十六 幻の民  城の外壁にもっとも近い庭、むしろ玄関の前庭というべき場所に人が集い、酒を酌み交わしていた。テーブルに立てられた無数の燭台が、人々のちぐはぐな衣装を照らしだしている。  金の髪には高い襟、褐色の肌には巨大なターバンと濃い口ひげ、黒髪には小さなフェルト帽、背丈も言葉も違えた者たちが、狭い場所に一緒くたに詰めこまれて陽気に乾杯をくり返しているのだった。  喧噪は最高潮に達し、訳すコクヨウの声は涸れた。 「いつか砂漠に来られよ、と」  巨大なターバンのイリーンの言葉はなまりがひどく、聞き取りにくかった。この騒々しさでは、苦労も倍になる。 「草原にこそ、来られよと言え」  族長が轟くような声で笑う。  訳すまでもなく、巨大なターバンは族長と肩を組んで歌いだした。知らない歌である。 「脱げ、喪服を脱げぇ!」  パーヴの地方貴族とかいう男が、コクヨウの黒いマントに手を伸ばした。今宵はもう何度めか。九つまでは数えたが、その三倍はゆうに上回ったろう。 「今宵は通訳は不要! 飲め、飲め! 我が娘よ!」  族長まで酒の勢いにのった。 「イリーンの姫のために! 新しいパーヴの王太子妃のために!」  貴賤を問わず、城中がまるでこのありさまに違いない。一シクルも続いた婚礼の末席にありつけたわけでもないのに。  前庭の面々は、みな同じ扱いだ。卑しい交易相手たち、利益をもたらすからには酒の一杯でもふるまってやれ。卑しい身分の異人どもは感涙していっそう尽くすことだろう。  パーヴの考えそうなことだ、とコクヨウは黒いベールの下で苦笑した。 「草原の国の族長」  イリーンの言葉が喧噪をくぐり抜け、かすかに届いた。  イリーンの役人である。酔いのためか、丸くふくれた頬は紅潮していた。しかし、目つきはいつになく険しい。  しくじったか? 気に入らぬものでもあったのだろうか。  祝いに献上した品々を頭の中で検分する。無難なものだけを選んだつもりだったが。文化の差異は難しい。  イリーンについてはよく知らない。この一年、交易相手としてつきあってきただけだ。 「草原の国の族長。話がある。こちらへ」  手招きをする。  コクヨウはベール越しに族長に告げた。 「なんだ、新しいもうけ話か?」  族長は楽観的である。  少しはクロミカゲの慎重さを見習ったらどうだ。  言い出したいのをコクヨウはこらえた。師の名は、族長の前では禁句である。  そんな気持ちもつゆ知らず、族長は踊るような足取りでイリーンの役人の後に続く。  よくもこれだけの人を詰めこんだものだ。  人をかきわけながら、コクヨウは進む。  族長は人の中に埋もれ、危うく見失いそうになる。  並の背なら目立つだろう。草原の民はパーヴの人々より頭ひとつは飛びでるものだ。しかし、それもまた禁句である。フェルト帽の下と同様に、本人の気にするところであった。  玄関の石段の前に、金髪の若者たちがたむろしていた。  ウルサの留学生か?  身なりは可もなく不可もなく、身分は高くはないが暮らす金には恵まれていそうな血色のよい若者たちが、ウルサの言葉で談笑していた。  その向かいで、イリーンの役人は止まった。 「パーヴのカーチャーさまです。このたびは、草原の国と交易はどうかと」  フリルだらけの服を着た男が、へつらいとごますりに囲まれ、侮蔑の笑みを浮かべていた。ピートリークの言葉が響く。 「これが草原の国の! ほほう、見るからに野蛮だ! 一同、見よ! これがあの先王をたぶらかした悪女のゆかりの者だぞ!」  追従笑いが辺りを包んだ。 「貢ぎ物をすれば、臣下と認めてやるぞ。馬と剣と毛織物が特産なんだろ。よこせ、野蛮人」  カーチャーが言えば、イリーンの役人が穏便な言葉に直して訳す。  族長に伝えるまでもなく、コクヨウはイリーンの言葉で返じた。 「我らはイリーンの友として、遠路はるばるはせ参じた。客として歓迎されこそすれ、頭《こうべ》を垂れ、異人に屈っせよとは何事か」  カーチャーたちがどよめいた。 「女だ。この喪服」 「草原の女は美人なんだろ。もったいぶらずに顔を拝ませろよ」  イリーンの役人があわてた。 「通訳はみな黒衣に覆われるものでして。そのままに、そのままに」  囲まれた。  まいったな。  コクヨウは族長の顔色をうかがった。  もう、遅い。  言葉の壁を、侮蔑は超える。 「我らを侮辱するか! 誇り高きイワツバメの一族を!」  腰にやった手が空を切る。  剣は鞍の下に置いてきたのである。城内は帯剣を禁じられている。  茶褐色の髪の間で笑いが起こった。  黒髪の族長は恥と怒りとで耳まで赤くなった。 「族長、お鎮まりください!」  コクヨウは駆け寄ろうとしたが、マントとベールを四方からつかまれ、自由を奪われた。  族長がこぶしを大きく振りあげ、近くの男へと突きだした。  気持ちのいい殴打音が響いた。  しまった! 遅かったかと見ると、ウルサの若者が右手でこぶしを受け止めていた。 「族長、お鎮まりください」  ウルサの若者が草原の言葉で言った。  太くはない。低く、よく響く声である。  発音が、どことなくちがっていたが、異人にしては上手である。 「意味わかんねーけど、これでいいんだろ?」  今度はピートリークの言葉で、青い眼がコクヨウにウィンクした。  右手にあった族長のこぶしを放す。  大きな手だ。皮も厚く、よく鍛えられている。  ウルサの人は長身だが、彼は中でも目立った。よく見れば、若いというより幼い。まだ成人前かも知れない。 「客人に無礼すんじゃねーぜ、カーチャー伯爵とやら」  彼がからかうと、パーヴの役人は怒鳴った。 「客なものか! こ、これは隣国の王をたぶらかした、あの売女めのゆかりの……」  コクヨウの手が震えた。  ウルサの若者が高く笑った。 「黒龍のお姫さんかい? 王さまに聞かれたら首が飛ぶぜ。王さまは、そりゃあ、あの人をかわいがってたんだからな」 「王太后さまに申しあげてやる! おまえの態度は不敬罪だぞ!」 「言いつけられるもんならやってみな、自称伯爵さま。位階詐称が表沙汰になってもいいってんならな」  カーチャーはじりじりと後退し、やにわに人ごみに逃げこんだ。 「やべ」  イリーンの役人をふり返ると、ウルサの若者は言った。イリーンの言葉である。 「にしゃもやべ」  イリーンの役人は退がった。 「ちょっと残念だったな。あんたの勇姿見たかったのに」  今度はピートリークの言葉でコクヨウに話しかける。人なつっこい笑みは、これ以上ないというぐらいご機嫌である。 「イリーンの言葉も操るのか?」  コクヨウは同じくピートリークの言葉で問うた。 「ん、かあちゃんたちから教えてもらったから……」  族長が走りより、ウルサの若者を強く抱きしめた。手を、腕を、肩を力強く握る。 「礼を言ってくれ」  族長はコクヨウに言う。 「言葉は通じぬとも、我らが名誉を守ったことはわかったぞ」  コクヨウは礼を告げた。  ウルサの若者は笑った。 「いいよ、そんなの。それより出よう。どこ泊まってんの? 送ってくよ」 「心配ご無用。道は存じている」 「この時間じゃ、表通りは出店でいっぱいだぜ。裏通り行かなきゃ。任せな。ここは庭みたいなもんだから」  族長に伝えるべきか迷うが、族長のほうがいっそう乗り気だった。 「我らが宿まで来てもらえ。今宵はたっぷりもてなそう」 「しかし、習慣が違いますれば……」 「気に入った。いい体をしておる」  コクヨウはベールの下で困惑した。 「早く行こう」  ウルサの若者がよく響く低い声でうながした。  馬を並べて裏通りを歩いた。  表はウルサの若者の言う通り、人でごった返し、身動きできないありさまだった。 「先ほどの諍《いさか》いで、そなたが不利にならなければよいが」  コクヨウはカゲに揺られながら言った。 「さっきの? カーチャーのこと?」  ウルサの若者が栗毛の鞍上で問う。 「なんねーよ、ぜんぜん。いつかとっちめてやろうと思ってたんだ」 「しかし、役人に逆らっては、そなたの立場が悪かろう」  あの場に招かれる留学生風情では、身分はたかが知れている。 「あのさ」  ウルサの若者が馬を寄せて、コクヨウの顔をのぞきこんだ。 「他人行儀、そろそろやめてくんない? 調子狂うよ」  馴れ馴れしさに調子が狂うのは、こちらのほうである。  コクヨウは馬を離した。 「前もって断っておくが、我ら草原の者は、ウルサともパーヴとも異なる習慣を持っている。ムリ強いはしないが、驚かぬように心してもらいたい」  とつぜん、蹄の音が響いた。  近づいてくる。  コクヨウはふり返った。手綱を握る手が汗ばむ。  追っ手か? まさか。もう見破られたか? 「たっ、たすけ……」  甲高いがかすれた男の悲鳴とともに、馬が駆けてくる。 「ヴァンストン!」  低い張りのある声でウルサの若者が叫んだ。知り合いらしい。 「どうした!」 「殿下が!」  ウルサの若者はコクヨウを見た。 「リュウカ、ここにいろ」  低い声ではっきりと言い残し、馬の腹を蹴る。風とともに、一気に走り去った。  コクヨウはあっけにとられた。  族長にヴァンストンの手当を頼み、急ぎ若者の後を追った。  間者であれば、捨ててはおけない。  薄闇の中、細剣が光り、怒号が轟いていた。 「迎えに来たぜ、王子さま」  よく通る声を響かせ、ウルサの若者が人馬の間に滑りこんだ。 「グレイ! 遅い!」  金毛《パロミノ》の陰から、背の低い男が偉そうに叫んだ。こちらもまだ年若い。 「さっさと片づけろ!」 「へいへい。そのまま動くなよ。ケガでもしたら、リズに怒鳴られるからな」 「呼び捨てにするな! 私の許婚だぞ!」  グレイと呼ばれたウルサの若者は、すでに剣を抜いていた。刀身が太い。  草原の剣に似ている。追いついたコクヨウは思ったが、それは形だけではなかった。  ひと振りすると、敵の細剣が根本から折れた。ふた振りすると、落馬した。  振り方も、パーヴよりは草原のものに似ていた。  勝負は見えていた。  賊はたちまち逃げに入った。 「殺すな! 生け捕りにしろ! 頭領の名を聞きだせ!」  救われた男が命じる。 「ムダだと思うぜ」  グレイは追わず、馬を降りて、息のある者を起こした。  問い詰めてみれば案の定、行きずりの見知らぬ輩に金を渡されて頼まれたのだという。 「卑怯なヤツだ! 正々堂々、正面から向かって来い!」  金毛《パロミノ》の陰から現れた男は、肩掛けをしていた。その縁取りがチラチラ光る。  金糸か?  だとすれば王族である。この年頃のパーヴの王族といえば……。  ベールの下でコクヨウは苦笑した。  エドアル王子に間違いない。声にも聞き覚えがある。 「まったくだ。正面から来ても充分叩けるのによ」 「王子をバカにするか!」 「だって、バカだろ?」 「私のどこがバカだと言うのだ!」  パーヴの王子を相手に軽口を叩けるのはどこの誰だろう?  ウルサの王子か? まさか。 「護衛も連れずにそのご立派な身なりで出歩きゃ、どうぞ襲ってくださいってなもんだろ」 「伴は連れてきた!」 「へえ。どこに?」  グレイは大げさに見回してみせ、エドアルは伏し目がちに答えた。 「逃げたのだ」  グレイは短く笑った。弦楽器を思わせる心地よい声が通りに響く。 「おまえが悪いのだ! 勝手に草原の国のお方を連れだすから! 衛兵を集める間もなく、急ぎ追ってきたのだぞ!」  コクヨウは馬を返した。 「どこへ行く!」  後に続くグレイにエドアルが問うた。 「あんたの忠実なしもべのとこに行くんだよ。いけ好かねーヤローだが、ほっといてくたばられちゃ寝覚めが悪ィや」 「ヴァンストンか? あいつは真っ先に逃げだしたのだ! あの弱虫め! 命を賭して主君を守るのが臣下の役目ではないか! 王子の命とたかが己の命と、どちらが重いのか!」  コクヨウの手が汗ばんだ。  動揺するな。今、自分は草原の民の、しかも通訳なのだ。なんのための黒装束か。 『我慢するときは、何か別の楽しかったときのことを思いだすんです』  かつての侍女の言葉が思いだされる。  そうだ。ウィックロウのことを……。  しかし、追われて母は……。  では、師のことを。  しかし、追われて逃げる間に師は不遇のまま……。  矢継ぎ早に考えて、コクヨウは苦笑した。どうも自分には不幸がつきまとっている。  では、小さな歌い手のことを。高く澄んだ美声の弟子を。今ごろは舞台で名をはせているだろうか? それとも薬屋に?  エドアル王子には、借りがある。あの子を救ってもらった。 「どっちの命が重い、だって?」  葛藤をくり返しているコクヨウのそばで、陽気な笑い声が響いた。 「そりゃ、自分の命に決まってんだろ。あんたが死んだって、オレは平気だぜ」 「無礼者! たかが子爵の分際で王子に……」 「それが命の恩人に対する態度かね。さっさと乗れよ。置いてくぜ」  金毛《パロミノ》はおびえて使い物にならなかった。  グレイはエドアルを引きあげ、鞍の後ろに乗せた。  このふたり、よい組み合わせかも知れない。コクヨウは思った。驕りがちな王子にとって、身分を越えて鼻をくじく者は貴重な存在だ。  族長の元へもどると、ヴァンストンとかいう男がうずくまり、震えていた。 「ようすは?」  草原のことばで訊ねる。 「おびえるので触ることもできん。背中を斬られているようだが、かすりキズだろう」  なるほど、深手なら、背中を丸めてはいられない。 「手当を」  コクヨウが声をかけると、震え声が応えた。 「よ、寄るな、蛮人!」  グレイが割って入った。 「悪いけどさ、ちょっくら、こいつら送ってくるわ。黄牛《あめうし》亭で待っててくんない?」  コクヨウは首をかしげた。 「黄牛《あめうし》亭?」 「知らない? この先を人の足で百歩ぐらい行った先に仕立屋があって、そこを左に曲がって大通りに出たら、たぶん見つかるからさ」 「無礼だぞ!」  エドアルが怒鳴った。 「どうせおまえの言うのは卑しい飯屋か何かだろう。そんなところに大切な客人を招けるか!」  グレイはニヤと笑った。 「黒龍のお姫さまが懇意にしてたって話だぜ。卑しいとはご挨拶だな」 「草原の国のお方、ぜひ城におもどりください。改めておもてなしいたします。今宵はゆるりと草原の国のお話でもお聞かせください」  エドアルの申し出を、コクヨウは族長に訳して伝えた。 「王子か!」  族長の顔が輝いた。 「よい拾いものをした。ここは機嫌をとっておこう。あとあと交易に有利になるかも知れん」  コクヨウはため息をついた。 「交易国を増やしては、生産が間にあいますまい」  のんびりとした暮らしを捨て、革なめしや機織りに今以上時を費やせというのか。  暮らしを切り売りして得られる代価を、族長は過大評価しているように思えた。 「よし、今宵は王子を口説こうぞ! コクヨウ、頼むぞ」  族長の意向は止められない。  しかたなく諾と告げると、エドアル王子は喜んだ。 「私の叔母上も、そちらの血を引いておられたのですよ。黒龍の姫と呼ばれましてね。剣をとらせれば国一番の使い手で、馬を走らせれば追いつくものなく、思慮深く美しい方でした。隣国に嫁がれ、若くして亡くなられましたが。まことに惜しい方を亡くしました。隣国のエリザ姫も、叔母上を慕っておりましてね。城には絵も残っております。ぜひご覧ください」  エドアルは得々と語る。  聞かなくとも、わかっている。  コクヨウは深々とため息をもらした。  城へ向かう道中も、そんな調子でエドアルは話し続けた。 「叔母上は幼いころ私の父に預けられておりましてね、昼間だけ実母のところに通ったのです。この実母という方が、草原より輿入れされた萌黄の方で……」 「何と言っておるのだ?」  族長が訊ねた。 「昔、草原ゆかりの者が、この国にいたとか」 「おもしろい。訳せ」  コクヨウは天を仰いだ。  口にしなかった過去を、敢えて明るみに出せというのか。 「あのさ」  グレイが馬を寄せてきた。鞍上には、今や彼ひとりだった。  エドアル王子はヴァンストンの馬に乗り換えたのだ。そちらのほうが上等な馬だったから。 「いつまでこの国にいるの?」  パーヴの王子の得意話を訳すよりは、生意気な金髪の子爵を相手にするほうが気楽だった。通訳にあるまじきことだが、コクヨウは誘惑に喜んで甘んじた。 「三日もすれば発つ」 「じゃあ、オレも郷《くに》に連れてってよ」  あきれた! 「思いつきや憧れでものを申すでない」 「今度こそ、一緒に行くぜ」  グレイはぐいと顔を寄せ、低い声でささやいた。 「リュートせんせ」  肌があわだった。  コクヨウはすばやく身を引いた。右手を剣に伸ばす。 「誰かと間違えているようだが」  グレイはニヤと笑い、ウルサの言葉で言った。 「あんたがどんなかっこしてたって、オレにはちゃあんとわかる」  さらに、イリーンの言葉で続ける。 「二年待った。もう充分だろ?」  コクヨウは息を詰めて金髪の子爵を眺めた。  元々音感のよい子だった。ノードリックの浴場でウルサの言葉を器用に真似た。しかし、あのやせっぽちで幼い面影はどこにもない。年のわりに小さかった背はウルサの青年らしく高く伸び、手足も人形のように長い。あどけなかった小さな口は大きく開き、小さかった鼻も長くなった。高く澄んだ天使のような声は、低く、弦楽器のような落ち着いた響きを伴っている。  まるで別人だ。 「あいにく子爵の知り合いはないが」  グレイは悪びれない。 「いろいろあってさ。今はグレイ侯爵の養子になってる。爵位ももらった」 「では、パーヴに忠誠を誓ったのか」  爵位授与には、王への忠誠がつきまとう。 「形だけさ。気持ちはいつもあんたのものだよ」  ウィンクした。  ああ、とコクヨウは観念した。  このいたずらっぽい青い眼は、あの子だ。虹の清水からどこまでもついてきた小さな子。竪琴を手にいつも歌っていた陽気な歌い手。ヒース。 「口がうまくなったな」 「口だけじゃねーぜ。後で、小夜曲《セレナーデ》でも奏でてやるよ」  相変わらず、ませた生意気な口をきく。  いたずら心が湧いた。 「セージュには会ったか?」  ヒース=グレイは、ニヤニヤ笑った。 「退治されなくて済んだぜ。あんたが名前を変えてくれたおかげかな」  ごくつぶしのヘデロ。その名で呼ばれるのがイヤだと恥じた男の子。  ヘデロは英雄セージュに退治された怪物である。  リュウカはくすくす笑った。後から後から笑いがこみあげた。  こんなに愉快なのは、どれぐらいぶりだろう。  人目がなければ抱きしめてしまいたかった。小さな男の子、愛らしい弟子! 「コクヨウ!」  族長が焦れた響きで呼んだ。 「何を話しておる」 「他愛もない話で」  すまして答えた。 「では、王子の話をさっさと訳さぬか。ずっと話し続けておるぞ」 「そちらも他愛のない話」  もう、どうでもよかった。 「どこにでもある自慢話です。勝手にしゃべらせておけばよろしい」 「だが、我らのゆかりの……」 「中身のない話です。適当にあしらっておきますから、族長はつまらぬことに気を使われませんよう」  リュウカがふり返ると、ヒースが訊ねた。 「葦毛、どうしたの?」 「うん、草原に入ったときに少しもめてな。守ってやれなかった」  思いだすにつけ、胸が痛む。母の臨終に立ち会った唯一の連れだったのに。 「これはカゲという。葦毛に劣らず気性が荒い。あまり近寄るな」 「ふうん。驪《くろうま》か」  ヒースはリュウカからカゲを上から下まで眺めまわした。 「その黒装束じゃ、どっからどこまでが人で馬かわかんねぇや。あんたのかあちゃんが黒い龍だってんなら、さしずめあんたは驪《くろうま》の龍だな」  笑った。 「オレ、強くなっただろ」  ヒースの眼が意味ありげに路地を指す。  リュウカもその黒い影には気づいていた。  殺気がよどんでいる。 「おごりは命とりだ」 「へいへい。じゃ、謙虚な気持ちで」  ヒースは大きく息を吸い、怒鳴った。 「そこにいるのは誰だ! 名乗れ!」  低い声は、薄闇によく響いた。 「エドアル王子、覚悟!」  影が動いた。 「族長、王子を狙う賊です」  早口に伝え、リュウカは剣を抜いた。 「殺すな! 生かして頭領の名を訊け!」  族長に守られながら、エドアルが叫んだ。  頭領?  前の賊といい、何かの集団に狙われているのか? 「あのさ、さっきも同じこと言ったよな」  ひとしきり敵を追い払った後、ヒースがリュウカと同じ問いを口にした。 「狙われる心当たりでもあんのか?」 「黙れ、蛮族。おまえの関わるところじゃない。黙って殿下の御ために働けばいいのだ」  ヴァンストンが反り返って言う。 「じゃ、好きにしな」  ヒースは剣をおさめた。 「オレも好きにするよ。これからはせいぜい近衛にでも守ってもらうんだな」 「草原の国のお方!」  思い詰めたように、エドアルは族長に呼びかけた。 「ここで会ったのも、大王ナージャの思し召しだろう。私にそこの者を譲ってくれないか」 「ダメダメ!」  間髪を入れずに、ヒースが答えた。 「この人はオレと一緒に草原へ行くんだよ。な?」  人なつっこくウィンクする。 「このままでは、私は殺されてしまう」  エドアルの声が震えた。 「昨夜は城内でからまれた。飲んだくれのたわごとと思ったが、学友が大ケガをした。今朝は頭上から燭台が落ちてきた。階段には油が流され滑った。事故だと思った。だが、今夜は城内で暴徒に囲まれた。祝い客にまぎれていたのだ。そして、城から出ればこのありさまだ。近衛たちは婚礼にかりだされ、私には身を守る手だてがない。そなたたちを雇う以外には!」  リュウカは族長に訳して伝えた。 「我らになぜ頼る? 見も知らぬ我らに」  族長が首をかしげた。 「我らはいわば親戚ではないか! そなたの国の姫が嫁いできたのだぞ!」  エドアルの言い分に、族長は納得がいかなかった。  草原の地の、どこかの一族の女が嫁いだからと言って、自分たちの一族に、なんの関わりがあろうか? 「金ならいくらでも出す! だから、譲ってくれないか。言い値で買おう!」  族長は答える。  我らは誇り高い民族である。人を売ることはしない。 「だが、交易で便宜をはかってくれるのなら貸してやってもいい。どうだ、コクヨウ、誰か見つくろって、ここに置いていくか?」  まんざらでもなさそうである。 「実は、族長、この王子には借りがある」  リュウカは草原の言葉で言った。 「私と、大事な愛弟子の命を救ってもらった」 「それはそれ、これはこれだ。一族の利益とおまえの都合を一緒にしてはいかん。交易を軽んずるな」 「ならばこそ。私が残れば交易に便をはからせることもできようし、借りも返せる」 「ふん、異国の者どもが、すなおに言うことをきくものか。我らを蛮人めと蔑む連中だぞ。ここは充分に引き延ばし、駆け引きしよう」 「駆け引きなどいらぬ。今、約束させよう」 「異国の者は平気で約束を反故にする」 「何をもめている! 早く返事をきかせろ! 一国の王子の頼みだぞ!」  エドアルが焦れた。 「王子の命が危険にさらされているというのに! なんとも思わないのか!」 「思わねぇよ。王子なんかクソの役にも立ちゃしねぇ」  ヒースが笑った。陽気な響きがこだまする。 「オレにとっちゃ、こっちの驪《くろうま》のねーちゃんと草原で暮らすほうがずっと大事だ」  草原に連れていくわけにはいかない。異質で厳しい世界だ。  だが、残るなら……。 「ヒース」  リュウカはピートリークの言葉で言った。 「エドアルには借りがある。おまえと私を救ってもらった」  ヒースはぎくりとした。 「殿下を呼び捨てとは! なおれ!」  ヴァンストンが叫び、ヒースがイリーンの言葉でさえぎった。 「二回も助けたんだぜ。借りどころか、釣りがくるぐらいだ」 「まだだ。充分ではない」  リュウカはベールを剥いだ。 「借りを返そう。エドアル」 「あ、姉上?」  エドアルの声が裏返った。 「ったく。頑固なとこは変わんねーぜ」  ヒースがあきれ声を出した。  部屋に現れた男はひどく年老いていた。  母を育てた人である。数えてみれば気づくはずであった。 「そのまま、そのまま」  杖をつきながら、片手をあげた。曲がった腰、白い頭髪、シワとシミだらけの顔。なにより、しょぼくれた目と両端のだらしなく下がった口が、心の齢《よわい》をも映していた。  上げかけた腰を、元にもどす。 「パーヴ国王カルヴ陛下です」  リュウカは族長に紹介した。 「あの老いぼれがか? 隠居すべき年だろう」  草原ならば、統べる力なくして長は務まらない。体力も精気も衰えれば、一線を退くものだ。 「このたびは、王太子殿下のご成婚、おめでとうございます」  リュウカはソファに腰をおろしたまま言った。  室内の調度類はカーテンとソファだけ、王族の応接間にしては狭く質素である。灯された明かりは暗く、濃い影の落ちた王の顔はいっそう老いさらばえて見えた。 「明朝でようやく長かった儀式も終わる。もっとも夢中なのは母上でな、儀式の間中、大騒ぎだった」  パーヴ王カルヴの母とは、先王ナージャの王妃であった現王太后である。 「では、王太后陛下もご息災で」 「予よりも元気なくらいだ」  九十を越えているだろうに。まるでレアードだ。他人の精気を吸う不死の女。 「王后陛下もご息災で?」 「いや、あれは」  向かいのソファに体を埋め、カルヴは両手で顔を覆った。 「母上は尼僧院に」  付き添ってきたエドアルが代わりに答えた。 「昨年、おばあさまへの謀反のカドで」  王妃は王太后の遠縁で、料理好きのおとなしい女性だったはずだ。大それたことをする人には思われない。 「濡れ衣か?」 「一昨年、ガーダ公が行方知れずになったことを、姉上はご存じですか?」  モーヴ伯父上が?  胸中が波打った。 「捜索は?」 「三月《みつき》。見つからず、葬儀を。そして、公の兵はみな解雇されました」  リリーは? マムやサミーは? 「それらの中から不満分子を集め、ハータ公が謀反を企てたのです。母上はその旗印となり、しかし、ことは早期に露見し、尼僧院に」 「あれは、エドアルに王位を継がせたかったのだ。女の浅知恵よ」  カルヴが首を振った。  女の浅知恵か。草原の女に聞こえれば、袋だたきに合うところだ。 「知らぬこととは言え、私も処罰を免れぬところでした。しかし、隣国から申し入れがあったのです。婿に手を下すなと。婚約がある以上、リュウインを無視することはできず、私はおとがめなしということになりました」  エドアルは、ソファを叩いた。 「私は、あの赤イタチめに助けられたのです」 「では、昨夜からの襲撃は、王太后陛下の差し金と、おふたりはお考えか?」  リュウカは本題に入った。  ふたりは言いよどみ、うなだれた。 「城内の警備を強めてはいかがか? 信頼に足る護衛をつけ、いや、むしろ王太后陛下には遠くでご隠居を……」 「できるなら、とうにやっておるわ」  カルヴがため息をついた。 「母上は近年、ますます盛んでな。予など傀儡よ。寵はすべてセージュにある。予には妃も王子も守る力すらないのだ。せめて、あと二十若かったら」  ふたりの妃とふたりの息子は世を追われ、ひとりの息子は寵を浴び、残るひとりは命も危ない。  老いた国王には同情を禁じ得ない。 「私も姉上のようであれば」  エドアルもため息をついた。 「私には剣の腕もなく、異国の血も流れていない。守るすべも、逃れるアテもないのです」  廊下に、足音が聞こえた。  新たな襲撃か?  リュウカは柄に手をかけた。今度は帯剣を許されている。  人数は、ひとり。荒く、無防備である。  扉が勢いよく開かれた。 「草原の王はどこか!」  毛皮のガウンに乱れた夜着、くしゃくしゃの髪。小柄な背格好がエドアルにそっくりである。 「リュウカ!」  男が駆け寄った。  反射的に、リュウカはさやを抜いた。男の喉元につきつける。  男は両手を大きく広げた。 「リュウカ! リュウカだな? 今までどこにいた? どうしてもっと早く頼ってこない!」  カルヴが口をはさんだ。 「セージュ、初夜だろう。務めにもどれ。姫を待たせてはならぬ」  叱るというよりは、頼むような弱々しさだった。 「あんな女、今すぐ追い返す! リュウカ、今までどうしていた。その男は誰だ?」  族長を指す。 「草原の長だ。ずっとそちらに身を寄せていた」 「身を? 亭主か! リュウカ! こんな蛮族に!」 「父だ。異人である私を扶養してくれた」  正確に言えば、扶養してくれたのは母だ。父とは名ばかりだ。 「父か!」  表情は一変し、セージュは族長の手を握った。 「今まで、リュウカをかくまってくれていたのだな。送り届けてくれて礼を言う。リュウカは我が国にとっても大事な姫なのだ。ほうびをとらせるぞ。なんなりと申せ」  リュウカは説明を省いた。 「こちらは王太子。礼をしたいと」 「では、交易だ」  族長が言った。 「ファイアウォーに人を遣わせと言え。いろいろ理由をつけてな。焦らして、最終的には、ガーダといったかな、あの辺りで取り引きできるよう交渉しろ」  ファイアウォーはガーダを北上し、パーヴの国境を越えたところにある。草原やイリーンや各国から荷や人の集まるにぎやかな商人たちの自治区である。  話すだけムダだ。しかし、説明も面倒だ。直に断られれば納得するだろう。  リュウカは言った。 「長は交易を希望している。場所はファイアウォーでどうかと」 「そんなものでいいのか? いいぞ」  予期せずして、セージュが快諾した。 「草原はまずかろう。母上が許すまい」  カルヴがとがめる。 「ババアなんかに文句言わせるかよ。決めるのはオレだ」  セージュは得意げにリュウカを見た。 「チンディト公に話をつけておく。細かい話はそっちでつけろ。要求はすべて飲ませる」  リュウカは通訳をためらった。話がうまくいきすぎる。  セージュがせかす。 「早く言えよ。信じてないのか? もう昔のオレじゃないんだぞ。オレのひと声で国中が動くんだからな。なあ、オヤジ」  得意そうにふり返ると、カルヴは力なくうなずいた。  族長が訊ねた。 「どうした、コクヨウ。問題でも起きたか?」 「いえ。王太子は要求をすべて飲むと」 「そうか!」  族長は顔を輝かせた。 「話のわかる男だ! おまえも、しっかり護衛を務めなくてはな!」  エドアルの護衛に対する礼と取ったらしい。  後日、チンディト公とファイアウォーで落ち合い、細かな打ち合わせをすることを約した。  リュウカが付き添えない今、新たな通訳をファイアウォーで探す必要があったからだ。 「務めを早く果たしてもどるのだぞ。今年こそ、婿を取り、おまえには跡を継いでもらわねばならぬ。今年はムカイビも腕を上げた。おまえもコウギョクも必ず気に入るぞ」  そう言い残し、族長は道案内に衛兵をふたりつけられ、ほくほく顔で宿へ引きあげた。  セージュが約束を反故にすればいい、とリュウカは思った。  今まで、なにもかもうまく行きすぎたのだ。族長はすっかり増長してしまった。  自分の尽力がアダになった。交易のうま味だけを覚えさせてしまったのだ。  これを機に、現実に立ち返ってくれたら、と思う。 「リュウカ、もう安心だぞ。オレが守ってやるからな」  当然のように、セージュはリュウカの隣に腰をおろした。 「一生オレが面倒みる。イリーンの女なんか追い返して……」  肩に手が伸びてくる。  リュウカはすばやく手刀でセージュの首の後ろを打った。  セージュが頽《くずお》れた。 「エドアル、すぐに支度を。日の出前に出立する。友に声をかけよ、理由はなんでもよい、視察でも狩りでも。荷は後で届けさせよ」 「とつぜん、姉上、どこへ?」 「伯父上には一筆したためていただきたい。王子を使者に仕立て、貴国の王女を届けにあがると。それから護衛を数名。モーヴ伯父上の部下であればなおけっこう」  近ごろの兵は形ばかりの剣だと、モーヴはよく愚痴ていた。しかし、配下の者ならば、実戦向きの訓練を受けたはずだ。 「まさか、姉上、リュウインに行かれるつもりでは……」 「あの赤イタチは、そなたを守ってくれるのだろう?」 「しかし、姉上のお命が……」 「私があちらへ参るのと、そなたがここに残るのと、どちらに分がある?」  エドアルはうなだれた。 「そなたには借りがある。死なれては返せぬよ」  リュウカは笑った。 「それにしても、あの子はどうしたのです? グレイ家の子爵とは」  ヒースに話題を転じる。 「エドアルが森で預かった、あの男か?」 「ええ、城の水が合うとは思えませんが」 「あいつはいったいなんなんです?」  エドアルが頭をあげた。 「王を王とも思わぬ傍若無人ぶり。下々の者とは平気でつるみますし、女と見れば片っ端から口説くのですよ。もう、ほとほとあきれました」 「そなたが連れて参ったからには、むろん、それなりの素性の者であろう」  カルヴが身を乗りだす。 「ウルサの姫のゆかりとか?」  ウルサの姫?  なんのことか、リュウカにはわからなかった。 「本人はなんと?」 「言わぬ。ムダに饒舌でありながら、肝心なこととなると、とんと口を割らぬ」  ヒースらしい。親しげに話しながら煙に巻く。 「本人が語らぬことを、どうして他人の私に語れましょうや」  すなおに頭を垂れながら、リュウカは内心ニヤと笑った。  渡り廊下で人の輪を見つけた。  肌寒い夜をわずかな灯りが照らした中、侍女が五人、侍者が一人、中心に金の髪の若者。成人したか否かの年ごろである。低い声は快く通り、その言葉に一同は沸いた。 「ヒース」  呼ぶと、手を振った。  輪は散り、若い子爵はリュウカの元に駆け寄った。 「どう? 話はついた?」 「今すぐにエドアルのそばについてもらいたい」 「用心棒? いいよ。それで?」 「じきに王子の棟から出て、友人をまわるはずだ。その間だけ頼む。朝には外出するが、そちらは私がつく。おまえはここに残って休んでいなさい」 「それから?」 「その先は、また考える」 「了解」  ヒースはにこにこと笑った。 「なあ、オレ強くなっただろ?」 「おごりは……」 「命とり。一回聞きゃ充分だぜ。でも、やっぱあんたにゃかなわねーや。さっき見て思った。吸いつくように斬るよな。オレもまだまだ精進しなきゃな」  剣を振る真似をする。 「でも、もう置いてきぼりはナシだぜ。ずっと一緒だからな」  青い目がウィンクした。  胸が痛んだ。 「おまえの周りはいつもにぎやかだな。近ごろは、女とみれば片端から口説いているとか」 「エドアルのヤツだな?」  ヒースは笑った。 「やっかみだよ。オレがリズと仲いいからさ。あいつさ、かしこまって『エリザ姫』って呼ぶんだぜ。そのたんびにリズに怒られてやんの。なんで加減ってもんがわかんないのかね。そりゃ、あんたも同じか。人づきあい下手だもんなあ。ホント、オレがいないとダメなんだからな、リュートせんせ」  ふいに、金髪の若者に、小さな男の子の姿が重なった。歌が好きで生意気な弟子。 「それにしても、まさか草原の地に逃げこむとはなあ。やることデカいぜ、うちの先生は」  陽気に笑う。心やさしく愛らしい弟子。  リュウカはぎゅうと抱きしめた。  指の間からこぼれるやわらかな金髪。心地よいぬくもり。 「ヒース。おまえは変わらないな」  離すと、弟子の顔は真っ赤だった。 「あのさ、リュウカ」 「ん?」 「また、胸デカくなった?」  殴った。  早朝、出立した。  エドアルは学友を三人連れていた。彼らは道中、エドアルを諫《いさ》めた。 「本日は王太子さまのご婚儀の最終日ですよ。御印《みしるし》を表されるのですよ。こんな大事な日に狩りとは。王太子さまの御不興をかわれます。どうかおもどりを」 「おまえたちは私と兄上とどちらが大事なのだ!」 「殿下の御ためを思えばこそ!」  護衛はふたり。 「この祝いで人が集まらなかったのですよ」  ひとりがリュウカにささやいた。 「陛下もお人が悪い。リュウカさまにご同行とおっしゃれば、いくらでも集まりましたものを」  リュウカは、長旅でよくそうするように、髪を布で包んでいた。 「黒髪を見ずとも、ひとめでわかりますとも。お顔が母君そっくりです」 「母をご存じか?」 「大将の部下で知らぬものはございませんとも。さんざん泣かされましたからな」 「何か迷惑を?」 「迷惑などというものではございません」  ふたりは笑い、パーヴ時代のレイカの悪行の数々をあげた。 「囚人をみな逃がしておしまいになった時には青くなりましたぞ。凶悪犯が多くおりましたからな。再度とらえるのに、何人傷ついたと思います? 大将が、あまり本気を出すなとおっしゃらなければ、命を落とす者もあったでしょう」 「凶悪犯もあったのに、なぜ本気を出すなと?」 「ひとつひとつ本気を出しては体が持ちませぬ。次々と無理難題を吹っかける姫がいらっしゃるのに!」  ふたりは陽気に笑った。  一方、エドアルは機嫌が悪かった。 「姉上」  話に割って入った。 「あの馬はなんです?」 「コウモリか」  グレーがかった毛色の馬がカゲに並んでいた。よく見れば、白い毛のわずかにまじる葦毛だとわかったろう。 「長にいただいた」  王太子セージュに、と渡されたものである。  宝の持ち腐れだ。