道には無数の矢が突き立ち、進路を妨げていたのである。  女がひと声低くうめいたが、矢の轟音にかき消された。  林立する矢の間隙を縫って、ふたりは道を外れて野を駆けた。弩の射程から遠く離れ、国境の町エスクデールが夜空の星のように小さな点になってから、子どもは後ろをふり返った。  空の一部が黄色に染まっている。多勢の軍馬が地面の土埃を天に舞い上げ、迫っているのだ。 「母上、手当を」  子どもは乗馬の歩調を緩めて、女の後ろへ回った。女のわき腹には、深々と矢が突き刺さっていた。また、女の乗馬の後ろ足にも、二本の矢が刺さっていた。  女は力をこめて矢を引きぬいた。 「猶予はない。一刻も早くモイラの森へ」  わき腹から血が噴き出した。女は腰ひもを使って止血をしたが、手当と呼ぶにはお粗末すぎた。  子どもは後方を振り返った。  空のけぶりは、いっそう濃さを増したようだ。 「モイラの森まで半日。追いつかれる前に入らねばならぬ」  冷酷にも女は傷ついた馬の腹を容赦なく蹴った。  子どもは黙って後に従った。  モイラの森は、リュウイン王国の都ロックルールから南へ一日くだったところに広がる樹海である。沼地に囲まれ、いたるところに底なし沼が口を開けている。中では磁界が乱れ、方角を失う。  罪人の判定地として名高い。被疑者を森の中で解き放ち、出てこられれば無実、そうでなければ有罪と処す。  しかし、この森にひとたび足を踏み入れ、ふたたび日の目を見た者は、この世に誰ひとりとしていないのだった。  その話を聞いた時、子どもは形のよい唇にうっすらと笑いを浮かべた。 「合点がいかぬようだな」  女はにやと笑い、訊ねたものだ。 「何を考えておる」 「合点はいっております」  子どもは女の目をまっすぐに見た。 「森を出た者は、ひとりとしてあってはならないのですね。被疑者はすべて有罪でなければならないのでしょう。国の威信とやらのために」 「なぜ、そう思うのだ。根拠は?」  子どもはつまらなさそうに答えた。 「森の中で解き放つのでしょう? では、中まで案内する者がいるはずです。誰ひとりと申しますが、案内者ならば出てこられるでしょう。道を知っているのですから。では、どうしてウソをつくのか。得をするのは誰か。考えれば、おのずとわかります」  女はうなずいたものだ。 「では、その道案内の者とやらを探そう」  子どもは不審げに女を見た。女は笑った。 「話というものは、真意をくみ取るだけではなく、利用しなければな」  あれから一年。  よもや、役立つ日が来るとは想像だにしなかった。  モイラの森の奥深く、かつて道案内の者から教えられた道を進むと、小さな広場に行き当たった。  女は崩れるように、馬から降りた。粗末な衣服は大量の血液で変色し、それでもまだ吸いきれずに雫をしたたらせていた。  子どもが駆け寄り、布を当てたが、みるみるうちに真紅に染まった。  女の乗馬が膝を折り、横ざまに倒れた。矢傷は深く、馬はあきらめたように目を閉じた。子どもの乗っていた若い葦毛の馬が、鼻面をこすりつけた。 「追っ手は血の跡をつけてくるだろう」  女は肩で息をついた。わずかに身動きするたび、赤いものがどっと噴きだした。 「母上、話してはなりません」  子どもは眉を寄せ、真紅の布を未練がましくあてていた。 「道を踏み外せば底なし沼ゆえ、追っ手の勢いも多少はそがれようが、じきに追いつめられよう。ここより先は、そなたひとりで行け」  子どもはかぶりを振った。 「どこまでもお供いたします。今、傷口を縫い合わせます」  子どもは馬の鞍にくくりつけた小袋を取りに行こうとした。  女が、ぐいと、子どもの腕を引いた。 「ムダだ」  子どもはハッと女の顔を見た。  血の気の失せた顔には死相が現れていた。両肩を死神に押さえられながらも、強靱な意志がなお、女の魂をこの世に引き留めているのだった。 「母の大小をとれ」  子どもの息が止まった。胸を突かれたように表情がこわばった。  愛剣は手放せない。死出の旅に向かわぬ限り。  形見を残していこうというのか。 「誓って、あの男めを地獄へ送ってご覧に入れます」  子どもは女の手を強く握りしめた。  女はかすかに首を振った。 「母の仇を討とうとしてはならぬ」  子どもの眉根が深い皺を刻んだ。  女は深く息を吸いこみ、くり返した。 「母の仇を討ってはならぬ。そなた自身の生を生きよ。よいな?」  子どもは答えなかった。ひき結んだ唇から血がにじんだ。 「リュウカ!」  瀕死の目が大きく見開き、死神をも退けるような一喝が轟いた。  子どもの長い睫が心の惑いを表すように震えている。ガタガタと奥歯が鳴った。露わになった細腕にはたちまち鳥肌が立った。全身が、応諾を拒んでいた。  女の手が、子どもの手を握りしめた。普段の力強さはなかった。死神が徐々に魂を蝕んでいる。時間はもう残されていない。  子どもは臍下に力を込めた。持てる精神力をすべて奮い、己の感情を水面下にねじこんだ。 「はい」  喉に重い塊がつかえたかのように、子どもは震える声で弱々しく諾した。  女は満足げに唇の端をあげ、子どもを愛おしそうに見やった。 「では、母の馬を楽にしてやれ。苦しみが長引いては哀れだ」  子どもがうなずくのを、女が見ることはなかった。急速に黒い瞳の光は失われ、子どもの両手の中でその手は重く沈んだ。ついに死神は、高貴な生命を手中に収めたのだ。  子どもは嘆かなかった。  すくと立ち上がり、女の乗馬の傍らに寄った。すでに馬はこときれており、若い葦毛がいつまでも鼻先をすりつけていた。  尋常とは思えぬ力で、子どもは馬の亡骸を引きずった。おとなの背丈の倍ほども動かすと、そこは底なし沼だった。馬は沼に沈んだ。  引き返し、女の遺骸から大小の剣を抜き取った。そして、手際よく、馬と同様の処置を施した。軽い分だけ、事はあっさりと済んだ。  時間を浪費したりはしなかった。迷わず子どもは乗馬に飛び乗り、森から姿を消した。  生き延びるために。    二 田舎医者  薄めたインクのような色の雲が空に垂れこめていた。冷たく湿った風が草むらを揺らす。  草丈の短い場所を選んで、騾馬が足を運ぶ。音を立てて、馬車の車輪が後に続く。御者台では若い男が揺られていた。二十代半ばだろうか、中背で恰幅がいい。栗色の髪を肩で切りそろえているところを見ると、学者か医者であろう。 「寒くなってきたな」  男は黒い外套の胸元をかきあわせた。 「まだ秋だってのに、もう雪かよ。ちくしょう。親爺の天気予報が当たりやがった」  男は明るい茶褐色の目を前方に向けた。小さな森が視界の半分を占拠していた。 「とんだ寄り道だ。それもこれも、あの亭主がいきなり帰ってくるからだ。お楽しみはこれからって時に」  手綱を送ると、騾馬の足が早まる。 「水はあの中だぞ。町で飲みそびれた分、あそこで飲めよ」  小さな幌馬車は、森に入った。  密に繁る木々の間に乗り入れた瞬間、目は視力を失った。幾重にも枝葉が淡い陽光を妨げていた。  ようやく樹木の間隙を見分けると、無意識に引いていた車輪のブレーキを緩める。下草が車輪の下に踏みつぶされていく。車輪の音が、森の奥へと吸いこまれていく。木霊はない。葉ずれの音と、鋭い鳥の声が、騾馬と車輪の蹄の音に混じる。  ほどなく、水音が仲間入りした。  樹木の間隙が広くなり、視界が広がる。  幌馬車三台分ほどの水たまりが目に入った。水面は静かだが、中央よりやや奥が盛り上がり、上下をくり返している。わき水だ。 「よしよし。まだ残ってたか。しばらく来ない間に涸れたかと心配したぜ」  男は御者台から飛び降りた。草の間から泥が跳ねた。  騾馬を馬車から外し、水場へ導く。 「たっぷり飲めよ。家までは、まだまだ先が長いんだからな」  男は御者台から水筒を取り、わき水の源へと手を伸ばした。水を詰めると、顔を洗う。 「ふう〜っ、冷てぇ〜」  当たり前のことを言って首を振る。  目の端に、黒い影が映った。  男はふり向いた。何かが馬車から飛びだしたように見えた。  馬車に駆け寄り、幌の中をのぞく。荷物が崩れている。くくり紐が切れ、包み紙が破れている。 「出て来いっ! コソ泥めっ!」  男は叫んだ。すねの半ばまで覆う草をかき分け、こぶし大の石を見つけては投げた。胸に届かんばかりに生い茂った下草の中に、石がふたつ、みっつ と消える。 「出てきやがれっ! この盗人!」  騾馬一〇頭分向こうで、高い背丈の草むらが揺れた。  男は我が意を得たりとばかりに唇の両端を上げ、頬にくぼみを作った。ますますもって、見込みの箇所にねらい撃ちする。  草むらが左右に大きく開いた。黄灰色の影が飛びだす。  オオヤマネコだ。体長は子どもの背丈ほどと小柄だが、鋭い爪や牙は人間の比ではない。  開いた口は見事な緋色で、男はその場に釘づけになった。武器ひとつ探す機転は、この危機において、まったく働かないのだった。  オレは死ぬ!  男は運命の刻を待った。  だが、いつまでも終幕は訪れなかった。  気がつくと、黒い影が黄灰色の獣と組み合っていた。ほどなく、カタはついた。黄灰色の獣が地面に転がり、動かなくなった。  黒い影は体を震わせていた。よく見ると、それは長い黒髪の子どもで、死闘の後に肩を大きく上下させているのだった。  子どもは、肩ごしに男を見た。泥に汚れた顔の中から、アーモンド型の黒い目がのぞいた。右手を振ると、血が飛び散った。巨大な刀から、獣の血糊が飛んだのだ。  子どもの足下には、果物や乾物が四、五個転がっていた。男には見覚えのあるものだった。 「あっ、この盗人め!」  子どもが支払ったものは男自身の生命で、品物に比してあまりあるものだった。しかし、男の腹には熱いものがこみあげてきた。 「よくも、ぼうず、許さねぇぞ!」  子どもはうっすらと笑いを浮かべた。歳には似合わず、目には悟ったような色が浮かんだ。跳ねるように、草むらへと足を踏みだす。  長くは続かなかった。二歩めで、膝をつき、倒れ伏した。黒髪が、持ち主に一瞬遅れて地面に接吻した。 「おい、ぼうず、どうした!」  男は怒りを忘れ、子どもを抱き起こした。  すでに意識はなかった。わき腹が真っ赤に染まっていた。  雲はますます灰色を濃くし、ついに耐え切れぬかのように、その一片を地上に落とした。雨ではなかった。冬の到来を告げる、白い結晶だった。地上に降りては解けて消え、背の高い枯れ草も、硬い地面も、赤や黄に彩られた木々も、しばらくは何ひとつ見た目に変わりはなかったが、やがて微小な白銀に世界は支配されていく。  まだ秋も半ばだというのに、雪は三日間降り続いた。森も川も道も、すべて白銀に埋もれた。村も、家も。  小川を越えた村外れに、民家が建っていた。母屋と離れ、小さな厩が、厚い雪に埋まっている。空に突きでた煙突が、母屋と離れからそれぞれひとつずつのび、煙を吐き出していた。  母屋の一室で、薪ストーブが勢いよく燃えていた。ストーブの上で、ポットが音を立てて真っ白い蒸気を噴きだしている。  太った女が、雪水の入った桶で手ぬぐいを濡らしていた。三〇歳前後だろう、頬ははちきれんばかりに膨れ、顎の肉はたるんで二重にも三重にも盛りあがっている。眼も髪もありふれた暗褐色で、小さな目はまぶたと頬の間に埋もれている。鼻は丸く、小鼻が大きい。  手ぬぐいを絞る手はふくよかを通り越して丸々だったが、肌は赤子のように滑らかだった。  女は手ぬぐいを折り、かたわらのベッドに眠る病人の額に置いた。黒髪の子どもが横たわっていた。 「どうだ? 気がついたか?」  男の声とともに、背後から冷気が吹きつけた。 「ユキ、早く戸を閉めて。寒いわ」  ユキと呼ばれた男は急いで戸を閉じた。森で命拾いした男だった。 「変わりはないか、シズカ」  ユキは女の横に立った。 「顔色はすっかりよくなったんだけど。ホントにキズはたいしたことないの?」 「オレの腕をなめてもらっちゃ困るね!」  ユキは片手をあげ、得意そうに力こぶを作る仕草をする。 「わかってるわよ。王都ロックルールで修行したんでしょ。何度も聞いたわ」  シズカはあきれたように笑う。 「違うね。同じ王都ロックルールでも、オレは伝統ある王立医学院で学んだんだ。そんじょそこらの医者と一緒にしてもらっちゃ困るね!」 「はいはい。その名医さんのお見立ては間違ってないのかしら? まだ気がつかないんだけど?」 「極度の栄養失調だったからな。もう一本、栄養剤射っとくか」  ユキが一歩下がると、子どもの眉が動いた。まぶたが二、三度震える。 「お嬢ちゃん!」  シズカが声をかけた。 「目をあけて! お嬢ちゃん!」  子どもがうっすらと目を開けた。黒曜の眼が、ぐるりと周囲を見回す。 「もう、だいじょうぶよ。怖い動物はいないから」  シズカが笑いかけたが、子どもはかまわず身を起こした。 「ダメよ、起きちゃ。キズが開いちゃうわ」 「そうそう。せっかく名医が縫ってやったんだからな」  ユキがシズカの後ろで笑った。 「感謝しろよ、お姫さま」  その瞬間、子どもは高く跳躍した。ユキとシズカを飛び越え、戸口に回ると、部屋を飛びだした。 「ちょっと待てよ、ぼうず……じゃなかった、お嬢ちゃん!」  ユキが追いかけると、短い廊下に子どもの姿はなかった。  高い口笛の音が鳴り響く。離れのほうだ。  駆けつけると、離れへ続く石畳に子どもが裸足で立っていた。傍らには、大きな葦毛の馬。  森で子どもが倒れた時、音もなく現れた馬だ。ユキが子どもに近づくと、鼻息荒く足を踏みならして威嚇した。応急処置を施すのに、どれほど手こずらされたことか。ユキは必死に自分は医者だと説明しなければならなかった。  相手は言葉も通じない畜生だというのに。思い出すと、失笑を禁じ得ない。  手当が済むと、馬はおとなしくなった。幌馬車の後をついてきたから、いい馬を手に入れたものだとユキはご機嫌だった。  厩に入れておいたはずなのに、いつのまに外に出てきてしまったのだろう?  子どもは葦毛の馬の手綱を引いた。今にも雪の中を馬に乗って消え去るような勢いだった。  離れから老人が現れた。白髪と白髭で顔のほとんどが埋まり、疲れたように肩は落ち、生気はもはや目に残るのみになってしまった老人である。 「休んでいきなさい」  老人は何気ないようすで子どもに話しかけた。 「この大雪では、何者も前に進めぬよ」  老人は口調と同じようにごく自然に離れに戻った。  子どもの動作は止まっていた。 「そ、そうだぞ。なにも、とって食おうってわけじゃあるまいし」  ユキは急いで説得に入った。 「こんな大雪の中、外に出たら、あっという間に凍え死んじまうぞ! せっかく名医が手当てしてやったのに、意味ないじゃないか!」  子どもはユキを上から下まで眺め、初めて口を開く。 「そなた、何者だ?」  ユキは一瞬言葉を失った。胸に、妙な威圧感を覚えたのだ。 「オ、オレは」  咳払いする。 「オレはユキ・ミヤシロ。この家の当主で名医だ。こんな田舎にはもったいない名医だぞ! ぼうず……お嬢ちゃんは運がよかったんだぞ! オオヤマネコに切り裂かれたわき腹は、オレが縫ってやったんだからな。この名医にかかれば、痕も残らずきれいに治るぞ。女の子の体にキズが残ったらかわいそうだからな!」  遅れて、シズカがやってきた。 「こんなとこにいたの! 寒いでしょ! カゼ引くわよ! ユキ、こんなとこでなに自慢してるの! さっさと温かい部屋に連れていきなさい!」  ユキを押しのけ、子どもの両手をとる。 「こんなに冷たくなっちゃって。早くお部屋に入りましょう。キズだって痛むでしょ」  子どもの眉がわずかに開いた。 「馬を屋根の下に入れてくれないか。飼い葉と水も与えてやってほしい」  口調も、今度はやわらいでいた。 「あなたの馬? いいわよ。厩に入れておきましょうね。ユキ、やっといてね」 「ふぁい」  押しのけられた拍子に石畳の横に尻餅をつき、雪に埋まっている一家の主人は、情けなくも返事をした。  子どものキズは、順調に癒えていった。 「名医というのも、まんざらウソじゃないでしょ」  ベッドのわきで、シズカは笑った。膝には仕掛かり中の刺繍がある。赤い野バラを象ったものだった。 「あなたが担ぎこまれた時には、ホントにびっくりしたわ。キズのことじゃないのよ。あなたが女の子だったってこと。ユキも私もてっきり男の子だと思ってたのよ。だって、泥だらけだったし、男の子のかっこうをしてたんですもの」  シズカは笑って、刺繍針を進めた。 「お裁縫は得意?」  子どもは横になったまま、わずかに首をふった。 「じゃあ、お料理は?」  また、わずかに首をふった。 「お掃除は?」  答えが同様なのを見ると、シズカはため息をついた。 「女の子なんだから、ちゃんとできるようにならなきゃ! あなたの親御さんは、どういう躾をしてるのかしらね! どこに住んでるの? 文句言ってやるわ!」  子どもはうっすらと唇に笑みを浮かべた。苦笑にも冷笑にもとれた。 「そういえば、あなたって見かけない顔よね。どこから来たの? そうそう。名前も聞いてなかったわ。あなた、名前は?」  子どもは答えなかった。  シズカは子どもの腕をつかんで揺さぶった。 「名前ぐらいあるでしょ! ちゃんと答えなさい。名前は?」 「リュ……」 「リュ?」  子どもは一瞬間をおき、ゆっくりと響きを確認するように答えた。 「リュート」 「リュートちゃんね。いい名前だわ。楽器の名前でしょ? 旅の芸人さんが持ち歩く、こんな四角いお琴よね」  シズカは指でおとなの顔よりひと回り大きい四角を描いてみせた。  それはキタラだが、子どもは指摘しなかった。 「じゃあ、リュートちゃん、どこに住んでるの? おうちの人に連絡してあげる。きっと心配してるわよ」  小さな暗褐色の目が、リュートの顔をのぞきこんだ。  リュートは一度だけ瞬きした。 「住まいはない」 「それ、どういうこと? 親御さんは?」 「死んだ」 「まあ!」  まんまるにふくれた両手が、はちきれんばかりの頬を包みこんだ。 「かわいそうに! でも、ご親戚は? ご親戚ぐらいいるんでしょ?」  リュートは口を開かなかった。 「いないの? なんてかわいそうに!」  シズカはいっそう大きな声をあげた。  その夜、シズカはユキにリュートの身の上を語った。 「そいつはマズいな」  夕食のポテトをつつきながらユキは言った。 「治療代がとれん」  救われた自分の命は、治療代に入らないらしい。 「バチあたりなこと言って!」  シズカは木のボールから、木じゃくしでポテトを取り、ユキの皿に重ね盛りした。 「そんなに食えないよ。それより肉食いたいなあ。こないだのハムの残り、まだあったろ」 「ダメです! 節約しないと。私だってお金を稼ぐために細々と刺繍をやってるんですからね。自覚してよ、パパ」 「はいはい」  うらめしそうに、テーブルに目をやる。その下には、ふくらんだ腹があるはずだった。 「おまえって、じょうぶだよなあ。つわりもなくて、何でもバクバク食えるんだから」 「あら、感謝してもらいたいわ。じょうぶなほうが、じょうぶな赤ちゃんを産めるんだから。ねえ、私の赤ちゃん」  シズカはせりあがった腹を撫でる。 「それより、かわいそうなのはリュートちゃんよ。親も兄弟もなくて、この世にたったひとりきりなのよ。何か力になってあげられないかしら」 「心配ないだろ。あれだけ器量がよけりゃ、嫁のもらい手に困らないさ」 「ユキ! あの子、まだ子どもよ!」  シズカの剣幕に、ユキは椅子の背もたれいっぱいに身を引いた。 「まあまあ。うちだって、おまえが臨月になりゃあ人手がいるんだ。しばらくあの子に家のことを手伝ってもらおう。それから先のことは、後でまた考えようじゃないか」 「そうね」  シズカは意外にすんなり引きさがった。 「いざとなったら、実家の父に相談するわ」  ユキは苦い顔になり、ぼそぼそと口の中でつぶやいた。 「また、『実家の父』か」 「何か言った?」 「いや、別に」  ユキは山盛りのポテトに匙を突きさし、うんざりしたように口に運んだ。  薪割り場は勝手口と風呂場の裏にある。ここからは馬小屋と、青い山並みが見えた。長大な山脈の向こうには、北の大国があるという。  西は離れに遮られて見えないが、森林が広がっているはずだ。未開拓のジャングルで、その向こうに何があるのかは知らない。国があるのかも知れないし、地の果てや、もしかしたら黄泉の国があるのかも知れない。  自分には関係ねーや。とユキは思う。  それより要るのは使用人だ。代わりに薪を割り、騾馬の世話をし、時には鞄持ちをしてくれる働き者がいい。見たくれもそこそこ良くなくちゃ困る。頭も悪くちゃ困る。都帰りの名医の顔に泥を塗られてはたまらない。  口が軽いのも困る。さみしいどこぞの奥方への献身的な治療をシズカに言いつけられた日にゃあ……。  思わず身震いした。シズカは実家へ帰り、ユキは義父にこってり搾られるだろう。義父にはまったく頭があがらないのだ。  薪割り用の小ぶりの斧を振りあげる。斧は薪をかすり、台に突き刺さる。薪は回転して飛び、順番を待つ薪の山に当たった。  もう、ヤメだ、ヤメだ!  ユキは斧を放りだした。両手に息をかけ、上着の襟元をかきあわせて空を仰ぐ。 「また、降るかなあ」  季節外れの降雪はあれ以来なく、秋らしい晴天が続いた。積雪はあっという間に消え、生き残った雑草と枯れ葉が地面を覆った。  だが、一ルーニーが経ち、季節は移ろった。もう、いつ雪に見舞われてもおかしくはない。  現に、空には重たげな雲が垂れこめ、頬を冷風が叩く。その風が湿り気を帯びているような気がするのは、気のせいだろうか。 「今日はもう天気が悪い。悪天候なんだから、しょうがない」  いいわけがましくつぶやいて、勝手口から中に入った。観音開きの窓を閉めると、室内は真っ暗になった。ランプに火をつける。台所の床下から瓶を出し、ひしゃくで中身を汲みだす。おとなの片手にあまる黄褐色の椀に白く濁った液体を満たし、ぐいぐいと飲み干す。 「ふうーっ。寒い日はこれがなくちゃなあ」  再び、椀をいっぱいにする。二度三度は四度五度になり、しまいには数え切れなくなった。 「ユキ! なにやってるの!」  廊下側の戸口から、鼻にかかった女の声が飛んできた。丸いシルエット。 「仕事もしないで、真っ昼間から飲んでばっかり!」  床がきしんだ。足音荒く、シズカが近づいてくる。 「い、いやあ、まだ一杯めだ。天気が悪くてな」  ユキはあわてて口走ったが、耳には、こんなふうに聞こえた。 『まら一杯めら。天気が悪くれな』  気のせいだろうか? 「ウソおっしゃい!」  シズカは勝手口に駆け寄り、扉を開いた。冷気とともに白いものが吹きこんでくる。 「ホントだわ。ひどい雪」 「まさか」  これも『ましゃか』と聞こえた。いや、空耳に違いない。  ユキは椀に口をつけながら歩み寄った。足がふらつき、椀の中身を床と服とにこぼした。 「おっと、もったいない」  急いで飲み干す。 「飲み過ぎよ」  シズカが椀を奪い取った。その肩越しに、白に支配された世界が見えた。土の色はなく、かすかに白い小山が見えた。積みあげられた薪である。その先にあるべき離れは見えなかった。大きな白いつぶてが横様に吹きつけ、視界を奪っていた。  氷のような欠片が頬を激しく叩いた。勝手口の戸口がみるみるうちに白く染まる。シズカが身を翻して扉を閉めた。 「積もったもんだなあ」 「まだ積もるわ」 「おお、冷えちまった。もう一杯やって暖まろう」  ユキは腕をさすって、シズカの手から椀を取り返そうと手を伸ばした。 「飲み過ぎって言ってるでしょ! ろれつが回ってないわよ!」  シズカは左手を腰に当て、睨めつけた。 「オレは酔ってないぞ!」  強気を装いながら、ユキは手を引っこめた。  亭主が負けてやるのが家庭円満の秘訣だからな。オレは酔ってないんだぞ! 譲ってやるだけだ。 「おとなしくストーブにでもあたっててちょうだい。私はリュートちゃんに刺繍を教えてますからね」 「はいはい」  リュートが並外れて器用なのは、すでに知っていた。初めて縫ったという作品を見せられて、刺繍としての価値はいざ知らず、その針運びが見事なのにはユキも驚いた。