驪龍 レイカ篇    六 隣国の王子  見渡す限りの野には、ところどころ黒い土があらわになり、人に踏み荒らされた無惨な名残を留めていた。地形の起伏もまた、人の営みの跡である。幾重にもめぐらされた深い堀は塹壕、数多《あまた》の大きな盛り土は縁もない地で果てた兵たちの冢塋《ちょうえい》だった。  初夏の陽ざしの中、丘は丈の短い草で覆われていた。薄暗い塹壕の陰でさえ、小さな芽が星の数ほど吹きだしていた。  すがすがしい光景とはうらはらに、凄まじい腐臭がたちこめていた。忌まわしい記憶と悪臭のために、この地を好んで訪れる者はないだろう。  だが、この場所にこれほど不似合いはないというきらびやかな馬車の一団が、長く連なり、走っていた。 「じきに、戦争の傷跡も癒えます。来年の今頃には、一面の畑となりましょう」  一段と贅沢な装飾と施した馬車の中で、リンネルのシャツに青い上衣を羽織った三〇歳前後の男が口元に白いレースのハンカチをあてながら言った。栗色の長い巻き毛が、馬車の動きに合わせて揺れている。  暗褐色の髪の若い男のほうは、真っ青な顔色で、必死にぶ厚いタオルを口と鼻とに押しつけていた。今にも白眼をむき出して卒倒せんばかりだった。  どおりで兄たちが来たがらなかったわけだ。  こみあげてくる吐き気と闘いながら、若い男は思った。  この臭いには耐えられない。もし、従軍していたら、この臭いの中で一進一退をくり返していたのだろうか。要領の悪い自分のことだ、腐乱死体のひとつになっていたかも知れない。  身震いした。  父親の血が、自分を救ったのだ。半身に流れる貴き血が。感謝しなければ。国王陛下に。 「アプス殿下、もうじき戦場跡を抜けます。もう少しの辛抱です。それから王都までの三日間は快適な旅をお約束しますよ」  青い上衣の男に力づけられて、若い男は弱々しくうなずいた。体調のせいばかりでなく、御年一九の若いアプス殿下は、何事につけ、このようだった。よく言えば物腰やわらかく、悪く言えば弱気で頼りない、どちらにしろ殿下と呼ばれるには威厳が欠けているのだった。すべてを本人のせいにするのは、少々酷だろう。大仰な名をいただいたのは、ここ数ルーニーのことなのだから。  戦場跡を抜けたのは、半ニクルほど後のことだったが、幾度となく襲ってくるる吐き気に惨敗したアプス殿下は体力も気力も使い果たしていた。  いっそのこと、気を失ってしまえばよかったのに。  極限状態にあっては、体裁などどうでもよかった。  もともと、しがない田舎育ちよ。今さら捨てるプライドなんかあるものか。  馬車が大きく揺れた。精も根も尽き果てていた田舎育ちは座席から床へと転がり落ちた。馬車が急停車する。  青い上衣の男は、年若い客にはかまわず、馬車の窓を開けて身を乗りだした。 「何事か! それでも王室づきの御者たるか!」  窓から臭気を帯びた風が入りこみ、アプスは身もだえした。通りすぎたとはいえ、こちらは風下だったのだ。 「ひ、羊の群が……」  恐縮した声が答える。 「なんてことだ! 追っ払え! 追っ払って、無礼な羊飼いを、さっさとこの場に引きずり出せ!」  青い上衣の男は顔を真っ赤に上気させて怒鳴った。 「しかし……」  床でのたうちまわっていたアプスは、こらえきれずに馬車のドアを開けた。土の上に吐こうとして、凍りつく。  羊だ。辺り一面、羊で覆い尽くされている。押しあいへしあいしている羊の一頭と目が合った。その冷たい眼にひるみ、出かかったものを、若き殿下は飲みこんでしまった。 「ええい! いつまでもこのような醜態をさらすでない! こうやるのだ!」  青い上衣の男は馬車から飛びだした。上衣を脱ぎ、大きく振って羊の背を叩く。 「なにしてる! おまえたちもやれ!」  命じられて、御者や童女の従者たちがしぶしぶ羊を追い始める。 「おのれ、羊飼いめ。見つけたらたっぷり水に浸けて八つ裂きにしてくれる!」  青い上衣を着て……いや、今や振っている男が憎々しげに叫ぶと、高らかな笑い声が響いた。 「それは楽しみだな。さぞかし、よい見ものだろうよ」  青い上衣の男の動きが止まった。すばやく辺りを見回す。 「また、おまえか!」  遠方から、ゆっくりと葦毛の馬が羊の群をかきわけて近づいてくる。その騎手を見て、アプスの吐き気は止まった。  細面の白い顔にアーモンド形のくっきりとした目がふたつ、バランスよく並んでいる。夜の闇にも似た黒い天鵞絨のような眼は、見る者を魅了して放さない。アプスはその両眼にとらえられ、魂が吸いこまれるような心地さえした。  凍りついたようなアプスのそばで、青い上衣の男が怒鳴る。 「国賓に無礼を働いて、タダで済むと思うか! この方は隣国の王子殿下だぞ、今、ここで謝罪しろ!」 「それはすまなかったな、アプスどの」  馬上の女の声が、からかうような響きを帯びて降ってきた。地べたに四つん這いになっていたアプスはあわてて身を起こした。 「おのれ! 名前を知っていたのなら、初めから謀ったのか!」 「賤しい生まれなのでな、蛮人流の歓迎を披露したまでだ。さて、客人、おわびに一頭差しあげよう。どれがよいか?」 「わ、私は……」  立ち上がりかけてよろめき、羊の一頭に触れた。埃にまみれた手が、あたたかい毛の中に埋まった。羊の冷たい眼と目が合い、恐怖に飛び退く。よろめいて、不格好に尻もちをついた。羊が空いたスペースに押しかけ、瞬く間にアプスは羊の海に没した。  こ、こんなところで死ぬのは厭だ!  圧死を予感して、アプスは固く目をつぶった。こんなことなら、王子なんかじゃなきゃよかった! 田舎でのんびり領民たちと田畑でも耕していたほうが……。  やにわに、辺りが明るくなり、そうっと目を開ける。眼前に葦毛の馬が立っていた。  踏みつぶされるっ!  両手で頭を抱えると、女の声が降ってきた。 「リュウインの王子というのは、ずいぶんと度胸に欠けるのだな!」  嘲笑を浴びせて、鞍上の女は馬の向きを変えた。羊の群がその後に続いていく。両わきをすり抜ける羊たちに、アプスはただ震えていた。 「とんだご無礼を」  羊たちが去ると、青い上衣の男が馬車のドアを開けた。アプスは這うように中に入った。 「あの無礼者には、きっちり灸をすえてやります」  灸が何ものかも知らないままに、アプスはうなずいた。 「あの方はどなたです?」  青い上衣の男は苦虫をかみつぶしたような顔をした。 「なに、蛮族の娘ですよ」  三日を経て、無事王都レンフィディックに到着した。 「国王陛下に到着のご報告をして参ります。お待ちを」  青い上衣の男は馬車を降り、アプスは従者ひとりと取り残された。この従者はリュウインの王室が遣わした者で、使節としての実質の権限は彼にあった。表向きはアプスに頭を下げていたが、唇の端はいつも嘲笑するように少し上がっていた。  第一五王子と言ったっけ。青い上衣の男の身分を思い返す。  王妃か寵姫の子以外は王族と認められないと言っていたから、自分のように、たった一夜だけ戯れに情けをかけた女が生んだ子など、パーヴでは王子として認められないのだろう。しかたない。王子ばかりのパーヴと違って、父王オールスには息子が三人しかいなかったのだから。王妃との子レープスとグルース、それから地方貴族の女に生ませた自分だ。長兄のレープスが次期国王だろう。次兄のグルースはその補佐に当たり、重職に就くだろう。しかし、自分は? 兄の嫌がる用事を押しつけられ、何処へ行っても、母の血の賤しさゆえに蔑まれる。  妾腹の第三王子なんて、うんざりだ。しかし、遅いな。  日は山の端にかかっていた。昼前に到着したはずなのに、隣国からの使節を馬車に残したまま、誰も迎えに来なかった。 「侮っているのか!」  従者が苛立って足踏みをした。 「和平交渉をしようと言いだしたのは、そちらではないか!」  そうだったのか、とアプスはのんびり思った。今までたっぷりと、青い上衣の第一五王子にも、リュウインからの従者にも軽視され続けていたため、今さら非礼のひとつやふたつ加わっても、もはやどうでもよいのだった。  だけど、腹が減ったなあ。惨めに餓死するのは厭だなぁ。  ぼんやり馬車の窓から外を眺めていると、還俗したばかりの坊さんのようなみっともない短髪が視界を横切った。 「ああっ!」  考えるより先に、窓から身を乗りだした。黒い短髪が馬を止めてふり返った。  アーモンド型の魔性の目。 「おや、今ごろご到着か? 平和の使者どの」  からかうように女が笑う。  この女は、こんな髪をしてただろうか? こんな粗末な衣服だったっけ? こんなにも立派な馬にまたがっていただろうか?  女の眼以外、何も見ていなかったことに、アプスは愕然とした。同時に、そんなことはどうでもいいように思われた。この生気あふれる美しい眼に見つめられてさえいられれば。 「馬丁! 馬を厩に入れ、水と飼い葉をやらぬか! 車につなぎっ放しでは、今夜にも死んでしまうぞ! そこの侍女! 客人二名を春の間に通せ。飢えて動けぬようになる前にな!」  女は眼についた使用人たちに命じると、馬首をひるがえし、悠然と城の奥に消えた。  アプスは呆けたように眺め続けた。女がもう一度戻ってくるような気がしたのだ。いや、もう一度戻ってきて欲しかった。  従者は不平不満を馬丁や侍女にぶつけながら馬車を降りた。 「まったく、なんであんな女に指図されなきゃならんのだ」 「あの方をご存じなのですか?」  アプスは年上で風格のある従者に訊ねた。確か伯爵だか公爵だかで、豊かさを象徴するような立派な腹を持ち、それがやけに似合っている。名前は出発前に、御膳立てしてくれた世話人から聞いたのだが、忘れてしまった。 「知らんわい」  名も知らぬ従者は横柄に答えた。 「まあ、城の奥に入ったところを見ると、王族の奥方のひとりだろう。もしかすると、あれが例の寵姫かも知れん。前《さき》の国王は晩年、年若い異人の女に夢中だったというからな」  一ルーニー前に亡くなったというパーヴの前王ナージャの寵姫! 寵姫だって! 頭に岩をくらったような心地だった。 「さんざん甘やかされたのだろう、それで好き勝手なことをしているのかも知れないな。蛮族はまこと始末が悪い」  従者はなめるようにアプスを眺め、厭な笑みを浮かべた。 「しかし、もう喪は明けた。その辺の女とは違い、国王の寵姫ともなれば、一生国王の霊を慰めることになるだろう。まあ、おまえにもわかるように言えば、尼になるのだな」 「尼!」 「ふむ、考えてみれば、やはり前国王の妾に違いない。その証拠に剃髪しておった」 「しかし、少し伸びておりました。還俗されたのでは?」 「手入れが杜撰なのだろう。蛮族のやることだからな。しかし、そうか、あんな蛮族が王室になあ。とんだことだ。帰ったら国王陛下にご報告しなくては!」  従者は愉快そうに笑った。 「おや、顔色がすぐれませんな、王子殿下! 蛮族の毒気にあてられましたか!」  アプスは高笑いを背に、客室へと歩きだした。穴があったら入りたい気分だった。  客室は、春の間と呼ばれるリビングルームに、寝室が四室連なっていた。従者と別室で寝られるのが、なによりありがたかった。部屋は春を思わせる萌黄色で統一され、休む者の心をいやしてくれた。  知らぬ間に眠ってしまったらしい。横柄な怒鳴り声で目が醒めた。  やわらかなベッドは心地よく、身を起こす気分にはなれない。 「湯浴みの仕度もできないのか! 幾日もかけてはるばる隣国よりたどり着いた国賓に、この仕打ちか!」  埃にまみれた体だが、今さら一日ぐらい風呂に入らなくたって、死にゃあしない。  アプスは目を閉じた。もう一眠りしよう。できれば夢を見よう。あの異国の美女の。夢の中なら、誰のものでもあるまい。 「食事はどうした! 食事は! 昼から何も食べてないのだぞ! 国賓を飢え死にさせる気か!」  おおげさな。そんなに空腹なら、自分の腹でも食えばいいじゃないか。 「汚い手をお離しください」  毅然とした女の声が響き渡った。あの異人の女性のものではない。年季の入ったたくましい声である。  大きな物音がした。 「女性を突き飛ばすのが、隣国のなさりようですか? 恥を知りなさい」  手のひらが鳴るような音がした。平手打ちでも食らわせたのだろう。 「女のクセに生意気な!」 「やめなさい! 隣国の使節が乱暴を働いたとなれば、国王陛下も黙ってはいらっしゃいませんよ」 「たかが召使いひとりのことで騒ぐ主人が、どこにいる!」  アプスも同感である。召使いは召使いらしく、とっとと謝って服従すればよいのだ。  しかし、この召使いは従順ではなかったらしい。 「性根を叩き直してやる!」  平手打ちが数回続いた後、もっと重い音がしばらく続いた。この音はよく知っている。人を殴り、蹴る物音だ。子どもの頃、飽きるほど聞いた。寝ていると、隣室で祖父が、祖母や母を、あるいは使用人たちを正しく教育していたのだ。  女の悲鳴があがり、やがて泣き声に変わった。 「助けて……やめて……」 「お許しくださいだろ!」 「お許しください! お許しください!」 「よし、許してやろう。これからは生意気な態度をとるんじゃないぞ!」  ようやく静かになり、アプスは再び寝入ったが、長くはもたなかった。 「起きろ! 王子殿下!」  従者にわき腹をしたたかに蹴られて、ベッドから転がり落ちたのである。 「な、な、な……」 「食事だ! 服はこのままで、今すぐ食事に行くんだ!」 「へ……」 「国王が、今すぐ苦労をねぎらいたいんだそうだ。どれだけ苦労したか、その目で見たいから、旅支度のまま来いとさ。晩餐の用意もしてあるそうだ。すぐ行くぞ!」  従者であるはずのナントカ伯だか公だかは、先頭にたって部屋を飛びだしていった。  アプスはのろのろと後に続く。隣室で、すっかり顔が腫れた女に会った。鼻血でも出たのか、服が流血で汚れていた。  立派な服なのにな。もったいない。  品よく落ちついた黄土色のドレスは、年輩の彼女によく似合っていた。 「では、まいりましょうか」  年輩の女が案内してくれるらしい。  従者の待つ廊下へ出る前に、アプスは急いで訊ねた。 「前王の未亡人に、異人の、年若い美人がいたとか」 「はい。その通りでございます」 「名は?」 「萌黄の君ですわ」  萌黄の君か。  春の間を見回した。萌黄色に統一された室内がまぶしい。  あの方にふさわしい、美しく生き生きした名だ。  年輩の女はそそくさと廊下に出た。アプスはあわてて後を追った。  城の造りはよくわからない。数ルーニーほど前、自分が殿下と呼ばれる生まれだと知ったものの、王城に入ったのは一度きり。それも、客間と閲見の間を往復しただけだ。 『休戦協定が結ばれる運びと相成りました。つきましては、殿下には名誉ある平和使節の代表を務めていただきたい』  王族用の赤い天鵞絨張りの椅子に次兄グルースが座っていた。初めて会った兄は四〇前後の陰気な男で、暗褐色の長い巻き毛が重たげだった。まぶたもまた、たいそう重たげで、話の最中によく下がり、しばしばあくびを連発した。  その御前に、アプスを生まれ育った田舎から呼びだした世話人のナントカ伯だか公だかが立ち、アプスに用件を伝えるのだった。  次兄が発したのは、たった一言だった。 『弟とは便利なものだわい』  面倒事はすべて押しつけられる。本意はそんなところだろう。  前の晩に一泊したと思えば、翌日には命令を受け、そのまま使節一行と出発した。  世話人は『選りすぐりの人々』と紹介したが、アプスには退屈しのぎに来た上級貴族か、さっそく隣国とのコネ作りに躍起になっている悪徳政治家にしか見えなかった。彼らは早馬で二日の距離にたっぷり五日、すなわち一シクルをかけ、茶や狩りを楽しんだ。  国境付近で、パーヴの出迎えが待ち受けていた。アプスたちを城まで連れてきた、あの豪華な一団である。 『ここから先は、代表おひとりで願おう』  青い上衣の第一五王子はきっぱりと言ったものだ。 『我がパーヴ国王陛下は、和睦が迅速に行われることを望んでおられる。残りの方をおもてなしする余裕はない。もし、異論がおありなら、ただちに帰っていただこう』  リュウインの使節たちは抵抗した。意地でも、このままついていくと言い張った。 『よろしい。では、我々も国王陛下に報告いたそう。使節は国の平和よりも、ご自分の体裁や権利がお大事だとな。いや、その前に、みなさまの首を頂戴することにしよう。和平はならなかったのだ。当然、みなさまはただ今この場から敵国人、国王陛下への最初の手土産にしてしんぜよう』  出迎えは一転、虐殺に変わるかと思われた。青い上衣の男がひきつれてきたのはパーヴの優雅な歓迎団などではなく、軍の精鋭たちだったからだ。  使節たちは我先にと逃げまどった。まだ知恵のまわる数人は、アプスを前に押し立てて命乞いをした。 『これが責任者です! この首で! この首でご勘弁を!』  はがい締めにされ、最初こそ抵抗したが、前に突きだされるころには、アプスは恐怖で身動きできなくなっていた。やせっぽちの自分が、恰幅のいい貴族たちにかなうはずはないのだ。敵国の、この大柄な大将には、ましてやかなうはずがない。  青い上衣の男がアプスの前に立った。 『親書を出せ』  親書? アプスは意味がわからないまま、恐怖に震えていた。 『そなたが代表ならば、親書を持っているはずだ。今すぐ差し出せ』  持っていない、と言いたかったが、恐怖で口がきけなかった。青い上衣の男は不機嫌に眉根を寄せ、周囲の人々に向かって呼びかけた。 『親書がないなら、用はない、皆殺しだ。だが、今すぐ親書を差しだすなら、命だけは助けてやろう』  次の瞬間、アプスは貴族たちに身ぐるみ剥がされた。 『こ、これでございます』  瀕死のアプスを横目に、従者が震える手で自分の懐から封書を取りだし、差しだした。  青い上衣の男は封書を開いた。 『そっ、それは直々にパーヴの国王陛下にご覧いただくものですぞ!』  抗議する従者を、青い上衣の男は威圧的に睨み、中を確認した。 『これを国王陛下のお手元に』  部下に封書を渡す。 『では、使節どの、参ろうか。丁重に客人を運べ』  パーヴの軍人たちがアプスの両腕をつかみ、迎えにきた豪華な馬車に向かう。  アプスの下半身はまるで役立たずで、裸足の足は弱々しく宙に浮いていたが、首だけはまだ主人のいうことをきいた。ふり向いて、従者の方向を見続けたのである。  食い入るような視線を感じてか、従者はとっとと人ごみに紛れようとした。 『待て!』  青い上衣の男がふたりをかわるがわる眺めて言った。 『その男もお連れしろ。封書を持っていたのだ、ただ者ではあるまい』  捕虜として連行されるものと覚悟していたにも関わらず、予想に反して、その後の扱いはいかにも国の賓客らしかった。  そして、戦場跡の凄まじい臭気を経て、今にいたる。  隣国の国王に拝謁したら、何と言おう? 自国の国王、自分の父親にも会ったことがないのに? いや、交渉は従者がするからいい。自分はただ王家の代表として、つつがなく挨拶すればいいだけだ。ええと、『ごきげんうるわしゅう……』だったかな?  行きがけに即席で習った王家流の挨拶口上を復習してみる。  うまく言えるかな……。  傍らの埃だらけの従者も緊張しているようだった。しきりに濃茶の口ひげをひねっている。 「こちらでございます」  侍女がひときわ大きな扉の前で立ち止まった。 「大きな部屋だな。我々の使命にふさわしい」  従者が重々しくうなずいた。  扉の両わきを守る召使いが――あるいは近衛兵かも知れない――扉を開けた。  色の洪水。なんと艶やかな。  アプスは彩やかな光景に呆然となった。  中は巨大な広間になっており、美しく着飾った紳士淑女であふれかえっていたのだ。  あらゆる目が、アプスたちを迎える。 「道を開けてさしあげましょう」  扉の近くに、美しい衣装を身にまとった第一五王子が立っていた。 「使節どのは、国王陛下にお目通りする際の作法をご存じないらしい。ムリからぬことだ。ご自身の王、ご自身のご父君にもお会いしたことがないのだから」  アプスは驚愕の目を向けた。  なぜ、それを知っているのだ? 固く口止めされていたのに。  ふと、視線を感じてふり向くと、従者が自分を睨みつけていた。  違う。話したのは自分じゃない! 首を振ったが、ますます従者は睨みつけた。 「どうぞ、前へ。あちらの王が会わなくとも、我が国王陛下はお会いになられます。昨日今日王子になった殿下でも。さあ、どうぞ」  第一五王子がさっそうと歩きだすと、人々は真ん中からふたつに割れた。  豪華な衣装をまとった人々の好奇と軽蔑の視線がつき刺さる。頬はほてって熱を持ち、目を上げられなかった。  やがて、玉座の前に出てひざまづいたものの、床を眺めたまま何も思いだせなかった。礼儀も口上もすべて吹き飛び、ただこの場から逃げ出したい思いでいっぱいだった。 「遠路はるばる苦労であったな」  王から話しかけられたが、アプスには意味すら理解できなくなっていた。 「すぐにでも和睦の議に入りたいだろうが、今宵はゆるりと疲れを癒すがよい。料理も美女も客人を待ちあぐねていたぞ。たっぷりと楽しめ。ところで、リュウインの王子よ、その後ろにいる男は何か?」  混乱している王子に代わり、従者が自ら名乗りをあげようと進みでた。 「控えよ! 無礼者め! 国王陛下は王子にお尋ねあそばされているのだぞ!」  第一五王子が叱りつけた。  いよいよ険悪になる雰囲気に、アプスは目眩がした。  なんでもいいから謝ってしまいたくなった。それで許してもらえるだろうか? この場から退散させてもらえるだろうか?  自分の鼓動が耳鳴りのように響き、息苦しさを感じた。気が遠くなりかけた。  その時、周囲がざわめいた。 「おやおや、道を開けてくださらぬと、美しい衣装が汚れますぞ」  からかうような女の声が響いた。  あの方の声だ!  アプスの体がすばやく翻った。今までの固さがウソのようだった。  真っ黒に汚れた農民の服を着た女が、ふたつに割れた人だかりの間から悠然と現れた。 「これはこれは、隣国の使節どの」  女は国王の御前だというのにひるむようすもなく、気軽に話しかけてきた。 「今宵は無礼講で普段着での参加だということを、私とそなたたちの他はすっかりお忘れらしい」  広間中に響きわたるような大声で陽気に笑う。  アプスは女の前に駆け寄り、ひざまずいた。 「ごきげんうるわしゅう、萌黄の君!」  笑い声が突然やんだ。人々のざわめきも失せる。恐ろしい静けさである。  おそるおそる周囲を盗み見ると、人々の目は見開かれ、息を飲んで事のなりゆきを見守っている。  女は人の悪い笑みを浮かべていた。  アプスのこめかみに一筋の汗が流れた。 「も、萌黄の君?」 「兄上! 今日という今日は、こヤツを許してはおけません!」  第一五王子が声高に叫んだ。 「三日前、戦場跡の辺りで、我々の馬車に羊の群をけしかけたのです。おかげで国賓の前で大恥をかくところでした。今日こそは処断してください、兄上!」 「言葉を慎むように。兄ではなく、国王陛下だ」  国王の側近がたしなめた。第一五王子は顔を赤らめたが、黙らなかった。 「父上が……前の国王陛下がおかくれになって以来、こヤツの狼藉ぶりは目に余ります。どうか、今日こそご処分を!」 「モーヴ殿下は、私を水に浸けて八つ裂きになさるとおっしゃられましたぞ。兄上、その通りになさったらいかがです?」  女は国王に笑ってけしかけた。  アプスは仰天した。女があまりに不敵だったからではない。現国王を兄と呼んだからである。  現国王は、前国王の子である。その姉妹だというなら、目の前の美女は前国王の寵姫ではない。娘である。  喜びに震え、アプスは兄妹の会話に割りこんだ。 「では、あなたは前国王の未亡人などではないのですね! 萌黄の君ではないのですね!」  国王の御前だということも忘れ、立ち上がった。女はアプスより首ひとつ分背が高く、アプスはずいぶん仰向かなければならなかった。 「萌黄は母の呼び名だ」  女は気がないように応え、頭を上げて国王を見る。 「母上は、隣国でも評判らしい。使節どのは母上に会いに参ったのかな。では、ひと思いに母上の元に送りだしてしんぜよう」  女は腰の長剣を引き抜こうとした。 「御前での抜刀は死罪ですぞ!」 「母君はどうでもよいのです!」  国王の側近とアプスの声が重なった。アプスの目には女の顔しか映っていなかった。美しい眼に、ただみつめられたかった。 「姫!」  アプスは懸命に呼びかけた。 「姫のお名前をお教えください。私は誤って母君の御名をうかがってしまったのです。私はただ、ただ、姫を……」  天鵞絨《びろうど》のような黒い眼が、自分を見下ろしていた。全身に戦慄が走った。体の芯まで痺れ、頭の中が熱くなった。 「お慕い申しあげております。初めてお目にかかってからずっとお慕い申しあげておりました。姫を、心より……」  女はあきれたように苦笑を浮かべ、熱に浮かされた即席王子の肩を小突いた。 「そなたの国では口説くのが女に対する礼儀か? 隣国の作法にはついてゆけぬ」  場内は笑いで沸いた。空気が和む。  我に返った若き殿下は耳まで赤くなってうつむいた。 「ま、まだ話は終わってないぞ!」  第一五王子が哄笑に負けじと叫んだ。 「あの羊はいったいなんだ! オレに恥かかせやがって!」 「お怒りはごもっとも。水責めにでも、八つ裂きにでもお好きなように。兄上が一声お命じになってくだされば」  短い黒髪の姫は、からかうように国王を見た。  パーヴ国王は眉根を寄せ、困り果てたように力ない声で訊ねた。 「羊もよい迷惑だと思わぬか? あのような何もないところに連れていかれては」 「とんでもない! やわらかな若草に恵まれ、羊たちも喜んでおりましたぞ。やはり、肥料が違いますからな!」  