あんな男に、この誇り高い駿馬が乗りこなせるわけがない。  勝手に連れだしたことは、後で知れるだろう。かまうものか。 「私にくださいませんか?」 「馬のほうでなんというかな。アレは乗り手を選ぶぞ」 「気が荒いのですか? おとなしそうに見えますが」 「気だてはやさしい。乗り心地は格別だ。ただ、草原以外の者に乗りこなせるかどうか」 「お任せください。私は馬は得意なのですよ」  強く止めるべきだった、とリュウカは後から悔いた。  手綱をとるやいなやふり落とされ、みなの面前でしたたかに背中を打ったのだ。 「乗る前でよかったな。落馬しては大事だった」  慰めてみたものの、エドアルは前より不機嫌になってしまった。 「痛むか?」 「心が」  外套と上衣の背中は、醜く裂けていた。 「着替えぐらい持ってくるのでした! こんなかっこうで隣国を訪ねるとは!」  国境は目の前だった。 「隣国へ行かれるのですか?」  同行の学友たちが不安げにエドアルの顔をのぞきこんだ。 「実は、ひそかに王命を授かっている」  エドアルはもったいぶって言った。 「命令書もいただいた。こちらにおわすのは、リュウインのリュウカ姫である。これから母国にお連れするのだ。姫が落ち着かれるまで、我らもしばらく滞在する。おまえたちもついてくるな?」  学友たちは顔を見合わせた。 「それは、どのような意味でしょう?」 「おまえたちは黙ってついてくればいいのだ!」 「頭ごなしに言うものではない」  リュウカはたしなめた。 「そなたたちが知りたいのは、王太后のご意向だろう。王太后は、このことを知らぬ。私が生きていることすら知らぬ。その鼻先をすり抜け、国へもどろうというわけだ。エドアル王子はしばらくパーヴへはもどらぬ。不穏な動きがあるのでな。このままリュウインに婿入りするかも知れぬ。それでもついて来るか? そなたたちにも家族があろう。王太后の機嫌をそこねてはタダでは済まぬだろう。呼び寄せてリュウインで暮らすもよし、このままもどるもよし、どうか?」 「姉上! そのような物言いは!」 「隠してどうする? 誰にも都合はあろう。得心せずして先へ進むことなどできぬ」  学友たちは長い間相談していた。  やがて、ヴァンストンが青い顔で言った。 「私は殿下とご一緒いたします」  エドアルは満足そうにうなずいた。 「そうとも。長く机を並べた仲ではないか」  あとのふたりは帰ると言った。  烈火のごとく怒るエドアルを、リュウカは押しとどめた。 「それぞれに事情はある。ムリ強いしてもよいことはない」  国境は、エドアルと学友のヴァンストン、護衛の二人との五人で越えた。 「王都におうかがいを立てなければ、お通しできません」  入国でもめたが、リュウカは笑った。 「エドアル王子殿下を足止めし、ご不興をこうむっては、そなたも先はあるまい。たとえ何やら疑わしくとも、五人ばかりで何ができよう。ここは黙って通すが得策と思うが」  なるほど、それも道理だと、警備の長は通行を許した。 「程度が知れますな」  護衛のひとりがささやいた。 「お偉方の顔色ばかりうかがい、己の務めは二の次。どこの国も同じですな」  まったくだ、とリュウカは苦笑した。  王都ロックルールへの途上で迎えが来た。 「これはこれは、婿どの」  鞍上から、黒い毛皮の外套を羽織った小男が、大声を轟かせた。 「長旅をお疲れでしょう。馬車もなしにお越しとは」  襟元は茶色のやわらかそうな毛皮で縁取られ、頭にかぶった毛皮の帽子の折り返しには、金や宝石が光っていた。高価で品のいい身なりの中から、大きな目がぎょろりと動き、大きな鼻がひくついた。  なにより、左頬のキズが、何者であるかを雄弁に物語っている。  リュウカの手に汗がにじむ。気がつくと柄《つか》を握りしめていた。  まだ、早い。  ゆっくり息を吐いた。  エドアルの命のために、この男は必要なのだ。  男は恭しく頭を垂れた。 「これはこれは王女殿下。ごきげんうるわしゅう」  目がせわしなく何かを探していた。 「お母君は?」  そうか。  リュウカはハッとした。  母の死を見た者はないのだ。 「昔はぐれたきりでな。何か消息を聞いていないか?」 「では、おひとりで?」 「エドアルに連れられて」  頬キズの伊達男は目を瞬かせた。 「なるほど、おっしゃる通りで」  コウモリに目を留め、カゲと交互に眺める。 「りっぱな馬ですな。どなたの?」 「どちらも私の」 「葦毛の愛馬はいかがされました?」  胸が痛んだ。 「今までどちらに?」 「どこということもなく」 「お探し申しあげました。八方手を尽くしましたが……」 「黒髪は殺せと触れが出たのでな」  伊達男は大声で笑いだした。 「お急ぎください。腕に覚えのある者をつれてまいりましたが、物騒でございます」  せかされて、深夜に城に入った。 「お待ち申しあげておりました」  城では、きらびやかな行列が、一行を出迎えた。  なかでも派手な女が進みでて、リュウカを上から下まで眺めまわした。髪粉で白く染めた巨大なまとめ髪に、キャベツの髪飾りをのせている。侍女が後ろから杖で髪を支えていた。 「お出迎え痛み入ります。王后陛下」  エドアルが宮廷風の礼をした。 「お疲れになりましたでしょう。今宵はゆるりとお休みくださいませ」  王妃はエドアルに声をかけ、再びリュウカを眺めまわす。 「お初にお目にかかります。リュウカ姫」  顎を突きだし、勝ち誇ったような目。  リュウカはおとなしく頭を垂れた。 「お目にかかれて光栄でございます、王后陛下」 「お母君とご一緒でなくて残念ですわ!」  王妃の声がうれしそうに響く。 「今や後ろ盾のない身。王后陛下のご温情だけが頼りでございます」  リュウカはますます頭を垂れた。 「お顔をあげてくださいまし」  王妃の声はさえずり歌うようだった。放っておけば、踊りだしたかも知れない。 「本日今より、妾《わたし》をまことの母とお思いくださいませ」  後ろにいる若い女を手招きする。王妃によく似た美人で、姉妹のように見えた。 「こちらはアイリーン王女、妾《わたし》の娘ですの」 「はじめまして、お姉さま」  つりあがった目が光り、唇の両端がふくみありげに上がった。 「不思議ですわ。生まれたときから城におりますのに、お姉さまにお目にかかるのはこれが初めてだなんて」 「野育ちですので、いたらぬところ多々あるやも知れません。よろしくご指導のほどを」  リュウカはへりくだって頭を垂れた。  目の前の姫は、さも驚いたかのように、大げさに両手を口元にあてた。 「まあ、どちらの野のお育ちですの?」 「幼きはウィックロウ。近ごろはどことも知れず、馬を駆り、羊を追っておりましたので」 「羊って、なんですの?」 「アイリーン、それはラムのことですよ」  王妃が大声で言った。 「まあ、おとうさまが見るのもおイヤという、あの臭い獣肉ですの? そういえば、ここも何か臭いませんこと?」  アイリーンがわざとらしく鼻をくんくんと鳴らした。 「これは失礼いたしました。直ちに汗を流して参りましょう」  リュウカが一歩退くと、アイリーンはかん高く笑った。 「しみついた臭いは、一晩ではとれませんことよ」 「まあ、たいへん。臭いが移らないうちに、失礼させていただきますわ」  王妃も高らかに笑った。 「姉上、なぜ黙って屈せられたのですか?」  静かなところまで退くと、エドアルはなじった。 「あんなひどい侮辱を衆目の前で受けて」  たかが口先に腹を立てている場合ではあるまいに。たとえ言い返したところで、水かけ論になるのは目に見えている。  案内された客室はエドアルの部屋とは離れていた。 「ここなら、そなたを守る必要はない。支障はなかろう」  抗議したがるエドアルをなだめた。 「しかし、ここでは姉上の身が危険です」 「そなたが守れるわけではあるまい」  部屋に入ると、大勢の侍女たちが待ちかまえていた。 「まずは湯浴みを」  ひとつの小さな湯船を十数人の湯女がとり囲んだ。  リュウカは、湯船のそばに大小の剣を置いた。侍女たちがとがめたが、こればかりは譲らなかった。  まだ、生きようと思うのか?  ふと、リュウカは苦笑した。  この絶望的な状況でも、まだ?  しかし、母の遺言だったのだ。  いまだ、己の生なるものは見つけられぬ。  右の指を洗うと、湯女が交代し、左を洗った。手首から肘を洗うと、肘から肩までと、また湯女が入れ替わる。  これでは、すべてが終わるまでに夜が明けそうだ、とリュウカは思った。これがリリーやマムなら、 『きちんと肩まで温まるんですよ。首の後ろから風邪はひくものですからね。髪はよく拭くんですよ。濡れたまま夜風に冷えたら、お熱が出ますからね』  と言って終わりだ。  湯浴みがこれでは、着替えは……。  考えるのをやめた。これも苦行と思い、目をつぶろう。 「お待ちを!」  扉の辺りが騒がしくなった。 「まだ湯浴み中です。お待ちを……」  リュウカは剣に手を伸べた。さやを払い、湯船を飛びだした。  泡を拭く間もなかった。  ついたての向こうから、暗褐色の髪とヒゲに埋もれた顔が現れた。  全身にとり肌がたった。 「レイカはどこだ」  記憶にある声が問うた。  腕が震え、ツバが鳴った。刃が明かりを受けて光った。 「おそろしい! 予に刃を向けるか!」  見開く目。いつか見た、そのままに。  頭の芯が熱くなり、リュウカは必死に正気を保とうとした。 「国王に刃を向ければ死罪ぞ。たとえ何者でもな。しかし、レイカの居場所を教えれば助けてやろう」  柄《つか》が泡で滑り、握りなおす。  拭くものが欲しい。されば、今すぐ斬れるものを!  見開いた目が、泡まみれのリュウカの体を眺めまわした。 「父は誰だ」  乱入者は目を細めた。 「おまえの父は誰だ! まことのことを言え!」  おまえだ、とは言いたくなかった。認めずに済むなら、どんな代償でも払っただろう。 「レイカは、今、その男のもとにいるのだな? では、おまえは何をしに来た! レイカと情夫のために、予から金も力も奪いにきたか! おまえにはビタ一文もやらん! いや、レイカの情夫など生かしておかん! どこだ! レイカは今どこにおる! 言え!」  母上!  リュウカはうめいた。  国王は懐から短刀を出した。手近にいた侍女につきつける。 「レイカの居所を言え! さもなくば、この女の耳をそぎ落とす。それとも指、いや、目がいいか?」  周りの侍女たちが悲鳴をあげ、逃げまどった。  卑怯者め。 「命が惜しくないらしいな」  リュウカは冷たく言い放った。  人質など意味はない。この距離なら、不慣れな握りをしたあの短刀が侍女のどこかを傷つける前に、懐に飛びこみ、腹を蹴り、体を後ろに飛ばすことができる。  だが、その時、国王の表情が変わった。 「その声。レイカにそっくりだ」  目がうるみ、熱っぽいまなざしを向けられる。  再び、全身にとり肌がたった。 「もっと言え。何か言え」  リュウカはうろたえた。 「レイカの声で。予のレイカ」  奇妙な恐怖が躰を貫いた。 「陛下! 国王陛下!」  夜着に着替えた小男が血相を変え、飛びこんできた。  だが、リュウカの目に、その姿は映らなかった。  突進し、国王を蹴りとばした。国王は壁まで転がり、大の字になった。 「レイカ。愛しいレイカ」  頭の芯が白く光った。  ふり下ろす!  手応えがあった。しかし、柄《つか》はぬめり、剣は手から滑り落ちた。  国王との間に、小男が入りこんでいた。  火のし用の鉄板を掲げている。  これで刃をしのいだのだ。 「それまで。どうか、それまで」 「宰相……」 「前《さき》の王后陛下なら、もう少し低いお声で『きさま』とおっしゃられるところでしょう。姫は少々お声が高い」  長い上衣を脱ぎ、背伸びをしてリュウカの体にかけた。 「野育ちというのは、のびのびとしてよろしいですな」  国王を引き起こす。 「何事もなく、安堵いたしました」 「何事もないだと! これは……情夫の娘は、予を殺そうとしたのだぞ!」 「何事もなく!」  宰相はきっぱりと言った。 「エドアル王子殿下をお預かりしている間は、何事もなきように。よいですな」 「だが、これは情夫の娘だぞ!」 「陛下がお悪い!」  宰相は国王を睨めつけた。 「王女に対して無礼ですぞ! お退がりなさい」  国王はうなだれ、ぶつぶつとつぶやいた。 「予の娘ではないのに……」  宰相は国王を部屋から引きずりだした。  ふたりが去ると、侍女たちがおそるおそるもどり、着替えの支度を始めた。 「お夜食をお運びいたします。お好みがございましたら……」 「要らぬ」  侍女が泣きそうな顔をした。  リュウカはそっとため息をついた。 「わかった。持っておいで」  大勢の侍女たちが、少しずつ、冷めた料理を運んできた。  手をつける気にならなかった。  リュウカは窓辺にもたれた。夜の中庭は暗く、母の声を思いだした。 『窓辺は危ない。近づくな』  宰相の言う通りだ。母の声はもっと低かった。 『きさま』 その通りだ。母ならそう言う。  母にはかなわない。  宰相は開口一番母の消息を訊ね、あの男でさえ、いまだ母の名を呼ぶ。  自分は王女なんかではない。『前《さき》の王妃』の娘でしかないのだ。ここにもどってくるべきは、自分ではなく、母だったのだ。  あのとき死んだのが自分だったら、どんなによかったか。  竪琴の音が響いた。  リュウカはビクリと顔をあげ、中庭に目をこらした。  よく通る低音。伸びのある心地よい声。  歌声は、普段の声とは異なるが。 「ヒース!」  窓から身をのりだした。  歌声はやまない。  小夜曲《セレナーデ》。短い恋歌。  一曲終わって、リュウカは苦笑しながら気のない拍手をした。 「こんなところに忍びこんで。つかまるぞ」 「衛兵なら、みんな伸《の》してきた」  窓の下に金色の髪が現れた。窓枠に手をかけ、よじ上る。 「味方に手を挙げてどうする。エドアルの身が危なくなるぞ」 「あのぐらいでやられちゃ、猫の仔だって防げねぇよ」  室内にたたずむ侍女たちが気づいて騒ぎだした。 「待て」  外へ知らせに行こうとする侍女を、リュウカは呼びとめた。 「不審なものではない。友人だ」  ヒースが悪びれずに笑った。 「無粋だなあ。夜這いに決まってんだろ」 「どうして事を大きくする!」  ニヤと笑う。 「何度もベッドを共にした仲だろ」  流れの薬屋だったころ。 「なるほど」 「え? 納得すんの?」 「おまえは帰りなさい。エドアルの警護はもう要らぬ」 「別に、あいつのために来たわけじゃねーよ。こっちにかあちゃんがいてさ」  かあちゃん? グレイ侯爵夫人か? 「お早く! こちらへ!」  ほかの侍女が人を呼んできたらしい。 「逃げなさい、早く」  うながしたが、ヒースは床にすわりこみ、竪琴をかき鳴らした。  ついたての向こうから、頬キズの男が顔を出した。 「よお。ジャマしてるぜ」  ヒースは竪琴でふさがった手の代わりに、足を上げた。 「リズのじーちゃん」  宰相はため息をついた。 「グレイ子爵。ここにおわすは第一王女……」 「黒龍の娘だろ。見りゃわかるよ」 「ウィックロウにお帰りください。この方は我が国の王女。めったなことがあってはなりませぬ」 「そうだよな、めったなことがあっちゃマズいよな」  ヒースはリュウカの顔を見つめた。 「リュウカ、ウィックロウへ来いよ。エドアルのヤツも呼んでやろう。あいつ、すぐ妬くからな。まったく、リズとオレの仲を勘ぐるなんて、どうかしてるぜ。リズのじーちゃん、パーヴからきた護衛とかいうヤツらも叩き起こしてくれよ。あいつらも連れてかなきゃ恨まれる」 「もう夜遅うございます。明日になさいませ」 「じゃあ、オレ、明日までここにいるぜ」 「聞き分けのない方だ。繰り返して申しあげるが、ここは我が国の王女の居室。一晩ご一緒というわけにはまいりませぬ」 「へいへい。リュウカ、行くぞ」  腕をつかんだ。 「早くメンツ集めてくれよ。でないと、ふたりっきりで逃避行になっちまうぜ」 「まったく、お父上によく似ていらっしゃる」  宰相は大きくため息をついて退がった。  欠け始めた月が、行く手を照らした。  草木が暗く影を落とす間を、白く道が浮かびあがる。  あのときは、下弦過ぎの月が昇っていた。右へ分かれれば国境の街エスクデール。母が後ろを駆けていた。  ふり返れば、今もそこに母がいるような気がする。 「こんな夜中に、なんで……」  ぶつぶつと、後ろからつぶやきが聞こえた。 「それだけ早くリズに会えんだぜ。喜べよ」  陽気な声が隣で響く。 「こんな夜中に。レディを訪問する時間じゃない。紳士のすることじゃない」  眠そうに、気合いの入らない愚痴である。 「いいじゃん。夜這いと思えば」 「失礼な! 私がかようなあさましいマネをするか!」 「へいへい」 「失礼ながら、賢明とは言いかねますな」  護衛のひとりが言った。 「夜更けに、このような連れと出歩くのは」  前後を数十の兵に囲まれていた。 「いいんじゃねーの? まだ斬る気ないみたいだし」  ヒースはのんびりと景色を見渡し、竪琴をつまびいた。 「つまらん歌はやめろ」  エドアルが不機嫌に言った。 「英雄、冥府よりご帰還の歌でも歌ってやろうか?」 「やめろ!」 「リズのお気に入りだぜ」 「私の許婚を呼びすてにするな!」  にぎやかなことだ。  ヒースは竪琴を奏で始めたが、たちまちにやみ、エドアルとの鬼ごっこに興じた。 「げっ。あいつ、マジになってやがる」  剣をふりまわすエドアルから逃れて、ヒースはリュウカの後ろにまわった。 「冗談の通じねぇヤツだ。なんとかしてくれよ」 「おまえが悪い。謝りなさい」 「許す前に斬りそうだぜ、あいつ」  黙って斬られてなどいないだろうに。エドアル相手に手こずる腕か。 「グレイ! 覚悟!」  エドアルが剣をふりあげた。 「エドアル。むやみに抜き身をふり回すものではない」  リュウカはうんざりしながら止めた。 「姉上はズルい! いつもそいつばかりひいきに……」  リュウカは鞘でヒースを打った。 「いってぇー」 「おまえが悪い」 「なんでオレが……」 「誰かが嫌がる歌など選ぶな。ほかにはないのか」 「あるよ」  ヒースは竪琴をかき鳴らした。  恋歌だった。  リュウカの周りをまわりながら歌う。 「アテつけか?」 「マジだよ、マジ」 「姉上に失礼であろう! この市井《しせい》の子が!」  エドアルが再び怒りだした。 「祭りの歌をやれ」  頭に手をあてて、リュウカは言った。 「どこの?」 「どこでもいい。陽気なものを」 「ご命令とあらば」  大げさに頭を垂れてみせ、竪琴を鳴らした。  懐かしいウィックロウの離宮は、記憶そのままだった。 「扉を開け、客を招いた。  待ちわびた客、急いて迎えよ。  逸して悔いることなきよう、  急いて迎えよ、支度もそのままに」  英雄セージュの歌の一節を、ヒースは奏でた。 「やめろ!」  エドアルは怒鳴った。 「あんな英雄、縁起でもない!」 「昔話だろ。どっかの王太子とは関係ねーよ。な、リュウカ?」  扉が開いた。燭台を掲げて女が出てきた。 「今、何時だと思っているんです! こんな大人数で! うるさくて、リズさまはもうすっかりお目覚めですよ!」 「お久しゅうございます、奥方さま」  護衛のふたりがひざまずいた。  女が後ずさりした。 「まさか、この軍勢は……」 「父ちゃんの子分はふたりだけだよ。残りはリズのじーちゃんがつけてよこした。夜道は危ないからってさ。なあ、リュウカ?」  女が燭台を高く掲げた。 「ちい姫さま!」  燭台をヒースに押しつけ、リュウカを抱きしめた。 「ちい姫さま、よくご無事で! ええ、信じてましたとも! 必ずお元気でおもどりになるって! 私にはわかっておりましたとも!」 「リュウカが窒息しかけてるぜ。バカ力緩めろよ。なあ、リュウカ」  ヒースが茶々を入れると、女は体を離した。 「お顔をよく見せてくださいまし。すっかりおきれいにおなりで。少しおやつれになりました? こんなところで立ち話もなんですから、お早く中へ。お疲れでしょう。お食事は済まされました? 湯浴みの支度を今させますわ。マムおばちゃんとサミーおばちゃんも今呼びますわ」  おばちゃん、ちい姫さまが、と叫びながらリリーは中へ駆けこんだ。  後に続くと、玄関ホールが燭台の明かりに浮かびあがった。  母の肖像があるはずだが、暗くて見えない。  代わりに、柱には無数の刀キズが浮かびあがった。壁や天井には新しそうな壁紙が貼られていた。  飾られた彫刻は、目の辺りがズタズタだった。確か、ここには宝石がはめられていたはずだ。  あの夜の名残だ、とリュウカは気づいた。  外套を羽織るヒマすらなかった。母とふたり葦毛に乗って……。  その夜の生き残りは、自分ひとり。 「おっと」  よろめいたリュウカをヒースが抱きとめた。 「イヤだった?」  ささやいた。 「あっちにいるよりはいいと思ったんだけど」 「なぜ、そう思う」 「顔色悪かった。よっぽどイヤなことでもあったんだろ。でも、こっちにはかあちゃんがいるし」 「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」  リリーがもどってきて叱りつけた。 「この方をどなただと心得てるんです! この方はね……」 「ちい姫さまだろ。わかってるよ。なあ、リュウカ」 「呼びすてにするんじゃありません! このバカ息子!」  リュウカは目を丸くした。    十七 ウィックロウ  馬を厩に入れ、水と飼い葉を与える。 「デュールさま、戸をお閉め忘れです」 「いや、いいんだ」  馬房は閉めなかった。 「しかし、このような名馬、逃げだして盗まれでもしたら……」  リュウカはつないでおくようにとは言わなかった。たぶん、葦毛と同じでいいのだろう。 「だいじょうぶ。あんたたちも休みなよ」  護衛たちは神妙な顔でヒースを見た。 「デュールさま。ご真意をお聞かせください」  真意? 「今度こちらへいらしたのは、もしやリュウインと手を組み……」  ヒースはあわてて両手をふった。 「エドアルをかくまうだけだって。王太后を倒すとか、エドアルを王さまにするとかはないって。物騒だなあ」 「我らにだけは、ご本心を」  あー、もう!  こういうヤツらが絶えないから、かあちゃんはパーヴから逃げだすハメになったし、エドアルだって狙われるんだ。  あのバアさんが気に入らないんなら、勝手にどうにかしちまえばいいんだ。人を担ぎだすな。 「あんたたちをご指名したのは、リュウカ王女殿下だぜ。長く留守にしてたから、状況もよくわかってないんだ。なにかあるわけないだろ」 「しかし、王女殿下にはデュールさまがご推薦くださったのでしょう」 「してねぇよ。リュウカが勝手に決めたんだ」  そして、勝手にオレを置いていきやがった。  くそっ! 「とにかく、おとなしく寝てくれよ」 「では、今夜のところは。必要とあらばお呼びください。直ちに駆けつけます」  血の気の多いヤツらだ。  ヒースはうんざりしながら離宮に入った。  玄関には歴代の女主人の肖像。燭台をかかげると、黒髪の美女が浮かびあがった。  いつ見ても、気の強そうな女だぜ。  傲慢で厳格そうだ。リュウカの言う『やさしい母』には、とても見えない。  奥へ入ると、リズの声が聞こえた。 「デュールは、モーヴおじさまがよそに作った子どもなの。ひきとってグレイ侯爵に押しつけたんですって。信じられないわ。あのモーヴおじさまが、リリーのほかに女性を作って、子どもまで生ませてたなんて!」  皮肉な笑いが浮かぶ。 『それでよいな』  国王カルヴが念を押したものだ。 『くれぐれも他言するでないぞ』  モーヴはイヤそうな顔をした。 『ほかにもっと穏やかな言いわけはないのですか?』 『リュウカにゆかりの者だ、そなた以外の誰に預けられる?』  深くため息をついてから、あきらめ顔でモーヴはヒースを見たものだ。 『リュウカの弟子だって? だったら、うちの奥さんに気に入られることだな。リュウカの姉さんみたいなものだからな』  連れて帰ると、リリーは鬼のように怒った。手当たり次第に物を投げつけ、モーヴをボコボコにした。 『あたしは、ウソをつかれるのが大っ嫌いなんです!』  モーヴが平謝りに謝ると、家具の陰に隠れているヒースを手招きしたものだ。 『あなたが殿下の子じゃないことはわかってます。でも、いったん預かったからには責任持ちましょう』  そして、ヒースの金の髪をやさしく撫でたものだった。  ガーダで一年過ごした。  黒髪の奴隷がいると聞いていたが、あまり見かけなかった。  仲良くなった商人がわけを教えてくれた。 『草原の連中は気位が高くてな。死ぬまで戦うか、捕まったふりをして敵の寝首をかくかのどちらかだ。手間がかかってしょうがない』  死を恐れないのだから、始末に悪い。だからなかなか買い手がつかず、商売にならないのだと、商人は笑った。 『萌黄のお方さまは、お姫さまを人質にとられて仕方なく、前の国王陛下の言いなりになられたんです』  後で、リリーが語った。 『萌黄のお方さまは、それは賢い方で、薬や毒にお詳しかったんですよ。それが長くご寵愛を賜った理由でもあるのでしょうね。萌黄のお方さまが亡くなってすぐに前の国王陛下もお隠れになったのが、なによりの証拠。王太后さまは、本当に恐ろしい方です』  モーヴは、よく剣のけいこをつけてくれた。リュウカの言う通り、強かった。  が、王太后に話が及ぶと苦笑いした。 『あのバアさんには、子どものころ、さんざんいたぶられたからな、おかげで女嫌いになった。でも、リリーだけは別だぞ』  どうして別なのか問うと、モーヴは笑った。 『口は悪いが、やさしい女だ。着飾った女は裏で何を考えているかわからんが、リリーはちがう。肝もすわって、機転もきく』  それは、モーヴが行方不明になったとき、証明された。  三月《みつき》の捜索の後、モーヴは死亡と定められた。モーヴの財産は没収され、兵は禄を失った。  国の正規兵は他所へ異動となったが、モーヴの配下のほとんどは、故人を慕った私兵だった。  捜索を続けよう、ヒースとリリーを立てて留まろうとはやる兵たちを、リリーは抑えた。 『みな、家族があるでしょう。殿下は必ず帰ります。その日まで、静かに暮らしなさい』  身の回りの一切を売り払い、部下たちに与えた。モーヴの財産は王族に帰すが、モーヴより与えられた宝飾品の数々はリリー個人のものだった。  ヒースを王都レンフィディックのグレイ侯爵に預け、リリーはウィックロウへ移った。  その後、ガーダに赴任したハータ公は、残された兵から不満分子を集め、エドアルの母を煽ってクーデターを企んだ。  せっかく、かあちゃんが静かに暮らせって言ったのに。  厩での一件も、この延長である。  みんな血の気が多すぎる。  部屋にもどると、ヴァンストンの声が聞こえてきた。 「殿下! このような狭いお部屋におわすなど、なんとおいたわしや!」  城がムダに広いんだって。ひとりに寝室がみっつ、リビングがふたつ、ほかに浴室や侍女の部屋までついてんだから。  酒瓶を三本抱えると、手はいっぱいだった。燭台はいらない。勝手知ったる家の中だ。  行き先は奥の一室。  入ったことはない。 『いつお帰りになってもよいように』  リリーたちは毎日掃除をしている。大事なお姫さまとやらの部屋だった。  そのお目当ての部屋の前で、燭台の光が暗い廊下にシルエットを作っていた。 「ああ、おまえか」  リュウカは剣の柄から手を離した。 「疲れたろう。ゆっくり休むといい」  リュウカは動かなかった。扉をじっとにらんでいた。 「入んねぇの?」 「ああ。お休み」  リュウカは手を伸ばし、ゆっくりと扉を開いた。そして、これまたゆっくりと足を踏み入れる。一歩、また一歩と確かめるように。  殺風景な部屋だな、とヒースは思った。  天蓋つきのベッドがふたつ、テーブルがひとつ、ローチェストがひとつ、火の消えた暖炉がひとつ。  リュウカが左側のベッドに腰を下ろした。  じっと、右のベッドを眺める。  空っぽのベッド。 「町娘の部屋だって、もうちっと飾り気があるぜ」  ヒースは中に入り、足で扉を閉めた。 「おまえ……」 「一杯やろうぜ」  テーブルの上に酒瓶をのせる。 「遠慮しておこう。あまり強くないのだ」 「そりゃあ、よかった。あんたのこと話したら、酒屋のオヤジが樽ごと差し入れるってきかなくてさ。止めるのにひと苦労だったぜ。あんたのかあちゃん、酒豪だったんだってな」 「夜ごとひと瓶たしなまれたものだ。祝いでは、いったいどれだけ飲まれたのか」  栓を開ける。景気のいい音が響いた。 「一杯ならいいだろ?」  酒杯に注ぎ、手渡す。  リュウカは杯を傾けた。 「香りが」 「あんたのかあちゃんがよく飲んでたってさ」  リュウカは杯を干した。 「この香りだ。母は毎晩、このテーブルで本を読まれた。いつもほのかにこの香りがした」 「ふうん」  テーブルをさすり、ヒースはギョッとした。なんだ? このキズ。  この離宮ではキズは珍しくない。柱という柱、壁という壁には刀傷がある。  しかし、このキズはどうだ? 斧か?  削り直して整えたのだろう、小さなキズは見あたらない。しかし、これは落としきれなかったのだ、深すぎて。  テーブルを撫でまわし、天蓋の柱をこすり、暖炉をすかし見る。  キズだらけだ。 「ここには、よほど金目のものがあったのだろうな」  リュウカの声が皮肉を帯びた。 「廊下に並ぶ像からも、柱からも、金箔や石が欠けていた。みな、むしりとられたのだろうな。なかでもここのえぐられ方はどうだ。みな争って探したのだろう」  何を?  深いキズが多い。まるで、潜んだものまで貫き、切り裂くような。  そうか。 「あんたらの首か」 「黒髪が高く売れるとは知らなかった」  リュウカは手酌であおった。 「城で、アレに会ったぞ」 「アレって?」 「母の名を呼んだ。闇に呼ばれたほうが、まだマシだ」  さらにあおる。 「こっちも飲むか?」  別の一本を開ける。小気味のいい音が響く。 「ちがうのか?」 「まずはご賞味あれ」  リュウカは杯を傾ける。 「香りが」 「やわらかいだろ。花の香りっていうんだ。苦みは強くない。ふくよかで、後口が軽いだろ」 「うん。こちらのほうが好みだな」 「だと思った! オレもこっちが好きなんだ」 「デュール」  呼びかけられて、ヒースはむせった。 「あんたまで、それで呼ぶかよ」 「今はそう名乗っているのだろう?」 「仕方ねーだろ。ほかに貴族っぽい名前知らなかったんだから」 「気に入らないのか?」 「あんたは使うな」  弟と思われちゃ、たまんねぇよ。 「勝手だな」 「あんたほどじゃ。だいたい、建国の祖の名前なんかつけるかよ、フツー」  ヒースクリフ。ピートリーク建国の祖。 「ああ、そういえばそうだったな」  リュウカは少し笑った。 「だが、そんなつもりでは。私はただ……。ここの夏の景色を見たことがあるか?」 「まだ。でも、あんたのお気に入りなんだろ? 濃い緑の葉と小さな白い花で野が埋まって」 「うん。そこにはマムがいて、リリーがいて……」 「サミーがいて、あんたのかあちゃんがいたんだろ。あんたはその景色が好きだった」 「そうだ」  うなずき、リュウカは酒をあおった。 「リリーはよくおまえを受け入れたものだ。伯父上の隠し子だと言われたのだろう? どう納得したのだ」 「ウソだって最初から知ってたよ」 「エリザ姫は、おまえがあのときの子だとは知らぬようだが」 「あンとき、髪染めてたじゃんか。まだちびだったし」  ピートリークにはありがちな茶髪に。  最初の湯浴みのとき、湯女が騒いだものだ。 『あれー、髪の色が抜ける!』  悪かったな。こっちが地色だ。  ごたいそうな服を着せられると、王さまが口をあんぐりと開けた。 『ウルサの姫のゆかりか?』  とうちゃんも同じことを訊いた。 『虹の清水辺りの出身か?』  うなずいておくべきだったか?  けど、素性が知れたら。スリのヘデロなんか、置いてくれるわけがない。  リュウカに会いたかった。このつながりを断ち切ってはならないと思った。  リュウカを守りたかった。ここにいれば、ひとりでいるより力がつくと思った。 「クス・イリムって知ってる? 背中にでっかい刀傷のある剣豪でさ」 「母の友人だ」  リュウカは火の気のない暖炉をにらんだ。 「会ったのか? 元気にしていたか?」 「うん。オレの剣の師匠」 「道理で。おまえの剣は草原に近いと。母は祖母から習い覚えた草原の剣を、イリム子爵と極めようとしたのだ。だが」  杯をあおった。 「だが?」 「母との仲を疑われ、斬られた」 「誰だよ、そんなバカは。あそこの夫婦見てりゃわかんだろ。師匠は救いようのない朴念仁で、おまけに奥方にぞっこんだよ」 「斬ったのは母だ。私を助けるために」 「どういうこと?」  リュウカはまた暖炉をにらんだ。 「この離宮は、百年ほど前、ウルサの姫のために建てられたものだ。柱も壁もウルサから取り寄せられた。ベッドも、暖炉もそうだ。今はないが、当時は池もあり、そのほとりに湯屋が建てられたそうだ」 「ウルサ式の?」  リュウカはうなずいた。 「じゃ、今はなんでないの?」 「王弟が火をつけたとか。ウルサの姫は王弟妃だったが、その実は国王の寵姫だったという。嫉妬に狂った王弟が火を放ったというが、真実はどうか。以来、ここは代々寵姫の館でな」  リュウカは暖炉に歩み寄った。 「人目を忍ぶため、仕掛けに凝ったらしい」  暖炉の横のレンガにナイフの刃先を差しこんだ。  黒い穴が空いた。おとながひとり、這って入れるほどの穴だ。  くぐり戸にレンガが薄く貼りつけてあるのだった。  閉じると、境目がわからなくなった。 「すげぇ」  ヒースは近寄り、目を凝らし、触れて確かめた。かすかなナイフのキズ以外、形跡はない。叩くと、音がうつろに響いた。 「厩につながっている。ここから逃れたのだ、あの夜」  リュウカはまだ壁をにらんでいた。 「母上と私は、ここから。あの夜の追っ手はちがった。明るみになることを恐れず、どこにでも待ち伏せていた。なにより、母上の命までも狙った」  そして、リュウカのかあちゃんは死んだ。 「母上は毎夜、そこのテーブルで本を読んでいた。かすかに酒の香りがした」  リュウカはテーブルにもどり、杯をあおった。 「強ぇじゃん」  ヒースは瓶を振った。空だった。 「弱いって言ったクセに」 「まだまだだ。母上なら何本空けることか」 「比べる対象間違ってるって」 「おまえはパーヴへ帰りなさい」  リュウカは暖炉をにらんだ。 「私といても……」 「ロクなことがない?」  ヒースは並んですわった。 「おまえと私はちがう。生まれた国も、持って生まれた定めも。私に寄るな。母の轍を踏む」 「また剣を教えてくれよ」 「師に習え」 「守るって約束した」 「簡単に言ってくれる」  リュウカはため息をついた。 「母上ですら、かなわなかったのだぞ。おまえなど、まだまだだ」 「もっと強くなるさ。それでも間に合わなかったら……」  腹に力をこめる。 「死ぬときは一緒だ。もう、あんたをひとりにはしないよ」  リュウカは薄く笑った。 「同じだ」  え? 「あの夜と同じ。母上と私は逃げた。母は立派な人だった。やさしく強く、賢くて正しい人だった。篤く慕われ、みな夢中になって集ってきたものだ。華があり、魅力があった。みな、母を頼りにし、敬い、愛した。勇ましく聡く、敵とも渡りあい、みなを守った。そうだ。母は最期まで私を守ってくださった。だが、私はそうではない。私には、何の力もない」  ヒースをふり返った。 「パーヴへ帰りなさい。グレイ侯の元にいれば、思う存分歌えるだろう。剣の腕も磨けるだろう。そうして、一生幸せに暮らしなさい」 「あんたと幸せに暮らすさ。二年待った。もうじゅうぶんだろ」 「おとなの言うことはきくものだ。わかったな、ヒース」  ヒースは空に向けて、大きくため息をついた。  子ども扱いかよ。 「あのさ、わかってる?」 「なにが」 「口説いてんだよ、オレ」  リュウカは微笑んだ。 「やさしい子だ。そうして力づけてくれなくてもよいのだよ」  アッシャ!  小さく呪いの言葉を吐いた。 「なにか、気にさわったか?」 「いいや! なんにも!」  立ちあがった。 「お休み!」 「お休み」  部屋から出て、後ろ手に扉を閉める。  待てよ。  酒瓶を片づけとかないと、かあちゃんに怒鳴られそうだな。 『ちい姫さまを酔わせて! なに考えてるんです!』  頭の中の声に肩をすくめて、ヒースはもう一度扉を開けた。 「リュウカ、瓶を……」  明かりに目元がきらめいた。  濡れていた。  暖炉や壁をにらんでいたんじゃない。  とっさに閃いた。  涙をこらえていたんだ、ずっと! 「えーっと、リュウカ」 「すまぬ」  リュウカは目元をぬぐったが、意味をなさなかった。あとからあとから涙が吹きだした。  ヒースはベッドに腰をおろし、迷わず頭を抱いた。 「泣いとけよ。明日はテキトーにごまかしとくからさ」  北の街の浴場で身を丸くしていたリュウカの姿がよみがえった。