針を刺す間隔も、糸の張りも一定で、外科医でもなかなかこうはいかない。 「あの子、とても飲みこみが早いのよ。教えがいがあるわ。今は勿忘草の刺繍をさせてるの。あれ、売り物になりそうよ」 「おおいに鍛えて稼がせろ。うちには、怠け者に食わせるメシはないんだからな」 「お酒もね。少しは反省したら?」 「オレは家長だぞ!」  ふんぞり返った拍子に、よろめいて尻もちをついた。 「な、長い足がもつれたんだ!」  あきれて見下ろす妻にうそぶく。 「はいはい。舌もね」 「オレは酔ってないぞ!」  身重の妻はぶざまに座りこむ亭主を後目に姿を消した。  名医の家長はストーブに火を入れた。手をかざし、ひとしきり不満をつぶやくと、いつのまにか眠ってしまったらしい。激しい風の音で目が醒めた。  体をさすり、戸棚に向かう。 「こんなに寒くちゃ、飲まないわけにいかないよなあ」  椀を取り、例の瓶へ向かう。  風の音はいよいよ激しく勝手口の扉をたたく。扉は破れんばかりに騒々しく揺れる。 「うるせえな、このクソボロ屋!」  椀を傾けながら毒づくと、誰かに呼ばれたような気がした。  酔ったかな、と首を振り、さらに椀を傾ける。  湯気の立ったポットを持って、シズカが廊下から現れた。 「まだ飲んでるの? いい加減になさい」  勝手口の扉が大きく揺れた。 「せん……せ……」  妙な声が聞こえ、シズカが身を固くした。 「ユキ、誰かいるわ。出て」  一家の長はストーブの火かき棒を押しつけられ、勝手口に引きずられた。 「だ、誰だ」  扉に顔を寄せ、誰何してみる。  風のうなりに混じって、野太い男の怒鳴り声が返ってきた。 「村長んとこの使用人のコカゲでさぁ。坊ちゃんが急病で。診てくだせぇ」 「急患か?」  火かき棒を置いてかんぬきを外し、扉に右肩をつけた。力を込めて押すと、そろそろと開いた。湿った冷気と大粒の雪が吹きこんだ。真っ白に染まった小山がすばやく中に飛びこんでくる。ユキが力を抜くと、扉は音を立てて閉まった。かんぬきを締め直し、向き直ると、客はシズカに手伝わせて分厚い外套を脱いでいた。牛の皮をなめしたもので、使用人には分に過ぎるものだった。たぶん村長のものだろう。その下から十歳前後の太った少年が現れた。村長の跡継ぎ息子のトビである。革ひもで使用人の背中にくくりつけられていた。 「診察室に火を入れてこい」  シズカはあわただしく廊下に出た。  少年がうなった。 「いてぇよぉ」  寒さのためか、痛みのためか、顔は青ざめていた。 「症状は? 具合はどうなんだ?」 「腹がいてぇと。腹痛の薬を飲んでも治まらねぇんで」  コカゲは名前に似ず大柄な男で、腕の太さは女の胴ほどもあった。村長の家がある本村から村外れのここまで、おとなの足で一ニックはかかる。この吹雪では道が埋まり、馬車を走らせるどころか、雪を漕いで歩くだけでも難儀するだろう。並みの人間なら行き倒れになったかも知れない。 「とにかく診よう。診察室に」  暗い廊下に出ると、冷気が体に押し寄せてきた。壁についた両手から体温が奪われていく。 「先生?」 「こっちだ」  壁に両手両肘をつけ、もたれるように進んで、突き当たりの扉を開けた。  室内から頼りなげな黄昏色が漏れた。足下に影が長く伸びている。元をたどると、もっとも輝かしい黄金色の炎を、丸い図体がふさいでいた。シズカだ。せりだした腹のためにしゃがむことができず、苦しそうに身をかがめ、ストーブに薪を入れていた。炎の勢いはまだ弱い。 「早く部屋を暖めろ」  ユキはシズカに声をかけ、右に進んだ。寝台と机があった。 「そこに寝かせよう」  薄暗い中、大男の背中から肥えた少年を降ろす。少年は寝台の上に、体を丸くして横たわった。 「さみぃ。さみぃぞ。凍え死ぬ」  やや太い声で、少年はうなった。 「このベッド、かてぇ。骨が折れる。死ぬ」 「ベッドが固いぐらいで死ぬもんか」  ユキはあきれ声で言った。机から聴診器を取る。 「オレは死ぬんだよ! デリケーキにできてるから」 「それを言うならデリケートだろ。どこがデリケートだ」 「うるせぇ、このヤブ医者! よけいな口きいてねぇで、とっとと腹痛治せ!」 「わかったわかった。今診てやるから、腹を出せ」 「こんなさみぃところで出せるか、ボケ!」 「うるせぇな。コカゲ、そいつを抑えてろ」  ユキが指示すると、大男は身を縮めた。 「カンベンしてくだせぇ。坊ちゃんに手を出すことはできねぇ。旦那さんのご命令なら、話は別だけんども」 「村長にはオレから言ってやるから。いいから、トビを抑えろ」 「カンベンしてくだせぇ」  ユキは眉をつりあげた。 「おまえは何のためにこいつを運んできたんだ! ガキのわがままにビクついてんじゃねえ!」  大男はいっそう背を丸め、うつむいた。 「まったく使用人ってヤツは使いものにならん! シズカ! ここに来てこいつを抑えろ」  村長の息子は寝台から滑り降り、大男の後ろに隠れた。 「おい、おまえ、この生意気なヤブ医者をやっちまえ」 「坊ちゃん、カンベンを」 「うるさい、おまえは黙って言うことをきいてりゃ……いつつつ……」  腹をかかえて、その場にうずくまった。 「ほら、ごらんなさい。おとなしくベッドに寝てお腹を診てもらわないからよ」  シズカがよたよたと少年の後ろに寄ってくる。 「うるさい! このウシ女!」  年齢よりもはるかに立派な体格をした少年は、ふり向きざまに両手で妊婦を突き飛ばした。  丸い体が、あっけなく傾いた。背中が無防備に落ちていく。  シズカは両手で腹をかばった。  とつぜん、落下速度が緩み、ゆっくりと尻が床についた。後ろから抱きすくめた腕がほどかれ、肩越しに小さな白い顔が現れる。 「大事はないか、奥方どの」  病床で刺繍に耽っているはずの少女だった。シズカは声もなく、ただ黙ってうなずいた。  黒髪がひるがえった。妊婦に無礼を働いた少年の腕をつかみ、背中でひねる。  かん高い悲鳴が響く。 「つかまえておればよいのか、家長どの」  ユキはわざとらしく咳払いした。 「家長じゃない。オレは名医だ」 「名医どの」  眉ひとつ動かさず、新しい助手は訂正した。 「よしよし。いい子だ。まずベッドに寝かせてもらおうか」  助手よりふた回りは大きい少年は、その場から動くまいと足を突っ張って必死に抵抗した。  細身の病床人はまともに力くらべをしなかった。腕をわずかに動かし、若干ひねりを加えただけだった。 「折れる。腕が折れる」  少年の悲鳴はかん高さを増した。少女に軽く背を突かれると、改心したらしく、素直に歩いて寝台に上がった。しおらしく横になる。 「さて、痛いのはどこだ?」  ユキは足の上に乗り、服をめくる。 「痛い目見るのはおまえだ!」  とつじょ、少年が身を起こした。  いや、起こしかけたが失敗した。枕元の少女が間髪を入れず少年の額を寝台に押し戻したからだ。  少年の両手が少女の眼に伸びた。人差し指がまっすぐに伸び、黒い眼を狙う。  少女は軽々と左手で両手首をとらえ、寝台に押しつけた。その手は歳の割には大きく、おとなの男のように皮膚が厚くこわばっていた。  ユキは小気味よさそうに笑った。 「どこを押されると痛い?」  鳩尾から下へ、順に押していく。臍の左下にさしかかると、村長の令息は悲鳴をあげた。 「死ぬ! 死ぬぅ!」 「こりゃあ盲腸だな。切るか」 「ひっ、人殺し!」  丸い顔が恐怖にひきつった。渾身の力をこめて暴れる。頭と腕こそ抑えられて動かなかったが、脚力はじゅうぶんに発揮できた。上に載っていた自称名医を寝台の下に叩き落としたのである。 「クソガキ!」  若き名医は机の上から注射器を取った。 「今すぐ眠らせてやる!」 「やっ、やめろぉぉぉっっ!」  銀色に光る鋭い突起物を見て、恰幅のいい不遜な少年は叫んだ。 「コカゲ、助けろ! イヤだイヤだ、誰か助けてくれえぇぇぇっっ!」  絶叫は、とつぜん途絶えた。少年の首が力なく寝台に沈んだ。  大きいがほっそりとした手が、少年の首筋から離れた。 「気を失わせたが、よかったか? 名医どの」  少女は手刀をおさめて、おとなびた黒い眼をユキに向けた。 「ああ」  ユキはうなずいて注射器を元の場所に戻した。しかし、注射器はなぜか机の上から転がり落ちた。  あれ?  目眩がしたような気がした。 「麻酔薬を飲ませて、すぐに手術にとりかかろう。手遅れになったらたいへんだ」  壁や天井の燭台に次々と火を入れると、寝台の周りは昼間のように明るくなった。  麻酔薬を飲ませるには、またひと騒動ありそうに思えたが、リュートが解決した。意識を失わせたまま、すこしずつ口に麻酔薬を流しこみ、胸をさすって嚥下させた。 「まあまあだな」  手際よい処置に気圧されながらも、ユキはうそぶいた。 「もっと最初から手伝ってくれりゃいいのに。気がきかないヤツだな」 「すまぬ。差しでがましく思ったので」 「今回は大目に見てやるが、次はこうはいかないぞ」  手術刀の入った箱を開けさせる。 「これはな、王都ロックルールであつらえた道具だ。誰でもそう手に入れられるものじゃないんだぞ」  手術刀を手に取り、灯りにかざして見せる。 「どうだ。美しいだろう!」  おや?  手術刀が灯りに揺れているように見える。 「先生?」 「ユキ?」  大男と妻が同時に言った。 「手が震えてるわよ?」 「ただの武者震いだ。王都で鍛えた腕が鳴るな!」 「先生……」  大男が上目遣いにおそるおそる話しかけた。 「なんだ!」 「ここに着いた時からずうっと気になってたんだけんども、先生酔っぱらって……」 「オレは酔ってなんかいないぞ!」  ユキは手術刀を振り回した。 「だいたい、オレ以外の誰が手術するっていうんだ。麻酔はもう飲ませちまったし、これは強い薬だから一回飲ませちまったらおとなだって二、三日は間を置かなきゃならないんだぞ。子どもだったらその倍で一シクルだ。そんなに待ってみろ! 手遅れになるぞ!」 「だから、飲み過ぎだってあんなに止めたじゃない!」  シズカが怒鳴り返した。 「そんなにたいへんな薬なら、酔いが醒めてから始めればいいのよ! なにが酔ってないよ! ユキ、あなたそれでもお医者さま?」 「誰が何と言おうと、手術はする!」  ユキは手術刀を火に当てた。  蜜蝋の蝋燭から立ち上る炎は、手術刀を嫌がるかのように、右に左に逃げる。  くそっ。火までオレをバカにするのか。 「おまえにやらせてやる。火に当てろ」  かたわらの少女にメスを押しつける。 「シズカ、おまえはメシの仕度でもしてろ」 「ユキ……」 「手術なんか、女の見るもんじゃない。コカゲ、おまえもさがれ。どうせ凍えてるんだろ。台所で温かいものでももらって食ってろ」 「ユキ!」 「出てけっ!」  額に青筋を立てて怒鳴り、残りの手術刀をつかんで投げる真似をした。 「脅しじゃないぞ。出ていかなかったらひどいからな!」  ふたりは不満げながらも、おそるおそる診療室を出ていった。  ユキは手術刀を無造作にケースに放りこんだ。 「やれやれ。シロウトはこれだから」  いいわけがましくつぶやき、炎の中のもう一本に目を留めた。 「もういいだろ。寄こせ」  幼い助手の手にある手術刀を奪った。いざ切ろうと構える。  黒髪の助手は患者の腹を薬液で拭いた。  そうそう。消毒が必要だったな。オレ、もう指示したんだっけ? きっとしたんだろう。そうだ、したに違いない。そうに決まってる。  ユキは消毒を待って、手術刀を腹に当てた。手元がゆらりと揺れる。見当はずれの場所に刃が落ちつく。  違う違う、そこじゃない。  手術刀を当て直す。また、ズレている。  いや、そこじゃない。  三度手術刀を当てた。  行きすぎだ。そこじゃない。  何度やり直しても、狙いが定まらない。 「代わろう」  向かい側からくぐもった声がした。いつのまにか頭と口を白い布で覆い、白い手術服を身につけた助手がいた。黒い眼光が、やけに落ちついている。 「バカなことを言うな」  ツバが飛んだ。  しまった。マスクをつけ忘れた。帽子もかぶっていない。そもそも手術服を着ていないじゃないか。どうかしている! 今までこんなことは一度もなかったのに。  辺境の医師は己を恥じ入った。しかし、それは一瞬だけのことだった。  シズカが悪いんだ。今まで何度も手術を見ているクセに、服を着せていかなかった。トビも悪い。おとなしくしてないから調子が狂っちまったんだ。  それにしても……。  自称名医は向かいの助手をぼんやり眺めた。  なんだって、こう手際がいいんだ? 「おまえ、いったい……」 「虫垂炎は多少経験がある」  くぐもった声が歯切れよく応えた。 「経験ったって、患者じゃ意味ないんだぞ」  言いながら思いだす。手当をした時、少女の体に盲腸炎の痕跡はなかった。 「名医どのは体調を崩しておられる。せっかくの名医ぶりも、その指先ではじゅうぶんに発揮できまい」  黒い眼が、田舎医者の反応をうかがっている。 「手順はひと通り知っておる。名医どのの手先の代わりにしてもらえまいか」 「知ってるのとできるのとは違うんだぞ。わかってんのか、子どものクセに」 「名医どのがついておられるのだ。うまく行くに決まっておる」  ユキは少し考えた。  刺繍の件で器用さは証明されている。眠っている患者に飲み薬を嚥下させる方法も知っていたし、手術刀を熱する時の手つきも堂に入っていた。何事につけ手際もよい。  自分の手を見た。  この思い通りにならない手よりマシかも知れない。もしこのまま続ければ、確実によけいな部分を切ってしまう。 「やってみろ」  ユキは手術刀を差しだした。  白い手に渡るなり、刃物は銀色に閃いた。迷いのない鮮やかな手際だった。  それは、都帰りの医者に、学院時代を思い起こさせた。まるで、教授の模範演技を再現しているかのようだった。  縫合も確かだった。 「おまえ、医者の娘か?」  手術が終わると、ユキは訊ねた。にわか医師は首を振った。 「じゃあ、どこで習った?」 「うまく行ったのは名医どののおかげだ」  白い手が薬液に浸かった。寝台のわきに用意された洗面器に、いつのまにか消毒用の薬液が満たされていた。 「いい手術刀だ」 「そうだろう。なんたって、王都ロックルールの王立医学院で手に入れたんだからな」  手術刀の話は、ツボをついた。ユキはたちまち上機嫌で、次々に器具の自慢話を始めた。  患者の容態も少々気になってはいた。だが、見たところうまくいったようだし、もししくじっていれば助手のせいにして言い逃れもできる。  霞がかかったような頭で、ぼんやり考えていた。    三 辺境の地  額にじっとりと浮かんだ汗が冷えていく。闇の中で、リュートは身を起こした。  静まりかえった家の内外に、殺気はない。気配はいたって穏やかだ。  窓を開くと、青白い雪明かりが射しこんだ。西の空に細い月が傾き、森の黒い影に沈みつつある。  ここは国の北西部。国境に近いフジノキ村だ。王都から早馬で七日、すなわち一シクルと二日のところにある。徒歩なら一ルーニー弱といったところか。追っ手は東端のモイラの森で巻いた。彼らは自分たちが隣国へ逃亡すると踏んでいる。よもや、西の外れに逃れたとは思うまい。  いや。  黒髪が揺れた。  逃れたのは自分ただひとり。母はもう亡い。  額の汗をぬぐう。  追っ手はいつ気づくだろう。執拗なあの男があきらめるとは思えない。この辺境の小さな村にも追跡の手が伸びるだろうか。  固い雪を踏む音が聞こえた。  子どもにしては大きな白い手が枕元に伸びた。使い馴れた長剣をつかむ。 『女の子が、こんな危ないもの振り回しちゃいけません』  シズカは刀剣類をすべて取りあげたが、今は留守である。出産が間近に迫り、本村の実家に宿下がりしたのだ。リュートは家中を探し、シズカたちの寝室や物置などに隠されたそれらを取り戻していた。  雪を踏む音は近づいてくる。白い顔を窓辺に寄せ、黒い眼でそっと外をうかがう。  馬の鼻息が聞こえた。 「葦毛か」  白地にグレーの斑点のある馬面が、窓から飛びこんできた。鼻から白い息が激しく吹きだす。 「変わったようすはないか?」  つぶらな黒い眼はおっとりとした眼差しを向けている。鼻筋を撫でると冷たかった。 「今、水と飼い葉をやろう。厩で待っておれ」  馬首を追いだし、窓を閉めると、ふたたび闇に閉ざされた。 『そなた自身の生を生きよ』  さきほど夢で聴いた声が胸に甦る。そこでもまた現実と同じように、腕の中で消えていく命の炎をただ手をこまねいて見つめるほかなかった。  わからぬ。  心中でつぶやく。  私自身の生とは何だ。母を失い、葦毛とともに、これからどうして生きていけばよいのか。  膝までの長い寝間着を脱ぎ、男物の上衣とズボンを身につける。ユキの古着を直したものだ。シズカは 「女の子なんだから、女の子らしくしなくちゃ」  と自分の古着を着せたがった。年齢とサイズとで着られなくなったが、まだまだ使用に耐える、刺繍とフリルのたくさんついたエプロンドレスだった。  しかし、ユキは即座に却下した。 「そんなもん着ちゃ仕事にならん。おまえみたいなお嬢さまとはわけが違うんだからな。オレのをやる」  ユキの古着は厚みのあるしっかりした木綿の服だった……かつては。今では着古されて生地は薄くなり、透けるのも時間の問題だった。 「なあに、子どもはすぐに大きくなる。新しいのをやっちゃもったいないだろう。それより、これでオレの服は一着減ったわけだ。新しいのを縫ってくれよ」  こうして譲られた衣服は、寒風にさらされると体温を無抵抗で明け渡した。  でも、まだマシだ。この家には食べ物があり、薪もある。寒い冬を越すことができる。  リュートは両手をこすり合わせ、息を吐きかけた。暗い家の中を記憶の通りにたどり、中庭に出た。母屋と離れの間には植えこみがあり、まるで垣根のような役割を果たした。その西の端には井戸が掘られていた。井戸から水を汲み、母屋の東に位置する厩へと運ぶ。ミヤシロ家の騾馬とリュートの葦毛が水を待っていた。彼らに水を飲ませ、飼い葉を与え、敷き藁を替える。ブラッシングを済ませると、今度は人間の食事の支度である。  薪を持って台所に入り、ストーブの火を熾して炊事をする。スープとハムエッグができあがると、パンをのせてユキの寝室へ運ぶ。 「もう朝か」  寝室のランプを灯すと、布団の中からユキが顔だけ出した。おっくうそうに腕を伸ばし、ナイトテーブルからパンを取る。固くなったパンをナイフでそぎ、熱い湯気のたつスープに浸し、柔らかくして食べる。  その間に、リュートはストーブの火を熾した。 「おまえのメシは、シズカよりはマシだな」  ユキは渋い顔でつぶやいた。 「お嬢さま育ちはいかん。一人前に働けもしないクセに人一倍食いやがって、言うことは人の二倍だ。ふた言めには『私の実家では』『実家の父が』とくる。女はすなおで働き者で器量よしがいちばんだ。あいつにそういうところがひとつでもあるか?」 「後で片づけにくる」  リュートは答えずに台所に戻った。新たにスープとパンと湯を盆に載せ、今度は離れに運ぶ。  離れは母屋より古く小さかった。元はきこり小屋だという。不要になったものをタダ同然でもらい受けたのだという。数十年前までは、この辺り一帯は林の中だったのだ。家の周りでは積もった雪がところどころ小山になっているが、それらは後に残った切り株である。この家の持ち主は開墾しなかったのだ。農民ではなかったから。  離れの扉を開けると、足下に仔猫たちがまとわりついてきた。白地に茶色や黒の斑点のある猫である。かわいいさかりは過ぎ、猫らしい形をとりつつあった。  母猫は細々と燃えているストーブの前に寝そべっていた。やわらかな古着に半ば体を埋め、時々細く眼を開けて、仔猫たちのようすをうかがっている。 「博士どの、朝食をお持ちしました」  リュートは仔猫を巻きこまぬように扉を閉め、ストーブのそばのテーブルに盆を置いた。 「ありがとう」  木枠に布を張ったついたての向こうから小さな声が聞こえた。しわがれてはいるものの歯切れのいい、よく通る声だった。端々にパーヴ北部の訛りがある。  リュートは戸口に戻り、わきの納戸を開けた。仔猫がにぎやかに鳴きながら足にまとわりついた。母猫までが駆けつけ、後足で二本立ちになりながら、前足を上に伸ばしてくる。  納戸の中は独特の匂いがした。天井からは、干し肉や干し魚、干した果物などが吊り下がっている。床には漬け物の壺が置いてある。  壺をひっくり返さぬよう、猫を踏まぬよう、リュートは注意して歩を進めた。備えつけのナイフで干し魚をそぎ取る。  猫を追いだしながら納戸から出、ストーブわきの餌皿に小さくそいだ干し魚を入れてやる。猫たちはリュートの手元を狙っては伸びあがり、落ちたものに群がっては次を待ちきれないようにまた伸びあがる。うなりながら餌にありつくさまは、かつて野生にあった獣であったことを思わせる。  リュートは次々に餌を与えた。干し魚がなくなると、餌場の上にあつらえた棚の上から粉ミルクの缶を取り、盆の上の湯に少量溶かし、猫に与えた。 「よい食べっぷりだ」  ついたての陰から、白髪の老人が現れた。リュートがミヤシロ家で目覚めた日、飛びだすのを押しとどめた老人だった。 「どれ、わしも食事にしよう。肉と野菜を取ってくれぬかの」 「はい」  リュートは納戸に戻り、干し肉と漬け物を少量取ってきた。肉はストーブの上に載せる。軽くあぶったほうが旨い。  老人はパンをふたつに割った。 「今日の天候は穏やかそうだ」  老人はパンの半分をスープに落とし、スプーンでその頭を叩いた。 「昼頃には晴れ間が見えるかも知れん。気温も上がりそうだから、川の上は歩かないようにしなさい」 「はい」 「ひとつあがっていきなさい」  漬け物の皿を指し示した。 「菜漬けなら、いらぬ嫌疑も招かぬだろう」 「いえ」  リュートは微笑し、首を振った。  シズカがまだ家にいた頃の話だ。リュートが初めて老人に食事を運ぶと、老人は薄く切った干し肉を幾枚か分けてくれた。 「あがりなさい。育ち盛りにはいくらあっても足りぬだろう」  その場で口にし母屋へ戻ると、ユキの嗅覚がいち早く察知した。 「オレのハムを盗み食いしたな!」  手が飛んだ。しかし、壁に叩きつけられたのは哀れにも家長のほうだった。考える間もなく身についたクセで、リュートの足はユキの腰を蹴っていた。しばらく王都帰りの名医は動けなかった。  シズカがあわてて間に入り、リュートに事情を聞いてユキに説明したが、ムダだった。 「あのクソオヤジが菜の一枚、粉の一粒だってくれるもんか!」 「じゃあ、きっと、スープに使った煮干しの匂いね!」  シズカは両手を腰に当てて、座りこんでいる夫の頭上からまくしたてた。 「煮干しもハムもちょっと変わった匂いだもの。だいたい、あなたの服からは薬草の匂いがぷんぷんするわよ。それで鼻がすっかり曲がってしまったんじゃないの。そうじゃないなら、風邪でも引いてるのね。私には、肉の匂いなんかぜんぜんしませんとも! 親も親戚もないたったひとりぼっちのかわいそうな女の子にいきなり手をあげるなんて、どうかしてるわ。そもそもあなたの稼ぎがよければ、私もこの子も毎日たっぷり肉が食べられるんですからね。恥を知りなさい! 私の実家では、この子ぐらいの育ち盛りの子には毎日肉を食べさせたものよ。実家の父がこのありさまを見たら何ていうか!」 「……わかった。わかったから」 「いいえ! ちっともわかってません!」  横暴な亭主をこってりしぼった後、シズカはリュートにこっそりささやいた。 「ユキとお義父さまには事情があってね、それですなおになれないの。許してやってね」  ミヤシロ家の食卓は、ユキの稼ぎだけでは立ち行かなかった。現にスープには、老人からもらった野菜が半分入っていた。そのことは、ユキには内緒である。 「アレには散々不自由をかけたからな」  老人は負い目を感じていた。  リュートにはわからなかった。猫をかわいがる穏やかなこの老人の、どこがそれほど憎いのか。 「洗濯物はありますか。これから川まで参りますが」 「ありがとう。間に合っておる。それにしても、そなたの手はこんなことをするためにあるのではあるまいに」  リュートは自分の手を見た。年不相応に大きな手。