第一五王子が大きく床を踏みならした。 「肥料だと! 人間の死体のことではないか!」 「さよう。我が国と隣国の、勇敢なる兵士! これ以上に贅沢な肥料がございましょうか! たとえ、由縁が愚鈍な国政にあるとしても!」 「父上を非難するつもりか! 反逆罪だぞ!」  姫はひるむようすもなく、両手を鳴らした。 「これへ!」  ワゴンが運ばれてくる。大きな銀の覆いがかけられた大皿が載っていた。肉の焼ける匂いが漂ってきた。 「これは、客人に」  姫はアプスに微笑みかけた。 「わ、私に?」  胸が躍った隣国の王子は、一目散にワゴンに駆け寄った。  姫は、私を憎からず思ってくださっている! 「開けてもよろしいでしょうか?」  銀の覆いに手をかける。  姫は軽くうなずいた。 「そなたが選んだものだ」  何か選んだ覚えがあったかな? 不審よりも期待が勝った。勢いよく覆いを開ける。  悲鳴が響きわたった。  皿の上には、骨付き肉が山と盛られ、その天辺に羊の頭部がグロテスクに飾られていた。 『さて、客人、おわびに一頭差しあげよう。どれがよいか?』  そういえば、羊の群に囲まれた時、姫はそんなことを言っていなかったか? これは、あの時触れた羊……。  アプスは悲鳴をあげた。長い長い悲鳴だったが、息が切れた時、呼吸も意識もなかった。隣国の若き王子は死んでしまったのだ。    目が醒めると、やわらかなベッドに横たわっていた。部屋の中は見慣れない豪華な家具ばかりで、室内は明るく穏やかな萌黄色で満たされていた。  頭の後ろが痛い。  アプスはおそるおそる痛む箇所に触れた。大きなコブができている。  腹がすいた。  ベッドから下りて、ドアを開ける。 「もう起きたのか、王子殿下」  従者がテーブルいっぱいに置かれたご馳走を口いっぱいにほおばりながら言った。 「まったく、あんなところで卒倒するとは、我がリュウインの恥さらしだ」 「卒倒? 私は失神したのか……」  アプスは思いだそうとしたが、浮かんでくるのは、あの美しい姫の姿ばかりだった。 「失神どころか、死んじまったのよ」 「えっ! 死んだ?」 「ぶっ倒れて、頭を打った勢いで息が止まったんだな。あのお美しい蛮族の姫とやらが、すぐに人工呼吸をしてくれなかったら、王子殿下は今ごろこの世にいなかったろうよ」 「姫は、私を助けてくださったのか」  ため息をついた。背中が痛むような気がしたが、これは死にかけた後遺症だろうか。 「殿下、人工呼吸って、どうやるか、知ってるよな?」 「いや」 「患者の口を吸うんだよ。こうやってな」  従者はリンゴに威勢よく唇を押しあてた。  若き王子は真っ赤になった。従者は笑った。 「せいぜい礼を言っときな、あの蛮族の姫とやらにな!」  アプスは部屋を飛びだした。  姫は私を憎からず思ってらっしゃる!  胸が躍るような心地だった。  そうでなくて、どうしてご自分のうるわしい唇をくださるだろう? 一刻も早く、思いにお応えしなくては!  城の廊下のそこかしこには衛兵が立っており、他の区画への立ち入りを禁じた。アプスは中庭に忍びこんだ。右も左もわからなかったが、巡回する衛兵を植え込みでやりすごし、ひとつひとつ窓の下で耳をそばだてた。植え込みの木は枝葉が密でよく身を隠したが、背が低く、しばしば地面に這いつくばらなければならなかった。泥が服一面にこびりつき、たっぷりと気持ち悪い思いをした。  窓から窓へと渡り歩き、空がうっすらと白み始めたころ、地道な努力がようやく実を結んだ。ひとつの窓にたどりついたのである。 「お姫《ひい》さま、湯冷めなさいますよ。早くお寝みください」 「せかすな。マム、咽が乾いた。水を」  あの方の声だ!  アプスは中をうかがおうと窓に手をかけた。何かが手にあたった。つかんで星明かりにすかしてみると、小さな笛のようだった。  あの方は笛もたしなむのか!  緑の草原で風に吹かれ、馬上で笛を鳴らす。なんと美しい光景ではないか!  震える手で笛を口元に当てた。  恋の唄を奏でるのだ!  田舎にいたころ、村娘や幼い婚約者によく笛を吹いて聴かせたものだ。女たちはみなうっとりと聞き惚れ、最後には拍手の嵐とキスの雨が待ちかまえていたものだ。  私だって、なかなかの腕だというところを見せてやろう!  窓辺の下に背をもたせて座りこみ、セレナーデを奏で始めた。  が、長くは続かなかった。  まだ本調子も出ないうちに、大きな水音にかき消されたのである。 「どこの無礼者です! うちのお姫さまに、そんなヘタクソな笛を聴かせるなんて!」  ずぶぬれになったアプスが見上げると、窓から三〇代半ばの恰幅のいい女が、水差しをひっくり返していた。 「ヘタクソだと! 名手に向かって!」  アプスは立ち上がって怒鳴り返したが、女に水差しで頭を殴られた。 「怪しいヤツ! 引っ捕らえてくれる! サミー、リリー、曲者が出たよ!」  窓から布が降ってきた。 「痛い! 痛い!」  布をかぶせられたまま、頭といわず、肩といわず、固い物で殴られる。 「た、助けてくれっ!」 「その辺でやめておけ」  笑い声が聞こえた。 「でも、お姫さま!」 「また死なれては困る」  攻撃がやんだのを幸いと、アプスは布を払い、窓辺に顔を出した。部屋の奥に、濃緑の薄いローブをまとった佳人が見えた。しどけない寝間着姿に目が眩み、動悸が早まる。 「姫! 姫! 私はお礼に参ったのです。姫は命の恩人です。私はなんと申しあげてよいのやら!」 「礼だと?」  姫は鼻先で笑った。 「このような時刻に、このような場所へ来てか? よほどの礼儀知らずと思うが」  アプスは返答に詰まった。 「その笛には見覚えがあるな。そなたのものか?」  アプスは赤くなった。 「いえ、ほんの出来心で……。窓辺にあったもので、その……姫のぬくもりを……」  姫の唇のぬくもりを……。  姫は笛をじっと睨んだ。 「やはり。先ほど、兄上が忘れていらっしゃったのだ。返してもらおう。他人が口にした笛を、二度とお使いになるかどうかは知らぬが」  兄上! パーヴ国王の笛! げっ!  吐き気がした。水! 浄めの水! うう、なんで男なんかと間接キスを……。  キス!  そうだ、私は姫君と直接キスをしたのだ。何を恐れることがあろうか! 「先ほどは醜態をお見せしました」 「ああ、そなたの笛はまことにヘタだな」 「そちらではありません! 広間で、一度死にかけた時のこと。私を救ってくださったとか」 「ああ、それで文句を言いに来たのか。背中にアザでもできたか?」 「は? アザ? 蘇生の話をしているのですぞ。姫は私に尊い犠牲を払ってくださったではありませんか」  姫は眉をひそめた。 「犠牲? 背中を踏んだだけだが?」 「いや、ですから、その、呼吸を……」 「兄上の側近たちに、呼吸に合わせて足を持ちあげるよう指示はしたが。あれは傑作だったな。みな、慌てふためいておったぞ」 「お戯れを! 私はマジメなのですぞ!」  扉が大きく鳴った。 「開けよ! 早く、ここを開けよ!」  偉そうな男の声が聞こえた。  アプスの顔から血の気が失せる。 「誰です、あの男は」 「関係なかろう。帰れ」  姫は冷たく言い捨てると、扉に向かった。  許さん!  頭の中が真っ白になり、アプスは窓に手をかけて、優雅に室内に乱入した……つもりだった。しかし、気がつくと、床に不格好に四つん這いになり、上から女たちに取り押さえられていたのだった。 「何ヤツ! この無礼者はなんだ!」  扉から入ってきた男は、室内をひとめ見るなり、アプスに詰め寄った。 「王女の居室に入りこみ、命あって出られると思うな!」  アプスも四つん這いのまま怒鳴り返した。 「おっ、おまえこそ! 姫のなんだか知らないが、指一本触れてみろ! 生かして返さないぞ!」  姫は苦笑した。 「兄上。一度蘇生させたものを二度殺すこともありますまい。落ちつかれよ」 「これが落ちついていられるか! 誰だ、この男は! そなたから納得のある説明がなければ、今この場で八つ裂きにしてくれる!」 「兄上。こちらは国賓ですぞ。隣国の王子を八つ裂きにしては、また争いになりましょうや」 「なにっ!」  男はアプスを眺めまわした。 「あの生意気な小僧か。あのまま息絶えておればよかったものを!」  相手の男がパーヴ国王だということに、アプスもようやく気づいた。姫の兄となれば、話は別である。 「お、お待ちください! 私は命を救っていただいた礼を申しあげに参っただけで……」 「このような時刻にこのような場所へか! 申し開きが立つとでも思っておるのか!」  なぜ、これほど怒るのだろう?  アプスには理解できなかった。  どこの女だって、年頃になれば男のひとりやふたり、部屋にこっそり手引きするものではないか? 現に、自分が情けをかけてやった女たちの父や夫たちは、見て見ぬふりをしながら、忍びこみやすいよう取りはからってさえくれたではないか。  姫はため息をつくと、アプスに近づき、いきなり踏みつけた。足と床に腹がはさまれ、肺から空気が絞りだされる。抵抗する間もなく、姫のつま先がアプスの顎を蹴りあげた。 「これで、気道を確保。サミー、リリー、足を持ちあげておやり」  ふたりの女が駆けつけ、アプスの足を持ち上げ、尻につけた。動きに合わせて、姫が背を強く踏みつける。否が応でも、肺は呼吸を強いられる。 「私はこのようにしたのだがな。鈍い頭でも、ようやくおわかりいただけたか?」 「こ、これが人工……」 「さよう。口づけを与えたのでなく、残念だったな」  姫はローブの裾を翻し、奥の椅子に戻った。 「無礼は問わぬから、自室へ戻れ」 「いや、ならぬ!」  怒りの収まらぬ国王を、姫は押しとどめた。 「客間へ戻れ。さあ、早く」  アプスはがっくりと肩を落とした。姫は私に唇を許したのではなかったのだ。あの従者め! からかったな。戻ったらきっと……。  戻ったら?  背筋が凍った。 「帰り道がわかりません」 「来た道ではないか」 「姫を探すのに夢中で……。その……。教えていただけないでしょうか」 「バカにするにもほどがある!」  パーヴ国王が怒鳴った。顔は真っ赤に上気し、目は大きく剥いていた。 「表から、のこのこ帰れると思うか! 姫にどんな噂が立てられると思っておる! ましてや、そなたは臣下どもの前で姫に恥をかかせたのだぞ!」 「恥ですと?」 「とぼけるつもりか! 慕っているなどと申したではないか! この年になっても独り身でいることが、それほどおかしいか!」 「本気です! 私は本気で姫君をお慕い……」  姫は不興げに眉をひそめた。 「マム、サミー、このうつけ者を黙らせろ」 「はい、お姫さま」  ふたりの女がアプスに飛びかかってきた。驚くほどの腕力で、あっという間に後ろ手に縛られ、さるぐつわをはめられる。 「サミー、荷をワゴンに載せて、客室まで運ぶように」 「なるほど。荷を装って外に出そうというのか。そなたは相変わらず知恵が回る」 「なんの、浅知恵です。その後は煮て食おうと焼いて食おうと、ご随意に」 「そうだな、身のほどを知らせてやろう。名ばかりの王子に」  パーヴ国王が指の関節を鳴らすのを聞き、アプスは震えあがった。  姫が皮肉な笑みを浮かべた。 「名ばかりの身分という点では私も同じ。母は賤しい身分の女ですからな」 「そなたは違う!」  パーヴ国王は声を荒あげた。 「萌黄どのも、決して賤しい方などではない。おかわいそうな方なのだ」 「そうお思いなら、王太后さまにはっきりおっしゃったらいかがです? 陰でつぶやくだけなら、なんとでも」  サミーと呼ばれる背の高い女がワゴンを運んできた。アプスはそこへ移され、上から布をかぶせられた。 「命が惜しくば、身動きするな」  パーヴ国王に脅され、アプスは震えあがった。  ワゴンが動きだし、客室までは長い道のりだった。何度か衛兵に呼び止められたが、サミーは国王陛下の使いとか何やら理由をつけて難なく通りすぎた。 「以後、お気をつけあそばせ」  ようやく長い旅路に終わりを告げ、アプスは客室の床に置き去りにされた。春の間に従者の姿はなく、長い間、後ろ手にさるぐつわで転がることになった。陽が高く昇り、従者がどこかの女とともに起き出したころ、ようやく戒めを解かれた。 「強盗にでも会ったか?」  従者の嘲笑を浴びたが、体中が痛み、それどころではなかった。  仮眠をとり、着替えを済ませ、顔を洗い、身だしなみを整え、昼が過ぎ、茶の時間が過ぎても、一向に和睦の議に入る気配はなかった。 「何か、和睦のための申し入れは聞かなかったか? ここだけの話というヤツを?」  従者がソファで女とじゃれ合いながら訊ねた。どこの侍女か淑女か知れないが、従者は部屋を出るたびに新しい女を連れこんでいた。 「何も聞いてない」 「そうか。考えてみれば、おまえごときに交渉するわけがなかったな」  従者が嘲笑すると、女も合わせてかん高く笑った。  アプスはムッとして春の間を出た。  ちょうど通りがかった侍女が本を数冊抱えていた。乱暴に腕を振り、本を突き崩した。 「女のクセに生意気だ」  散らばった本を蹴飛ばし、アプスは場内を歩きまわった。立ち入れない場所が多く、衛兵に止められるたび、アプスの不機嫌さは増大した。あてどもなく歩いているうちに、いつの間にか馬場に迷いこんでいた。小柄なパロミノや、葦毛の大きな馬がつながれていた。  馬に乗ろう。とつぜんアプスは思った。この不愉快な城から出れば、少しは気が紛れるかも知れない。かまうもんか、どうせ自分は飾りだ。和議など従者とパーヴでよろしくやってればいいさ。  その時、葦毛の立派な馬が、背の高い黒髪の女を伴って現れた。  あの方だ!  アプスは夢中で駆け出した。 「姫! 姫!」  萌黄の君の娘は明らかに驚き、馬をなだめた。 「近づくな! この馬は気性が荒い。噛まれるぞ」  馬は威嚇の唸りをあげていた。アプスは二馬身ほど離れた辺りで立ち止まった。 「噛まれるなんて、ご冗談でしょう?」 「いっぺん噛まれてみるか?」  馬も睨むことがあるのだ、とアプスは思った。鼻に皺を寄せ、歯を剥きだし、目つきは鋭く、アプスから視線を外さない。 「いや、あの、遠慮しておきます……」 「それは賢明だ」  国王の妹は、厩の一角に行き、馬にブラシをかけ始めた。 「そんなこと、馬番にやらせればよいではありませんか。服が汚れます」  だが、王の妹姫が着ていたのは、粗末な町人の服だった。上衣もズボンも丈夫な茶色のキャンバス地で、汚れてどうこう言うような服でもない。 「お手が汚れます。馬番を呼びましょう」 「うるさい男だな。蛮族には蛮族のやりようというものがあるのだ」 「蛮族などと! 姫、そのように卑下してはなりません! たとえ母君が異国のお生まれでも、母君は前の国王陛下に愛されたではありませんか。姫はその愛娘! 前の国王陛下も、姫をいかほどに愛されたでしょう!」 「知ったげなことを」 「私にはわかります! どうして姫を愛さずにいられましょうか! こんなに麗しく聡明でおやさしい姫を! 姫の母君は心底高貴な方だったのです。でなくて、どうして前の国王陛下に愛されましょう! 姫の気高い美しさは、すべて、ひとえに前の国王陛下と高貴な母君さまの深い愛の賜物です。姫を見ればわかります! いいえ、誰にもわからなくとも、私にだけはよくわかります!」 「うつけは好かぬ。失せろ」  アプスは辺りを見回した。馬の他、何者も見あたらない。聞き間違いだろう。気にも留めず、アプスは続けた。 「姫、これからご一緒に城外へ参りませんか。供の者少々と、軽く馬で一回りいたしましょう。どこか景色の美しい場所へでかければ、姫の美しさもますますひきたちましょう」 「私は帰ってきたところだ。見てわからぬのか」 「え? あ、いや、それでは……」  アプスは口ごもった。 「隣国の人々は、みなそのようにうつけなのか? 兄上も、和睦など受け入れず、さっさとうつけ者を一掃なさればよいのだ」 「姫! なんてひどいことを! まるで、私には生きてる価値がないみたいではありませんか!」 「価値があるとでも思っておるのか?」  アプスは言葉を失った。目の前の麗人から、これほど冷たい言葉を浴びせられるとは思ってもみなかったのである。だが、隣国の姫は容赦しなかった。 「そなたの国では、死んでもよいと思うて、そなたを送りこんだのだろう? 体裁のために王子という肩書きをつけ、褒美に目がくらんだ貴族を供につけたのだろう? 我らはみな知っておる。とっとと帰って、そなたらの国王に言うがよい。和平を結びたいなら、王太子を使いによこせとな」 「そうだったのですか?」  自分の知らないことまで、この姫はよく知っている。アプスは驚嘆した。 「姫はまことに聡明でいらっしゃる。なんでもお見通しなのですな」 「皮肉か? 誰でも知っておるぞ」 「私は何も知りませんでした。しかし、今では、和平を結びたい気持ちは誰よりも強くなりました。姫の国とは戦いたくありません。国王陛下に会わせてください。和睦の議を開きましょう」 「うつけに用はない。とっとと帰れ」 「いいえ、帰りません」  姫は馬を厩に入れ、水と飼い葉を与えた。 「姫、どうか両国の和平のために国王陛下におとりなしを。もう二度と両国が争ってはいけません」  姫はアプスに見向きもしなかった。 「姫。私は心から和平を望んでいるのです。どうかお口添えを」  馬の世話をする間中、アプスは懇願し続けた。厩を出て館に入ってもまだアプスは懇願し続けた。途中で衛兵に止められると、大声で叫んだ。 「両国の和平のために、国王陛下におとりなしください! 姫!」  衛兵に軽々と取り押さえられるアプスを見て、姫は薄く笑った。 「兄上の寝所にでも忍びこんだらどうだ。お得意の笛でもきかせてさしあげるのだな」  衛兵に追い立てられ、アプスは力なくその場を退いた。  春の間に戻ると、従者の姿はなかった。どこかの淑女とお愉しみ中なのだろう、アプスは安堵しながら呼び鈴を鳴らした。誰も現れない。再び、今度は激しく鳴らした。やはり誰も現れない。幾度めかに、ついにアプスは狂ったように鳴らし続け、耳の奥が痺れるほどになってやっと、従者の寝室から乱れた服の少年が出てきた。 「うるさいぞ! 小姓は今、オレさまの用にかかりきりなのだ!」  リンネルのシャツをはだけたまま、少年の後ろから従者が出てきた。普段は整えられた長い巻き毛が乱れ、何をしていたかは想像に難くない。が、そんなことはどうでもいい。 「今すぐ、礼服を持って来い。国王陛下の御前でも失礼のない、きちんとした礼服だぞ。もし持って来なかったら、その白い背中に鞭を千回くれてやる。さあ、早く持って来い!」 「バカなことを言うな。なんの権限で……」 「黙れ! この使節の代表は誰だ? なんの爵位を持ってるか知らんが、それは王の息子より偉いのか? 文句があるなら、とっととリュウインに帰って父上に言いつけるがいい! だが、ここには父上はいないぞ!」  ふと、暖炉の上に目をやると、鞭が目に入った。従者の鞭だ。何度か使っているのを目にしたことがある。手に取り、床を打ち鳴らす。 「さあ、行け! さっさと礼服をとってくるんだ!」  少年は部屋を飛びだした。従者が足音荒くアプスに詰め寄った。 「勝手な真似を! まことの代表は私だぞ!」  鞭が大きく鳴った。 「パーヴが迎えに来たのは私だ。王の血を継ぐ私だ。リュウインではいざ知らず、ここでは、私の一言でおまえなど追い返すことができるんだぞ」 「何を血迷ったか……」 「もう、おまえなど必要ない!」  アプスは鞭を振った。従者の悲鳴が飛んだ。  鞭の扱い方には馴れていた。故郷には大勢の使用人や女子どもがおり、彼らに常に正しい教育を授けていたからだ。  少年が戻ってくるころには、従者は気を失って床に伏していた。少年は震えあがった。 「あの……もう一度、取りに行ってまいります」 「待て。二度も取りに行くことはないだろう」  アプスは少年の襟首をつかみ、持ってきた礼服を広げさせた。青を基調とした礼服だった。 「なんだ、これは!」  この服の何が悪いのかわからなかったが、怒鳴ってみせた。 「こんな物着られるか! 誰の差し金だ!」 「申しわけありません! すぐにリュウイン用のご衣装をご用意いたします!」 「待て。では、これはなんだ?」 「我が国の礼服でございます」  どこがどう違うのかはわからないが、国によって違いがあるのだろうか?  もう一度、試しに怒鳴ってみる。 「オレが訊いてるのはそんなことじゃない! とぼけるな!」 「も、申しわけありません! モーヴ殿下のお下がりでございます! お下がりをお召しになれば、リュウインの恥になるだろうと……。いえいえ、私が申したのではございません。モーヴ殿下の侍者たちが申したので……」  モーヴ殿下? 誰だろう? とりあえず、これも怒ってみよう。 「モーヴ殿下だと! オレは王子だぞ! あの野郎と、どっちが偉いと思ってる!」 「そ、それは、あの、モーヴ殿下も王子殿下であらせられますので……」 「オレは第三王子だぞ! 野郎は第、第……、いくつだったかな」 「第一五王子でございます」  あいつか! 自分を国境まで迎えに来、昨夜大勢の前で辱めた男だ。  不意に名案が浮かんだ。 「よし、その計略にのってやろう! オレは器が大きな男だ、小さなことは気にしない! おまえも手伝え!」  少年に手伝わせて青い礼服を着ると、暗褐色の髪を帽子に押しこんで栗色の巻き毛のつけ毛をつけた。 「国王陛下はどこだ」 「申しわけありません、存じません」  少年は震えながら応えた。 「シラを切るつもりか?」 「本当に存じないのです」 「役立たずが!」  アプスの右手が翻った。鞭がうなりをあげた。 「お許しを! お許しを!」  ほどなく、横たわった少年の上をまたいで、アプスは春の間を後にした。この国の王子の礼服に身を包んで。  帽子を目深にかぶり、アプスはややつま先立つように歩いた。気取ったように肩を振る。  衛兵はアプスを見ると、すんなりと道を開けた。おまけに敬礼つきである。  しめしめ。うまくいっているようだぞ。  アプスはつけひげの下でほくそ笑みながら、高い声音を作った。 「兄上は、国王陛下はどこにおいでだ?」  衛兵は首を傾げ、アプスを見つめた。  怪しまれたか?  背中を冷たいものが伝う。  長い凝視の後、衛兵は姿勢を正した。 「ただ今、鏡の間にいらっしゃいます。お供をお連れください。ご用心のために」  衛兵が呼び鈴を鳴らすと、見るからに屈強な体つきの男が奥からやってきた。  衛兵は重々しくうなずき、男に鏡の間までの道順を教えた。 「間違えるなよ。今言った通りに行くんだ。最後まで責任持ってお送りするんだぞ」  男はうなずき、先に立ってアプスを案内した。  よしよし。みんな、オレが第一五王子モーヴ殿下だと思ってるな。  計画が順調なことに、アプスは満足した。  行く先々で、衛兵は道を開けた。かなり歩いたが、気持ちのいい行程だった。  ようやく、鏡の間にたどり着く。 「お待ちしておりました」  広間の大扉が開かれると、中は光の洪水だった。奥に長い広間の片側は窓で、もう片側は一面の鏡だった。天井もまた一面の鏡張りで、そこから吊り下がった巨大なシャンデリアの灯を無数に映していた。  色とりどりの豪華な衣装をまとった人々が、グラスを片手に笑いさざめいている。あまりの騒がしさに、耳をふさぎたくなった。  アプスは帽子を改めて目深にかぶり直し、念入りに顔を隠した。道案内の屈強な男を廊下に残し、気合いを入れて広間に進み出る。国王は一番奥にいるはずだ。迷わず前へ進めばいい。  帽子で視界がさえぎられ、ただ足下だけを見て進む。何度もテーブルを迂回したが、人を避ける必要はなかった。さすがに、王子ともなれば、人は道を開けるものなのだ。これこそ、王子に対する扱いだ。心地よくパーヴ国王の前に進み出る。  白髪混じりの栗色の巻き毛、白と栗色のまだらの口ひげ、八の字に両端の下がった眉に、眠たそうなまぶた、頑固そうな大きいしし鼻。額には深い皺が数多く刻まれ、年の頃は五〇とも六〇とも見てとれた。  最初の謁見ではよく見なかったが、姫の部屋で見た顔は、たしかにこれだ。  よし! 奇襲開始!  アプスは帽子を脱いだ。 「ご機嫌うるわしゅう、国王陛下。この度は和睦の議を……」  場内に哄笑が起きた。 「和睦の議を……!」  怒鳴ったが、声はかき消された。  目の前のパーヴ国王も腹を押さえ、大口を開けて大笑いしている。アプスは顔を上気させ、周囲を盗み見た。着飾った一同は、ある者は扇で口元を隠し、ある者は身をふたつに折って、それぞれに笑い転げていた。 「たいした余興だ。感謝するぞ、国賓どの」  人々の陰からいまひとりの青衣の王子が現れ出た。本物のモーヴである。 「衛兵が、そなたの稚拙な変装を見抜き、わざわざ回り道させている間に、私の元へ報告したのだ。せっかくの茶番をふいにしては惜しいのでな、こうして皆で迎えてやったというわけだ。どうだ、私の下がりの着心地は」  おさまりかけていた場内の笑いがぶり返した。 「謀ったな!」  アプスは怒りに震えた。顔色は赤から青へと変わり、我を忘れてこぶしを振りあげる。 「許さん!」  繰り出した右手は、しかし、相手の顔面まで届かなかった。 「許さなかったら、どうなのだ?」  モーヴは嘲笑しながらこぶしを片手で受け止め、逆に腕をひねり返した。  アプスは悲鳴をあげた。 「リュウイン王家は臆病者よ。誰ひとり戦場に出向かず、和睦の申し入れすら、肩書きだけの青二才を送ってよこすのだからな。そのクセ、要求だけは一人前だ。国境を戦前のままに戻し、復旧のために金を貸せだと? おまけに、東方の国々と交易したいから通行料をなくせ、武力を縮小しろ、和平の印に人質を寄こせと言いたい放題だ」 「わ、私はそんなこと一言も……」 「王子殿下が何ひとつご存じないことも、こちらではすべて承知しておる」  モーヴに突き飛ばされ、アプスはぶざまに床に転がった。 