なすすべなく、ただ眺めていただけの自分。 「ここはあんたんちだし、オレだって昔のオレじゃないんだぜ。少しはあんたの力になれる。泣いてやれよ。涙は供養になるんだってよ。オレの知ってる尼さんはそう言ってるぜ」  胸ぐらを強くつかまれた。  嗚咽が漏れた。  涙は果てしなかった。  せわしい足音で目が覚めた。  部屋はぼんやり明るい。  朝か。  何かが胸元で動いた。  黒い……髪。きれいだ。  頭が動き、黒い眼と目が合った。 「わ、ヤベ」  ヒースは起きあがりかけ、失敗した。右腕はリュウカの頭の下だった。  扉が開いた。 「このバカ息子!」  リリーはひと目見るなり、箒をふりあげた。 「ちい姫さまになにを!」 「誤解だ! 誤解! なにもしてねぇって!」  ヒースはリュウカを抱き起こし、手を引き抜くと、ベッドの周りを逃げまどった。  リュウカが泣き疲れて眠ったのは覚えている。  ベッドに寝かせて、そのまま自分も寝入ってしまったらしい。  泣き顔はかわいそうでもあり……。  でも、かわいかったな。  リュウカが着衣を整え、ベッドをおりた。  窓を開ける。  冷たい朝の風が入りこんだ。  風景に見入るそのまぶたは腫れている。  冷やしてやらなくちゃ。 「かあちゃん、氷……」 「許しませんよ! ちい姫さまに乱暴を働いて!」 「ンなことできるか! どっちが強いんだよ!」 「どうせ酔わせて好きにしようとしたんでしょ! お酒の匂いがぷんぷんします!」  振りおろされた箒を片手で受け止める。 「リュウカぁ、なんとか言ってくれよう」  情けない声を出した。  リュウカが身をひるがえし、ベッドに腰をおろした。  頬が赤い。  箒を払って、ヒースは近寄り、額を当てる。 「少し熱があるな。かあちゃん、氷」 「馴れ馴れしく触るんじゃありません!」 「氷!」  肩を抱くようにして、リュウカをベッドに横たえた。 「疲れが出たんだろ。今日はゆっくり寝てな」 「すまぬ」  リュウカは目を閉じた。 「離れなさい」  襟首を引かれ、ヒースはよろめいた。 「この方は、おまえなんかが直接口をきいていい方じゃありません。どなただと心得てるの」 「かあちゃんの恩人の娘だろ。でも、オレにとっちゃ、ただのかわいい女の子だよ。なあ、リュウカ?」 「この方は、女王となられる方です!」  リリーが眉をつりあげた。 「この国を正しく治め、ゆくゆくは国母となられるんです。おまえなんかが近づいちゃいけません! 身のほどを知りなさい!」 「かあちゃんまで身分がどうとか言うのかい?」 「私が言ってるのは、人間の質です! 今度こそ、ふさわしいお相手を見つけてさしあげるんですから!」  今度こそ? 「前にもあったの?」 「お姫さまのご不幸は、あのマヌケ面に始まったんですからね。ちい姫さまにだけは、頼りがいのある立派な殿方とご一緒になっていただかなくては」 「かあちゃん、そりゃあちがうよ」 「何がちがうんです!」 「リュウカはこんな国でくすぶってる女じゃねぇよ。草原にもどって、所帯を持って、子だくさんで幸せに暮らすんだ。子どもたちは強くてシャイな母ちゃんが大好きで、父ちゃんは毎晩リュウカの冒険を歌にして聞かせるんだ。昔々、驪の姫がおりました。ヒース野原に囲まれた、小さな離宮で生まれました……」 「どさくさに紛れて、売りこむんじゃありません!」  バレたか。 「それより、氷だよ」 「わかってます!」  リリーはヒースを部屋から追いだした。  快い音を立てて、鍬が土をかんだ。  引いて土を寄せれば、溝が延びる。 「こっちは終わったぞ」  柄に寄りかかり、ヒースは腕で汗をぬぐった。  畝が三十本。  その向こうに肥やしの入った桶とスコップが二本。少年が三人、うちふたりはすわりこみ、ひとりは立ってわめいている。  失礼。ひとりは女の子だ。  ニヤ、と笑ってヒースは訂正した。  そろって野良着なんで、男に……、いやいや、『下々の』男に見えたぜ。 「早くなさい! 肥やしを入れて、ちょっと土をかぶせるだけじゃないの! デュールはもう、ぜんぶ畝を作っちゃったわよ!」 「何度も申しあげたように、これは下々の仕事なんです。取りあげてはいけません。我らのように高貴な者は、ゆったりお茶を飲みながら、下々の働くさまを眺めていればよいのです」 「うちにいる限りは、うちのやり方に従ってもらうわ! 働かない人は、ご飯なしよ!」 「では、領内を見回りにまいりましょう。下々の者は怠けますからね、我々が厳しく監督してやらないと」 「怠け者はあなたよ! 物作りをなんにも知らないなんて、領主になる資格がないわ!」 「肥やしを埋めるなんて! 王子がすることじゃないでしょう!」 「うちではするの! あなたのいとこだってやってるじゃないの!」  リズはヒースを指さした。 「あんな下々の者と一緒にしないでください!」 「あなたの叔父さまの子でしょ! お母さまがわからないからって、ひどいわ! もしかしたら、ウルサのお姫さまとの子かも知れないじゃない!」  エドアルが言葉に詰まった。  否定できるもんなら、否定してみろ。おまえたちがついたウソだろ。  ヒースは意地悪く笑った。 「とっとと肥やしを入れてくれてよ、王子さまと子爵さま。苗も植えなきゃならないし、水も撒きたいんでね」 「指図するな、賤民!」  ヴァンストンが怒鳴った。 「殿下に向かって! 異人のクセに!」 「リュウカも異人だぜ」 「姉上を侮辱するか!」  今度はエドアルが怒鳴った。 「別に。ただ、リュウカなら野良着も似合うし、肥やしだってテキパキ入れてくれるぜ? ああ、そうか。異人だからか」 「ぶっ、ぶっ、ぶっ、侮辱しっ、したたなあ!」  エドアルがスコップをとり、先をヒースに向けた。 「姉上を呼び捨てにし、その馴れ馴れしい物言い、重ねてこの侮辱! もう許せん! 鉄槌を与えてくれる!」 「スコップで?」  リズが吹きだした。  エドアルの顔が赤に染まった。 「けっ、けっ、剣をとれ!」  ヴァンストンがあわてて荷物の山を探す。 「ムダよ。うちに置いてきたから」 「なんですって!」  エドアルは目を剥いた。 「あなたって人は! 今の私の立場をわからないんですか? 命を狙われているのに、武器がないなんて!」 「スコップがあるだろ。それとも、こいつで戦うか?」  ヒースはニヤニヤしながら鍬を振りあげた。 「下賤にゃお似合いだな」  ヴァンストンが冷たく言い放った。 「殿下、一刻も早く離宮にお戻りを。剣もなしでは、いかな英雄でも賊に太刀打ちできません」 「だいじょうぶよ。おじいさまが兵隊さんに守らせてるわよ」 「万一ということがございます。殿下、一刻を争いますぞ!」 「てめぇは肥やしを撒きたくねぇだけだろ」  ヒースは鼻でせせら笑った。 「デュール・グレイ! 私だけでなく、我が友まで悪しざまに言うか!」  エドアルが怒鳴った。 「決闘を申しこむ!」 「やめなさい! どうして仲良くできないの!」 「これは王族と貴族の名誉をかけた神聖な闘いなのです。デュール・グレイ! 少々腕がたつと思って見くびるな! 実戦のような卑怯な手は、使えないからな! 正々堂々となら、おまえのような野蛮人ぐらい!」  ヒースは天を仰いでため息をついた。 「なんだ、恐れをなしたか!」 「どこの世界に用心棒と闘う王子さまがいるんだよ」 「おまえなどには想像できまい!」  ヒースは頭をかいた。 「面倒くせぇんだよな。ケガさせたら、リズもリュウカも怒るしなあ」 「まだ馴れ馴れしく! 断じて許さん!」 「いいじゃない、名前ぐらい。あなたにだってリズって呼んでほしいわ」  リズの言葉に、エドアルは首を振った。 「いいえ。立場をわきまえなくては。あなたは町娘ではなく、一国の王女なのですよ、エリザ姫」 「あなたって、ほんっとつまんない人ね!」  エドアルとヴァンストンは早々に帰りたがったが、リズは畑仕事をさぼる口実にはならないと言い張った。 「名誉がお腹を満たしてくれるの?」  女性を置き去りにできないと、紳士たちは野良着のまま畑のすみで待つこととなった。  しかし、女性が肥やしを撒くさまも、紳士には我慢ならなかったらしい。 「一国の王女が、そのようなことを!」  たびたびとがめられ、リズは怒りくるった。 「じゃあ、あなたはなんにも食べないことね! 野菜は肥やしを食べて大きくなるのよ、さぞ汚いでしょう! お肉なんか、もっと汚いわよ! 肥やしで育った野菜を食べて、おまけにおしっこもうんちもするんだから! あなただって、今日からうんちするのをやめたら? あたしは毎日するわ。あたしのおなかの中は、うんちがいっぱい詰まってるの。あなた、寄りつかないでね!」  エドアルは目を白黒させた。  畑から戻ったのは昼過ぎだった。  納屋に道具を片づけ、井戸へ行くと、着替えの済んだリズが待っていた。 「泥を落としたら、これ運んでくれない?」  勝手口の前に酒樽が置かれていた。 「いいけど。なに、それ」 「お祝いのお酒よ。今届いたの」 「酒屋に中まで運んでもらえばよかったのに」  手足の泥を洗い流し、野良着の上衣を脱いで、樽に手をかけた。  甘い匂い。  イチゴか? 「ねえ、デュール」 「ん?」 「あなた、お姉さまが好きなんでしょ?」  今さら。 「前から思ってたんだけど。あなた、あのときの男の子なんじゃない? お姉さまがアルに預けた、きれいな青い眼の。髪の色も、背丈も、声も、顔もずいぶん変わったけど。そうなんでしょ?」  なんだ、気づいてたのか。  リュウカよりよっぽど賢いぜ。 「モーヴの叔父さまに言いつかって、あのときまでずっとお姉さまをお守りしていたんでしょ? つらかったでしょうね。パーヴでは、いくら好きでもいとこは結婚できないものね。でも、リュウインはちがうのよ。お姉さまだって、わかってるはずよ。もう我慢しなくていいのよ」  前言撤回。  このお姫さま、なんにもわかってねぇ。 「ところで、この樽、あんたが注文したのか?」  リズの返答を待たずに、エドアルが姿を現した。 「こんなところにいらしたのですか!」  ヒースをにらむ。 「一緒にお昼にいたしましょう。食堂へ……」 「あら、何も食べないんじゃなかったの? あなたの高貴な体から、うんちが出ても知らないわよ!」 「剣です! 殿下! 決闘用の剣です! 殿下!」  金属音を響かせながら、ヴァンストンが駆けつけた。 「お待たせいたしました! 決闘用の剣をお持ちいたしました。殿下、これであの生意気な異人を懲らしめてくださいまし」  エドアルの表情がくもった。 「あ、ああ。そんなことを、言ったか……も……なあ」  のろのろと言いよどむ。  目が泳ぎ、手がさまよった。 「殿下の太刀を思う存分、あの賤民にお浴びせください。高貴な血の偉大さを思い知らせてやるのです!」  しっかりと、エドアルの手に剣を握らせる。 「そ、そうだな。デュール・グレイ、今のうちに謝れば、許してやらないこともないぞ。私は寛大だし、改心させるのが目的だからな。今後は分をわきまえると誓え」  何言ってんだい! 舌は回ってねーし、セリフは棒読み。逃げ腰なのが見え見えだぜ。  ヴァンストンが、さやを取り、刀身をあらわにした。 「さあ、殿下、ご存分に鉄槌を!」 「あのさあ、ここで光り物ふりまわすの、やめてくんない? でないと、かあちゃんが……」 「かあちゃん!」  ヴァンストンが蔑むように笑った。 「ママがいないとなんにもできないのか? え? マザコン」  いや、マジで怖いんだって。  ヴァンストンの後ろに目をやる。  ほら。 「刃物はしまいなさい!」  真後ろから落ちた雷に、ヴァンストンは飛びあがった。 「どこの王子さまだろうと、子爵さまだろうと、うちのやり方には従ってもらいます! 今すぐしまって、手を洗って食堂に入りなさい! お昼ですよ!」 「ふん、この召使い女が。懲らしめてくれる」  ヴァンストンが腰のものを抜いた。  ヤベ。  ヒースは飛びだした。  一瞬、遅かった。  ヒースの手が届く前に、リリーの後ろから現れた手が、剣を持つ手をねじりあげた。  悲鳴があがり、剣は落ちた。 「お姉さま!」 「食堂に入りなさい」  リュウカは剣を拾いあげ、ヴァンストンの腰に収めた。  まぶたの腫れは幾分ひいているが、頬が赤い。 「エドアルも、それをしまいなさ……」  ヒースはそばに寄った。  コツン。  額を当てた。  目はうるみ、首に触れると熱い。 「まだ、熱があるな。寝てろよ。やっぱ、ゆうべ、ちゃんと布団かけてやりゃよかった……」 「姉上になにをした!」  ちらとふり返ると、小さな火山が噴煙を上げている。 「姉上のご寝所に入ったのか! デュール!」 「だったら?」  ヒースはニヤと笑ってみせた。 「無礼者! おまえなど、切り捨ててくれる!」 「へん、安っぽい騎士道か? 気合いで斬れるってんなら、いくらでも斬ってみな」 「言ったな! 覚悟しろ!」  エドアルが剣を構えて突進した。  ヒースは間近でかわし、横から蹴った。  細い剣先が折れた。  エドアルはなおも、折れた切っ先を突きだした。 「ったくよお」  左手で柄を、右手で襟首をつかみ、ヒースはエドアルの目をのぞきこんだ。茶色の眼が燃えるようだった。 「どうする? リュウカ」 「おまえが悪い」  頭に一発くらった。  ちぇっ。相変わらず手の早い女だぜ。 「焚きつけるな。穏やかに話し合いはできないのか」 「この際だから、一発殴ってやって!」  リズが憤然と言った。 「今日のアルはいばっちゃって、ホント、気分悪いったら!」  思わぬ加勢にヒースは笑った。 「じゃあ、一発……」 「やめなさい。エドアルが何をしたのだ」 「何もしないの! 畑仕事は下々の仕事だとか、肥やしをすきこむのは汚いとか、もう、文句ばっかり!」  リュウカが苦笑した。 「私、言ってやったのよ、お姉さま! 肥やしが汚いって言うなら、あなたはさぞかしきれいなんでしょう、一生うんちなんかしないでよって」 「エ、エリザ姫、下品ですよ、王女ともあろう方が……」  襟首をつかまれながらも、エドアルは声を絞りだした。 「言うだけで下品なら、するのはもっとお下劣でしょうよ! じゃあ、私はお下劣なのよ! 毎日、ちゃんとうんちをするもの! でも、あなたはうんちなんかしないんでしょ!」 「下品な言葉を連発するものでは……」 「もう、頭にきた! デュール、一発殴っちゃって!」 「じゃあ、遠慮なく」  エドアルの手をひねる。剣が地面に落ちた。すばやく蹴飛ばし、こぶしを作って後ろに引く。  そのこぶしを、リュウカの手が抑えた。熱い。  エドアルを突き放した。 「リュウカ、寝てろ。こじらせたら……」  リュウカは首をふった。 「誰でも、メシも食えばクソもする。ひとまず、メシを食おう」  …………。  そりゃ反則だろ。  エドアルもリズも目が点になっている。  当の本人は涼しい顔だ。  我にかえったリリーがヒースをにらみつけた。 「おまえの下品が伝染ったじゃないの」  濡れ衣だ。 「今夜は人を呼ぶのか?」  リュウカの目が酒樽を指した。 「馴染みの酒屋が、お祝いに寄こしたんですよ」  リリーが笑顔でうなずいた。 「これから兵隊さんや村の人を呼びに行かせます。またここもにぎやかに……」 「酒じゃねぇぜ」  ヒースはさえぎった。 「発酵してないイチゴの匂いがした」 「じゃあ、子どもでも飲めるようにじゃない? あたしも飲めるわね」  リズがご機嫌に笑う。 「届けたのは、いつもの酒屋だったか?」 「ええ、いつもの配達の人でしたよ」  気のせいか? 「でも、あの酒屋が『御方さま』の娘に麦の酒以外のものを贈るなんて、ありえねーよ」 「捨ててくれ」  リュウカは言った。 「ちい姫さま! うちのバカ息子の言うことなんて、アテになりませんよ!」 「捨ててくれ。それから、身仕度を整えてくれないか? 城にもどる」 「ちい姫さま!」 「注文してもいないものが自由に運びこめるほど、守りの網の目は粗いのか? ここではエドアルを守りきれぬ」 「酒屋の使いは特別な通行証を持っていたのですわ。検問が厳しいって申しておりましたもの。ですから、ここは安全ですわ」 「その通行証は、どこで手に入れたのだ?」 「それは……、きっと、身元が確かならもらえるのですわ。馴染みの酒屋ですもの」  リュウカは首をふった。 「半ニクルでここを発つ。昼食は道中でとる」  身を翻した。  ヒースは後を追った。 「おまえはここに残りなさい」 「またかよ」 「残ってエリザ姫を守りなさい。エドアルがここにいられるのは、あの子の婚約者だからだ。あの子がいなくなれば、理由がなくなる」 「矛盾してるぜ。ここじゃ、エドアルを守れねーんだろ。オレひとりでリズが守れると思うか?」  リュウカは苦笑した。 「そもそも、狙われてんのは、どっちなんだよ? あんたか? エドアルか?」 「わからぬ。どちらにしろ、城なら少しは安全だ。」  エドアルに限っては。 「とにかくさ、オレは行くぜ。一生、あんたのそばにいるって決めてんだ。リズだって、心配なら城に連れてけばいいじゃねぇか」 「あそこは窮屈だ。ここの暮らしに馴れた身にはかわいそうだ」 「じゃあ、あんたもかわいそうだ! せめて、オレがそばにいてやらなきゃ!」  リュウカはため息をついた。 「私といても、ロクなことは……」 「オレといりゃあ、少しはマシになるぜ」  ヒースはウィンクしてみせた。  支度には一ニクルかかった。 「あたしも行くの!」  リズが主張してきかず、大荷物をまとめたからだ。  当然、リズの教育係であるマム、サミー、リリーも荷物をまとめることとなった。  ヒースは道中食べるはずのパンをパクついていた。  畑仕事して、帰ってみりゃ昼過ぎ。もう、待てねーよ。  あいつらも腹へってんじゃねーかなあ?  中をぶらつくと、リズの部屋で三人の姿を見つけた。 「もう! どうして取れないの?」  エドアルは棚の上に手を伸ばしていた。  酷なことを。  チビに頼むことじゃないだろ。ご学友に頼めよ。  そのご学友は、鞄の上に体重をかけ、必死でふたを閉めていた。 「ほらよ」  パンを放ると、ヴァンストンは反射的に飛び退いた。 「な、なんだ?」 「差し入れ。腹へってるだろ?」 「デュール、いいとこに来たわ。あれとって。エドアルじゃダメなの」 「脚立使えよ」 「だって、持ってくるの、面倒くさいんだもん」  残りのパンをふたりに渡して、ヒースは手を伸ばした。  埃だらけだ。 「こんなガラクタ、どーすんの」  咳きこむ。 「失礼ね!」  舞いあがる埃に、リズとエドアルは顔をしかめた。  いや、エドアルのほうは、埃のせいばかりではないらしい。  にらむなって。あんたの背丈の低いのは、オレのせいじゃねぇよ。 「あっ!」  リズが声をあげた。 「あたしの! 飲んじゃダメ!」  ヴァンストンがパンを平らげ、コップの赤い液体を飲んでいる。 「後で飲もうと思って、とっといたのに!」  イヤな予感に、肌がピリリとした。 「なんだ?」  リズは舌を出して笑った。 「内緒よ? もったいないから、ちょっとだけもらってきちゃったの。さっきのイチゴジュース」  反射的に体が跳ねた。  コップを奪い、ヴァンストンを床にうつぶせにした。 「吐け! 今すぐ!」 「なにをする! この下賤……」 「死にたくなかったら吐け! そいつは毒だ! リズ! 水を持ってこい! 今すぐだ!」  ヴァンストンは疑うようにヒースの顔をうかがい、その迫力に気圧され、凍りついた。  リズは部屋を飛びだし、エドアルは蒼ざめてすわりこんだ。 「死、死にたくない……」  ヴァンストンが情けない顔をした。 「じゃあ、吐け! とにかく、すぐ吐け!」  背をさする。  ヴァンストンは口を開けた。 「ダメだ。吐けない」  ヒースは、そのノドに指を突っこんだ。  ヴァンストンの目が大きくなり、苦しげに抵抗したが、やがて、ぶよぶよした赤いものを吐きだした。  パンか。ジュースを吸いこんだな? しめた。 「くっ、苦し……」 「吐け! ぜんぶ吐け! 死ぬぞ!」  指を入れると、もう一度吐いた。  リズが水を持ってきた。  それを飲ませ、さらに吐かせる。 「様子は?」  リュウカが現れた。眉を寄せ、表情は険しい。 「コップに半分飲んだ。今吐かせてる。空きっ腹じゃなかったから、少しはマシか。まだたいした症状はない」  いろいろとつまみ食いをしていたのだろう。吐瀉物はパンを初めとする固形物の名残をとどめていた。  リュウカは手早くヴァンストンを診た。 「なんの毒かわかるか?」 「まだ。遅効性か、摂取量が少なかったか。確かな症状は見られないが」 「毒なんて入ってなかったのかも知れませんわ」  水を持って駆けつけたリリーが口を出した。 「やっぱり、あれは酒屋の好意で……」 「寝言は寝てから言ってくれ。ちくしょう、とにかく吐け」  水を飲ませ、何も出なくなるまで吐かせた。  ヴァンストンの指先は冷たくなり、力が抜けた。目は焦点を失いつつある。 「たぶん、これが効くだろう」  一度部屋にもどったリュウカが薬を持ってきた。  腕に射ち、横にして毛布でくるむ。 「さ、寒い……」  ヴァンストンが震えだした。目に涙が浮かんでいる。 「かあちゃん、湯たんぽ! 暖炉に火入れて!」  ヒースは毛布をかぶり、ヴァンストンを抱くように横になった。 「エドアル! そっち側に寝てやれ」 「え? なにを?」 「川の字に寝て、はさんであっためてやるんだよ」 「そんなこと! 私に毒が伝染ったらどうする!」  時が経つにつれ、ヴァンストンは苦しみだした。 「痛い! 寒いよう! 痛い!」 「どこが痛むんだ?」 「おなかが痛いよう! 寒いよう! 頭も痛い! 背中が寒い! 死にたくないよう!」  ホッとした。意識はしっかりしている。 「息は苦しいか? 目は見えるか?」 「苦しいよう! なんとかしろ! 死ぬ!」  かん高い悲鳴におびえて、エドアルが暖炉の前で身を縮めた。 「死、死ぬ……のか?」  エドアルのほうがよほど酸欠だった。 「心配ない。一ニクル経った。ピークを過ぎたころだろう」  リュウカが暖炉に薪をくべた。 「ママ。ママぁ」  ヴァンストンがしくしく泣きだした。 「姉上、でも、うわごとを」 「気が弱くなっているのだろう」  ベッドに寄り、リュウカはヴァンストンの髪をなでた。毛布をかけ直し、病人の肩を抱き寄せる。  あ、ちくしょう。 「睨むな」  リュウカは苦笑した。 「母が恋しい気持ちはわかる。おまえもそうだったろう?」 「いつ、オレがそんな!」 「腹を切ったとき」 「ガキの時分だろ!」 「騒ぐな。病に障る」  ヤロウ!  どさくさにまぎれて、リュウカにしがみつきやがった!  後で覚えてろ!  夕刻、離宮を発った。 「一瞬でも長くいたくありません!」  ヴァンストンが泣いて訴えた。  不安はみな同じだった。 「私もいつかはこのように」  エドアルが震えた。 「運よく気づいて処置できるとは限りません。そうしたら……」  リュウカは片頬に皮肉な笑みを浮かべたが、何も言わなかった。  宰相の兵隊に囲まれて、一行は進んだ。 「馬車で寝ろよ」  ヒースは馬を寄せた。 「カゲがスネる」  リュウカは馬の首を叩いた。 「自分の体を考えろよ」 「少し気が抜けただけだ。なんともない」  ったく、あいかわらず……。 「かわいげがないか?」  リュウカは苦笑した。  ヒースは首をふった。 「いつもムリして意地っ張りだよ。まったく、かわいいったらありゃしない」  ウィンクした。 「おまえも騎士道とやらに目覚めたか? 女はすべてかよわいと?」  からかいの声音が返る。  ヒースは頭をかいた。 「トサカがあるのは、雄鳥だよな? じゃあ、あれはかよわくねーな?」 「なんの話だ」 「いや、こないだ、鶏小屋にご案内さしあげたんだよ」 「誰を?」 「トサカ頭のふたり連れを。たしか、名前はキャスリーンとかアイリーンと言ったかな」 「王妃と王女か!」 「リズにちょっかい出すのも忘れて、悲鳴あげて帰っちまった。待てよ。じゃ、あのトサカ、ニセモノだったのかなあ?」  リュウカが吹きだした。 「後で面倒なことになったろう?」 「リズのじーちゃんに呼びだされた。生まれはどこだの、生みの親は誰だの、いろいろ訊かれてさ、歌でも歌ってごまかしてやった」 「ごまかされるような人間ではあるまい」 「いや。それで無罪放免さ」 「まさか」 「あれ、なんだろ?」  人だかりが見えた。  通り沿いにいつも見かける大きな空き家だ。  醸造所だったものをつぶして、宿屋かなにかにムリヤリ改築したような奇妙な建物だった。  前庭に長い行列ができており、農民や職人、少し身なりのいい地方の小貴族らしき人々までが並んでいた。 「ちょっと様子を聞いてくるよ」  馬首を返そうとすると、リュウカが制した。 「誰か来る」  小さな一人乗りの馬車が迫っていた。御者の体と土埃とが、乗客の姿を見失わせた。  リズのじーちゃん?  似ているような気がしたが、降りたってみると別人だった。 「お久しゅうございます、リュウカ王女殿下」 「ラノック!」  箱馬車の中からリリーが叫んだ。 「おまえは死んだと!」 「私の身を案じ、表向きはそのように計らってくださったのです、ご慈愛深い王后陛下におきましては。おかげさまで今日まで生きのびることができました。残る命、王女殿下にお捧げしても惜しくはございません」  リュウカは感動したふうでもなかった。 「あの行列は?」  短く訊ねた。 「みな、王女殿下のご帰還を伝え聞き、またここに集い始めたのです。王后陛下とご同様、王女殿下のご執政が始まるものと期待いたしまして」 「宰相が何と言うかな」 「一日でこれだけ集まったのです。明日になればさらに倍は増えましょう。宰相閣下も見ぬふりはできますまい。殿下の執政を認めざるを得ますまい」 「あいにく、政は知らぬ。長いこと野にあったのでな」 「王女殿下はただご聡明な決定をお下しになるだけで充分でございます」 「私は母のように聡明ではない」 「では、あの者たちに何とおっしゃいます」  ラノックは行列を指した。 「宰相閣下に賄を贈るがよいと? 宰相閣下のご機嫌をうかがえ、王も王妃も王女も民のためには流す汗も涙もないと?」 「そなたがすればよかろう」 「私では宰相閣下にも劣る身。民が納得しないでしょう」 「善政であれば支持を得よう」 「それは理屈。民に善悪の区別がつきましょうか」 「見下したものだな」  リュウカは首をふった。 「退がれ。話す暇も惜しい」  隊に進むよう指示する。 「私は何度でもお願いにまいります。王后陛下のときもそうでございました。そして、ご聡明なご決断をいただいたのでございます」 「好きにするがいい」 「それはご承諾いただけたということで?」 「ひとつ言っておくが、私は母ほど聡明ではない。多くを望まれても応えられぬ」 「御意」  ラノックは元来た道を引き返した。 「リュウカ、ありゃなんだい?」  ヒースは訊ねた。 「昔、母が政を行ったところだ。宰相の寵を得られなかった者たちが、母を頼ったのだ」 「へえ」  政と言われてもピンと来ない。 「サインでもするの?」 「毎日訴えを聞き、裁きをくだすのだ。法を定めることもある。詳しくは知らぬ。ただ、母はそのために、寸暇を惜しみ、書を読んでいた」  冗談じゃねぇ。  ヒースは思った。  親愛なる母上とやらの真似でもされた日にゃ。  オレと一緒にいる時間がなくなるじゃねーか!  城に到着すると、宰相が迎えでた。 「お急ぎください。夜会にて、殿下を紹介なさると国王陛下がお待ちかねでございます」 「いきなり、なんです!」  リリーが前に出た。 「今からお支度などできませんよ! ドレスもご用意できてませんし、髪結いだって!」 「こちらでご用意いたしております」 「間に合わせなんかで、うちの大事なちい姫さまを出せますか!」 「今さら衣装屋選びからとはまいりますまい」 「いいえ! イチから手順を踏んでいただきます!」 「しかし、今宵の夜会は国王陛下の仰せで」 「あんな男の言うことなんか、とりあっていられるもんですか! ちい姫さま、お部屋に参りますわよ」 「ここは離宮ではございません。城では城の主のご意向に従っていただきます。それに前の王后陛下のご友人方が首を長くしておいでです」  リリーはためらいを見せた。 「お姫さまのお友だち?」 「ヴァンストン卿はどちらに? 医師を待たせております。一刻も早くお手当を」 「もう済みました! おまえの手なんか借りるもんですか!」 「リリー」  リュウカが首をふった。 「エドアルの大事な友人だ。大事をとって診てもらいなさい」  宰相が指図すると、兵の陰から医師の一団が現れ、ヴァンストンを担架に乗せた。 「こっ、殺されるぅ!」  どんなになだめても、ヴァンストンはきかなかった。手をやいた医師たちは薬で気を失わせ、運んでいった。 「では、殿下はこちらへ。ほかのみなさまがたはお疲れでございましょう。お部屋にご案内いたしますので、ごゆるりとお休みください」  宰相は手を叩いた。  侍女たちが現れ、優雅な物腰で一礼した。 「リズのじーちゃん。警備が手薄だったぜ」  次々に散る一行を見送りながら、ヒースは宰相に話しかけた。 「あれでエドアルやリュウカがやられてたら、どうするつもりだったんだ?」 「下手人は私だとお考えになりませんので? 少なくとも、お母君はそう思われているようにお見受けいたしますが」 「今、死人が出て困んのは、あんただろ。だからさ、ここでは手抜かりなくやってくれよな」 「子爵どのは変わっていらっしゃる。私を信用なさいますか?」 「信用っていうよりは……」  ヒースは頭をかいた。 「わかんねぇんだよな。なんでそこまでリュウカを殺したがるんだ? 放っとけば、さっさと草原に帰って、こっちには手出しをしねぇよ。あんたの孫は安泰さ」 「殿下に危害をですと? おお、とんでもない」  宰相は大げさに首をふってみせた。 「私は国王陛下の忠実な僕《しもべ》でございます。お疲れでございましょう。お早くお休みくださいませ」  タヌキジジイ。  侍女が進み出て、ヒースを部屋に案内した。 「まずは、湯浴みを」  室内には、湯女が大勢待ちかまえていた。  すべて退がらせ、埃と汗を洗い流した。細い金髪を念入りに洗い、湯船からあがると、バスローブだけが用意されていた。  声を出して呼んだが、誰もいない。  なるほど。  これじゃ、出歩けないもんな。  脱いだ服は持ち去られ、靴すらなかった。  先を読んでやがる。さすがはタヌキジジイ。  でも。  バスローブを身につけた。  好きにするさ。  廊下に出ると、衛兵が待ちかまえていた。 「おもどりください。外にはお出になりませんよう」  ったく。 「悪いんだけど」  衛兵を片づけ、服を拝借した。  それから先々で見とがめられるたびに衛兵を片づけ、侍女の棟に入った。  留守の部屋に忍びこみ、ドレスに着替えた。ややかっぷくのいい女なのだろう、胸も腹も大きく仕立ててあり、男の体でもラクに入った。丈が短いのは、仕方がない。年配なのだろうか、濃い色の髪粉があった。金髪にたっぷりふりかけ、目には影を入れ、口には紅をさした。  ガーダにいた頃、侍女たちにさんざん餌食にされたものだ。女顔に映えると言って、好き放題に化粧を施された。  こんなもんかな?  落ち着いた茶色のドレスに、詰め物でふくらませた胸元。明るい茶色のまとめ髪に花飾り。垂れ下がるような大きなイヤリング。ヒールも履かないのに高すぎる背は、スカートのふくらみの下で膝を曲げ、中腰で歩くことでなんとかごまかせそうだった。  夜会の場所は見当がついた。  あまりににぎやかだったのだ。  音をたどると、大広間から庭にかけてが、その会場だった。  辺りには甘い香りがたちこめ、テーブルには山盛りの菓子が並んでいた。  人々がグラスを掲げる。 「国王陛下、万歳!」  酒が勢いよく跳ねた。  中年の男がヒースに目を留め、機嫌よく手招きした。 「こっちへ来い。女」  ヒースは人の中を突っ切った。  オヤジの相手なんかまっぴらだ。リュウカはどこだ?  もっとも奥に、壇がしつらえられていた。  あれが国王か?  壇の中央に玉座が据えられ、太った赤ら顔の男が埋もれていた。ひどい猫背で、目つきが悪かった。  リズにもリュウカにも似ていなかった。横柄そうな唇はぽってりとふくらみ、舌がチロチロと出てなめ回す。  まるで、獅子を飲みこんだ、どん欲な蛇だ。  ヒースは思った。  腹に抱えて身動きもできないクセに、もう次の獲物を探してやがる。  国王はぽってりとした手を伸ばし、小卓から菓子をとり、口いっぱいにほおばった。  向かって左にはキャスリーン妃とアイリーン王女が座し、扇を手に笑っていた。  今日も派手なトサカだぜ。  金髪と見まがうほどに金の髪粉をふりかけ、王妃は小さな城を、王女は花いっぱいの馬車を載せていた。  後ろには侍女がひかえ、棒で首を支えている。  リュウカの姿はなかったが、国王の右に空っぽの椅子があった。  まだ来ていないのか?  時間稼ぎに、壁ぎわのテーブルからグラスをとる。  赤い液体に口をつける。  うあ。  思わず口から離した。  甘ぇ!  ひじょうに甘口のデザートワインだった。イチゴの強烈な香りが鼻を襲った。  国王が大口を開けて、ワインを喰らった。  オレも甘党だけど、さすがにこいつは。  よく見ると、来客のほとんどは唇を湿らす程度で、中身は減っていないのだった。  ずいぶんと経済的だな。  匂いにくらくらした。  壇の横のドアが開いた。  宰相が現れ、バカていねいに礼をした。  その後ろから、古めかしい青いドレスの女が現れた。  あの絵そっくりだ。  離宮の玄関に並ぶ肖像画。リズの前の女主人。前の王妃。  リュウカのかあちゃん。  でも、この女は傲慢そうじゃない。ずっと線が細い。だって、これはオレのかわいい……。 「レイカ!」  王が駆けよった。 「帰ってきたか、レイカ! 予のレイカ!」  その足下にひれ伏す。 「陛下、こちらにおわすは王女殿下であらせられます」  宰相が助け起こす。 「なにを言う! どう見ても、予の愛しいレイカではないか!」  国王は宰相の手を跳ねのけた。 「レイカ、愛しいレイカ、何か言ってくれ。予の名を呼び、やさしい言葉をかけてくれ」  リュウカは後ずさった。 「レイカ! どうした! 予を忘れたのか! それとも!」  国王の表情が豹変した。 「予よりも、あの男がよいのか! あの無礼な男が!」  異様な熱を帯びていた。瞬きも揺らぎもなく、一点を見つめて動かない。 「ご、ご機嫌うるわしゅう、国王陛下」  リュウカがあえぐように声をしぼりだし、一礼した。  こんなに動揺するリュウカを見るのは初めてだった。 「レイカ! そうだ、予だ、国王だ!」  国王は小躍りし、リュウカの腕をつかんだ。 「そなたの夫だ。唯一無二の主人だ。予を愛しておるな? 愛していると申してみよ。みなも心して聴け!」 「おそれながら、国王陛下、この御方は前の王后陛下ではございませぬ」  宰相がたしなめた。  国王はうなずいた。 「そうとも! 今も王妃だ! なあ、レイカ?」 「この御方は、王女殿下でございますぞ!」 「そうとも! レイカはパーヴの王女であった。だが、望んで予に嫁いできたのだ」 「我が国の王女殿下でございます。国王陛下の御子ではございませぬか!」  国王は首を傾げた。 「予の子は、アイリーンひとりだ。そうだ。レイカ、予の子を紹介しよう。かわいい娘でな。きっと気に入るぞ」 「お気を確かに! 前の王后陛下レイカさまのひとり娘、リュウカ殿下であらせられますぞ!」 「リュウカ?」  眼が一転、憎悪に燃えあがった。 「情夫の娘か! あの男の娘だな!」  王杖をふりあげた。 「たばかったな! レイカのふりをして近づきおって! 汚らわしい! レイカはどこだ! 返せ! レイカは予のものだ!」  腕を、首を打った。 「言え! レイカはどこだ! 情夫はどこだ! どこにおる! 言わないか!」  腹を打ち、腰を打った。 「ご乱心を!」  宰相が手を打った。 「衛兵! 陛下をお寝み処に!」  国王は壇から飛び降りた。  辺りを見回し、何を血迷ったか、ヒースを捕まえた。 「レイカの居場所を言え! さもなくば、この女を切り裂くぞ!」  隠し持っていたのだろうか? 肉切りナイフをヒースに突きつけた。 「陛下! 穏やかに! 女をお離しください!」  宰相の顔色は真っ青だった。  リュウカはと言えば。  薄く笑った。 「へ、陛下、動いてはなりませんぞ。私が今、そちらへ参りますから」 「動くな! レイカだ! レイカを寄こせ!」 「へ、へ、陛下……」  リュウカは悠然と宰相を眺め、来客に向かった。 「余興はこの辺りで。私は第一王女のリュウカである。長らく留守にしていたが、隣国の王子エドアル殿下のご好意により帰国を果たすことができた。母とは離ればなれとなり、消息を知らぬ」 「殿下! 陛下を刺激なさっては……」  宰相がかわいそうなほどあわてている。 「もうひとり、ここで紹介したい。今宵の余興に参じた友人で、エドアル殿下の学友でもある」  ヒースに微笑みかけた。  