手入れのための油もなく、爪の周りはささくれだち、指はあかぎれで腫れている。 「暮らしのために働くことは、悪いことではありますまいに」 「すまぬな。わしがしっかりしておれば、そなたをこんな目に遭わせはすまいに」 「私は感謝しております。ここにおれば冬を越せ、博士に教えを乞えます。そもそも私には行き場がないのです」 「母君が生きておられたらな」  老人は悲しげに肩を落とした。 「こんなに幼い我が子を残して、どんなにか心残りだったろう」  ストーブの周りでは、満腹になった仔猫たちが母猫に身を寄せ、丸くなっていた。リュートはチラリとそれを見た。 「では、今夜またうかがいます」  老人がうなずくのを見て退室した。  台所で冷え切った汁ばかりのスープの残りをすすると、母屋の部屋を回って洗濯物をかき集め、洗濯袋に詰めこんだ。ユキの衣類は寝室中に脱ぎ散らかされており、どれが洗濯物か見分けがつかなかった。シズカは鼻を押しつけ『臭いで嗅ぎわけるのよ』と言ったが、リュートには区別がつかなかった。洗うべきものを洗わず、そうでないものを洗い、幾度もユキに怒鳴られながら、ようやく頻繁に洗うべきものを覚えだしたところだ。  袋に詰めこみ終わると、台所のストーブからポットを取りあげ、洗い桶の中に湯を張る。洗濯袋を腕にさげ、洗い桶を抱えて小川へ向かう。小川まではおよそ一五〇歩あまりの距離である。夏ならばたいした距離ではないが、この季節には容易ではない。雪に埋もれないよう、踏み固めた細い道だけをたどる。踏み外せば、やわらかく深い雪の中に身が埋まってしまう。  ようやく小川にたどりつくと、打ち石で小川に張った氷を割った。洗い桶に雪を入れ、ぬるま湯をつくる。洗濯物を洗い桶に浸し、小川のほとりの平たい岩の上に広げて打ち石で叩く。  最初、このやり方を習った時、リュートは驚いた。衣類が傷むであろうことは明白だったからである。洗濯板や石鹸は用いないのかとの問いが喉元まで出かかったが、飲みこんだ。ミヤシロ家では、診察室以外で石鹸を見かけたことはなかった。彼らにとっては高価なものなのかも知れないと、リュートは思った。  打ち石で叩いた後は、川の水につけて汚れを洗い流す。揉みだしては絞り、絞っては揉みだしをくり返した後、洗い桶にたまった汚水を川に流して終わりになる。  かじかんで言うことをきかない手を、途中で何度もぬるい汚水につけた。汚水は冷気で急速に冷えていく。それでも氷のような川の水よりはマシだった。  母屋へ戻り、台所の片隅に衣類を干す。ストーブの火は落ちていたが、室内はまだ暖かかった。リュートは両手を首筋に当てた。冷たさに、思わず身震いをする。  次は薪割りだ。少しでも手の感覚を戻しておかなければ。  台所の裏手、湯屋と厩の間が薪割り場だった。握力が戻ると、リュートはしばらくそこで手斧を振るった。薪割りは楽な仕事だった。物思いに耽ることもできたし、体も温まった。  昔々、名もなき国に気弱な王さまおりました  気も小さければ体も小さい  間尺の足りない小さな仔馬にまたがって  小さな沼を散策しました。  吟遊詩人がキタラの音にのせて語った物語を、リュートは思い出していた。詩のリズムに合わせて、斧を振るう。  空は黒くかき曇り大きな雨粒落ちました  雷大きく轟いて大きな木の根に落ちました  雲の中から黒龍がまっすぐ地上に降りました  美わしい姫に姿を変えました  姫の髪は黒馬のよう  姫の眼は黒炭のよう  姫の肌は真珠のよう  姫の唇は朝日のよう  姫の瞳は遠くを見ます  見えない翼うち振って  たちまち世界へ飛びだしました  小さな王さま追いかけました  山も谷もひとっ飛び  川を渡り虹を越え  ぐるりと世界をひと回り  それでも王さま追いかけました  小さな沼にもどった美姫は  再び龍に姿を変え、空に昇っていきました  小さな王さま大いに嘆き、  あふれた涙でみるみるうちに大きな湖できました  小さな王さま気づいてみれば  気も大きければ体も大きい  仔馬もいまや大きな馬  国もいつしか大きな国となりました  黒龍の姫という昔話である。リュートはこの手の詩が好きだった。『昔々、神と人とが共に地上にあった頃』で始まる勇者セージュの冒険談や、遠い地方に伝わる伝奇物は心を躍らせる。  セージュか。今頃どうしているだろう。  勇者と同じ名をいただいた、同い年のいとこに思いを馳せる。  歳の割に体格がよく、広い肩に褐色の巻き毛が揺れていた。伯母似の暗褐色のまなざしは、短気でよく涙に濡れていた。泣き虫のセージュ。毎年、夏になると、野を走りまわった。勇者ごっこが好きで、棒をふりかざして弟のエドアルを追いかけまわした。  小さなエドアル。みっつ下のもうひとりのいとこ。走りまわるより、本を読んだり、花摘みしたりするほうが好きなおとなしい男の子。兄に追われると、きまってリュートの陰に隠れた。明るい栗色のやわらかな巻き毛が腕に触れると、おもはゆい保護者意識に見舞われたものだ。  ふたりのいとこと、伯父上に伯母上。私がもはや死んだものと思っているだろうか。  リュートは首を振った。  そのほうがいい。私に関わっては災いを招く。伯父上の母親がいい顔をせぬだろうし、あの男につけいられるスキを作ることになる。  ――あの男。  振りおろした手斧が薪割りの台に深く突き刺さった。引き抜くには、渾身の力をこめなければならなかった。  あの男。母上の命を奪った憎い仇。  眼を閉じずとも、ありありと姿を思い浮かべることができる。  赤いなめし革のベストに、丈の長いモスリンの上着。袖はリボンで二カ所くくられ、色の違う布地がスリットからのぞいている。キュロットにもやはりスリットが入り、大きくふくらんでいる。派手で贅沢な衣装。  他人を嘲るように大きく見開いた茶褐色の眼。その眼は、母をおぞましくも嫌らしい目つきで眺めまわしたのだ。肉厚で大きな口。その口は髭の中から忽然と現れ、母を辱めては下品で高らかな笑い声をあげたのだ。  つば広帽を斜にかむり、その陰からはくっきりと左頬の刀傷が見える。あの男は隠しもしない。その漁色家の証拠を。  母上は亡くなったのに、あの男は生きている。我が世の春を謳歌している。  許せぬ。断じて許せぬ。  だが、今の私に何ができる? たったひとり、未熟な剣技と拙い知恵で。母上でさえ力及ばなかったというのに。  リュートは深くため息をついた。  仇討ちどころか、今日を生きるのに精一杯だ。生き延びることは、母上の遺言でもある。己の生とやらを見いださねばならぬ。  リュートは薪を割った。  さしあたっては、今日の糧を稼がねばならぬ。  昔々、神と人とが共に地上にあった頃  虹の清水の源に怪物ヘデロがおりました  吐きだす液ですべてを溶かし  手当たり次第に飲みこみました  再び、古き伝承の歌に合わせて斧を振るう。勇者セージュの冒険談のひとつである。  野を飲みました  山を飲みました  川を飲みました  村を飲みました  いとむくつけき怪物ヘデロ  この世の果てまで飲み尽くす  神も人も為す術なく  天を仰いで怯えるばかり  怪物ヘデロをいかでか倒さん  勇者セージュ剣に誓う  天地を駆ける龍神よ  知恵と力を与えたまえ……  薪割りが終わると、診療室にユキを呼びに行った。 「おまえは仕事が遅いなあ。薪ぐらいまともに割れないのか。待ちくたびれたぞ」  薬草を鉢ですりつぶしながらユキは言った。 「ほら、早く着替えを出せよ」  往診には傷みのない新しい服を着ていく。ユキだけではない。鞄持ちのリュートも同じである。羊の革をなめした暗褐色のコートを羽織り、油をたっぷりふくんで水をはじく革の靴を履く。 「高かったんだからな、キズなんかつけるなよ」  ユキは決まり文句のようになった言葉を言いきかせる。 「まったく、助手ってヤツは金がかかってしょうがない。いいか、元がとれるぐらいには働いてもらうからな」  村までは細い踏み跡をたどっていく。冬の間じゅう往診の往復で踏み固めた道だ。体の幅ほどしかなく、踏み外せば深雪に埋まってしまう。降雪のあった日には、新雪に覆われて道を見失うこともある。  リュートは空のリュックを背負い、左手にはユキの医療鞄を持って先頭を歩きだした。道に足跡がつき、ユキはその後を悠々と歩く。さらに後ろから、葦毛の馬が一頭、尻尾をゆっくりと振りながらついてくる。  本来なら、馬車はおろか、馬一頭通ることもできない細い道である。だが、筋骨たくましい馬は、脚に馬用のかんじきを履いていた。浅く雪に沈みながらも、歩を進めることができたのである。決して楽な歩行ではない。並外れた体力がそれを可能にしたものの、冬になって飼い葉の量が増えた。 「エサ代がかさむぞ。出歩かせるな」  とユキは渋い顔をしたが、できない相談だった。この忠実な馬を、乗り手と遠く離すことはできないのだ。もしムリにでも厩に閉じこめれば、器用に扉を開けるか、力強い足でぶち破るかしてしまうだろう。  では、自分が乗ろう、とユキは馬に近づいたが、威嚇のいななきにたじろぎ、あきらめた。  この馬は、自分と母以外は何者も背に上げないことを、リュートはよく知っていた。たとえ敵の手に落ちても、決して自分たちを追いつめる側にまわらぬよう、厳しく仕込まれたのだ。  馬は身を守るための術であり、友であった。この世に生まれ落ちた時から生命の危険にさらされていたのだ。今、この時でさえ、あの男は追ってくるかも知れない。  細い雪道を迷いのない足取りで進むと、二ニクル半で本村の入口に着いた。雪に埋もれたようなあばら屋が二軒、道を囲んでいる。静まり返っているが、空き家ではない。リュートたちが近づくと、窓が開いて、子どもがふたり這い出てきた。家の半分は雪に埋もれ、窓が冬の出入り口になっているのだ。 「お恵みを」  年の頃は五つか六つだろう。あちこちほころびた汚い下着姿で、痩せた子どもがふたり、並んで雪の上にひざまずく。鼻をたらし、目やにがいっぱいの顔をうつむかせ、両手をそろえて差しだす。  すると、道をはさんだもう一軒のほうから、今度は老婆が出てきた。こちらは風向きのせいか雪がより深く、窓すら埋もれ、破れた屋根から出入りしていた。立ち上がることすらできず、四つん這いで道ばたにたどりついた。 「お恵みを」  かすれた声で老婆は言った。こちらも真っ黒に汚れた下着姿で、こけた頬と皺だらけの顔の中で眼だけが爛々と光っていた。  リュートたちは、何もやらずに通りすぎた。 「働かずにメシにありつこうってんだから、調子がいいさ」  ユキはまるで同情しなかった。 「ああやって同情をひけばラクできると思ってるんだ。ダマされるなよ。貧乏人ってのはズルい生き物だからな」  子どもが出てきた家は子だくさんで、両親は夏場は材木屋で雇われ、冬場は街道の雪かき人夫として働いていた。小金が入るたびに酒を食らい、子どもは常に飢えていた。  向かいの家は老婆のひとり暮らしだった。一〇年ほど前、流行病で夫を亡くし、自分は後遺症で足が不自由になった。子どもはなく、親類や村人からの施しで暮らしていた。  かわいそうに、とリュートは思う。何かしてやれたらと思うが、我が身さえ養われている身分なのだ。無力さを感じる。  本村へと道を進むと、まばらに小さく貧相な家々が立ち並んでいた。雪に埋もれていた家々も奥に入るにしたがって屋根の雪は降ろされ、玄関口はきれいに掃き清められていく。  やがて、雪のとり払われた広い道に出た。板塀が長く連なり、その上から背の高い植木が顔を出している。沿って進むと、やがて門にあたる。屋根のある観音開きの門で、四頭立ての馬車が出入りできるほどの幅があった。扉は黒塗りの重厚な板で、固く閉じられていた。  ユキはその隣りにある小さな通用門を押し開いた。身をかがめてくぐる。リュートも続いた。葦毛は門の外で待機である。  材木置き場が広がっていた。長い材木が高く積まれ、ずらりと並び、その奥に屋根つきの工場がある。工場の壁には長い板が一面に立てかけられている。  村外れで伐採された木材はすべて集められ、ここから街に売られていく。  材木屋。村でも一、二位を争う資産家にして、シズカの実家である。  工場の隣りに広い庭と屋敷が並ぶ。庭には石の彫刻が飾られていた。魔物を退けるという神獣や、英雄セージュなど猛々しいものが多い。植木や巨石が周囲を取り巻き、伝承にある場面を演出していた。雪は掃かれ、屋敷に近い辺りには、葉が赤くなる種類の観葉植物が植えられていた。  また増えたな。  リュートは像のひとつに目を留めた。口ひげをたくわえた厳めしい大男が、剣を高く掲げている石像である。光沢のある黒みかげ石でできている。昨日の昼には見かけなかった。  屋敷の玄関には、リュートの背丈の倍ほどもある、大きな分厚い板扉がしつらえてあった。ユキが玄関のわきの紐を引くと、甲高い鐘の音が響いた。中から扉が開く。体の大きな使用人が、リュートたちを招き入れた。  ユキは、そのまま使用人の後についていく。食堂で、シズカやその親族たちと昼食をとるのだ。  リュートは別だ。途中で分かれ、書庫へ向かう。  書庫の中は真っ暗だった。窓を覆う木製の扉を開けると、室内に光が射しこんだ。本棚から一冊を選び、丸椅子を持って窓辺へ戻る。  ベッドが一〇は並びそうな広い部屋の壁二面がまるまる書棚になっており、他にふた竿、壁に平行に書棚が並んでいた。どれにもほとんど隙間がないほど本が詰まっている。  これらは王都ロックルールで手に入れたものである。シズカの実家では代々跡継ぎをロックルールに留学させる。彼らが帰るたびに蔵書が増えるのである。  シズカの父も、ロックルールで林業と製材業、商業を学んだ。その長男も同様であったが、数年前、伐採中の事故で命を落とした。代わりにロックルールへ送られたのは、シズカのすぐ上の三男ヒナタだった。次男はとうによその村に婿入りして不在だったのである。  ヒナタは遊び好きで、ユキが医学を志して上京した折りにも、さんざん『都会的な遊び』とやらを教授したらしい。ユキがよく覚えたのは『女遊び』だけで、あとはさっぱりだったという。  蔵書の多くは植林や製材、建築、経済に商売といった類のものだった。当然だ、彼らはそれを学びに行ったのだから。しかし、ヒナタが持ち帰ったものは異色だった。文学、絵画、彫刻に塑像、楽器、異国の花の種……。  材木屋の道楽息子と村人たちは笑ったが、長くは続かなかった。ヒナタはうつつを抜かしているだけの青年ではなかったのである。  リュートは長い指で本のページをめくった。空は曇っていたが、雪の反射で強められ、窓からの光はじゅうぶんに足りていた。細かい文字を走り読みする。指が次へ、そして次へと、休みなくページを繰る。時間がないのだ。  いつかあの男を追いつめるために、この知識が役立つかも知れぬ。いや、追っ手から逃れるのにも役立つかも知れぬ。早く、早く読んでしまわねば。そして、次の知識を。 「眉根を寄せてちゃ、美人が台無しだぞ」  高い男の声がした。リュートは視線を一瞬だけ移した。  リュートほど黒くはないが、黒髪と呼んでも差し支えなかろう、長い黒髪を背中で緩く編み、ゆったりとした青いセーターを着た男が室内に入ってきた。年は三〇代半ば、肩幅は狭く、やや痩せ気味に見える。顔は灼けて浅黒く、小さな目が鋭く光っている。  これが材木屋の三代目、ヒナタである。 「玄関見たか?」 「黒みかげの勇者像か」  リュートは本に目を戻して答えた。 「どう思う?」 「好かぬ」  口ぶりから察するに、労して手に入れたのだろう。何と労えばいいのか、リュートにはわからなかった。 「手厳しいなあ」  ヒナタは陽気に笑った。 「黒みかげだぞ。この辺じゃなかなか手に入らない、貴重な石なんだぞ」 「石が欲しいなら、削って小さくすることもあるまい。原石を手に入れればよかろう」 「芸術を理解する数少ない仲間の言葉とは思えないなあ」 「私は仲間ではない」  仲間ではなく、ただの居候で使用人だ。資産家の跡継ぎとは立場が違う。 「やれやれ。女性には評判悪いんだなあ。うちのおふくろもシズカもマメやヨシたちも、ゴツい勇者は嫌いなんだとさ。繊細でたおやかな勇者が好みなんだとか。リュートもそのクチかい?」  マメやヨシはこの家の使用人である。彼は使用人たちを、肩書きではなく名前で呼んだ。 「仕事の粗いのが気に入らぬ」  リュートは変わらず本を読みながら答えた。 「石像なんて、あんなもんだろう。木像とはわけが違うからなあ」 「あの程度と見なしては、石の匠が嘆こうぞ。デッサンは悪くないが、雑な造りだ。造り手は急いで仕上げたのだろう、形になればいいと思ったのではないかな。私なら差し戻して、もう一度手を入れさせよう」 「そんなにひどいかな。荒々しい感じが出ていていいと思うぞ」 「荒々しくするなら、もっとノミを大胆に振るわなくてはならぬ。加えて、あの肩や腰の肉付きではバランスが悪い」 「ふーん。言われてみればそうかもなあ」  ヒナタは楽しげに笑う。 「ところで、リュートは、厳つい勇者像と繊細な勇者像とでは、どちらが好きかい?」 「どちらにも、それぞれに良さがあろう」 「もし、どちらかひとつだけくれると言われたら、どっちにする?」 「どちらもいらぬ」 「どうして?」 「ジャマになる」  ヒナタは大声で笑った。  何がおかしいのだ?  リュートは首を傾げながら、目で文字を追い続けた。  ユキの昼食が済むと、村を往診に回った。  材木屋の通用門を出ると、葦毛が待ちかねたように出迎えた。 「黒みかげの像の話、聞いたか?」  村長の家に向かう途中、ユキが訊いた。  リュートがうなずくと、 「相変わらず金遣いが荒いぜ。あんな石ころに大金はたくんだからな。貴族さまか何かだとでも思ってんのかね」  ユキは鼻先で笑った。 「それより、ちゃんと褒めちぎっておいたんだろうな? こんな見事な像は見たことありませんって言ってやったか?」 「いや」  リュートが短く答えると、ユキは顔色を変えた。 「おまえ、誰のおかげで本なんか読んでられると思ってるんだ! ヒナタ兄さんが特別に目をかけてくれてるからだろうが! おまえには感謝ってものがないのか!」  リュートは黙っていた。火に油を注ぐつもりはなかった。 「だいたい、オレの面目つぶしやがって。とんだ礼儀知らずを養ってると思われたら、どう責任とってくれるんだ! ウソでもいいから褒めちぎっとけ!」  ヒナタには感謝している。女などに教育は必要ないというシズカの父の反対を押し切り、医者の助手ともなれば教育が必要だと、書庫を開放してくれた。  なぜ、そんな気になったのか、リュートにはわからない。気に入ったからだとヒナタは言うが、どこをどう気に入ったというのか。  ユキはヒナタの好意を喜んだ。助手が有能になれば、自分にも箔がつくと踏んだからだ。 『それに、ヒナタ兄さんに気に入られて損はないからな』  他人の幸運まで自分のものにしてしまおうというユキのしたたかさには、舌を巻いてしまう。こんな人間は、どんな場所のどの時代でも生き残っていけるのだろう。だが、自分にはできそうにもない。  村長の家に着いて、ようやくユキの説教がやんだ。材木屋の向こうを張ってか、こちらの門は石造りである。穴の多い白石を直方体に切って積み上げてある。門扉は鉄製で黒く塗装されているものの、ところどころ茶色い錆が浮いている。  半開きの門扉の前に、少年が立っていた。丸々と体がふくらんでいるのは、着ぶくれしているからだけではあるまい。  突きだした広い額とはちきれそうな頬、目つきの悪い細い目に大きな鼻は、村長の家系の特徴だった。この跡継ぎの少年にも、それらははっきり現れていた。 「おう、また待ち伏せか?」  ユキが意地の悪そうな笑いを浮かべると、トビは木刀を構えた。 「勝負だ! 今日こそ正々堂々戦え!」 「おまえはヒマでいいな。リュート、相手にするな」  ユキはさっさと門をくぐる。 「逃げるな!」  トビがリュートめがけ、木刀を振り下ろす。  あかぎれた手が伸び、刀身をとらえた。軽く後ろに流すと、持ち手のほうがバランスを崩し、尻もちをついた。そのスキに、リュートは門をくぐった。 「卑怯だぞ! 勝負しろ!」  罵声を背にリュートは黙々とユキの後に続いた。  門の中には巨石を並べた広い庭があった。殺伐としており、センスがいいとはお世辞にもいえない。材木屋への対抗意識だけが露骨に現れていた。  家はさすがに石造りといかなかったらしく、木造家屋だった。シズカの実家よりふた回りは小さい。柱や板もやや華奢だった。  その代わり、大きな石造りの倉がみっつ 並んでいた。穀物倉である。  この家は大地主だった。昔、材木屋が伐採した後の土地を広く買い取って開墾したのだ。代々農業を営み、あまった土地を村の農民たちに貸していたが、今の村長の代になってからは、泥にまみれるのをやめた。土地のすべてを農民に貸し、その賃料で生計を立てていた。  農民から受け取る賃料は、銭ではない。穀物である。そのため、以前は納屋だった土地に新しく倉を次々に建てたのである。  倉の裏には厩があり、小柄で馬力のある農作業用の馬ではなく、大柄な荷役用の馬が飼われていた。穀物を運ぶ時に使うのだ。  トビはこの馬をひどく自慢していた。が、葦毛を見ると、これも手に入れたくなったらしい。たちまちリュートに売れと詰め寄った。  世の中相思相愛とはいかないものである。トビに好かれた葦毛のほうは逆にすっかり嫌って、トビが近づくたびに威嚇した。やがて、トビは葦毛をあきらめざるを得なかった。  そして、今もまた、門の外で葦毛に威嚇されたのだろう、トビが這うように門の中に逃げてきた。リュートは肩越しにかいま見、表情も変えずに屋敷に入った。  屋敷の北端に隠居がある。中に入ると薄暗く、冷たい湿気がじっとりとリュートたちを包んだ。  部屋の奥から、小さな何かが異様に光る。  それはふたつの目だった。  ベッドの上で丸めた背中、突きだした顎、その上に爛々と、まぶたの肉が落ちてむき出しになった目が光っているのだった。 「待ってたぞ」  しわがれた声が陰鬱に響いた。 「先代、お待たせしました」  ユキが足早にベッドに近づいた。  リュートはベッドの端に鞄を広げ、ユキに消毒液のしみた手拭きを渡した。  ベッドのわきに控えていた老女が、病人の服の脱ぎ着を手伝う。 「先生、今朝、バアさんの夢を見たわ」  聴診器を当てられながら患者が言った。 「早くこっちへ来いと呼んでおった。バカめが。誰が行くものか」  意地が悪そうに笑う。  先代の村長イシヅチに妻はなかった。数年前に先立たれていた。今、そばで介護しているのは召使いである。 「あの女には苦労させられた。贅沢三昧で金遣いが荒くてな、わしの稼ぎのおおかたは、あの女のくだらん楽しみのために遣われちまったんだ」  先代は長々と愚痴をこぼした。 「まだまだお元気そうですね。きちんと薬を飲んでおけば、また若い頃のように歩き回れますよ」  ユキは老いた召使いにいつもの煎じ薬を手渡した。 「そうだろうとも! わしはまだまだ若いんだ。あのバカ息子めが! こんなところに閉じこめおって。育ててもらった恩を忘れたか! 親を粗雑に扱いおって!」  妻への愚痴は、息子への愚痴に変わった。 「お代を」  ユキが言うと、先代は枕の下から巾着袋を取り出した。銀銭を取り出し、思わせぶりに高く掲げる。 「誰のおかげで大きくなったと思ってるんだ。親をこんな目に合わせやがって! わしを誰だと思ってる!」  繰り言を延々と繰り返し、やめる気はなさそうだった。 「ありがたくちょうだいします」  ユキが先代の手から銀銭をもぎとる。  先代は一瞬不機嫌そうに頬をふくらました。 「先生も、親は大事にせんとな。親不孝は地獄へ堕ちるぞ」 「リュート、行くぞ」  ユキがリュートの背を押して病室を出た。 「なにが親不孝だ!」  小さく、吐き捨てるようにつぶやく。 「これはこれは、名医どの」  廊下の向こうから、野太い声が響きわたった。やってくるのは大男で、顔も肩も腹も肉ではちきれんばかりである。上等な赤い牛革の上着を羽織り、茶色の毛織物のズボンを履いている。短靴には、しゃれたつもりか、水色の大きなリボンがついていた。