「道々、王子として敬意を受け、いい気分だったか? 田舎育ちの臆病者よ。おまえは兵役を逃れて喜んだのだろうが、私は違う。進んで兵を率いたのだ。本物の王子とはそういうものよ」  なぜ、兵役を逃れたことまで! アプスは床に這いつくばったままパーヴの王子を見上げた。まるで伝承に出てくる巨人のように見えた。巨大な槌を持って世界を破壊し尽くすのだ。その一打ちで数多《あまた》の街が滅び、国も誇りも、生きる気力さえもすべて奪い去るのだ。 「おやおや、モーヴ殿下がふたりもおいでか。これはにぎやかで鼓膜が破れそうだ」  冷やかすような女の声がひときわ広間に通った。  姫だ!  アプスは跳ねるように飛び起きた。コマのように目にも止まらぬ素早さで辺りをぐるりと一望する。  いらした!  短い黒髪の姫は、鮮やかな緑色のドレスを身につけていた。肩から紗のマントを垂らしている他は飾りもなく、質素で物足りなくもあった。  考える前に駆け寄り、アプスはひざまずいていた。 「ご機嫌うるわしゅう……」 「これはこれはモーヴ殿下。膝をつくとはお珍しい」  姫がアプスに皮肉な笑みを投げかけた。 「悪ふざけがすぎるぞ」  パーヴ国王が困ったように眉根を寄せた。 「姫をください! 私にぜひください!」  思わずアプスは叫んでいた。 「パーヴ国王陛下! 姫が嫁げば、両国は親戚となり、和平の要となります! 姫のためなら、リュウイン王家を説得いたします、貴国に不利になるような条件は一切申しません。ですから、姫をください。人質になどいたしません。生涯命にかえてお守りします!」  場は静まり返った。アプスは目を血走らせ、肩で息をした。顔は上気して真っ赤だった。 「姫をください! 諾と一言おっしゃってください! それで和睦はなります。貴国の思うままになります!」 「はて。姫とは、どの姫だ? 姫と一口に申されてもな。名を言ってもらわぬと」  名! アプスは必死で考えた。姫の名! うるわしくも愛しい女性の名!  思い出せないのも道理、はなから聞いていないのだ。 「姫! 御名を教えてください!」  アプスは緑のドレスにすがろうとしたが、身をかわされた。 「それよりモーヴ殿下、何用で呼びつけられた?」 「とぼけるな!」  モーヴは怒鳴った。 「今朝、マーレーン塔を襲い、囚人をすべて解き放したではないか! 捕獲するのに、われわれがどれだけ奔走したと思う!」 「それはご苦労でしたな。しかし、モーヴ殿下の精鋭をもってすれば、たちまち一網打尽にできましたでしょう。ひとり残らず。違いますかな、モーヴ殿下」 「だっ、黙れ黙れ! 我が兵は戦うのが本分。罪人を捕らえるのが仕事ではないわ!」 「ほう。では、幾人かは取り逃がしたと?」 「黙れ黙れ! そもそもおまえが!」 「やめないか、双方とも」  パーヴ国王が手を振った。 「兄上! 今日こそは、こやつめを処断してください! おかばいになるにもほどがある!」 「まことに、その通り。別にかばいだてなさる必要などありませぬ。兄上。どうかご処断ください」  足を踏みならし腕を振り上げる王子とは対照的に、短髪の姫は身じろぎもせず不敵に笑った。 「いい加減にせぬか。双方とも、後で話がある。自室にさがって待つように」 「兄上、後と言わず、今すぐこの場で私の首を斬ったらいかがです?」 「レイカ!」  その時、アプスの両眼が見開いた。 「レイカ姫とおっしゃるのですね! ようやく御名を知った! 国王陛下! レイカ姫を私にください!」 「名前など言ったところで意味はない」  萌黄の君の娘が口の端をあげた。 「この国に王女はひとりしかおらぬのだからな」  えっ。  アプスは目を丸くしてパーヴ国王を見た。  しかし、さきほどは確かに『どの姫』と……。 「大事な我が末妹よ。うつけにはやらぬぞ」  パーヴ国王は冷ややかに言った。    七 幻の子  レイカは兄の説教を聞いていた。 「そなたはなぜ余を困らせる。なぜ、毎日出かけた先で厄介事をしでかし、モーヴを怒らせる。表立てて騒いでおるのはモーヴばかりだが、陰ではみな、そなたをよく思っておらぬぞ」 「存じております」 「では、なぜやめぬのだ。『蛮族の血が』と言うのは聞き飽きたぞ。そもそも、そなたの母君は物静かな御方だったし、そなたにしても今までそのようなことはなかったではないか。父上が亡くなり、私が即位してからだ、そなたが変わったのは。何を考えておる? 何が不満なのだ」 「何も」 「何もないわけはあるまい。そなたが気ままに愚行に走る性質でないことは、余がいちばんよく存じておるぞ」 「昔は昔。近ごろ急に蛮族の血が騒ぎだしましてな」 「レイカ!」  パーヴ国王カルヴは顔に手を当て、やがてあきらめたように懐から小さな笛を取りだした。それはリュウインの王子が手にしたものではない。あれはけっきょく返ってこなかった。似た別の笛である。 「兄上、笛を嗜まれるなら、国王の居室に戻られたらいかがです。新しい王妃候補たちが喜んで拝聴しに参るでしょう」 「気が散るだけだ。ここがもっとも気が休まる。家族といえるのは、もはやそなただけだからな」 「その台詞は、王太后陛下にお聞かせしたらいかがです。妻や息子たちを寺から帰してください、還俗させてくださいと」 「また、できないことを言う」 「ついでに、私も寺へやったらいかがです? 一生母の霊を弔い……、おっと、それは王太后陛下が許されないのでしたな。蛮族など魂がないのだから、弔ってもムダとか。本音をはっきりおっしゃればよいのに。憎い妾婦など成仏させるな、憎い妾腹の子に夫の魂でも弔われては言語道断、そもそも妾腹の子は、夫の血を継いでいるかも怪しいと」 「レイカ!」  カルヴは声を荒上げた。 「そなたは確かに父上の子だ。私のたったひとりの妹だ」 「でしょうな! 母は私の後に決して子をなさなかったから。私のように我が子を人質に取られるのを恐れて」 「私はそなたを人質として見たことはないぞ。父上と萌黄どのから預かった、大事な妹だ」 「だが、父も母もすでにない。もう預かる必要はございませぬぞ。いつまでも昔日を懐かしんでいては、将来を見失うやも知れませぬ。気がつけば陛下の首も胴から離れてるなどという事態にならぬよう、災いの芽はお摘みくださるよう」 「そなたが余の首をはねるとでも言うのか。バカバカしい。それより、王妃が決まったら、そなたの婿探しでもしてやろう。好いた男のひとりやふたりおらぬのか?」 「黄牛《あめうし》亭というメシ屋をご存じですか?」 「レイカ、余は婿の話をしておるのだぞ」 「王都にある小さなメシ屋で、老夫婦がきりもりしております。ここに出入りする若い肉屋がおりましてな、私はその男を気に入っております」 「肉屋! 肉屋だと!」  カルヴは唸った。 「平民の、よりにもよって肉屋とは……。ううむ。誰か適当な貴族の養子に入れ、伯爵辺りの爵位をくれてやるか……。いやいや、ここは東の小国のいずれかに話をつけ、どこかの王家の養子にとらせ、他国の王子として婿入りさせるか……」 「肉屋に貴族の暮らしはできますまいよ」  レイカは小バカにしたように笑った。 「ふたり、手に手を取り、異国にでも逃れましょう。そうですな、蛮族の国にでも帰りましょうか」 「バカな! 見ておれ、余がうまくまとめてやる!」  カルヴは足音も荒く、レイカの居室を出ていった。 「お姫さま、よろしいんですか? あんなデタラメおっしゃって」  入れ違いに侍女のマムが入ってきた。テーブルの上の飲み物を片づける。 「よいのだ。少しは兄上も暇つぶしができよう」 「でもねえ、黄牛亭をきりもりしているのは老夫婦じゃなく若夫婦ですし、出入りしてる肉屋なんて頭の禿げあがったいい年の男じゃありませんか。たちどころにバレますよ」 「それなら、また次の話を考えよう。そうだな。今度は牛飼いか異国の旅芸人にでもするか」  レイカは笑ったが、侍女のほうは眉根を寄せた。 「お姫さま、もうおやめください。毎日、私どもは命が縮む思いがいたします。どこか田舎に小さな家をいただいて、そこでひっそりと暮らしましょう。私どももお供いたしますから」 「ありがとう、マム」  しかし、そうもいくまい。レイカは心の中で思った。 「お姫さま、クレス公爵さまがお出でです。お会いになりますか?」  年若い侍女が入ってくる。 「会おう。リリー、おまえは厨房へ行ってサミーの手伝いをしておいで。マム、お前も外へ出ておいで」 「お姫さま、あんな男ども、今すぐ叩き出してやります。どうせよからぬことを企んで、お姫さまにロクでもないことを吹きこむに違いないんですから!」  恰幅のいい侍女が、腕まくりしている袖をさらにたくしあげた。 「マム、クレス公はおまえに厭われることをしでかしたかな?」 「いいえ! でもね、貴族なんてのはロクでもないに決まってるんです!」 「ならば私はもっとロクでもない。王家は貴族どもの親玉だからな」 「お姫さまは違います! 私どもを助けてくださり、おそばに置いてくださった!」 「おまえたちがそばに仕えたいと言ってきかなかったのだろう? そのためにそれぞれ貴族の養女とし、爵位を与えた。王族に仕えるにはそれなりの身分が必要だったからだが、考えてみれば、おまえたちも貴族の一員というわけだ」 「魂まで売ったわけではありませんよ!」  マムは憤然として答えた。 「実をとるために、便宜上合わせただけです。まったく、貴族の決め事というのはバカバカしいったらありゃしませんよ!」 「同感だ」  レイカは笑った。 「ともかく、おまえも出てお行き。客人が待ちかねておる」  侍女を追い出して客間へ入ると、立派な身なりの男が三人、扉の前で待ちかまえていた。 「王女殿下、ご機嫌うるわしゅう」  リボンや鳥の羽、小動物のしっぽなどをあしらったつば広の大きな帽子を胸に当て、仰々しくお辞儀をする。 「前置きは抜きだ。本題へ入ったがよかろう」 「その前にお人払いを」 「侍女たちは外へ使いに出した。今、ここにおるのは私とそなたたちだけだ」 「では」  勧められて、ふたりがソファに腰かけた。もっとも若いひとりは見張りに立つため部屋を出た。 「では、お言葉に甘えまして、さっそく本題に入らせていただきます。計画は順調に進んでおります。新たに三名が馳せ参じました」  もっとも年をとった貫禄のある男が口を切った。光沢のある上衣の袖は大きくふくらみ、スリットから金箔が見え隠れした。クレス公。母の後見人。先王在位の時代、権力をほしいままにした男だ。その口から幾人もの貴族の名が並べられる。  コレット公の名があげられた時、レイカは片眉をあげた。  コレット公は王太后の重鎮である。何の気まぐれで寝返るのか? 「コレット公も、ようやく我々が多勢であることに気づき、恐れをなしたのです。敗けるほうにつくほど愚鈍ではないということですな!」  クレス公はふんぞり返って笑った。  レイカは釈然としなかった。しかし、追及する必要もあるまい。 冷たい眼差しを向ける。 「何度も言うようだが、王位に興味はない」 「王女殿下は何もなさらなくてよいのです。ただ我々の上に坐してさえくだされば。前の国王ナージャ陛下亡き後、このままでは王太后陛下に何もかも奪われてしまいますぞ。王女殿下も例外ではありますまい。私とて、王女殿下と命運を同じくするでしょう」  同情はする、とレイカは思った。  この男は、母の後見役を押しつけられたのだ。売られてきた蛮族の奴隷女を寵姫にするには貴族の身分が必要だった。前の国王はクレス公に母を養女としてとらせ、伯爵夫人の称号を与えたのだ。  前の国王亡き今、寵姫の後見人は、王太后による弾圧の筆頭にあげられていた。保身のために必死になるのもムリはない。  しかし、今からすなおに王太后に頭を垂れれば、家は取りつぶされずに済むかも知れない。この二〇余年、我が世の春を謳歌してきたのだから、もう、それでいいではないか。 「幾度も申したように、兄上に向ける刃は持ち合わせておらぬ。また、今、国がふたつに割れれば、隣国につけいるスキを与えようぞ」 「隣国と和平を結ぶのです。密かに」  クレス公は目をギラつかせながら声を潜めた。 「現国王陛下は、事を有利に運ぶため、隣国を焦らしておいでです。そのスキを突くのです。我々に味方すれば和睦してやると囁けば、隣国は尻尾を振って従うでしょう」 「隣国がおとなしく従うものかな?」 「ご心配には及びません。もともとこの度の戦争は、両国とも先代の国王同士が始めたもの。今や世代は変わったのですから、つまらぬしこりは取り払われたはず。愚かな真似はしますまい」 「どちらが愚かだろうな」 「は? どちらかと言えば隣国でしょうな! あのようなうつけ者を大使によこすのですから!」  そのような意味ではないのだが。  レイカは苦虫をかみつぶしたような顔をしたが、クレス公は得意そうに弁舌をふるった。 「まったく、あの王子といい、ハモンディ公といい、隣国の者どもはマヌケぞろいですな! ハモンディ公ときたら、毎日寝室にこもり連戦ときている! おかげで事情は筒抜けですがな。よもや敵娼《あいかた》が密偵だとは思いますまい。王子は王子で、礼儀もわきまえず、このうえもなく見苦しい! いっそ、王女殿下、あの者を掌中に収めておしまいになっては? 役に立つかも知れませんぞ」  レイカは皮肉たっぷりに笑った。 「たぶらかせと? 母が父にしたようにか?」 「いや、めっそうもない! 萌黄の方は決してそのような……」  突如、叫び声ともわめき声ともつかない奇声が、扉の外で響きわたった。室内に緊張が走る。 「か、隠れなくては!」  クレス公らが立ちあがり、逃げ場所を探す。 「許さぬ! 許さぬぞ!」  喉から絞り出すような絶叫に、レイカは眉をひそめた。 「ここにおれ。私が出る」  部屋を出ると、見張り役の若い男に、さらに若い暗褐色の男が捕らえられていた。 「おまえなど、私がこの手で切り刻み、魚の餌にしてくれるわ!」  後ろ手にはがいじめにされながら、口汚く悪態をつく。 「また、そなたか。今度は帰り道を覚えておるのだろうな」 「レイカ姫!」  男の暗褐色の眼が、熱を帯びてレイカに突き刺さった。 「この無礼な男はなんです? こともあろうに、姫の部屋にいるとは!」 「無礼者はどちらだ。それとも隣国では、淑女の部屋に忍びこむのが礼儀なのか?」 「私は正式に求婚したのですぞ! 恋しい人の元へ馳せ参じるのは当然じゃありませんか!」 「兄上も私も応じた覚えはないが」 「しかし、拒絶もされていない!」 「兄上ははっきり断ったぞ。私も同様よ。うつけは好かぬ。そなたのような国賊は特にな」 「国賊ですと! 私のどこが! では、姫はどのような御仁ならお好みなのです!」 「そうだな」  隣国の王子を後ろ手に捕らえている若い貴族の肩に手を置く。 「これぐらいの男ぶりならば。紹介しよう。私の許婚者どのだ」  捕り手が目を丸くしてレイカを見た。手が緩み、無礼な侵入者は解き放たれた。隣国の王子はその場に力なく座りこんだ。 「そ、そんな、そんなこと、一言も……」 「そなたに話す義理などあろうか? とっとと出ていけ」 「し、しかし、婚約だけでしょう? 取り消してください! 姫はまだまことの愛を知らないのだ!」 「ほう。そなたの国では約束は反故《ほご》にしてもよいのか。では、和睦もアテにはなるまいて」 「い、いや、その……」 「もう一度、いや、幾度でも言おう。私はそなたを好かぬ。限りなく厭わしい。近寄るな。これからはせいぜい警備を固めるとしよう。近づかれて無恥が伝染るといけない」 「レイカ姫!」  隣国の王子はすがりつくように腕を伸ばしたが、即席許婚者が叩き落とした。 「無礼者! 誰の許しを得て御名を口にするか! 王女殿下と呼べ!」  年下の王子は顔色を失い、若い貴族につかみかかった。が、た易く蹴飛ばされ、床を転がった。  この国の貴族が王女の肩を抱いた。 「我が許婚者に手出しをするというなら、今この場で災いの種を斬り捨ててくれる!」  細剣を抜くと、隣国の王子は飛びあがった。たちまち窓の外に飛びだす。若き貴族は窓辺まで追いかけ、細剣を振り回した。暗褐色の髪は闇に溶けていった。 「たいへんご無礼をいたしました」  窓の鍵をかけると、若き貴族は栗色の巻き毛を垂らしてひざまずいた。 「いや、戯れにつきあわせて悪かった」  客間からクレス公らが現れた。 「殿下、なんと軽率な! あれでは隣国を利用できませぬぞ!」 「では部屋に引き留めよと申すか? そしてこの場でそなたたちを紹介でもするか?」  レイカは皮肉っぽく笑った。 「そろそろ戻ったほうがよかろう。また邪魔が入るかも知れぬ」 「しかし……」 「私も疲れた。早く寝みたいのでな」 「御意」  しぶしぶと、反王太后派の頭目たちは引きあげた。  レイカは大きなため息をつき、ベッドに腰かけた。 『この国を滅ぼしてしまえ』  ふと、憎しみに燃えた黒い眼が、闇の中から己を見つめているような気がした。 『あの愚王は草原の女を支配したつもりになっている。そうではなく、草原の民がこの国を征服したのだと思い知らせてやれ』  遙けき、どこにあるとも知れぬ幻の国の言葉が子守歌のように何度も繰り返された。  兄の家庭に預けられ、毎日昼間の数時間だけ、母に面会させられた。我が身に瓜ふたつの女が剣と馬を用意して待っていた。 『強くなれ』  母は頑なに郷《くに》の言葉を守った。 『この国を滅ぼしてしまえ』  憎悪に満ちた双眸が、強烈な生気を放っていた。  草原流の剣技と馬術を叩きこみながら、時の寵姫は語った。 『奴隷だった男と村を逃げ出したところを人買いに捕らえられたのだ。勇敢な男だった。まことに強かった。しかし、剣が折れ、弓で射られて死んだ。馬と女は捕らえられ、この国に売られた。あの時、剣が折れさえしなかったら!』  母はそう言ってひとつの長剣を娘に授けた。鞘に金銀細工が施された豪華な剣で、とりわけ飾りの大粒のサファイヤとルビーは圧巻だった。いぶしたような色の金属部はくもりなく磨きあげられ、年代物ながらよく手入れされているのを物語っている。刀身を抜き放つと、並外れて長い刃が現れた。よく焼きこまれており、刀鍛冶の意気込みが感じられた。 『草原で使われる剣に近い。この国の細剣など玩具のようなものよ。おまえはこの剣を使って、この国を征服するがいい』  母からもらい受けた剣は、今、枕元に置いてある。草原流の剣術は、細剣を用いるこの国の剣術とかけ離れていた。容易に太刀を合わせる相手は見つからなかったが、剣術師範の子息で細剣に物足りなさを感じていたイリム子爵が申し出てくれた。ふたりで改良型の剣術を編み出すのは楽しい。しかし、剣術だけで国を征服できるわけもない。  この剣には、もうひとつの価値があった。かつて、建国の祖の愛剣だったのだ。その後、祖の打ち建てた国はふたつに分裂し、西はリュウイン、東はパーヴとなった。鞘のルビーはリュウインを、サファイヤはパーヴを表す。元来は、双子の王が東西に分かれて治めながらも、その絆の深さを誓うために、ひとつの鞘にふたつの石を埋めこんだのだという。  しかしながら、この剣の所有権をめぐり、今まで幾度となく戦争がくり返されてきた。先ごろの戦争も、リュウインがこの剣の所有権を主張したのが発端だった。  その剣を寵姫に与えたのだから、先王ナージャの溺愛ぶりがうかがい知れるだろう。  これが、反王太后派の大義名分になった。王は、寵姫の娘にこそ王位を継承させるつもりだったのだと。  つまらぬことになった。  レイカは深くため息をついた。  今さら、たかだか剣の一本、国王に返上したところで、反王太后派がおとなしくなるとは思えぬ。彼らが欲しているのは自己の利権を守るための大義名分だ。剣がなければ別の物を探し出してくるに決まっている。  だが、もし自分が王位を欲するとすれば、この剣ほど確かな大義名分はなかろう。 『この国を滅ぼしてしまえ』  黒い眼が闇から睨みつけているような気がして、レイカは両の二の腕をさすった。 『おまえは王女だ。王の娘だ。王位を継承するのだ。よいな、誰がなんと言おうと、おまえは王の娘だ』  死ぬ間際、病床で何度も母は言い聞かせた。かけおちした草原の勇者の子だからこそ、剣や馬を仕込んだのではないか? 殺された恋人の怨みを晴らすために、『国を滅ぼせ』と言ったのではないか?  憎悪と怨念のこもった妖しい眼を思い出すたび、自分は王の娘ではないのだと、確信に似た思いが胸によぎる。  真実は明らかではない。  ただ確かなのは、自分は寵姫の娘であり、意志に関わらず、反王太后派の頭目に担ぎ出されるということだ。 「いっそ、兄上が討ってくだされば」  レイカはひとりごちた。 「兄上が私を討ってくだされば、すべては丸くおさまるのだ」  反王太后派は求心力を失い、また決断力のある国王に恐れをなしてなりを潜めるだろう。国は分裂を逃れ、国王の政権も安定する。 「そのために、奇行をくり返されるのですか?」  不意に、男の声がした。レイカは剣を抜き、窓を開けた。 「まだおったか!」  剣を喉元につきつけられ、声の主は目を白黒させていた。暗褐色の髪が剣に触れ、わずかに空を舞う。 「か、必ず幸せにします」  隣国の王子は刃を見ながら震える声で言った。 「死ぬぐらいなら、私の元へ来てください。所領は小さく辺鄙ですが、必ず幸せにします!」 「しつこいヤツだ。許婚者がおると申したではないか」 「あいつじゃ幸せになれないから死に急がれるんでしょう? 私なら、姫を悩ませたりはしません! 必ず幸せにします!」  レイカは大声で笑いだした。 「お姫さま、いかがなさいました!」  戻ってきたのか、侍女のマムが飛びこんできた。 「まあ! またこのコソドロまがいめが!」  レイカはいっそう笑った。 「二度と現れぬよう、念入りに叩きのめしてやるがいい」 「はい。サミー、リリー、おいで!」  三人の侍女が招かれざる客を追いまわしている間、レイカは笑い続けた。 「何がそんなにおかしいんでございますか?」  侵入者を庭から追いだして、マムが訊ねた。 「うん、端から見れば、私も恋に悩める乙女に見えるのかな」 「何をおっしゃいます!」  憤然としてマムは言った。 「お姫さまに限って、恋の悩みなどにご縁はございませんでしょう! いったいどこの殿方がお姫さまの申し出を断るっていうんです!」  レイカはまた声をたてて笑った。  みな、見たいように見るのだ。人の目に映る姿は、受け手の願望にゆがめられるのだ。母が見た自分も、反王太后派が見る自分も、兄が見る自分も。  他の誰でもなく我が身のことであろうに、それらは止めることができないのだ。  翌夕、またひと騒動を起こして帰ってくると、厩で暗褐色の髪の若者が待ちかまえていた。 「レイカ姫!」 「また、そなたか」  レイカは衛兵を呼んだ。 「寄るな、触るな、無恥が伝染る」  王子はたちまち衛兵にとりおさえられ、そのわめき声を背に、レイカは館内に入った。 「王女殿下、国王陛下よりご伝言がございます」  館内の入口で若い貴族がひざまずいた。 「話なら奥で聞く。ここは騒がしいのでな」  外のわめきから一刻も早く逃れようと、レイカは足を速めた。 「すぐに済みます」  貴族が後ろから追いかけてくる。 「私は兄上からの伝言を聞く場所すら選べぬのか?」 「いえ、そのような」 「そなた、あのうつけの声を晩餐会の音楽と同列に扱っているのではあるまいな。だとしたら、あの楽曲は音階の狂ったリュートより悪い」 「それは……」 「あれは調弦すれば直るというシロモノではないぞ。自分の欲のためには国まで売ると申したのだ。あれは国民《くにたみ》のことなど考えたことがないに相違ない。たかがひとりの女を得るために、悪魔に進んで魂を差しだす男よ。己のくだらぬ魂をな!」  先王と何が違う? たったひとりの頑なな女の心を動かすために、国宝の剣を与え、国の行く末を揺るがした。国政をおろそかにし、国が割れる状況を進んで生みだした。  為すべきことを為さず、自らの快楽だけをむさぼった! 「畏れながら、王女殿下、この辺りでよろしいでしょうか」  気づくと、痴れ者の声は聞こえなくなっていた。レイカは怒りに我を忘れた己を恥じた。 「よい。用件は何か」  若い貴族はひざまずき、挨拶の口上を述べた後、王太后の元へ参内するようにとの旨を伝えた。  レイカは眉をひそめた。  王太后は先王の妃で、現王カルヴの生母である。嫉妬深く、萌黄の方が若くして逝去した折りには、王太后が呪い殺したのだろうと噂されたものだ。  なぜ、憎き寵姫の娘など呼びだすのだろう? 連日の悪行に立腹したものか?  まっすぐに王太后が待つ青の間に向かった。 「困ります。そのような身なりでは」  扉に立つ衛兵たちが案の定行く手をさえぎった。 「構うな。退け」  土埃にまみれた町民の身なりのまま、レイカは青の間に押し入った。  室内のもっとも奥に王太后の姿を認めて頭を垂れる。 「王太后陛下、ご機嫌うるわしゅう。このような身なりで失礼いたします。お急ぎとうかがったもので」  王太后は眉をしかめたが、眉間に刻まれた無数の皺に何本か線が加わったところで、今さら目立とうか? 広い額にも深い皺が幾本も刻まれ、口角は下がり、落ちくぼんだ目元の中で茶褐色の眼が異様な光を放っていた。 「申しわけありません、母上。すぐに着替えさせます」  唯一の実子である国王があわてて詫びた。 「レイカ、無礼を詫びて退がりなさい」 「よい、息子よ」  王太后がさえぎった。  御年七五歳、先王より七歳上の妃である。美貌であったという噂はきかない。国内を安定させるため、当時有力貴族の娘であった王太后が輿入れしたと聞く。若いころから放蕩三昧だった花婿のほうは、花嫁が男子を産み落とすと、これで義務を果たしたとばかりに二度とその寝所に足を運ばなかったという。  