ちぇっ。バレてやんの。  国王の腕を軽くひねり、肉切りナイフを奪い取った。  国王の眼が驚きに見開かれ、まもなく涙ににじんだ。 「痛いっ。痛たたた」 「王さま、粗相が過ぎるぜ」  衛兵がとり囲んだ。  国王をひき渡そうとすると、棒を突きつけられた。  ご乱心は王さまじゃなく、オレのほう? 「冗談よせよ」  リュウカが壇から舞い降り、兵をかきわけた。 「デュール・グレイ子爵である。今宵は国王陛下の興につきあい、捕らわれ役を引き受けてくれた」 「侍女のかっこで失礼するぜ」  ヒースは兵に囲まれたまま、優雅に一礼してみせた。 「今宵はおおいに飲み、おおいに踊るがよい。楽士、なにか陽気な曲を!」  手を高らかに鳴らすと、楽団が明るい調べを奏で始めた。 「さすがでございますな」  宰相がささやいた。 「機転がおききになる。しかし、子爵どの、この有様は。お父君でさえ、ここまでやんちゃではいらっしゃいませんでしたぞ」 「オレより、あっちのがヤバいんじゃねぇの」 「陛下はひどくお心を痛めていらっしゃるのです」 「マジでそう思ってる?」 「子爵どのは、女の姿がよくお似合いで」  宰相は冷ややかに話題を転じた。 「かようなご趣味がおありとは」 「かあちゃんの真似しただけさ」  肩をすくめた。  宰相は国王を追って退室した。 「危うく不敬罪だぞ」  リュウカがささやいた。 「国王に暴力をふるって、よくも無事でいられる」 「笑ってたクセに」 「おまえがおかしかったのだ。化粧などして」 「うまいもんだろ?」 「紅は似合わぬ」 「あんただって、そのドレスは似合わねぇな」  リュウカは首を傾げた。 「母上の衣装だ。黒髪には合うと思うが」 「あんたとかあちゃんじゃ違うだろ。急いで詰めたのかも知んねぇけど、肩幅とか背丈とか合ってねぇぜ?」 「母上にはかなわぬ」 「そーゆー問題じゃねぇって! そういえば、さっき王さまが言ってたけど、あんた、王さまのホントの子どもじゃねーの?」 「どうかな?」  宰相がもどってきた。 「王女殿下。みながご挨拶いたしたいと」  巨大な頭やフリルやレースが群れをなしていた。男も女もにぎやかしくしながら、少しでもこちらを見ようと背伸びし、体をひねっている。 「それぞれにお声をかけてくださいませ」 「オレも行くぜ」  口を開きかけたリュウカをさえぎった。  言いたいことはわかってる。退がれ、だ。誰がおとなしく言いなりになるもんか。 「子爵どのは壇上へは上がれませぬぞ。ご身分が」 「今夜はリュウカの侍女だよ。なあ?」  リュウカは苦笑した。 「冗談はともかく、壇の下に席を移してくれぬか」 「王女殿下!」 「壇は好かぬ。下に席を」 「しかし……」  リュウカは身を翻した。  壇に手をかけ、華麗に上がった。椅子に寄る。腰を入れ、ゆっくりと持ちあげる。 「で、殿下、おやめください。それは男がふたりがかりでやっと……」 「こっちに降ろしてくれよ」  ヒースは壇の下で椅子を受け取った。適当な場所まで運ぶ。 「ここにいても退屈だぞ。退がって寝なさい」 「椅子、もうひとつ持ってくるよ。何か飲む? あの甘いイチゴワインは願いさげだろ?」  退屈な謁見は、朝まで続いた。    十八 婚姻  食堂に入ると、末席に宰相がついていた。  エドアルは目を疑った。 「宰相! ここは王家の食卓だぞ!」 「お席にお着きください、王子殿下。リュウインにはリュウインの作法がございます」 「ならば、姉上からお叱りを受けるがいい」  エドアルが席に着かないうちに、リズとリュウカが連れだって現れた。 「聞いて! アル! 昨夜、お姉さまのお部屋に泊まったのよ!」 「王女殿下、お静かに。来年ご成人あそばすというのに、困ったお方だ」  宰相が渋い顔をした。  リズはみるみるうちにしょげ、おとなしく席についた。 「姉上!」  さらに胸のもやは増し、エドアルは叫んだ。 「お叱りください! 王家の席に、王家の血の混じらぬ者が着いております!」  リュウカは静かに席についた。 「国には国のしきたりがあろう」 「姉上! 臣下の横暴を許しては、王家の威信に関わりますぞ!」 「食卓の椅子ひとつで揺らぐ威信に意味はあるまい」 「些末事を逃しては、後に大きな災いをなしますぞ!」 「私は長らく留守にした新参者よ。これまでの治者に従うのは道理ではないか?」  姉上の意気地なし! 「赤き血の同席を許すなら、私だって、ヴァンストンを同席させますぞ! そうか! 姉上は、グレイを同席させたいがために、こんなことを許すのですね!」  リュウカはゆっくりと首をふった。 「おそれながら殿下」  宰相が口をはさんだ。 「この国では、赤き血は王の血筋をさすものでございます。お間違えなきよう」 「おぞましい! あの生臭い赤い血のどこが高貴なのか」 「殿下、こちらでは、蔑むときに、青き血と申すのです」 「なんたる侮辱! 我らをおとしめるか!」 「リュウインとパーヴが永く敵対しておりますれば、かように呼びあうのもムリはなかろうかと」  言葉に詰まった。  赤のリュウイン、青のパーヴ。互いに罵りあった結果だというのか。  スープとパンが運ばれた。 「まだ、国王陛下がお越しめされぬぞ!」  今度こそ!  今までの憤懣をこめて咎めた。 「王后陛下も、もうおひと方の王女殿下も! さしおいて食事を始めるか!」 「おそれながら王子殿下」  宰相は淡々と言った。 「両陛下、ならびに王女殿下は朝の席においでになりませぬ。夜は遅くまで臣下を楽しませておいででございますれば」 「では、食事抜きで謁見に臨まれるとでも言うのか!」 「私が参れば済むこと。つまらぬいざこざに、国王陛下ともあろうお方をお悩ませするわけにはまいりません。しかし、本日よりは、第一王女殿下が自ら謁見に臨まれるとか」 「この国では、国王は務めを果たさないのか!」 「とんでもございません。国王陛下は常に国を憂えていらっしゃいます。その証拠に、殿下の婿入りを来年に早めるよう仰せになりました。エリザ王女殿下のご成人と同時にでございます」  なんだって? 「朝一番に、殿下のお国へ使いをやりました。快諾いただければ、もはや殿下は安泰ですぞ」 「私、まだ結婚したくないわ」  リズは朝食後、ぷいといなくなってしまった。  なぜうれしくないのだろう!  エドアルには納得がいかなかった。  結婚は女として最大の喜びである。妻や母になってこそ女は一人前になるのだし、夫や子に仕えることこそ、女の生き甲斐である。  もしかして、そんなこともわからないのか?  子どもなのだろうとエドアルは結論づけた。  マムやリリーなどのような、どこの馬の骨ともわからぬ者を教育係につけるからだ。由緒正しき家柄の者はいなかったのか?  今ごろ愚痴ても仕方がない。これからは、私が正しく導かなくては。  それが、まともな夫の務めである。  姉上にも協力してもらおう。  決意を胸にリュウカを探した。  部屋にはいない。リズの部屋もからっぽだ。  王族の棟を出てしまったのか? 姉上も自覚がない! 下々の者と気安くふれあってはいけないお立場なのに!  エドアルは侍女を呼びつけた。 「ヴァンストンを呼ぶように」  しかし、ヴァンストンは来なかった。代わりに侍女が戻ってきて言うには、ヴァンストンは居留守を使っていると言うのだ。  どうなっているんだ? この国は!  悪しき空気ゆえに、忠臣まで狂ってしまったのか。  エドアルは出向いた。じかに呼び、性根をたたき直すしかない。  鞭をとり、王族の棟を出る。  渡り廊下を通り、中庭に目をやる。  まぶしい日差し。小さな庭に緑の芝生と小さな木陰。仲むつまじげに男女が木陰で笑っている。  のどかさが、神経を逆なでした。  朝から怠けていないで、働け!  そのとき、男の髪が金色に光った。  あ、と思った。  もしや!  女の髪は黒髪だった。 「姉上!」  怒鳴った。  体がカッと熱くなった。 「そのような下々の者と!」  芝生の中に踏みこむと、こめた力でムダに沈んだ。  足をとられ、歩みが遅くなる。それがまた、さらに苛立ちを募らせた。 「離れろ! 下賤!」  手を振り、手にしていたものに気づいた。  ちょうどいい!  鞭はよくしなった。 「穢れが移る! 離れろ! 姉上の清い体を汚すな!」  鞭はうなりをあげた。  黒髪の女がわりこみ、剣のさやを掲げた。  鞭はたちまち巻きついた。  鞘が引かれると鞭の取っ手もまた引かれ、エドアルの手からするりと抜けた。 「あっ!」 「それぐらい、オレだって受け流せるぜ」  金髪の男が鞭をほどいた。  黒髪の女のぴたり斜め後ろ、息がかかるほどの近さである。 「はっ、離れろ!」  エドアルが駆け寄ると、金髪の男が鞭を持った。 「やっ、やめろおおっ!」  両腕で顔をかばった。 「なにやってんだよ」  金髪の男が吹きだした。鞭の取っ手を差しだしている。 「おまえが悪いっ!」  エドアルは怒鳴った。 「素行が悪いからっ! 日頃の姿を見たら、誰だってやり返すと思うだろうっ!」  ほとんどリュウカへの言いわけである。  ひったくるようにして、鞭を取り戻す。 「ダメにしてしまったな」  リュウカは元いた場所に戻って、椀を拾いあげた。 「服汚れた?」 「いや」 「じゃあ、これ飲めよ」 「おまえの分だろう」 「オレはあとからいくらでも食えるからさ。あんたは、今食っとかないとダメだ」  むむむ。  まだやってる! 「姉上! こんなところで、こんなヤツと何なさってるんですか!」 「メシ」  けろりとした顔でヒースが答えた。  エドアルは思い当たった。  そういえば、朝食の席で、姉上はほとんどなにも口にしなかった。 「おまえが心配することではない。姉上は昨夜晩餐会で多々召されて、空腹でいらっしゃらないのだ」 「バカはほっといて、リュウカ、食えよ」 「おまえがあがりなさい」 「バカだと!」  鞭の取っ手に力をこめる。 「言うに事欠いて、一国の王子を卑しめるか!」 「わかった、わかったって」  ヒースが苦笑した。 「やんごとないお姫さまは、その晩餐会とやらでも何にも召しあがってねーの」  リュウカが手でさえぎった。  ヒースから椀を取り、一気に飲み干す。 「すまぬな」  椀を返して身を翻した。 「姉上!」  エドアルは後を追った。 「あんな下々のものを召し上がって! おなかを壊されたらいかがなさいます!」 「毒は入っておらぬ」  毒!  一気に背筋が冷えた。 「縁起でもないことを! ご冗談はおやめください! なんのためにここへ参ったのです!」 「リズとは仲直りをしたのか」  うっ。 「そっ、それは……」  一瞬言いよどんだが、思いだした。 「そっ、そのために姉上をお探し申しあげていたのです! エリザ姫によい教育係をつけませんと! このままでは貴婦人としての気品が身につきません!」 「リズはよい子だ」 「それは私も認めます。でも、一国の王女としてはまだまだ足りません! 民の見本となるような立派な貴婦人にならなくては! そのためにも、きちんとした教育係をつけて躾けませんと!」  リュウカは立ち止まった。 「エドアル」 「はい」  やっと、本気になってもらえただろうか? 「まずは、そなた自身が学びなさい」  エドアルは一瞬黙った。  なるほど、もっともだ、とうなずいたからではない。 「姉上、話をそらさないでください。私はエリザ姫のことを話しているのですよ」 「そなたはこの国に来て日が浅い。学ぶ必要がある」 「それとこれとは違います。私が勉強するならなおのこと、エリザ姫を放っておいてよいのですか!」 「龍でもないのに、猫の仔を龍の仔と見分けられようか?」 「姉上の言うことは、てんで的はずれです! 私はエリザ姫のことは昔から知っているんです! それに、エリザ姫は最初から一国の王女です! 猫の仔とはワケがちがいます!」  リュウカは小さく息を吐いた。 「そなたは、モノをよく知っておるようだ。私よりもな」 「姉上、ご立腹なさったのですか?」 「ほかに意見が欲しいなら、ほかを当たりなさい」 「姉上! ご機嫌を直してください! 私が悪かったのなら謝ります!」  リュウカは首をふった。 「言いたいことは言った。後は自分で考えなさい」  手を伸ばし、宙をまさぐった。  おかしい。  エドアルは改めて卓上を眺めた。  ない!  もう一度見た。  呼び鈴がない!  頭の芯が熱くなった。  手を鳴らす。  音が部屋に沈んでいく。  誰も来ない。  またか!  朝も同じだった。 「誰か!」  叫んだが、誰も現れない。  これもまた、朝と同じ。  ちっとも直ってないじゃないか!  居間を大股で突っきった。扉を開け、通路に立つ衛兵を睨みつけた。 「侍女はどうした! 呼び鈴は!」 「私の役目は、不審者を防ぐことです、殿下」  若い衛兵は不思議そうにエドアルを眺めた。 「これが国賓に対する扱いか? 侍女も呼び鈴も、なにもないではないか!」 「ご要望は宰相殿下におっしゃってください」 「今しがた、朝食の席で命じたばかりだ! だいたい、おまえも気をきかせるべきではないか! 国賓が不自由ないよう気を配るのも、臣下の務めだぞ!」 「私の役目は、不審者を防ぐことです、殿下。それに、呼び鈴を壊したのは殿下ご自身です」  きらめくガラス。青や赤や黄色の色とりどりのガラスが床に散らばったさまを思い出して、エドアルの顔はほてった。  たしかに、床に叩きつけたのは自分である。 「誰も来ないからじゃないか! おまえだって、聞こえてたんだろう! すぐご用聞きに来るべきじゃないか!」 「私の役目は不審者の防止です、殿下」 「クビだ! おまえなんかクビだ!」 「ご要望は宰相殿下におっしゃってください、殿下」 「言われなくてもそうするさ! 今、宰相殿に行って、おまえなんか即刻クビにしてやる! 泣き言言ったって遅いからな!」  エドアルは早足で棟を飛びだした。  この国はどうなってるんだ! 狂ってる!  エリザ姫も姉上も、この国に来たとたん、おかしくなってしまった!  正さねばならん!  中庭をはさんだ向かいの通路で何かが光った。  金の髪。  濃い青のフード付きマント、その下から長靴が見えている。 「デュール・グレイ!」  エドアルが声をかけると、相手は立ち止まった。  北国の目鼻立ちに似合わぬ灼けた顔。 「みっともない! 着替えもないのか? さっきの粗末なナリといい、我が国に恥をかかせる気か!」  ヒースはニヤと笑った。 「リンネルのひらひらフリルはあんたに任せるよ。ぶかぶかのキュロットも、真っ白いストッキングもな」 「この国はどうなっているんだ! 衛兵にいたってまで、おまえのような口のきき方をする!」  エドアルは怒りをぶちまけた。 「父上がいらしたら、不敬罪で即刻流罪にしてやるのに! いいや、この国を正せるのは、私しかいない! そうではないか?」  ご立派でございます。さすがは王子殿下、ご賢明であらせられます。  ヴァンストンの声が不意に脳裏に甦った。  そうだ! ヴァンストン! 「おまえ、ヴァンストンを知らないか?」 「知らないね」 「では、探しだして、今すぐここに召しだせ!」 「ごめんだね」  ヒースは再び歩きだした。 「待て! 侍女に命じようと思ったのだが、見当たらないのだ。衛兵も横柄だし、これから宰相に直談判に行くのだ! おまえも来い!」 「そいつは忙しいや。王子さまのジャマはしないよ。不敬者がくっついてたんじゃ、腹が立ちっぱなしだろ」 「ふざけるな! そもそもおまえが悪いんだ! 姉上でさえ、あのように変わられて! そうだ、姉上はどこだ? 戒めてさしあげなければ!」 「まず、リズと仲直りしろよ」 「なにを言う! 女は男に従うものだ! 甘やかしてはためにならん!」  ヒースが吹きだした。 「なんだ! 無礼者!」 「いや。リズもたいへんだなあと思って」 「どういう意味だ!」  ヒースは厩に入った。  そこで初めてエドアルは合点した。  青いマントに長靴。  始めからヒースは出かけるつもりだったのだ。 「どこへ行く!」 「決まってんだろ」  エドアルはピンときた。男が仕事でもないのに出かけるとすれば、行き先は決まっている。新しい女でも作ったにちがいない。口説きに通うつもりなのだ。 「この下種が! 女のことしか頭にないのか!」  ヒースは薄く笑った。 「ご立派な王子さまは、やることが山ほどあんだろ。こんな下種にかまけてないで、とっとと自分のやることやんな」  栗毛にまたがる。 「ま、待て! 私の護衛はどうする!」 「リズのじーちゃんが守ってくれるさ」 「信用できるか! 私のそばには、ヴァンストンもいないのだぞ!」 「知らねーよ」  ヒースは栗毛の腹を蹴った。馬が飛びだす。 「待て!」  エドアルはあわてて馬番を呼んだ。 「勝手に馬を出したぞ! 見逃していいのか!」  馬番は年老いた男で、背筋はしゃっきり立ち、顔つきは頑固そうだった。 「あの方はよいのです」 「なにがいいんだ!」 「王妃さまがもどられたかのようだ」  小さくつぶやいた。 「馬を出せ」  エドアルは叫んだ。 「今すぐだ! あいつに追いつける速い馬だぞ!」 「そのお服では汚れます」 「命令だ! 早くしろ!」  エドアルは鹿毛に乗った。  腹を蹴った。  鹿毛はゆっくりと進みだした。  力が足りなかったか?  踵に力を入れて蹴った。  鹿毛はポクポクと歩いた。 「鞭を貸せ!」  エドアルは振り向いて怒鳴った。 「馬車馬ではありませんよ」  馬番は答えて厩に引っこんだ。  エドアルはさらに両足をふりあげた。 「こんなところで走ったら危ないだろ」  門柱の影から金髪がきらめいた。 「おまえが勝手に先に行くからだ!」  エドアルは怒鳴った。 「この国には、こんな馬しかないのか! 速い馬と言ったのに!」 「ちょうどいいだろ」  ヒースは青いマントのフードをかぶった。 「速すぎちゃ、乗り手が置いてかれるだろ」 「また侮辱するか!」 「イヤならついてくるなよ」  ヒースは馬を進ませた。 「まっ、待て!」  エドアルは急いで追いかけた。  たどりついた先は、小高い丘に建つ屋敷だった。 「女はこんなところにいるのか?」  たてがみにしがみつきながら、エドアルは訊ねた。 「もう、へたばったか」  ヒースがチラと笑う。 「おまえが悪い! 先へ進むから!」 「これでも待ってやったんだぜ」 「それが臣下の態度か!」 「あんたの臣下じゃねーぜ」  確かに、王子の臣下ではない。貴族はみな国王の臣下である。 「黙れ! もとはといえば、おまえの生まれなど……」  姉上が連れていた子ども。実はそれ以上知らないことに、エドアルは気づいた。  あの姉上が連れていたということは。  もしかしたら、深いお考えがあるのかもしれない。ひょっとすると、ウルサの王の落胤が落ちのびて……。  よぎった考えを急いで打ち消した。  王族とは威厳と高貴さを生まれもつものだ。歌や踊りに明け暮れるこいつは決してちがう! 「おまえを叔父上に預かっていただいたのは名案だったな。あの賤しい女とおまえが母子とは、似合いではないか」 「まったくだ。感謝してるぜ、王子さま」  けろりとした顔でヒースは流した。 「その態度はなんだ! 王子に対して無礼だぞ!」 「無礼はそっち。うちのかあちゃんはイイ女だぜ。とうちゃんは見る目あるよ」 「たかが愛人じゃないか」 「王さまもだらねぇぜ。あんなクソババア怖がって、弟を結婚させてやれねぇんだからな」 「父上を侮辱するか!」 「なんなら、名誉をかけるか?」  ヒースが剣の柄を鳴らした。  心臓がばくんと反応した。 「暴力はサイテーだ」  エドアルは必死に冷静を努めた。 「それで、どんな女だ?」 「あ?」 「女に会いに来たのだろう?」  美人だろうか。  少なくともこんな屋敷に住んでいるようじゃ田舎者だろう。  いやいや、屋敷の姫君とは限らない。下働きの女中をくどいたのかも知れない。せいぜい、その辺りが似合いだ。 「ちょいと! 割りこみは許さないよ!」  門の前にたむろう乞食の列に馬を乗り入れると、女に怒鳴られた。 「後ろに並びな!」  じろりと、数多の目に睨みつけられる。 「見てわからんのか! 私は……」  乞食なんかと一緒にされてたまるか! 「誰だろうと、順番は守ってもらうよ!」  女は引かない。 「仕事で来たんだよ」  ヒースが朗らかに言った。 「中に入れてくれないかなあ。でないと、あんたたちまで順番回ってこないかもよ」 「あんた、お役人かい?」  乞食たちが色めきだった。 「じゃあ、うちの娘使ってくれよ! 水くみも針仕事もなんでもできる便利な子だよ!」 「うちの息子だって、力には自信あるよ!」 「うちの孫だってね……」  ヒースは人の列を避けて、門の中に入りこんだ。エドアルも必死で続く。  列は敷地内まで延々と続いていた。  おかしな屋敷だなあ、とエドアルは思った。  前庭に花園はなく、踏み固められた地面が広がっていた。棟がいくつあるが、住まいというより工場や蔵のように見えた。  もっとも大きな建物に列は連なっていた。ヒースはそこへつけて馬から降りた。  迷わず、大きな扉を開ける。  役人らしきお仕着せを着た男が立ちふさがり、ヒースを押し戻そうとした。  ヒースは迷わず男をつきとばした。  なんてことだ! 「デュール・グレイ!」  エドアルは追いかけた。ヒースはどんどん中へ入っていく。  ホールには、椅子に座った乞食が十人ばかりいた。 「賊だ! 取り押さえろ!」  後ろで声があがった。  ホールの奥から数人の衛兵が駆けつけた。 「デュール・グレイ! 謝れ!」  エドアルは必死で叫んだ。  無罪放免とはいかなくとも、自分の口添えがあれば罪も軽くなるだろう。とにかく、この乱暴者をおとなしくさせるのが先決だ。  衛兵たちが抜き身の剣を大きく引いた。  ああ、間に合わない! このまま、自分も仲間として斬られるのか?  脳裏に一枚の絵が閃いた。剣で貫かれる自分自身! 「デュール・グレイ!」  突きだされる剣先を身軽に交わして、ヒースは兵の懐に飛びこんだ。腕をおさえてみぞおちを打つ。身を翻しながら横の兵に蹴りをくらわす。兵は二馬身は吹っ飛んだ。ヒースはその場で跳ねて後ろの兵に蹴りを入れる。剣が折れ、腰の引けた兵はヒースの二発目の蹴りを受けて床を滑る……。  エドアルの目では、それ以上とらえられなかった。数人があっという間に横たわり、ヒースは迷わずホールわきの扉を開けた。  そこは広間だった。大勢の乞食と衛兵の目が一斉にこちらに向けられた。  悲鳴があがった。  数多の足音とざわめき。  ヒースの後から広間に入ったエドアルの目に、隅へ逃げようとする数十人の姿が映った。  衛兵が棒をかまえ、小走りに向かってくる。  やられる! 「衛兵、退がれ」  凛とした女の声が響いた。 「元の位置にもどれ」 「殿下! ここはおまかせください! 一刻も早く殿下は安全な場所へ!」  衛兵が棒をふりおろした。  ヒースは身を翻し、一打めを器用に交わした。懐に入りこみ、相手の腕をつかむ。ねじる。衛兵がうめく。その手から棒が離れる。床に落ちて弾んだ。音がコォーンと反響する。  もうひとりの衛兵が棒をふりあげた。  ヒースは足先に転がった棒を引っかけ、跳ねあげた。腰までふぅわりと浮かびあがる。過たずつかむ。棒は水平に回転し、先端がすばやく衛兵の胸を突いた。  衛兵がよろけて尻もちをついた。  後方に残る衛兵は二人。  ヒースはさらに踏みこみ、棒を突きだした。  衛兵の後ろから、背の高い人影が躍りでた。  黒髪。  叔母上!  エドアルは目を疑った。  黒髪が突きだされた棒の先を抑えた。ヒースの動きが止まる。 「場をわきまえなさい」  静かな声が棒を押し返した。ふくらんだ袖から伸びた豊かなアンガジャントが閃いた。 「いたずらが過ぎる! みな怯えているではないか」  胸元の大きく空いた襟ぐり。青い光沢のあるドレスが、肌の白によく映えている。高く結いあげた黒髪は、金糸のネットでまとめられ、そこかしこに宝石をちりばめている。  品のある美しさ。リュウインにありがちな過剰な装飾に走らず、血の高貴さが身からにじみでるような。まさしくパーヴの姫にふさわしい。強い意志を宿す黒い眼。その眼が、今、エドアルに向けられた。  全身がこわばった。  震えが走った。 「外で、待っていなさい。じきに終わるから」  黒髪の美姫は言った。  やわらかな目。やわらかな物言い。  そうじゃない、とエドアルは思った。  もっと毅然とすべきだ。強く、傲慢なほど超然と。  姉上は甘すぎる。 「おまえもだ。用があるなら、後で聞く」  リュウカの白い細面が傾いて、黒い眼がヒースを見た。 「オレひとりで突破できる守りなんか、イミねぇよ」  ヒースは棒を引っこめて言った。 「客だっていんのにさ。早いとこ守り固めろよ。今日のとこは、オレがそばについててやるけど」 「おまえはエドアルについていなさい」  ヒースは身を翻した。  戸口に向かったが、広間から出ずに、壁にとん、と背を預けた。 「始めろよ。客を待たせちゃ悪いだろ。おまえらも物騒なもんしまって、持ち場に立てよ」  おまえがメチャクチャにしたんじゃないか。  エドアルはリュウカを見た。  叱責が飛ぶぞ。剣を抜くかも知れない。  胸が躍った。  しかし、リュウカは小さなため息をついただけだった。身をひるがえし、椅子にもどる。  衛兵を手招きし、何事か話しかけた。  衛兵は扉を出た。やがて、布張りの椅子をひとつ運んでくる。  ヒースの横に置いた。 「エドアル」  リュウカが呼びかけた。 「すまないが、しばらくそこで待っていなさい」  エドアルはムッとした。 「下座にいろとおっしゃるのですか? ここでは、立場上、姉上の隣がふさわしいと存じますが?」 「これはリュウインの国務だ。退がっていなさい」 「だからといって、下座など……!」 「そこが、もっとも安全なのだ。ここは城ではないのだから」  確かに、ヒースごときに負かされる衛兵では心もとない。 「しかし、姉上、気になさる必要はないのではありませんか? 現に、ここまでの途上、賊は現れませんでしたし」 「では、外に出ていなさい」  は?  リュウカは広間を見渡した。 「騒がせてすまぬ。これらは私の友人だ。少々にぎやかだが、みなには手荒なことはせぬ。カーミットのオオミキどの、話が中断してしまったな。許せ。続きを」  にぎやかなのはデュール・グレイです! 私ではありません! 一緒にされては困ります!  抗議したかったが、リュウカはもはやエドアルを見なかった。  まあ、いい。公務中ということで、ここは引いてさしあげよう。しかし、後で必ず抗議しますぞ、姉上!  下座に用意された椅子に着く。  腹の辺りがムカムカしていた。  右を見ると、ヒースの腕が見えた。  顔が見えない。  視線を上にたどり、顎をあげ、見あげた。  不意に、自分の姿勢に気づく。  なんたることだ!  王子たるものが、下々の者を見あげるなんて! 「無礼者! 見下ろすな!」  エドアルは小声で叱りつけた。  ヒースがニヤリと笑った。 「じゃあ、あんたも立てば」 「無礼者! おまえが下がれ!」  ヒースはしゃがみこんだ。  股を大きく広げたさまは、ふてぶてしく、ひどく下品だ。顔には挑発するような笑みまで浮かんでいる。 「ひざまずけ! 臣下の礼をとれ!」 「あんたの臣下じゃないんでね」 「私は王子だぞ! パーヴの者なら、従うのが道理であろう!」 「立場わかってる? 誰が守ってやってんだよ」 「偉そうな! おまえなんか追い出してやる!」  叫んだ。  七、八馬身ほど向こうで、リュウカがふり向いた。 「出ていきなさい」 「悪ィ。静かにするからさ」  間髪入れず、ヒースがウィンクした。 「姉上に! 無礼であろう!」  声をひそめて、エドアルは叱りつけた。  ヒースは大げさに肩をすくめてみせると、遠くに眼を移した。  その視線の先には、青い麻の服を着た乞食がいた。リュウカの前にひざまずき、大げさに身振り手振りをしながら話をしていた。 「税は死人からも赤子からも取るのです。畑の代わりに山をあてがい、畑と同じだけの麦を納めよと言うのです。我々の村では、もはや生むことも死ぬこともできません」  どうやら乞食と思っていたのは農民らしい。生意気にも領主への不満を語っている。  さらに農民は、娘が領主にとりあげられただの、遠方に開墾に行かされて食うにも困るだのと並べたてた。 「まれに、返される娘がおりますが、決まって孕んでおります。孕んでいてはじゅうぶんに働けませんし、子が生まれたら生まれたで手がかかります。しかし、麦は二人分納めなければなりません。納められなければ村全体に不足分と罰則分が課せられます」  その口ぶりに、エドアルは苛立った。 「領民は、領主の言うことをおとなしく聞いていればよいのだ」  思わず口走った。 「それが民の務めだ。賢しいことを申しおって! 土地のことは、領主が考えておるのだ、民はよけいなことを申さず、すなおに役目を果たせ!」  農民がキッと顔を向けた。 「私腹を肥やすこと以外、何をお考えとおっしゃるのですか」  エドアルの体内で、血が沸騰した。 「口答えするな! そこに直れ! 性根をたたき直してやる! 誰か鞭を持て!」 「つまみ出せ」  リュウカが静かに言った。額に手を当てている。  ほら、見ろ! 姉上だってあきれていらっしゃる……。  足が宙に浮いた。 「何をする!」  後ろから羽交い締めにされていると気づいたときは遅かった。  重い扉から、外に放りだされた。  床に膝をしたたかに打ちつけた。 「痛いっ!」  大声でわめいたが、誰も応じない。扉は閉まった。廊下に人気はない。  ざわめきが聞こえる。だが、それはどことも知れない遠くからだった。  扉を叩こうか。  いや、王子ともあろう者が。  腰をさすりながら起きあがった。  それより、声をたどろう。  あれだけ大勢いるのだ。中には道理のわかる者がいるに違いない。  薄暗い塗り壁の廊下には、いくつもの似たような曲がり角があった。  いくつか角を曲がりたどっていくと、急に声が失せた。  方角をまちがったのだろうか? 反響にだまされることは、よくある。  戻ってみよう。  いくつかの角を曲がり直す。  気のせいか、来たときとは違う風景のようだ。  まさか。  不安とともに、廊下の薄暗さが増していくような心地がする。  ちがう。  気のせいなどではない。  迷った!  どうしよう?  天井まで低くなったような気がした。圧迫感に息苦しさを感じる。  落ち着け。こんなときこそ、王者の風格が試されるのだ。  深呼吸を二度した。  ここは無人じゃない。誰かが通りかかるのを待とう!  ……もし、誰も来なかったら?  今まで誰とも通りすがらなかった。  背筋がぞっとした。  いや、そんなはずはない。姉上がきっと気づいて探しにきてくださる。  今ごろ慌てふためいていることだろう。  このまま野垂れ死にしたら、姉上のせいだ! 姉上なんか、一生責任を感じて後悔すればいいんだ!  私を放っておいたら、どんなことになるのかわかっているのか?  私は危ない身なんだぞ。王太后陛下や兄上に命を狙われて……。  一気に、血の気が失せた。  そうだった!  私は狙われていたんだ!  膝から力が抜けた。  カタカタと音が鳴っている。  なんだろう?  体の中から響くような、イヤな音……。  音の源をたどり頬に手を当てる。  それは、自分の歯が鳴る音だった。  食いしばろうとしても、口はいうことをきかなかった。  寒気がした。  両腕でギュッと体を抱きしめたが、その手も震えて頼りなかった。  レンフィディックの夜。次から次へと追ってくる刺客。  ウィックロウの離宮。のたうちまわるヴァンストン。  剣か毒か、それとも?  もどらなければ!  エドアルは歩いた。  薄暗い廊下は、さらに暗さを増したような気がした。  足はのろのろと進まず、先は永遠に続くのではないかと思われた。  見覚えないか?  見た気がする。  いや、やっぱり覚えがない。  きっと覚えていないだけだ。角を曲がればきっと思い出せる。  …………。  自問自答ばかりがくり返された。  ますます迷っているような気がする。  そのとき、葉ずれの音がした。  外だ!  心の中がまぶしい光で満ちた。  外にさえ出られれば! 玄関を見つけて入り直せばいい。玄関には、誰かしらいるだろう。そうしたら、姉上を呼んで……。  いいや!  自分が無事だなんて言うもんか!  斬られて虫の息だと言ってやる。  姉上は慌てて駆けつけるだろう。  私は死にそうなフリをして、姉上は涙ながらにわびて、そしたら何もかも許してあげる。姉上は、こんなところに私を連れこんだ罪で、あいつを百叩きの上に獄にぶちこむだろう。それから私は芝居だったことを明かす。姉上は大喜びで、あいつより役者が上だと褒めてくれる。そして、姉上は女王となり、私は宰相として姉上をお守りするのだ。  もしかしたら、姉上は、代わりに王になってくれとおっしゃるかも知れない。私の補佐をしたいと……。  いいや、ダメだ。私にはリズという妻がいるし。  妄想がふくらんだ辺りで、気がついた。  葉ずれの音ではない。水音だ。  川があるのか?  どちらにしろ、外に出ることには変わりない。  音はどんどん近くなり、急に視界が開けた。  そこは、外などではなかった。  四方を渡り廊下に囲まれた小さな中庭で、中央に小さな池があった。その端に岩が積み上げられ、頂から勢いよく水が噴き出していた。  音の源は、ここであった。  もう、ダメだ。  外ではなかった。  もう、一生、ここから出られないんだ。  岩の陰で、何かが動いた。  女だった。  見覚えのある顔。  リリー・アッシュガース。  助かった! これで外に出られる!  一歩踏みだした。  リリーは岩に手を当て、身を起こした。  優美さのかけらもない!  女性なら、片手を当てるときは、もう片手を添えるし、身を起こすときは、そっと手を胸元に添えるべきだ。そういうところに、品の良さが出るのだ!  それに、まるで侍女のような姿ではないか!  スカートのふくらみは貧弱だし、袖からのぞくレースは小さく、胸元は首近くまで布地で覆われている。  これが仮にも王弟の愛人か? パーヴの品位を疑われるではないか!  ここは、ウィックロウの離宮ではないのだぞ! 衆目にさらされているというのに!  近づくごとに怒りがこみあげてきた。  リリーはエドアルに気づき、周囲を見回した後、手を高くあげて大きく打ち鳴らした。 「デュール! 出てらっしゃい! 隠れてもムダですよ、わかってるんですから」  ギョッとして、エドアルはふり返った。  後ろから、金髪が現れた。  ニヤと笑う。 「見られてない自信はあったんだけどなあ」 「見てませんよ」  リリーはあっさり答えた。 「じゃあ、なんでわかっちまったんだ?」 「ちい姫さまなら、エドアルさまをおひとりにはなさいませんからね。おまえをつけておくでしょ」 「かなわねえなあ」  ヒースは棒を高く放り投げた。  くるくると回って、手元に吸いつく。 「ずっとつけていたのか!」  エドアルは怒鳴った。  迷っていたさまを見られた! 「他人の散歩をのぞきみるなど、貴族のすることではないぞ!」 「へえー、散歩? あれが?」  ヒースは意地悪く笑った。 「オレには、迷子が泣きそうになっているように見えたけどなあ」 「私が迷うものか! それより、なぜアッシュガースがここにいるのだ」 「私はちい姫さまのお伴をしてきたんです。エドアルさまこそ、何をなさってますの?」  リリーは悠然と答えた。  偉そうに! たかが愛人の分際で。王子と対等になったつもりか? 「答える必要などない。あれこれ詮索しおって、何さまのつもりだ!」 「お答えなさりたくなければ、けっこうですわよ。お城を出られるなんて、ずいぶん無謀ですこと! さぞかし厳重な警備をご用意されたのでしょうね?」  リリーは腕組みをして、ひたとエドアルの目を見つめた。 「も、もちろんだとも!」  気押されながらも、ふんばってみせた。 「おまえに心配されるいわれはないぞ!」 「私が心配なのは、ちい姫さまですの」  口調は決して荒々しくない。が、いやに風格があった。 「エドアルさまが軽率なことをなさいますと、ちい姫さまがみんな尻ぬぐいをなさるんですからね。まさか、ほとんどお伴を連れずにいらしたんじゃないでしょうね」  ぎくり。  無礼な物言いに腹立ちながらも、図星を指されて浮き足だった。 「もし、万が一、そのようなことがあったら、ちい姫さまはうちのバカ息子に言いつけて、エドアルさまがあまり遠くにいらっしゃらないようにするでしょうね。お帰りは、ご自分の護衛をみなエドアルさまにおつけになるばかりか、お自ら警護につかれるでしょうね。一日中、お仕事で疲れていらっしゃるというのに! そこのところ、おわかりになっていらっしゃるんでしょうかね、ご本人さまは!」 「あ、いや……」 「命を狙われるということが、少しはおわかりになってるんですか? 一瞬のスキを狙われればお終いなんですよ! 