大きな鼻、細い目、秀でた額が雄弁に血筋を語っていた。 「こんにちは、村長」  ユキは一転、にこやかな笑顔を向けた。 「名医どのに足繁く通ってもらえるとは名誉なことだ」  村長は高笑いした。言葉とは裏腹に神経を逆なでするような笑いである。 「ところで」  村長は顔を近づけた。 「オヤジはいつまでの命でしょうかな」 「長生きできるよう、最善を尽くしますよ」  ユキは無愛想に言って、廊下を歩き出した。  村長は意地の悪い笑みを浮かべ、リュートに向き直った。 「先生は、いつまでだって言ったんだ?」 「リュート! 行くぞ」 リュートが身を翻すと、村長の手が肩に伸びてきた。軽くやりすごし、ユキに続く。村長の舌打ちが後に残った。  玄関で待ちかまえていたトビをふり切り、数件の家々を回る。  どこの家からも、ユキは必ず報酬を受け取った。現金の時もあったし、物品の場合もあった。 「こんなもので名医の診察が受けられるなんて、ヤツら、なんて幸せ者なんだ!」  帰り道、ユキは得意げに喋った。  リュートはもらい受けた物品をリュックに入れ、雪道を先導した。 「それにしても、村長の家は、いつ行っても胸クソ悪いな! いつまでもグチグチこぼしてんじゃねえよ。こっちはつきあってられるほどヒマじゃねえんだ。金払いがよくなきゃ、誰があんなクソジジイ診てやるかってんだ! なあ、リュート、どう思う?」  意見を求められて、リュートは答えた。 「哀れな老人だ。息子にぞんざいに扱われておる」 「なにが哀れなもんか!」  ユキは怒鳴った。 「自業自得だ! あのクソジジイ、昔からあくどいことばっかしやってきたんだぜ! 狭くて汚い隠居に閉じこめられようが、息子が遺産を狙って死ぬのを待ってようが、当然の報いだぜ! きっと、息子のほうだって、ロクな死に方しやしない!」  リュートは納得できなかった。  あれほどの金や屋敷がありながら、暗く湿った小部屋に押しこまれるほどの、何をあの老人がしたというのだろう? 今日の繁栄は、あの老人の功績でもあるのではないか? 息子たちの扱いはひどすぎる。愚痴もこぼしたくなろうものだ。  ユキは道々、村長の家の悪口を並べ続けた。  ほどなくして、村の入り口まで戻ってきた。子だくさんの貧乏家と、老女のあばら屋が頭を出し、中から子どもたちと老女が現れて、たちまち道の両側を埋めた。 「お恵みを」  リュートはポケットをまさぐった。  ある患者の家から、手のひらにすっぽり収まるほどの小さなリンゴをもらっていた。  せめて、これだけでも。  リンゴを子どもに向けて放った。  赤い小さなリンゴは弧を描き、ふたりの子どもたちの膝の前に落ちた。白い雪に半ば埋もれたものの、わずかに顔を出した赤が鮮やかだった。  子どものひとりが手を伸ばした。もうひとりがその手をたたき、横からリンゴを奪った。すると、奪われたほうが相手の顔をひっかいた。それでも、奪ったほうはリンゴを離さない。  手ぶらの子どもは顔を上げ、強烈な視線をリュートたちに浴びせかけた。やおら、大声をあげて駆け出してくる。  すると、道の反対側からも、足が不自由なはずの老女が、やはり雪に足をとられながらも走り寄ってきた。  子どもの眼も、老女の眼も、何かにとりつかれたようにギラついている。 「バカ! 逃げろ! 走れ!」  後ろでユキが叫んだ。  担いだリュック越しに背を押され、事態を把握できないまま、リュートは走った。ユキも走った。最後尾から、葦毛の威嚇のいななきが聞こえた。 「バ、バ……カヤ……ロ!」  あばら屋が豆粒ほどに遠ざかってから、ようやくふたりは立ち止まった。息があがり、膝に手をついて身をかがめる。 「バカヤロー! ダマされるなって言ったろう!」  ようやく息が整ってくると、ユキは叱りつけた。 「見ろ! 甘いとこを見せるから、足下見られた! 下手な同情はやめろ! 貧乏人っていうのはな、ひとつもらえば、次々と欲が出てキリがないんだ! 足りなくなりゃ、あるヤツから盗ってくんだよ。まじめに稼ぐなんて考えはないんだ!」 「すまぬ」  ユキの言うことのどれだけが真実か、リュートにはわからなかった。しかし、リュートの行為が危険を招いたのは事実だった。 「だいたい、うちだって貧乏なんだからな。施しなんかしてる余裕があるか!」  その先、家に着くまでユキはずっと不機嫌だった。  帰宅すると、すぐに夕食だった。  リュックの中から日持ちのしないもの、腐りかけのものを選り分け、それらを中心に料理する。今夜は川魚の干物が主役だった。腐臭を放ちはじめていたのだ。  野菜のスープに川魚の干物、堅いパン、根菜の漬け物が夕食のテーブルに載った。  ユキは口をきかなかった。目も合わせず、まずそうに黙々と口に運んだ。  リュートは湯屋に行った。焚き付け口で火を熾す。ふいごで風を起こし、炎に勢いをつける。朝割った薪をくべ、沸いた湯をポンプで湯屋の床に送りこむ。  湯屋の床には浅く湯が張られ、その上にすのこが敷かれている。入浴者はこの上で蒸気に当たるのである。室内が心地よい蒸気で満たされると、リュートはユキを呼んだ。  ユキの入浴は長い。火加減を見るため、その間、リュートは焚き付け口を離れることはできなかった。しかし、手は空いている。  リュートは葦毛を呼び、鞍の下から剣を取った。出かける前に仕込んでおいたのである。  炎の調子を見ながら、剣を振る。稽古を休むわけにはいかなかった。追っ手に見つかれば、この腕だけが頼りだった。鈍らせるわけにはいかない。  湯屋の中から鼻歌がやんだ。ユキが出たのだ。  家長は毎日湯屋を使えるが、リュートや老人は三日に一度である。今日はその日ではない。厩へ行き、ラバと葦毛に水と飼い葉を与え、一日の仕事すべてが終わると、ようやく自分たちの食事である。ふたり分の夕食を離れに運ぶ。 「疲れたろう。火のそばに寄りなさい」  穏やかな老人の声が迎えた。  すでに日は落ち、離れのよろい戸は閉まっていた。暗い室内を、テーブルの上のランプが赤々と照らしていた。ストーブは熱く燃えており、その前で猫たちが丸くなって眠っていた。  朝と同様、猫たちに餌をやり、席について老人と食事を摂る。 「今日、ムギホが来てな、焼いた鶏を置いていった。納戸から取ってくれんか? パンと菜漬けも一緒にな」  鶏の肉塊をストーブの上であぶると、獣脂の香りが立ちのぼった。食欲をそそられる。 「食べなさい」  勧められるままに、リュートは食べた。夜の早いうちに食べたものは、翌朝匂わない。ユキに勘づかれるおそれはないのだ。 「どうだ? 旨いか?」  肉は固く筋張り、おまけに痩せていて、お世辞にも旨いと言えるシロモノではなかった。が、いくらでも食べられそうな気がした。空腹が最大の調味料だとは、よく言ったものだ。 「ムギホどのは、何の用事で来られたのですか?」  リュートが訊ねると、老人は笑顔で答えた。 「来年の気候を訊ねに来たのだ。種付けに迷っておるらしい」  ムギホは農民である。一家を養うには充分の広さの土地を持っており、豊作続きのため経済状態もよい。それもこれもジイちゃんの天気予報のおかげ、とムギホはミヤシロ翁を敬っている。 「博士どのは人望が厚い」 「そなたの母君ほどではあるまいよ」  リュートの顔が思わずほころんだ。黒目がちな目が生気を得て輝き、くちびるがやわらかいカーブを描いて、左の頬にかすかなえくぼを刻む。 「博士どの、勉強に入りましょう。母上の名に恥じない者にならなければ」  老人はにっこり笑い、ノートを出した。朗々と語り始める、凝縮された科学知識を。  リュートは石版を取り出し、老人の声に耳を傾けた。時折メモと質疑を繰り返しながら、与えられる情報を自分のものにしていく。 「……天気の変わり方というものは、土地によって異なるものだ。たとえば、この辺りでは西風が吹けば冬がくると言われているが、リュウイン北部のマヨル山脈では北風に雪が飛ばされてくれば冬がくると言われている。マヨル山脈は、そなたの出生地だったな」  老人は目を細めた。 「はい」  リュートはうなずいた。 「母は崖から落ち、谷底の村人に助けられ、厩で私を生んだのです」  厩がいちばん安全だったからだ。乗馬にもっとも近いところだったから。 「しかし、育ちはロックルールの郊外です。マヨルの言い伝えは存じません」  老人はうなずいた。 「王都ロックルールはリュウイン王国の北東部に位置しておる。北はウルサとの国境のマヨル山脈まで馬で二日の距離がある。東はパーヴとの国境のエスクデールまで半日の距離だ。北には大国ウルサが構え、東にはパーヴが隣り合っておる。戦争には向かぬが、文化の交流には適した街だ」 「しかし、国境には兵士がおります。人の出入りには厳しく、交流の妨げになるのでは。権力者が望まぬものは何ひとつ出入りできますまい。物も人も」  つい、リュートは我が身に振り替えて考えた。  老人は笑った。 「ではいっそ、西へ出て、南回りでパーヴに出るがよい」 「西に? しかし、西は未開の森が行く手を遮っております」 「うむ。西には未開拓の森林が広がり、南には密林が広がっておるな。道はなく、人は立ち入らぬ。兵士も同じことよ。ならば、誰にも妨げられず、ぐるりと国を迂回して、東の隣国パーヴに入ることができるわ」  リュートは目をみはった。未踏の地を迂回するなどという発想は聞いたことがなかった。 「なにも、それほど驚くことではない。東の隣国パーヴは、リュウインより南に長い。なぜだかわかるか? 密林を開拓したのだ。それだけの話よ。よいか、我々の知っている場所だけが人間の生きる土地ではないのだ。国がなくとも、人は生きられる。パーヴの北東にはな、ファイアウォーという街がある。どの国にも属さぬ商人の街よ。ここにはあらゆる土地から人や物が集まってくる。リュウイン、パーヴ、ウルサ、イリーン、さらに東の果ての沿岸地帯……」  老人の目が夢見るように輝き、吐息が漏れた。 「博士どのは、まるで見てきたかのような言われ方をする」  リュートが小さく笑みを浮かべると、 「わしはこの目で見たのだよ」  老人はにっこりと笑みを浮かべた。 「昔、パーヴにおった頃、気球に乗ったのだ」  気球。聞き慣れない言葉だが、リュートは知っていた。 「気象観測のため、上空に浮き上がる乗り物ですね」 「そう、まこと、気象観測のためだった。しかし風に流されてしまっての、思わぬ長旅をする羽目になったのだ。わしは海を見てしまった」 「海? 海とは?」 「東の外れに大きな山脈があっての、越えると海が見えるのだ。海とは大きな水の塊よ。水が地平線を作っているのだ。見渡す限り、先はすべて水なのだ」 「水の塊? 湖のようなものですか?」 「いや、比べようもなく大きい。水は塩辛く、常に波立っており、その波も大きいのだ。魚や貝も大きい。わしの気球は流されて大山脈を越えてしまった。戻ることも叶わず、仕方なく着陸したが、そこには海の民が住んでおった。半年後にようやく風向きが変わり、わしはパーヴへ帰ることができた。  ああ、今でもあの光景は忘れられぬ。地平の先まで海が広がり、空と溶け合うのだ。見渡す限り、青一色となるのだ」  この老人は、確かに気球に乗ったのだ。パーヴで昔作られたと母から聞いた覚えがある。莫大な建造費用を要したため、国から援助があったという。この老人こそが、その主人公ではないのか。 「もしや、博士どのはパーヴの貴族だったのではありませんか」  リュートは訊ねた。高度な教育や研究の資金面を考えると、そう考えるのが妥当だった。  老人は力なく首を振った。 「わしは田舎暮らしの貧しい老人よ。わしが持つものは過去ばかりだ。しかし、そなたは違う。長い未来が待ち受けておる」 「私には闇の迷路に思われます」  リュートは皮肉な笑みを片頬に浮かべた。  老人はうなずいた。 「それは、灯りの灯し方も、道の進み方も、まだ知らぬからだ。わしの知る限りを教えよう。多少とも知恵がつけば、迷路もまた楽しかろうよ」 「楽しいことなど有り得ましょうか?」 「道連れができるかも知れぬ。ひとりではつらい道のりも、連れ立てば楽しかろうよ。経験が積み重なれば、変化を楽しめるようになるかも知れぬ。こんな年寄りの言うことなど、信じられぬかな?」  老人はいたずらっぽく笑った。 「そなたにも、いつかは友や連れ合いができよう。そなたの心を射止めるのはどんな男かの。目の黒いうちにひとめ見たいものだ。いやいや、見ずとも目に浮かぶようだ。きっと、そなたのように働き者で、気だてのやさしい男に違いない」  リュートは違うことを考えていた。 「老いるということは、人生の高みに上りつめるということではありませんか? 過去に徳を積みあげ、経験と知恵とを身につけ、後裔たちに実績のすべてを譲り授けるということではありませんか?」 「何を怒っておる?」  老人は微笑みを浮かべて少女の顔をのぞきこんだ。  少女は無表情で、声も静かだった。 「医師どのも村長どのも親御を粗末にしすぎます。親御あっての現在でしょうに」 「すべての親がそなたの母君のようであるとは限るまいぞ。親が却って子の重荷になることもある。親としての責務を果たさず、子に犠牲を強い、好き勝手をしてきた結果だ」 「博士どのは違います」 「いいや、わしこそが、そのよい例だ。わしは親である資格がない人間なのだよ」  リュートは口をつぐんだ。胸の中に晴れないもやがある。喉元にこみ上げてくる。この気持ちを、どう言葉に紡いだらよいのだろう? 「私は思います。医師どのは王都ロックルールへ行かれました。もし、博士どのが、医師どのの将来など考えず、ただ手元で稼がせようと思ったなら、王都などには行かせなかった。それひとつとっても感謝すべきだと……」 「息子の将来を考えたのは、死んだ妻のほうよ。毎日の糧を稼ぎ、材木屋との縁談をまとめることで学費を得たのも、すべて妻がひとりで為したこと。わしは家族を顧みなかった。空ばかり追っておったのだ。恨むなというほうがムリというものよ」 「しかし、今は暮らし向きを陰で助けておられます。過去をそうして悔いてもおられるではありませんか」  老人は小さくため息をついた。 「黒猫よ。仔猫たちの妹分よ。そなたはやさしい。親子には、もはやどうしようもない確執というものが生じることがあるのだ。人は、いくつもの欲望を抱いて生きておる。時には義務も責務も投げ捨てて心の赴くままに生きることもある。為すべきことを為して生きるというのは、言うは易くともなかなか実現し得ないものなのだ」 「私にはわかりません。為すべきことを為すのは、ごく自然なことではないのですか?」 「無垢なる心にはた易くとも、惑った心には難しいものだ。いや、そもそも為すべきことを為すのは当然のようでいて難しい。そなたはよくやっておる。だが、覚えておくがよい。いつか選ぶ時がくる、為すべきことか、心が求めることかを。よくよく考えることだ、己にとって何が大事か。失ってからでは遅いのだからの」  リュートにはよくわからなかった。気象学を究め、未踏の地から生還し、老後は経験と知識とを村人のために役立て、どうして後悔などあるのだろう。これほど偉大で賢明な老人が。ユキにしても、なぜ親を憎まねばならないのか。教育を受け、思い通りにさせてもらっているではないか。少なくとも、自由に生きることを妨げられてはいない。いったい何が不満だというのか。 「無駄話が過ぎたの。もう時間だ、寝なさい。夜更かしは体に毒だ」  老人に促されてリュートは席を立った。  離れを出て、母屋の北東の部屋に入る。リュートに割り当てられた小さな部屋に暖房はなかった。  ベッドに腰掛け、傍らの小さなテーブルから仕掛かり中の刺繍を取る。ランプの小さな灯りは心もとなげに手元を照らした。濃淡のある緑の葉と、白やピンクや紫の小さなヘザーベルが布を彩る。華麗さには欠けるものの、素朴な美しさがあった。  リュートはせっせと針を運んだ。子どもの頃から見慣れた風景だ。住まいの外は一面のヒース野原で、夏になれば真っ白い花が視界を埋め尽くした。ピンクや紫の花は、いとこたちと遊んだ野で見たものだ。幸福だった日々が、一枚の布を埋めていく気がした。  刺繍が完成すれば、シズカが売ってくれる。その金の半分は家計に入り、残りはリュートの小遣いになる。  博士どのに、気持ちばかりの小さな品物を買おう。  リュートは思った。  その次は、奥方どのや医師どのに。材木屋の三代目どのにも、そのうち礼ができたらいい。  決めたところまで縫うと、リュートは灯りを消してベッドに潜りこんだ。たちまちまどろむ。  明日も仕事が待っている。だが、寝首を掻かれる心配はない。ここは王都より遠く離れた辺境の地。眠ってもよいのだ。  長い睫毛が下がり、眠りの海に沈んだ。    四 狭き巣  空は高く澄み、遙かに青く長い山並みがくっきりと望めた。冷たく乾いた風が西から吹きつける。  村外れの小さな家の裏手で、幼い子どもが薪を積んでいた。小さな両手が危なげに薪をはさみ、たどたどしい歩みで山まで運んだ。重そうな尻を突きだして積み重ねる。三、四本積んだところで、前のめりに倒れた。山は音を立てて崩れ、子どもは口をへの字に曲げ、うなった。 「デュール。ならぬ」  子どもは宙に浮いた。細いが力強い腕に抱き上げられ、その胸にしがみつく。やわらかなふくらみが、頬を包む。 「リュー。リュー」  たちまち機嫌を直してはしゃいだ。 「奥方どの、ご子息が薪割り場におったぞ」  子どもを抱いた少女は勝手口をくぐった。長い黒髪が揺れ、母親の腕に子どもを預ける。 「まんま、まんま」  子どもがはしゃいで母親の暗褐色の髪をつかんだ。 「デュール、痛いったら。離しなさい、デュール! めっ!」  子どもそっくりの暗褐色の目が見開く。子どもが泣きだす。 「もう! ホントに手がかかるったら! お昼までおとなしく眠っててちょうだい!」 「用事を済ませてくる」  黒髪の少女は家を出た。愛馬を呼び、軽やかに飛び乗る。  二年の月日が流れていた。背はシズカを越え、まだまだ伸びそうな勢いだった。肩は細く痩せていたが、体は幾分丸みを帯びてきた。まなざしは憂いを含み、異国的な顔立ちを際だたせた。  葦毛は萌黄色に染まった道をよく駆けた。雪解けてまもなく、草丈は短い。難儀することもなく、四半ニクルで村にたどり着いた。  村の中心には井戸がある。隣接する四阿は洗濯場になっており、女たちがかしましく仕事に精を出していた。少し外れたところに、馬用の水飲み場がある。リュートは馬から下り、水を飲ませた。 「こんにちは、名医さまンとこの若さま」  洗濯物入りの桶を頭に担ぎながら、村女がおどけて挨拶していった。リュートは軽く目で応えた。  シズカの遣いでラノックの街に行くのは日課のようなものだった。頼まれ物はたいしたものではなく、赤い三角の飴玉だったり、息子のための玩具だったり、珍しい色の刺繍糸だったりした。実家に頼めば取引のついでに買ってもらえる物だが、ユキが実家との接触を嫌ったし、なぜだかシズカ自身がリュートを遣いに出したがるのだった。  子息に悪影響だと遠ざけておられるのか? それとも、何か理由があるのだろうか?  リュートにはわからない。ただ、このまま何事もなければよいと思った。 「勝負しろ!」  黒い影が目前に落ちた。  半ばおとなになりかけのガタイの大きな少年が、太い棍棒を構えて立っていた。秀でた額に大きな鼻。村長の跡継ぎ息子トビである。この二年で体は縦にも横にも伸び、丸い腹にはすっぽりリュートがひとりおさまるほどだった。袖をまくりあげた腕は柔らかな肉で覆われ、棍棒を振り回すと筋肉の不足が露呈した。腰も落ち着きがなく、下半身が弱いことも見てとれた。運動不足、筋力不足にも関わらず、トビは強気だった。 「勝負しろ、女ぁ。オレが怖いのか、毎度毎度逃げやがって」  逃げざるを得ない。下手にケガでもさせれば村長が騒ぎたてるだろう。ミヤシロ家に迷惑をかける。  リュートをトビの攻撃を避け、葦毛が水飲みを終えるや否や、軽やかに愛馬に跳び乗った。  愛馬は賢かった。トビをかわして道を走り始めた。  道は東にのびていた。いつかリュートがユキに拾われたのも、この途上でのことである。街まで葦毛の足で二ニクル。朝ミヤシロ家を出ると、昼頃村に戻れるが、普通の馬や馬車ならば丸一日潰れてしまう。  リュートは街まで疾走を楽しんだ。葦毛は冬の間雪道をこぎ、力をつけていた。だが、瞬発力や疾走のための筋力は、また別物だった。鍛錬が必要だ。怠けた馬は、錆びた剣に等しい。  馬上で、リュートは剣を振った。地上と馬上の剣は異なる。腕の低下は死を意味する。相手があの男なら、なおさら。まだ追って来るだろうか? リュートは近頃疑問に感じていた。  逃亡から二年余りが経つ。母娘は死んだと安堵しているのではないか?  もし、このままここで暮らしていけたら。博士の下で教えを請い、葦毛と共に平穏に暮らしていけたら。  博士を思うと、胸の中が温かくなる。母に似た安らぎを感じる。  馬と剣と物思いに彩られた道中はあっという間だった。  ラノックの街にたどり着くと、外側を囲む城壁に足場が組まれ、上半身をあらわにしたたくましい男たちがレンガを積み上げていた。  以前は朽ちるままに放置されていたが、最近になって修復されているのだ。  城門に番兵が立っていた。番兵とは言っても、町人たちが自治体を組織し、交替で訪問者を誰何しているのであって、本物の兵隊ではない。 「何の用だ? 武器は?」  四人の番兵が槍を掲げて訊ねるが、厳しさはない。リュートは毎日のように出入りする馴染みであり、ひとりで遣いに来た少女が彼らの敵であろうはずがない。すんなりと門をくぐり、街のにぎわいの中に身を置いて、目的の市場まで馬を進めるのは気分がいい。  何者でもないことも、時にはいいものだな。  大通りは活気に満ち、籠を頭に載せた女がせわしくなく歩き、山のように荷物を積み上げた荷車を引いた男が人々を押しのけている。その向こう、道の端で、細い路地裏から派手な身なりの女が顔を突きだし、目星をつけた男に声をかけている。男は女と指を付き合わせて交渉し、やがて路地裏に消えた。城壁近くの裏路地は街娼のたまり場で、男装の少女には未知の世界だった。胴元が娼婦を抱えこみ、客をとらせては懐を肥やしていると聞く。女たちの暮らし向きは貧しく不衛生で、しばしば逃亡者が出るという。すると、胴元に雇われた追っ手が女を追うのだ。たとえば……。  葦毛の前に、顔をひきつらせた若い女が飛びだしてきた。リュートは手綱を引いて馬を止めた。女は目を血走らせ、右に左に顔を振り、逃げ道を必死に探していた。男が四人、人ごみを乱暴にかきわけ、三方から迫りくる。唯一の逃げ道は葦毛が塞ぐ恰好になっていた。女は喘ぐように空を見上げ、編み癖のついた褐色の髪が翼のように広がった。丸い濃褐色の瞳が馬上の黒曜石の瞳を捉え、荒れた大きな唇が開いたが、言葉にはならなかった。 「ああ!」  喉の奥から発せられた声は、絶望とも嘆願ともとれた。 「ああ!」 「世話を焼かせやがって!」  皮鎧を身につけた男が女の前に立ちふさがった。腰に揺れる細剣の柄は錆びつき、描かれた紋章を茶色に染めていた。 「かわいがってやるっつってんだろ! 逃げんなよ」 「せいぜい楽しませろよ」  四人の追っ手が人ごみの中から次々に姿を現し、面倒事を嫌ったのか、通りにはリュートたちを迂回するような流れができた。追っ手は女の腕をつかんだ。赤紫に染まった手がもがき、暴れた拍子に葦毛の馬体にぶつかった。葦毛が高くいななき、威嚇のうなり声をあげた。長い尻尾が激しく振られ、追っ手たちを鞭のように打った。 「なんだぁ、この馬ぁ!」 「お前も一緒にかわいがってやろうかぁ!」  男たちが馬上の少女を睨みつける。ひとりは剣を抜いた。 「兵が葡萄摘みの娘御に何用だ?」  リュートは威厳をこめて問うた。 「大の男が寄ってたかって娘ひとりを追いかけ回すとは見苦しい。家に帰り、剣の手入れでもしておれ」  男たちは怒声を発した。次々に剣を抜き、錆まじりの刃先をリュートに向けた。  リュートは面倒げに、鞘を払いもせずに剣を振った。錆びた剣は空を切り、それぞれの持ち主の足下に落ちた。男たちは右手を押さえ、恥も外聞もなく、うなり、悲鳴をあげていた。 