さぞかし、かわいげがなかったのだろう、とレイカは想う。  一分のスキもなく塗り固められた顔、小柄なはずなのに威圧的で大きく見える姿、なにもかも母とは対照的だ。母は大柄な人だったが、いつも泣き暮らし、王の名を耳にするだけで蒼ざめた。激しい憎悪を抱きながらも、ひどく恐れていたのだ。  かわいげのない点では、自分も同じか。内心苦笑する。 「いかにも蛮族の娘らしい。血は争えぬな。本来なら一生目通りのかなわぬ身分だが、こと、国の行く末に関わる大問題じゃ、多少の無礼には目をつぶろう」  王太后は息子に向かって言った。 「妾は和平を望んでおる。兵には、槍を鋤《すき》に持ち替え、畑を耕してもらわねばならぬ。生産と交易に力を入れ、国庫を潤さねばならぬ。そのためには隣国と和睦し、軍備を縮小し、商人を保護せねばならぬ。わかるな」  レイカはモーヴを盗み見た。すぐ上の五つ違いの兄は、頭を垂れながら悔しげに奥歯を噛みしめていた。軍の総責任者は国王だが、精鋭部隊を指揮するモーヴのほうが軍事には積極的だった。兵士達の人望も厚い。軍備縮小は、モーヴの配下を減らすことに他ならなかった。おもしろいはずがない。  青の間にはカルヴとモーヴを入れて四人の兄たちが立ち並んでいたが、ひどく静まり返り、王太后の太い声はよく響いた。 「息子や、妾はこの国の行く末をまことに案じておる。このたびの戦いは隣国の言いがかりによるものだ。今さら和睦を申し入れてまいったからと言って、我が国が譲歩してやるいわれはない。聞くところによれば、隣国は勝手な申し出をしているというではないか。許してはならぬ」 「御意」  国王が答えた。 「使節にはこちらの条件を伝え、追い返します」 「息子や、妾はまことに国の行く末を案じておる。よい申し出をした使者を追い返すのはどうかと思うがの」 「と言いますと?」 「我が国の条件をすべて飲むと申した使者がおったと聞いたが」 「はい。しかし、あれは口先ばかりで実行する力など……」 「実行させればよい」 「は?」 「命ずるのだ。さすれば隣国は内乱となろう。使者が勝てば我が国の傀儡として使えようし、劣勢ならば内乱に乗じて攻め入ればよい。どちらにしろ、隣国は我が国のものとなり、ピートリークの再興がなろうぞ」 「しかし、あの使者にそのような気力がありますかどうか……」 「そんなものは要らぬ。状況を膳立てしてやればよいのだ。内乱を起こさざるを得ぬ状況を」 「と申しますと?」 「使者が帰った後で、風聞を流すのだ。使者が国を売ったと。まるっきりウソではあるまい?」 「確かに、我が国が放った密偵を使えば、た易いことですが……」 「そこへ、身近な者にあおり立てさせるのだ。このままでは殺されてしまう。反旗を翻すのだと。後は筋書き通りよ」 「見事な筋書きではありますが……誰に煽動させるのです」  国王の目が気弱に泳ぐ。 「そこにおるではないか」  カルヴは目をつぶった。 「息子や、妾はまことにこの国の行く末を案じておる。だからこそ、先王の息子たちをこの場に呼んだのだ。そなたを頭上に戴き、一致団結しなければならぬ。そこの女も先王の娘と称するなら、相応の役目を果たしてもらわねばのう」  カルヴは目を開いたが、床から視線を上げることができなかった。両のこぶしを握りしめ、声を絞り出したが、か細く震えていた。 「い、命のき、危険が……」 「王子とて戦場に出れば同じことよ。女子だけが免れようというのか? たとえ血の半分が、いや全身に賤しい血が流れていようと、王の血縁を語るなら、国のために働かずしてなんとする!」  辺りは静まり返った。緊迫した空気の中、身動きする者はなかった。  やにわに、乾いた拍手の音が響いた。 「ご立派な演説ですな。感涙にむせびそうになりましたぞ」  レイカは拍手の手を止め、嘲るように口の端をあげた。 「はっきりおっしゃったらいかがか。憎い女の娘など、異国でのたれ死ぬがよいと。私が謀略に荷担するなどと、本気でお思いか? 母とも慕っていた前王妃や兄のような王子たちを寺院に追いやった御身の言うことを」  迷わずまっすぐに王太后の前へ歩み寄る。  凍りついた一同をよそに、レイカは手をあげた。  肉を打つ鋭い音が幾度も響いた。 「国のために献身するのが王族の務めなら、御身自ら実践なさったらいかがか。今すぐ遠方の寺院にこもり、国政に干渉することをやめて、ひっそり余生を過ごされよ。御身の犠牲になった数多《あまた》の人々の霊に許しを乞うがいい」 「こっ、殺される! 誰ぞ! 誰ぞ!」 「頬を張った程度で人が死ぬものか。御身が誰よりもご存じであろう」  レイカは駆け寄った衛兵を交わして扉を開けた。 「逃げはせぬ。自室で沙汰を待つ」  身を翻して茫然自失の王族たちを後にした。  湯浴みを済ませ、清潔な衣類に袖を通した。 「まあ、お姫さま、それはお誕生日に国王陛下から賜ったドレスではありませんか。いかがなさいました」  マムが目を丸くする。 「マム、王太后を存じておるか?」 「そりゃあ、まだ離宮におりましたころは。敷地が小さく、出入りも厳しくありませんでしたからね、当時王太子であられた今の国王陛下のところに足しげく通いあそばされた御姿を、そりゃあ何度も何度もお見かけしましたよ」 「威張りくさったチビな婆さんだったな。息つく暇なく怒鳴り散らして、何故こんな醜悪な婆さんに兄上が頭を下げているのかわからなかった。今でもわからぬ」 「ご存じなくて結構でございますよ。一生、正式にお目通りすることなんてないんでございますから」  レイカは自嘲的に笑った。 「マムや、私のすぐ上の兄弟のモーヴ殿下は第一五王子だったな?」 「はい」 「今日、私の兄弟たちが勢揃いしていたが、四人しかおらなかった。なぜだ?」 「ご病気で、お小さいころに、みなさま亡くなったのです。ご存じでございましょう?」  マムは不安げに答えた。 「では、先王の弟たちはどうだ? 誰ひとり生き残っておらぬ」 「それもご病気で……」 「八人いた弟たちがすべてか? 兄上が生まれてから矢継ぎ早にだぞ」 「お姫さま! この世には口にしてよいことと悪いことがあります!」 「おや、おまえらしくもない。神聖な王族を批判するなとでも?」  レイカはからかうように笑った。マムは眉を八の字にひそめた。 「お命を危うくするような言葉はお慎みくださいませ! 王族や貴族なんかどうなっても構いやしませんが、お姫さまのお命が関わるとなれば話は別です!」 「あの小さな老人の影に、みな怯えるだな」  レイカは声をたてて笑った。 「じきに兄上が来る。茶の仕度をしておくれ」 「お約束なさったのですか?」  マムのまなざしが揺れる。 「何も心配することはないのだよ」 「ですが、あんなお話をなさったものですから」 「王太后がなんだ。小さな老人ではないか。王族があの生意気なツラをひとつずつ張り倒してしまえばおとなしくなるさ。実態は小さなものだよ」  国をふたつに分けて争うことはない。王族がしっかりしていれば、利権をむさぼる貴族どもに利用されずに済むものを。  膝にのせた由緒ある宝剣を眺める。大粒のサファイヤとルビーがきらめいた。  ピートリークを再興すると、王太后は言ったな。愚かなことだ。  遙けき昔、パーヴと隣国リュウインはピートリークというひとつの国だった。  このたびの戦争も、リュウインがこの剣を手に入れ、ピートリークを再興しようと謀ってのことだった。  リュウインの王都ロックルールの郊外に、祖が根をおろした場所がある。水清く、夏になればヒースの花で地が埋まるという。そこには酒の蒸留所があり、泥を燃やして香りづけをする。ただの泥ではない。ヒースが堆積してできた芳しい泥だ。これをピートリークと呼ぶ。  特産の酒によって経済を支えた小国は、富の源の名をとってピートリークと呼ばれた。後に双子の王が国を分かつ時まで。  ピートリークの名に欲望は似合わない。  その元となるヒースは、パーヴ北部地域の、野といわず街といわず、どこにでも茂っている。城の中庭も例外ではない。夏になると、赤や紫の小さな花が一面に咲き乱れる。派手さはないが、可憐な美しい花である。リュウインでは白い花が咲くそうだ。緑の葉に花の白が映えて、その美しさはいかばかりだろう。  だが、その光景を見ることはあるまい。じきに兄が来て、死罪を言いわたすに違いない。王太后への不敬行為を理由に。  それとも、四人の王子がとつじょ目覚めて王太后に反旗を翻すだろうか? まさか。 「姫。レイカ姫」  窓を叩く音がした。  マムが部屋の隅からホウキを持ち出した。 「庭の警備はどうなってるんでしょうね! 固めるように強く申しましたのに!」 「そうだな」  油断しているならともかく、我が国の衛兵がこんな無能な侵入者をみすみす見逃すだろうか? 相手は隣国のうつけだぞ?  厭な予感がした。 「マム、退がっておいで」 「でも、お姫さま……」 「言うとおりにおし!」  レイカは膝の剣を抜いた。壁の燭台の灯が揺れ、刃が赤くきらめいた。恰幅のいい侍女は青ざめ、部屋の隅まで後ずさりした。 「衣装箱の陰に隠れておいで」  侍女が従うのを確認した後、王女は窓際に寄り、壁に身を潜めながら、剣先で窓を突いた。  勢いよく開いた窓から、何かが風を切って飛びこんできた。室内の家具や床に矢が数本突き刺さった。  男の悲鳴が聞こえた。  隣国のうつけだな。レイカは察した。  おとりに使われ、ついに命を落としたか。  壁際から外をうかがうと、やじりが七つ、灌木の中から突き出ていた。 「マム、弓を」 「はい」  侍女はベッドの下から矢筒と弓を引きだし、勢いよく床を滑らせた。  王女は弓を拾いあげ、矢をつがえた。灌木の中へ次々と矢が吸いこまれた。 「ムダな抵抗はやめて観念しろ! こちらは多数だぞ!」  反撃がやみ、居丈高な声が響いた。 「城内で射殺とは穏やかではないな、モーヴ殿下」  王女は矢を放った。  モーヴが灌木の間から姿を現した。大きくふくらんだ袖の端を、矢が貫いていた。 「城内で敵国と内通するよりは穏やかなものよ」  内通ときたか。レイカは苦笑した。 「内通の現場に踏みこまれ、逆上し抵抗したためやむなく誅殺されたと、墓碑には刻んでやる」 「ひとつ訊ねるが、国王陛下からの勅書はあるのか」 「そんなものは必要ない。反逆者め、出てこい。オレが直々に相手になってやろう」 「兄上のご命令でなくば、容赦する必要はないな」  灌木の中でやじりが三つ、室内から漏れる灯りを受けてきらめいた。  レイカは弓に矢をつがえた。 「常勝将軍モーヴ殿下、勝つためには自らおとりに立たれるというわけか」  弓を引き絞り、矢を放つ。  やじりがひとつ、灌木の茂みに沈んだ。 「それもやむを得まい」 「その細剣で、我がピートリークの宝剣に太刀打ちできるはずはないからな」  矢を放つ。ふたつめのやじりが消え、かわりに三つめがレイカの首めがけ飛来した。顔をわずかにそむけると、壁に突き立ったのか、矢羽の震える音色が響いた。 「だが、わざわざ宝剣を持ち出すこともあるまい、剣ではなく腕の差だからな。せいぜい部下の弓に守ってもらうがよい」  三つめのやじりが放たれた場所に射返す。 「きさまごときが、軍神とあおがれるオレをうち負かすだと?」  モーヴは身をのけぞらせ、肩をいからせて不自然なほどに大きく笑った。目が左右に泳ぎ、灌木の中を探っていた。めあてのものはなかなか見つからないようだった。 「女のクセに生意気な。きさまこそ、まともに対峙できず、日々姑息な手段に訴えているのではないか!」  モーヴの目が止まった。茂みの一点を凝視し、意味ありげな笑みをたたえる。 「まあ、いい。相手をしてやろう。出てこい」 「光栄なことだ」  レイカは弓を捨て、窓から身を踊らせかけた。 「ひ、ひめ……」  うめき声が聞こえた。レイカは眉をひそめた。 「まだ生きていたか。しぶといヤツめ」 「い、痛い……。助けて……」  顎と肩を地につけ、膝を立てた姿勢で、隣国の王子が這いつくばっていた。天に突きだした尻には深々と矢が刺さっている。 「そのまま果てるのだな。やじりに塗った毒が体に回り、もはや打つ手だてはない」 「やじりにど、ど、毒が! いやだ! 死にたくない! 助けて!」  泣き叫ぶ王子に、いまひとりの王子が叱咤した。 「やじりに毒など塗るか! ただの脅しだ! いちいち泣くな! 男のクセに!」 「痛い、痛い。姫、助けてください」 「そのような義理はない」  レイカは窓から飛びだし、涙目の王子の背を踏みつけて地面に着地した。その腰から短剣を引き抜く。  茂みから矢が一本飛びだした。  レイカは短剣で矢を払うと、茂みに投げつけ、モーヴの眼前に躍りでた。 「剣がよいか? 素手がよいか?」  左手でモーヴの右手をひねりあげると、剣が落ちた。 「素手では勝負にならぬようだな。では、剣で参ろうか?」  レイカは嘲るように口の端を上げた。 「きさま……」  形相のゆがんだ王子を突き飛ばす。間髪を入れずに落ちた剣の先を踏みつけると、跳ねあがった剣は宙は舞い、狙いたがわず掌中に収まった。 「ばかな……」  よろめきながらモーヴがつぶやいた。 「魔女め」  レイカは目をみはり、おかしそうに大笑いした。 「この程度が不思議か。では、終いまでに魔術を数多《あまた》見ることになろうよ」 「黙れ! 成敗してくれる! 二度と呪いを唱えられぬようにしてくれるわ!」  茂みの中に入り、倒れた部下の剣を拾ってきたのだろう。出てきた時には細剣を構えていた。 「ほう」  レイカは楽しげに剣士を眺めた。  スキがなく、ムダのない美しい足の運びだ。 「手を合わせるのは初めてだったな」 「当然だ。誰が王位簒奪を謀る賤しい蛮族風情などと」  衣が重いな。  歩を運ぼうとして、レイカは裾に足を取られた。  兄上から賜った衣装で最期を迎えるつもりだったが、それが仇になったか。豪奢な衣装は闘いには向かぬ。  片手で裾を引くと、強い抵抗を感じた。  目を落とすと、灌木から這いでた弓兵が、ドレスの裾を握っていた。 「殿下! お斬りください!」 「おう!」  モーヴが大きく振りかぶり、躍りかかってきた。  鋭い突きが胸元に繰りだされる。  とっさにレイカは小さく身をかがめた。剣は宙を貫き、モーヴが前のめりによろめいた。レイカは立ちあがりざまに相手の右手を突いた。剣が落ちる。間髪を入れずに胸ぐらをつかむ。再び空手になったモーヴは青ざめていた。 「殺すなら、殺せ!」  モーヴは叫びながら目を泳がせた。視線がレイカの斜め後ろで止まる。 「さあ、ひと思いに! 蛮族に負けたとあっては一生の恥辱よ」 「では、死ぬがよい」  レイカはモーヴの体を高々と上げ、身を翻した。  小さな影が飛びだし、モーヴの体にぶちあたった。 「死ね、死んでしまえ」  子どもだった。年はまだ一二、三といったところか。短剣を両手で握りしめ、剣先だけを見つめていた。勇気をふり絞るかのように呪詛の言葉をつぶやいていた。  レイカは片眉を跳ねあげた。子どもの髪は金色だった。この国の人々の髪は、少なくともレイカの知る範囲では、栗色から黒に近い褐色まで違いはあるものの、茶褐色だ。金色は北の大国ウルサの色と伝え聞く。見るのは初めてだった。 「愚か者。私だ」  モーヴがうめいた。子どもは小さく叫んで剣をとり落とした。 「冥府へ降りるのか。叔父上たちのように」  モーヴが覚悟を決めたかのように目を閉じた。 「気弱なことを」  レイカはモーヴを地に下ろし、傷の具合を見た。 「傷は浅い。肋骨に当たり、中には達しておらぬ」  金髪の子どもが我に返り、落とした短剣を拾った。何かに憑かれたかのように、目が血走っていた。 「死ねぇ!」  突進してくる。  頭よりも体が、理屈よりも本能が反応した。レイカは持っていた剣で、子どもの眉間を貫いた。  モーヴが乾いた声で笑った。 「あの方のもくろみが外れたわ。きさまも女なれば、子どもには甘かろうと踏んだのだがな」 「あの方?」 「叔父上たちのように死んでゆくのか」  モーヴは力なく膝をついた。顔色は真っ青で額に汗の玉が浮かんでいた。それが傷のためなのか恐怖のためなのか、レイカには区別がつかなかった。  ふと思いついて落ちていた短剣を拾い、部屋からもれる灯にかざしてみる。剣先には血がついていたが、根元には別の何かが塗られているようだった。鼻を近づけ、匂いを嗅いでみる。血に混じって、覚えのある匂いがした。 「マム、手当の用意を」  叫ぶと、窓から恰幅のいい侍女が顔を出した。 「はい、ただいま」 「ムダだ。あの方の毒には……」 「半日で発熱し、三日も経てば皮膚に醜い斑点が浮かびあがろう。激痛に襲われたまま、一シクルを過ぎるころに呼吸不全で絶命する」 「それはまったく運がいい。遺言を残す暇ぐらい残してくれたというわけか」  モーヴは自嘲した。 「症状が出てからでは遅いが、今ならまだ間に合う」  レイカはモーヴに肩を貸し、立ちあがらせた。 「何に間に合うのだ。死出の旅に発つ前に、身内にあいさつでもするか?」 「解毒剤を射つのだ」 「解毒剤だと? あの方の毒に、そんなものがあるわけがない」 「なければ、先王も寵姫も生きられなかったろうよ。とうに成人した息子を一刻も早く王位につけたい母親がおったのだからな」 「バカな。相手は国王陛下だぞ」 「なぜ、そこまで王位を尊べるのだ? 解せぬ。さあ、早く手当てを」  窓にたどりつくと、ブルネットのおさげの女が待っていた。窓から身を乗りだし、モーヴに手を貸した。 「おまえ、女のクセに力があるな」 「おまえではございません、リリーでございます。おまえと呼んでいいのはお姫さまだけでございます。ついでに申しあげますが、『女のクセに』というのは、とても紳士がおっしゃる言葉には聞こえませんわね」  まくしたてられ、モーヴは目をつりあげた。 「女のクセに口答えするとは生意気な。主人が主人なら、侍女も侍女だ」 「まあ! お姫さままで侮辱するなんて、ゼッタイ許しませんわ!」  レイカは苦笑した。 「続きは治療してからだ。死んではケンカにならぬだろう」 「私も治療してください、レイカ姫」  足下で泣きそうな声がした。窓の下で、隣国の王子が四つん這いになっていた。矢は尻に突きたったままである。 「まだおったのか」  レイカはその背を踏み台にして窓をくぐった。 「姫ぇー!」  レイカは寝室の床板を外した。ガラスと布とで封をされた茶色い薬瓶がぎっしりと並んでいた。ざっと数百はあるに違いない。手際よくいくつかの瓶を引きだし。一瓶一瓶灯りにすかす。薬草や液体が浮かびあがった。瓶を揺すり、ふたを開け、色を見、匂いを嗅ぎ、時には指につけ、味を見、中身を確かめた後、客間に運んだ。  仕度は済んでいた。客間の大きなテーブルには清潔な白い布が敷かれ、患者が手足を四隅に、胴を天板に縛りつけられ、青ざめて横たわっていた。 「じっとしていてくださいましね。動けばおかしなところを切ってしまいますからね」  リリーがすました顔で言った。 「か、覚悟はで、できておる。男子たるもの、手術のひとつやふたつ……」 「感心なことだ」  レイカはリリーを見て笑った。傷口を洗い、解毒剤を射つだけだというのに大仰な。ささやかなしっぺ返しというわけか。 「サミーが今、湯を持ってまいります」  マムが言いながら、レイカに白衣を着せた。  レイカは手順を説明しなかった。解毒剤を調合しながら、リリーに傷口を洗わせた。彼女は始終何事かささやきかけているようすだった。  解毒剤を注射すると、脂汗を浮かべた常勝将軍はたちまち気を失った。 「リリー、何を吹きこんだのだ?」 「麻酔だとでも思ったんじゃありませんこと」 『あの女は、解毒剤は人を選ぶ、適合しなければ口から臓腑を吐いて死ぬ、と言ったんだ!』とモーヴの口から語られるのは後の話である。  鏡の間は一年前のその日を思わせた。燭台は倍に増え、大広間を明るく照らしだした。軽快な舞踏曲が奏でられていたが、その音量は倍、よく見ると楽隊の人数も倍だった。広間の中央では数十組の男女がステップを踏んでおり、袖のふくらみは倍、スカートのフリルも倍だった。そもそも客の人数が倍である。出不精の老人から宮廷行事に疎遠な若者まで、めったに姿を見せない貴族たちも馳せ参じていたからである。  その理由は玉座にあった。鏡の間のもっとも奥には人の腰ほどの高さの壇があった。壇上には数人の従者と青いビロード張りの椅子が中央にひとつ、向かって右にひとつ。中央の椅子は背もたれが大人の背丈ほど高く、上部にはうねるような枝模様が金細工で施してあった。小さな花を模して光るのは小粒のダイヤか。中央には大粒のサファイヤが光り、その下に国花である赤紫のヒースと国鳥孔雀の羽をあしらった紋章が浮き彫りにされている。これが、パーヴ国王の玉座である。  しかし、そこに坐しているのは御年五四の国王カルヴ陛下ではなかった。眉間に深いたてじわが無数に刻まれ、頬の肉の下がった七五歳の老婆であった。落ちくぼんだ目元から目玉が突きだし、陽気な舞踏を見渡している。端の下がった口を大きく開け、歯ぐきをむきだしにしてかん高い声を発している。機嫌よく笑っているのだろうが、まるでそれは言い伝えにあるどくろの化け物のようだった。そのどくろというのは、夜更けに光って虫を集め、食らっては虫の羽を生やし、梢の間を笑いながら飛び回る。その声を聞いた者は三日と生きられないというのである。  伝説によれば、勇者セージュはこの声を耳にし、運命から逃れる方法を求めるのだが。  玉座の向かって右後ろには、小ぶりの椅子が置かれていた。大きさも金銀の装飾もややひかえめにできている、本来は王妃の座るべき椅子である。  しかし、今、ここに座っているのは玉座にあるべき国王だった。青ざめた顔色は、椅子に張られたビロードの色を映したせいばかりではないだろう。王太后とは対照的に眉を寄せ、物憂げに床に視線を落としている。  左手は肘かけの上で小刻みに震え、右手でしきりに額や頬をなでている。陽気な音楽やにぎやかな笑いさざめきも耳に入らないようだった。  日付の変更を告げる真夜中の鐘が大広間に鳴り響く。玉座の老女は小腹がすいたと、従者に食事を運ばせた。  脂ののった牛肉の香草焼き、フライドチキン、豚の白身のソース煮。牛肉とチーズのカツレツ、バターを溶かしてコクを出したクリームスープ煮、バタークリームのたっぷりのったナッツケーキ……。  老女の食欲は旺盛だった。 「今日は何でも旨く感じるな。息子や、そなたもおあがり」  酒杯を二度、三度と空けながら、ふり返る。  同じ膳を並べられた息子は手もつけられないようすである。うつろな目は皿の間をさまようが、焦点が合っていない。 「栄養をおとり。そなただけの体ではないのだぞ。この国の主なのだからな」 「おやおや。主はあなたかと思っておりましたが」  嘲笑うような声音に、王太后はたちまち目をつりあげて正面に向き直った。 「無礼者! 誰ぞ!」 「幽鬼です。恨めしさのあまり、化けてまいりました」  王太后は悲鳴をあげた。 「もっ、萌黄!」  漆のように黒い髪、闇のように深い眼、鼻筋の通った高い鼻に細面の白い顔。ほっそりとして背が高く、飾りの少ない深緑色のドレスを身につけている。胸元には明るい緑色のひすいのネックレスが燭台の灯を受けてきらめいていた。 「レイカ!」  王太后の後ろで、国王が立ち上がった。 「無事だったか!」  レイカは大声で笑った。白々しく、芝居がかっていた。 「もう長くはないでしょうな。王太后陛下、モーヴ殿下は死にましたぞ」  王太后は冷ややかな表情をとりもどした。笑顔はないが、動じたふうでもない。眉間のたてじわは深くなったが、普段の表情にもどったに過ぎない。 「隣国の王子も死にました。和平はならず、戦端は開かれ、しかし、国庫は空、どこから戦費を捻出なさるおつもりか?」 「息子や」  王太后は後ろをふり返った。 「我が国の将軍と隣国の王子を討った謀反人がおるぞ。ただちにひっとらえ、首を隣国に届けるように」 「は、母上!」 「使者には、コレット公を遣わすがよい。衛兵、何をしておるか。謀反人をとらえよ」  レイカは嘲るように口の端を上げた。 「衛兵ごときにかのような力がないことは先刻ご承知のはず。私を捕らえられるのは、この世で唯一国王陛下のみ。指一本動かされる必要もない。ただ一言、死ねとお命じになってくださればよい」 「息子や、謀反人を処断せよ」  妹と母に詰め寄られ、国王は身動きひとつできなかった。  今や舞踏も楽曲もやみ、一同の視線が国王に注がれていた。 「国王陛下はお困りか。では、憂慮の種を除いてさしあげよう」  ドレスの裾を跳ねあげる。中から長剣が現れた。柄やさやの金細工が灯りにきらめき、さやの中央で大粒のサファイヤが燦然と輝きを放った。 「ご覚悟を」  艶やかなさやが抜き払われ、宙に舞った。アンガジャントの袖が振られると、青黒い刃が王太后を向いた。 「大罪ぞ!」  王太后は勝ち誇ったように叫んだ。 「国王陛下の御前で刀を抜くは死罪である!」 「甘んじてお受けしよう。ただし、奸賊を始末してからな」  レイカは軽やかに壇上に躍りでた。左手にある長剣は、燭台の光を浴びて輝きを増し、導かれるように王太后の喉を目指した。 「やめよ! やめよ! レイカ!」  国王の叫びが響いた。切っ先が、王太后の喉元で止まった。  肉でたるんだ喉はのけぞり、背もたれいっぱいに逃げていた。顎を上げたまま、飛びでた目玉が剣先を見つめている。肘掛けの腕は緊張でこわばり、体は椅子に張りついたように動かなかった。 「兄上」  レイカは憐れむようなまなざしを投げた。  国王は立ちあがり、威嚇するかのように肩をいからせ、唇を震わせていた。 「ともには生きられぬのです。私に死を賜るというなら、剣を引きましょう。