殺すほうはたった一瞬! 守る方は、一瞬のスキもなく! どう考えたって、守るほうが分が悪いんです。たいした理由もなく出歩くなんて、どういう神経なさっているんですか! お小さいころのちい姫さまだって、まだマシでしたわよ!」  図星に次ぐ図星である。  まるで、見てきたかのようだ。  反論しなければ! 王子の威厳が! 「小さいころの姉上だって? バカにするな! 姉上には叔母上がついていらしたのだぞ! 危ないめに遭われるわけが……」 「あのお姫さまですら、手こずったのですよ! 何度死にかけたことか! 少しは命の大切さをちい姫さまに教えていただきなさい!」  まさか。  あの叔母上を出し抜く?  そんなバカな。  あの眼に睨まれたら、誰だって……。  白い細面に空いた二つの暗い穴。 『リュウカ!』  思いだしただけでエドアルは縮みあがった。  あの鋭い一喝を聞いたら、何者だって……。  父王よりも大きな体で、声も大きかった。大きな白い手はエドアルにかざされることはなかったが、リュウカには容赦なくとんだ。見ているだけで恐ろしかった。  父王はそんな叔母を、いつも慈しむようなまなざしで見つめていた。 『アレは龍の仔なのだ』  龍の仔を逃がしたからこそ、父は祖母に頭があがらないのだ。  私なら、逃がしはしない。 「ここにいたか」  高い声がした。エドアルはふり向いた。  そこには闇色の眼が二つあった。しかし、やわらかく、か弱い光だ。  ちがう、とエドアルは思った。  龍ならもっと強くあるべきだ。見る者をひれ伏せるような。 「お昼にしましょう」  リリーが岩陰から包みを出した。 「私はよい。三人でおあがり」 「ちい姫さま。きちんと召しあがっていただかないと。お仕事になりませんわよ」  リュウカは小さく苦笑した。 「あまり食欲がない」 「ムリにでも召し上がってください。そのままになさったら、ますます食が細くなりますよ」  ヒースが青いマントを跳ねあげた。  腰にさげた麻袋をとり、放った。続いて水筒を放る。  ゆるやかな弧が二つ。  宙を描いて、ぼすんとリュウカの膝に落ちた。  白い手袋が、袋の口を解いた。夕暮れ色の小さな球が転がりでた。濡れたオレンジ。水の滴がきらきら光る。 「そいつなら、食えるだろ」  リュウカはオレンジを口元に当てた。口を開いた。白い歯が皮に当たった。  エドアルの背筋に悪寒が走った。 『リンゴは、丸ごとかじったほうがおいしいの!』  シャリリリと音を立てて、リズは赤いリンゴに歯を立てたものだ。もともと粗野な育ちだからしかたがない。  しかし、リュウカは!  パーヴとリュウイン双方の血を引く由緒正しい王女だ。偉大なヒースクリフに由来する、これ以上はない正統な血筋だ! 「おやめくださ……!」 「ちい姫さま! そんな得体の知れないもの!」  エドアルの声は、リリーの怒鳴り声にかき消された。 「毒でも入っていたら、いかがなさいますの!」 「今朝、氷屋から買ってきたヤツだから、だいじょうぶだよ」 「身元はしっかりしているのでしょうね?」 「フツーの氷屋だよ。心配ねえって。あんなとこまで手を回しっこないんだから」 「なんですって! ちい姫さま、召しあがってはいけません! どこで毒が……」 「だいじょうぶだって」  母子のケンカをよそに、リュウカは瞬く間にその夕暮れ色の果実をひとつたいらげた。 「エドアル」  リュウカは首をめぐらせた。  黒い眼とぶつかり、エドアルはドキリとした。 「城から迎えがきている。昼を終えたら帰りなさい」  城から? 迎え? 「姉上、おかしいですよ。私はここまでコレにムリヤリ連れてこられたんです。私でさえ、どこに着くかわからなかったのに、どうして国王が、私がここにいることを知っているのです」 「城を出るときは、この子と一緒だったのか?」 「そうですが」  リュウカは苦笑した。 「宰相どのなら察するだろう。この子が行きそうな場所は決まっているから」  その笑みに、エドアルはなぜだかホッとした。  今なら、安心して話せそうな気がした。 「姉上は、ここで何をなさっているのです? 仕事とかおっしゃっていらっしゃいましたが」 「謁見だ。以前、母上がここで行っていたように」  おかしなこともあるものだ、とエドアルは思った。 「それは国王と王妃の務めでしょう。姉上にはまだ早すぎると思われますが。それに、拝謁する人々を少しも見かけませんが」 「先ほど、そなたも見ただろう。ここを訪れるのは上流の者たちではない」  エドアルは首をかしげた。 「では、誰です?」 「あんたの嫌いな下賤の者どもだよ」  横からヒースがからかった。  エドアルは怒鳴った。 「おまえは黙れ! 私は姉上とお話しているのだ! 第一、民など領主に従っていればいいのだ! 愚かな民どもに何がわかる!」 「では、そなたに何がわかるのだ」  リュウカは静かに言った。 「たとえば、このオレンジはどこでいつ取れる? どこからどのように運ばれる? 毎年どれだけの量がとれ、どれだけの富を生む? そのうちどれだけが誰の懐に入る?」 「そんなことは領主どもが考えることです! 私たちが煩わされるべきことではありません!」 「では、その領主が道を誤っていたら? 誰が誤りだと判断を下す? どのように?」 「それは誤っていたら、の話でしょう! そんな心配なんかしていたらキリがありません。第一、領主は領地を治めるのが仕事なのですよ。誤ることなどあり得ません!」  リュウカが小さく息を吐いた。 「私は仕事にもどる。そなたたちは城に帰りなさい。よいな」  オレンジの袋をしめ、立ちあがる。ヒースに手渡し、軽く腕を叩いた。 「エドアルを頼んだぞ」 「水筒は持っていけよ。謁見中でも水ぐらいは飲むんだろ」 「では、借りておこう」  リュウカはふり向かなかった。床を滑るような足どりで、迷いなく立ち去った。 「ちい姫さまったら、あれしか召しあがらないなんて」  リリーがため息をついた。  ぎっしりと詰まった弁当箱が、敷物の上に広がっていた。 「しょうがないわね。あなたたち、片づけてしまいなさい」  昼食はひどいものだった。  食事は大皿から取り分けられ、おまけに取り皿は一品ごとに替えるでもなし、ナプキンも調味料も水も世話する給仕もなしで、てんでマナーがなっていなかった。  とんだ田舎へ来てしまった。 「姉上の明日のご予定は?」  弁当箱を片づけているリリーに訊ねた。 「今日と同じです。こちらでお仕事です。明日も明後日も、その次も。お忙しいんですから、お手を煩わせないようになさいませね」  リリーはつっけんどんだった。 「デュール、ちゃんとエドアルさまをお城までお送りするんですよ。おまえのほうが年上なんだから、しっかりしなさい。いつまでも子どもじゃないんですからね」  カチンときた。  私だって、今年成人したのだ。立派なオトナだ。 「ここには勉強できるところはないのか」  エドアルは腹に力を入れた。低い声をゆっくりと絞りだす。 「姉上が仕事をなさっているなら、私も遊んではいられまい。ゆくゆくは姉上を補佐する身、この国について学びたい」  どうだ、とヒースを見た。  これぞ、オトナの男というものだ。 「では、お城に帰って、赤イタチにでもお言いつけになってください」  リリーはまったく動じなかった。 「国より人の心だと、私は思いますけどね」  てきぱきと弁当箱をまとめ、袋にしまった。 「偉そうにお勉強してるヒマがあったら、それこそ、オレンジを摘みにでも行ったほうがマシですよ」  立ち上がった。 「デュール、ちい姫さまのお言いつけですからね、ちゃんとエドアルさまを……」 「かったりー」 「デュール!」  ヒースはおおげさに首をすくめてみせた。 「まずは、ここを改めよ!」  迎えの兵の前で、エドアルは命じた。 「ここの守りは薄い。我々が鉄壁の守りで、姉上をお守りするのだ!」  十数人を率いた隊長が答えた。 「我々の任務は、殿下を城までお連れすることです」 「わかったら、すぐに守りにつけ!」 「我々の任務は、殿下を城にお連れすることです」  赤い上衣をかぶった隊長は、ゆっくりとくり返した。  エドアルは、相手の言葉を口の中で反芻した。  なに!  脳に意味が飛びこんできた。 「わ、私は国賓で、隣国の王子だぞ! ゆくゆくはこの国の王女の夫となるのだぞ!」 「おめでとうございます」  隊長は冷ややかだった。 「私の命令がきけないのか!」 「宰相殿下のご命令ですので」  隊長が軽く手をあげ、兵が数名エドアルをとり囲んだ。 「お連れするのに手段は選ばないようにと承っております」  腕をつかまれた。脚がつかまれ、体が横倒しに宙づりとなる。  気持ち悪い。 「やめろ! おろせ!」  必死に手足を動かそうとしたが、動いたのは尻や背中だけだった。  食堂の椅子は、腰かけると深く沈んだ。足が浮き、軽くかがんだかのように腹が圧迫される。  イヤな椅子だ、とエドアルは思った。  誰もいない食卓。  給仕が食前酒を運んできた。  赤いドロリとした液体が、グラスの中で揺れていた。  傾けて、口にふくんだ。  甘い香り。脳天を突き抜けるような甘み。  反射的に吐きだした。  汗が全身から噴きだした。  手が震えた。  医者を! と呼びかけて、口をつぐんだ。  毒入りとは限らない。  給仕がけげんそうにエドアルを見つめていた。  咳払いをひとつ。 「私の口には合わん」  ナプキンで口をぬぐった。赤く染まる。 「別のものを持ってこい」 「晩餐には、イチゴワインと決まっております」  給仕が恭しく頭を傾けた。 「聞こえなかったのか。私の口には合わん」 「国王陛下のご命令ですので」 「私の口には合わんと言っておるのだ!」  食堂のドアが勢いよく開いた。  リズが笑顔をたたえ、踊るような足どりで席に着く。 「これを絞って、ジュースにしてちょうだい」  白いテーブルクロスの上に、鮮やかな夕暮れ色の山が崩れて転がった。オレンジ。 「私とお姉さまに一杯ずつ」  エドアルの目が吊りあがった。  その夕暮れの色は、昼間の不愉快さを呼び起こしたのだ。 「誰から……」  声がかすれた。  わかりきった答えだった。  それでも問わずにいられなかった。 「誰から受け取ったんですか!」  リズは息を飲んだ。  エドアルを見つめた。  空気が凍った。 「答えなさい! 誰から受け取ったのですか!」 「食料庫の……」  リズはゆっくりと口を開いた。 「管理人よ。ちゃんと断ったわ」  エドアルの肩がおりた。  かわりに、リズの目に光が甦った。 「なにかいけない? それとも、自分の好きなものを選んじゃいけないって言うの?」 「そんなことは言っていませんよ、ひとことも」  涼しい顔でエドアルはしらばっくれた。 「それにしても、姉上まで子どもじみたものを召しあがるのですね。あなたは仕方ないけれども。まだ子どもですからね」 「ムカつく!」  リズが口をとがらせた。 「下品な物言いはやめなさい。来年には大人の仲間入りをするんですから」 「都合のいいときだけ大人扱いして!」  リズは叫んだ。 「静かになさい。王女は国の鑑ですよ。異国からの来客に国の品位が疑われます。自覚なさい」 「客なんていないもん!」 「気を抜いたときに、品の良し悪しが出るのです。いつ何時も、隙を見せてはいけません。常に緊張して、ご自分を磨きなさい」  リズの顔は真っ赤だった。唇を真一文字に結び、睨みつけている。 「少しは反省しましたか? あなたはまだ子どもだけれど、来年は大人の仲間入りをするのだし、今から充分身につけておかなければね。成人の儀というのは、これから大人の訓練を始める火ではなく、大人としてのふるまいが身についていなければならない日なのですからね。あなたは今まで好き放題なさってきたのでしょうが、これからはそうはいきません。私の妻になるのだという自覚を持っていただきます」 「どこかで聞いた説教だな」  エドアルの背後で風が吹いた。  ふり返った。  赤い小さなマントがはためいて、エドアルの席を通り過ぎた。光沢のあるドレスは大きく胸が開き、そこからウエストまでが古くさい刺繍に覆われていた。 「待たせたな」  ぐるりと席をまわりこみ、赤いドレスがリズの隣に着座した。  その瞬間、リズの目が決壊した。 「お、おねえざばぁ!」  目ばかりではなかった。鼻も声も大洪水だった。  リュウカは苦笑して、ナプキンをとった。 「食事にならないよ。機嫌を直して」  リズの顔を拭い、とんとんと背を叩いた。 「そうですよ! 王女ともあろう者が、食卓で泣きだすなど! 恥を知りなさい!」  エドアルは叱りつけた。  リュウカの目が、すうっと冷たくなった。 「今まできかされてきた言葉を、そのまま人に転じるのか」 「何のことです?」 「そなた自身の言葉で語りなさい。でなければ、言葉は虚しい」  謎かけのようだ、とエドアルは思った。  しかし、意味がわからないなどと答えては、まるで自分は愚かだと白状するようなものだ。  ここは、話を元に戻そう。 「姉上、私はエリザ姫に下品な言葉づかいをやめなさいと注意しているのです。ムカつくなどと言うものですから」 「だって、子ども扱いしたり、オトナ扱いしたり、勝手なんだもん」  リズが鼻声で叫んだ。 「ほら、すぐに叫んだりして。静かに話せないのですか」 「なによ! バカにして!」 「落ち着きなさい」  リュウカはリズをなだめた。 「ほら、姉上だってあきれていらっしゃる!」  エドアルは勝ち誇った。 「あなたには、自覚が足りないんです。私の妻になる前に、きちんとしたレディになってもらわなくてはね!」  リュウカはため息をついた。 「きっかけはなんなのだ」 「きっかけ?」  少しの沈黙。 「ジュースよ」  リズは言った。 「オレンジを持ってきて、ジュースにしてちょうだいって頼んだの。そしたら、アルは、ジュースなんて子どもの飲むものだってバカにしたのよ!」 「晩餐には、イチゴワインと決まっているのです。国王がお決めになったことですからね」  エドアルは得意げに言った。  リュウカが苦笑した。給仕に声をかけた。 「ジュースをエドアル殿下にも」 「おそれながら、晩餐にはイチゴワインかいちごジュースと決まっております。国王陛下のご命令でございます」  給仕はエドアルのときと同じように答えた。  リュウカは手を上げて遮った。 「せっかく食料庫から出していただいたものだ。ムダにしては申しわけがない。上には、私から話しておくから」 「おそれながら殿下、国王陛下のご命令には絶対服従していただきます」 「そなたには迷惑をかけない。実は私もあのワインが苦手なのだ。あれを出すと言い張るなら、今すぐ大広間に駆けこんで直訴する」 「国王陛下のご命令は神聖不可侵でございます」  にべもない。  リュウカは立ちあがった。 「姉上! 早まらずに!」  エドアルは手を伸ばしたが、届くはずもない。  リュウカは身を翻し、まだ入ってきたばかりの扉から消えた。 「姉上!」 「お姉さま!」  リズとエドアルはバタバタと後を追った。  たかが食前酒ひとつのことではないか! どうして大騒ぎになるのだ?  エドアルは額に手をやった。  エリザ姫どころじゃない! 姉上こそ狂ってる!  黒髪が廊下の角を曲がるのが見えた。  必死で追いかけた。  途中で見失った。  王に話に行ったのなら、大広間のはずだ。毎晩宴会を開いているのだから。  たしか、こちらのはず。  うろ覚えで歩き、衛兵を見れば道を訊ね、ようやく人の喧噪を耳にしたときにはホッとした。  角を曲がると、視界が開けた。広い中庭に燭台が並べられ、庭を煌々と照らしていた。そこに着飾った貴婦人や紳士たち。  もっとも手前に、黒髪の女がひざまずいていた。  髪から何かがしたたり落ちている。とめどなく。ドロリドロリと。  視線をあげれば、太った男が両手に大ぶりのグラスを掲げ、逆さまにひっくり返しては黒髪に浴びせているのだった。  リュウイン国王!  エドアルの足は鈍った。  国王は酔ったような満足げな笑みを浮かべ、笑い声をあげていた。 「飲め! 飲め! レイカ!」 「旨いか? 旨いだろう! 遠慮するな! レイカ!」  エドアルは足を止めた。  すくんだ、と言ったほうが正しいかも知れない。  国王は、幽霊を相手に話しているのだった。 「レイカ、予の気持ちがじゅうぶんにわかっただろう! 許してくれと言え。もどってくると言え。愛していると言え。レイカ!」  国王はグラスを放り投げ、黒髪の女の肩をつかんだ。 「恐れながら、私は母上ではございません」  リュウカが低い声で言った。 「それは当然だろう」  国王が大声で笑った。  エドアルはホッとした。リュウイン王は、正気を保っている。今までは悪ふざけが過ぎただけなのだ。  しかし、安堵は一瞬にして打ち砕かれた。 「おまえは萌黄の方ではない。あの方は国王の花嫁を装いながら、実は息子のカルヴなどと通じていたけしからん女だ」  な……なんだと?  頭に血がのぼった。  父上を侮辱するか! 「おまえも、そのあばずれの血を引いている。だが、予は許してやるぞ。許してやる! 代わりに、今の男のクビを持ってまいれ! レイカ!」 「私はリュウカでございます」  リュウカの声は低く震えていた。恐怖とも怒りともつかぬ声だった。 「リュウカだと!」  国王は目をむいた。  ぎょろりと、まぶたが剥けてしまったように見えた。白目が飛び出したようでもあった。  絵本で見たことがある、とエドアルは思った。  化け物が正体を現すときの顔だ。 「あの男の子か! あの憎らしいあの男! 言え! 今レイカはどこにおる! あの男はどこだ! 切り刻んでやる! レイカはどこだ!」  国王の両手が肩から滑った。長い首を締めつけた。 「死ね! 死んでしまえ! あの男の娘め! あの男と一緒に、地獄に落としてやる!」  リュウカはじっと国王を見ていた。  それから、ゆっくりと国王の腹を蹴った。  国王は後ろへひっくり返った。 「殺せ! これを殺せ! クビを斬るのだ! クビを斬って城門にさらせ! これを見れば、レイカも目が覚めて予の元に帰ってくる! さっさと斬れ! ほうびをとらすぞ!」  ひっくり返ったまま、国王は叫んだ。  場が凍りつく。 「陛下!」  人ごみをかきわけて、小男がやってきた。  宰相ランベル公だった。 「陛下、お酒が過ぎましたか。ここには誰もおりませんぞ。さあ、しっかり」 「レイカを返せ! 予のレイカ! レイカ!」  リュウカは身を翻した。  エドアルの横を通り過ぎた。  ようやく呪縛が解け、エドアルはリュウカを追った。  またしても見失ったが、床にべったりと塗り残された赤黒い液体が、行き先を告げていた。なめくじの痕のように、ぬめり光っていた。異様に甘く薬のような匂いが鼻腔を満たした。  まるで、鼻の粘膜にまとわりつくようで、気持ちが悪い。  軽いめまいを覚えながら、エドアルはイチゴワインの痕をたどった。  迷路のように入り組んだ廊下を過ぎ、地下へと降りていた。  石造りの冷えた廊下に、細く灯火がともっていた。  荒々しい音が轟いた。  そっとのぞいてみると、ぐっしょりと濡れたドレスと濡れ髪の女が、扉を片っ端から開けているのだった。  巨大な剣を振り下ろし、錠を壊して、重い木の扉を蹴り開けた。中に入り、漁っては出て、また隣の扉で同じことを繰り返す。  狂っている、とエドアルは思った。  暗闇の底で、狂人とただふたりきり、取り残されている。  動けなかった。  食い入るように女の姿を見つめていた。  やがて、リュウカはひとつの扉の中に入った。  また、轟音が響いた。  何か重たいものが落ちて転がるような音である。  入ったきり、出てこない。  轟音だけが、繰り返される。  エドアルはおそるおそる覗いてみた。  甘い粘りつくような匂い。樽がぎっしりと並んでいる。  リュウカは剣を握っていた。その刃には、ぬめるような光。いかにもずっしりと重そうで、もしエドアルなら振り回すことはおろか、逆に振り回されそうな気がした。  刃が振り上げられ、振り下ろされた。  樽がまっぷたつ!  と思ったが、期待を外れ、太いロープの封を切り落としたに留まった。  樽の栓を抜き、まくりあげたドレスの下から足が伸び、樽を蹴り倒した。  重く低い音が響いた。いつまでも響いた。イヤに耳につく響きだった。  中から、赤黒く粘りけのある液体が流れだした。それはあたかも、心臓の脈打ちに合わせて噴きだす血の海だった。甘い匂いが強さを増した。  エドアルはくらくらした。吐き気がこみあげ、その場にすわりこんだ。  リュウカはひとつ、またひとつと樽の封を開け、転がしていく。  魔物だ。  魔物に取り憑かれたんだ。  誰か、これは夢だと言ってくれ! 悪い夢だと!  しかし、強く甘ったるい匂いが、イヤというほど現実を突きつけた。  ならば、せめて! せめて誰か、止めてくれ! 「リュウカ、それぐらいにしとけよ」  弦に似た声が、からかうように響いた。  薄暗がりに、白っぽい髪。背の高い異国の風貌。  救いの神のように見えた。 「うへえ。こりゃあ、後始末がたいへんだぜ。あんたもつきあえよ。自分の粗相なんだからな」  恐れを知らない不敵な笑み。神にしては悪意に満ちていると思った。 「おまえ、どうして」  リュウカが首をかしげた。鬼気迫る勢いが消えた。すべては夢幻であったかのように。 「リズに聞いたぜ。いくら嫌いだからって、ここまでやらなくてもいいだろ。リズのじーちゃんには、オレから頼んどくからさ」 「宰相ではない。国王の命令なのだ」  リュウカの目に、一瞬殺気のようなものが走った。  狂気が再燃するように思えて、エドアルは体をこわばらせた。 「あんなおっさん、まともな話ができるもんか」  ヒースはカラカラと笑った。  よくもまあ、軽く笑い飛ばせるものだ、とエドアルは思った。  背筋が冷たい。震えが走る。  状況を察しろ。このうつけ。 「なんのかんの言って、実質的な権力者はリズのじーちゃんだろ。オレから言っとくからさ、その物騒なもん、しまってくんない? なあ、リュウカ」  リュウカは剣を振り上げた。  斬られる!  ヒースの胴が上下まっぷたつに分かれるさまを想像して、エドアルはこわばった。  目をつぶりたかったが、もはやまぶたさえも自由にならなかった。  リュウカは剣をひとふりして、鞘に収めた。 「おまえが言って、どうにかなるものではなかろう」  信じられない。  あの狂気はどこへ失せたのか? 「ここがよくわかったな」 「あんたのすることなんか、お見通しだよ。つきあい長いんだぜ?」  たぶん、ワインの痕を追ってきたのだろう。エドアルと同じように。 「どうせ、足りなくなりゃ買うだけだろ? あんたのやってることは、無意味だよ。わかってる? さっさと樽を起こせよ」 「そうだな、すまぬ」  リュウカはおとなしく樽を引き起こした。 「あんたみたいな凶暴な女、野放しにしとくなんて、危なすぎるぜ」 「そうだな」  エドアルも、同感だと思った。 「だからさ、こんなとこ来ないで、オレんとこ来いよ」  ヒースも樽を引き起こした。  服が暗い色に染まった。 「それでどうなる? それこそ無意味だ」  リュウカは淡々と樽を引き起こす。 「大アリだよ! 話だって聞いてやれるし、暴れたって、泣いたっていいんだぜ?」 「たいした自信だな」 「長いつきあいだからね」  ヒースは扉の裏をまさぐって、モップとバケツを出した。  床にモップが走ると、表面が波打った。並々ならぬワインの量が知れた。  ヒースはモップをバケツの上で絞った。そして、また床を這わせる。  吸わせては絞り、絞っては吸わせ。  ムダなことを。エドアルは思った。 「私も手伝うわ」  エドアルの頬に風が当たった。  目の前をリズが通り過ぎて、ワインの海へと舞い降りた。  いつの間に。  リズのドレスの裾は、みるみるうちにワインで染まった。  いけません! とエドアルが声をかける前に、笑い声が響いた。 「それじゃ全身モップだよ。後でモリスが泣くだろうなあ」 「だぁれ? モリスって」  モップを押しながらリズが訊ねた。 「自分の侍女の名前も知らねぇの? モップ姫」  ヒースが答えた。 「どの人? もしかして、いちばん偉そうなガミガミ言う人?」 「ちがうちがう。それはローンだろ。ワット・ローン。旦那が公爵だかなんだかで、自分も偉くなったような気がしてるオバサン。その下に、いじめられてる衣装係の子がいるだろ。鼻ペチャでそばかすのある色白の子」 「わからないわ。衣装係なんて何人もいるもの」  当然なことだった。風呂も着替えも大勢の侍女が押し寄せて済ませてくれる。いちいち顔だって覚えてはいられない。 「下々の者同士、気が合うみたいだな」  エドアルは嫌みを言った。  リズが睨んだ。 「あなたたち、いとこ同士じゃない」  いとこ。  たしかにそうだった。  エドアルは国王の息子で、ヒースは王弟の庶子ということになっていた。  だが、本当は。  事実を知ったら、リズはどんな顔をするだろう。憧れのモーヴ叔父の血など一滴もひかず、それどころか、どこの馬の骨とも知らない卑しい生まれだと知ったら。  事実を告げたい衝動に、エドアルはかられた。 「モップ姫、掃除はオレらがやるから、上がってろよ。これは、リュウカの不始末なんだし」 「いやよ。いっそ、一生お姉さまにお仕えしようかしら。結婚なんてやめて」  そっけない言い方だったが、エドアルの導火線に火をつけるには充分だった。 「女性が結婚せず、どうすると言うんです!」  リズはエドアルを見なかった。 「いいですか! 女性というのは、家庭に入って、子どもを産み育てて一人前なんです! いつまでも独り身でいることなんて、できないんですよ!」 「ねえ、お姉さま、デュールを貸してくださる?」  リズは、まだエドアルを見なかった。 「頼みごとなら、本人に言いなさい。私にはなんの権限もないよ」 「じゃあ、デュール。お妾さんにしてちょうだい。お姉さまと結婚するのは協力するから」  なっ! 「なんてことをっ! もうすぐ私の花嫁になろうという人が!」  エドアルは怒鳴った。  酒蔵に重く響いた。 「これは国王命令なんですよ! 絶対服従ですからね!」 「デュールは形になんかこだわらないでしょ? リリーだって、そうだものね?」 「お袋は、親父に惚れてたんだぜ。親父もお袋にぞっこんだった。一緒にするなよ」  知ったげに。とエドアルは思った。  まことの親子ではないくせに。  私が父上と相談して、叔父上におまえを預けたんだぞ。  恩を仇で返しやがって! 「父上はきっとおまえに命令をくだすだろうな」  エドアルはヒースを睨みつけた。 「叔父上の跡を継ぐように、ガーダに派遣するさ! おまえはそこで、盗賊と追いかけっこしてりゃいいんだ! 永遠にな!」  叔父のモーヴ公は、そうして命を落としたのだ。遺体は未だに見つかっていない。永遠に荒野を彷徨っているのだ。 「そなたたちは部屋へもどって着替えておいで」  リュウカが静かに言った。 「ここは私が片づけるから、そなたたちは食事を済ませておいで」 「お姉さま、あたしはお姉さまの味方よ! お手伝いします!」  リズは身を乗りだした。ヒースがその手からモップをひったくる。 「はいはい、ジャマジャマ。おふたりさんは部屋にもどって」 「おまえもだ」  リュウカはさらりと言った。 「はいはい、黒猫ちゃん」  く、黒猫ちゃん?  エドアルは目をむきだした。 「無礼者! 姉上は一国の王女だぞ! ゆくゆくは女王となられるお方だ! 口を慎め!」 「じゃあ、またな、オレのかわいい黒猫ちゃん」  ヒースはウィンクすると、モップを片隅に置き、廊下を歩きだした。  リズがその後を追った。  あくまでも、自分を無視するつもりだ。 「姉上! あんな無礼を許しておいてよいのですか!」 「そなたも部屋に戻りなさい」  リュウカはモップをかけながら、静かに言った。  エドアルは廊下を歩きだした。充満するワインの匂いに辟易していたし、モップがけの手伝いをするのもまっぴらだった。  なにより、腹の中が煮えくりかえるようで、じっとしていられなかった。  どれもこれも、みんなあいつのせいだ、とエドアルは思った。  あいつなんて、叔父上に預けなければよかった! 姉上から預かったあの森に、そのまま放っておけばよかったのだ!  食堂に、リズは現れなかった。エドアルはひとりで晩餐をとり、湯浴みを済ませ、寝間着に着替えてベッドに入った。大勢の侍女は、湯浴みと着替え、それぞれの仕事を終えると、残らず引きあげていった。今朝までとは格段の違いである。やっと、国賓らしくなった気がした。  だが、心は寒かった。  ヴァンストンはどうしているだろう?  医師たちに連れていかれた後、居留守だなんて。  私は、ひとりぼっちだ。  ナイトテーブルに手をのばした。呼び鈴をとり、振る。闇の中、鈴の音は大きく響いた。灯りが、寝室に入ってきた。 「どのようなご用件でしょう」  侍女ではなく、男だった。 「姉上は、どこにいらっしゃる?」 「姉君とおっしゃいますと?」 「リュウカ姫だ」 「書斎にいらっしゃいます」 「どこだ、そこは」 「お部屋をお出になりまして、右へまっすぐ、棟の渡り廊下を行きまして、突きあたりを左に曲がり、その先のふたつめの角を右に曲がりまして、三つめの角を右に、その先の突きあたりに廊下がございまして……」 「そこへ行く。灯りを用意しろ。ガウンはどこだ?」  男の手伝いでガウンを羽織り、灯りを持って廊下に出た。男の案内で書斎へ向かう。  灯りの落ちた場内は不気味だった。  廊下のたいまつは炎も小さく、かすかに床と壁とを見分けられる程度だった。男の足取りは迷いがなかった。  渡り廊下で、風が吹いた。冷たい風だった。入浴であたたまったはずの体は、たちまち凍えた。  三つの棟を過ぎて、女の笑い声が聞こえてきたときにはホッとした。聞き覚えのある声だったからだ。書斎の前に立つと、閉じた扉から黄金色の灯りがにじんでいた。  早口で弾むような女の声はまだ続いていた。 「そのときよ、リリーがにこって笑ったの。そしてね、『前の王妃さまのことご存じなのね』って言ったの。あたし、ピンときたの。ああ、この人もおんなじなんだって。だから、すぐに『大好きよ。あたしの憧れの人なの!』って答えたの。それからは、もうたいへん! いっぺんに仲良くなっちゃって、パーヴに着くまでの間、ずーっとその話ばっかり。モーヴおじさまがね、途中で『あんな凶暴な女のどこがいいのかね』って言うもんだから、リリーとふたりで大反撃よ!」  エドアルは男を帰し、扉を開けた。  女の声がピタリとやんだ。  明るい灯の中、大きな木の机にひとり、その向かいの大きなクッションの上にひとり。  こちらを凝視している。 「エリザ姫、姉上のお仕事のジャマはしないと申していたでしょう」  エドアルが最初に言ったのは、これだった。 「姉上も、たしなめたらいかがですか。仕事がはかどりませんよ。お忙しい身なのですから、遊んでいないで、さっさと仕事を片づけてお休みください。それに、こんな夜中に騒いでいては、ほかのお部屋に迷惑でしょう。常識のない人たちだ」  リズはすでに視線をそらしていた。エドアルの声など聞こえていないかのように、話を続けた。 「それでね、モーヴおじさまったら、『あんな怖い女はいないぞ、羊の生首を平気でつかむんだからな』って言うの。実はね、モーヴおじさまは山羊とか羊の顔が怖いんですって! 何考えてるかわかんないって言うのよ」  何かの音色が響いた。  琴の弦のような音だった。  嫌な予感がして、もう一度室内を見回した。  机の横の大きな壺の陰に、もうひとり、すわりこんでいた。竪琴の手入れをしている。もちろん、髪は金色だった。片膝を立て、もう片足を伸ばしてすわりこんでいるさまは、長い手足を見せつけるようで、どうしようもなく腹が立った。 「おまえ! こんな夜中に何をしている!」  エドアルは怒鳴った。ずかずかと室内に足を踏み入れた。  ヒースは、エドアルに一瞥をくれた。 「自分のしていることがわかっているのか? 高貴なご婦人たちとこんな夜更けに、こんな密室で! 逢い引きととられても申し開きできないぞ! ご婦人たちの名誉を汚すつもりか!」 「そなたも眠れぬのか?」  書類から眼を離さずにリュウカが訊ねた。 「ならば、いなさい。だが、争いごとはやめなさい。気が散る」 「でしたら、姉上、このうるさいおしゃべりを放っておいていいのですか?」  リズはピタリと口をつぐんでいる。エドアルが声を出すと黙るのだ。まるで、嫌がらせのように。 「笑い声は歓迎するよ」  リュウカは言った。 「約束するなら、好きなところにいなさい」 「しかし、姉上、他の部屋に迷惑が……」 「この棟には誰もいねぇよ」  ヒースが弦を張りながら言った。 「少なくとも、寝てるヤツはな。ここは住まいじゃねぇから。そっちのテーブルに水さしがあるだろ。飲みたかったら飲めよ」  机から少し離れたところに丸テーブルがあった。小ぶりの白い水さしがのっている。中をのぞくと、まだ少し残っていた。小さなグラスに注ぐ。熱くはないが、温かかった。 「私には内緒で、こうして集まっていたのですね」  恨みがましくエドアルは言った。 「そんなに私を仲間はずれにしたいんですか」  リュウカは顔をあげた。 「申し合わせてはおらぬよ。ただ……」  ヒースが後を引き継いだ。 「来る者は拒まぬ! だよな」  リュウカはうなずいて、また机上に目をもどした。 「何を読んでいらっしゃるのですか?」  エドアルはのぞきこんだ。紙が何枚も重ねられ、細かい文字がびっしりと並んでいた。 「訴状だ。明日の面会分の」  リュウカは短く答えた。 「そんなもの!」  エドアルは叫んだ。 「明日、口頭で説明を聞いてからお決めになればいいではありませんか!」 「みな、窮している」  リュウカは顔をあげ、グラスに口をつけた。 「ここまでの旅費でさえ、村中で出しあって、やっとなのだ。待たせてはおけないよ。それに、あらかじめ調べておかなければ、何をどれだけ訊ねたらよいかわからぬだろう」 「そんなこと、姉上がなさらなくてもよいではありませんか」  リュウカはすなおにうなずいた。 「うん。もしも、ほかに人がいるならね。だが、誰もいないようなのだ。だから、館の前に行列ができる。ちがうか?」 「しかし、姉上だけがご苦労なさらずとも……」 「私だけではないよ。リリーもよくやってくれるし、ラノックも仕切ってくれている。館で働いてくれている人々もそうだ。まだ数は少ないけれど」  そうか!  エドアルの中で急に力がわいた。 「私もお手伝いいたします! いずれこの国に根づくのです。新しい国づくりを、ご一緒にいたしましょう!」  リュウカが苦笑した。 「肩の力を抜きなさい。そなたの理想には、残念ながらそぐわないのだし」 「何をおっしゃいます! 私はたった今、この国に骨を埋める覚悟で、姉上と新しい国づくりをする強い決意を固めたのです!」 「国づくりなど、クソくらえだ」  リュウカは吐き捨てるようにつぶやいた。  エドアルは、聞きちがえたと思った。 「国づくりが、なんですか?」 「ク、ソ、く、ら、え」  ヒースが代わりに言った。笑っている。 「適当なことを言うな!」 「あんたは世間知らずなんだよ」 「おまえこそ、どうなんだ! え?」 「オレも、充分知っているとは言えないな」 「ほら、見ろ!」 「でも、あんたよりは、いくらかマシだと思うぜ。自分は物を知らないって自覚がある分だけな」 「謎かけのような言い回しでごまかすな! 姉上! どうして、こんな下賤な者をおそばに侍らせておかれるのですか!」 「この子は決して賤しくはないよ」 「姉上!」 「その考えが改まらぬ限り、そなたと私は相容れぬ。さあ、もう放っておいてくれぬか。今夜中にこれを読んでしまいたい」  リュウカは顔を伏せた。  いったい、何が気に入らないんだろう。  エドアルには不思議だった。  自分とリュウカとは、このリュウインを正しく導くように、幼いころから育てられたはずだ。いずれは結婚して、ともに治めるはずだったのに。  どこで狂った?  見回すと、リズが刺繍をしていた。  婦人のよき嗜みだ、とエドアルは思った。 「なるほど。よい趣味ですね。良妻賢母への一歩ですよ。感心なことです。あなたも、やはり女性なんですね」  リズの手が、パタリと止まった。  空気が凍りついている。  どうして?  褒められたのが、うれしくないのか?  リズはゆっくりと刺繍をふり上げた。  壁に向かってたたきつけようとしている? 「やめとけ。売り物にならなくなるぜ」  ヒースが竪琴をつまびきながら言った。弦の音色が空気を震わせた。 「そうね」  リズは手をおろし、作業を再開した。 「売るんですか? それを?」  エドアルは、おおげさに驚いてみせた。  今、たしかにリズは、自分の言葉に反応したのだ。また応えてくれるだろう。 「おこづかいが足りないなら、言ってくださればよいのに。