「兵隊に逆らって無事でいられると思うなよ!」  剣を拾い、捨てぜりふを残して人ごみに紛れていく。いつのまにか、女もいなくなっていた。 「お見事、お見事」  乾いた拍手を響かせて、黒いフード付きマントをかぶった男が現れた。 「いたいけな婦女子を暴漢から守る! 今時泣かせる話じゃござんせんか。しかし、相手が悪かった! 知らなかったとはいえ、兵隊を敵に回しちゃ……」 「知っておる」  リュートは鞘を腰に戻した。 「勇敢な娘さん、知っててムチャはいけませんよ。あいつらはそんじょそこらの傭兵じゃないんですから。国の兵隊ですよ?」  リュートは動じない。 「知ってたんですか?」 「支給品の剣だ」 「そこまでわかってて!」  マントの男は大げさにため息をついた。 「柄に王家の紋章が入った、あの支給品の剣を見分けていながら、どうしてケンカなんか売るんです? 正気の沙汰とは思えませんね! 国の兵隊ときたら! 徒党を組んで威張りくさって、今や、やりたい放題じゃないですか! たかが娼婦ひとり助けるために、なにも自分から貧乏クジ引かなくたって!」 「娼婦ではない。葡萄摘みの娘だ」 「どっちだって同じですよ!」 「同じではない。指が葡萄の汁で染まっておった」 「だから、なんです? 礼のひとつでもありましたか? ああ、やだやだ。この世は正義や善人が貧乏クジ引く定めなんですかね!」  葦毛が歩きだす。  国から支給された、兵隊には命にも等しいはずの剣が錆びていた。軍はどういう教育をしているのか? そもそも国を守るべき兵が、無防備な娘に乱暴を働くとは何事か? 兵士としての誇りは捨てたのか?  リュートは憂鬱になった。 「娘さん、どこまでお行きなさるんで?」  人ごみをかきわけて、黒いマントの男が追ってきた。 「あまりうろうろしないほうがいいですよ。さっきの兵隊たちが黙って引き下がるとは思えませんからね。きっと、仲間を集めて戻ってきますよ」  リュートは無視して市場へと馬を進める。 「いくら娘さんが勇敢でも、多勢に無勢じゃ危ない危ない。痛い目見た上、とっ捕まって娼館に売り飛ばされちまいますよ。それでなくとも美人でそんな恰好してりゃ、目をつけられないわけありませんがね。悪いことは言いませんから、まっすぐ家に帰って戸と窓にカギをかけてお隠れなさい」  葦毛は足を速めたが、なお男は追ってくる。 「ご自宅までお送りしますよ。娘ひとりさんだけじゃ心配ですからね。なに、あたしは怪しいモンじゃありませんよ。ただね、娘さんは世間をよくご存じないようですし、あたしとしても心清い正義感あふれる娘さんがもめ事に巻きこまれるのを、指くわえて眺めてたとあっちゃ、寝覚めがよくないですからね。で、ご自宅はどちらです?」  リュートは答えない。 「さぞかし立派なご邸宅なんでしょうね! いやいや、娘さんを拝見すれば、おのずとわかります。なんといっても、気品があふれていますからね! いや、まこと、気品があふれ、加えてその美貌! お母君もさぞかしお美しいんでしょうね! お殿さまも幸せ者だ! いやいや、お殿さまというのは、娘さんのお父君のことですよ」  なぜ金持ち扱いするのだろう?  リュートは首をひねった。  金目のものは、母の形見の剣だけだが、それは鞍の下に隠してある。見る者が見れば、腰に佩いた剣のほうの値打ちもわかろうが、そちらも抜いて刃を見せたわけではない。  男は市場の中までついてきた。馬から下り、リュートが頼まれたリンゴ飴を買おうとすると、 「あたしなら、もっとマケさせてやりますよ」  頼まれもしないのに、横からしゃしゃり出て、わずかばかりのリンゴ飴を買いたたいた。売り手の言い値の一割にまで値引きさせ、得意そうにふり返る。 「どうです? 買い物っていうのは、こうやるもんです」  しかし、リュートは相場に色をつけて支払った。 「なにやってんです! あー、もう、これだから世間知らずの金持ちは!」 「借りを作るのは好かぬ」  冷たく言い放つと葦毛に飛び乗った。手綱を引き、器用に人ごみを素早く抜ける。 「あ、ちょっと!」  男の声はたちまち後方に消えた。  リュートは城壁へ向かった。昼過ぎには村のご婦人を慰めているユキと合流し、往診を手伝わねばならない。つまらぬことにかまけている時間はないのだ。  しかし、敵のほうはそうは思わなかったようである。 「いたぞ! あいつだ!」  威勢のいい下卑た声が人ごみの中から飛んだ。  リュートが声の主を見やると、先ほど痛い目に合わされたはずの兵士だった。  道行く群衆の中で悲鳴があがる。肩や腕の筋肉をこれみよがしに露わにした大柄な男たちが、女子どもや老人たちを押しのけ、リュートめがけ向かってくる。鞘から放たれた刃には、赤錆や血糊がこびりついていた。  リュートは眉根を寄せた。  興醒めな……。  懐に差し入れた手が、何かをつかんでふくらんだ。引き出しなに、しなやかな指がしなり、赤子のこぶしほどの赤い玉が過たず巨漢たちの眉間を打った。  しなびた塩漬けのように崩れ折れる強者たちを目の当たりにして、自称兵隊たちはあっけにとられて、ただその場に立ちつくすばかりだった。 「兵は民を守るものよ」  馬上から低い声が降り、兵隊も、雑踏の老いも若きも、声の主を見上げた。声は凛と喧噪の中を響き渡った。 「その守るべき民に手を挙げるとは、道理にかなわぬ。下賜された剣が泣こうぞ」  葦毛は悠然と歩を進めた。威を借る馬……と言っては葦毛に礼を失するだろう。しかし、この名馬が乗せているのは威に満ちた獅子だった。いや。伝説に歌われる黒龍である。鞍上からは、何者も無視し得ない威厳が放たれていた。  兵はもはや妨げず、人波は葦毛の前でふたつに割れ、リュートは易々と街を抜けた。  街道に出ると、遅れた分をとり戻すべく、葦毛は一目散に駆けた。乗り手のほうは、懐に手をやり、苦笑した。リンゴ飴の数が減っていた。  村にもどると、葦毛に水をやりながら、リュートはリンゴ飴の数をしきりに気にしていた。  自分の悪い癖だ、と省みる。  後先のことを考えずに行動してしまった。一度市へもどって、飴を買い足すべきだったのだ。いや、そもそも食物を投げるのはよくない。躾の是非を問われ、母や博士たちが非難されては申しわけがない。 「名医さまンとこの若さま」  目をあげると、洗濯女が立っていた。材木屋の使用人で、名をヒキという。洗濯の途中なのだろう、袖をたくし上げ、真っ赤に染まった腕が露わになっていた。 「若旦那さまがお呼びでしたよ。名医さまンとこはいいから、すぐにお屋敷にいらしてください」 「三代目どのが? 何用だ?」 「知りませんよ。ただ、あたしは若さまが戻ってきたら呼ぶようにって言われただけですから」  街の往復にリュートが村の水飲み場に必ず寄ることは、誰でも知っている。 「ぐずぐずしないで、早く行ってくださいよ。でないと面倒になります、今、村長ンとこのツチが跡継ぎ息子を呼びに行きましたから。すぐに来ますよ……あのバカ息子」  最後は声をひそめる。 「まったく、一日二回は若さまにからまなきゃ気が済まないんだから。しつこいったらありゃしない!」  リュートは水やりを打ち切り、葦毛に飛び乗った。  材木屋の門は開いていた。中には立派な四頭立ての馬車が停まっていた。  貴族のものだな、とリュートは馬車を眺めながら思った。爵位のない下級貴族のものだろう。  乗客が乗る箱の部分は贅沢なことに黒檀の板で覆われており、美しい貝殻の飾りがふんだんにはめこまれている。巨額の富がつぎこまれているにも関わらず、金銀の類がまったく見あたらないのは、下級貴族の証拠である。身分が許さないのだ。  厩の前では見慣れない馬が八頭、ゆっくりと飼い葉を食んでいる。箱馬車の引き馬と換え馬だろう。換え馬まで用意するとは、よほど遠方からの客に違いない。  葦毛から降り、玄関の呼び鈴を鳴らすと立派な体躯の使用人が出てきた。 「若旦那さまがお待ちかねだ。すぐに裏に行って支度しろ。コズエが用意して待ってる」  コズエは年のいった使用人で、二代目の頃からずっと家内の仕事を受け持っていた。 「ひどい顔だねえ! 土埃で真っ黒でねえの。きちんと拭きな」  裏の小部屋に通されると、まず濡れた手ぬぐいを手渡された。 「偉い人が来てんだからね、それなりの身なりしねえとな。ほら、その汚い服も脱いだ脱いだ」  リュートは数歩退いた。 「着替える理由がわからぬ」 「若旦那さまに偉いお客が来てんだよ。まともな服着せて部屋に通せって言われてんだ。そげな服着たまんま行ったら、お客が目ん玉まんまるにしてひっくり返っちまうわ」 「客が私に何用だ」 「知るわけあんめぇ。オレは若旦那さまの言いつけ通りにしてるだけだ。ほら、さっさと着替えた着替えた」  用意されていたのは、若い娘らしい、しかも上等なドレスだった。 「若奥さまの若い頃の服だってよ。汚さねえようにしろよ。そのうちきっと、お嬢ちゃまたちが仕立て直して着なさるんだから」  コズエは馴れた手つきで手早く身なりを整えた。柔らかい帯布で腰を締め、長い黒髪を背中でひとつに編み、帯布と共布の大きなリボンをつけた。 「若旦那さまの、都にいた頃のお友だちだって言うから、粗相がねえようにな。都の人は気取ってっから、特に気ぃつけんだぞ」  都? 脳裏に追っ手のことが過ぎる。  いや、まさか。  手が剣へと伸びた。 「物騒なもん、持ってくんでねえぞ」  コズエの抗議をよそに、リュートはドレスのふくらみの中に剣を押しこんだ。  ようやく支度が整い、客間へ通される。ここへ来るのは初めてだった。 「若旦那さま、名医さまンとこの若さまが来ました」  コズエの後から客間に入ると、暖炉の前のソファでヒナタと客人が談笑していた。客は男女のふたり連れで、ヒナタより一〇か一五ほど年上に見えた。身なりは、付近の村や街で見かけるものとは明らかに違っていた。男はたっぷりしたリンネルのシャツを着ており、フリルがムダに多くついていた。ズボンは腰から腿にかけて大きくふくらみ、膝から下がピッタリと脚に吸いついていた。女のほうはといえば、髪もドレスも大きくふくれあがり、きらびやかな宝飾品を一面ふんだんに散りばめている。さながら歩く宝飾店だ。これが最近の都の流行とみえる。 「まあまあ、おかわいらしいこと!」  最初に声を出したのは女のほうだった。 「こちらへいらっしゃい。お顔をよく見せて」  ヒナタのほうは何度もまばたきを繰り返していた。 「リュート……だよな?」  得心がいかない面もちである。 「何用か? さっさと済ませて帰りたいのだが」  愛想もへったくれもない口調に、ようやくヒナタは我に返って手招きをした。 「こっちへおいで。紹介するから」  客はコズエの言う通り、ヒナタの都時代の友人夫妻だった。名を、メントル家のトレゾとリステルという。 「リュート、ご挨拶しなさい」  ヒナタに促され、リュートはスカートの裾を軽くつまんで足を引き、軽く体を上下させた。 「ほう。こんなところで貴族式の礼儀を知っている子に会えるとはな」  トレゾが感心したように顎に手を当てた。  ヒナタは苦笑した。 「意外な芸があったな。おまえは不思議な子だ」 「こうして近くで見ると、本当にきれいな子ね。異国風の顔立ちだわ」  リステルがリュートの顔をまじまじと眺める。 「こんなきれいな女の子が、あのユキの養女とはな。もう、とうに手をつけられて、嫁さんになるのを待つだけだろう」  トレゾは笑った。 「いや、シズカが目を光らせてるからだいじょうぶさ。オレだって許すものか。この子には、しかるべき嫁ぎ先を探してやろうと思ってるのさ」  ヒナタはソファの背にもたれ、気楽に話す。  リュートはこんな話を聞くのは初めてだったが、素知らぬふりをしていた。 「この子は変わった子でね、いつもは男の身なりをして馬に乗ってるんだ。剣まで腰にさげてね。ケンカも強くて、自分よりふた回りり以上も大きい村長の息子を片手でひねるんだぜ。そのクセ賢くて、我が家の所蔵本をほとんど読破するわ、ユキの後について往診はするわ、おまけに働き者ときてる!」 「よくわかったよ、君がこの子をひどく気に入ってるっていうのはね」  トレゾが笑ってさえぎった。 「でも、妻がこの子を気に入るかは別だよ。遊びに連れていかれたら、いきなり川で魚獲り……なんてのはナシだよ?」 「それはないよ。ただのお転婆じゃないからね。将来は、うちのチビどもの家庭教師にしようと思ってるくらいだから」  これも初耳である。  ヒナタには六歳から二歳までの娘が五人いる。勉学に向いていればじゅうぶんな教育を受けさせたいと口にしているのは聞いていた。だが、自分には関わりないことだと聞き流していたのだ。 「田舎にはもううんざりよ。早く都に帰りたいわ。ヒナタ、あなたは田舎育ちだから馴れっこでしょうけど、私は都育ちでしょう? たまらないわ。田舎の人って、どうしてこうノロマで頭が悪いんでしょう! ああ、あなたは別よ、ヒナタ。でも、もうたくさん! この一年で田舎臭さがしみついてないか心配だわ。それに、都の流行にすっかり遅れてしまったわ。帰ったら急いでお友だちに聞いて、新しい服を作らなくっちゃ」  リステルは大きな頭を憂鬱そうに振る。  ヒナタは笑った。 「たった一年で? 昔、私が都にいた頃は、あなたはもっと質素な暮らしをしてたんじゃないかね? 頭だってドレスだって、そんなにムダにふくらんじゃいなかったのに」 「時代は変わったの!」  リステルは憤然と言い返した。 「今の王妃さまは流行を生み出す天才なんだから。今日はルビーが流行ったかと思えば明日はサファイヤが流行るかもしれないのよ。ぼんやりして遅れちゃたまらないわ」 「まったく出費がかさんでたまらないよ」  トレゾがこぼした。 「あなたって人は! 私が他の貴婦人方に笑われてもいいって言うんですか!」 「まあまあ」  ヒナタが間に割って入った。 「リステルにはもちろん美しく着飾っていて欲しいけど、王妃さまには多少自重してほしいよ。税金の取り立てが厳しくてね」 「君もか」  トレゾがため息をついた。 「私もそうだよ。だから、この一年、田舎暮らしに甘んじたんだ。皆が厭がる田舎周りを引き受ければ昇給されるんでね」 「王妃さまは宰相のひとり娘だろ? 国庫でなく、ご実家の財産で贅沢してくれないかなあ」 「まあ! あんなにおきれいな王妃さまに向かって!」  ため息の男ふたり向かってリステルは息巻いた。 「きれいって、ご本人を見たことがあるのかい?」 「なんておそれ多いこと! 肖像画よ。都中にたくさん飾ってあるじゃないの」  トレゾが手で口元を覆い、ヒナタにささやいた。 「王妃さまには、お抱えの画家というのが何十人もいるって話だぜ? まったく少しは国庫のことも考えてもらいたいな」  ヒナタは顔を輝かせた。 「悪い話じゃないじゃないか。国が画家の後ろ盾になれば芸術の、ひいては文化の発展につながる!」  トレゾは力なく首を振った。 「画家という画家がすべて王妃さまの肖像を描いてもかい? 王妃さまはね、ご自分の見目麗しいお姿をいっそう美しく描かせてだね、都中、人の集まるところならどこにでも、ご自分の絵姿を飾らせてるんだよ。これのどこが芸術の振興に結びつくんだね?」 「で、実物は本当に麗しいのか?」 「君、君、下級貴族の私に、お目通りできる機会なんかあると思うかね?」  ふたりは小さく笑った。  リステルは無礼者のふたりを遮るように、大声でリュートに話しかけた。 「ところで、あなたいくつ?」 「一二」  リュートが短く答えると、メントル夫妻の驚愕の声が響いた。 「一七くらいかと思ってたわ」 「まだ成人もしてないのか」  ヒナタが得意そうに笑みをたたえた。 「おとなびてるだろう。それに、この年で我が家の蔵書を読破するんだからな、頭のほうも推して知るべしだ」  そこへ使用人が食事の用意ができたことを知らせに来た。三人は立ち上がる。 「リュート、おまえもおいで」  退室する心づもりでいたリュートにヒナタは呼びかけた。 「ご夫妻は今日から一シクル我が家に滞在される。おまえはうちに寝泊まりして、ずっとお相手してさしあげなさい。この村では、私をのぞけば、おまえが一番教養があるのだからね」 「楽しませてちょうだいね。田舎娘には飽き飽きなんだから」  リステルが悪のりするように笑った。  食堂に入ると、まず目に飛びこんできたのが、巨大な円卓である。床には臙脂色の絨毯が敷かれ、暖炉の上には数多の盾が並べられていた。壁には、左右に二枚ずつ絵が掛けられ、その下には子どもの落書きの痕がうっすらと、しかし無数に浮かんでいた。  絵は、肖像画が二枚、風景画が二枚で、後者はこの村を描いたものだろう、見覚えのある風景が水彩で描かれていた。肖像画のほうは男が一枚、家族が一枚、それぞれまったく異なるタッチで描かれている。  男の肖像画は、ひとめで材木屋の二代目、シズカとヒナタの父の男盛りの頃を描いたものとわかる。眉根を寄せ、意固地そうにこちらを睨みつけている。高い頬骨と浅黒い肌がたくましさを語り、組まれた腕や袖からのぞく指が荒々しさを見せつけていた。彼は骨の髄まで山の男だった。  家族の肖像のほうは、おそらく、何かの模写だろう。それぞれの顔には目鼻立ちを示す線が粗末に入り、モデルとは似ても似つかないものに仕上がっていた。が、何を描こうとしたのかは、その豪奢な衣装、小道具、わずかに残る雰囲気から一目瞭然である。  やや右寄りに配置されたソファの右端には、明るい栗色の巻き毛の男が、貂の毛皮で縁取られた暗いレンガ色のマントを大きく広げ、大きな大理石の玉のついた王杖をこれ見よがしに突きだしている。その左には、巨大な金髪を頭上に抱えた女が、さらに巨大にふくらんだドレスを着て座っていた。リボンや宝玉が、一分のスキもないほどに、ドレスや髪を覆い、埋め尽くしている。女は扇を持っているが、顔を隠すためではない。指にきらめく大粒の宝玉を見せびらかすためである。さらに左隣に、女をそっくり小さくしたような子どもが座り、足下には暗い褐色の髪の幼女が、拗ねたように人形を抱えて座りこんでいる。  ソファの後ろには、赤い革のベストを来た男が、顎を突きだし、口ひげをひねり、こちらを見下ろすように立っている。左頬には、くっきりと、刀傷が描かれていた。 「さっそく飾ってくれたのね」  リステルはうれしそうにヒナタをふり返った。ヒナタのほうは苦笑を浮かべている。 「なあ、リュート、この絵をどう思う?」 「三代目どのは、気に入られぬとみえる」 「オレのことじゃあない。リュートはどうなんだ?」 「世辞は言えぬ」  トレゾが笑った。 「私たちの機嫌を気にしているのかい? なに、子どもがちょっとけなしたぐらいで腹を立てる私たちではないよ。誓って、君をぶったりしないから」  ヒナタはうなずいた。 「リュートがけなしたぐらいで、オレたちの仲にヒビが入ることはないさ。いいから、いつもの審美眼を披露しておやり」  リュートは数瞬ほど目を伏せていたが、やがて目を上げ、家族の肖像画を睨んだ。 「稚拙な絵だ。絵師の魂がどこにも見あたらぬ。心よりも金銭を、質よりも量を重んじた孫模写だ。原画とは似ても似つかぬものよ。顔にいたっては、幾度となく模写を繰り返されるうち、誰かが労を惜しんだか、あるいは悪意をこめたか、目鼻が粗末な線描きになっておる。これでは肖像画とは言えまいよ。唯一の救いは構図だ。これだけは原画のままなのだろう、この絵の真の主役が誰なのか、雄弁に語っておる」 「肖像画とは言えないと言いますけどね!」  リステルが憤然と抗議した。 「あなた、モデルを見たことがあって? 知りもしないで、よくもそんなことを……」 「では、子どもの絵描き唄のような、この線画から、どのような顔立ちが目に浮かぶか教えていただきたい。これでは、秋に畑に立つ案山子と変わらぬではないか」  ヒナタとトレゾが吹きだした。 「じゃあ、どの案山子が主役なんだい? 私には、構図こそ、まるっきり狂ってるように見えるがなあ。主役が右端に追いやられてるじゃないか。きっと、これは大きな絵の一部を、下手な絵師がデタラメに切り取って描き写したに違いないよ」  トレゾの言葉にリュートは首を振る。 「いや、主役はその傀儡人形ではない。画面中央の気取った伊達男だ。その証拠に、画面の人物や置物はすべて彼を意識した配置になっておる。傀儡人形の杖は彼に向かって掲げられておるし、床の女児の人形の顔は、やはり彼に向けられている。なにより、室内のすべての影は、彼の顔を光源として描かれている。また、彼のベストの赤より鮮やかな色は、この絵では使われておらぬ。……まだ他に例が要るか?」 「傀儡とはねえ」  トレゾは頭を掻いた。 「場所が場所だったら不敬罪ものだぞ。この方をどなたと思ってるんだ?」  戸惑いながらも、怒っているわけではなさそうだった。リュートは悪びれずに答えた。 「国王だ」  トレゾとリステルが言葉を失う。 「王杖を持っておる。左は王妃と王女たち、後ろは王妃の実父、宰相だ。心配には及ばぬ。王党派の前では、このような物言いはせぬ」 「どうだい。この子は利口だろう」  ヒナタの声は得意げだった。 「絵の技術はもちろん、暗示や背景や国の事情にいたるまで精通しているんだからな」 「どうせ君の教育がよろしいからだろう」  トレゾがからかうような目で笑う。 「いや、自分で仕入れてくるのさ。この子は毎日ラノックの街まで遣いに行くんだよ。ここから並の馬で七、八ニクルはかかるところを、二ニクルで駆けてくる。この馬もなかなかの名馬でね」 「ははあ。君が買い与えたんだな」 「いいや」 「じゃあ、ユキか? だが、あれが馬なんかに金をかけるとは思えないな」  その時、使用人が酒瓶とグラスを持って入ってきた。ほっとしたように、リステルが円卓に向かう。 「さぁさ、自慢話はそれくらいにして、食事にしましょう。田舎料理は大嫌いだけど、飢えるよりはいいわ」  言葉とは裏腹に、都人はよく食べ、よく飲んだ。 「君の大好きな王妃さまも、そんなによく食べるのかね?」  途中、ヒナタはからかった。 「食べますとも!」  リステルは自信たっぷりに笑った。 「王妃さまも王さまも、丸いのがお好きなのよ。その証拠に、ご覧なさい」  国王一家の肖像をグラスで指し示す。 「王さまは大きな玉のついた杖を握ってらっしゃるし、王妃さまはお髪もお袖もお裾も、みんなまん丸でいらっしゃるわ。これがきっとご健康の秘訣ね」 「確かに病気じゃ困るな。前の王妃さまときたら、隣国から嫁がれたはいいが、病弱で何度も死産なされ、挙げ句にご自分も世を去られて、まんまと妾に王妃の座を奪われてしまったじゃないか」  トレゾが笑いながら酒を飲み干した。 「あら、ご生前でも、王さまは今の王妃さまをいたくご寵愛なさって、どこに行かれるのもご一緒だったそうよ。もともとお仲がよろしいのよ」 「それは、君、前の王妃さまのご身分のせいだろうよ。隣国の王女とはいえ、母親は賤しい身分の蛮族だそうじゃないか。さぞかし、やんごとなきご婚姻は身に余ったんだろうよ。われわれの国王だっておかわいそうだよ。そんな賤しい出の女を、政略のためとはいえ、娶らなければならなかったのだからね。しかも、年上の行き遅れだったって話じゃないか。若く美しい妾を持ちたくもなるよ」  ヒナタが大きく咳払いをした。 「君たち貴族は、何かにつけ、身分身分というが、それがそんなに大したものかね!」  トレゾが人の悪い笑みを浮かべた。 「始まったぞ、お得意の万人平等論が。いや、君は別だよ。身分がどうでも、私の大事な友人に違いない。しかし、一国の王や王妃となれば話は別だ。しかも、前の王妃は、ただの庶出じゃない。蛮族だぜ? 蛮族にこの国を治めさせていいのかい?」 「それがどうした! 年上の女だって? 艶気があって、けっこうじゃないか! 庶出なら、庶民の気持ちがわかってけっこう。病弱なら、病人や老人にやさしいお方かも知れん。大事なのは、どう治めるかで、血筋や体質でとやかく言われる筋合いはないだろう!」 「熱くなるなって」  トレゾは自らのグラスに酒をつぎ、リュートに目を留めて笑った。 「ふむ。ここにも異国の血をひく女性がひとりいるな。どうだね、リュート。女王さまや王妃さまになりたいかい?」 