でなければ、お止めなさるな」  王太后に向きなおり、肉に埋もれた喉を見すえ、肩に力を入れる。 「やめよ! 母だぞ! 私の母だ!」  国王が従者の手から剣をとり、抜き放ってレイカに斬りつけた。 「何をなさっておいでか」  微動だにせず、レイカは冷笑を浮かべた。袖のフリルがわずかに切れていた。 「母をお選びになるなら、それもけっこう。しかし、斬る場所が違っておりますぞ」 「レイカ! 剣を引け! 命だけは助けてやる!」 「いっそひと思いに斬られよ。さもなくば、このまま喉を刺し貫きましょう」 「レイカ! 剣を引け!」  国王の声は悲痛だった。  業を煮やしたように、王太后は早口に叫んだ。 「何をぐずぐずしておる! 早く斬れ! 動かぬ的など、かかしと同じではないか。早くこやつを斬れ! こやつは、貴き血を幾つも手にかけたのだぞ! 隣国の王子はともかく、そなたの弟や従姉の子まで!」  従姉の子。  王太后は意味ありげに早口で囁く。 「将軍とともにいた金髪の子どもは、先王の弟の孫よ。ウソではない。先王の弟の妃はウルサの姫で、美しい金髪と美声の持ち主だった。琴の名手でもあったな。ひとり娘がいたが、弟夫婦の死後、妃の里からついてきた年若い騎士に連れ去られたのだ」  連れ去られただと? 命の危険にさらされて、子どもだけでも逃がそうとしたのだろう。誰かの毒手にかからぬうちに。  レイカは皮肉な目を話し手に向けた。  王太后は気づかぬふりをしてさらに続ける。 「それきり行方知れずになっていたが、先ごろあの金髪の子どもが訪ねてきて消息が知れたのだ。弟夫婦のひとり娘は南方で育ち、連れ去った若い騎士と一緒になっておったそうだ。男子と女子をひとりずつもうけ、それがあの子どもとその妹よ。騎士はすでに死に、残った母と妹を都に呼び寄せて楽な暮らしをさせてやるのだと申しておったが……。殺されたとはムゴいことだ」  王太后は泣き顔を作った。憐れみはその顔つきにそぐわず、醜くひきつった。 「鬼め」  レイカは眉をひそめてつぶやいた。 「なにを言う。殺したのはそなたではないか」  王太后は心外とばかりに見返した。 「酷な役目を与えたのは御身であろう。償うためにあの世へ行くのだな」  レイカは剣を喉めがけて突いた。  刹那、王太后はおそろしいほどの素早さで首を左にそらした。剣は椅子を突いた。 「往生際が悪い」  レイカは剣を引き抜き、振りかぶった。 「母上!」  国王が空いたすき間に飛びこみ、王太后に覆いかぶさった。振りおろされた剣が、その背の手前で止まった。 「そうか。兄上のお気持ちはよくわかった」  左手が落ち、剣を床に放った。 「衛兵! 今ぞ! 早く謀反人を捕まえいっ!」  国王の体の下から首だけを出し、王太后は勝ち誇ったように叫んだ。 「捕まえずともよい。逃げはせぬ」  おそるおそる近づく衛兵にレイカは言った。まなざしは静かだった。 「案内を頼む。牢獄へでも、刑場へでも」 「刑場へ連れていけ! 即刻凌遅の刑に処せよ。そやつは王弟と隣国の王子を斬殺したのだぞ!」  王太后は用心深く、国王の体にしがみつき、陰から出なかった。  緊迫した空気は一転ざわめきへと化した。  凌遅の刑は、二シクルをかけて体を傷つけ、死に至らしめる残酷な刑罰である。薬を使い、ムリに命を長らえさせる。激痛の中、死ぬこともできず、罪人は地獄の苦しみを味わう。  これは、重罪を犯した身分なき民が処せられるものであり、王侯貴族に下されるものではなかった。 「母上、それはあまりにも……」  国王は抗議を口にしかけたが、至近距離からの老母の目つきに沈黙した。 「どこの馬の骨とも知れぬ蛮族の腹の子よ。父親とて先王とは限らぬわ」 「ひっ、姫は先王陛下の御子です!」  悲鳴のような裏返った声の反論があがった。  レイカが壇の下に目を落とすと、最前列に見覚えのある姿があった。 「気品あふれる麗しいお姿は、どうして賤しい身分のものでありましょうか!」  王太后が睨みつけた。  隣国の王子はおびえるように視線をそらし口をつぐんだが、それは一呼吸の間だけだった。目をつりあげ、必死の形相で、語気を強めて続ける。 「隣国の王子はこうして生きております。王弟殿下も生きていらっしゃいます。それどころか、姫は傷ついた殿下をお救いになられたのです。国母たる王太后陛下、空のように広い御心と森のように深いご自愛をもって、どうかこの茶番をお笑いになり、お忘れください」  王太后は国王の陰から、口を大きく開けて叫んだ。つばが飛び、やせた歯ぐきが剥きだしになった。 「ウソは笑い飛ばせても、その剣は許されぬ。御前での抜刀は死罪ぞ!」 「では、それは剣ではないのです!」  隣国の王子は毅然として言い放った。  王太后の目の奥が光った。意地が悪そうに口の端を上げる。 「ほう。剣ではないなら、なんだというのだ?」  王子は一瞬たりとも迷いなく答える。 「舞いのための小道具、ただの宝飾品です。その証拠に、さやには宝玉が星のように無数にきらめいているではありませんか」  レイカが放ったさやは、王子の足下に、投げた時そのままに転がっていた。  言いよどんだのは王太后のほうだった。  すかさず、王子はたたみかける。 「慈悲深い王太后陛下、懐の深さをどうかお示しください。しかしながら、この冗談は度が過ぎます。この先、レイカ姫のお姿を拝見するたび、人々は良からぬ噂を口にするかもしれません。それなりのご沙汰があるべきでしょう」  王太后はたちまち元気をとり戻し、大きくうなずいた。 「当然だ。処罰は必要である。さしあたって……」 「国外追放はあって然るべきでしょう」  隣国の王子は王太后に話す暇を与えない。 「二度と王太后陛下の御目に触れないよう、貧しい辺境へ追いやるのです」 「辺境か」  王太后は膝を叩いた。 「息子や、それではさっそく北方の……」 「見張りが要ります! 姫が二度と戻らぬように!」  隣国の王子は声をあげてさえぎった。 「普通の衛兵では役に立ちません! しっかりと姫を束縛しなければなりません!」 「もっともな話だ。頑丈な鎖でもつけて、どこぞの塔に幽閉でも……」  レイカは黙って事のなりゆきを見守っていた。  隣国の王子が自分を恨みに思うのもムリはない。文字通り、さんざん足蹴にしたのだから。  王太后に向かって意見する勇気がどこから湧いたのかは驚きだったが。  凌遅の刑だろうと、幽閉だろうと、今さらどちらでも変わりない。  兄は、国や自分よりも、母親を選んだのだ。  しかしながら、これで国はふたつに割れずに済むだろう。反王太后派は求心力を失い、消滅するに違いない。  できることなら、こんな結末は迎えたくなかったのだが……。  レイカが物思いに耽っていると、隣国の王子が強気をいっそう強めた。 「頑丈な鎖! 幸運にも、私はこの世で最も強い鎖を持ちあわせております!」 「この世でもっとも強い鎖だと?」  王太后がうさんくさげに眉をひそめた。  王子はここぞとばかりに胸を張り、こぶしで叩いた。 「婚姻です。私に姫をください。遠き辺境の私の領地に姫をお連れします!」  王太后の形相が変わった。目は大きくつりあがり、口は大きく開いて歯ぐきや舌を丸見えにした。人間を丸飲みにする化け物はかくやという風貌である。  隣国の王子は肩に力をこめ、両足を踏んばり、負けずに睨み返した。 「姫をください! 国王陛下、ならびに王太后陛下、これは悪い話ではありません! 騒動の種を取りのぞき、両国に和平ももたらすのですからな!」 「ならぬ!」  王太后の顔色は赤を通り越して真っ青だった。目は血走り、狂気のような殺気でぎらついた。レイカですら直視できないほどに苛烈だった。  しかし、隣国の王子は両のこぶしを白くなるほど握りしめ、王太后を睨みつけた。 「この国では、国王陛下よりも王太后陛下のほうが偉いのですか? 私は国主たる国王陛下にお返事願いたい。姫をくださるのか、くださらないのか!」  国王は目を伏せた。落ち着きなく、視線は床をさまよう。 「姫の意のままに」  か細い声で、それだけ答えた。  隣国の王子はレイカに向き直った。今までの情けない人柄とは別人のようだった。 「レイカ姫、私と結婚してください。もし承諾してくだされば、私の領地にご案内いたします。貧しい辺境でご不自由おかけしますが、全力を尽くしてあらゆる危難から生涯お守りいたします。お約束いたします」  たいした男だ。  レイカは舌を巻いた。  人はここまで化けられるものか。国王も王太后もモノともしない勇気とたくみな話術。なにより、このひたむきでまっすぐ射抜くような強い眼。  この眼を見返すと、視線が空中で結ばれてしまったような錯覚にとらわれる。 「もし、諾と言わなかったならば?」  レイカは静かに訊ねた。  王子は落ちついて答えた。 「その時はさらっていきます。否が応になるまで、誠心誠意お仕えいたします」  この眼はウソをついていない。  レイカは直感した。  ただの売国奴と軽蔑していた。しかし、この男にとっては、国よりもひとりの女のほうが大事だったのだ。誰もが恐れる王太后を敵に回し、渡りあえるほどに!  レイカは口を開いた。 「諾」  うなずいてみせた。 「諾だ。そなたの領地を流刑地に選ぼう」  隣国の王子の顔がみるみるうちに赤く染まり、目がうるんだ。 「わかっておるのか!」  王太后は玉座から身を乗りだし、叫んだ。 「それは賤しき血の娘ぞ! 和平の要になぞなる資格はない!」  王子はもはや王太后をふり向かなかった。ただ、愛しい姫だけを見つめ、面倒そうに答えた。 「先王陛下の御目が濁っていたとでも? やんごとなき国王ともあろう御方が、まことに賤しい者にお声をおかけなさるでしょうか。この気高さ、この麗しさを疑う者は、国王の尊厳を軽んずる者です」  王太后が声にならない悲鳴をあげた。  レイカが王子の熱い視線から目をそらし、玉座をかえりみると、王太后は玉座の上で正体をなくしていた。  従者があわただしく壇上を駆けずりまわった。 「失神されました」  侍医が告げると、安堵とも失望ともとれるため息が一同から漏れた。 「レ、レ、レ、レイカ、カ、ひ、ひ、姫」  先刻までの凛々しさがウソのように、もとの不安げな態度に戻って、隣国の王子が話しかけた。 「と、と、嫁いいいで、く、くださるとゆーのののは、ゆ、夢でははは……」  頬をつねってみる。 「い、痛くない! ゆ、ゆ、ゆ、夢だだ」  レイカは腕を伸ばし、その頬に触れた。王子はうっとりと目を閉じた。 「いっ、いでででで……!」  頬肉を思いきりひねりあげられて、王子は両目を見開いた。今度は別の意味で目がうるんでいる。 「夢とうつつの区別がついたか」  レイカは手を離した。 「は、はひ……」  頬を激しくさすりながら王子はうなずいた。  レイカは晴れやかに笑い、腰を落として、正式な宮廷風の礼をした。 「では、よろしく、看守どの」  深い緑のスカートの前を大きくつまみあげ、レイカは急ぎ足で部屋に帰ってきた。  ドアを開けると廊下は右に折れ、リビングルームに続いている。しかし、レイカはそちらへは行かず、正面突き当たりの小さなくぐり戸を叩いた。 「婚約が決まったぞ」  侍女たちはまだ起きていたらしい、すぐにドア直下の数段からなる小さな階段を駆け上がってきた。 「どなたのでございますか?」 「私のだ」  レイカの紅潮した頬、輝く眼に、侍女たちは即答をためらった。 「あの……、お姫さまがそれほど喜ばれるお相手は、どこのどなたで?」 「立って話すことでもあるまい。リビングにおいで」  興奮気味の主人の後を、三人の侍女たちは不安げに追った。 「あの小さな婆さんには、誰も逆らえないのだ。情けないことに、兄上も、その弟たちも。むろん、貴族どももだ。あの婆さんは母上を憎み、それは私の身上にも及んでいる。渡りあえなければ、伯母上や従兄たちのように尼僧院に閉じこめられるだろう。いや、殺されるかもしれぬ。今日の婆さんはいつにも増して苛烈だった。この私でさえひるまずにおられないほどにな」  リビングで、レイカはソファにゆったりと身をうずめ、膝の上で両手を組み、満面の笑みをたたえていた。侍女たちは長椅子に浅く腰かけ、落ちつきなく身じろぎした。 「ともには生きられぬ。兄上は今宵、あの婆さんを選んだ。私は連行されかけた。婆さんは死罪の即時決行を言い渡した」  レイカは楽しむように一語一語をゆっくりと話したが、侍女たちの青みの増した顔を見ると、手を振って言葉を速めた。 「心配いらぬ。私はこうして無事に戻ってきたではないか。これから先も無事よ。あの婆さんも、他国には手を出せまいて」 「まさか、隣国の王子ではありますまいね!」  恰幅のいい侍女が待ちきれずに、口をはさんだ。  背の高い侍女は落胆したかのように肩を落としてため息をつき、レイカより年下のおさげの侍女は信じられないかのように何度も首を振った。 「あの男はダメです。いざとなると足腰が立たなくなるタイプです」 「だがな、私を救ったのはあの男なのだ。あの男だけが、婆さんに向き直り、闘ったのだ。なかなかの論客でもあった。そなたたちにも見せたかったぞ」 「王太后陛下の恐ろしさを知らないからです! 無知のなせるワザで、勇気などではありません!」 「だが、アレは私は生涯守ると約束した。本気の眼をしておったぞ」 「その場限りの本気です! あの手の男は自己陶酔して、平気でその場限りの誓いができるもんなんです! ああ! お姫さまときたら、馬も剣もおできになるし、政治にも学問にも精通してらっしゃるのに、どうして人の心というものには、こうも疎くていらっしゃるんでしょう!」  レイカは組み手を解き、苦笑した。 「やれやれ。それほどアレが嫌いか」 「当然です。あの男は、今にお姫さまを裏切ります。そういう男です」  恰幅のいい侍女が確信的にうなずくと、年若い侍女がおそるおそる口を開いた。 「でも、お姫さまが、この国を離れるのはよいことですわ。隣国なら、王太后陛下も、手出しができませんもの」 「クレス公もね!」  恰幅のいい侍女は興奮さめやらぬようすで大きくうなずいた。 「これでよからぬ企みに巻きこまれずに済みます。クレス公もお姫さまなしでは大義が立たず、味方を集められなくなるでしょう。国も割れずに済むというわけです」 「知っておったのか」  レイカは額に手をあてた。三人の侍女はめいめいにうなずく。 「よけいなことは知らせまいと思っておったが。何も知らぬほうが身のためなのだぞ」 「子どもにだって察しはつきますよ。クレス公が足しげく通うとあっちゃね。まあ、いいでしょう! 隣国の第三王子ですからね、王位が転がってくるわけじゃなし、権力争いから離れてどこかの田舎でのんびり暮らせるでしょう! ただね、領主の館でおとなしく奥方におさまってるお姫さまなんて、想像もつきませんよ。馬や剣のお友だちや、学者たちをお連れなさい。退屈をまぎらわせてくれますよ」 「馬を持ち出せるかな? あれは門外不出の品だろう」 「持ち出すんです! 馬のないお姫さまなんて、陸にあがった魚、昼間に出る幽霊、アッシャの前のセージュのようなものですからね」  アッシャは英雄セージュを惑わした妖艶なる美女である。姿は見えども触れることあたわず、英雄を世界中引き回した。結局、セージュは世界の果てにたどりついてアッシャの正体を知り、結ばれえぬ身を嘆いたという。彼女は虹の精だったのだ。 「虹か。そういえば、あの天気占い師はどうしておろうか」  レイカはひとりごちた。  少女の頃、母の元から帰宅すると、頑固な面がまえの学者が離宮の門前で待ちかまえていた。自分の倍ほどの年の男は、虹に会いに行きたいから支援してくれ、と真面目な面もちで申し入れてきたのだ。  珍しいことではなかった。寵姫の里親である権力者クレス公に断られた者たちが、代わりに口ききを頼もうと、毎日のようにレイカに面会を求めてきていた。  他人の欲にふりまわされるのはまっぴらだった。  馬上から犬をけしかけて追い返そうとすると、学者は立ったまま図面を開き、雲や気温の話を始めた。地形と天気の変移、各地域の天気予報に関する言い伝え、天気と気圧の関係に至るまで、とめどなくとうとうと話し続け、最後に、上空の様子をするために気球を造るので、ついては資金援助を願いたいと結んだ。  レイカには、学者の話がさっぱりわからなかった。見れば見るほど眼は熱っぽく、唇はしばしば引き結ばれて薄く、顔色は青ざめて危うげに思えた。  そなたに必要なのは資金ではなく医者だろうとすげなく断ると、学者は礼儀正しく退去したが、帰りぎわに二、三日中の天気を告げた。以来、毎日書状が届き、翌日の天気を予告したのだった。  まさにそれは『予告』とも言うべきもので、すべて的中した。  二シクルも経つと、書状の末尾には余分な一文がつけ加えられていた。 『翌日だけではなく、一シクル先、一ルーニー先、一年先の天気もお知らせできます。資金援助くだされば』  レイカはその抜けめなさに苦笑した。呼びだして告げた。 『どう占ったのか、毎日出廷し、わかるように説明せよ。納得がゆけば母上に口添えしてやろう。もし気に入らねば、いかがわしいまじないを用いた咎で獄送りにしてくれるぞ』  学者は脅しなどどこ吹く風で、大喜びで離宮に通い、楽しげに科学の話をしていくのだった。  雲は水のかたまりである。それぐらいはレイカも知っていたが、学者の考えることは大それていた。  どこかに雲の製造工場があるに違いない。陸上ではこれだけの雲を作ることは難しい。たぶん、世界は巨大な湖に浮かんだ島で、湖でできた雲が、地を潤しているのだろう。  世界というものを考えるのは哲学者や宗教家の仕事だったから、レイカは驚いた。  一般に、世界は天上界、地上界、冥府の三層に分かれ、地の果ては大きな断崖となり、冥府に続いているのだと考えられていた。高山は天上界との連絡路で、神や精霊が降臨するたび、峰に雲がかかり、その姿を隠すのだという。 『世界観を変えてご覧にいれます。虹は水蒸気がなければできません。英雄セージュは世界の果てまで虹を追いかけました。ということは、世界の果てには水蒸気があるのです。水に満ちているのです』  学者は自信ありげに言った。 『私は上空のありさまを観測するのと同時に、この世の果てを見てまいります。哲学や神話学が道理を決めるのではなく、科学こそが万能であることを証明してさしあげます』  大言を吐くだけのことはあった。説明はヘタだったが、苦心してかみくだいた内容はひじょうに論理的で、ムリがなかった。一ルーニーの間に、講師の話術はかなり上達し、生徒の理解も深まった。 『そなたの理屈はわかった。母上に口添えしてやろう。それにしても、科学というのはおもしろいものだな』  娘の願いを、寵姫はそのまま国王に伝えた。国王は大喜びで全面的に受け入れた。寵姫が頼み事をするなど、めったにないことだったから。  資金はそろったが、人材に不足した。初の試みで素材選びにも難儀した。数々の困難を乗り越え、気球が飛び立つと、学者は消息を断った。  五年後、気球は無事戻ってきたが、学者の見聞は荒唐無稽で、誰ひとりとしてとりあう者はなかった。おまけに、寵姫の恩恵を受けたことで当時王妃であった王太后に睨まれ、つまらぬ嫌疑をかけられた。逮捕される直前、家族を連れて逃亡したと聞くが、それきり行方はわからない。 「ミヤシロ伯といったかな。アレを連れていけば、どんな辺境だろうと退屈しないだろうに」 「剣のお友だちのイリム子爵もお連れなさいませね! お姫さまはね、王さまに裏切られたショックで、蔓が龍に見えているだけなんですからね! 夢から醒めたらきっと落胆なさるに違いないんです。その時のために、役に立ちそうなお友だちは、ひとりでも多くお連れなさいませ」 「言われなくとも連れて行くよ」  レイカはうなずいてみせた。 「このままここに残しては、王太后からどんな目に遭わされるか知れない。隣国の辺境では満足に所領を与えてやれないだろうが、命あっての物種だ」  ふと、思いついたように首を傾げる。 「そういえば、最初王太后はこの婚姻をまとめるつもりだったな。結局もくろみ通りになったが、私を侮辱するという目的を達するどころか、本人が恥をかかされてしまった。いい気味だ」 「今のうちでございますよ。よいご気分は」  マムは怒ったように腰に手をあてた。 「きっと、今に恐ろしい仕返しが待ってるんですから! くれぐれも身辺にご用心なさいませね!」  その予言は、王太后を知る者にならたやすいものだったに違いない。  しかし、まさかそれが隣国の様子を一変させることになるとは、このときは誰も予想できなかった。当の王太后本人でさえも。 『姫の隣に立つにふさわしい男になりたいのです』  数日前に王子に仕立てられた隣国の小領主は婚約者に願い出た。  現国王の妹として育てられた先王の寵姫の娘は快く承諾し、自らが教師となり、領主としての心得や知識、宮廷作法、狩猟などのたしなみを授けた。  しかし、この師弟の組み合わせは理想的とは言えなかった。講義の間中、生徒は師の芙蓉の顔《かんばせ》に見惚れて心ここにあらずだったし、乗馬にいたっては、鞍にもまたがれないありさまだった。 「そなたの土地にも、馬ぐらいおったのだろう?」  借り物の青い乗馬服がいやに板につかない隣国人は、おとなしい栗毛の馬の隣で息も絶え絶えになりながら答えた。 「馬車にしか乗りませんので」  では、馬車の操りはどうかといえば、これも危ない。 「馬の操りは御者に任せてありますので」  さしものレイカもあきれ果て、宮廷づきの教師に仕事を譲ったのだった。  それでも隣国の王子の意欲はホンモノだったようで、講義のほうはほどほどに、馬のほうは遅々とこなしていった。 「王女殿下、夜会へお出ましください」  事件からほとぼりが冷めたころ、王の使者が部屋に出向いてきた。 「国王陛下が首を長くしてお待ちです。どうか、ここは私の顔を立てて……」 「顔を立てておるから、こうして用向きを聞いておるのだぞ。さもなくば、門前払いだ」  客間のソファに身を埋め、けだるそうにレイカは頬杖をついて暗くなった庭に目をやった。夜の色のドレスの袖がずりさがり、アンガジャントのレースがすっかりあらわになった。 「まだ腹をたてておいでですか? あれからこうして国王陛下が何度お呼び立てなさっても応じない。いつまでも子どもっぽい真似はおよしなさい」 「約束があるのでな」  面倒そうに答える。 「毎晩毎晩、あの男の元へ通うのが、それほど大事ですか! 城内では噂になっておりますぞ! 婚約が成ったわけでもないのに!」 「成立したも同様よ。ハモンディ公といったかな? アレが隣国へ戻って形式を整えておる。じきに、正式な申し入れがなされよう」 「そんなもの、さだかではありませんぞ! 和睦の条件をおとなしく飲むとは限りません!」 「私では人質として不足かな?」  レイカの唇の端が上がった。 「い、いえ、決してそのような」 「人質としては年季が入っているつもりだが」 「めっそうもない!」  使者は顔を青くした。 「では、退がれ。悠長にそなたの顔を眺めている暇はない」  使者を退室させると、レイカは身支度を整えて春の間へ向かった。毎夜、アプスと夕食をとり、談笑がてらに講義の進み具合を確認し、しばしば補足するのが日課だった。  日がない。  レイカは焦れていた。  何も知らない未来の伴侶に、あらゆるものを叩きこんでおきたかった。王子としての教養、領主としての思慮、人間としての誇りと知性を。 「青はパーヴの国色だったのですねえ」  ある夜、アプスは夕げのテーブルで感心したように言った。  彼は赤の短い上衣を羽織っていた。その下にはボタンのたくさんついた長いベストと、たっぷりフリルのついたリンネルのシャツを着ている。下には腰のふくらんだ赤のズボンをはき、裾からは、リボンのついた華奢な靴の先がのぞいている。靴の布色は生成りだが、リボンはやはり赤い。 『我が妹に恥をかかせるな』  そう言ってパーヴ国王が仕立てさせた服である。 「赤はリュウインの色。昔、双子の王が国を分かつ時、一方をルビーに、一方をサファイヤにたとえたとか。ちっとも知りませんでした。今日、先生に習うまでは」  春の間の萌黄色の室内色に、レイカの着衣は溶けこんでいた。明るい緑色のドレスは、胸元がゆるく開き、肘の辺りで大きく開いた袖からはアンガジャントのレースが見えた。ウェストは幅広のサッシュでゆるく締め、裾の広がりは小さい。骨を入れずに、ペチコートだけでふくらませているのだ。 「北の大国ウルサの国色は、雪や氷の白ではなく、実は黄色なのですな。太陽の色、ウルサの民の髪の色だとか。東の小国イリーンは、なんと虹の七色! 欲ばりですなあ!」  当たり前のことに驚くさまは、眺めているだけでおもしろかった。 「世界は広いですなあ。私はイリーンやドーンやアラワースという国名を初めて聞きました。東にそんな小国がいくつもあるとは! そうすると、世界に国はいくつあるのでしょうな。リュウイン、パーヴ、ウルサ、イリーン、ドーン、アラワースで六つですか? あっ。姫の母君のお国がありましたな、草原の国。どこにあるのですか? 母君から聞いていらっしゃいませんか?」  国ではない。  レイカは思ったが、否定はしなかった。 「伝説だからな。まことにあるかどうかもわからぬ」 「母君から何かお聞きにならなかったのですか? 父君からも?」 「父に会ったのは一度きりだ。母の葬儀で、それも遠目に見ただけだ。身分が違うのでな。そなたなら、想像もつこう」  王の子でありながら父の姿を見ずに育ったのは、アプスも同じだった。 「わかります。よくわかります。ですが、姫の母君は、わざわざ異国よりお輿入れなさったのでしょう? 私の母とはわけが違いましょう」 「輿入れだと?」  レイカは鼻先でせせら笑い、天井を眺めた。