いかほどですか? すぐご用意しますよ」  しかし、リズは答えなかった。  ヒースが口をはさんだ。 「そいつは売らなきゃイミがねぇんだよ」 「おまえになんか、訊いておらん!」  エドアルが叱りつけると、それきりになった。  沈黙がおりた。  時折、紙をめくる音や弦の音が響いたけれど、誰も口をきかなかった。  エドアルだけが手持ち無沙汰だった。  リズは怒ったような顔で刺繍を続け、リュウカは無表情に書状を読み、ペンをとってはメモをとり、分厚い本をめくっては、また書状にもどるのだった。  ヒースはというと、竪琴を磨き、弦を張り替えながら、足下の本を読んでいた。つま先がリズムをとるように動いていた。 「何をしている」  四半ニクルほどして、エドアルは訊ねた。  ヒースは目もくれない。 「デュール! デュール・グレイ! 何をしているのだ!」  ヒースは目をあげた。 「楽器の手入れだよ」  弦を鳴らした。  その気安さに、エドアルはますます腹が立った。 「見ればわかる! そっちじゃない! 何を読んでいるのだ!」 「本」 「それはわかる! 何の本だ!」 「竪琴の本」 「何が書いてある?」 「竪琴の話だよ」 「そんなことはわかっている! 内容を話せ!」 「えーっ?」  ヒースはイヤそうな声をあげた。 「あんた、ゼッタイ興味ねぇよ。言ってもいいけどさ」 「おもしろくないかどうかは私が決める。話せ」  ヒースは大きく肩をすくめてみせた。 「責任とんねぇぞ?」  意味不明の言葉を語りだした。おかしな抑揚がついている。  エドアルの顔はみるみるうちに真っ赤になった。 「バカにしているのか!」  ヒースは笑った。 「歌だよ」  竪琴をつまびいた。ワンフレーズが響いた。 「ならば、初めから弾けばよいだろう!」 「諳譜してんの。な? あんたにはつまんねぇだろ?」  ヒースはニヤと笑った。  その顔が、さらにエドアルの気に障った。 「姉上はお仕事をなさっていらっしゃるんだぞ! おまえはなんだ! 遊んでばかりで!」 「そういうあんたはどうなんだ?」  ヒースは本から目を離し、竪琴を一気に弾き始めた。  ひじょうに早いテンポの曲である。指が目にとまらぬすばやさで動き、メロディーが聞く者を圧倒した。  長い曲だった。  ヒースは目を閉じていた。浅黒い顔の中で、いつもは大きく見える唇が、小さくつぶやくように動く。乱暴者にしか見えない普段とはちがった。そこにいるのは、繊細な音楽家のようだった。 「詞は?」  曲の途中で、リュウカが口をはさんだ。 「あるよ」  引き続けながら、ヒースは答えた。大きな青い眼は開かれていた。いつもの憎らしいヒースだった。 「歌わないのか?」 「初めての曲だからなあ。まだうまく弾けないんだよ。耳で聴くのとちがって、譜面は難しいや」  そう言いながら、流暢に弾く。 「私、この歌知ってる」  リズが言った。 「フォッコで聴いたことある。もっと短くって、メロディーも単純だったけど。国を追われた英雄が森を切り開いて作物を育てようとするんだけど、仲間が次々と死んでいくのよね」 「フォッコって、リズが育ったとこか」 「そうよ。広くてきれいなところ。お姉さま、今度一緒に行きましょうよ」  エドアルは傷ついた。  まだ、仲間はずれにされている。 「残念だが、これについてる詞は、そいつじゃねぇぜ」  ヒースは言った。 「じゃあ、どんな詞なの?」  リズが首をかしげた。 「こんな歌詞」  ヒースは歌いだした。  よく通る声が夜の空気に響いた。  歌詞が聞きとれなかった。  しばらくして、それはピートリークの言葉ではないことに気がついた。  北の大国ウルサの言葉のようだ。エドアルの知っている単語が、少しだけ聞きとれた。 「なるほどな」  歌が終わると、リュウカは言った。 「どこから出した? その本は」 「書庫にあったんだよ」 「長年国交はないのだが。よく紛れこんでいたものだ」 「けっこうあったぜ。国交があったころに入ったんじゃねぇの? どれも古かったし」 「よく読めたな」  ヒースはあきれたようにリュウカを見つめた。 「よしてくれよ。オレがペラペラだって、あんたも知ってるクセに!」  リュウカは少し黙った。 「そういえば、そうだったな」 「もしかして、あんた、オレがガキんときのままだと思ってんの?」  リュウカは少し笑った。  図星らしかった。  ヒースの顔が紅潮した。 「言っとくけど! オレは酒も飲めるし、背も伸びたし、剣だってそこそこ使えるし……」 「何の歌なの? 二人だけで話すなんて、ズルいわ」  リズがふくれた。  リュウカがゆっくりとふり向いた。 「ウルサの神話だ。ウルサの地が氷に閉ざされ、神の一人が怪物を退治すると太陽が戻り、貼るが訪れたという話だ」 「つまんない」  リズは頬をふくらませた。 「あらすじだけ聞いたって、楽しくないわ。ちゃんとわかる言葉で歌って!」 「じゃあ、宿題な」  ヒースは本を突きだした。 「訳してこいよ」 「ひどーい! できるわけないじゃない! こんなヘンな文字、見たこともないのよ? そりゃあ、パーヴでは習うかも知れないけど、ここじゃ誰も知らないわよ! どうやって調べろって言うの?」 「そこに、教えてくれそうなのがいるだろ」  ヒースはエドアルのほうを見ずに、本だけ傾けて示した。 「イヤよ! あんな意地悪な人!」  リズは立ちあがった。 「ゼッタイ、イヤ!」 「リュウカとオレは忙しいし、ヒマなのは、そいつしかいねぇんだよ」 「イヤよ! リリーに習うわ!」 「かあちゃんは知らねぇよ」 「イヤったら、イヤっ!」  足を踏みならした。  イヤなのは、エドアルも同じだった。  パーヴでは教師に褒めそやされ、自信を持っていた。しかし、今の歌はまるでわからなかった。教えられるはずがない。 「お姉さまに教えていただくわ!」 「では、明日からキットヒルの館に来なさい」  リュウカが静かな声で言った。 「お茶の時間に見てあげよう」 「ホント? お姉さま!」  リズは飛びあがった。 「お姉さま、大好き!」  駆け寄り、リュウカに抱きついた。 「その代わり、エドアルと一緒に来なさい」  リズは飛び退いた。 「イヤ!」  絶叫に近かった。  そこまで自分は嫌われているのかと、エドアルはショックを受けた。 「お姉さまの意地悪! どうしてそんなこと言うの!」 「エドアルにはこの国最高の護衛がついている。だから、エドアルと一緒に動くのが、いちばん安全なのだよ」 「じゃあ、朝、お姉さまと一緒に出かけるわ! お姉さまとデュールと一緒なら安全でしょ!」 「城でそのほかの勉強があるだろう。おろそかにしてはいけないよ」 「お姉さままでそんなこと言うの!」  リュウカは紙の束を両手で持ちあげ、机の上でトントンとそろえた。 「人にはそれぞれ為すべきことがある。そなたも来年には領地をさずかるのだろう? よく考えなさい」  リズはため息をついた。 「いいわ。言う通りにします。イヤになっちゃうわ。お姉さまときたら、何でもできるし、あたしと大違いなんだもん。あたしの人生と替わって欲しいわ」  リュウカは苦笑した。 「では、もう休みなさい。私も湯浴みを済ませて寝るから」  夜明けごろ、エドアルは目を醒ました。  寝直そう。  しかし、こめかみの脈動が頭に響き、息は乱れ、眠れなかった。  悪い夢を見たわけでもないのに。  仕方なく起きだして着替えた。  悪いのは夢ではなく、現実だった。  廊下はまだ暗く、補足灯りが残っていた。  朝の空気は冷たい。  エドアルは襟の前を合わせた。  中庭に出る。低木の針のような葉が、朝露をふくんでいた。  空は明るい。太陽はまだ見えない。薄いねずみ色の空がひとひら、青みの強い空に浮かんでいた。  ひとけのない城内は気持ちがよかった。  すべて、私のものだ。  このひととき、そう思ってみても、悪くはあるまい。  城も空も空気さえも、独り占めの気分だった。  しばらく歩いた。  固い敷石は冷たく響いた。歩けば歩いただけ、広さを感じた。懐かしさとは縁遠く、異質さばかりが大きくなった。  自分はなぜここにいるのだろうと思った。  誰も自分を必要としていないのに。  兄には追われ、リズには嫌われ、ヴァンストンには逃げられ、リュウカにさえ必要とされていない。  この国を正しく導くために、自分は来たのではなかったか?  しかし、誰もそれを望んでいないし、助けてもくれない。  独りだ、と思った。  野の石の用に、誰の気にも留めてもらえないのだ。  ただ歩いた。  ひたすら歩いた。  金属の鳴る音が聞こえた。朝の空気に澄んで響いた。  耳をそばだてると、音は大小織りまぜながら、幾度も鳴っていた。  誰かいるのか?  足が向いた。背筋がのびた。重心が踵からつま先に移った。足が速まった。小走りになった。  何度か迷いながら、音の源をたどった。  音がやむことを恐れたが、鳴り続いていた。  剣を合わせる音だった。  エドアルが習っている細剣ではない。斬るほうの太い剣である。  モーヴ叔父が興じていたのを覚えている。  その刃はギラついていて重く、怖くて仕方がなかった。  パーヴから連れてきた護衛たちだろうか?  現れた棟は扉が大きく開いていた。中をのぞくと、中は広くがらんどうだった。そこに男が数人。  剣技場だ。  護衛の兵たちだろうか? わからない。顔などイチイチ覚えてなどいなかった。  しかし、見知った顔を見つけて、ホッとした。中に足を踏み入れる。  黒と金。  金のほうは防戦一方で、黒がくり出す刃を必死に受け流していた。  いい気味だ、とエドアルは思った。  偉そうにしているが、女相手にぜんぜん歯が立たないじゃないか。思い知れ。  一方的な攻防は長く続いた。  変則的な動きだったが、舞いのようだった。不規則な音色が音楽のようだった。  じきに、エドアルは焦れた。 「姉上! そんなヤツ、放っておけばよいのです!」  黒髪の手が止まった。 「静かにしていなさい。集中が乱れる」  剣を下げた。  刃先が丸い。練習用の剣だろう。 「お見事ですな」  周囲で剣技に励んでいた男たちが注目した。 「休憩になさいますか?」  リュウカは小さくうなずいて、たった今までの相手に目をやった。  ヒースは床にすわりこみ、腕を組んでいた。  だらしない、とエドアルは思った。  紳士たるもの汗を拭いて、さっそうと休みの座につくものだ。 「痛むか?」  リュウカが声をかけた。 「痛くない。ぜんぜん。ちっとも」  ヒースは立ちあがった。首が腫れていた。 「ムリするな」  リュウカは笑って壁際から鞄を運んできた。軍人が持ち歩くキャンバス地の肩掛け鞄だった。  中から銀色の缶を出す。浅底円形の膏薬の缶である。 「脱ぎなさい」 「いいよ。自分でやるから」 「手間をとらすな。時間のムダだ。脱ぎなさい」 「だから、自分でやるってば」 「力ずくがよいか?」  どこから取りだしたのか、リュウカの手には短剣が握られていた。 「うあ、ストップ!」  ヒースが手を振った。 「また斬られたら、かあちゃんに怒鳴られる!」  周囲の男たちがどっと笑った。  ヒースはシャツを脱いだ。  あちこちが赤くはれていた。とりわけひどいのが、両の二の腕だった。  さっきまで腕組みしていたのは、実はここを抑えていただけだったのだとエドアルは気がついた。  意外に細い体だった。腰の辺りなど、とりわけ細い。まるで女のようだ。  リュウカは手早く膏薬を塗った。 「痛てて……」  リュウカが触れるたび、ヒースはうめいた。 「もうちょっと、そっとやってくんない?」  リュウカは容赦しなかった。  だから、手が触れるたびに、付近の肉がビクビクッと動いた。  筋肉だった。贅肉ではない。  エドアルは唇をかんだ。  ひとつしか違わないのに。痩せっぽちで女みたいなくせに、筋肉がついている。おまけに、背も高い。  エドアルは早足で歩み寄った。 「不敬罪だ!」  怒鳴った。 「王女殿下の御前であるぞ! 裸身などさらして卑猥である! 重罰に処す!」  ヒースが目をあげた。 「そりゃあ大ごとだ」  のんびりした響きが、エドアルの神経を逆なでした。 「ム、ムチ打ち百回だ! そ、その後、水責めと……磔にしてくれる!」 「だってさ!」  ヒースが首をめぐらせた。  辺りはシャツを脱いだ男でいっぱいだった。剣士たちは半裸で汗を拭いているのだった。  盛りあがった肩、女性の腿ほどもある太い腕、厚い胸板、割れた腹筋。  それぞれにフォルムの違いはあったが、見る体みな鍛えられていた。  男臭さに、エドアルは息が詰まった。  中でも毛深さと体臭には閉口した。シャツや靴を脱いだ後のそれは、半端でなく臭いたった。  ヒースの体などまだまだ貧弱だった。金色のうぶ毛が陽にきらめき、体全体がつるりとしていた。細く幼いひよっ子だった。  エドアルは胸ポケットからチーフを引きだした。鼻と口を覆った。 「姉上、ここを出ましょう」 「こんなものかな」  リュウカは膏薬をひと塗りすると、ヒースの背を軽く叩いた。  パチーンと、気味がいいほど鋭く大きな音が響いた。  ヒースが短く悲鳴をあげた。女のような甲高さだった。 「おや? 痛くないのではなかったか?」  リュウカがチラと笑った。 「シャツを着なさい。続けるぞ」 「容赦ねぇよ。ひっでー女だぜ」  ヒースはシャツを羽織った。  エドアルの手が思わず伸びた。襟首をつかむ。 「今、なんと言った! 姉上を町娘と一緒にするな!」  リュウカの笑み。  自分以外の相手になら、あんな微笑を向けるのだ。  ヒースの手が、エドアルの腕をつかみ返した。  固い手だった。  びくりとエドアルは震えた。 「ぼ、暴力に訴えるか! けだものめ!」  怒鳴った。  弱気を見せればやられる!  両手を伸ばした。ヒースの首をつかんだ。  細くて長い首だった。金の髪がやわらかくエドアルの両手にまとわりついた。  力を入れた。  固い。  視界の端に、青いものが入った。  眼だった。  ヒースはエドアルをしっかりと見上げていた。強い光。揺るがない。  エドアルの全身から汗が噴きだした。さらに力を入れた。  もっと! もっと!  渾身の力をこめたが、首は固く、指は入らなかった。  青い眼が、エドアルを見つめていた。  じっと見つめていた。  背筋に冷たいものを感じて、エドアルは手を離した。 「バケモノ……」  つぶやいた。  ヒースはうなじの辺りをかいた。 「ああ、痛ぇ。毛を引っ張るなよな。抜けちまっただろ」 「おまえなんかに、何がわかる!」  エドアルは声を荒らあげた。 「おまえなんか、殺しても死なないクセに! 私なんか命を狙われているんだぞ! 狙っているのは、血のつながった祖母や兄なんだぞ! 父も母も助けてくれず、こんな田舎に落ちても、まだ命を狙われるんだぞ! このつらさが、おまえにわかってたまるか!」 「あんた、何がしたいの?」  青い眼が問いかけている。  何が、したいの?  エドアルは言葉に詰まった。  ヒースはシャツを整えた。 「リュウカ、続きやろう」 「おまえは休んでいなさい。痛みで動きが鈍っている」  リュウカは剣を構えた。  ほかの兵たちが前に歩みでる。 「次は私を」 「私を」 「ダメダメ!」  ヒースがリュウカの前に躍りでた。 「少し感じがわかってきたんだ。つかめるまでつきあってもらうぜ。それに、痛いからって敵さんは手加減してくれないだろ?」 「しつこいな」  リュウカは剣を振った。  たちまちヒースは防戦一方となった。  エドアルは茫然と見ていた。  私は、この国を正しく導くために来たんだ。  でも、誰も協力してくれないんだ。  では、私はどうしたらよいのだ?  何ができるっていうんだ?  同じことが、頭の中でぐるぐる回った。結論などなかった。  だって、兄が殺そうとするから。  だって、父上が優秀な家来をつけてくれなかったから。  だって、この国の王が愚鈍だから。  出口がないまま、思考は回り、何かが雪だるま式に増えていった。身動きがとれない。息が苦しい。 「あがるぞ」  腕を叩かれて我に返った。  黒い眼が見下ろしていた。黒髪が頬に張りついていた。汗がこめかみをしっとりと濡らしている。  すっと腕が伸び、エドアルの首をつかんだ。  指が首にまとわりつき、ゆっくりと押さえつけた。  妙な感じがした。  痛くはない。  まさにそこ、というポイント。  一瞬で落ちてしまうような気がした。  エドアルは動けなかった。 「ここだ」  リュウカは言った。 「ここを締められれば一瞬だ。だから、少しでも遠ざけるようにしなさい。わずかでも外れれば命拾いすることもある」 「あーあ、教えちゃった」  濡れたシャツをはだけたまま、ヒースはあきれたように笑った。 「今度は、そいつ、急所を狙ってくるぜ。オレが殺られたら、どうすんの?」 「急所というものは、そう簡単には会得できまいよ。とりわけ他人の急所というものはな」  リュウカはもう一度指に力を入れた。 「この感じをよく覚えておきなさい」  指をほどいた。 「そんなんで、ホントに効きめあんのかね? 少しズレたって、苦しいのが長引くだけだろ」  ヒースが茶々を入れた。  リュウカはそっと自分自身の首に長い指を当てた。 「その違いが生死を分けたのだ。昔のことだがな」  目がギラと光ったような気がした。  エドアルはあわてて見直した。  普段のように穏やかな目だった。  ヒースが沈黙をはさんで言った。 「あんたはつけ狙われるプロだったな」  剣技場から出て歩いた。  エドアルは問うた。 「命を狙われ、理想も実現できないのなら、私は何のために生きているのでしょう。姉上は何のために生きていらっしゃるのですか?」  リュウカは苦笑した。ヒースを見る。 「おまえは答えられるのか? 訊ねたのは、そもそもおまえだろう」 「愚問! オレはリュウカを守るために生きてんだよ! じゃ、また後でな」  ヒースは早々に岐路で別れた。 「いつもなら、しつこくつきまとうのに」  エドアルは言った。  ヒースがリュウカを守るために生きると言うのなら、エドアルはリズを守るために生きるのだろうか?  違う気がした。  リズは守りたい。  だが、それだけの人生ではあるまい。 「あの子は今、コウモリに夢中なのだ」 「コウモリ?」 「気はやさしいがプライドが高い馬だからな。馴らせるかどうか」  あの草原の馬だ!  ピンときた。  リュウカが乗っていないほうの馬。兄セージュに献上されたのに、勝手に連れてきてしまった葦毛の馬。  自分をふり落とした、あの憎らしい馬。 「あの馬は私にくださるとおっしゃったではありませんか!」 「乗りこなせたらな。主は、コウモリ自身が決めるだろう」  リュウカの目が緩んだ。  エドアルは焦れた。 「あいつはなんなんです? 姉上はあいつをどうするつもりなんですか!」 「あの子のことは、あの子が決める。そなたがそなたのことを決めるように。私もまたそうなのだろう」  リュウカは小さく息を吐いた。 「あの子がときどき羨ましくなる。なぜあのように自分自身でいられるのか」  エドアルは茫然とリュウカを見つめた。  比べるのも愚かしい。差は歴然ではないか。 「あいつはウソつきです。姉上にぜんぜん歯が立たないくせに、姉上を守るなんて。わがままで思いあがったバカです!」  リュウカは少し笑った。 「あの子はなんにでもなれたのだ。薬屋にも歌い手にも役者にも、そのほかのなんにでも。だが、貴族とは。もっとも性分に合わぬだろうに。私はあの子の一生を狂わせているだけのような気がするよ」 「そんなことありません! あいつが勝手にやってるんです! 姉上は賢くあられるから、あんなヤツだろうが、人々がどんどん慕ってくるのです。イチイチ気になさっていてはキリがありません」  リュウカは力なく笑った。 「私はそんな人間ではないよ」  朝食の席に、リュウカは現れなかった。  リズは一言も口をきかず、皿の中身を口の中に押しこみ、ジュースで胃に流しこんだ。  エドアルは、ムリに話しかけなかった。自分が何を為すべきか、それがはっきりするまでは、何を話したらいいのかわからなかった。  宰相に、この国の歴史や法律を学びたいので教師を探せと言いつけて、席を立った。  リュウカに、また、あの賤しい食事をさせてはならない。  中庭に急いでヒースの姿を探した。  見あたらなかった。  リュウカが王族の棟から出てきた。埃よけのマントを羽織っていた。もう、キットヒルの館へ出かけるのだ。 「姉上! デュール・グレイは?」 「厩か馬場だろう」 「お食事は?」 「あの子のことだから、適当に何か食べただろう」  エドアルはムッとした。 「あいつのことではありません! 姉上のことです!」 「リズのことを頼む。くれぐれも用心してな」  早口に言って、リュウカは立ち去った。  忙しい人だ、とエドアルは思った。  大勢の人々に求められ、それに答える。なんと甲斐のある人生か。  それに比べて私は。  エドアルは首をふった。  まずは、この国のことを知ろう。足場を固めて、あとはそれからだ。  それから?  その先に何があるというのか?  ため息が出た。  先は見えない。  暗闇に取り残されているかのようだった。  キットヒルの館までの道中、リズはエドアルに目もくれなかった。馬車には同乗せず、馬に乗った。 「こんなにゆっくりじゃ、日が暮れちゃうわ! 駆けていきましょうよ!」  隊長に文句を言った。 「お退がりください。殿下に万一のことがあっては、私どもの立場がございません」 「何にもないわよ! どっかの国賓を守って、後からノロノロついてくれば? あたしはそんなにひ弱じゃないんだから!」 「姉君のご命令です。ご不満でしたら、直に姉君にお話しくださいませ」  じゃじゃ馬め。  エドアルは馬車の窓から眺めながら思った。  しかし、リズは生き生きして見えた。自分がしたいことをわかっているような気がした。  リズはリュウカに会いたい。ウルサ語を習いたい。馬に乗るのが好き。剣を習いたい。農民どもと畑を耕すのが好き。野を駆けるのが好き。食べるのが好き。笑うのが好き。喋るのが好き。  自分は、どうなんだろう? 本当にリズと結婚したいのだろうか? この国に移り住んでもよいのか? 兄から逃げまわって、あの宰相の庇護など受けて、そして、どんな一生が待っているというのだろう?  父上! 私はどうしたらいいのですか? 教えてください!  帰ったら、父カルヴ王に手紙を書こうと思った。  父を思うと、心が落ち着いた。今までだって、どうしたらよいか道を指し示してくれた。きっと、今度も明確な道を示してくれるだろう。父の言う通りにしていればだいじょうぶ。間違いない。  キットヒルの館に着くと、ちょうどお茶の時間だった。支度は調っており、リリーが客間で待っていた。 「お姉さまは?」 「ストレス発散してますよ。ちょっとおイヤなことがありましてね」  席を立ち、リリーは窓を開けた。 「リズさまがお着きになりましたよ!」  大声で呼んだ。  貴婦人らしからぬ声だ、とエドアルは思った。 「ちい姫さま、もういい加減になさいませ。ちい姫さま!」  刃を打ち鳴らす音が聞こえた。 「リュウカぁ、その辺でカンベンしてやれば」  ヒースの声がのんびり響く。  エドアルは窓に歩み寄った。  中庭で、男が数人のびていた。まだ二人がリュウカと剣を交えていた。  刺客だ!  エドアルは目まいを覚えた。 「だっ、誰か……」  助けを呼ぼうとしたが、声がかすれた。 「お姉さま! 助太刀します!」  リズが窓から飛びだした。あっという間にリュウカに駆け寄る。  危ない!  エドアルもあわてて窓から飛び降りた。バランスを失い、頭から落ちそうになる。手をついて、続いて膝をついた。  無様だ。 「退がっていなさい」  リュウカが低い声で口走り、ひと薙ぎした。二人が仰向けに倒れた。 「悪者め! 覚悟しなさい!」  リズが細剣を振った。  どこに持っていたのだろう?  ムチャクチャに大ぶりし、剣にふり回されている。 「おやめ」  リュウカが手をあげて遮った。 「ただの稽古だよ。お茶にしよう。ウルサ語を学ぶのだったな」  リュウカの剣は刃先の丸い練習用のものだった。ただし、長くぶ厚い。 「お姉さま、剣の稽古もつけてちょうだい」  リズは剣を右肩に構えた。  肘を脇にぴったりつけ、いかにも女らしい構え方だった。 「今なら、ついででしょ」 「そなたはウルサ語を学びに来たのだろう」 「剣も大事なの! いざ!」  リズはよろめくように剣を振った。  リュウカは軽く受け流した。  リズの体が弾けとんだ。尻もちをつく。剣が手を離れ、転がった。 「痛いっ!」  リズは右腕を押さえた。 「腰が浮いている。構え方から学ばねばなるまいよ。さあ、お茶にしよう」  リュウカは中庭に続くドアから客間に入った。  ドレスの裾が土で汚れていた。  エドアルは後に続いて中に入った。 「姉上、あれらは、何か無礼を働いたのですね? お自ら手を下さなくとも、誰かにやらせればよろしいでしょうに」  リュウカは答えない。黙って席につく。 「休憩中の衛兵が稽古をつけて欲しいと申しでたんですよ」  リリーが茶を注ぎながら答えた。  エドアルは怒った。 「それじゃ、姉上がお休みになる時間がないじゃありませんか! 誰もお止めしなかったのですか!」 「王さまが来たんだよ」  ヒースが中に入ってきた。 「黙れ!」  リュウカが鋭く制した。  ヒースは気にも留めない。 「リュウカを出せって言ってさ」 「黙れと言うに!」 「子どもを人質にとって首締めたんだよ」  リュウカはカップを取りあげると、茶を浴びせた。  ヒースは身軽に交わし、笑った。 「だから、オレをそばに置いときゃよかったんだよ。つまんない使いに出しちまうから」 「王が子どもを? 何かの間違いではありませんか?」  エドアルはリュウカに訊ねた。 「お父さまのやりそうなことね」  リズはこともなげに茶をすすった。  エドアルにはさらなるショックだった。国王ともあろう者が子どもに危害を加え、そのことに誰も驚かないのか? 「その子どもに何か無礼があったのでは?」 「ブルネットが無礼にあたるならね!」  リリーがリュウカのカップに茶を注いだ。 「急所が外れていたのと、手当てが早かったのが幸いしましたけど! あのマヌケ面は、何度同じことをくり返せば気が済むんでしょう!」  くり返せば? 「以前にもあったのか?」  ふいに、脳裏に朝のリュウカがよみがえった。  首に手をやり、こう言わなかったか? 『昔のことだがな』  ぞっとした。  あれは、リュウイン国王のことか? 「アレの立ち入りを禁ずる手はないものか」  リュウカは言った。  リズが答えた。 「お父さまは、お好きになさるわ。興奮すると、お母さまやお祖父さまにだって止められないもの」  リリーが席につく。 「仕方ないですから、そこのバカ息子を使ってくださいな。何かのお役には立つでしょう」  リュウカは眉根を寄せた。 「これで二度めだぞ。今度こそ無事に済むまい」 「あら、前にも手をあげましたの? 存じませんでしたわ」  え?  エドアルの手に汗がにじんだ。  まさか、王に手をあげた? 「平気だって」  当のヒースはけろりとしている。 「隣国の王弟の息子に手を出したら、国際問題になるだろ。リズのじーちゃんがうやむやにしてくれるって」  リュウカがけげんそうな顔をした。  ヒースが手を頭の後ろで組み、とぼけたように答える。 「そういうことになってんじゃん。オレのとうちゃんは王さまの弟なんだろ?」  リュウカは眉根を寄せた。 「王弟の子が王に手を上げるほうは国際問題とやらにならぬのか?」 「オレがリズのじーちゃんなら、こう言うね! 『王には悪霊が取り憑いていたのだ! 悪霊を退治してくれてありがとう!』」 「おまえは……」  リュウカは目を覆った。 「とにかく、何かあったら逃げるのだぞ」  ヒースはすなおにうなずいた。 「ああ、いいよ」  リュウカはホッと肩をおろした。テーブルからカップをとる。  しかし、ヒースの返事には続きがあった。 「あんたと一緒にね」  カップが揺れて紅茶がこぼれた。受け皿にもどすと、ガチャリと大きな音がした。 「おまえはっ!」  怒鳴ったのはリリーだった。 「からかうんじゃありません! ちい姫さまは、どこにも行きません! お姫さまに代わって、この国を立派に治めるんです!」  その通りだ。  エドアルは思った。  由緒正しい血筋なのだ。女王にならないわけがない。  そうなれば。  ヒースを見た。  おまえなどとは釣り合わない。ゼッタイに!  姉上は、ウルサから婿をとるだろう。国政上、それがもっとも好ましい。  同じ黄色の髪でも、おまえではないんだからな! 『リュウカを守るために』  そんな生き甲斐、壊れる運命なんだ。おまえなんか、ただの一兵卒にしかなれないさ。  胸がスッとした。 「授業を始めよう」  リュウカは言った。 「まず、文字を覚えようか」  リズを見る目からは、険しさが消えていた。  やわらかいまなざし。いつものリュウカだった。  リズはすぐには帰らなかった。  リュウカが謁見に戻ってからも、文字と挨拶文の書き取りを続けていた。  リリーは茶器を洗いに行っていた。  部屋にはふたりきりだった。  ヒマだな、とエドアルは思った。  リリーが戻ってきたら、紙とペンをもらおう。帰ってからと思っていたが、ここで書いてしまおう。父への手紙を。  ぼんやりと窓の外を眺めていた。  陽に照らされた中庭は、高木がひとつと低木の植えこみがあるだけで、広々としている。  外でお茶にすれば、気持ちよかっただろうに。  戸口で物音がした。  リリーが戻ってきたのだろうかと、エドアルは首をめぐらせた。  予想は当たっていた。  リリーだった。青ざめていた。 「エドアルさま、リズさま」  声が震えていた。 「急いでお支度なさいませ。お城にお戻りを」 「どうしたの? リリー。気分が悪いの?」  リズはリリーに駆け寄った。 「ちい姫さまもご一緒に戻られます。確かなことは城でお訊ねなさいませ」 「なにかあったの?」  リリーが両手で顔を覆った。 「どうか、お姫さま、どうか!」  リリーはうめいた。 「お守りください! お姫さま!」  これほど取り乱したリリーを見るのは初めてだった。 「ねえ、どうしたのったら!」  リズがリリーを揺さぶった。  リリーは手をおろし、リズの腕にすがった。涙目で見上げる。 「王さまが……」 「お父さま?」  リズが聞き返す。リリーはかすかに首をふった。 「カルヴさまが……」  父上が?  エドアルは立ちあがった。  イヤな予感がした。 「ご危篤と……」  危篤!  老いた穏やかな顔、静かな微笑み、苦労が刻んだ数多の皺。  ウソだ!  つい数日前にはお元気だった!  あんなにお元気だったのに!  何かの間違いだ!  目の前が真っ暗になった。  十九 影  古い板張りのエントランスは吹き抜けになり、広い階段が二階へと伸びている。その手すりには人だかりがしていた。人をかきわけるように身を乗りだして、下を見下ろしている。玄関の外から中まで伸びた細長くのびた赤い絨毯の毛足は長く、黒髪の王女は一歩踏みだすごとに足が沈み、ドレスやマントの裾がとられた。壁紙に覆われない柱や、絨毯のない床板には、刀や斧の傷が見えた。  マントの下で、剣が小さな音で規則正しく鳴っていた。王女は、滑るように絨毯の上を進んだ。  床板の上で、白い絹織りの長衣を羽織った男がひざまづいていた。青いサッシュを肩がけにしている。パーヴの使者である。  王女は立ち止まらなかった。歩みを緩めず通りすがる。 「エドアル殿下にご帰還命令が出ております」  使者が王女の背中に声をかけた。 「リュウカ王女殿下にも弔問においでいただきたいと、我が国王直々の仰せでございます。こちらが正式の書状になります」  恭しく巻物を掲げて頭を下げるが、王女は立ち止まらなかった。 「ラノック伯、使者をねぎらうように」  先んじた衛兵が、謁見室の扉を開いた。王女は衛兵を従え、中へ入った。  使者は顔をあげた。聞いてはいたが、本当に素っ気ない。すでに城には三度使者が訪ねている。いずれも冷たくあしらわれ、自分は四人めである。三度の使者たちは国王セージュの怒りを買い、地方に飛ばされてしまった。  だが、これはチャンスでもある。成功すれば国王の覚えめでたく……。 「グニーラ伯爵さま、こんなとこで何やってんの」  声をかけられてふりむいた。玄関で髪が陽光にきらめいている。まぶしい。笑う口元が白く光った。金髪。しかし、ウルサ人に知り合いはいないが。 「あいにくだけど、うちのお姫さまは手強いぜ。あきらめな」  埃よけのマントを脱いで、ズカズカと中に入ってくる。身なりは異国風ではない。藍色の厚手のチュニックに、黒の細長ズボンと乗馬用ブーツ。町人風情の賤しい身なりだ。 「困ります、少しは身なりにご配慮ください」  王女が消えた扉辺りから、小男が小走りしてきた。 「王女殿下の品位が疑われます」 「リュウカは気にしねぇよ」 「客人が気にします! おそばに侍るなら、もう少し品のある身なりを……」 「細かいこと気にしてっと、禿げるぜ、爺ちゃん」  ウルサ人は長身ではあるが、よく見ると顔は幼い。たしかに小男をジジイと呼べる年頃ではある。  小男は顔をしかめてから、使者に向き直った。 「では、使者殿、こちらへ。長旅でお疲れでしょう。ごゆるりとおくつろがれください」  これが、ラノック伯か。リュウカ王女の側近の。  立ちあがって後に続くと、小男の頭のてっぺんが薄くなっているのが見えた。茶色の長衣も揃いのキュロットも、あまり洒落者とは言えない。地味な男だ。この男を口説き落とせば、交渉もうまく行くに違いない。  使者の頭の中は計算でいっぱいになった。ウルサ人のことなど、それきり忘れてしまった。  さて、そのウルサ人は、王女のくぐった扉を開いて中に入った。  謁見は始まっていた。  悪びれもせず、王女の斜め後ろの席に座る。  衛兵たちは王女の左右と、室内の壁際や窓際に、長い棒を持って立っていた。  謁見者たちは向かいの壁際にすわり、順番を待っていた。八人。  この人数では、今日は面倒な話が多いってことだな。  拝謁者が一人、王女から一馬身ほどのところにすわり、滔々と訴状を読みあげる。時折、テーブルの上に広げた書類を示す。  王女は背筋をピンと張り、相づちを打ちながら話を聞いていた。  長い話だった。要するに、ヒプノイズの葡萄畑が富裕層に不当に奪い取られたり、重い納税を義務づけられたりという話らしいが、富裕層の言い訳が巧妙だとか、奪い取られた人々のほとんどが富裕層の仕返しが怖くて泣き寝入りしているため、証拠がそろわないのだとか、曖昧な部分が多かった。  半ニクル以上も経って、ようやく話は終わった。  王女はいくつか質問し、その件については念入りに調査し、後日沙汰すると締めくくった。 「今、裁定してくださらないのですか」  拝謁者が言った。焦げ茶の長衣は前の合わせに刺繍を散りばめたもので、しっかりした木綿製だった。地主だろうとウルサ人の若者は思った。  訴状だけでは判断できない。調査のために時間が要る。即答できなくて悪いが、少し待て。というようなことを王女が言うと、拝謁者がぼそりと言った。 「十年前は即答してくださったのに」  つぶやきというには、大きすぎた。  王女は眉一つ動かさなかった。 「次!」  と、進行役のブラム伯が促した。  入れ替わりに、ヒバ村のイワオという男が進みでた。  テーブルに書類を置いたが、広げることもなく、王女の顔をひたと見つめ、大声で話し始めた。  背は高く、胸は厚く、よく鍛えた体つきだった。堂々とした風情で、都言葉を流暢に話した。  村のとりまとめ役だろうと、王女は思った。  ヒナタに似ている。フジノキ村の材木屋。貧しい村、貧しい暮らし、労働の日々。  指先に冷たい水を思いだした。冬の洗濯は凍りつくようだった。腹をすかせてユキの後を歩いた。  イワオはヒバ村の惨状を訴えた。毎日の糧にも困り、次々と餓死者が出ている。原因は田畑を失ったからである。ある地主が領主と組み、お上に訴え出て、まんまと土地をせしめたのだ。村人たちは地主にこきつかわれるか、山に追い出された。村に残った者も、山に逃れた者も、飢えで苦しみ死んでいる。  訴状通りの文言だったが、王女にはじゅうぶんだった。フジノキ村にて村長の一家がほしいままにする情景を思い浮かべてはぞっとした。  王女は食糧をすぐに送ることを約束した。イワオの帰途に荷と人夫とを伴わせることとした。 「調べも改めよう。そのとき、どこへ訴えでたのかわかるか」  問いに、イワオの目が熱を帯びた。 「あんただ! 十年前に、あんたがここで!」  イワオは椅子を蹴り、テーブルを押し倒した。手に何かを握りしめ、言葉にならない声を発しながら王女に突進した。  手にしているものが、王女にはわかった。鉈だった。よく使いこまれ、刃先は磨きあげられていた。イワオが両手で振りかぶると、窓から差しこむ陽を受けギラギラと光った。  