「トレゾ! 酔ってるぞ」 「酔ってるものか。ねえ、リュート、憧れるだろう? 女王さまや王妃さまだぜ! 毎日、旨いものを食べて、きれいなおべべを着て、みんなにちやほやされて、偉くなれるんだぜ!」  無表情だったリュートの目がやにわに細くなり、冷ややかな光を帯びた。 「偉いものか」  小さいが、怒りを帯びた声だった。一瞬で場の空気が冷えた。 「王の務めは民を治めることであろう。人に敬われることではない。ましてや、己ひとりの保身をはかった王など……」  言葉が途切れ、リュートは口をつぐんだ。 「リュート、口から血が出ているぞ」  きつく引き結んだ唇から、血が一筋垂れていた。唇を噛んだのだ。 「いや、ソースか。行儀が悪いぞ。喋るのに夢中になってないで、きちんと拭きとりなさい」  ヒナタの厳しい口調で、リュートは我に返った。震える手でナプキンをとり、口元をぬぐった。血の匂いが鼻をつく。その陰でそっと息を吐き、呼吸を整える。 「その点、三代目どのは、敬われるべきお人柄だ。道理を通し、職人の腕を重んじ、友人だろうと使用人だろうと分け隔てなく名で呼ぶ。偉いというのは三代目どののようなお人のことだろう」  震える手をテーブルの陰で握りしめ、無表情で話をついだ。  ヒナタは笑った。 「お世辞は言えないと言ったクセに。落としどころがうまいぞ」  メントル夫妻は合わせて笑ったが、曖昧でぎこちなかった。 「気にしないでくれ。この子は普段無口な分、言うことが重く聞こえてしまうんだ。本人はただの軽口のつもりだったんだから。なあ、リュート」  ヒナタの助け舟に、リュートは迷わずうなずいた。 「すまぬ。笑わせるつもりだったのだが。まだ冗談のひとつも操れぬようだ」  ようやく、メントル夫妻は落ち着きを取り戻しはじめた。 「ほんとうに、王さまが嫌いなのかと思ったわ」  ヒナタが間髪を入れずに笑いとばす。 「そんなわけないじゃないか。こんな片田舎で、やんごとなき国王陛下を拝顔する機会さえありゃしないのに」 「確かにその通りだ。理由がない。危うくいわくがあるのかと信じるところだったよ。君のお気に入りも、とんだ欠点があったもんだな」 「まったくだ。ところで、食後はどうする? 腹ごなしに散歩でもするかい?」  さりげなく、話題を転じる。 「そうだな。狩りでもしようか。王妃さまが変わってからというもの、われわれの間では狩りが大流行でね。私も子爵さまのお供を言いつかることが多くなったのさ。日々訓練に励まないとね」 「ほう、狩りかい。この辺では、そうだな、狐か狸か……。たまに猪も出るかな」 「猪か! そりゃあいい!」  トレゾが身を乗りだした。  リステルが気乗りしないように手を振った。 「私は狐のほうがいいわ。毛皮を飾れますもの」 「食べがいがあるのは、猪のほうだよ。第一、自慢になる」 「まあ、では、せいぜい楽しんでらっしゃればいいわ。私は王妃さまのように、景色のきれいなところでお茶にしてますから」 「オレたちは腹ごなしに行くんだぜ? また食べるのかい?」  ヒナタが呆れたように笑う。 「まあ! では、女性に馬に乗れとでも言うの? そんな野蛮なこと、できないわ!」 「はいはい」  ヒナタは肩をすくめた。 「男は狩りに、女はピクニックに出かけましたとさ。宮中じゃ、狩りが流行ってるんじゃなかったのかい?」 「流行ってるわよ。王妃さまがピクニックに出かけるために、狩りが流行ってるんじゃないの」  ヒナタは怪訝そうに首を振った。 「どういう意味? まるっきりつながらないよ」 「だから、王妃さまが外にお出かけになるから、狩りが流行るのよ」 「でも、王妃さまは狩りをなさらないんだろう? わからないよ」  トレゾが笑いながら間に入った。 「王さまや王妃さまは普段は王宮にいらっしゃるのさ。王妃さまがピクニックに行くには、郊外に出なきゃならない。そこで連れだって森へ出かけるわけだが、そうなれば男性諸君の血が騒ぎ、狩りと相成るわけさ」  ヒナタはようやく合点がいったようにうなずいた。 「なるほど。都から郊外に出る、という点では同じか。オレたちから見たら、まるっきり別々だけどな」 「自然が当たり前の君にとってはね。しかし、都の人間には、自然は行楽地なのさ」 「程度によりますけどね」  リステルが皮肉っぽく唇の端を上げた。 「たまに遊びに行くのはいいけど、住むのは、もう、まっぴらよ!」  一同は笑った。  食後、猟師を連れて西へ向かった。ミヤシロ家のさらに西の伐採場へ、である。 「猪は危ねぇ。狐辺りにしときなせぇ」  最初、猟師は首を縦に振らなかった。 「心配いらないよ。おまえは犬をけしかけて、獲物を私の前に追いたててくれればいい。猪の一頭や二頭、わけなく倒してみせるさ」  トレゾは自信ありげに笑った。 「冗談じゃなかったのか? 猪は案外しぶといぞ。人手だって少ないんだし」  ヒナタは心配そうにトレゾを眺めた。伐採場に猪が出没しないよう、年に数度猟師を頼んで山狩りをする。ヒナタは何度か同行したことがあるのだ。 「任せてくれたまえ! 自慢じゃないが、これまで子爵さまの御前で失敗したことは一度もない!」  高らかに笑うトレゾの陰で、リュートはヒナタの袖をそっと引いた。 「猪は控えたほうがよい。彼が討ったのは瀕死の瓜ん坊よ」 「リステルがそう言ったのか?」 「いや。貴族の狩りとはそういうものよ」  ヒナタは疑わなかった。猟師にこっそり命じた。 「狐か兎か、無難なのを追いたててくれ。猪が見つからないとでも言ってな」  猟師は即承諾した。たかが客の酔狂のために、命をつなぐ愛犬たちを傷つけたくはなかったのだ。  猟師は弓を携えてロバに引かせた荷馬車に乗り、ヒナタとトレゾは馬にまたがった。 「こりゃ、農耕馬じゃないか。もうちょっと見栄えのいいのはいなかったのかい?」  材木屋の持ち馬に乗る時、トレゾは不満を漏らした。 「山に入るには、足が太くて力がある、この馬がいいんだ。君の馬車馬など、たちまち疲れて、山道で立ち往生してしまうよ」  リステルは一頭立ての小さな軽馬車に乗った。材木屋の家族が普段使うもので、頭上に小さな幌がついていた。ふたり乗りで、リステルの左にはリュートが、御者台には馬丁のひとり娘テツが座った。テツは年の頃二〇を過ぎたばかり、ころころよく笑う陽気な娘で、馬車を操るばかりか、直に馬に跨ることもできた。馬丁の意に反して親の仕事を継ぎたがり、馬に夢中なあまり、縁談はひとつもまとまらなかった。 「あんたがあたしの車に乗るなんて初めてだね」  リステルにバカ丁寧な挨拶をしたあと、テツはリュートのわき腹を肘でこづいた。 「見ててごらん。あたしの腕前にびっくりするから」  明言した通り、伐採場までの悪路を、小さな馬車は軽やかに駆けた。石や水たまりを器用に避け、坂の上り下りでは馬の脚を機敏に操った。車の特性をよく飲みこんでいるに違いない。リュートは感心したが、リステルはそうではなかったようだ。 「お尻が痛いわ! もっと丁寧にやって!」 「これ以上遅れると、殿方から離れすぎるよ、奥さま」  馬車の騒音に負けぬ大声で、テツは言い返した。 「いいわよ! どうせ場所はわかってるんでしょ!」 「離れすぎると危険だよ! その辺から猪や狼が襲ってくるかも知れないからね!」  リステルは真っ青になった。 「早く! 早くやってちょうだい!」  テツは笑いながら馬脚を速めた。この道は材木の運搬のため、人の往来が激しい。獣は嫌い、めったに姿を見せない。  人が悪い、とリュートは思ったが、腹は立たない。陽気な御者は愉快そうに道を急ぎ、たちまち目的地にたどりついた。 「やあ。ようやくご婦人方のご到着かい」  切り株で休んでいたトレゾとヒナタが笑いかけた。 「猟師はもう獲物を探しに行ったよ。われわれはもう少し奥へ行くから、君たちはここでゆっくりしていたまえ」 「ここで?」  リステルは辺りを見回した。切り株と、長く生い茂った青い草ばかりが広がっている。 「なんだか虫が出そうで厭だわ。それに、テーブルや椅子はどこにあるの?」 「これがテーブルや椅子さ」  切り株を叩く。 「冗談じゃないわ。お茶はね、手入れの行き届いた芝生の上でと決まってるじゃないの。ああ、厭だ。これだから田舎は……」 「代わりに大物を仕留めてくるよ」  トレゾとヒナタは馬に乗った。 「いい子で待っていたまえ」  腹をひと蹴りすると、ご機嫌で走り去る。反して、残されたリステルはまったく不機嫌である。 「気のきかない人たちだこと! それより、ここは安全なんでしょうね?」 「普段はね」  テツは陽気に答えた。 「この少し先に材木置き場があるよ。そっちのほうが安全かな。でも、木こりたちが大勢働いてるから、奥さまは気に入らないかもね。なんせ、山の男は荒っぽいから」 「当然よ! 汗くさい荒くれ者と一緒になんていられますか!」  リステルは軽馬車から降りなかった。リュートのほうは音もなく座席から滑り降り、馬車の後部から荷物をほどいて、茶の仕度を始めた。鎌で手早く一帯の草を刈り、湯を沸かす。携帯燃料はよく燃えた。普段の煮炊きや風呂焚きとは比べものにならない。切り株の上にマットを敷き、茶器や茶菓子を並べる。 「あんな高飛車の言うことなんか、おとなしく聞いてることないんだよ」  テツは馬をつないでリュートのそばの切り株に腰かけた。軽馬車は馬から離され、前方に傾いでいる。そんな中で座席にいるのは苦痛だろうに、リステルは降りてこなかった。 「都会かぶれの気取った貴族なんか、適当にあしらっときゃいいんだ。どうせあたしらを犬や猫ほどにも思ってやしないんだから。どうして、あんな嫌味なヤツらが若旦那の友だちなんだかね!」  リュートはかすかに微笑んだ。 「人は見かけによらぬ」 「なに? そんなお人好しじゃ、利用されちまうよ!」 「客人たちは言動が一貫しておらぬ。腹に一物あるようだ」 「どういうことさ?」 「田舎暮らしに飽いた者が好き好んでこんな場所に出向くだろうか? 田舎の狩り場の程度など、とうに心得ておるだろうに。田舎は真っ平といいながら、その田舎になぜ一シクルも滞在する? 裏があるように思われる」 「別に不思議じゃないさ。金持ちの気まぐれってヤツだよ。あいつら忘れっぽいのさ」 「馬頭の娘どの、そなた、茶の淹れ方を心得ておるか?」 「知ってるに決まってんだろ! 薬草を切って、水にぶっこんで、静かに一、二ニクルも煮立てりゃ終わりじゃないか」 「それは薬草茶だ。私の言っておるのは薬ではなく嗜好品よ。田舎で慎ましく暮らしておる者が、この淹れ方を知るはずはない。だが、これを私に淹れよと命じられる。客人は何かを試しているのではないか……」  不意にリュートは口をつぐんだ。  身元を……正体を探られている? あれから二年も経つというのに? 母も自分も、とうに弔われているではないか。今さら……。それでも、あの男は追ってくるのか? 自分が生きている限り?  地位も財産もすべて手に入れたではないか! 我が世の春を謳歌しながらも、まだ血を欲するのか? 母の命だけではまだ足りぬ、我が命、ささやかな生き場所すら差し出せというのか?  湯が沸き、茶を淹れた。  リステルはこわごわとカップを受け取った。水色をのぞきこみ、おそるおそる口をつける。 「あら、美味しい」  ホッとしたように眉間が開く。 「でも、塩気がないわ。色も濃すぎ。こんなの、お茶とは呼べないわね」 「塩?」  リュートは首をかしげた。 「それも近頃の流行りか?」 「あなたもけっきょくは田舎娘ね」  リステルは憐れむように笑った。 「お茶といったら、昔から塩を入れるものよ。よく覚えておきなさい」  その声にまじって、遠方から不穏な音が流れてきた。  すっとリュートは目を細めた。耳に神経を集中する。  人の怒号、高くせわしい蹄の音、そして、犬の鳴き声、鳴き声、鳴き声。  リュートはスカートの裾をまくしあげた。隠し持っていた長剣をすらりと抜く。  リステルが悲鳴をあげた。 「そ、そんなものを……、どうするつもり!」  リュートは自らの服に刃をあてた。 『汚さねえようにしろよ。そのうちきっと、お嬢ちゃまたちが仕立て直して着なさるんだから』  コズエの声が甦り、裾の両脇の縫い糸だけを器用に断ち切った。 「馬頭の娘どの、客人の奥方どのを製材所へ」 「なんだい、茶を嗜むんじゃなかったのか?」  テツが退屈そうに笑う。 「一刻を争う。奥方どのを建物の中へ。私は加勢に行く」  その時、悲しげな遠吠えが空にひときわ高く響いた。テツの顔色が変わった。 「この声……」 「製材所に常駐の猟師たちにも加勢を頼んでくれ。弓も余分に、特に強弓を。弱くては役立たぬ。それからおがくずを何袋か持たせてくれ。頼むぞ」 「加勢って……。あんた、狼だよ。オオヤマネコとはわけが違うよ。群なんだから……」 「頼んだぞ」  どこに潜んでいたのか、音もなく、葦毛の愛馬が現れた。リュートはたちまち馬上の人となった。切った裾から、真白い脚が腿まであらわになった。主人が前方を睨むと、馬は意が通じたかのように駆けだした。  テツはあっけにとられて見送ったが、やがて我に返ると、馬車を材木置き場に向けた。名医を救ったオオヤマネコの顛末は聞いてはいたが、今回ばかりは無事で済むとは思えなかった。一刻も早く助けがいる、とテツは思った。向こうみずな子どもを放ってはおけなかった。  リュートはほどなく、こちらに走ってくる二騎の馬を見つけた。乗り手はなく、左右に狼を伴い、鋭い牙で四肢を傷つけられていた。  リュートは長剣を振った。狼の毛が二度、三度と舞った。剣先は血に染まったが、致命傷には至らなかった。  長さが足りぬ。  リュートは歯がみした。  弓があれば! せめて、この刃がもう少し長ければ!  鞍の下で何か固いものがリュートの腿を刺激した。  これだ。  持っていた長剣を投げ、狼一頭を地面に串刺しにした。すばやく、鞍の下から新たな長剣を抜く。並外れた大振りの長剣。母の形見の名剣。振り上げると、重みがずしりと全身を襲った。  母上!  一日たりとて忘れ得ぬ黒髪の佳人。遙けき郷の血をひくあまり、疎まれ、隣国へ輿入れさせられた悲運の黒龍。  体中に力がみなぎった。指先まで熱っぽく、体内の血液という血液が機械油のように関節という関節、筋肉という筋肉に行き渡り、動きを滑らかに化したようだった。  もはや、重みは感じなかった。青や赤の大粒の石を埋めこんだ巨大な柄は、手にぴたりと吸いついた。二、三度振るってみると、残りの四頭はすべて事切れていた。いずれも若い、成犬になったばかりの狼である。  騎手はいずこへ? 逃げ去る馬をそのままに、葦毛は奥へと駆けた。切り株野原が続き、やがて林へと入る。犬の鳴き声がこだました。反響の中、研ぎ澄まされた耳に人の怒号が届いた。  まだ、生きている。  リュートは肺いっぱいに息を吸いこんだ。 「加勢が来たぞ!」  凛と、声はよく通った。向こう側に届いていればいいが、とリュートは思った。  ほどなく、木立の中に狼の姿が見えた。犬よりも痩せ、毛並みも悪いが、野性味ある美しいフォルムである。牙を剥きだし、涎を垂らしながら、激しいうなり声をあげている。その数ざっと三、四〇頭。 「助けてくれー」  情けない声が上方から聞こえた。  狩人たちは木の枝に逃れていたのだ。植林された木の幹は細く、日陰のために枝はことさら細かった。下枝刈りの前だったのだろう、低い位置にも枝が伸びたままだったのが幸いした。  ヒナタは安全だった。山の男らしく、木登りは造作ないとみえる。さしもの狼もおとなの背丈の三倍もある高さまでは手が出せなかった。  問題は貴族のほうだった。ヒナタの伸ばした腕にすがりつき、とうに折れた枝の節に辛うじて足をかけていた。膝は震え、いつ足場から滑り落ちても不思議はなく、おまけに足下では狼どもが獲物を爪にかけようと競って飛び上がり、時々爪先が靴をかすめさえするのだった。  加勢が追いつくまでもつまい。  リュートは高く口笛を吹いた。狼たちの注目が樹上の獲物から逸れ、一斉に人馬に向いた。間髪入れず、葦毛は翻り、群を誘って走りだした。群の縁にいた老いた狼が、まず新たな獲物にとびついた。  刃が一閃した。  年若い、まだ仔どもの面影を残す一頭が間をおかずに喰らいつく。  かえす刀で、首すじを一斬。  さらに続いた狼は、もんどりうって宙を舞った。  尖兵に気をとられてはならない。狼は利口だ。いずれは頭数にまかせて包囲線に持ちこむだろう。群のリーダーはどこだ?  残したふたりも気がかりだ。群のすべてをこちらに引き寄せたはずはない。見張りが残っているはずだ。疲労か恐怖かで客人が足を滑らせれば、数頭で充分だ、たちまち骨だけになってしまう。  周囲に目を配り、進路をジグザグにとりながら、リュートは材木置き場に向かった。充分な武器もない今、とにかく加勢が欲しかった。  不意に、森のざわめきが大きくなった。数多の蹄の音が木立に響く。  加勢だ。  ここにいる! と叫びかけ、リュートの咽は凍りついた。  記憶の片隅で、ある不信が結びついていた。  加勢ではなく、追っ手だったら?  もし、客人が、あの男の放った密偵だったら。  姿を現したのが猟師たちではなく、母を奪った狩人、あの男の私設軍隊、あるいは国王の親衛隊だったら? 「若旦那ァ! 若旦那ァ!」  野太い猟師たちの叫び声が、リュートの夢想を破った。 「ここだ! ここだ!」  大声で叫び、迷いを断ち切る。  今は、自分よりヒナタのことだ。恩義を忘れて何になる?  猟師たちが姿を現すと、辺りは一層喧噪を増した。 「弓をくれ!」  狼をなぎ払いながら、応援と合流する。 「若旦那は?」 「この向こうだ」  ようやく加勢のひとりと馬を並べ、弓を受け取る。 「頼りない弓だな」 「子どもにゃちょうどいいだろ」 「弱すぎる」  矢筒を肩にかけ、弦を弾く。これではいくらも飛ぶまい。 「ちっ。頭数が多すぎらぁな。回り道もできやしねぇ。ここを片づけにゃ、若旦那ンとこに行けねぇって寸法か」 「おがくずは?」 「あっちだ」  どん尻を見ると、鞍の両わきに大きな麻袋をくくりつけた馬が二頭、仲間の陰にくっついていた。 「袋を投げろ!」  リュートは弓を構えて叫んだ。 「投げても届かねぇ!」  袋の主が叫び返した。 「構わぬ。口紐を緩めて放れ!」 「ちくしょうめ!」  大きな袋が低く舞った。リュートの弓が鳴った。矢羽がうなり、袋をとらえた。突き通し、狼の頭上をさらっていく。緩んだ口から、黄色い粉塵が降り注いだ。  狼が甲高い悲鳴をあげた。おがくずの粉が目に、鼻に入ったのだ。狼の攻勢が鈍くなる。  猟師たちは鬨の声をあげ、弓を絞った。次々に狼たちが屠られていく。残った袋から、おがくずが狼の上に降り注がれていく。  狼たちは混乱に陥り、見えないまま、むやみやたらに逃げまどった。粉塵は踏みにじられ、ますます舞いあがった。さしもの猟師たちも咳きこみはじめた。一頭の馬がうなり、神経質そうに足踏みした。それが引き金のように、馬たちは一斉に騒ぎたて、暴れまわり始めた。  猟師たちがあわてて手綱を引いた。幾人かが弓を取り落とす。動揺が走る。弓なしで、どう戦うというのだ? 短槍では、接近戦となる。数の少ない側では不利だ。  リュートは目を細く開け、長く豊かな睫毛におがくずがかかるのを感じていた。葦毛は周囲の動揺に惑わされなかった。ただ、主人がかすかに身を傾けると、その方向へ機敏に動いた。  リュートの目が、大きな弓をとらえた。猟師のひとりがとり落とした強弓である。周囲には狼がたむろし、拾う者もなく、黄色い粉塵に埋もれかかっていた。リュートは慎重に歩幅を合わせ、葦毛に本筈を踏ませる。蹄に強く踏まれた勢いで、弓筈が跳ねあがった。リュートは手綱を放して弓をつかみ取った。  その時、ひときわ高い遠吠えが響いた。長く、力強かった。狼たちは動きを止め、耳をそばだてた。 「借りるぞ」  近くにいた猟師の矢筒から、ひときわ強い矢を数本、リュートは引き抜いた。葦毛を走らせたまま、弓を引き絞る。  また、長い遠吠えが響いた。今度は他の狼たちも合わせて吠え始めた。混乱はたちまちおさまり、再び群に力がみなぎり始めたようだった。  リュートは群の外れの高台に向かって弓を引いた。粉塵に紛れて行く手は見えないが、響きから推すに、遮るものは何もないはずだ。距離も、この強弓なら申し分ないはずだった。  矢が放たれた。勢いよく黄色い靄の中に消えていく。  遠吠えがやみ、狼の悲鳴があがった。粉塵の向こうで、その悲鳴が急速に遠ざかっていく。すると、狼の群が一斉にその後を追い始めた。整然とした撤退というよりは、あわてふためいた逃亡という風体だった。  リュートは狼を追わず、来た道を引き返した。ヒナタたちが心配だった。  戻ると、案の定、四頭の狼がふたりのいる木の周りをぐるぐると回っていた。客人の足は木の節から離れ、ヒナタの腕一本で辛うじて墜落を免れていた。 「もうだめだ。私が死んだら、リステルのことは頼む」 「ばかなことを言うな。今に助けが来る!」 「誰も来ないじゃないか。来るもんか。誰が危ない橋を渡ってまで他人の命なんか助けに来るもんか」 「きっと来る! だいじょうぶだ」 「君のお気に入りの子だって、狼に追われていったじゃないか。かわいそうに、今頃は喰われてしまっているよ。私もきっと死ぬんだ、ああ、こんなとこで死にたくない」 「がんばれ!」 「もうだめだ!」  ヒナタの体が、枝の上で滑った。トレゾの重みを支えきれなくなったのだ。手を放せば、ヒナタだけは助かったかも知れない。だが、彼は手を放さなかった。  ふたりの体が宙を舞い、木の根元に派手な音を立てて落ちた。狼たちが輪を作って待ちかまえていた。若い狼が勢いづいて宙に躍った。  風がうなった。  トレゾをかばうように抱きしめていたヒナタは目をみはった。  跳びかかってきたはずの狼が、地面に串刺しになっていた。  蹄の音が耳に入った。  風が鳴った。  狼たちがたちまちその場に崩れていく。まるで、糸の切れたあやつり人形のように。 「遅くなった。すまぬ。無事か?」  たくましい葦毛の背から、黒髪の少女が見下ろしていた。右手に握った巨大な長剣から獣の血が生々しくしたたっていた。 「リュート!」  一気に力が抜け、ヒナタは仰向けに倒れた。 「ヒナタ!」 「三代目どの!」  トレゾがあわてて顔をのぞきこむ。リュートもまた、馬を飛び降り、駆けつける。 「どこを負傷された?」 「うん、木から落ちた時にわき腹と足を打っただけさ。それより、なんだい、リュート、そのかっこうは」  寝転がったまま、ヒナタはリュートを指さした。  服も、腿まで露わになった脚も、土埃とおがくず、狼の血糊にまみれて真っ黒だった。 「ああ、すまぬ。すっかり汚してしまった。縫い目はうまく切ったつもりだが、いまさら繕ってみたところで、これだけ汚してしまっては……。奥方どのに申しわけない」 「服なんかどうでもいい。それより、脚が丸見えじゃないか。目のやり場に困るぞ」  ヒナタのヘタな冗談に笑いもせず、リュートはたずねた。 「一緒にいた猟師どのと犬たちはどうした?」 「この先の見晴らし台にいるよ。あれが見晴らし台にあがって狼を見つけたんだ。私たちは馬で逃げたが、あれはその場に残ったはずだ。ロバじゃ逃げ切れそうになかったからね」  トレゾの答えを聞くなり、リュートは葦毛に飛び乗った。 「おい、どこへ行くんだ」 「見晴らし台へ」 「狼が戻ってきたらどうするんだ。ヒナタを馬に乗せて運んでやるほうが先だろう」 「葦毛は他人を乗せぬ。助けはじきに来る」  耳を澄ませると、数騎の蹄の音が近づいていた。  リュートが見晴らし台に顔を向けると、愛馬の体躯は翻り、たちまち走り去った。 「どうだい、オオヤマネコを倒したというのはウソじゃないだろう」  ヒナタがうれしそうに自慢した。しかし、友人のほうは別のことに心を奪われていた。 「なんて馬だ! あんなに見事な馬は見たことがない。幾らだったら売ってくれるだろうか?」 「よせよ。あの子は売らないよ。家族同然の馬なんだから」 「いや、しかし、是非とも欲しい! 君から話をつけてくれないか?」  ヒナタは苦笑し、首を振った。 「トレゾ、君は命の恩人から家族を取りあげるつもりかい? 