白地に黄色で蔓の模様が描かれていた。 「私の母はな、東から来た商人に奴隷として連れてこられたのだ。馬とともにな。草原で捕らえたとは商人の言よ。男も一緒だったが、抵抗したので殺したとか。先王は母を気に入り、その夜から寵愛した。まもなく私が産まれたが、先王の子としてはひと月早い。そんなわけで、私の出生が疑われるわけだ」 「そんな! 早産などよくあることではありませんか! 先王陛下は御子と認められたのでしょう?」 「蛮族の娘では、王太子に預けるわけにはいかぬだろう。私は当時王太子だった兄上の家族の下で育てられたのだ。母に対する人質としてな」 「人質ですって? しかし、母君は先王陛下に寵愛されていらしたのでしょう?」 「母は故郷に帰りたがっていた。出産前には幾度も離宮を抜けだし、途上で引き戻された。愛とはなんだ? 嫌がる者をムリヤリ手元に置くことか?」  決してこの国の言葉を口にしなかった母。郷《くに》の誇りを頑なに守った母。いつかおまえも草原に還るのだと言って、草原の言葉や習いのすべてを教え込んだ母。  しかし、自分は草原に行きたいなどと思ったためしはない。育ちはパーヴの王宮、家族は兄夫婦とその息子たちだったのだから。  毎日数時間程度の面会では、母は風変わりな教師以上になれなかった。  かわいそうに、母はたったひとり、異国の地で死んだのだ、とレイカは思う。腹を痛めた我が子さえ、異人だったのだ。 「だから、姫は国王陛下がお嫌いなのですね」  合点がいったように、アプスは大きくうなずく。  レイカは不思議そうに顔を傾けた。伸びかけた黒髪が一房、頬にかかった。 「なぜ、そう思う?」  アプスは得意そうに赤いベストに覆われた胸をそらせた。 「だって、憎い仇じゃありませんか。母君からムリヤリ引き離され、人質扱いされては、お嫌われるのも当然です! ご苦労なさったのですね。おかわいそうに。でも、これからは私が姫をお守りいたします! ご安心ください!」  王子の頼もしげな台詞に、レイカはしばらくあっけにとられ、やがて苦笑いした。 「兄上は、いや、義姉上も従兄たちも、みな私を実の家族としてかわいがってくれた。私は兄上を父親のように愛しておるし、兄上とて同じよ」 「まさか」  アプスは信じられないかのように目を見開く。 「では、どうして奇行に走られたのです。国王陛下に嫌ってくださいと言わんばかりではありませんか」 「私はな、兄上に殺されたかったのだ」 「は?」  聞き違いだと思ったのだろう、アプスは暗褐色の髪をかきあげた。丸い大きな耳があらわになる。 「王太后とともには生きられぬ。兄上が王太后に頭が上がらぬかぎり、いつかは死すべき日が来る。ならば、せめて兄上の手にかかりたかったのだ。あの婆さんではなく、兄上に死ねと命じられたかった。兄上のためならば、あきらめもつく」 「そんなバカな!」  アプスは興奮し、口から泡をとばした。 「死ぬなんて、バカなことを! 他にいくらでも方法があるでしょう! たとえば、ええと……、たとえば……たとえば……、そう! 母君のお国に逃れるとか!」 「どこにあるかもわからぬ、いや、実在すら疑われる土地へか?」 「でなければ、東の小国、あるいは北の大国でも、どこでも。姫なら、どこでも歓迎されるでしょう」 「私をかくまえば、王太后が黙っておるまい。当然のごとく身柄を要求するだろう。悪ければ争いに転じるかも知れぬ誰が好んで火種をまこうか」 「王太后陛下は怖いですからな」  アプスは大きく身震いした。 「ただのバアさんかと思ってましたが、恐ろしい形相でえらい迫力ですな。あんな風に睨まれるのはもうたくさんです」  レイカは声を立てて笑った。 「恐るるに足らぬ。そなた、よい勝負をしていたではないか。なかなか見事な論客ぶりであったぞ」  アプスは両手を振った。 「姫をお慕いするあまりに奇跡が起きたのです。もう一度やれと言われても、二度とできません」 「隣国へ戻ってしまえば、顔をつきあわすこともあるまいて。次に会うのはせいぜい葬儀の席か。ご老体ご自身のな」  レイカは人の悪い笑みを浮かべたが、アプスは両腕を抱えて再び身震いした。 「王太后陛下は永遠に死なないように見えます。魔物と取り引きすれば不死身になれるっていうじゃありませんか」 「レアードの話か」  英雄セージュの伝説に出てくるレアードは魔物テロペと契約し、不老不死となった。領地の娘を魔物にささげ、みずからは旅人を誘惑して生き血をすすったという。そうとは知らないセージュはレアードに夢中になり、魔物テロペを脅迫者と誤解して討ってしまう。レアードは悲鳴をあげて塵と散った。 「言い得て妙だな」  レイカは感心して笑った。 「娘を殺し、息子たちの生気を奪う。なるほど、王太后は今日のレアードとも言えるな」  俄然、元気づいて、アプスは何度もうなずいた。 「でしょう! でしょう! 私もそう思ったんです!」  調子のいい未来の伴侶にレイカを苦笑した。 「しかし、不老不死ではあるまいよ。兄上や私より長生きするわけはあるまい」 「任せてください! 姫の身は、私が命をかけてお守りしますから!」  婚約者は赤いベストの胸をそらせた。  しばらくして、リュウインからアプスの従者ハモンディ公が戻ってきた。婚約の儀は形式的なもので、滞りなく終わったらしい。当事者といえど国政に関わる職にないレイカは、国同士の取り決めの場に赴くことはできなかった。その日の夜、王の使者から報告を受けたに過ぎない。  翌日、アプスは涙ながらに別れを惜しみ、一年後に迎えに来るから待っててくれと言って、見送りに出た一同に笑われた。  翌年迎えにくるのは使者であって、新郎であるアプスは自国リュウインの城で待つのである。  来た時と裏腹に、見送りは盛大なものだった。道には南方からとり寄せたしゅろの枝が敷かれ、その両側で貴族たちが南方の色鮮やかな鳥の羽を捧げ持つ。アプス一行は熱い視線を浴びながら、悠然と進んでいく。 「見たことがないと目を丸くしておったぞ。それも道理、リュウインの国土は南に短い。あのような南方のシロモノは目にすることがなかろうて」  見送った夜、病床のモーヴを訪れて、レイカは笑った。  厚い白地のドレスの襟ぐりは四角く開き、グリーンのリボンの縁取りが肌の白さを際だたせた。婚約者につきあって城内に閉じこもった期間が、陽に灼けた浅黒い肌に本来の色を取り戻させていた。肩から肘にかけては袖が大きくふくらみ、肘から先は大きく開いて、襟元とそろいのリボンの袖口から、アンガジャントの白いレースがゆたかにのぞいていた。スカートのふくらみはペチコートの分だけふくらみ、裾はやはりグリーンのリボンで縁取られていた。  モーヴは床の上で身を起こし、フリルのたっぷりついた濃紺のパジャマの襟元から、白いナプキンをぶらさげていた。  もはや、傷はあらかた癒えていたが、時々うずくと言っては、ぐずぐずと床をあげなかった。 『まったく、いつまで手をわずらわせるんでしょうね、この居候が!』  看護役のリリーは迷惑そうに眉根を寄せて文句を言った。  当のモーヴのほうはリリーをからかったり、部下を出入りさせては仕事をしたりと、まったく気兼ねするようすがなかった。  床の傍らの丸テーブルを見れば、病人のものとは思えぬほど質、量ともにボリュームのある料理が並んでいた。香味野菜詰めの鳥の丸焼き、羊肉のスペアリブ、牛の厚切りステーキに、山盛りのポテトボールとグリーンサラダ。十人前はあるだろう。  残った料理は、食後に訪ねてきたモーヴの部下たちがきれいに片づけていった。 『私は兵舎の飯炊き女じゃありません!』  リリーは毎日のように憤慨していた。病人のまかないを任されていたのは、彼女だったからだ。  そのリリーは、今は料理をはさんで病人の向かいに座り、相伴に預かっていた。  グリーンの縁取りの袖が動き、中から伸びた白い手がおとがいで留まる。 「アレが見聞したこともないものを、山のように持って隣国へ入ってみるかな。剣や弓や馬や鳥獣、薬草、科学機器に農耕具。きっと、毎日目を丸くするぞ」  モーヴは食事の手を止めた。 「そなたは利口なのかバカなのか、よくわからん。そんなもので、いつまでも気がひけるわけがない。うまい料理やきれいな服でも持っていったほうが気がきいてる。女は上手に家庭をとりしきり、気だてがいいのがいちばんだ。なあ、リリー」  レイカの左側に座っていた侍女は、ナプキンで口元の脂をぬぐった。ピンクのドレスの胸元で、おさげに編んだブルネットの髪が揺れた。 「女は、美しく聡明で強いのがいちばんです。馬上のお姫さまより美しい女なんか、この世にはいませんとも! うまいものばっかり食べたがってると、どこかの国の使者さまのようにお太りになるんです。いい若い者が、昼間からゴロゴロと。あー、みっともない」  どこかの国の使者とは、隣国のハモンディ公のことである。侍女たちの間では、無能と傲慢の代名詞のように囁かれていた。  モーヴは口をとがらせた。 「ケガ人に向かって、なんだ、その口のきき方は! おまえの主人の替わりに毒刃を受けたんだぞ!」  リリーはすました顔で答えた。 「どこかの誰かが卑怯なマネをなさったからじゃありませんこと? 自業自得ってものでしょ」 「言っておくがな、オレは気が進まなかったんだ! あの婆さんがムリヤリ押しつけたから、仕方なく……」 「連れてきたのは殿下でしょ。断れないなら、どこかに置いてくればよかったんです」 「モノみたいに言うな。あいつは命令を遂行するまで離れなかったんだ。着替えだろうと、小用だろうと、そりゃあ、しつこいのなんの……」 「子どもひとりに手こずって、今度は言いわけですか」 「思いつめた子どもほど手に負えないものはないぞ! 命令さえきけば、母親や妹を呼び寄せられると信じて疑わなかったんだからなあ! かわいそうに」 「かわいそうなのは殿下のほうです! いいおとなが、いくら命令だからって、何の罪もない女性をこっそり殺しにくるなんて! 他でもないうちのお姫さまですよ? 一生許しませんからね!」 「何の罪もだと! 今までどれだけオレが迷惑をこうむったと思ってるんだ! だいたい、軍人は国の命令には従うもんなんだぞ、不本意だが、しょうがないだろ!」 「国王陛下が命令したんですか! 国の命令って言ったら、国王陛下の命令でしょう! 引退したおばあちゃんの命令の、どこが国の命令になるんです!」 「うっ、うるさい!」  モーヴは真っ赤になって怒鳴った。 「ほうら、自分が不利になると大声で黙らせようとするんだから。すなおに、自分が悪かった、ごめんなさいと謝ったらどうです」 「うるさいっ! うるさい、うるさい、うるさい!」  レイカは声を立てて笑った。 「仲がいいことだな。ところで、その子どものことだが、何かわかったかな、モーヴ殿下」 「いや」  モーヴはリリーからレイカに向き直った。 「妹の足取りはつかめない。あの金髪なら目立って探索も容易だろうと思っていたんだが……。年が年だ、まだ幼すぎて、郭《くるわ》の奥で下働きにでも使われているんだろう、見かけた者がおらんのだ。母親は病死し、妹は生活苦のために南方に売られ、まったく叔父上の一族の運命たるや惨憺たるものよ」 「南方か」  レイカはため息をついた。 「しゅろの枝、彩やかな鳥の羽、あのような美しいものに囲まれておれば、なにがしかの慰めになろうか。聞くところによれば、冬がないとか」  モーヴは首を振った。 「冬はある。雪が降らないだけだ。夏は蒸し暑く、民は一様に陽に灼けているというぞ」 「かなうものなら、一度訪れてみたかったな。モーヴ殿下は行かれたことがおありか?」 「いや。しかし、いつかは行くかも知れん。叔父上の末裔が見つかればな。虹の清水辺りらしいのだ。その妹が売られていった先は」  虹の清水には伝説が残っている。怪物ヘデロが恐ろしい液を吐きだし、辺り一帯を溶かしたと。美女アッシャを探していた英雄セージュが折よく通りかかり、陶製の壁でヘデロを液ごと閉じこめ、溶かしてしまう。怪物は退治されたものの、荒れ果てた村を前に人々が絶望し膝を折ると、山中から清水が勢いよく吹きだし、村を洗い清めた。それはアッシャのしわざであり、清水の中に影を見たセージュはつかまえようとするが、すんでのところで逃げられてしまう。アッシャが清水を飛びだすと、水しぶきがあがり、二重の大きな虹がかかったという。以来、そこは虹の清水と呼ばれている。 「調査は終えてしまったが、今後も噂には気をつけてみようと思う。何かわかったら、おまえにも知らせる」  モーヴの言葉にレイカはうなずいた。  子どもを斬ったことは悔いていない。己の野望のためには暗殺を厭わぬ者に、寄せる同情など持ちあわせてはいない。  しかし、王太后の被害者には憐れみを禁じ得なかった。 「王太后をのさばらせてはおけぬな。殿下も少しは抵抗したらどうだ」  レイカはおとがいに手を当て、険しい目つきでモーヴの顔をのぞきこんだ。 「抵抗したじゃないか、恩人を助けるために。ひと肌脱いだのを、もう忘れたのか?」  モーヴは陽気に笑った。 「何の話だ?」  レイカは眉をひそめ、首をかしげた。 「皮肉か? そりゃあ、面と向かってあの婆さんと対決できないのは本当だが。オレだけじゃない、妾腹の兄弟たちは、みな、あの婆さんに逆らえないんだ。物心つく前から、あの婆さんは父上の留守を狙って訪ねてきて、鞭や棒で叩くわ、火を当てるわ、ひどい拷問をくり返したもんだ。王の寵姫には傷をつけられないからな、犠牲になるのは子どものほうと決まってる。おかげで、すっかり恐怖がしみついちまった。カルヴ兄上と、兄上に預けられていたおまえぐらいだろう、例外は。だから、オレが直接対決できなかったのは大目に見てくれ」  モーヴは手を振って笑った。 「まあ、では、背中やお腹のキズは戦士の勲章だと自慢していたのは、ウソだったんですね!」  リリーが頬をふくらませた。  モーヴは悪びれず笑う。 「ウソは言ってないぞ。ハクがつくだろう?」 「そんなの、ウソと同じじゃありませんか! だましてまで勝つのが、一国の将軍のやることですか!」  グリーンのリボンで縁取られた白い袖が上がり、ふたりをさえぎる。 「直接対決できずとは、何のことだ? 殿下は何をしたのだ?」  目は疑問に加えて真剣さを帯びていた。  モーヴはその強さにたじろぎ、あわてて口早に言葉をついだ。 「いや、たいしたことじゃない。入れ知恵しただけだ、あの幸せな王子に。婆さんとの戦い方をな。実に単純な男だ。婆さんは口先だけの見かけ倒しだから、必ず勝てると吹きこんだら、本当に信じこみやがった。あとは戦法を付け焼き刃で授けただけだが、あんなにうまく行くとは思わなかった。そなたも婚約者から聞いておるだろう?」  答えるべき言葉が見つからなかった。モーヴの顔を呆けたように見つめたまま、レイカは身動きできなかった。  反応したのは侍女のほうだった。 「では、お姫さまの本当の恩人は殿下というわけですわね。他のことはともかく、この点だけはお礼を申しあげますわ。私たちのお姫さまを助けてくださって、ありがとうございます」  トゲのある言い回しに、モーヴは眉をあげた。 「『他のことはともかく』はよけいだ」 「でも、初耳ですわ」  リリーは不機嫌な恩人を相手にせず、主人を見た。 「そのごようすでは、アプスさまは何もおっしゃらなかったのですね。まったく、何てズルい人なんでしょう! 何もかも自分の手柄にして恰好をつけるなんて! そもそも、どこかのいくじなしが他人をアテにするからいけないんです! 考えた本人が責任もって行動すれば、愚者を賢者だとか、無知を勇気だとか勘違いしないで済んだんです!」 「なにをっ! オレが悪いっていうのか! オレがいなかったら、今ごろおまえの大事な主人はこの世にいないんだぞ!」 「助けて当然です! お姫さまがこれほど情け深くなかったら、殿下なんか、とっくの昔に死んでたんですからね! ねえ、お姫さま?」  侍女が呼びかけたが、返ってきた答えは、ふたりの呑気な言い争いがまるで聞こえてないということを示すものだった。 「恰好をつけたのではなく、用心したのだろう。この国で真実を話すことを避けたのだ。己の無知が王太后に知れては不利だからな」 「マムおばちゃんだったら、こう言いますわ!」  リリーは腰に手をやって、胸を大げさにそらせた。マムに仕草もそっくりなら、声の調子もそっくりだった。 「お姫さまは世間知らずなんだから。人は自分本位にできてるもんです。ご自分を基準にしちゃいけません」 「似てる、似てる」  モーヴは手を叩いて笑った。 「みな、あれを過小評価しているのだ」  レイカは苦笑した。 「いずれにしろ、これからはあれに世話になるのだ。仲良くしてくれ」 「お世話をするのは誰のほうでしょうね! まあ、どこに行こうと、私はお姫さまについていきますけど」 「おい、おい、おまえは残るんだろ?」  モーヴはあわててリリーの顔をのぞきこんだ。 「おまえがいなくなったら、誰がオレの世話をするんだ」 「どなたでも! 常勝将軍モーヴ殿下ともなれば、お世話係のご婦人方には事欠かないでしょうよ! いっそのこと、この際奥方をお決めになれば? お好みをおっしゃれば、みなこぞって家庭的で料理上手になるでしょうよ!」 「オ、オレはだな!」 「お黙りなさい。殿下がどうなろうと、知ったこっちゃありません。私はお姫さまだけが大事なんです」  モーヴはうらめしそうにレイカを見た。  レイカは苦笑した。 「料理が冷めぬうちにあがるがよい。リリーの手料理が食べられるのもあとわずかなのだから」    八 赤いベストの伊達男  室内には真新しい敷きわらの匂いが充満していた。垂れ布のついたてが壁代わりに三方を囲み、低い天井と壁とは白く塗られていて、ところどころに茶色いしみのようなものが浮かんでいた。  唯一の壁には、くり抜いたような四角い窓があり、高さといい、大きさといい、人が乗り越えるには申し分がなかった。よろい戸の薄い戸板は長いつっかえ棒で大きく開かれ、西日が床に落ちていた。  日だまりの下、円座の上にあぐらをかいた赤いベストを着た暗褐色の髪の若者が、女の裸体を模した青い小瓶を光に透かしていた。瓶に射しこんだ赤い陽光は、中の黒い液体に吸いこまれたように見える。 『非礼を詫びよう』  パーヴを出立する前夜、ひそかに王太后に呼びだされた。天井からやたらと布が垂れさがった薄暗く狭い部屋だった。ろうそくが三本立てられた燭台を年老いた侍女がささげ持ち、両側をふたりの衛兵が固めていた。  非公式の席だというのに、王太后の装いは目を惹いた。巨大にふくれあがった茶褐色の髪は色とりどりの宝石を散りばめたネットでおおわれ、耳からは大きな金の三連リングが垂れさがっていた。胸元は大きくあき、ダイヤをふんだんに使った扇形のネックレスが肌をおおっていた。ドレスの表面は光沢のあるうすぎぬで、その下から絹地が透けて見えた。暗くてよくわからないが、色は派手なピアニーのように思えた。  対照的にも、顔にだけは、地味な黒いベールがかけられている。 『そなたは大した男よ。わらわを負かした男は三人しかおらぬ。父上と先王とそなただ。心服しておる。これなら、大事な姫を任せられる。実は、姫のことは日ごろから憎からず思っておってな。妾腹とはいえ、幼いころより我が息子の家でよく面倒を見たものよ。わらわにとっては娘も同じ。よい婿に恵まれ、安堵しておる』  アプスがうれしそうに笑うと、侍女が近づいて瓶を手渡した。ろうそくの光で目がくらむ。 『祝いの品だ。床に就く前に体に塗れば、夜の愉しみも増そう』  アプスが礼を言うと、黒いベールの中から目が炎を受けて光ったように見えた。 『ところで、そなたと姫の婚約を喜んだ友も数多くおろうな。親も同然のわらわだからこそ知っておきたい。それは誰ぞ?』  父王や兄王子、郷里の祖父の名を挙げ、リュウインの者たちは喜んでおります、とアプスは答えて退室した。  モーヴのことが頭をよぎったが、黙っていた。ヘタに話せば、手柄をすべて奪われるかも知れない。入れ知恵したのはモーヴだが、実行したのは自分自身なのだ。横取りされてはたまらない。  そうして、王太后からもらった媚薬が、今、ここにある。リュウインの城の片隅、和平をもたらした功労者の手元に。  今宵、使ってみよう。  瓶を振りながらアプスは思った。二夜、いや三夜分はあるだろう。初夜であわてないよう、予め試しておかなくては。  とつぜん、手元から瓶が消えた。 「あっ」  アプスは声をあげて辺りを見回した。  瓶は真上にあった。頭上でひげだらけの馬面が笑っている。 「媚薬か。こりゃいい」 「か、返してください! 大事なものなんです!」  アプスは立ち上がり、背後から忍び寄った盗人に抗議した。 「そ、それがないと……。ええっと、持病の癪が……」 「ウソつけ。ただの薬が、こんな思わせぶりな瓶に入ってるものか」  女の裸体が空中で回った。 「畜生でも発情はするよなあ。こいつで王女をたらしこんだのか?」  相手の暗褐色の眼が細くなり、暗褐色の口ひげとあごひげの間から赤い舌がのぞいた。年のころは三四、五。分別のあるべき年だが、態度は幼かった。瓶を高く掲げ、すがるアプスを押しのけては楽しんでいる。 「獣は獣らしく、尻の臭いでも嗅いでな! これは人間さまの使うもんなんだよ!」 「返してください! お願いですから! それがないと……」  アプスの腹に、相手の足がめりこんだ。うめく間もなく、壁に叩きつけられる。頭がくらくらして、敷きわらの上に這いつくばる。 「安心しな、オレが代わりに使ってやるよ。汚ねぇ隣国のメスブタより、リュウインの美女を愉しませるほうが、薬も本望ってわけさ」 「メスブタだと!」  アプスは怒りに震えて立ちあがった。 「姫は、レイカ姫はメスブタなんかじゃないぞ! 取り消せ!」  暗褐色のひげ面の男は笑った。 「取り消すさ! ブタのほうが食えるだけ上等だ」 「くっそう! 許さん!」  アプスは突進したが、相手は身をかわし、足をひっかけた。  ぶざまにひっくり返っている間に、勝者は高笑いして出ていった。  アプスは涙ながらにつぶやいた。 「返してくださいよう、グルース兄上……」  翌朝、体の痛みで目を醒ました。  角材ふたつに板をのせただけのベッドである。シーツの下にクッションはない。  これじゃ、田舎にいた時よりひどい! アプスは泣きたくなった。  脚の長いベッド、やわらかなクッション、温めてくれる女たち、当たり前のものが何ひとつない!  パーヴでの日々が懐かしく思い出された。  広い室内、美しい調度品、ふかふかの大きなベッド、旨い食事、そして……。  胸元から純金製のロケットを引きだす。ふたには小粒のサファイヤとダイヤが散りばめられ、『クジャク』とかいう鳥の姿を形どっている。開けると、中から長い黒髪の姫が微笑みかけてきた。  肖像画を望むと、姫はわざわざ絵師を呼び、アプスの願いをかなえたのだ。 『一年後には、髪も絵ほどに伸びよう』  再会の日の絵姿である。 『そのロケットに入れてください』  あつかましくも姫の胸元を指すと、姫は笑ってロケットを外し、中身を入れ替えて授けてくれた。 『それは……』  取りだしたものを訊ねると、姫は手のひらを開いてみせた。 『ただの草だ』  色あせ、乾き、何の草かもわからなくなっていた。 『何かの記念の品ですか?』 『母から授けられたのだ。もしもの時は使うようにと』 『もしも?』 『もういらぬ』  手のひらは閉じ、乾いた草を粉々にした。  アプスは叫び声をあげた。 『母君の形見でしょう? そんな……』  姫は笑い声をあげ、手を窓の外に突きだした。夜風が粉をさらっていった。 『大事にしてくれ』  アプスの首にロケットをかけた。  アプスは感激し、直立したまま姫の肩をいつまでも見つめていた。目の前がちょうど肩の高さだったのだ。  そうだ。大事にすると約束したのだ。  アプスは粗末な板ベッドから飛び起きた。  グルース兄上に、瓶を返してもらうのだ。まだ使いきってはいまい。  ついたてをつっきると、敷きわらさえない土の上でやせ細った男がひとり寝転がっていた。毛布がわりに薄いマントをひっかけ、横になれば床にはもうすきまもないというありさまだった。 「起きろ!」  アプスは男は靴の先で蹴った。 「グルース兄上のところに案内しろ!」  反応はなかった。  脳裏に厭なイメージが浮かんだ。  狭い塀の中に累々と並ぶ男たち。それは国境で腐臭とともに味わった光景で……。  足下にいた男がゆっくりと身を起こした。 「ひいぃっ」  アプスは悲鳴をあげた。 「朝っぱらから、なんだ? やろうってのか」  男が睨みつける。  ほっとした。  すごまれたほうが、幽霊に囲まれるよりマシだ。 「オレは第三王子にしてファシネイの次期領主のアプスだ。グルース兄上の部屋に案内しろ」 「知らねえよ、自分で探しな」  男は再び横になった。 「オレはこの国の王子だぞ!」  アプスはあっけにとられた後、脚を踏みならした。 「うるせぇな、黙らねぇとその口を二度と開けねぇようにしてやるぞ」 「無礼な! やれるもんならやってみろ!」 「盗人のクセに」  吐きだすように男は言った。 「オレはな、手クセの悪いあんたが、この物置から何も盗らねぇように見張れと命じられてるんだ。そのためには、骨の一本や二本折ったっていいと言われてる。今ここでそうしたっていいんだぜ」  盗人じゃないぞ! と反論したかったが、痩せた男が薄いマントの下で関節を鳴らすのを聞くと、何も言えなくなった。静かに壁際を通って扉をくぐった。 「物置だって? 盗人だと!」  廊下に出ると、アプスはこぶしでもう片方の手のひらを叩いた。 「これが王の息子にする仕打ちか! オレは和平をもたらしたんだぞ! パーヴのたったひとりの美しい姫をもらったんだぞ」  姫はこんな仕打ちは許さないだろう。