体は引きかけた。しかし、頭の中で誰かが言った。他人事として逃げてよいのか。母の責任は自分の責任ではないのか。いや、だが、本当に母が間違いを?  硬直する王女の視界を、金色が染めた。  ウルサ人の若者が前に飛びだしたのである。  イワオの手首をつかみ、床に押し倒した。抗するその右手を床に倒れたテーブルにたたきつけ、刃物を奪って床を滑らせた。 「ぼやっとしてないで拾え! 手を貸せ!」  若者の声で、衛兵たちがハッとした。 「殺せ!」  イワオが叫んだ。 「おまえのせいで、ナエもフキも死んだんだ! おまえにとっちゃ、オレたちは虫けら同然なんだ!」 「あのな、このお姫さまをいくつだと思ってんだ?」  イワオを衛兵たちに抑えさせて、若者が言った。 「あんたが言ってんのは、前の王妃さまだよ。こいつの母ちゃんのほうだ」 「おんなじだ! そうやって稼いだ母親からメシを食わせてもらっていたんだろう! 都合よく責任逃れするな!」  衛兵が黙らせましょうかと目で合図した。若者は首を振った。 「あんたには、これから食糧と一緒にヒバ村へ帰ってもらう。調査は改めてするから、しばらく待ってろ」 「ダマされんぞ! 適当にだまらせようとしても、オレは、あいつらの恨みを晴らすまでは……」 「今、うちのお姫さまが約束したろう。前の王妃さまが何を言ったかは知らないが、このお姫さまは約束は果たすさ。それに、とりあえず食糧を持ってすぐ帰らなかったら、あんたを送り出してくれた連中が飢えちまうだろう。お仲間のためにも、まずは帰れ」  イワオはツバを吐いた。  若者がひょいとよけて、目で衛兵を促した。  イワオは扉の外へ引きずられていった。 「呪ってやる! この恨み、死んでも忘れんぞ!」  イワオは最後まで悪態をついた。  ようやく静かになった室内には気まずい空気が漂っていた。 「騒がせたな。では、次へ移るとしよう」  王女が何事もなかったかのように言った。 「ブラム伯?」  促されて進行役は我に返った。 「では、クワザト村の……」  促した王女は無表情だった。  午前の謁見を済ませてから、リュウカは書斎に入った。  部屋のほとんどは書棚で埋められており、そこにはぎっしり古い記録が並んでいた。かび臭い本の間を縫って、窓辺へたどりつく。  窓際の机の上には、古い記録が広げられていた。九年前のヒバ村の記録である。  椅子の背に手を置き、リュウカは鳥の声に誘われて窓を見上げた。ヒノキの枝と青い空。窓枠の格子がリュウカの顔に影を落とした。  しばらくたたずんでから、椅子に腰をおろした。古い紙に古いインクの跡をたどる。訴状の内容は、イワオの言った通りだった。ヒバ村の地主が土地について申し立てをしている。長年開墾してきた土地を新参者にのっとられたというのだ。この新参者というのは、廃業に追いこまれた兵隊崩れで、盗賊団に等しく、土地を乗っ取っただけではなく、村の治安を悪化させていたらしい。この訴えは了承され、領主が兵を出して追い払い、事なきを得たこととなっている。  訴状の提出から謁見まで二シクル。裁決は謁見時に下されている。 「昼メシ持ってきたぜ」  ヒースが入ってきた。窓辺に寄ると、ウルサ人特有の金髪がきらきら輝いた。  抱えた紙袋から、机の上に中身を並べた。透明な瓶に入った水、陶器のカップ、小さな笛型のパン、葉物とハムとバター。  ヒースは瓶からカップに水を注ぎ、口をつけた。それからもう一つのカップに水を注いで、リュウカの目の前に突きだした。  受け取って口をつけると、水の匂いのほかに、何かかすかに香った。口にふくんで、その正体がわかった。 「加水用の水だな」  麦の蒸留酒は、樽で熟成直後はアルコール度が高い。瓶詰めにするとき、水を加えてアルコール度を調整する。そのときに用いる水である。  母は麦の蒸留酒の伴として、この水を常備していた。大人にふるまい酒があるときには、子どもに供されるのがこれだった。大人が酔いを醒ますときに飲むのもこれだった。  しかし、昔飲んだものは、もっと風味が強かったはず。それに、最近、似た香りを嗅いだ気がする。 「ナータラッハの水だよ」  ヒースは腰からナイフを抜いて、パンを切った。  けげんなリュウカの表情を見て、つけ加えた。 「ウィックロウで差し入れした酒だよ。あんた好みの」  ああ、とリュウカは思いだした。ウィックロウの離宮で泣いたあの夜の酒だ。  母の酒よりも風味の淡い、あの花の香り。たしかにこれだ。 「贅沢だな」 「あの酒屋さあ、毒入りジュースなんか運んじまって出入り禁止になったろ? あんたに取りなしてくれって持たされた」 「信用できるのか?」 「どうかな」  リュウカは思いだした。瓶を開けて一口めは、ヒースが飲んだではないか。 「毒味をしたのだな。もし毒に当たったらどうする」 「オレも見る目がなかったってことだろ」  ナイフでバターをとり、パンに塗った。そこへ葉物とハムとはさみこんで、リュウカに差しだした。 「だいじょうぶだって。さっき母ちゃんとオレが一個ずつ食ったから」  リュウカは差しだされたパンを見つめた。 「危ないことはやめなさい。私につきあうことはない」 「オレもかあちゃんも、あんたに頑張ってもらわなきゃ困るんだ」  リュウカはヒースの手からパンを取った。 「あのエセ英雄が王さまになっちまったろ。オレもかあちゃんも、あの国に送り返されたらヤバいんだよ。だから、あんたに踏ん張ってもらわないと」 「私などいなくとも、うまくやるだろう」  リュウカはパンをかじった。バターのいい香りがした。シャキシャキとした葉物の歯ごたえが口中に響いた。  ヒースは肩から提げた楽器袋を足下に置き、机の縁に腰かけて水を飲んだ。  金色の髪が窓から差しこむ光を受けて輝いた。その向こうに青空が見えた。 「そっちは、うまく行ってんの?」  ヒースが記録簿に顎をしゃくった。 「訴え通りの裁定がなされたと書いてある」  リュウカは皮肉めいた笑みを浮かべた。  ヒースは身を傾け、記録簿に顔を近づけた。 「兵隊崩れが村を乗っ取ったっていうの。じゃあ、あのおっちゃんはさしずめ兵隊崩れってわけ? 調査記録はどこ?」 「残っていない」  リュウカはパンをかじった。ハムの焦げ臭い香りが鼻をついた。 「なあ、リュウカ」  体を傾けたまま、ヒースがリュウカの目をのぞきこんだ。 「なんで動かなかった?」  謁見の間で、イワオが鉈を振りあげたときのことだろう。  リュウカは、ヒースの青い眼を見返した。 「おまえには、危ない目に遭わせてすまなかった。だが、私の前に出なくともよい。自分でなんとかできる」 「おとなしく殺されるつもりだったんだろ」 「まさか」  笑った黒い眼を、青い眼は離さなかった。 「あんたのかあちゃんは、生き延びろって言ったんだろ?」  黒い眼から笑みが消えた。  そっとパンに目を落とした。 「忘れんなよ。あんたは生きて、草原に戻るんだ。そして、オレと所帯を持って幸せに暮らすんだ」  リュウカは苦笑した。 「私と一緒にいるとロクなことがないぞ」 「だから、オレが幸運を運んでやるんだろ」  ヒースは楽器袋から竪琴を取りだした。弦の調整をした後に弾き始めた。低い声がよく響いた。建国の祖ヒースクリフの歌だった。極寒の地で迫害を受けたヒースクリフと仲間たちが山を越え、約束の地にたどり着き、開墾し、麦を育て、酒を造り……。  玄関先でマントを受け取り、羽織りながら馬へと向かった。  陽は西に傾いているはずだが、厚い雲に阻まれて見えなかった。  急がねばならなかった。陽がない分、夜の訪れは早い。  衛兵たちはすでに馬にまたがっていた。間を縫って馬車の前までたどりつくと、先に行ったはずのリリーたちがまだ乗りこまず、立っていた。  声をかけようとして、リュウカは留まった。馬車の入り口に、白い長衣に青いサッシュを肩がけにした男がひざまずいていた。朝見た使者だった。  リュウカは辺りを見回して呼んだ。 「ラノック伯!」  しかし、小男の姿は見あたらない。 「衛兵、使者殿をラノック伯のもとへお連れしなさい」 「ラノック伯にはご了承いただいております」  白い長衣の使者が言った。 「王女殿下には、ぜひ我が国にお越しいただきます。エドアル殿下にもご帰国いただきます。我が国王陛下は、エドアル殿下にご帰国いただけないのは、貴国に囚われの身になっているためとお考えでいらっしゃいます。ならば、奪還のため国を挙げることもおありかと」 「今までにもくり返し申しあげたが、弔問にはすでにアイリーン王女が赴いた。重ねて参る必要はない。エドアル殿下にしても、まだ帰国して日の浅い私を助けていただいているのだ。今帰られては困る。そなたの国王には、そう伝えるのだな」  リュウカは使者のほうへ歩み寄った。  使者は腰から短剣を抜いた。  エドアルが短く声をあげ、リズの手を引いて衛兵たちの中に駆けこんだ。  リリーは使者を睨みつけ、衛兵たちの身はこわばった。  使者は両手で短剣を握り、ゆっくりと自分の喉へ刃先を向けた。 「お聞き入れください。この命に替えましても」  使者はリュウカに向かって言った。 「もし私が死体で帰りましたなら、我が国王はお怒りになり、必ずや貴国へ攻めこむことでしょう。そうなれば、今度こそ、ピートリークの統一はなされましょう。それでもよろしいのですか」  ラノックがこの使者を止められなかった原因はこれか、とリュウカは思った。  使者の目は真剣だった。  その緊張に、悪気のない声が割りこんだ。 「ごめん、リュウカ。ちぃっと手間取っちゃって」  衛兵の間を縫って現れたのはヒースだった。  有様を見るなり笑った。 「グニーラ伯爵さま、ご自害でもすんの? だったら、そこどいてくんない? かあちゃんが馬車に乗れないじゃん」  つかつかと使者に歩み寄る。  使者の手で短剣が揺れた。 「来るな! さもなくば死ぬぞ!」 「死んでもいいけど、そこジャマなんだよね」  近づいて、使者を蹴り飛ばした。  馬車のドアを開ける。 「かあちゃん、さっさと乗って。暗くなっちまう。リズ! エドアル! どこ行ったんだ、早く乗れよ」 「あ、危ないじゃないか!」  使者が起きあがって怒鳴った。 「どこかケガでもしたらどうするんだ!」 「だって、死ぬんだろ? だったら同じじゃん。それとも、オレが代わりに串刺しにしてやろうか?」 「デュール・グレイ!」  衛兵の間から顔を出したエドアルが叱りつけた。  使者がハッとした。 「おまえはガーダ公が賤しい女に産ませた生意気な異人野郎か!」 「あれ、覚えてたの?」 「おまえのことなら知っている。ウルサから送りこまれたスパイのクセに! まんまと我が国から逃れたつもりだろうが、異人の浅知恵だな、自分から見つかりにくるとは。こいつを捕らえろ! 我が国ばかりか、この国の内情までを探りにきたウルサのスパイだぞ!」  使者が衛兵たちに怒鳴る。  ヒースは後ろをふり返った。 「どうする? リュウカ。オレを縛り首にでもする? それとも、こいつを串刺しにする?」  リュウカは苦笑した。 「で、できるものならしてみろ! 私が死んだら我が国王陛下はたちまち攻め入るぞ!」  使者が必死に虚勢を張った。 「セージュがあんたなんかのために小指一本動かすもんか。むしろ、あんたの領地を取りあげて喜ぶんじゃねーの」  ヒースはエドアルとリズを馬車の中に押しこんだ。  ドアを閉めると同時に列の先頭に向かって叫んだ。 「出発! 大急ぎでな!」  ヒースは馬車の後ろにいたコウモリに飛び乗った。 「退がっといたほうがいいぜ、グニーラ伯爵さま。顔に蹄の痕をつけたくなかったらな」  馬列が動きだした。使者はあわてて逃げだした。  リュウカはカゲに乗り、列に合わせて進んだ。 「知り合いか?」  ヒースに訊ねた。黙っていてもコウモリはカゲに並ぶから、自然、ヒースとは顔を合わせることになる。 「あっちは覚えてねーみたい。噂で知ってるって感じだな」  ヒースはチラと後ろをふり返ってみせる。 「おまえはどうなのだ」 「オレは覚えてるよ。あっちの宮廷で剣の稽古に出されたとき、上級にあいつがいたんだよ。師範たちに褒められて鼻高々で、その割にちょっとでも剣が当たると、やれ腕が折れただの、足が痛いだの、うるさくってさ」 「それだけか?」 「そんだけ。オレ、初心者扱いだったから、剣も交えなかったし。それっきり顔出してないし」 「どうして」 「言わなかったっけ? ああいう形だけの剣は合わねーんだよ。だから、とうちゃんに言って師匠を変えてもらったんだ」  リュウカはあきれた。 「その程度の知り合いで、自殺が狂言だと、よく見抜いたな」 「まさか」 「では、なぜあんなことを」  ヒースは空を見上げた。曇り空は暗さを増していた。 「あんたも、エドアルも、あんなエセ英雄のとこにやれないじゃん。迷ってることねーんだよ。どうせ、あのエセ英雄のことだから、使者は使い捨てなんだし」  ようやくリュウカは合点がいった。ヒースは使者よりもセージュの考えを読んだのだ。 「あんたはやさしすぎるんだよ」 「私がか?」 「あんなクズでも、死んだらかわいそうだと思ったろ?」  そうかも知れない。自分たちのために、巻き添えを食って死んで欲しくはなかった。 「おまえは違うのか?」  ヒースは軽くうなってから、リュウカに笑いかけた。 「自業自得ってヤツ? 勝手に自分の命をダシに使ってんだから。それよりさ」  リュウカのほうに体を傾ける。 「今夜、ふたりで話したいんだけど」  リュウカは少し考えた。 「書斎は? みなが帰った後に」 「了解」  白に近い塗り壁を暖炉の火が赤く染めていた。暖炉の薪は赤々と燃え、鍋がかけられていた。長テーブルを入れたらいっぱいの部屋。  王族の食堂とは比べものにならないほど粗末で狭苦しい。  グラスにはワインやオレンジジュースがつがれていた。  侍女が三人、皿やフォークを並べ、焼き目のついたパンを運び、忙しく立ち働いている。  そのうちの一人は前王弟の愛人である。  たまらない気分で、エドアルは席についた。  王族の食堂に入る限り、甘いイチゴワインが供されるのは王命だと言う。しかし、下々の食堂ではその限りではない。  それが宰相ランベルの折衷案だった。  もう少しマシな部屋はなかったのかと、エドアルは思う。それもこれも、デュール・グレイの交渉がヘタだからだ。使えないヤツだと思う。  エドアルが席に着くと、リズが入ってきた。 「今日はなあに?」  上機嫌でストーブのそばの席を陣取る。 「牛のワイン煮込みですよ」  サミーが鍋から皿にスープを注ぎ、マムが皿を置いていく。 「これは?」  マムが答えた。 「香味野菜のスープです」 「デザートはなあに?」 「そんなに訊いては、後からの楽しみがなくなっちまいますよ」  リュウカが入ってきた。 「遅れて済まぬ」 「遅くないですよ。今から始めるところです」  マムが席に着いた。  リュウカはふくらみの小さなドレスに着替えていた。ショールを肩からかけ、髪はおろし、ゆるく編んでいた。  部屋着姿でも美しいと、エドアルは思った。続いて金髪の生意気な男を思いだした。 「あいつ、今日はお茶の時間にも来なかったし、帰りも遅れてきましたね。早くしないから、あんな面倒に巻きこまれたんです」  リュウカは首を傾げ、それから使者のことを思いだした。 「あの使者、グニーラ伯と言ったかな、知っているのか?」 「知りませんよ。どうせ使いっ走りでしょう」  エドアルはイライラした。今はあいつの話をしているのに。 「姉上はあいつに甘すぎます。少しはきちんとするように言ってくださらなくては」 「マム、ワインはいいよ。水をくれないか」  リュウカはワインの入ったグラスを押しだした。 「ちい姫さま、少しのお酒は体にいいんですよ」 「まだ仕事がある」 「お姫さまはいつも何倍も強いお酒を召しあがりながらお仕事をされていましたよ。ちい姫さまも、これぐらいどうってことありませんよ」  リュウカはそれ以上何も言わなかった。 「姉上、ちゃんと私の話を聞いてください」  エドアルは言った。 「今日はあいつのせいで死ぬところだったんですよ。私も姉上も刺されるところだったじゃありませんか」  マムとサミーの身がこわばった。  リュウカは気づいて、やわらかな声音で説明した。 「心配いらないよ。私たちに危害を加えようとしたのではない。パーヴの使者が自分の命を脅しに使ったのだ」  リリーも応援した。 「もちろん、脅しには負けなかったわよ。うちの子が蹴飛ばしてやったんだから」  マムが笑った。 「そりゃあ、いい気味だね」 「姉上! 私の話を聞いているんですか?」  エドアルが声を荒あげた。 「あいつは姉上と私を守らなくちゃいけないのに、平然と遅れてきたんですよ! もし、あの使者が殺し屋だったら、どうなさったんですか!」  リュウカは少し考えてから答えた。 「ラノック伯と衛兵に注意しておこう。そなたの言う通り、警戒が足りなかったな」 「私が言ってるのは、あいつのことですよ! 勝手に職場放棄したってことじゃありませんか! 処罰すべきです!」  リリーの顔が不安そうに曇った。  エドアルはそれを見逃さなかった。 「私の言ってることは正論だな? アッシュガース伯爵夫人」  リリーはツバを飲みこみ、気丈に顎をあげた。 「ええ、ごもっともですわね。しかしながら、殿下、ひとつだけご訂正いただきます」  エドアルはムッとした。 「どこに文句があるんだ」 「私は伯爵夫人ではございません。王さまはもう亡くなったんですから。もちろんセージュさまには忠誠を誓っておりませんので、もう爵位はありません。ここにいるのは、ちい姫さまの侍女であの子の母親のリリーです。ただ今私の申しあげたことは正論ですわね?」  エドアルは詰まった。  そのすきにリリーはリュウカに向き直った。 「ちい姫さま、たしかにあの子にはいいかげんなところがございます。如何ようにでも罰してくださいませ」 「お待ち」  マムが割りこんだ。 「あたしは難しいことはわかんないけど、リリーやあたしらに爵位がないってんなら、あの子だって同じことだろ? じゃあ、エドアルさまをお守りする義務はないってことかい?」  リリーはしらばくれた。 「むしろ、危ない目に合わせたほうが、セージュさまには喜ばれるんじゃない?」  エドアルは青くなった。 「バカなことを!」  怒鳴ってみるが、侍女たちの白い眼はやまない。  助けを求めるように、リュウカを見る。  リュウカは小さく息を吐いた。 「温かいうちにスープをいただこう」  息を詰めて見守っていたリズが笑顔でスプーンをとった。 「よかったぁ! 私、おなかペコペコだったの! ねえ、アル、リリー、マム、サミー、早く食べましょう? ねえ、マム、オレンジジュースのおかわりちょうだい」  その明るさの半分でも自分にあればと、リュウカは思った。  ひと匙、口を湿らせた。手間暇をかけて煮込んだのだろう。カラメルのような香りや香味野菜のスパイシーな香り、野菜と焦げたような甘み、かすかな渋みと辛み。味も香りもよくわかる。  だが、いつものように喉に詰まった。  作り手の気持ちを思えば、旺盛に飲み、食べるべきである。母のように。  リュウカはスプーンを置いた。  テーブルの下ですばやくスカートをまくりあげ、剣の柄に手をやった。  廊下から近づく気配。床のきしみはかすかだが長い。リズムは不規則で、装具の金属音はない。衣擦れの音と疲れてはいるが整った息づかい。  衛兵ではなく、力仕事に従事する使用人ではない。それ以外の年配の男……。  足音が戸口で止まった。  その男は、開いたドアを二つノックした。  一同の視線を浴びて、その赤い胴衣の男はにっこりと優雅に足をひいて挨拶した。  リュウカは奥歯をかんだ。 「みなさま、ごきげんうるわしゅう」  と、宰相ランベル公は言った。 「あなたさえいなければね」  間髪入れずにリリーが言った。  ランベル公は再びにっこり笑った。左頬の古傷がもりあがった。 「お部屋はお気に召しましたか?」  腕を伸ばし、ぐるりと室内を指し示した。 「壁紙もタイルもないまっさらな塗り壁、飾りのない柱、木でもタイルでもなくまっさらに塗っただけの床、窓がなく、厨房から近い部屋とのお話でしたが、ご要望にお応えできましたか?」  身を隠して待ち伏せすることができず、隠し部屋が作れず、外から射殺すこともできず、毒を入れる隙を最低限に抑えられる部屋。  王族の食堂を出るからには、用心を怠ってはいけない。すでに、一度ウィックロウの離宮で狙われているのだから。  リュウカはわかりきったことを頭の中でなぞる。  右手が剣の柄を強く握りしめ、腕が震えていた。  考えろ、とリュウカは自分にいいきかせた。  動くな。考えろ。 「用件を聞こうか」  リュウカは低く押し殺した声で言った。  ランベル公は軽く会釈した。 「さすがは殿下。お話が早い。では、単刀直入に申しあげますが、殿下には明日よりご旅行にお出かけいただきます。場所はヒプノイズ。葡萄のワインの旨いところです。趣旨としては、殿下のご婚姻のお相手候補を訪問すると……」 「姉上の結婚相手だって?」  エドアルが立ちあがった。 「姉上は、そんな、どこの馬の骨ともわからぬ男となど結婚しないぞ!」  ランベル公は落ち着いていた。笑みさえ浮かべ余裕だった。 「ヒプノイズ家は代々続く名門ですし、リュウインの中でも十指に入る財産家です。ヒプノイズの現領主はタラン・ヒプノイズ子爵、三十二歳、もちろん独身です。学識教養人望はそろっておりますが、見目はそこそこ。弟たちは奥方似の美男ぞろいですのに、残念ですな」 「姉上はウルサから婿を迎えるのだ! 下々の者を婿になどさせないぞ!」  エドアルは怒鳴った。 「ウルサの王族には問題がございます、殿下」  ランベル公は恭しく言った。 「ウルサの現国王には子がありません。ご兄弟もなく、いちばん近い男子はお従弟さまですが、亡命中です。次に近いのは、又従兄弟ということになりますが、いずれもまだお小さく」 「いくつなんだ?」 「いちばん大きなお子さまで十二か十三におなりだとか」  子どもじゃないか、とエドアルは思った。 「じゃあ、どうするんだ?」 「こちらにお連れしまして、仮初めのご婚礼をなさるがよろしいかと」 「それならよかろう」  仮初めのご婚礼ってなんだろうとエドアルは思ったが、うそぶいた。 「しかしながら、お連れするまでお時間がかかります。その間、王女殿下にはヒプノイズにお出でいただきます。そうすれば万事滞りなく運ぶでしょう。いかがでしょう、王女殿下」  ウルサの事情はリュウカも知っていた。草原の民イワツバメの元でウルサとの交易に携わっていたのだから。  セージュの催促から逃れ、時間稼ぎをし、目をそらせるためにも、ヒプノイズ行きは名案である。  しかし、宰相にはなんのもくろみもないのか? 「考えてみる」  リュウカは低い声で答えた。 「ご即決いただけますと、誠にありがたいのですが」 「なぜだ」  ランベル公はおおげさに辺りを見回してみせた。 「あの御方がいらっしゃいませんな。その間にお決めになられたほうがよろしいかと」  ヒースか。宰相はアレが苦手なのか? 「できぬ」 「では、いつまでなら」  明日? 三日後?  夕方の騒動を思いだした。きっと、あの使者は明日の朝も押しかけてくるに違いない。また新たな手を使って。それに、セージュも四度めだ。焦れてどんな手に出てくるか。  早いほうがいい。事態は思ったより深刻だ。 「わかった。宰相の良いように」 「かしこまりました。では、明日の朝お発ちください。もう用意は整えてございます」  さすがである。手際がよい。  宰相は一礼して、すばやく立ち去った。 「ああ、怖かった」  リズの声が張りつめた空気を割った。 「おじいさまって、苦手。なんだか自分が石ころにでもなったような気分になるわ」  リズはスープを飲んだ。 「すっかり冷めちゃったわ。ねえ、お姉さま、仮初めのご婚礼って、なあに?」  リュウカはぼんやりとリズのようすを見ていたが、我に返った。 「成人しなければ結婚できないからね、先に式だけを済ませてしまおうと言うのだ」 「そんなことって、できるの?」 「両国の合意があればね」  リュウカは剣から手を離し、テーブルの上に載せた。 「でも、ヘンなの」 「なにがおかしいんですか?」  エドアルが訊ねた。 「だって、お姉さまはウルサの王子さまに会ったこともないんでしょう? 向こうだってそうでしょう?」 「それのどこがおかしいんです?」 「好きでもないのに結婚するの?」  エドアルは笑った。 「王族は国のために結婚するのですよ。好き嫌いを言っちゃいけません。それに、ウルサの王子などしょせんは敵国の人間ですからね、心なんか許せませんよ」  リズはムッとした。 「じゃあ、あなたはどうなの?」  エドアルは返答に詰まった。 「私のこと、好きじゃないの?」  エドアルはうなりながら、なんとか言葉を絞りだした。 「ウルサは田舎ですからね。熊みたいに図体ばかりでかくて頭のトロいヤツが来ますよ。王の血をひいているとはいえ、かなり外れているわけだし。だから、私たちが姉上を支えて頑張らなくては。ねえ、姉上、頑張りましょう」  宰相は何をたくらんでいるのだろう?  リュウカは手を伸ばした。指先がグラスに辺り、小さな音を立てた。見れば赤い液体が揺れていた。  水を、と言いかけてやめた。さっきも同じことをしたばかりだ。 「悪いが、書斎へ行く」  マムが留めた。 「ちい姫さま! ちゃんと召しあがりませんと! それに、明日の朝お出かけになるんですから、今夜は早くお休みになりませんと!」 「出発前にまとめておかなければいけないからね」  リュウカは席を立った。 「まったく。お姫さまだって、これほどじゃありませんでしたよ。ちい姫さまはマジメすぎます」  聞き流して、食堂を出た。  暗い書斎の一角だけに灯りが入っていた。大きな書斎机の周り。その壁際の柱一本一本に備えられた燭台は灯され、また机の上の大きなランプが二つ、光と影を交雑させていた。机上から照らされる灯りに浮かびあがるのは、白い細面。黒髪は闇に溶けるようである。 「待った?」  訪問客の声とともに、白い面が上を向いた。黒い瞳が訪問者のランプを映して赤く光った。 「もうすぐ終わる。少し待っておいで」  細面は再びうつむいた。机上に広げた書類にペンを走らせる。ペン先が紙に引っかかる音がいやに大きく響く。 「ここ、寒いね。今日は誰も来なかったの?」  訪問者はランプを掲げて机の前を通り過ぎ、奥の暖炉にたどりついた。  火かき棒でそうっと灰をかいたが、熾きは残ってなかった。  冷えた風が煙突から吹きこんでいた。 「長くかかるか?」  リュウカが書きながら訊ねた。 「いや」 「では、熾さなくてもよい」  リュウカはペンを置いた。 「話はなんだ」 「うさんくさいぜ」  ヒースは戻り、机の上にランプを置いた。  光を増して、リュウカの肩にマントがかけられているのが見えた。厚手の織物で、縁に毛皮がついている。 「あのおっさん、兵隊帰りで短気だけど、新参者じゃないみたいだぜ」 「話したのか?」  いつのまに? 考えてリュウカは思い当たった。茶の時間と帰宅前だ。それで遅れたのだ。  ヒースはうなずいた。 「そっちの方面の出身の兵隊さんがいたんで、代わりに話してもらったんだ。ほら、同じ地方の出同士でしゃべると、訛りが出るだろ? 似た訛りだから、地元の育ちだろうって」  記録には新参のならず者を追放したとある。だが。  リュウカの表情を読んだのか、ヒースはうなずいて続けた。 「もちろん、あのおっさんが新参者を子飼いにして、暴れさせてたって可能性もあるよ。それで領主に追放されたって。でも、なんか引っかかんだよね」  リュウカはため息をつきかけて、留まった。 「母上が誤ったと?」  ヒースは考えこむように軽くうなった。  リュウカは堪えられずにため息をついた。 「もし、あの母上が誤ったのなら、私が責められても仕方あるまい。母の稼ぎで食わせてもらっていたようなものだからな」  ヒースは軽く驚いたようにリュウカの顔を見た。 「オレが言いたいのはそんなことじゃなくて。たとえば、調査の記録って、ぜんぜん残ってないじゃん。だから、どんな調査をしたのかなって。ねえ、今はどんなふうに調査してる?」 「母上のときと同じだ。ラノック伯に指示を出す。ただ、母上は私と違って、もっと事細かく指示されていたはずだ。私よりずっと確実に」 「あんたは、あのスミレ爺ちゃんに丸投げってわけ?」 「スミレ?」  ラノック伯とスミレが結びつかない。  ヒースが笑った。 「知らない? あんたのかあちゃんに初めて会ったとき、スミレを摘んで捧げたんだってさ。うちのかあちゃんが言ってたよ」  そんな話は知らない、とリュウカはため息をついた。 「おまえは、いろいろな話を聞くのだな」 「とりあえず、どういう調査をしたのか調べてみようぜ」  どうやって?  自分がキットヒルの館に戻ってきたとき、なんの手だてもなかった。ただ、ラノック伯が母のやり方をすべて心得ており、自分はそれに載ったに過ぎない。  私には、なんの力も手だてもない。  闇が深まったような気がして、マントの前をきつく合わせた。  ヒースはぶるりと震えた。 「寒っ。やっぱ火がねぇと冷えるな」 「もう戻って寝なさい。私も戻る」  リュウカは立ちあがった。  マントをするりと脱ぎ、ヒースの体にかけようとした。  ヒースは腕をあげて遮った。 「平気だよ。あんたこそ冷えるぞ。それに、またメシ食わなかったんだって?」 「おまえは食べたのか?」 「食った。かあちゃんに説教食らいながら。ひどいんだぜ、かあちゃんたら、おまえはガツガツ食いすぎだ、ちい姫さまと足して半分で割ったらちょうどいいのに、だってさ」  ヒースは机から降り、マントをつかんでリュウカの肩にかけた。 「冷やすなよ。風邪でもひかれたら、またかあちゃんにたたき出される」  リュウカはため息をついた。 「おまえにはなんでもわかるのだな」 「まさか。誰かさんはいつもオレに隠しごとをするし。おかげで苦労するよ」  ウィンクした。  東の空が赤く染まるころ、まだ暗い道を馬と馬車の行列が城門を出た。馬にまたがるのは、細かな刺繍が美しい赤い長衣の兵隊たち。近衛兵である。馬車は赤い地に金の飾りをつけた箱馬車である。その飾りは、龍と王とを浮き彫りに、昔話を語っていた。  街道を仰々しい馬車の行列が通り過ぎるのを待って、グニーラ伯は従者たちとともに路地から現れた。  マントを羽織り、旅支度を整えていた。  逃げようとしてもムダだ。とグニーラ伯は思った。  ほどなくして、城門から一組の人馬が駆けつけた。城に勤める小間使いの男だった。 「確かに、王女殿下が乗りこまれました」  と、男は言った。 「行き先は?」  グニーラ伯の従者のひとりが訊ねた。 「マヨル山脈の麓です。そちらからウルサに使者を送るのだそうです」  従者がグニーラ伯を見た。 「いかがなさいますか?」 「先回りしよう」  グニーラ伯は答えた。  ウルサへの使者を途中で殺してしまおう。そして、まんまと逃げおおせたと安心している王女の前に出て、驚かせるのだ。王都から離れた田舎で、国王も宰相もなく、たった一人の女の身になれば、王女もしおらしくなるだろう。  馬の腹を蹴った。一団はたちまち駆けだした。  小間使いの男が取り残された。困惑の表情を浮かべていた。 「お約束のごほうびは……」  聞き手はなく、声はむなしく朝の風に消えていった。  そのころ、裏手の城門から、出入りの粉屋が幌つきの小さな荷馬車で出ていった。  二頭のラバはゆっくりと歩み続け、昼前には水車小屋に着いた。  幌の中からたくましい体つきの男が三人、次々と現れた。商人らしいこざっぱりとした麻のチュニックが、鍛えられた体に不似合いだった。  さらに幌の中から少年が顔を出した。一人が手をとり、降りるのを助けた。 「こんな窮屈な思いはもうたくさんだ。どうして、こそこそと出て来なくちゃいけないんだ」  少年はグチグチとこぼした。織りの厚い短衣の襟には刺繍が入り、袖には飾りボタンがつけられていた。 「私はおもしろかったわ」  続いて幌から少女が顔を出した。差し伸べられた手を無視して飛び降りた。短衣の裾をひっぱり、服を整える。少年と似たような服装だった。 「帽子をお忘れですよ」  さらに、男の手を借りて、女が出てきた。織りの厚いドレスを薄いエプロンドレスで覆い、大きなボンネット帽をかぶり、日よけのベールを顔に垂らしている。裕福な商人の女房という出で立ちが、妙になじんでいる。  リリーである。  一緒にいる少年少女はむろんエドアルとリズである。  リズは前につばのついた帽子を受け取り、かぶった。髪は後ろでひとつに束ねて垂らしている。  男装しているとはいえ、あまり女の子らしくない、とリリーは思った。棒のように細く、背筋の伸びた姿勢も、直線的な動き方も、男の子のようだった。帽子の下から覗く大きな鼻は最悪だった。  ほどなくして、リュウカが現れた。乗り馬のカゲの後を、同様に立派な黒馬が駆けてきた。コウモリである。鞍は空であった。ヒースの姿は影形もない。 「いい気味だ」  あんなヤツに、この名馬を渡すもんかとエドアルは思った。たとえ誰かに受け渡すことになるとしても、あいつにだけは渡すもんか。 「御用はお済みですか」  リリーが訊ねると、埃よけのマントを羽織ったリュウカがうなずいた。フードを深くかぶっているが、その中に見える顔の下半分は、埃よけのスカーフで覆われていた。切れ長の目がいつもより際だって見えた。 「こんなときまで仕事をなさることはないんですよ」  エドアルは言った。 「ラノックだって、姉上の仕事のやり方はそろそろ覚えていていいはずです。任せておけば、それなりにできるでしょう」  リュウカは留守中の指示書をラノックに渡しに行っていたのである。 「私はいいですよ? でも、もし、誰かがエリザ姫を襲ってきたら、どうするつもりだったんですか。私たち三人きりで、何ができるんですか」  衛兵たちも同行していたが、エドアルにとっては勘定に入らないらしい。 「ならば、そなたも変装すればよかったのだ」 「してますよ!」  エドアルは汚らしそうに上着の裾をつまんでみせた。 「こんな格好でつかまったら品格を疑われますよ。もう少しまともな服はなかったんですか」 「ボンネットをかぶれば、顔を隠せたろうに」 「ゼッタイイヤです!」  小柄なエドアルなら女装はムリではないだろうとリリーも思う。つまらない意地で命を落としたらどうするのだろう。それほど大事な自分だけでなく、リズもリリーも巻き添えである。  人の上に立つ器ではない。リュウカの従弟でなかったら助ける価値もない。  あの人だったら、体が大きいから女装はムリだけれど、商人だろうと馭者だろうと、むしろおもしろがって演じるだろうに。 「お姉さま、私が男の子に化けたからだいじょうぶよ」  リズがつとめて明るく言った。 「自分で言うのもなんだけど、上手に化けたでしょ? これなら誰も姫だと思わないわ。お姉さまだって、黒髪さえ見えなければだいじょうぶ」  リズはともかく、自分が髪を隠したところで、異人風の容貌はごまかせない。パーヴのように異人が多い国ならともかく、この国では目立つだろうと、リュウカは思った。  だが、反論してリズの気持ちをむげにすることもない。  リュウカはうなずき、衛兵に出発を促した。  急ぎの旅ではあったが、ヒルブルークの街まで一シクル半を要した。町人に扮しては、替え馬を用意するのは不自然であったし、となれば馬をしばしば休めなければならなかった。長旅を馬車なしでこなすのは、エドアルやリズにはムリだったから馬車での行程となり、さらに馬の足は遅れた。  ヒプノイズまで、あと三日は要るだろう。あのグニーラ伯という使者が、それまで気づかねばよいが、とリュウカは急いていた。  追いつかれれば面倒になる。  衛兵を連れているとはいえ、たった二人だ。大勢で来られては太刀打ちできまい。力づくでパーヴに引きずられかねない。  もう少し大人数で来るべきだったかな、と弱気になりながら、リュウカは苦笑した。  今ごろ迷っても遅い。  大勢であれば目立つ恐れもある。どちらにしろ、不安な旅であるのだ。  ヒルブルークの街の門をくぐり、宿屋街へと歩を進めた。  王都とは比べるべくもないが、人が多い。広い通りには店や宿屋が建ち並び、ところどころに露店も見られる。人だかりを迂回するように早足で歩くのは土地の者だろう。周囲を見回す落ち着きのないのは旅人だ。馬車の車輪の音や人の声、馬の蹄の音や犬の鳴き声、喧噪が辺り一帯を包む。  リュウカは懐かしさを感じた。  何年ぶりか。  ヒナタの叔母を頼って、勉学のためにやってきたのだ。王都行きを断って。  しかし、黒髪の触れが出て、早くも追われた。  黒髪の嬢ちゃん、あんた、今度は何をやったんで?  いわくつきの商人。その早耳に助けられた。  まだ、あの城壁の破れはあるだろうか?  思いを巡らしながらも、不意に圧迫感に襲われた。