欲をかくのもほどほどにしたまえ。それに、気性の荒い馬なんだ。近づくと大ケガするぜ」  貴族はまだ未練がましそうだった。 「きっと、草原の国の馬というのは、あんなふうなんだろうな」 「草原の……なんだって?」 「伝説の国さ。どこまでも続く広い草原の中で、民は馬を駆り、獣を狩って暮らしているという。馬はしなやかで疾風のごとく、民は勇猛果敢で黒龍のごとし。なんでも、先の王妃さまは、その蛮族の血をひいてたとか。……ただの伝説だけどな」 「黒龍のごとし、か」  ヒナタはつぶやいた。 「まるで、あの子のことじゃないか」  見晴らし台は山の頂上にある、木材で組まれた高台である。伐採の状況を確認するために作られたものだが、猟師が獲物を探したり、遠く離れた村のようすをうかがったりするためにも使われていた。  付近に狼の姿はなかったが、猟師は動かずに助けを待っていた。 「あっという間に、骨だけになっちまったよ」  荷馬車の周りの血だまりをつま先で叩きながら、猟師はぼやいた。 「新しいロバを買わなきゃなんねぇ。若旦那になんとしても弁償してもらわねぇと」  リュートは犬の安否を訊ねた。 「さぁなぁ。ちゃっかり狼の仲間入りしたのもいるかも知れねぇなぁ。無事、家に帰ってっといいがなぁ」  後になって、連れていった八頭のうち六頭が材木置き場に、一頭が自宅にたどり着いていたことがわかった。  被害はロバ一頭、犬一頭と、存外に軽くて済んだ。ヒナタは弁償に応じた。  狼に襲われた材木屋の馬二頭は材木置き場付近で保護されていた。ヒナタの負傷は思ったより重く、木から落ちた拍子にあばらと下肢の骨にひびが入ったようだった。 「リュートには救われたな」  ユキの治療が終わると、ヒナタは言った。 「親爺にもさんざん怒鳴られたよ。跡継ぎもできないうちに死ぬつもりかってね」  二代目は隠居暮らしで、現場に出ることはあっても、母屋に顔を出すことはめったにない。だが、さすがに負傷したヒナタが担ぎこまれると姿を現し、ケガ人を慮る前に一喝した。 「跡継ぎなんか、男にこだわる必要はないと思うけどなあ。賢ければ、女でもいいじゃないか、なあ、リュート」 「ヒナタ兄さん、うちのリュートを巻きこまないでください」  ユキが憤然として言った。 「女は働き者で、いつも小ぎれいにしてりゃいいんです。リュートはまだ子どもだから、お転婆も大目に見てやってますが、ゆくゆくは嫁に入って、母親になって、おとなしく家庭を守るようになるんです」 「リュートは賢いよ。おまけに強い。こんな才能を埋もれさせておくのはもったいない。望むなら、剣でも学問でも好きなものを学ばせてやろう」 「今でも充分学ばせてます! これだけ医学を仕込んでやれば、もうたくさんじゃありませんか!」  ユキは語気を荒くした。 「王都にやろうと思う」  負けずにヒナタはきっぱりと言った。 「そのためにトレゾたちを呼んだんだ。預かってもらえるか、一度見てもらおうと思ってね」 「勝手なことを!」 「ふたりは承知してくれたよ。教養も礼儀も申し分ないし、護身についても充分だとね。近頃都の治安はかなり悪いらしい。若い娘は狙われるからね、ふたりは特にそこを心配していたが、今日の一件で吹き飛んだようだ」 「リュートはうちの養女です。リュートの将来は、家長のオレが決めます!」 「将来を決めるのは、リュート自身だ。ユキ、君だって、自分の将来は親ではなく自分で決めたんじゃなかったかな? そうだろう?」  ユキは言葉に詰まった。ヒナタはにっこりとリュートに笑いかけた。 「リュート、王都に行くね?」 「行かぬ」  リュートは短く答えた。 「ど、ど、どうして?」  ヒナタは、かわいそうなほどあわてた。 「トレゾたちが気に入らないのかい? 村から離れるのが不安なのかい?」  リュートは少し考えた。  王都は敵の懐の真っ只中だ。行くことはできない。だが、ヒナタが自分の行く末を考えてくれる気持ちはありがたい。何か失望させない答えはないものか? 「王都には行かれぬ。だが、その他のことは今すぐには決められぬ。博士どのに相談してみたい」 「ああ、ユキの親爺さんにか。いいよ。今夜帰ってじっくり相談してくるといい」  ヒナタはミヤシロ翁に一目置いていた。学問に一途な姿は尊敬に値すると言い、それを惜しまず人々に役立てている姿は学者の鑑だとも言っていた。  ユキは不機嫌に帰途についた。席の隣にリュートを座らせ、ぶつぶつと不平をくり返した。 「うちにはうちの事情があるんだ。勝手に決めるなってんだよなあ」  リュートは黙っていた。汚れたドレスの代わりに、シズカが実家においていた古着を仕立て直しもしないままに着せられていたが、ぶかぶかと大きく、動きづらかった。  右肩がだるい。  まだ早すぎたのだ、母の長剣は。過ぎた武器は持つものではない。今、敵が来たら、疲労で長くはもつまい。  目が、無意識に逃走経路を探していた。 「今の暮らしに不満か? リュート」  いきなり話を振られて、我に返る。 「こんな名医から医術が学べるんだぞ。亭主が留守の時に子どもが病気になってもあわてずに済むだろう? 勉強させてやってる上に、メシまで食わせてやってるんだぞ。こんな幸せはないだろう。どうだ、ん?」  リュートは答えなかった。  もし、村を離れることになったら。この医師は薬をどうやってまかなうのだろう?  この名医は、ありきたりの薬を調合することしかできなかった。材料である薬草を見分けて摘むこともできず、複雑な加工もできなかったし、知ろうともしなかった。以前は街から買いつけ、リュートが来てからは採取も加工もすべてリュートに任せていた。  また、すべて買いつけるようになるのだろうか? そんなようで、家族の食い扶持は稼げるのだろうか?  シズカにしても、家事はどうするのだろう? 育児をしながら家事をこなすのはたいへんなことだ。  博士は?  老人のことを思うと胸が温かくなった。  まだまだ学びたいことがある。空の不思議、人の世の不思議。老人のそばで一生を過ごすのは最高の幸福に思える。  ふと、視線を感じて、リュートは目をあげた。ユキが、ぶかぶかの古着ごしに、リュートの胸元から腰の辺りを何度も眺めまわしていた。 「まだまだ子どもで艶気もないが、まぁ、いいか」  ユキがため息をついた。  ただならぬ空気を感じて、リュートはさすがに不安になった。 「何がよいのだ?」 「今夜、おまえの部屋に行ってやる。待ってろ」  いぶかしげにリュートは首を傾けた。 「既成事実を作っちまえば、ヒナタ兄さんもよけいな口出しはできなくなるからな。言っておくが、これはおまえのためなんだぞ。おまえはうちにいるのが一番いいんだ」  そうか。ずっとそのつもりだったのだ。  ユキにとってはいいこと尽くめである。薬草の心配も、家事の心配も不要になる。  自分にとってはどうだろう? 母は『自分の生を生きよ』と言い遺した。これが自分の生なのだろうか?  答えは出なかった。  馬車が家に着くと、シズカが出迎えた。 「お帰りなさい。まあ、どうしたの?」  行きとは違う姿で帰宅したリュートにシズカは目をみはった。  リュートは黙ってリンゴ飴を渡した。数が少ないことにも気がつかなかった。 「おまえの実家でさんざんな目に遭った」  ユキが不機嫌に言った。 「おまえの兄さんがよけいな気を起こすから、リュートは死ぬとこだったんだぞ!」  過剰とも思える剣幕で怒鳴り、目は盗み見るようにシズカとリュートの間を何度も往復した。 「とにかく! もうさっさとメシ食って、風呂に入って寝る! リュートも仕事はいいから、早く休め! 風呂にはちゃんと入れよ! 埃だらけの体で寝床を汚されちゃかなわん!」  リュートは騾馬を厩に入れ、水と飼い葉を与えるのもそこそこに、離れに飛びこんだ。 「博士どの!」  翁は机の上で何かを熱心に書いていた。 「どうした、猫たちの妹分よ」  温厚な声を耳にすると、胸の苦しさが融け去るようだった。  猫たちはじゅうたんの上で、思い思いに寝転がっていた。 「私には知恵も経験もないのです。英知をあおがねばなりません」 「大仰だな、何事だ」  翁は静かに笑う。 「どう生きたらよいか、わからないのです。『自分の生』とは、どうあるべきなのですか?」 「それはそれは大問題だのう」  老人は声をあげて笑った。 「まずはここへ来て座りなさい。今、茶でも淹れよう」  茶といえば……。  昼間の顛末を思い出し、リュートは訊ねた。 「茶には塩を入れるものなのですか?」 「塩とな!」  老人は茶を淹れながら笑い出した。 「そうか、ヒナタどのに都から友人が来たか」 「その通りです。なぜご存じで?」 「塩入りの茶など飲むのは、形だけ気取った貧乏貴族ぐらいなものだからのう。彼らは辛うじて色のついた薄い茶を、塩でごまかして飲んでおるのだ」 「それでは、旨くないのでは?」 「だから、形だけなのだ。気取ってみたいのだろう。その点、ヒナタどのはお父上に似て、本物を心得ておる。よい茶の葉をいただいた。黒猫よ、そなたも飲みなさい」 「はい」  熱い茶は、腹に染みわたった。 「さて。そなたはどうしたいのだ? 王都には行かぬのだろう?」 「どうしてそれを!」 「都から友人がくれば、そういう話になろう。それで、そなたは何を悩んでおる?」 「王都には参りません。しかし、三代目どののご厚意はありがたく、礼を失しない返答はないかと考えあぐねております」 「王都以外にも街はあろう。どこか、ひっそりと学問のできる場所へ行かせてもらうがよかろう」 「学問ならば、ここででもできます」  翁は笑って首を振った。 「この老いぼれを慕ってくれるのはありがたいが、そなたはもっと広い世界を見なければのう。そなたの翼を広げるには、この巣は狭すぎる」 「翼ですか?」 「そうだ。そなたはただの黒猫ではない。背中に翼を隠した黒龍の仔よ」  リュートは落ち着きを失ったように目を伏せた。 「ヒナタどのの奥方は、ヒルブルークの街の出だったな。馬で南に三日の大きな街よ。そこへ行くのはどうかな? 牛と桃の旨いところよ。たっぷり食べて肉をつけるがよい。そなたは少々痩せすぎだからの」 「博士どの!」  リュートは胸が張り裂けそうだった。 「どうかおそばに仕えさせてください! 遠くへ追いやらないでください! 私はまだ何ひとつ一人前ではなく、英知と温情の前にひざまずき、教えを乞うほかないのです!」 「わしは老い先短く、そなたには長い未来があるのだぞ。爪を研ぎ、翼を鍛えておきなさい。いつまでも龍の仔を籠めておける家ではないのだから」 「一生お仕えするよい方法があるのです!」  しがみつくようにリュートは食いさがった。 「医師どのに嫁ぐのです!」  翁が大きく目を見開いた。 「血迷いごとを! そのようなこと、決して口にしてはならぬ!」 「しかし、そうすれば、どこにも行かず、一生博士どのにお仕えすることができます!」 「そなた、自分の言っていることがわかっておるのか?」 「わかっております! 一介の町医者の相手ではご不満とおっしゃるのですか!」  語気を荒上げるリュートに、翁はかえって醒めたようだった。 「ふむ。では訊ねるが、そなたはあれを好いておるのか?」 「医師どのは憎からず思ってくださっているごようす」 「あれは、きれいな女には誰にでもそうよ。しかし、そなたのほうはどうだ? そなたの母君はどうだったかな? 好いた男と一緒になったのか? 幸せだったか?」  リュートは返答に詰まった。 「よいか、小龍よ、情というものを軽んじてはならぬ。情は人を救いもするし、滅ぼしもする。別の目的のために情を利用してはならぬ」 「もう遅すぎます。今夜、医師どのは部屋に忍んでくるのです」 「なんという! 浅ましい男だ!」  机をこぶしで叩いた。 「むろん、断ったのだろうな?」  リュートは首を振った。 「断れば、この家には居られなくなりましょう。よいのです。これが運命と……」 「愚かな! 軽々しく運命などと言ってごまかすのではない! 今すぐシズカを呼んでおいで! さあ、今すぐ!」  呼ばれたシズカは、リュートにデュールを預けて、少しの間、離れで話していた。 「リュートちゃん! 今すぐ兄さんのところにお遣いに行ってちょうだい!」  台所でまとわりつくデュールと遊んでやっていると、足音荒くシズカが戻ってきた。 「大至急、迎えの馬車を寄こしてちょうだいって伝えて」  居間からユキが出てきた。 「実家に帰るのか? そうか、都のヤツらをもてなす女が必要だもんな。よろしく顔を売っとけよ、いずれデュールが世話になるかも知れん」  ユキはうれしそうだった。 「兄さんの手を煩わせるまでもない、オレが送ってやろう。リュート、留守番を頼む」 「いいえ! お疲れの家長さまのお手を煩わせるつもりはございませんわ! リュートちゃん、実家に着いたら戻ってこなくていいわ、お客さまのお相手をしててちょうだい」 「おい! ふたりとも家を出ていったら、うちの仕事は誰がやるんだ?」  ユキは色をなした。 「あなたがいらっしゃるじゃございませんか」 「冗談じゃない! 第一、デュールはどうする! 置き去りにされて、教育にいいわけないだろう!」 「あら、もちろん連れていきますとも。妻を喜んで追い出すような父親に預けたんじゃ、教育によろしくありませんからね」 「オレは喜んでなんかいないぞ! おまえが行くというから……」 「あなた、私が何も気づいてないとでも思ってたんですか?」  シズカは腰に手を当て、夫を睨めつけた。 「ご帰宅なさった時のあなたの態度! あの目つき! 胸に手をあてて、よぉく思い出してごらんなさいませ! あなたの考えていることなんか、ぜんぶお見通しですとも! 私の目は節穴じゃないんですからね!」  ユキはバツが悪そうに黙った。 「さあ、リュートちゃん、すぐに兄さんのところに行ってちょうだい」  リュートは急いで着替え、葦毛を駆った。  事情を知らぬままにヒナタは迎えを出し、知ってからは、洗濯女のヒキと女中のコズエを交互にミヤシロ家に送った。おかげでユキはどうにか飢え死にせずに済んだ。 「おまえはしばらく街に出るといい」  ヒナタは言った。 「王都へ出るせっかくの機会をどうして棒に振るのかはわからないが、何か事情でもあるんだろう、ユキの親爺さんの勧め通り、ヒルブルークの街にやることにするよ。妻の叔母が下宿屋をやっているから、そこにひと部屋とってもらうことにしよう。王都と違って女には学問のしにくい場所だが、まるっきり閉ざされているわけでもない。何を学ぶ? しばらく考えてみなさい」  学びたいことはたくさんあった。ミヤシロ翁のように天気を読みとれるようになりたかったし、誰にふりまわされることなく自立できるようにもなりたかった。なにより、あの男の手から逃れる方法を……いや、母の仇を討つ方法を知りたかった。だが、いずれも、それらを教授してくれる学舎はないのだった。 「リュートちゃん、遠くへやるのを悪く思わないでね」  シズカは言った。 「私は末っ子だから、妹ができたみたいでとてもうれしかったのよ。でもね、私からユキを取るなら、あなたを憎むわ。たとえあなたが望まずにそうなるしかなかったとしても、ユキを取ったら憎むわ」  博士の言う通りだと、リュートは思った。情は人を滅ぼす。軽々しく利用してはならなかったのだ。 「奥方どの、考えおよばず、苦しませてすまなかった。私が軽率だったのだ」  シズカはあわてて手を振った。 「悪いのはユキなのよ。あなたはまだ子どもで……。ユキがあなたをどうするつもりなのかわかってからは、街にお遣いを頼んだりして、少しでもあなたを遠ざけようとしてたの。ごめんなさいね。でも、本当にユキを取らないでね? 本当によ?」  シズカはユキを深く好いているのだとリュートは思った。  自分はこれほどまでに誰かを好いているだろうか? 母と博士のほかに?  否。  これから先もありえないような気がした。    五 竜の翼  ヒルブルークの街に着いたのは、午後も遅くなってからだった。朝から降り続いていた雨がやみ、西の空が明るくなっていた。  リュートは市場を探していた。世話になる下宿への手土産が欲しかった。  荷物はわずかな衣類と少々の金だけだった。身の回りの品は、ヒナタの妻の叔母にあたる下宿屋の女主人がすべてそろえてくれるという話だった。 「娘が三人いて、嫁いでからも手伝いに来てるという話だ。少し年は離れているが、いい話し相手になると思うよ。服や家具はお古を回してくれると思う。何も心配はいらないよ」  ヒナタはそう言って、リュートを送りだした。メントル夫妻が出発した翌日のことだった。  それから二泊を野宿した。途中の街で宿をとるようにと、必要な金は持たされていたが、身にあまる贅沢のような気がしたのだ。  浮いた宿代は下宿屋の手土産にあてるつもりだった。何か、ご婦人の気に入りそうなものはないか? ようやく市場を見つけたが、すでにほとんどが店じまいしていた。この時間なら、ムリもない。探し回り、宝石屋を見つけた。美しい原石の塊や、指輪やイヤリングが店頭に並んでいた。赤や青や色とりどりの石は、婦人たちを喜ばせるには絶好に思えた。 「彼女に贈り物ですか? 少々お時間をいただければ、どれでもすぐに加工いたしますよ」  商人が話しかけてきた。 「この髪留めなんかどうですかね? 青いのは金髪に、こっちの赤いのは赤毛や栗色によく映えますよ。白いのも清潔感があって、年若い女性は特に好まれますね。お兄さんの彼女はお幾つですか? 年上のぐっと艶っぽい彼女なら、こっちの紫のはどうですかね? 今宵の彼女は、きっと一晩中寝かしてくれませんぜ。兄さんはなかなかの色男ですから、お値段のほうも特別に負けさせていただきますよ。この髪留めなら三〇〇、いや、二〇〇、ええい、こっちのブローチもつけて一五〇でどうだ!」  ここで初めて商人はリュートの顔を見た。  あ、と声をあげた。 「こないだの勇敢な娘さんじゃありませんか! 髪を包んでたから、わかりませんでしたよ!」  いつかのおせっかいな黒マントの男だった。  リュートは長旅で人がよくやるように、頭を布でくるんでいた。土埃で髪が汚れるのと、体温を失うのとを防ぐためである。  マントの男はリュートの後ろに目をやった。三人組の兵士くずれが通りすぎていった。 「物騒なものだな。ああいう輩を、もうだいぶ見た」 「最近、どこの街でも多いんですよ。娘さん、護身用にいかがです?」  テーブルの下から大小さまざまな剣を出す。柄に王家の紋章の入った細剣もひとつやふたつではない。 「これは……」 「金に困って持ちこむ兵隊さんも多いんですよ。珍しいことじゃありません」 「しかし、充分な給料をもらっているはずだろうに……」 「あれ、ご存じないんで? 二年前から、支払いは止められてんですよ」 「では、さぞかし兵士たちが困っておろう。家族もあろうに」 「だから剣を売ってんじゃありませんか。堅気の商売に鞍替えする人もいますけどね、元々肉体派が多いですから、安直に暴力に訴えるヤツらも少なくないってわけでして。治安は悪くなる一方ですな、どこの街も」 「給料となるはずの金はどこへ消えたのだ? 民の税金で賄われているはずだが?」 「さぁねぇ。世間の噂では、王妃さまのご衣装代に消えてるとか、赤いチョッキの粋な殿さまの懐に飛びこんでるとか。どちらにしろ、王妃さまが変わってから、この国もすっかり変わっちまったねぇ。昔はよかった。いや、昔に戻ったというべきかな。隣国と戦争してた頃は、脱走兵が街を荒らしまわっていたというからねぇ。この十数年、やっと平和になって暮らしやすくなってきたってのに、あのキザなエロジジイときたら!」  商人はいまいましそうに舌打ちした。 「へん! 王さま気取りだ。娘も娘だ、なんだい、あのなりは! 服が丸ごと宝石屋の店先じゃないか! あんな頭が悪そうな女に、我らが国王陛下がたらしこまれてるかと思うと……。おかわいそうに、先の王妃さまも、あいつらに殺されちまったんだ。せっかく隣国との和平の印に、敵国に単身嫁いでらっしゃったのに。さぞかし、心細かったろうなあ。せめて、跡継ぎでも遺していらっしゃったら! 国王陛下も御子ができない体におなりになって、そうすると、今の王妃の娘ふたりのうち、どちらかが跡を継がれるのかなぁ。ああ、ちくしょう! あの宰相の野郎の孫が王家を継ぐなんて! 先の王妃さまの御子がたったひとりでも生きてらしたらなぁ! くそっ! みんなあいつらに殺されたに違いないぜ!」 「カメオはないか?」  リュートはさりげなく商人の興奮を遮った。 「えっ? あ、……ああ、カメオ、カメオね。カメオと。そりゃまたお目が高い!」  商人は我に返り、あわててテーブルの下から品物を引きだした。 「貴族のご婦人が暮らしに困って持ってきたいい品があるんですよ。ほら、どうです! 娘さんによくお似合いですよ」 「世話になるご婦人に手土産にするのだ。品があって、落ちついたものはないか」 「へえ! 世話になるってことは、しばらくこの街に滞在なさるんで?」 「そうだ」 「それは少々面倒になりませんかね。いえね、ちょいと小耳に挟んだんですが、ゴロツキどもが、黒髪の小娘を探してるらしいんですよ。なんでも、立派な馬にまたがってるとかで……」  疑惑の目を返され、商人はあわてて両手を振った。 「ウソじゃありませんよ! それも、こないだのゴロツキが根に持ってる程度の話じゃないようで。なんでも、国から賞金がかけられてるとか。娘さん、あんた、何をやらかしたんです?」  商人はからかうように笑った。 「他人の空似だろう」  リュートはさらりと流したが、心中は穏やかでなかった。  目立ちすぎたのだ! あの男にまで、話が伝わってしまったのだ。 「たとえ人違いでも、ヤバいですよ。なにせ、生死を問わず、人違いでも罪を問わずってお触れでね。いや、こんな商売してますとね、お偉いお方から、いち早く情報が入りましてね。明日か明後日辺りには立て札が出ますよ」  早い!  あの男は、国中の街に耳を持っているのではないか? 変事をあまさず聞き取れる耳を。 「娘さん、あたしはね、あんたを実は気に入ってるんですよ。腕っぷしは強いし、気っ風もいい。女王さまみたいな威厳もある。どこの名家のお嬢さんだか知らないが、こんな娘さんのピンチを、あたしゃ放っとけないね! そこでひと肌脱ごうじゃありませんか。捕まらずに済む方法を教えてあげますよ」  リュートはうさんくさそうに商人を見た。 「いやいや、真心から言ってるんですよ。まず、これで髪を染めなさい。この染料を使えば、その墨を流したような黒髪も、あっという間に栗色だ」  店の隅から缶を出す。 「商売上手だな」 「いやいや、お困りの娘さんからお代はいただきませんよ。その代わり……といっちゃなんですが、あの馬はどうしました? 葦毛の立派な馬は?」 「馬で払えと?」 「とんでもない! ちょいとお預かりするだけですよ。ゴロツキどもが探しているのは、立派な馬にまたがった黒髪の小娘ですからね。あんな立派な馬連れてちゃ危険きわまりないですよ。ほとぼりがさめるまで、まあ、一、二年ってとこですかね、あたしがお預かりして、きちんとお返ししますよ」 「どうだか」  リュートは店を離れようとした。 「あ、娘さん!」 「最初から馬が目当てだったのだな。これで合点がいった」 「ちょっとお待ちなさい!」  身を乗りだして商人が腕を伸ばした。リュートはその手を逃れたが、バランスを崩した商人は勢いあまって店のテーブルを飛び越え、地面を一回転した。 「お待ちなさい! あたしが言ったことは本当ですよ! 馬が目当てなのも本当ですけどね」  きれいに立ちあがり、リュートの前をふさぐ。 「そなた、腕はたつようだな」 「そりゃあ、こういう商売をしてますとね、多少は身のこなしも軽やかになろうってもんです。それより、あたしは本気で心配してんですよ。馬のことは後から相談するとして、早くここを出てお行きなさい。髪もしっかり染めてね。こないだみたいに目立つことしちゃいけませんよ」 「親切すぎて気味が悪いな」 「娘さんこそ、気味が悪いほどまっすぐで、世間知らずで、おまけに麗しくてめっぽう腕が立つときてる。