姫が黙っていたって、あの侍女たちが許さない。パーヴで何不自由なく育てられてきたのだ。こんなひどい待遇に甘んじてるわけがない。パーヴ国王だって、知ったらタダじゃおかないに決まってる。  いやいや、姫をひとめ見たら、兄上たちは、きっとご機嫌とりに走るだろう。あんなに美しいんだから。でも、姫が愛してるのは、自分だけだ!  そう思うと、急に元気が出た。足を速めて、奥へ奥へと進む。  確か、暗いが上になればなるほど、奥まった心地のいい部屋に住むと、講義で習ったな。  パーヴで過ごした一ルーニーもムダではなかったとみえる。  隣国と違い、途中で衛兵に止められることはなかった。いくつもの渡り廊下を越え、四角い柱が六角になり、土にわらを敷いた床が石だたみになった頃、数人の侍女と行き違い、あるいは先を越された。襟や袖があおられる勢いだったので、アプスはひとりを呼びとめた。 「これから何かあるのか? 忙しそうだな」 「お医者さまがいらっしゃる前に、きれいなお湯を用意しないと……」 「子どもでも生まれるのか?」  侍女は答えず、エプロンドレスの端を少し持ちあげて礼をすると、あわただしく駆けだした。  アプスはさらに先へ進んだが、八角の柱の棟に入ったところで止められた。 「グルース兄上に会いたいのだ」  と、侍女に詰めよったが、 「病に伏せってらっしゃいます」  の一点張りで、しまいには衛兵が出てきて追い返されてしまった。  アプスの横を医者がすり抜け、しばらくすると、首を振りながら戻ってきた。 「グルース兄上の具合はどうだ?」  アプスが勢いこんで訊ねると、 「もはや医者の領分ではありませんな」  謎のような答えが返ってきただけだった。  けっきょく、夕方になってから、兄の訃報がもたらされた。  夜のとばりが落ちると、ようやく次兄グルースの棟の人通りも絶えた。しかし、衛兵がふたり、離れの入口をかためている。もうふたりが建物のぐるりを見回っている。  アプスはこっそり灌木の間を縫って中庭に入りこんだ。パーヴの王宮に比べれば衛兵の数は問題ではなかった。  この棟でいちばんいい部屋は、と。  南側に回り、庭の具合を品定めする。密集する灌木は、パーヴの王宮と同じものだった。  ヒースとか言ったかな?  細い枝がすきまなく茂るので、手には次々とすりキズができた。延々と苦労してかきわけていくと、急に開けて、池が現れた。巨石が池を囲むように置かれ、女神の石像が池のほとりにひとつ、巨石の間にひとつ、名も知らぬ細い木下にひとつ。季節の花のしぼんだつぼみが、緑のじゅうたんを赤や黄色で彩っている。  ここだ。  外壁はタイルで七色の衣をまとった女を、剣を佩いた男が追っているさまを描いていた。  廊下をふたりの歩哨がかためていたが、真剣に睨んでいたのは庭でも廊下でもなかった。  床である。  正しくいえば、石畳に敷かれた布と駒である。 「待った! 」 「待ったなし! おまえ、さっきからそればっかりじゃないか」 「待て待て! 王が右に出れば騎士にやられる。左に出れば将軍がいる。後ろは歩兵……。歩兵相手なら勝てるか。よし! これでどうだ!」 「かかったな。補給物資はいただくぞ」 「しまった! そうきたか!」 「どっちにしろ、おまえの負けだ。おりるか?」 「待った待った!」  声の感じでは、ふたりとも二十代前半といったところか。勝負の行方はともかく、言葉は歯切れがいい。  床に座りこんだ歩哨たちは、腰にさげられていたであろう棍棒を、左手のそばに置いていた。  殴られたら痛いだろうな、打ちどころが悪ければ死んでしまうかも。  手に汗がにじみ、腕が震えた。  来た方向をふり返る。  今ならまだ……。どうせ帰らねばならない道なら、今すぐ……。  胸をおさえる。ロケットに手が触れた。 「姫」  つぶやくと、早足で窓に走りよった。よろい戸に手をかけると、かんたんに開いた。頭をつっこんで、一気に滑りこむ。  勢いあまって転がり落ち、床にキスをする。  よろい戸が音を立てて閉まる。  アプスは緊張して耳をそばだてる。  歩哨は騒がない。  安堵して、室内に目をこらす。灯のない部屋は、星明かりに照らされた庭よりも暗い。  床を這い、手さぐりで家具を知る。  散らかってるな、とアプスは思った。  床中に衣類や置物とおぼしきものが転がっていた。引き出しという引き出しも開いている。  整理整頓ぐらい、ちゃんとしろよ。なんて質の悪い侍女なんだ!  小瓶ひとつを探しだすのは至難のわざに思えた。手のひらにすっぽり包みこめるほどの大きさである。衣類にまぎれようものなら気づかない。ひとつひとつていねいに触って確かめていく。  灯りが欲しいなあ! 部屋じゅうを見渡せるヤツ!  ムダだと知りつつも目をこらしていると、不意に手元が明瞭になった。  ほら、みろ。あきらめないことが肝心……。  瓶を探して辺りを見渡す。  顔をあげると、まぶしさに目がくらんだ。  ランプを掲げた男が立っていた。 「ひっ」  小さく悲鳴をあげ、腰をぬかした。 「出っ、出たっ! あ、兄上、どうかお許しを! わ、私は瓶を探していただけで……」 「瓶?」  男が訊き返す。 「わっ、私からとりあげたじゃないですか。裸の女の形をした、媚薬の瓶ですよ。私はただ、あれを返してもらおうと……。大事なものなんですよぉ。パーヴの王太后さまから直々にいただいたもので。もう、兄上には用のないものでしょう? 返してくださいよぅ」  とまどったような声が返ってきた。 「もしや、グルース殿下の弟君、アプス殿下でいらっしゃいますか?」  アプスはまじまじと相手を見つめた。落ち着きが戻ってくる。 「おまえは兄上ではないのか?」  男は片膝をついた。涼やかな音が鳴り響いた。腰につけた銀の飾りが揺れたのだ。  つばの広い帽子をとる。羽やリボンのついた赤い帽子だ。シャツはたっぷりした袖をリボンで二カ所しぼっている。たっぷりしたズボンは途中から長い編みあげブーツに隠され、ブーツのくるぶしには革とリボンの飾りがついていた。  おしゃれな男だな、とアプスは思った。グルースは高価なものは着ても、こんなに手のかかる服装はしなかった。 「お初にお目にかかります、アプス殿下」  ひざまずいた男の目が光る。大きな褐色の目。やや丸顔であるものの、太くくっきりした眉、高いしし鼻は男性的で、大きな口は艶めかしくもあった。 「私はランベルともうします。まだ爵位もなく、お目通りできる身分ではありませんが、こうして御前にはべる機会に恵まれたこと、光栄でございます」 「どうした? 悲鳴が聞こえたぞ」  戸外から、歩哨が呼びかけてきた。 「何でもない。助手がつまずいただけだ」  ランベルは冷静に応じる。 「助手なんかいないぞ」  アプスは首をめぐらせた。 「連中にはわかりゃしません。私が入ってくるところすら、ろくに見やしなかったのですから。見たくもないでしょう。不吉なものには背を向けるに限ります。私は、殿下、兄君を連れだしにまいったのですよ」 「兄上を?」  アプスは首をかしげた。 「でも、グルース兄上は死んだのではないか?」 「ここにいらっしゃいますよ。そら」  部屋の片隅に幅広のベッドがあった。毛布をめくると、男の頭があらわになった。  褐色の髪、ひげで毛むくじゃらの長い面。見覚えがある。  頬には親指の爪ほどのどす黒い斑点がいくつも浮かんでいた。鼻にも、まぶたにも、額にも。  さらに毛布をめくると、その両わきに女が現れた。同じように斑点におおわれた顔。  もう充分だった。しかし、目は釘づけだった。  毛布はしまいまでめくられ、あらわな肢体が斑点に埋め尽くされているのを見た。  胃から熱いものがこみあげてきた。一気に逆流した。  ランベルはアプスを一瞥すると、動じるふうもなく、毛布でグルース王子の体をくるみ始めた。 「アプス殿下、落ちつかれましたか?」  胃液すら打ち止めになった王子を見て、ランベルは言った。 「兄君を外の車にお連れします。足のほうをお持ちください」  アプスは仰天して両手を振った。 「毛布越しです。動きはしません。勇気を持って、どうかお持ちください。殿下は今、私の助手ということにおなりです。怪しまれぬよう、安全にここから出るには、この方法しかありません」 「出るわけにはいかん!」  アプスは首を縦に振らなかった。 「まだ探しものが終わっとらん!」 「先ほどおっしゃられていた瓶でございますね。後で私がお探しします。見つかれば、必ずや殿下にお届けいたします」  アプスは迷った。  ランベルと名乗る男を信じるか否かは問題ではなかった。  恐ろしい仕事の片棒をかつがずにすむ方法、死体の足を持つなどというおぞましい行為から免れる方法を、必死に考えていたのだ。  ランベルは小さくため息をついた。 「私はひとりでも、グルース王子殿下のご遺体をお連れします。残りふたりの女たちと、ひとりきりでここに留まりあそばしますか? 殿下」  背筋が凍る心地がした。 「いや、それは……」 「では、殿下、足のほうへ」  毛布ごしに硬い棍棒をつかんでいるようだった。 「これは棍棒だ、棍棒だ、棍棒だ」  小声で唱え続けた。  表に出ると、碁に興じる歩哨たちは奇妙にも並んで背を向けていた。  その後ろを通り、遺体を荷車にのせる。薄い板で囲われた粗末な荷車である。まさかとためらったが、ランベルはそこに遺体をおろした。 「車の後におつきください」  ランベルは前に立ち、荷車を引いた。アプスは震えを押し殺しながら歩いた。荷車に手をふれる気にはならなかった。 「なんとひどい」  ひとけがなくなった辺りでアプスはつぶやいた。 「私の大伯父たちでさえ、身分は低いながら、もっとマシな扱いを受けたぞ。これではクズと同じではないか」 「この死に様のせいです」  ランベルは言った。 「呪いを受けたともっぱらの噂。触れればたちまち伝染するとか」 「なんだって!」  アプスは両手を見た。 「それをなぜ早く言わん! 毛布ごしとはいえ、触ってしまったではないか! ああ、私は呪われてしまった! もうおしまいだ!」 「落ち着きなさい! 静かに!」  ランベルが制した。 「ただの噂です。バカバカしい。呪いなんかで人が死ぬなら苦労はない」 「おまえは怖くないのか?」  アプスは上目づかいに訊ねた。 「私が恐れるのは生者です」  ランベルは憮然として答えた。 「殿下、今のうちにそっとお帰りください」 「いや、しかし……」  アプスはうつむいた。手が震える。 「まだ瓶を……」 「私はこれから墓所へおもむき、グルース王子殿下を埋葬いたします。その後二度往復しますから、その時に部屋をあらためてみましょう」 「往復! あの忌まわしい場所に戻るのか?」  声まで震えた。 「さよう」  ランベルの声音は強く、落ちついていた。 「あのかわいそうな女たちは、あれでも貴族の姫君ですぞ。王子殿下に愛され、束の間の栄華をつかんだのです。まことに束の間でしたがな。彼女たちもまた、家に見放され、葬る者がないのです。私の他には」 「おそろしい」  アプスはわななく声でつぶやいた。 「おそろしいヤツだ。あんなところに三度も足を運び、呪われた死者を三体も運ぶのか」 「命じられましたからな。死者には私を害す力はありませんが、生者には可能です。一言命じればいい。それで私も私の家も、すべて終わりです」 「それは非難しておるのか? グルース兄上の処置を決めたのは、父上かループス兄上に違 いない。国王と王太子を批判するのか? 不敬罪だぞ」 「おや。殿下も私と気持ちは同じとお見受けしましたが」  ランベルの声が笑いをふくむ。 「お行きなさい。人目に触れる前に。ここにいらしたことを知られてはならない。そうでしょう? 殿下」  その通りだ。  アプスは場を離れた。  空腹のあまり、目がさめた。  何時だろう?  朝ではなさそうだった。部屋の片隅にある窓から朝日がさしこむまで、まんじりともしなかったのだから。  体が痛い。粗末なベッドはこたえる。パーヴで寝起きしたベッドが恋しい。そして、旨い食事と美しい姫。  ついたての外に出ると、物置番の男はいなかった。薄い毛布が板ベッドの上で乱れているだけだ。 「おーい、誰かいないのか?」  こわごわ声をかけながら、廊下に出た。  ひとけはない。  忙しくて、みな出払っているのだろうか?  何の用で?  ふいに、昨夜の光景がよみがえり、背筋が凍りついた。  みな、逃げだしてしまったのだろうか?  それとも、呪いの犠牲になり果てたのか? 「おーい、おーい。誰か、誰か」  ノドがしめつけられ、声が細くなった。  心なしか、廊下が薄暗く思える。 「誰か、灯を持て。灯を持ってこーい」  静寂をおそれ、声を出し続けながら、窓の外を仰ぎみる。  暗雲垂れこめ、嵐の気配がした。  逃げてしまったんだ!  ふいに、激しい恐怖にかられて、アプスは駆けだした。  ここはつぶれてしまうんだ。みんな逃げて、自分だけがとり残されてしまった。いや、死にたくない!  薄闇の湿った空気で肺は冷え、ノドはあえいだが、走らずにはいられなかった。肉体は早くもへばっていたが、心の悲鳴はとぎれなかった。 「これはこれは。殿下」  何かにぶつかり、跳ね返ってしりもちをついた。 「あいたた……」  尻をさすった。鈴の音が、辺り一面に鳴り響いている。  目の前に手が伸びてきた。 「ひいいいっ」 「殿下、私です。ランベルです」  おそるおそる見あげると、丸顔に太眉としし鼻、果たして昨夜の小男である。浅黄色の上衣は、袖がたっぷりしており、リボンで結んでふくらみを作っていた。 「殿下、おそれながら、お手を」 「あ、ああ」  ランベルに引き起こしてもらうと、アプスは腹をつきだした。 「そなた、昨夜はもっと声が低かったと思うが」  怖がったのを声のせいにする。 「なにぶんにも、あのような場所でありましたので。殿下、失礼ですが……」  ランベルはアプスの腹と背中の上部と押した。 「ぐわっ。なにをする!」 「殿下、威厳とは胸を出して示すもの。腹ではございませぬ。たかが姿勢ではございますが、万人にもわかるようお示しくださいませ」 「ああ、そうだったな」  隣国パーヴでも、さんざん姿勢を直されたのだった。  教育は厳しかったが、あそこには姫がいた。美しくて強くてやさしい姫が。  胸元のロケットをにぎると、力がわいた。 「うむ。ランベル、出仕ご苦労。ところで、誰の姿も見えないのだが、何かあったのか?」 「今朝方、ループス殿下が亡くなったのです」 「あ、兄上がっ」 「流行病ではないかとの噂がたち、国王陛下をはじめ、貴きご身分の方々は、早々にお発ちになりました」 「はっ、流行病っ」 「例によって私が処理を仰せつかいました。ループス殿下の寝所に立ち入りましたところ、これを発見いたしました」 「は、入ったのか!」  アプスは後ずさりし、勢いあまって再び尻もちをついた。なおも、見苦しく手足をバタつかせ、退がろうとする。 「殿下、お探しのものではございませんか?」  ランベルは片膝をつき、アプスの目を見る。 「あっ。それだ! その瓶だ!」  指さし、アプスはわめいた。たしかに、パーヴの王太后にもらった媚薬の瓶だった。 「それを、どこで?」 「ループス殿下の寝所にて」 「おかしいな。グルース兄上が持っていったのだが……」  アプスは首をひねる。 「近侍の者から聞き出しましたところ、グルース殿下がお亡くなりになった直後、寝所からお持ちになられたのだとか。宝石やお衣装などとともに」 「なるほど。それで……」  その時、アプスはおそろしいことに気がついた。 「中身が! 瓶の中身がない!」 「香りがかすかに残っております。これと同じ香りが、ループス殿下、グルース殿下、添い寝の美女たちから立ちのぼっておりました」 「ああ、ぜんぶ使ってしまったんだ……」  アプスはがっくりと肩を落とした。  ランベルは、じっとアプスを見つめていた。 「では、兄上たちが使ってしまったのだな。どうして残してくれなかったのだ! 私はなんと王太后陛下に申し開きをすればよいのだ」  アプスが嘆くさまを、ランベルはなおもじっと見ていた。 「王太后陛下は、実に怖い方なのだ。宮廷で恥をかかせた私を快く許してくださり、表向きは仲の悪いレイカ姫の結婚を、影からこっそりお祝いしてくださったのに。その祝いの品を、このように粗末に扱ったとご存じになれば、ああ! こんどこそ、私をお許しにならない! 破談だ! あの姫をもらい受けられない! もうおしまいだ! 姫もあきれておしまいになるだろう! 嫌われてしまう!」  ランベルは、ただじっと見ていた。  アプスは苛立ち、胸のロケットのふたを開けた。 「見るがいい! これがパーヴのレイカ姫だ。この方と破談になった私の苦しみがわかるか?」 「なるほど。気の強そうな……いや、お美しい。実に聡明そうな……」 「聡明そうではない、ほんとうに聡明なのだ。この方は、私が第三王子でも、田舎住まいでも構わぬと言ってくださったのだ」 「では、王太子の元ではいかがでしょうな」  おもむろに、ランベルは口を開いた。 「王太子? ループス兄上がどうかしたか?」 「おそれながら、アプス殿下。ループス殿下はもはや王太子ではございませぬ。この世のお方ではありませぬゆえ」  あ。と、アプスは叫んだ。 「しかし、……しかし、グルース兄上が……」 「グルース殿下も、この世のお方では」  アプスはうろたえた。 「だが、父上には大勢の姫がおる」 「降嫁なさっていらっしゃいます」 「じゃあ、その婿どのが……」 「婿よりも、その息子たちが強敵と存じます。王の血をひいた王孫たち。アプス殿下と、そう年は変わりませぬ」 「うん、うん。だから妾腹の私には関係が……」 「アプス殿下は第三王子であらせられます。国王陛下より正式に認知されていらっしゃいます。ただのご落胤と一緒にされては困りますぞ。アプス殿下には、ご立派に王太子となる資格がございます」 「私が! 私がか!」  アプスは恐れるように左右を見た。 「ご心配なく。誰もおりませぬ」  ランベルが低い声でささやく。昨夜と同じく、どこか艶めかしい。 「いや、しかし、私には後見人がない。祖父はただの田舎貴族で、宮廷にコネはないし……」 「後見人でしたら、及ばずながら、私にお任せください。心当たりがないこともございません」 「いや、しかし、祖父にも相談してみないと……」 「アプス殿下のご出世を喜ばないお身内がありましょうか?」 「いや、しかし、レイカ姫にも相談してみないと……。せっかく、田舎暮らしをするつもりでいてくれるのに……。レイカ姫は馬がお好きでな、野駆けをひじょうに楽しみにしてくださっておる」 「王太子になれば、国中が狩り場になりますぞ。第一、王妃になるのを喜ばない女が、どこの世界におりましょうか! 国中の土地という土地、富という富がすべて我がものになるのです。絹も、金銀も、人も、みな手中にできるのです」 「うん……姫は喜んでくださるかな?」 「もちろんですとも!」 「でも……」 「まだ何か?」 「私が王になって、見劣りはしないかな。パーヴのカルヴ陛下は威厳があって、姫はそれを見馴れているから、風采のあがらない私など……」 「そんなこと!」  ランベルは高らかに笑いとばした。 「威厳は地位に応じて作られるもの。殿下が国王陛下におなりあそばされた暁には、自然に伴っておなりですよ。姫もますます殿下にお惹かれあそばすでしょう」 「そうか?」  アプスはうれしそうに笑った。 「私はな、旨い菓子と姫の笑顔さえあれば、他にはなんにもいらないのだ」 「なんと無欲な! これほど国王にふさわしい御方がいらっしゃるでしょうか! 権力欲の渦巻く宮廷に吹く涼風でございます。殿下こそ、生まれながらの国王でございます」 「そうか?」  アプスは得意そうに腹をつきだし、気がついてあわてて胸を張り直した。 「殿下にお仕えしとうございます」  ランベルは頭も下げずに言った。 「どうか未来の国王陛下にお仕えするのをお許しください」 「よし、許してやるぞ」  アプスは上機嫌でうなずいた。  漆黒の棺がふたつ並んでいた。  その前で、参列者たちは大声をあげて涙を流した。 「おや、王子殿下」  下座のアプスの前に、喪服の女が現れた。年は五〇前後、鞠のようにふくれているのは、いたるところについた豪奢なレースやフリルのせいばかりではないだろう。  後ろに人がぞろりと続いている。 「一の宮のイベットさまでいらっしゃいますぞ。現在は降嫁されて、コラル公爵夫人におなりです」  ロウン公がアプスにささやいた。 「姉上でいらっしゃいますか! お初にお目にかかります」  アプスは親しげに笑顔を浮かべた。  コラル公爵夫人は扇子を広げ、口元を覆った。黒いベールの下から、小さな目が光った。 「汚らわしい」 「は?」 「次にあすこへ並ぶのは、きっと殿下でございますわね」 「あすこ?」 「三人も矢継ぎ早に王子を失っては、国王陛下もさぞかしお嘆きあそばされるでしょう」  アプスは真っ赤になった。 「私が死ぬとでも? 失礼な! 姉上といえど……」 「お黙り。その汚れた口で姉などと。妾《わたし》まで汚れてしまう」 「私のどこが汚れてるって言うんです?」  アプスが訊ね返すと、コラル公爵夫人はかん高く笑った。 「まあ! これだから田舎者は!」  両手にはめた黒い手袋をかざす。甲のところに、円にヒースと煙をあしらった紋章が、金で刺繍されている。 「王族の葬儀にはこの手袋をはめるのが習わし。田舎では教わりませんでしたの? 先が思いやられますわね」  羽根飾りのついた扇子を揺らす。  アプスは眉根を寄せてロウン公の手を指さした。 「公は手袋をしていないな」 「王族のみの習わしでございますから」  ロウン公はしわだらけの手をさすった。 「なぜ、教えなかった」 「よもやご存じないとは、想像だにいたしませんでしたので」 「おまえまでバカにする気か!」  コラル公爵夫人はかん高く笑った。 「汚れは手から入ると申します。せいぜいお気をつけあそばせ」  ぞろりと供をつれて、コラル公爵夫人は上座にもどった。  アプスはギリリと奥歯をかんだ。  葬儀から戻るなり、アプスは怒鳴った。 「あのような場で、辱めを受けたのだぞ!」  黒い外套をひるがえし、荒々しく馬車を降りる。  袖に入ったスラッシュを赤いリボンで留めたモスグリーンの上着の男がうやうやしく手をとる。上着には手のこんだ刺繍が一面にほどこされ、ボタンをはずした懐から赤いベストがのぞいていた。 「この役立たずを紹介してきたのは、ランベル、おまえだぞ! どうしてくれる!」 「お声が大きすぎます。じゅうぶん聞こえておりますぞ」  太い眉がシワを作る。 「国王陛下は姉上夫婦にお声をかけてくださったが、私は下座で捨て置かれた!  ほんとうに私は王太子になれるのか? どうなんだ! オレをだましてるのか!」 「お黙りなさい!」  大きくはないが鋭い声が制し、大きな褐色の眼がアプスの顔に突き刺さった。 「これから、殿下にはお郷里《くに》にお戻りいただきます。馬車はあちらにご用意してございます。荷造りは済み、あとは殿下がお乗りになるのを待つばかりでございます」 「か、帰るのか?」  アプスの顔が泣きそうにゆがんだ。 「王太子殿下ともあろうお方が、情けない! 姉上とはいえ、コラル公爵夫人など降嫁したご身分ではございませんか。そのような下々の者と交わって、よいことがあろうはずはございません。どっしりとお郷里《くに》に構え、国王陛下からのお迎えをお待ちください」 「下々の者……下々の者か! うん、そうだな!」  アプスの顔が輝いた。 「そうだ。今に見ていろ! 王太子が、たかが公爵夫人風情と一緒くたにされてたまるか!」 「では、あちらの馬車へ」 「よし!」  アプスは意気揚々と身をそらせて歩きだした。途中で腹を突きだしすぎたことに気づき、引っこめる。 「うまく行くものかな?」  老いた顔に皺を寄せ、ロウン公はささやいた。 「軍備は万全ですな?」  アプスを見送りながら、ランベルはささやき返した。 「むろん。国王軍の六割がたは掌握しておる。だが、軍事力だけで王太子の地位が転がり落ちることはあるまいよ。王侯貴族どもをどう納得させるつもりだ?」 「細工は粒々」  ランベルの口の端が上がった。 「失望させるなよ」  ロウン公は館へと歩きだす。 「ご心配なく」  褐色の眼がきらめいた。 「王侯貴族は一掃しますよ。……あんたもね」    九 呪詛  差しだされた手を、レイカはけげんそうに眺めた。 「お手をどうぞ」  ふたたび、丸顔の小男がくり返した。 「退け。ひとりで降りる」  白い手袋をはめた手を振るが、小男はさがらない。 「ご婦人に尽くすは騎士の務め」 「御者! 御者はおりませんの!」  馬車の窓からリリーが叫んだ。  御者台から大柄な男がすっ飛んでくる。 「道を開けてちょうだい。お姫さまがお困りです」 御者は帽子をリリーに向かって振り、小男の前に割って入った。 「お退がりください」 「御者風情が!」  小男が一喝した。 「おまえごときがしゃしゃりでる幕ではない! 身分をわきまえぬか!」  御者の眉があがった。手が腰にのびる。 「短気はいけませんよ、殿下!」  リリーが窓からたしなめた。 「仮にもお祝いごとなんですからね。殿下お得意の戦争をしに来たわけじゃありません!」 「殿下?」  小男が目をみはる。 「兄のモーヴ王子だ」  レイカは口を開いた。視線と同様に口調も冷ややかだった。 「このたびはみずから御者役をかってでてくれた」 『大事な妹の輿入れだからな』  レイカの居室に訪ねてきたモーヴは言ったものだ。 『道中、護衛も要るだろう。一部隊ひきつれて……』  ちらちらと背後に目を向ける。 