リュウカは素早く目を走らせた。  兵が人混みを押しのけてくる。十数人はいるだろう。  リュウカは馬を馬車に並べた。 「馬車を捨て、人混みに紛れて逃げなさい」  衛兵が手綱を引き、リリーが幌から顔を出した。 「ちい姫さま……」 「ヒプノイズで落ち合おう」  リュウカは馬を返し、追っ手の前に進みでた。 「お待ちくださいませ」  人混みをかき分けて、追ってきた兵が言った。 「失礼ながら、ヒプノイズへ行かれるご一行ではいらっしゃいませんか」 「いや。見ての通り、一人だが」  リュウカが馬上から答えると、後ろから身なりのよい上官らしき男が馬に乗って進みでた。 「ようこそおいでくださいました。これより先の道中は我々がお守りいたします」  背の高い男だった。つばの広い帽子をとると、きれいにカールした暗褐色の髪が揺れた。  おっとりとした地味な顔。  骨太でがっしりした体躯、年はまだ少年を脱したばかり。暗褐色の小さな目には若者にありがちな直情的な光を讃えていた。  なぜかしらリュウカの胸に不快感がこみあげた。 「申し遅れましたが、ヒルブルークと申します。ヒプノイズ子爵さまから、護衛を言いつかっております」  馬車を降り、人混みで息を潜めていたリリーは、ハッとした。 「ちい姫さま!」  叫んだ。人混みを泳ぎかけて衛兵に遮られた。 「その御方とご一緒いたしましょう!」  リュウカはふり向かなかった。  やり過ごせたらいいと願った。  しかし、リリーはなおも叫んだ。 「私たちをお連れください。ここにみなおります。ヒルブルークさま!」  若い指揮官はうなずき、リリーたちを捕らえた。  大きな箱馬車が迎えに来た。ツタ模様の入った木製で、重厚な造りだった。 「だから、こんな格好はイヤだったんだ」  エドアルがぶつぶつ言った。 「王子がこんな姿をしていたなんて、きっと後世にまで語りぐさだ」 「もう安心です」  リリーは窓から顔を出し、馬を並べて歩くリュウカに笑顔を向けた。  箱馬車はヒルブルークの街を出た。  馬車の前後を十数騎の騎兵が守った。まもなく日は暮れ、月明かりに光る白い道を一行は進んだ。  食事時に、歩みは止まった。  ワインの炭酸割り、暖かい野菜スープに始まる夕食は、焼き直したパン、牛肉のワイン煮と続き、デザートワインで終わった。 「こんな美味しいの、生まれて初めて!」  リズが何度もくり返した。 「お口に合いましたでしょうか」  ヒルブルークが控えめに言った。 「まあまあだな」  エドアルはもったいぶって言った。 「これで風呂とまともなベッドとまともな着替えがあれば、なんとか我慢できるんだが」 「賛成。お風呂に入りたいわ」  リズが大きくうなずく。  ヒルブルークは神妙な顔をした。 「申しわけございません。一刻も早くお連れするのが先決かと思いまして。至りませんで、申しわけございません」 「お祖父さまはお元気?」  リリーが訊ねた。  ヒルブルークは驚いたようにリリーを見た。 「祖父をご存じなのですか?」  リリーはたじろいだ。 「あ、あなたのお父さまから、ちょっとうかがったのよ」 「父をご存じでしたか!」  ヒルブルークの目が熱を帯びた。  リリーはますますたじろいだ。 「ちい姫さまの母君に仕えてらしたのよ。お城で。少しの間」 「そうですか!」  ヒルブルークは熱心にリュウカを見た。 「両親は私が生まれてすぐに亡くなったので、何も存じておりません。祖父が代わりに私を育ててくれましたが、その祖父も一昨年前に亡くなりました」  リリーはそっと息を吐いた。  ヒルブルークは気づかず、リュウカの顔を見つめ続けた。 「父は、どのような人だったのでしょうか」  息苦しい。  その目をどこかへ追いやってしまいたいと、リュウカは思った。 「私も初耳だ。リリー、話してさしあげなさい」  リュウカは立ちあがった。 「どちらへ」  ヒルブルークが腰を浮かしかけた。 「馬の世話に」 「それなら部下にさせましょう。王女殿下はごゆるりとお休みください」 「いや、むずかしい馬で、私以外には懐かないのだ」 「でしたら、お伴いたします」  ヒルブルークは剣を片手に立ちあがった。  カゲとコウモリは、馬車のそばにいた。  すでに飼い葉と水のおけが置かれ、二頭が代わる代わる頭を突っこんでいた。  信じられない。何が起きたのか。  降りてからやったのは水だけである。  気むずかしい馬だ。誰かが与えたとしても、桶には向かわず、むしろ草を探して歩き回るだろう。  しかし、目の前で現に馬は飼い葉を食んでいる。  リュウカは首をめぐらせた。  馬車の陰から町人姿の男が姿を現した。 「こちらにお出ででいらっしゃいましたか」  王都ロックルールからついてきた衛兵だった。 「さきほどおいとこさまがお着きになりました」  いとこ?  エドアルとセージュのほかに、会ったこともない前国王カルヴの息子がふたりいるが。エドアルたちの母親が輿入れする前の后の子で、長いこと僧院に幽閉されているはずだ。  首をひねる間に、陽気な声が響いた。 「リュウカ、あんたのせいでひどい目に遭ったんだぜ」  松明の灯りに、髪が白っぽく映えた。ひょろりと長い手足と、高い背。 「置き去りにされたせいで、ラノックのじーちゃんにはこき使われるし、リズのじーちゃんには説教くらうし。逃げだすのたいへんだったんだぜ。行き先も言わねーから、ここまで来るのに苦労したぜ」  ヒルブルークがとつぜんリュウカの前に躍りでた。 「追っ手か!」  一喝し、剣を抜いた。松明の灯りに細い刃が赤く光った。 「とり抑えろ! その白い髪の男は追っ手だ!」  右手で中段に構えながら、左手を大きく振る。  ヒースは大げさに肩をすくめてみせた。  ロックルールから同行してきた衛兵が驚き、手を上げて制した。 「この御方は、王女殿下のお従弟さまです。怪しい方ではございません」  ヒルブルークが真偽を確かめるかのようにリュウカをふり返った。  しかたなくリュウカはうなずいた。 「巻きこむまいと置いてきたのだが、ついてきてしまったようだ。この子は弟のようなもので……」 「子ども扱いすんなよ」  ヒースがムッとして遮った。 「お従弟さまとは失礼いたしました」  ヒルブルークは剣を収めた。 「お食事はもうお済みでしょうか」  ヒースは両手を軽くかかげた。りんごを左右に一つずつ。 「気をつかわなくていいよ。まだこいつらの世話があるんだ」  歩み寄り、コウモリの前に片方を突きだした。  コウモリはすんなりと口にした。  カゲに残るひとつをさしだすと、カゲは用心深そうに匂いをかぎ、コウモリを見、ヒースを見、リュウカを見、匂いをかぎ、コウモリを見た。  カゲがよくおとなしくしているものだとリュウカは思う。  草原の馬は気むずかしいものだが、カゲはとりわけ扱いにくい。名馬の仔で、幼いうちからムカイビにムリをさせられた。そのため気が荒く手がつけられなかった末、イワツバメに押しつけられた。  いい種が安く手に入ったと、イワツバメは自慢したが、懐かせるのはたいへんだった。与えた餌は食べず、人用の貯蔵庫を荒らし、人用の飲み水の入った甕に口をつっこんだ。  今でさえ、限られた者にしか懐かない。  そのカゲが口を開けた。りんごをかみくだく。  飲みこんで、ヒースの手を押した。 「なんだよ、まだ欲しいのか? もう終わり」  ヒースはいなしてふり向いた。 「リュウカ、ここで野営すんだろ」  ヒルブルークが答えた。 「いえ、少々休みましたら、先へ参ります」 「あんた、誰?」  ヒースが顔を近づけ、目をこらした。月光の下でははっきりしない。目立つのは、月下で白く光るヒースの金髪ぐらいである。  ヒルブルークは敬礼した。 「申し遅れました。ヒルブルークと申します。ヒプノイズまでの送迎を申しつかっております」 「信用できんのか?」  ヒースはリュウカを見た。 「リリーが保証している」  リュウカは答えて、ヒースの腕を引き、耳元でささやいた。 「どうしておまえが私の従弟なのだ」  ヒースはニカッと笑った。白い歯は月下でもくっきり光った。 「オレのとうちゃんは誰だった?」  ようやく合点がいった。  表向きは、モーヴ伯父の子である。  リュウカはあきれて苦笑した。 「おまえと親戚になるとは。今まで思ってもみなかった」  その頬にヒースがすばやくキスした。  リュウカは凍りついた。 「姉上から離れろ!」  エドアルの怒鳴り声がした。  続いて、リズがうれしそうに呼びかけた。 「デュール!」  ヒースはふり返った。 「おう」 「はい!」  同時にもうひとつの声が答えて重なった。  ヒースはヒルブルークを見、ヒルブルークはヒースを見た。 「あんた、デュールっての?」  ヒルブルークは軽く頭を下げた。 「はい。おそれながら、我がヒルブルーク家では代々嫡子がこの名をいただいております」  自分の顔がすでに凍りついていてよかったと、リュウカは思った。  暗褐色の髪、暗褐色の眼は、ピートリークにはありふれたものだったが、あの男のものでもあった。そして、小さな目も。  ヒースはデュール・ヒルブルークの高い肩や広い背中を叩いた。  その立派な体つきは、リュウカに母を思い出させた。 「いい体してんな。父ちゃん譲り?」 「いいえ。父方はごく普通の背丈で。母方だと思います」 「母ちゃんって?」 「詳しいことは存じません。私を生んですぐに亡くなったそうです」 「どこの誰かわかんねぇの?」  デュール・ヒルブルークは口ごもり、声は不機嫌に低くなった。 「可憐な花のような人だったと聞いています」 「ああ、悪ィ。オレと同じぐらいの背のヤツって珍しいからさ。年いくつ?」 「十六です」 「じゃあ、オレと同じか」  エドアルが叫んだ。 「なに! おまえ、私より一つ上だって言っていたじゃないか!」  ヒースはすました顔をしている。  リュウカはため息をついた。 「そんなことを言ったのか?」 「あいつがチビチビ、バカにするからさ。一発かましてやろうと思って」 「あきれた」  たしかに、ヒースをエドアルに預けたとき、その年ごろにしてはかなり小さかった。  今ではひょろりと背が高い。当時とほとんど背丈の変わらないエドアルをゆうに追い越し、大人たちと並んでも目立つ。 「あきれたのはこっち。黙って置いていかないって約束だろ!」 「そんな約束をした覚えはないが」 「した! オレの盲腸切ったとき、あんたたしかにそう言った!」  リュウカはわずかに苦笑した。 「私といてもロクなことがないのに」 「あンときも、あんたはそう言った」 「わかっているなら、来なければよいだろう」 「だからぁ、いつも言ってんだろ。ふたりならいくらかマシになるって。あんたは、オレがいなくちゃダメなんだから」  ヒースの手がのび、リュウカの眉間を指で撫でさすった。 「ほら、またシワが寄ってる。せっかくの美人が台なしだぜ」 「やめろ! デュール・グレイ!」  エドアルが間に割りこんだ。 「姉上を侮辱するな! おまえみたいな賤しい者が近づける方じゃないんだぞ!」 「まあ! なんてひどい言い方! デュールはあなたのいとこでしょ!」  リズまで割りこんできた。  ヒースは逃げるようにコウモリに飛び乗った。 「リュウカ、来いよ」  走りだす。  リュウカもカゲに乗り、後を追った。  野営の灯りを遠くに見、月光の下を走った。ほどなくして、ヒースは馬を止め、リュウカはそこに並んだ。 「ラノックじーちゃんのことだけどさ」  ヒースが言った。 「あんたがいなくなってから、オレに仕事を丸々押しつけやがった。椅子に縛りつけて、連日面会で、山のように訴状を持ってくんだぜ? オレにできるわけねーだろ、この国の法律も事情もろくに知りゃしないし、誰がオレなんかの話をありがたがって聞くかね」 「おまえのことだから、それでも一生懸命やってくれたのだろう」 「施しぐらいは手配したけど、係争とかはぜんぶパス。無責任なことできねーもん。あんたが帰ったら、山ほど仕事残ってるぜ。それより、オレが言いたいのは、あのラノックじーちゃんのことだよ。あんた、前の晩、指示書作ってなかったっけ? ぜんぜんあの通りにしてねーぜ」 「では、私の思慮不足だろう。何か行き届かない点があったのだ」 「だからって、オレに代わりやらすか? あんたよりオレのほうがよっぽど思慮がたりねぇよ」 「何か事情があるのだろう。ラノック伯は、母のころから仕えてくれている数少ない貴族だ。よくやってくれている」  ヒースが首を振った。馬上で白く光る髪が揺れる。 「あんたのかあちゃんは、うちのかあちゃんたちをパーヴに逃がしたんだ。あんたたちも遅れてくるつもりだった。つまり、あんたのかあちゃんには、リュウインに頼れるヤツが誰もいなかったんだ。その間、ラノックじーちゃんは、どこにいたんだ? あんたのかあちゃんが死んだと見せかけたんだとしたら、いったい誰にかくまわせたんだ? そんなヤツがいるなら、うちのかあちゃんたちだって、国境を越えなくても済んだろうし、あんただって放浪しなくて済んだだろう」 「ラノック伯は、個人的なツテを頼ったのかも知れない」 「それは、オレも考えた。けど、今回のことはおかしい。あんたから指示書を受け取っといて、オレに代わりをやらすか? そんなことしたら、あんたが積みあげてきたものがパァになっちまう。そんなことがわからない人間じゃないだろ」  リュウカは空を見た。  月明かりで、青く染まった空。  母と逃げた夜も、こんな空だった。 「それでは、おまえはラノック伯が何か企んでいると?」  ヒースはうなった。  空を見あげ、月の光を浴びた。青い空。白い月は小さいくせに、その輝きは周囲の星の瞬きを隠している。 「一緒に逃げねぇ?」 「逃げているではないか。もうすぐヒプノイズに着く」 「……グラッサの東に山があるじゃん」  ハッとして、リュウカはヒースを見た。 「パーヴへ入るつもりか?」 「とうちゃんから、いろいろ抜け道は聞いてんだ」  モーヴは常勝将軍と謳われたほどであるから、いくつか秘密の抜け道は聞いているのだろう。しかし……。 「パーヴへ入ってどうする? 昔のように旅でもして暮らすか?」  リュウカは自嘲的に笑った。たちまちセージュに捕まるだろう。 「いいや。パーヴに入ったら、ガーダにたどりついて、ファイアウォーに抜けて、草原へ帰るんだ」 「うまく行くはずはないし、帰るとしても私だけだ。草原はおまえの故郷ではないよ」  ヒースは夜空から顔をふり向けた。  目がひたとリュウカを見据える。 「あんたのいる場所が、オレの家さ。いつだって」  リュウカの背筋がひやりと冷えた。  この子は本当に追ってくるかも知れない。  二年前、パーヴの森で追われたときにも、この子は逃げずに馬を盗んで戻ってきた。私のために手を血で染めた。  この国に来てからも、私を守るために王の前に立ちふさがり、キットヒルの館でも身を呈し、今度は草原までついてくるという。命がいくつあっても足りない。  あのとき虹の清水で拾われたのは、この子ではなく、私のほうではないのか?  母の最期が脳裏をよぎった。  荒い息の中、湿地の泥にまみれた声が響く。 『自分の生を生きよ』  強い眼の光。永遠に失われた黒い眼。  剣をとれば強く、馬を駆れば疾く、いつも目の前をふさいでいた温かな壁。  母が敵わなかったものに、この小さな子が敵うはずがない。  もうたくさんだ。 「私は近いうちに婿を迎える」  ヒースは軽くうなずいた。 「ヒプノイズは候補その一なんだろ? そうやって、その二、その三と渡り歩いて時間稼ぎするつもりなんだろ。わかってるよ。つきあうよ」 「それは宰相から聞いたのか?」 「いいや。リズのじーちゃんときたら口が堅くてさ」  やはり、あの男はヒースを信用していないのだ。  しかし、それでも、この子はどこからかかぎつける。 「ウルサから婿を迎える」  リュウカはゆっくりと言った。 「ウルサの王子と結婚する」  ヒースは笑った。 「ウルサには王子はいないぜ。王さまは二回結婚したけど子どもはいないし、兄弟もいないし、一番近い身内の従弟はドーンに亡命中で結婚してる」  パーヴでウルサの留学生たちと交わっていただけあって、事情には詳しい。 「又従兄弟がいる」 「そりゃ、王子とは言わねぇよ」 「婚前に王の養子とすればよい。今必要なものは、パーヴに対抗できる力だ。そのためには、ウルサの力が要る」 「だったらさ、ほかにも方法はあるだろう?」 「どんな? リュウインにあるものは、ほとんどパーヴにもある。優位に取引できるものはない。手を打つのが遅れれば、ウルサはむしろパーヴと結び、この国に攻め入るかもしれない。私はこの国の王女だ。この国で暮らす人々を守る義務がある」 「王女ならほかに二人もいるじゃん。少しはそっちに義務を果たしてもらったら? っていうか、それってあんたじゃなくて、王さまや王妃さまが果たす義務なんじゃねぇの?」  痛いところを突く、とリュウカは唇をかんだ。 「ま、いっか。あんたはしたいようにすりゃいいよ。頑固者の石頭だってことは重々承知してんだから。あきらめて、つきあってやるよ。でも、結婚はナシな」  この子は飽くまでもついてくる気だ。  ダメだ、そんなことは。  底なし沼に沈んでいく母の姿が脳裏にくり返された。泥に飲まれ、ただの物体になり果て、ゴミのように埋もれていった。あの偉大な母でさえ。 「貴き血が必要なのだ」  リュウカは言った。 「人が崇め、頼るものは血筋なのだ。あんな王でも、王家の血を継ぐからこそ、みなひれ伏し敬うのだ。エドアルもリズもそうだ。ヒプノイズやヒルブルークでさえ、何代かさかのぼれば王家に行きつくだろう。貴族とはそういうものだ。だがおまえはどうだ? エドアルがひとこと言えば伯父の子ではないと明らかになる。そもそも……」  つばを飲みこんだ。口にしたくない言葉だった。胸に手をやり、押さえて続けた。 「そもそもおまえの親は誰だ? おまえを捨てた母親は王家の末裔だとでもいうのか?」  ヒースは答えなかった。  リュウカは胸がえぐられるようだと思った。自分は卑劣で残酷だと思った。 「おまえの母の名を申してみよ。生んだ母親の名前も言えぬなら、そんな血には用はない。失せろ。私がこれから行く道は、貴き血の者にしか通れぬのだ。それに……」  こらえきれず、息を吐いた。  まだ残酷なことを告げる己の喉を、できることならかっさばいてやりたかった。 「デュールはふたりも要らぬ。ニセモノは失せろ」  返事を待たず、リュウカはカゲの腹を蹴った。  下から突き上げられ、宙に浮いては固い鞍に落下する。そのくり返し。  夜風が、頬をかすめ、髪を奪っていく。  月明かりに浮かぶおぼろげな道。  来るな。あきれ果て、見放しておくれ。どうか遠くで幸せに暮らしておくれ。  あの子は虹の清水で拾った子だ。実の弟ならば、同じ呪われた血とあきらめてももらえようが、あの子には何の縁もない。  なのに、あの子は他人の私の前に迷わず身を投げだす。  もうたくさんだ。  隊にもどると、ヒルブルークが迎えた。 「殿下、お待ちしておりました。そろそろ発ちましょう。グレイ卿は?」 「来ない。待たずに発とう」  ようやくヒプノイズにたどり着いたころ、エドアルが言った。 「あいつ、あの名馬まで持っていきやがった!」  せめてものたむけだと、リュウカは思った。  丘陵に囲まれた盆地とも谷ともつかぬ場所がヒプノイズの街だった。  ヒプノイズ子爵の館へ続く山道を登るほどに、街がよく見渡せた。  ヒルブルークより小さな街である。家より蔵が多い。  丘陵は一面ぶどう畑だった。まだ青い房が目についた。 「昔、この地を治めていたのはタランという名の城主で……」  馬車に並んで馬を進めながらデュール・ヒルブルークが語る。リズは窓から顔を出し、昔語りを聞く。  同じデュールでも、ヒルブルークの語り口は真剣で、平板になりがちである。  色男のタランは王妃のハートを射止め、病を治したために王に重用された。王は何度もヒプノイズに足を運んだ。タランには子がなかったが、王の訪問と同時に子宝に恵まれ、栄えた。一説によると、今のヒプノイズの子孫は王の落胤だとか。 「そのタランにあやかって、今でもヒプノイズ家の惣領はタランという名なのです」  もしあの子なら、王が王妃にすげないようすも、口説かれて王妃のメランコリーが治るようすも、見てきたかのようにいきいきと物語るに違いない。蒼白く透けるような王妃の頬がみるみるうちに淡いロゼワインの色に染まり、次第にみずみずしい桃色に、やがて熟れた林檎のように赤く輝いて、濡れたようなバラ色の唇がタランとつぶやき、小さくため息をもらしたとか、そんなふうに。  リュウカは内心苦笑した。  デュール・ヒルブルークは詩人ではない。比べてはかわいそうだろう。  リズは必死であくびをかみ殺した。  マジメでいい人なのだ。退屈を紛らわせようと、一生懸命伝説でもと話してくれている。  でも、とリズは思った。マジメって、おもしろみがなくて、眠いのよ。  ヒプノイズの館は丘陵の上にあった。大きな鉄の門をくぐり、林の中を抜け、小鳥の声と花々とを愛でた後に立派な屋敷が現れた。  馬車を横づけにし、ヒルブルークが階段に敷物を広げた。  エドアルが先に降り、リズの手をとった。 「ヒプノイズはどこだ」  エドアルは扉を見渡した。  街や門まで出迎えに来て当然なのに、玄関にすら現れないとは。王族を軽んじるのか?  リズの手をとったまま、階段を上がった。  衛兵に命じて扉を開けさせた。  玄関ホールの中には、十数人が待ちかまえていた。  中央に、椅子に座ってふんぞり返っている小柄で痩せた男がひとり。年のころは二十歳前後。切れ長の目が印象深い、なかなかの顔立ちである。  こいつが当主のタラン・ヒプノイズに違いない。  エドアルはリズから手を離し、ずかずかと歩み寄った。 「出迎えもないとは何事か! 我々を愚弄するか! たかが一領主が王族を軽んじて無事でいられると思っているのか!」  ふり返った。  デュール・ヒルブルークがリリーの手をとってやってくるのが見えた。 「ヒルブルーク! この無礼者を斬れ! 我ら王族を軽んじればどうなるか、見せてやる!」  デュール・ヒルブルークは動揺のあまり、手をムダにふり回した。 「殿下、お鎮まりください」 「おまえの忠義を見せてみろ! 王族に忠誠を誓ったのではなかったか!」 「静かになさい! 王子ともあろう者がみっともない」  リリーが制した。 「王さまも、あの人も、そんなことじゃ怒りませんでしたよ。今のあなたはお兄さんそっくりです」 「兄上だと!」  心に琴線というものがあるなら、ぶち抜くほどにかき鳴らされた。 「私は兄上みたいに手をあげたりしない! 暴力なんか……」 「他人にやらせるなんて、もっと悪いと思いますけどね。どのみち、ここじゃあなたは居候。お決めになるのはちい姫さまです」  一理あり。  エドアルはリュウカの姿を探した。  扉から入ってくるところだった。 「姉上! この無礼者を斬り捨ててください!」  出迎えもない無礼、ひざまずきもせず着座する無礼を早口にまくしたてた。  リュウカは手を上げて制した。 「ヒプノイズ子爵どの、しばらく世話をかける。面倒ついでに、庭に早生の葡萄があるが、少し分けていただけないか。あまりに美味しそうなので」 「ただちに」  椅子にふんぞり返った男が答えた。  リュウカは首を傾げた。 「私は子爵どのに申しておるのだが?」  と、椅子の横に立つ男を見た。 「いかにも」  その男は恭しく礼をした。 「なぜ見破られました?」  見破るも何も、宰相から聞かされた不器量な三十男は彼ひとりだった。  これでだますつもりだったのかと、リュウカはあきれた。 「余興はよいから、休ませてもらえないか。みな、長旅で疲れている」 「殿下をお迎えすることは、当家の一大事でございます。つきましては、殿下のご器量を見定めさせていただくべく、あと二題、おつきあい願います」  もったいぶった手振り身振りに、疲れが倍増する気がした。  エドアルの顔は怒りで真っ赤に染まっている。爆発しかかっているのを、もう一度手で制した。 「ヒルブルーク、前へ!」  タラン・ヒプノイズに呼ばれ、デュール・ヒルブルークは前に進みでた。 「殿下には、この者と手合わせ願います。剣はお手持ちのものをお使いください。ヒルブルーク、おまえもだ。手抜きしてはならんぞ」  デュール・ヒルブルークは、えっと叫びかねない勢いでヒプノイズを見た。 「王女殿下に剣は向けられません」  デュール・ヒルブルークは言った。 「我がヒルブルーク家は、絶対の忠誠を誓っているのです」 「ならばこそだ。本物の王女殿下はかなり腕のたつ御方と聞いておる。本物かどうか、おまえが試せ」  茶番だとリュウカは思ったが、とりあえずさっさとすませたかった。 「よい、剣を抜け」 「そういうわけには参りません! 私は絶対の忠誠を……」  同じデュールでも、これがあの子なら。察して、いかにもな具合に負けてみせてくれるのだが。  マジメというのは美徳だが、時としてうっとうしい。  リュウカは剣を抜き、剣先でデュール・ヒルブルークの柄を引っかけた。細剣は宙に舞い、タラン・ヒプノイズの前に落ちた。 「そなたが相手をすればよい」 「私は乱暴は好まないのです。とりわけ女性には」  リュウカはそののど元に剣先を突きつけた。  タランは後ずさりした。 「で、殿下の剣は、本物のようですな、よろしいでしょう。最後の見極めをいたしましょう。女たち、前へ!」  奥から白装束の女達が十数人進みでた。 「殿下には、清らかな乙女であるか、この場で調べさせていただきます」 「無礼者!」  リリーが叫んだ。 「姉上を疑うか!」  エドアルも叫んだ。  リュウカは辟易した。 「わかった。私は清らかな乙女ではない。そういうことでよい」  デュール・ヒルブルークは雷に打たれたように硬直し、タラン・ヒプノイズも不意を突かれたように言葉を失った。 「ちい姫さま、何をおっしゃってるんですか! 純潔を疑われておいでですのよ!」  リュウカは無表情に答えた。 「では、恋人がいる女には価値も魅力もないというのか? 私は頼る相手を間違えたようだ。よそへ行こう」 「まったくです!」  エドアルは同意した。女性にとってこれ以上の侮辱はない。いわんや王女である。リュウカが怒るのは当然だと思った。  リリーも同意したが、少し複雑だった。自分の過去を後ろめたく感じたからだ。  どうして一度肌を合わせてしまうと、心持ちが変わってしまうのかしら。何よりもお姫さま第一だったのに。  リズは少し顔を赤らめた。  でも、と思った。  アルと結婚した後、私の価値が下がったなんて言われるのは、まっぴらだわ。  タランはあわてて両手をふった。 「合格です、殿下、合格です。まさにその答えが欲しかったのです。人前で肌をさらす恥じらいの心、それこそが高貴な育ちの証です」  へらず口の多いヤツだと、リュウカは思った。 「お部屋にご案内させましょう。今宵はごゆるりとお休みください。宴を用意してございます」 「面倒ついでに、部屋は私とリズとリリーを一緒に、エドアルを隣に、連れの護衛ふたりをその隣にしてもらいたい。何かあっては困るので」  リュウカが申しでると、タラン・ヒプノイズは笑った。 「当屋敷では、何もありません。どうぞご安心なさって……」 「きけぬと申すか?」  ひやりと冷たい声が通った。 「すぐに支度させます」  タラン・ヒプノイズはあわてて言った。 「お姉さま」  待つ間、リズがそばに来てささやいた。 「さっき言ってた恋人って、デュールのこと?」 「め、めっそうもございません」  デュール・ヒルブルークが顔を赤くした。 「あなたじゃないわよ」  リズが冷たい目で言った。 「ねえ、お姉さま、デュールとは、どこまで行ったの?」 「冗談じゃありませんよ! あんな子、相手にするわけないじゃありませんか、ねえ、ちい姫さま」  リリーが横から口を出す。  あの子がいたら、三年間一緒に暮らした仲だとか、同じベッドに寝た仲だとか言いそうだ。  だが、あの子はいない。  自分が追い払ったのだ。 「ただのたとえ話だよ」  答えると、エドアルが安堵のため息をついた。 「姉上の純潔を、私は信じておりました」  ここにも、信奉者がいたかとリュウカは内心ため息をついた。  王族の婚礼では、初夜の翌朝に破瓜の証のシーツを衆目にさらす儀式がある。そのシミが今後の吉兆を占うというのだ。  シミは、たいがい瑞獣や瑞鳥の繊細で華麗な美しい絵になっている。  なんのことはない、シーツに絵を描き、披露しているだけである。  先ごろのパーヴの婚礼でも、そんな儀式があったはずだ。  ふと、イリーンの姫を思って、顔がくもった。  嫁いで間もないというのに、義父は死に、夫は隣国の姫にちょっかいを出しているのだ。どんなにか心細いだろう。  ほどなく部屋に案内され、入浴し、晩餐の席に着いた。  エドアルはデュール・ヒルブルークを連れて歩いた。  着替えを手伝わせ、食堂まで付き添わせた。衛兵たちでは王子の供にはふさわしくない。  食堂では壁際に控えているよう命じたが、リュウカが口をはさんだ。 「ともに卓を囲んだらよい。ここまでの間、ずっとそうだったろう?」  姉上は甘いとエドアルは思った。  タランは三十を過ぎた肥えた男だった。目つきが悪く、大きな口から並びの悪い歯が見えた。  テーブルには弟が二人と従弟がついていた。こちらもはいずれも二十歳前後の美男子だった。最初タランのふりをしたのは従弟のシケである。 「私の母は病気がちで、私がふたつのときに死んだのですよ」  タランはワインを仰ぎながら、上機嫌に語った。 「弟たちは、父の後妻の子なのです。父は二年前に死に、後妻は尼になって霊を弔っています。叔母はシケを生みましたが、父親の名を言わんのです。今は尼僧院に放りこんでありますが、恥知らずのけしからん女です」  尻軽女、淫売と、タランは非難を積み重ねていく。  シケがかわいそうだわ、とリズは思った。  お母さまをこんなにひどく言われるなんて。 「よいワインだ」  リュウカが口を出した。 「ふくよかな香りだが、鼻からすっと抜ける。味はまろやかだが、残らない。料理によく合う」  一番若いフュトがうれしそうにうなずいた。 「私が選んだのです。お気に召していただけたようで光栄です」 「さよう、問題は、ワインなのです」  タランが物知り顔で話題をさらった。 「王女殿下には、我らのワインを充分に堪能していただきたい。よいですか、本物のワインとは、このようなものなのです」  だが、王都の貴族はわかっていない。なぜ、あのような下品なイチゴワインなど愛飲するのか。  退屈な人だわ、とリズは思った。  リリーも同様で、向かいのデュール・ヒルブルークに話しかけた。 「こちらにはよくお出でになりますの?」 「ええ、狩りのお伴に」 「まあ、ぜひ雄姿を拝見したいですわ」  タランの眉が跳ねあがり、ワインを一口飲むとニヤリと笑った。 「ヒルブルーク、麗しい身の上話でもお聞かせしたらどうだ」  デュール・ヒルブルークの顔がくもった。 「このヒルブルークの母親というのが、どこの誰とも知れない女で、婚礼も行っていないんですよ。よほど表には出せないご身分だったんでしょうなあ」  タランが笑うと、二人の弟と一人の従弟も合わせて笑った。  これが、今、私のいる世界だ、とリュウカは思った。 「ひどいこと言うのね」  リズが言った。 「ヒルブルークのお母さまは、もしかしたら、高貴な貴婦人かも知れないじゃないの」  タランは笑った。 「聞いたか? おまえの母親は、王妃さまかも知れないぞ」  リリーがもの凄い形相で睨みつけた。 「どちらの王妃さまですの?」  タランは黙った。  今のと言えばリズを卑しめ、前のと言えばリュウカをおとしめ、隣国のと言えばエドアルを侮辱することになるのだった。 「失礼」  タランは咳払いをした。 「ときに、王女殿下。当家のワインはお口に合いますかな」  リュウカは軽くうなずいた。話題を変えてくれるなら、またグチや自慢をくり返されるほうがマシだった。 「では、ぜひ国王陛下にお薦めしてください」  フュトが手をあげると、給仕たちが新しいワインを供した。 「わがヒプノイズのワインは国一番の品質を誇っております。代々国王陛下に献上し、夜宴にてご愛飲いただいておりました。しかし!」  今の国王になってから、イチゴワインの供出を義務づけられ、ぶどう畑の一部を潰してイチゴを育てたものの気に入られず、イチゴもぶどうも含めてワインはまったく買い上げられなくなってしまった。  貴族が自宅用に買ってはくれるが、しょせんは安物で量も知れる。極上品から安物までそろって蔵に残り、財政は傾く一方である。  国王陛下ともあろう御方が、この美酒をお気に召さないわけはない。どうかお薦めして、また昔のようにごひいきにしてもらうよう頼む。  エドアルが大きくうなずいた。 「姉上、確かにその通りです。あのイチゴワインには我慢がなりません。姉上も、あれほどお怒りになられたではありませんか!」 「なんと! 王女殿下も、それほどお怒りになられたのですか?」  タランが仰々しく驚いてみせた。  エドアルは、リュウカが城でイチゴワインにまみれながら樽をひっくり返して回った話をした。 「あれは王族たる者の飲むものではない。姉上も、とても許せなかったのだ!」  こぶしをふり回し、力をこめて語るエドアルを、リュウカは見る気にもなれなかった。  あれは、イチゴワインに対して怒ったのではない。 「姉上、ぜひ説得なさってください。この間は悪酔いされていたのです。今度はきっとお耳を貸してくださいます」  エドアルに話しかけられ、リュウカはハッとした。 「この間とは?」  タランが訊ねた。  エドアルは自分が見たものを語った。  夜宴に衆目の面前で国王が前の王妃の名を呼び、イチゴワインを浴びせたこと。  その毒々しい色がよみがえるようで、リュウカはくらくらした。 「私は国王に嫌われているのだ。説得する力などない」  やんわりと拒んでみせたが、エドアルは食いさがった。 「姉上を前の王妃さまと間違えたことこそ、酔っていらした証拠ではありませんか! 改めてお願いしたら、今度こそ耳を貸してくださいます」 「その通りですぞ、王女殿下。父親というものは誰でも娘がいちばんかわいいのです。この世に娘を嫌う父親などいるわけがありません。王女殿下のお願いとあらば、国王陛下はきっとお聞き届けくださいます」  と、タランも力強く言った。  そんなわけないじゃないの、とリズは思った。  お父さまは、娘はアイリーン姉さまひとりだと思ってる。私のことだって、娘だと認めてない。 「お父さまは普通じゃないわ。どこかおかしいのよ」  リズが言ったとたん、場は静まり返った。  エドアルも、タランや弟や従弟も、デュール・ヒルブルークも、一斉に注目していた。  視線が痛い。  隣にいたデュール・ヒルブルークが諭すように言った。 「国王陛下をそのようにおっしゃってはいけませんよ」  ああ、そうだった!  リズは過去の記憶を思い起こした。侍女たちも、フォッコの友だちも、みな、リズが根拠のない悪口を言ったと非難した。  エドアルでさえ、夜宴での狂乱ぶりを見ながら、悪酔いだとかばいたてる。  どうしよう。このまま本当のことを言っても信じてもらえないし、今さらなかったことにもできない。  見れば、デュール・ヒルブルークが、小さな目でひたとリズを見つめ、次の言葉を待っている。  デュール……?  そうだ、デュールなら、なんて切り抜けるだろう。  青い眼がいたずらっぽく笑い、よく通るきれいな声が陽気にささやきかけるような気がした。 「前の王妃さまが亡くなってから、お父さまは悲しみのあまり、お心が少し弱くなってしまわれたの。お姉さまを見ると、その悲しみがよみがえってしまわれるのだわ。だから、今、説得するのは難しいと思うわ。お心が癒えるまで、もう少し待っていただけないかしら」  なるほど、とデュール・ヒルブルークはうなずき、エドアルやタランたちも大きく同意した。 「では、傷ついてしまわれた国王陛下を、我々臣下がお支えしなければ」 「お慰めする方法があればよいのですが」  彼らは、王への献身を各々口にした。  食事が終わり、部屋で三人だけになると、リュウカが言った。 「あれだけの言いわけを、よく思いついたものだ」  リリーがあきれたように言った。 「あたしはまた、あの子が乗り移ったのかと思いましたよ」  リズはぺろりと舌を出した。 「そうよ。デュールだったら、ああ言うと思ったの」 「へらず口はあの子のお得意ですからね」  リリーはこともなげに言ったが、どこか誇らしげだった。  あの子は戻ってこないかも知れない、とリュウカは思った。  夫を亡くし、子まで無くしたら、リリーはどんなに悲しむだろう。その原因を作ったのは、自分なのだ。  追い払った自分が願うのはおこがましいかも知れない。  それでも願わずにいられない。  あの子がどこにいても、どうかヒースの加護がありますように。