唄にある黒龍の姫ってのは、娘さんのことじゃないですかね。いえね、天から降りて天に帰ったっていうお姫さまのことですがね」  だったら、どんなにいいか。少なくとも、帰るところはあるのだから。  商人にむりやり髪初めの染料を押しつけられ、リュートは愛馬にも乗らずにとぼとぼとと歩いた。  この街は危険だという。留まれば、下宿屋や、ひいてはヒナタたちにも害が及ぶかも知れない。  だが、このまま引き返して、何と言いわけするのか?  たとえ、今すぐ引き返すことができたとしても、これからどうなるのか。賞金をかけられてからは、この国に安住の地などあろうか? 「そこのぼうず」  広場にさしかかると、声をかけられた。 「いい馬じゃねぇか。こっちへ来て見せてみろ」  どん欲な目つきが向けられていた。すでに三人が近づきつつあり、それを面白そうに十数人の仲間たちが眺めていた。 「今日、いちばんの拾いもんじゃねぇか。誰がとる?」 「これも賭けで決めようぜ!」 「そうそう。国王陛下ご公認だもんな。男でも女でも、人違いでしたと言や済む」  これで、商人の忠告の真偽が確かめられたというわけだ。  リュートは長剣を抜いた。母の形見ではなく、使い慣れた自分の剣のほうだった。 「おっ。けなげにも刃向かう気だぜ」 「ぼうず、恨むんなら国王陛下を恨めよ。いい馬を連れたヤツは殺していいってご命令なんだからな」  下品な笑いがあがる。  が、それも半ばで途切れた。瞬く間に、近づいた三人は事切れていた。 「何しやがる、このクソぼうず!」 「やっちまえ!」  汚らわしいクズどもめ。こんな賊どもを、大手を振ってのさばらせているのは誰だ?  ゆるりと怒っている暇はなかった。次々に敵が襲いかかってきたからである。物心ついて以来、自分と母の命を狙う者に遠慮はなかった。迷う間もなく、反射的に斬りさばいた。惜しむらくは、ひとりを逃したことだった。加勢を呼んでくるかも知れない。面倒なことになった。  日の暮れた空に、笛の音がかん高く響いた。リュートはあわてて葦毛に飛び乗った。初めから賊など相手にせず、馬で逃げればよかったのだ。囲むよりも、愛馬の脚は疾いのだから。  どうかしている。情にかられて判断を誤った。  街の城門が見えた。案の定閉まっている。夜には閉じるものなのか、それともリュートのために閉じたものなのか。少なくとも、警備はものものしいように思えた。入る時は、街の若者が、さも寄り合いの当番で形だけ立っているような気楽さだったが、今は兵士くずれが門を固めている。  ひとりで突破するのはムリだ。馬を引くと、夕闇の中でフードをかぶった騎手に声をかけられた。 「娘さん、こっちですよ、早く」  フードをわずかに上げる。鋭い目の光。さきほどの商人だった。 「笛の音がしましたんでね、もしやと思ったんですよ。城門はダメですよ。これから国のお偉いさんが来るとかで。でも、その分、他のとこが手薄になります。さあ、いらっしゃい」  手際がよすぎる。ワナではないか? 乗馬が二の足を踏んだ。 「何してんですか。あたしだって、この機会を逃すわけにはいかないんです。置いていきますよ?」  商人は自らの黒馬にひと蹴り入れた。リュートも迷いながらついていく。 「そなたも逃げるのか? 店はどうする?」 「しばらくいるつもりだったんですけどね。今夜着くお偉いさんが、まあ、ちょいといわくつきで。前からわかってりゃ、さっさとトンズラしたんですが、たった今、名前を知ったもんで。店はもうしょうがないです。命あっての物種だ。でもね」  ポケットから宝石を出してみせた。 「こういうものは便利ですよ。いざという時、かさばらずに持ち出せる。次の元手ぐらいにはなるでしょう」 「そなたはなぜ追われるのだ?」 『こういう商売をしてますとね……』という返答を予期したが、期待は裏切られた。 「世の中には道理の通らないことがあるもんです。きっちりカタをつけとく時にし損じると、一生逃げなきゃならなくなる」  フードが風にはためき、商人の顔がチラリと見えた。いつになく険しい表情だった。 「ほら、あそこに城壁の崩れたところがあるでしょう。こないだ、バカな馬車が突っこんだんですよ。ゴロツキどもに追われて大破しましてね、追われたほうはかわいそうなことですが、われわれには幸運なことで。ゴロツキどもも、自分のやらかした悪事のせいでせっかくの賞金を逃しちまうんだから、自業自得ってもんでしょう」  壊れた城壁を商人が先に飛び越えた。リュートは慎重に周囲をうかがったが、飛びだしてくる武器も、人影もなかった。神経を張りつめ、壁を飛び越えた。どこにも人の気配はなかった。 「娘さん、あんた、何者なんですかい?」  ヒルブルークの街が遠ざかると商人は訊ねた。 「ただの金持ちの道楽娘かと思ったら、ずいぶんと守りが決まってるじゃありませんか。剣も強けりゃ、馬の扱いも上等だ。壁を乗り越える身のこなしときたら、どうです? ありゃ、二段、三段の攻撃にだって耐えられる動きだ。娘さん、あんた、かなり逃げるのに……というより狩られるのに馴れてるんじゃありませんか?」  リュートは眉ひとつ動かさなかった。 「そなたこそ、身元を訊ねられては困ろう。馬の操り方から察するに、貴族の出と思うが」  商人はあっけにとられ、やがて声をあげて笑った。 「おっしゃる通りで! 娘さん、あんたは世間を知らなさすぎると思えば、妙なことはよくご存じだ。よろしい、お互いよけいな詮索はやめましょう。あたしはこのまま東に行きますよ。昔馴染みのいないところで、また静かにやります。あんたは?」 「借りができたな。いつか返せればいいが」 「だったら、その馬をくださいよ。今すぐにとは言いませんから」  葦毛が歯をむき出して、商人にうなった。 「わわっ。じゃあ、貸してくれるだけでも……」  葦毛は商人の馬を乱暴に尻で押しのけた。 「せめて、仔どもぐらい……」  離れた場所から、未練がましそうに商人はつぶやいた。 「ここで別れよう。そなたの幸運を祈る」  リュートは馬首を北に向けた。 「えっ。まだ話がついちゃいませんよ! あたしの馬!」  商人はあわてたが、もう葦毛の駿馬は駆け出していた。 「ちゃんと、髪を直しとくんですよぉ!」  商人の声が薄闇に響いた。葦毛の馬はたちまち闇に溶けた。  この秋いちばんの濃霧だった。ミヤシロ翁は早朝の観測を終え、離れに戻りかけていた。 「博士どの」  押し殺したようなひそやかな声が霧の中から届いた。 「お別れに参りました」 「中にお入り」  翁は緊張した面もちで周囲を注意深く見渡した。 「長居はいたしませぬ。すぐお暇いたします」 「いいからお入りと言うに。追っ手に遭うたなら、なおのこと」 「なぜそれを!」  翁は離れに入った。霧の中から一対の人馬が現れ、人のほうが滑り降りて老人の後に続く。  離れに入ると、暖気が身を包んだ。猫たちがストーブを囲んで寝転がっていた。  リュートはフードを下ろした。濃緑色のマントに明るい栗色の髪がこぼれた。 「腹がすいたであろう」  翁は自ら納戸に入り、干物をとった。猫たちが飛んできて、にぎやかに足下にまとわりつく。魚の大きいのを与えて、翁は猫を黙らせた。 「食べなさい」  乾し果や干物をテーブルに置く。書きかけのノートが目についた。 「博士どの、これは?」 「うん、天気予報の方法よ。ウルサ山脈に雲がかかれば雨、といった程度の簡単なもののな。この土地では、それで充分だろう。わしも老い先短いのでな、これをヒナタどのに預けようかと」 「博士どの! まだまだお元気ではありませぬか!」 「人はいつまでも生きるものではないからの。まあ、お食べ。飲まず食わずで来たのだろう?」  その通りだった。水のほか何も口にしないまま、三日で南下した道を二日で北上してきたのだ。 「葦毛に水と飼い葉が要るな」 「いえ。水だけは道中欠かしませんでしたし、飼い葉は……。減れば医師どのに気づかれます」 「構わぬ」  翁は窓をそっと開け、馬に向かってささやきかけた。 「黒猫の友人や。いつもの場所で食べておいで」  葦毛は耳を何度か振ると、すなおに霧の中に消えた。 「言いわけは何とでもしよう。ところで、これからどうするつもりかな?」 「ご迷惑をおかけするつもりはありません。このまま、どこへなりと消えます。ただ、私がここにいたことがわかると、博士どのにも、奥方どのや医師どの、ひいては三代目どのや村の方々に害が及ぶやも知れません。それが心残りで……」 「その触れ書きなら、昨日、この村にも届いた。良馬を連れた黒髪の娘を探しているとか。正誤を問わずとはあきれて物も言えぬ。ところで、良馬を連れた黒髪の娘は、世の中にどれほどいるかね? のう、黒猫や。猫たちの妹分や。この村の誰も、そなたが国から賞金をかけられるほど大それた者とは想像もしないだろうよ。知らない街に着いたところで巻き添えを食ったのではと心配し、半ばあきらめておる。ヒナタどのは確認のため、昨日、ヒルブルークの街に遣いを出した。赤毛の大きな男をロバに乗せてな。良馬、黒髪、娘、どれひとつとっても、標的にされる恐れがあることを、よくご存じだ。誤認は数多ある。だから却って、そなたにとって都合のいい隠れ蓑になる。われわれのことは心配しなくともよい。それより、そなたはどこへ行くつもりだ。もう、この国には安住の地はないぞ」  リュートはうなだれた。 「このままでは、罪のない人々が犠牲になります。この上は、名乗り出て……」 「仇を討つか? 仇の面前に出るまで命があるとは限らぬぞ」  リュートは目を見開き、翁を見つめた。 「どうしてそれを!」  翁は微笑んだ。 「このような恐ろしい触れ書きは、これで終しまいにはなるまいて。この後も延々と民を苦しめよう。あの宰相が生きている限り。心はやってムダ死にしてはならぬ」 「なぜ! なぜそこまでご存じなのですか?」  リュートは胸の辺りをこぶしで握りしめた。心を読みとられているようで苦しかった。 「わしは昔、隣国におってな。気球の話はしたな? 気象観測のために建造し、思わぬ長旅をするはめになった、あの気球よ。あれを建造するには莫大な費用が必要だった。当時パーヴはリュウインと交戦中でな、長期にわたる小競り合いで疲弊し、たかが気象観測などという役にも立たぬものに金を出す酔狂者はどこにもおらなかった。たったひとりをのぞいてな。その御方はわしの悲願に耳を傾け、理解を示し、熱心に建造を進めてくださった。わしは感謝の意をこめて、その御方の名を、我がすべて、我が命の気球につけた。その名はな、『黒龍の翼』号というのじゃ」  リュートが小さな叫び声をあげた。 「『黒龍の姫』と呼ばれていた御方だ。現パーヴ国王の末妹にして、前パーヴ国王の末娘、伝えきく草原の国より輿入れされたという寵姫のひとり娘よ。わしはな、御手に口づけを許されたこともあるのだぞ。その御方の愛娘を見まごうはずはない。そなたは母君に瓜ふたつよ」  リュートは何も言わなかった。ただ黒曜の瞳がうるみ、何度も何度も瞬いた。 「わしはその後の政変で追われる身となり、ほとんど一文なしでこの地にたどりついたのだがの。さて、そなた、わしがかつて話したことを覚えておるか? 『われわれが知っている場所だけが人間の生きる土地ではない』と、確かそのようなことを言ったな。『国がなくとも、人は生きられる』とも。黒猫よ、さあ、これからどこへ行く?」 「西に」  押し殺したような声でリュートは答えた。 「西の密林へ入り、その後南に大きく国を迂回して、東の……」  わずかに嗚咽が漏れた。 「そう、東の隣国パーヴに入るがよい」  老人は穏やかに後を引き取った。 「髪を染めるのはよい案じゃな。そなたが考えたのか? 母君ゆずりの美しい髪だが、目立ちすぎる。隠しておきなさい。  南国は、気候も違えば生態も異なる。言葉すら通じぬ世界よ。何を食せばいいのかわからぬやも知れぬ。南は実り豊かだが、毒には気をつけるように。パーヴに入ってからは、北のファイアウォーの街へ行くもよし、東の小国へ抜けるもよし。言葉も様式もまったく異なる世界だ。正直言えば、そなたをひとりで行かせるのは不安での」  リュートは、泣き顔をムリに笑ってみせた。 「博士どのも、言葉の通じぬ東の外れの沿岸地帯に行かれたではありませんか。そして、ぶじに帰ってらっしゃった」  かつて隣国の貴族だった老人は目を細め、手を伸ばしてリュートの頬に触れた。 「私は帰って参ります。必ず帰って、博士どのの跡を継ぎます。その時までどうかご健在で」 「そなたの行くところに幸いあれ。さあ、もう出発しなさい。誰にも気づかれぬうちに」  翁は干物を袋いっぱいに詰めて持たせた。 「南下するとはいえ、これから冬がやってくる。そのなりでは凍えよう。これを持ってお行き」  奥の部屋から分厚い外套を出してくる。黄土色の羊革で年季が入っており、羊毛がしっかりと裏打ちされていた。 「これは?」 「上空に昇るにつれ、気温は下がる。確か、そなたにそう教えたな。気球で上空にあがると、それはそれは冬のような風の冷たさよ。昔、これで暖をとったものだ」 「記念の品ではありませんか! そのようなもの、いただくわけにはまいりませぬ」 「やるのではない、返すのだ。これは、そなたの母君にいただいたもの。一介の気球乗りのためにわざわざ作ってくださったが、気球はもはや飛ばぬ。ここには、飛ぶように地を駆ける馬と翼の生えた黒猫がおるだけよ。ふむ。未知の旅に出る点では、どちらも似たようなものかも知れぬな」  リュートの黒い眼が、再びみるみるうちにうるんだ。  翁が扉を開けると、リュートは葦毛を呼んだ。素早く鞍の下から形見の剣を取りだす。白刃を抜き放ち、鞘を老人に差しだす。 「これを。刃は差し上げるわけにはいきませんが、飾りの石を。私には他に何も差し上げるものがないのです」 「これは……」  老人は鞘に触れようとしなかった。 「これは、わしが持っていても分不相応のものだ。騒動の元にもなりかねん。見るのは初めてだが、これがなんだか、わしにもわかるぞ。こちらの巨大なサファイヤはパーヴを、あちらのルビーはリュウインを表しておる。かつてふたつの国がひとつだったことを示し、どちらの国が所持するかで、幾度も揉め事の種になった剣よ。たしか、先のパーヴ国王がそなたの祖母に賜られたのではなかったかな。そのため、パーヴの王室は王位継承権で揺れたという」 「王位など、石と同様、どうでもよいのです。この剣は刃にこそ価値があります」  白刃は殺気を帯び、妖しく光った  老人は目をそむけ、胸を押さえた。 「刃を納めてくれぬか。わしの心臓には耐えられぬ」  リュートは鞘の代わりを探した。 「その鞘でよい」  老人は差しだされた鞘を示した。 「しかし……」 「わしが持って何になろう? そのような由緒ある石を金に替えては足がつこうし、何かの拍子に人目にさらしても災いを招こう。そなたが受け継いだものだ、そなたが持っていなさい。どんなに鋭い刃も、合う鞘がなくては役に立たぬよ」  リュートは剣を鞘に納めた。 「そなたにも、鞘が要るな」  老人はため息をついた。 「剥きだしの刃は、恐れられ、受け入れられぬ。自身、休息さえままならぬ。どこかで連れを見つけなさい。心和む、そなたに合う道連れを」  リュートは首を振った。 「私とともにあれば、いつか災いが降りかかりましょう」 「そなた、自分の生とは何か、知りたいのではなかったかな?」 「はい」 「答えは、そこにあるかも知れぬぞ」  リュートは老人を長いこと見つめた。 「博士どの」  ひざまずいた。 「どうした。わしなどに頭を下げるものではない」 「博士どの」  リュートは強い口調で言った。 「博士どのこそ、師と呼び、生涯仰ぐ御方です」  立ち上がり、流れるように鞍上に移る。 「そなたの行く手に幸いがあるように」  リュートは黙ってうなずいた。白い咽が、こみあげてくるものを懸命に抑えつけ、小刻みに震えていた。  主人が前を睨むと愛馬はたちまち駆けだし、薄らぎつつある霧の中に消えていった。 「行くがよい、かわいい黒猫よ」  老人はひとりつぶやいた。 「黒龍の娘よ」  師の家からわずかに離れ、声の届かない距離までくると、馬の脚が緩んだ。鞍の上で主人が押し殺した声で泣いているのだった。  しかし、長くは続かなかった。 「止まれっ、止まれいっ!」  橋の前で黒い人影が行く手を遮っていた。 「馬から下りろ! 女ぁ!」  リュートは一時的にせよ、情に浸ったことを恥じた。神経を張りめぐらせ、気配を探る。  相手は、どうやら人ひとり、馬一頭のようである。少なくとも、今、この瞬間だけは。 「何用か、長のご子息どの」 「決まってるだろ! 馬から下りて、正々堂々と勝負しろ!」  人影が近づき、子どもにしては大柄な体があらわになった。声から推した通り、村長の跡継ぎ息子のトビだった。 「どうだ、びっくりしただろう! あんなお触れが出たから、きっとおまえはヤブ医者ンとこに戻ってくると思ってた…………、いいや、わかってたんだ。今朝来てみたら、飼い葉の量が減ってるじゃないか。そこで、先回りして、ここで待ってたのさ!」  ミヤシロ家から道に出るには、必ずこの橋を渡らねばならない。待ち伏せするには絶好の場所だ。 「飼い葉の減りに、よく気づいたものだ」 「そりゃあ、昨日、ちゃんと調べといたからな!」  昨日も来たのか。リュートは内心あきれた。 「さあ、勝負しろ! 勝ったら役人には突きださないでやる! いつもみたいに逃げるんなら、今すぐ役人に通報して、お前を狩ってやるぞ!」  通報されるのはマズい。ミヤシロ翁に迷惑がかかる。 「そなたの相手をすれば、黙っているのか?」 「あたりまえだ! 村長の跡継ぎに二言はない!」  信用できないな、とリュートは思った。しかし、選択の余地はない。下馬する。 「では、お相手つかまつろう。得物は何がよいか?」  細い木刀が弧を描いて飛んできた。リュートは左手を伸ばして受け取り、右手に持ちかえた。 「行くぞ」 「ちょ、ちょっと待てっ! おまえが負けた時はどうなるか、聞かなくていいのか!」 「必要ない」 「ある! よっく聞け! おまえが負けたら、どうなると思う? 鞭で百たたき、村中を馬にひきずられてひと回り、オレにひれ伏して許しを乞い、気が向いたら許してやる。そして一生、オレの奴隷となるのだぁ!」  体を震わせて笑う。 「そうか。では、行くぞ」 「まっ、待てっ! 話は終わってないぞ! 普通なら、そうなると思っただろ?」 「思わぬ。もうよいか」 「待てったら!」  村長の跡継ぎは時間を稼いでいるのだろうか。追っ手が追いつくまでの時間を。  リュートは無防備に後ろをふり返り、スキを見せて攻撃を誘った。  しかし、村長の跡継ぎは踏みこまず、得々と話を続けた。 「オレはやさしいからな。なんせ、次の村長となる男だ。器が大きくて、頼れる男だ。そう思うだろ?」 「いや」 「思えったら! 強くて頼れる男のオレとしては、おまえが勝負に負けたぐらいでヒギョーの最期を遂げるのは……」 「非業か?」 「うるさいっ! おとなしく聞いてろっ! その、かわいそうだと思うわけだ。そこで、オレはミョー案を思いついた。そのミョー案というのは……」 「名案」 「黙れ、黙れ! そんなの知ってる! わざとおまえを試してやってるんだ! 感謝しろ! ……どこまで話したっけ。そうだ、そこで、おまえが人前で恥をかかなくていいように、オレの屋敷の地下室に閉じこめてやる。一生な! おまえが何度も頼むなら、オレの気の向いた時に、庭に散歩に連れて行ってやってもいい。そうすると、おまえは感激して、何でも言うことをききます、このご恩は一生忘れませんと言って、オレの前にひざまずくのだぁ! その馬もオレが乗ってやろう。オレがおまえのご主人さまになるんだからな、当然、おまえの馬はオレのものだ」 「口上が過ぎる」  リュートは焦れた。 「なんだよ、人がせっかく気持ちよく説明してやってんのに。感謝しないか!」 「長口上は勝ってからにしてもらおう」 「勝負の前に説明しとくのが正々堂々ってもんだろ!」 「そなたがムダ口を叩く分だけ、追っ手は迫ってきておるのだ。相手の不利を深めて、何が正々堂々よ」  村長の跡継ぎは口をへの字に曲げた。 「わかったよ。まず勝負しよう。だが、おまえに言われたからじゃないぞ! もうそろそろいい時分だと思ったからだ。オレに感謝しろよ!」 「では、よいか?」 「いいとも。どっからでもかかって来い!」  村長の跡継ぎが棒を構えた。  ふと、リュートはいとこのことを思い出した。ひとつ下のいとこのセージュ。パーヴの王太后の寵愛を一身に受けた、世の中に怖い者知らずの暴れん坊。夏の離宮に遊びに行くたびに、何度もリュートに挑んではおもちゃの剣をはじき飛ばされ、悔しまぎれに捨てぜりふを吐いた。 『卑怯者! 不意打ちじゃないか! 今のはナシ! 三回勝負でやり直しだ!』  一度ぐらい手加減しては……と周囲の者たちは進言したが、伯父も母も首を振ったものだ。 『世の中にかなわぬものがあると、しっかり教えておやり。過信は人を増長させる』 「そなたが先にかかって来い」  リュートは言った。 「不意打ちと言われては心外だ。決着をはっきりつけよう」 「後悔するなよ、女ァ!」  村長の跡継ぎは、木刀を大きく振りかぶった。  スキだらけだ。つまらぬ。  いつかのセージュを思い出す。あまりしつこいので、半分だけ本気を出したことがある。剣は折れ、セージュ王子はもんどりうって地面に仰向けになり、リュートはその頭をつま先で軽く蹴ってやった。しばらくして、王子は腹を抱えて大泣きした。あまりのことに、腹を打たれたことにも痛むことにも気づかなかったのだ。以来、セージュが二度と剣を向けることはなかった。陰で猛練習をしているというような話は聞いたが。  伯父は大笑いした。 『よくやった! 我が息子ながら、あれの鼻っ柱の強いのにはまいっておったのでな! ついでに、一太刀二太刀よけいにくれて、そなたの子分にしてしまえばよかったのだ』  伯母は眉をしかめ、弟王子を引き寄せた。 『エドアルや。そなたは姫に手をあげてはなりませぬよ』  小さな王子はにこにこ笑った。 『姉上はとてもおやさしいですよ? 大好きです』 『おやおや、ここに子分がひとりおったわい』  伯父は額を打った。  幸せに思えた日々。隣国の夏の離宮では、毒殺や闇討ちの心配がなかった。やさしい伯父や伯母がおり、遊び相手のいとこたちがいた。なにより、母がいた。何物にも代え難い、やさしく強く凛々しい母。今は亡い。龍は天に帰ってしまったのだ。仔をひとり、地上に遺して。  リュートの得物が閃いた。  相手の木刀が天に踊った。ふたつに割れて地面に転がる。敗者は地に伏していた。 「勝負はあったな。約束は守ってもらう」  木刀を放り投げた。 「腕はしばらく痛もう。馬には乗れぬな。おとなしく歩いて帰れ」 「待てっ!」  村長の跡継ぎはよろめきながら上半身を起こした。 「勝負はついたであろう」 「行くなっ! ここにいろっ! 殺されるぞ! オレは聞いたんだ、黒髪の娘や、立派な馬を連れた騎手は、残らず殺されるって。おまえもきっと殺される! ここにいろ! オレが地下室にかくまってやる! 家の者はオレには逆らえない。だから、誰もおまえのことを外にしゃべったりはしないぞ! オレは次の村長だ、誰もオレには逆らえない。オレは偉いんだ! 偉いんだぞ!」  リュートの目が細くなり、瞳は鋭さを増した。 「七光どの」  ぞっとするほど冷ややかな声に、村長の跡継ぎ息子は凍りついた。 「長がどれほどのものよ。ましてや、親の威光を笠に着るそなたは? 己が弱者であることに感謝するがよい。でなければ、今すぐこの場で斬り捨てるものを。くれぐれも言っておく。もし約束を破り、私に会うたことを口外したなら、そなた自身もただでは済むまい。つまらぬ勝負にこだわり、大事な賞金首を逃したのだからな。命が惜しければ、その不愉快な口を慎むことだ」  葦毛がすり寄ると、リュートはたちまち鞍上の人となった。駿馬は駆けだす。 「行くなっ! 行くなっ! おまえを守ってやれるのは、オレだけなんだぞ! 戻ってこい! おまえの主人はオレだ! オレのもんだ!」  跡継ぎの声は、駿馬とともに白い霧の中に吸いこまれていった。