『どう思う? リリー』  苦笑しながら、モーヴ持参の花を活ける侍女に問うと、すげない答えが返ってきた。 『兵隊さんなんか連れてったら、むさくるしいじゃありませんか。第一、常勝将軍ともあろう方が国の守りをおろそかにしていいものじゃありませんし、それに、軍勢なんか連れていってごらんなさい。あちらの国では戦争かと警戒しますわよ』  モーヴは声をあげて笑った。 『そりゃあいい! 連中をおどかしてやるか!』 『バカおっしゃい! それで本当に戦争になったら、どうなさるおつもりですか!』 『オレが負けるとでも思うのか? なあに、連中の情けないツラを片っ端から……』 『お姫さまの避難場所がなくなるじゃありませんか! ぜんぶ王太后さまのご領土にして、どうなさるんです!』  リリーは最後まで認めなかったが、出立当日、御者台に座った男を見て唖然とした。 『将軍や兵隊はいらなくとも、御者はいるよな?』  その押しかけ御者は腰から手を放して問うた。 「そなたは?」  御者を遠巻きに馬丁たちが取り囲む。 「あきれた。親衛隊たちまで連れてきたんだわ」  リリーがつぶやいた。 「これはたいへん失礼いたしました」  赤いつば広の帽子がとられ、小男が軽く足を引いて頭を垂れた。  上着の中から赤いベストが見え、懐で丸いものが光った。 「申し遅れましたが、私はリュウイン王国宰相ランベル公爵でございます」 「国王はどうした」 「ただ今執務中でございまして……」 「おやまあ! うちのお姫さまと仕事とどっちが大事なんだろうね!」  マムが場所の中から声をあげた。 「いいのだ。国民《くにたみ》を治めてこそ王なのだから」  レイカは馬車から降りた。  黒地に青いラインの入った旅行着は身軽で、上着は短く、ズボンのふくらみは小さく、膝までの長いブーツが足を覆っていた。 「長旅でお疲れでしょう。お部屋へご案内いたします」  小男が申し出た。  その後ろに出迎えの行列が長く続いていた。貴族らしい身なりの男女たちが、待ちかまえるようにそわそわと一行を眺めている。 「王妃さま、お手をどうぞ」 「イリムさま!」  馬車から降りたばかりのマムが大声を張りあげた。 「騎士のお役目ですよ!」  後方の馬車から、濃い栗色の口ひげをたくわえた長身の男が現れた。大きな図体にもかかわらず、すばやく駆けつける。その腕に、レイカは手をかけた。 「モーヴ殿下、馬をお願いする。それから、うちの侍女を返していただけないか?」 「ほら、ご覧なさい!」  宙に浮かんだままリリーは言った。馬車を降りる際に抱きあげられ、どう抗議しようと下ろしてもらえなかったのだ。 「御者は馬の世話をしてください! よけいなことはしなくてよろしい! そして、さっさとお国へ帰ってくださいね!」  地に足がつくと、リリーは憤然と言い放った。  小男はおもしろそうにようすを眺め、大きなしし鼻を動かした。 「では、ご案内しましょう。こちらは……」  それから城まで延々と、出迎えの貴族たちを紹介されたのだった。 「お姫さまは疲れてらっしゃるっていうのに!」  ようやく部屋に着くと、マムは憤慨した。 「あの男ったら! お姫さまにはっきり嫌われてるのに、ちっとも動じやしない!」 「私も大嫌いです!」  リリーが大きくうなずいた。 「見ました? あの目! 私やお姫さまを頭のてっぺんからつま先まで、なめるように眺めまわすんです! 気持ち悪いったら! ねえ、お姫さま?」 「それもあるが……」  旅行着を脱ぎもせず、レイカはソファの肘かけで頬杖をつく。 「なにより気になるのは、懐からのぞいていた……」  部屋の扉が大きな音を立てて開いた。 「レイカ!」  明るい栗色の巻き毛の男が足早に入ってくる。 「もう仕事はよいのか、陛下」  レイカの眉間がゆるんだ。 「ムリヤリ終わらせた!」  赤いマントをひきずった若き国王は、子どものように頬を光らせた。 「ランベルのヤツ、今朝はまた山のように仕事を押しつけてきて……。でも、見事に終わらせてやったぞ! 予が本気を出せばこんなもんだ。そんなわけで、出迎えにはまにあわなかった。すまぬ」 「姿勢がよくなったな」  暗褐色の眼が輝く。 「すっかり国王らしくなったろう! ランベルがうるさくてな。姿勢やら歩き方やら手の振り方まで、何もかも口を出すのだ」 「その宰相とやらだが」  レイカの眉間に皺が寄った。 「あの上着の中はなんだ?」 「やったのだ。まだ父上がご存命のころかな。予に初めて仕えたのがランベルだったのだ。なにを怒るのだ? 着衣を下賜するぐらい、誰でもやっていることだろう? あれは確かに、そなたの兄がこしらえてくださったものだが……」 「赤いベストのことではない。クジャクのロケットだ」 「ああ、あれか。戴冠式の後にな、なにか欲しいというのでくれてやったのだ」 「あれは、我が母の形見だ。そなただからこそくれてやったものを!」  奥歯を噛むレイカを、アプスは不思議そうに眺めた。 「もう、予のものだろう? どうして予の好きにしてはいけないのだ? ランベルはなかなかの洒落者だからな、あのぐらいの細工物でなければと思ったのだ。そんなに惜しいのなら、同じものを作らせよう。機嫌を直せ」  レイカは目をみはり、首をふった。 「では、絵はどうした。そなたに持たせてやったろう、絵師に描かせた私の絵姿は?」 「うん、一緒にくれてやった。ランベルがひどく羨ましがるのでな」  アプスは悪びれず答えた。 「予には、本物がいるからな。絵姿の一枚や二枚くれてやってもよかろう? そうだ、もっと立派なものを描かせて、城中に飾らせよう。そなたの美しさにみなひれ伏すぞ」 「……宰相とやらと、ずいぶんと仲がよいのだな」 「ランベルはよく尽くしてくれる。まだ予がみなにおざなりにされていた頃からな。人脈もある。予が王太子になるのに必要だといって、ロウン公とかいう者を後ろ盾にすえてくれた。運もいい。ランベルが仕えてからは、とんとん拍子に王太子の話が決まり、今では国王だ。そなたも仲良くするがいい。くれぐれも大事にするように」  レイカは目を伏せ、左右に首を何度もふった。 「そのロウン公とやらは……」 「死んだ」  アプスはこともなげに答えた。 「おそろしい流行病《はやりやまい》が宮中を襲ってなあ。身分の高い貴族はみな死んでしまった。予は故郷に帰っていたためにまぬがれたのだ。これも、ランベルのおかげだ。予に故郷に戻れと言ったのはランベルだからな」 「どんな病で?」 「知らぬ。だが、心配することはないぞ。予が王位についてからは、すっかりおさまっておる。これも、ランベルが城内を管理しているからだ。どうだ、優秀な宰相だろう」 「何をどう管理しておるのだ。原因を突き止めねば、ふたたび病を得るぞ。そもそもまことに流行病なのか?」 「ランベルがそう申しておる」 「陛下は確かめたのか?」 「ランベルに任せておけばだいじょうぶなのだ! 予の仕事をこれ以上増やすな! 予は朝から晩までサイン漬けでうんざりしているというのに!」 「サイン? そなたの仕事とはそれか?」 「ぶっ、無礼者! そなたではない! 陛下と呼べ!」 「では、陛下。陛下の仕事とは……」 「女の分際で、男の仕事に口出しするな!」  レイカは口をつぐみ、頭《こうべ》を垂れた。 「そうだ。初めからおとなしく従っていればいいのだ。今宵はかわいがってやるぞ。婚礼の儀は二シクル先だが、かまいはしまいて。予の部屋は北の棟にある。念入りに着飾ってくるのだぞ。そなたの渡りをみなが眺めるだろうからな、誰もがうらやむような美しい姿で参れ。女の価値は美しさと従順さで決まる。ランベルがそう申しておった。女の価値を上げるのも、男の器量次第。最初が肝心なのだ。最初に男が優位に立てば、その後もうまくいく。強気で頬のひとつも張り飛ばせと……」  レイカの長い腕が、アプスの胸ぐらをつかんだ。 「私を殴る? そなたが?」  目が細くなる。 「女の価値は従順さにあると? あいにくだったな。私にはまったく欠けていることを、そなたは存じなかったのか?」  強くつきとばす。 「国に帰るぞ!」  侍女に声をかける。 「花嫁違いだったらしい。私の来るべき場所ではない」 「ひっ、姫!」  アプスはあわてて腕にすがった。 「お待ちください」 「退け」 「わ、悪うございました! 私が悪うございました!」 「宰相とやらと末永う仲むつまじくな」 「姫〜」 「これをつまみだせ」  待ってましたとばかりに三人の侍女たちが国王を廊下に引きずりだした。 「姫〜。お許しを〜」  廊下から、情けない声が響く。 「お姫さま」  扉に鍵をかけて戻ってくると、マムが不安そうに見あげた。 「わかっておる。帰るところはない。ここにおるしかないのだ」  レイカはため息をついた。 「あちらでは王太后、こちらでは宰相。つくづく……」  廊下に子どものような泣き声が響き渡った。 「泣き疲れたら入れてやれ。熱い茶の一杯でもくれてやろう」  闘技場に金属音が響いた。  白刃が閃く。  右へ左へと、レイカは剣をさばいた。受ける衝撃が左手に心地よい。 「へばってきたか? 動きが鈍いぞ」  笑みを浮かべるが、それ以上の余裕はない。  この感覚だ、とレイカは思う。  人の心ほどの速さで斬りつけ、受けとめる。  もたつく暇はない。己のすべてを注ぎこむ。緊迫感。限界に挑む快感。  視野の角に赤色がよぎった。 「終わりだ」  レイカは相手の喉元に剣先をつきつけた。  男は刃を鞘におさめ、一礼した。  拍手の音が場内にこだました。 「さすがですな、王后陛下」  上着の下に赤いベストを着こんだ小男が愛想笑いを浮かべていた。 「まだ陛下ではない」  レイカは壁にかけたタオルを二本とり、一本を剣友に投げた。 「じきにおなりです。婚礼のご仕度は順調にお進みですか」 「そなたが仕切っていることだろう。それとも私に訊ねなければわからぬのか?」 「行き届かぬ点がございましたら、どうぞお申しつけください。ところで、変わった剣ですな。突くのではなく、斬るのですか?」 「イリム、あがろう。汗を流したらそちらへうかがう。奥方によろしくな」  レイカは汗を拭きながら、闘技場を出た。 「イリム子爵さまはすばらしい剣豪であらせられますな」  赤いベストの小男が後ろからついてくる。 「王后陛下がおそばに置かれあそばすのもムリからぬこと。威風堂々たる体格、ぬきんでた剣技、まことの男であらせられます」  レイカは足を速めた。  小男は丸い体を揺らしながら、なおもついてくる。 「陛下がお腰にさげられているのは、もしや名高いピートリークの宝剣ではございませんか?」 「だったらどうする」 「ぜひじっくりと拝見いたしたく……」  レイカは剣を抜いた。白刃が妖しく輝いた。 「切れ味を試してみるか?」 「御意」  鼻先に剣先を突きつけられ、宰相は微笑んだ。大きな目が不敵に輝く。 「この身はすでに国王陛下に捧げたもの。今や王后陛下のものも同じでございます。どうか、お気に召すままに」  レイカは眉をあげ、宰相を睨みつけた。剣をおさめて声を張る。 「では、去れ! それが望みだ!」  赤いベストの宰相は恭しく一礼し、立ち去った。 「あの男は気持ちが悪い」  茶を飲みながらレイカは行儀悪く足を組んだ。 「あの大きな目で眺めまわされると、こう、全身に鳥肌が走るような……」  身を震わせる。  円卓を囲んでモーヴが高らかに笑った。 「目だけじゃないぞ、デカいのは。鼻も口もデカい。そもそも、あの背丈であの頭はないだろう。おまえの二倍はあるぞ」 「態度も大きいですわ。まるで殿下みたい」  レイカとモーヴの間でリリーが言った。 「招かれてもいないのに、のこのこついてくるなんて」 「警護する義務があるからな。婚礼が終わるまでは、レイカはパーヴの人間だ」 「警護ですって? お姫さまより弱いクセに」 「一回負けただけだろ!」 「イリムさまのほうが、よっぽど頼りになりますわよ!」 「あの……」  明るい栗色の髪の若い女がひかえめに口をさしはさんだ。 「我が家では大歓迎ですわ、モーヴさま。子どもたちも、お姿を拝見できて大喜びしております」  大きな目にあどけなさの残る少女のような面立ちである。既婚女性がそうであるように髪は両わきを残して結いあげてあるが、見る者の目には違和感を与える。 「ほら、見ろ。イリム子爵夫人はおまえと違 って話がわかる!」 「アンジェラ、気をつかわないで。殿下がつけあがるから」 「うちの侍女が言うには」  レイカは周囲を見回した。城の中庭にはエンジュやサルスベリなどの高木が植えられている。パーヴのような低木はなく、見通しがいい。 「昨年、病が流行った折り、王族の陰謀が明るみに出たとか」 「知ってる。ふたりの王子が死んだ後だろ。降下した王女たちが、国王の王位転覆を企てたとか。ロウンのヤローが陣頭指揮をとったんだろ」 「あら、殿下。ロウンのヤローだなんて。ご存じですの?」 「ヤツの軍は、何度も叩いてやったからな」  モーヴは得意げに目を光らせた。 「リュウインの主力部隊よ。近衛隊もヤツの指揮下じゃなかったかな。腰抜けばかりでオレにはかなわなかったが、反徒の寝こみを襲うにはじゅうぶんだろ。ただ、その時に、王族の下に放っておいたこっちの手の者もやられちまった。それきり、宮廷の情報は何も入らん」 「その後も病は流行り、国王は亡くなった。郷里《くに》にもどっていたアレが呼びもどされると、今度は郷里《くに》が病を得て、一族みな死に絶えたそうだ。それで、アレは強運の国王だと自負しているらしい」 「ずいぶん都合のいい話じゃねぇか。流行病って、あれだろ? 全身に斑点ができるとかっていう……」 「私の母が、あの婆さんからもらった媚薬があってな」  レイカはもう一度、用心深く周囲を見回した。 「全身に塗るのだとか。だが、塗ったが最後、すさまじい熱さにみまわれ、呼吸困難に陥って死ぬ。その体には醜い斑点が浮きあがるそうだ」 「まるで、見てきたようだな」  モーヴはニヤリと笑った。 「おまえの母親は、それで死んだのか?」 「まさか」  ニヤ、とレイカは笑い返した。 「媚薬など要るものか。眉のひとつもひそめて見せれば、たちまち国王が寄ってくるものを?」 「じゃあ、どうした」 「侍女がくすねた。ひとめで媚薬とわかる瓶に入っていたのでな。死体からは乳香の香りがたちのぼっていた」  小さな悲鳴があがった。イリム子爵夫人が血の気を失い、唇を震わせていた。 「何か知っておるのか?」  レイカが目を細めた。 「いただいたのです。同じものを。初夜にレイカさまのお肌に塗るようにと。国王陛下から」 「兄上から? 直々にか?」 「そんな恐れおおい……。使者が持ってきたのです」 「兄上が、おまえを殺そうとするだろうか?」  モーヴが首をかしげながら、カップに口をつけた。 「それとも、あの婆さんが名を語って送りつけてきたか、だ」 「ほかに、何か受け取ったか?」  レイカはやさしい声音で訊ねた。 「お茶やお菓子を。レイカさまにと」  勢いよく、モーヴは吹きだした。 「茶? 茶だって!」 「これは違 います!」  あわててイリム子爵夫人は首を振った。幼い顔立ちの中で、ただでさえ大きな目が、これ以上はないというくらい見開いていた。 「ご婚礼ののち、リュウインの国王陛下とご一緒の時にお出しするようにと。レイカさまがお国を自慢できるようにと。ですから、まだ封も切っておりません」 「アンジェラ、それをすべて持っておいで。リリー、手伝っておあげ」 「はい」  ふらつく子爵夫人の腕をとって、おさげ髪の侍女は室内に消えた。 「申しわけございません」  大柄な剣友が膝をついた。低い声が短く響く。 「よせ。私の目が行き届かなかったのだ」 「まったく、あんな純真なご婦人を利用するなんて」 「病の原因なのだがな」  レイカはくり返し周囲を見回す。 「先ほどのアンジェラの話では、私とアレが一緒のところをと条件づけられたという。ただの憎悪だろうか。それとも他にもくろみが……」 「リュウインを乗っ取るつもりなら、子どもを生ませてからだろうな。理由をつけて子どもを引き取り、後見人となって王位継承権を主張するのだ。しかし、今殺しても、何の得もない」  モーヴの手がカップの柄をつかみかけ、思い出したように離れた。 「だとしたら、病の根源は誰なのだ? その毒を手に入れ、まいたのは?」 「病ではなく、毒殺説か?」  モーヴはからかうように笑ったが、目はそうではなかった。 「侍女が聞いてきた話では、城下の薬屋が行方不明なのだとか」 「薬屋のひとりやふたり……」 「パーヴの王室づきの薬師《くすし》の弟子だったとか。毒物に詳しかったとの噂もある。弟子ともども、煙のように失せたという」 「夜逃げでもしたか。それとも、旅先で不慮の事故にあったか……じゃなさそうだな? その顔じゃ」  まじめな顔つきで、レイカはうなずく。 「家族の者に一切告げず、すぐれた腕を持ったものがとつぜん消える……」 「いわば常套手段だな。秘密の場所に幽閉してヤバいものを作らせる。用が済めば始末する。で、捜索はしたのか?」 「知らぬ。侍女たちに引き続き調べさせている」 「侍女たちって……。まさか! リリーに危ないことさせてるんじゃないだろうなあ!」 「いや」 「そりゃ、よかった!」 「ちっともよくありません!」  中庭に若い女の声が響いた。 「誰のせいだと思ってるんです、私がレイカさまのために働けないのは! 殿下が声をかけてくるから、もう素性がバレバレです! 今日だって、何度声をかけました?」 「いや、その……早かったな」  リリーは大人ひとりがすっぽり入れるほどの長持ちを引きずっていた。そばのもうひとりのほうは、てんで役立たずだった。青ざめた顔で、足どりさえおぼつかなかった。 「モーヴさまぁ」  子どもがふたり、イリム子爵夫人の後ろから駆けてきた。  四つとふたつの、まだ年端もいかぬ女の子である。どちらも母親似の、ゆるくウェーブのかかった明るい栗色の髪を持ち、大きな目で常勝将軍と呼ばれる男を見つめている。 「ほらほら、ぼっとしてないで、これをお姫さまのお部屋に運んでくださいな」  リリーが長持ちを置いた。 「ここで開けるわけにはいきませんからね。おちびちゃんたちがまちがって触ったりしたらたいへんです!」 「モーヴさまぁ」  大きいほうの幼女がとびついた。 「ぐるぐるして! ぐるぐるして!」  母親は注意するどころではない。ふらりとバランスを崩した。  おさげ髪のブルネットがあわてて彼女を抱きかかえる。 「リリー。アンジェラを介抱しておいで。ゆっくりでよいから。モーヴ殿下は子どもたちの世話を。私はこれを運ぶ」  レイカが席を立った。 「お姫さまがそんなこと! 殿下に運ばせます!」 「だが」  母親似の幼女たちを見る目が細くなる。  倒れた若い母親のそばで、小さいほうがぐずりだした。 「どうした、エルシー」  モーヴが抱きあげた。 「母さまは、ちょっとお休みしてるだけだ。そっとしておいてやろうなあ」  大きいほうもぐずりだし、モーヴの青い衣のすそを引いた。 「ドリス、いい子だ。よしよし」  空いているほうの腕で抱きあげる。  実の父親はといえば、テーブルから動かず、表情も変えず、目だけが落ちつかず右往左往した。  やれやれ。不器用な男だ。  レイカは長持ちを両手で抱え、自室にもどった。途中で幾度も衛兵が目を丸くした。 「お運びしたいのは山々ですが」  衛兵たちは口々に言った。 「持ち場を離れますと、お叱りを受けますので」 「別にかまわぬが」  レイカは部屋に戻ると、マムを相手に苦笑した。 「守りが過ぎるのではないかな。あれほど兵の数が要るとは思えぬ。他の役目に回すべきだろう」  リリーがもどったのは、夜になってからだった。 「遅かったな。アンジェラの具合は、思いのほか悪かったのか?」  おさげ髪のブルネットは赤面し、唇を震わせていたが、恥じているのではなかった。 「衛兵!」  叫んで絶句した。 「座れ」  レイカは向かいのソファを指した。 「水でも飲んで、落ちつけ」  リリーは手渡されたグラスの水を一気に飲み干した。 「お姫さま!」  グラスがテーブルの上で大きく鳴った。 「あの衛兵をなんとかしてくださいまし! あいつらのせいで! あいつらのせいで!」 「おまえになにかしたのか?」  レイカが眉をひそめる。 「あたしを! 何度も見かけてお姫さまの侍女だってわかってるはずのこのあたしを! 身分を証明できなければ、次の棟に通せないって言うんですよ!」 「なら、私かマムを呼べばいい」 「身分もわからないのに、呼び出しなんかできないって言うんです!」 「まいったな。それで、どうしたのだ?」 「押し問答になって、日暮れになってからやっとわかったんです。衛兵が時々こうやる意味を」  手をカギにして引くマネをする。  レイカがニヤと笑う。 「だから、髪飾りの石をふたつやりました。衛兵がひとりひとつって要求しましたのでね。次の棟でもふたつ、その次でもふたつ。途中でなくなってしまったので、ネックレスやイヤリングもやってしまいました」 「災難だったな。髪飾りはともかく、ネックレスはモーヴ殿下にもらったものではなかったか?」 「泣いて頼むからつけてやっただけです! なくなってせいせいしましたわ。髪飾りやイヤリングはどうせイミーテーションですしね。そんなの惜しんで怒ってるんじゃありません! 融通がきかない上に袖の下だなんて、ここの衛兵はどうなってるんですか!」 「おまえが遅くなった理由はわかった。で、モーヴ殿下はどうしたかな。袖の下もわからぬほど融通がきかぬとも思えぬが」 「あたし……私より先に出ましたけど。来てないんですか?」  リリーは室内を見回した。 「仕方ないな」  レイカは足下の長持ちを開け、中身を取りだした。  缶入りのキャンディー、クッキー、ケーキ、ドレス、スカーフ、下着、指輪、ネックレス、イヤリング、香水瓶……。  テーブルに並ぶさまを見て、後ろでひかえていたマムが大きなため息をついた。 「まだありますの?」  その隣でサミーは表情ひとつ変えない。 「そういえば、例の流行病の件は進んだか?」  次々に中身を並べながらレイカは訊いた。 「いいえ」  マムは首をふった。 「なかなか思うように進みません。それより、気になることが」 「なんだ、それは」 「あの気取った赤いベストの小男のことでございます。元は身分の低い貴族だったとか」 「それは聞いた。アレについて出世したのだろう?」 「はい。そこまでは誰でも知っているのですが、その前となると誰も知らないのです。どこかの街の領主だったとか、どこかの下級貴族の婿養子だったとか、さる高貴な方の隠し子だったとか、出所の知れない噂は数あるのですが……」  レイカは笑った。 「そのうち、龍の化身だとか言い出されかねないな。アレに天の加護を与えて病魔を払い、王位を授けたとか」 「ご冗談おっしゃってる場合じゃないですよ!」 「放っておけ」  レイカは笑った。 「身分の低い出なのだろう。よくある話だ」 「でも、お姫さま。相手の隠し事はこちらの切り札に……」 「身分なら、他人のことは言えぬわ」  自嘲する。 「誤るな、マム。私は闘争を欲しているわけではないのだ。膿があるなら出したいだけだ」  ドアの開く音がした。じゅうたんがすれる音が続き、赤いベストの小男が姿を現した。 「おまえ!」  マムが怒鳴った。 「ここはお姫さまのお部屋ですよ! 誰に断って勝手に!」 「勝手に入られてはお困りのご相談をなされていらしたのですかな」  小男はたくわえた茶色い口ひげをなでながら、ゆっくりと室内を見渡す。 「お部屋の居心地はいかがですかな。行き届かぬ点がございましたら……」  視線がテーブルの上で凍りつく。 「これか?」  レイカは言った。 「祝いの品をもらったのだ」 「どなたに」  小男の声はわずかにかすれていた。 「そなたに言う必要があるかな」 「御礼を……」  咳払いをした。 「水をいただけますかな。多忙でノドを傷めたようで」 「残念ながら、切らしておる」  リリーが飲み干したグラスをひっくり返してみせる。  小男はあきらめよく言葉を継いだ。 「御礼をさしあげねばなりません。王后陛下の物は国家の物。お預かりし、帳簿に控え、返礼を用意させていただきます。で、どなたに賜られたのですか?」 「菓子はかまわぬだろう?」 「いえ。すべてお預かりいたします」  懐から呼び鈴を取りだす。振ると、たいそう耳ざわりな騒音をまき散らした。  ドアが開き、衛兵がふたり入ってくる。 「無礼なっ!」 「ここをどこだと思ってますの!」  マムとリリーが怒鳴ったが、抗議も虚しく、衛兵はテーブルの品々を長持ちごと持ち去った。 「責任を持って、のちほどすべてお返しいたします。しばしお待ちを」  赤いベストの小男は恭しく礼をした。 「他にもございますれば」 「ない。あれですべてだ」  レイカはおもしろそうに小男の顔を眺めた。 「では、どなたから賜られたもので? お名前をお聞かせください」 「さて。誰だったかな。そうだ。たしか国王陛下にいただいたのだったな」 「お兄上でございますな」  大きな目がぎょろりと動いた。 「いや、この国の国王だ。アプスとかいう……」  小男の小鼻がふくらんだ。レイカの表情を読みとろうとするかのように凝視する。  レイカは不敵に笑い返した。 「国王に、くれぐれも礼を申してくれ。失礼のないようにな」 「御意」  赤いベストの小男は、恭しく礼をした。    *  *  *  若草色を基調としたリビングルームは、今やすっかりパーヴ風に彩られていた。クジャクの羽根とシュロの枝が壁に飾られ、花瓶には少し早い紅鮮色のヒースの花が生けられていた。  窓からはぬるくなり始めた風が入り、かすかに草の香りを運んでいた。  テーブルにパーヴのマイアール焼きのポットが置かれる。 「お菓子がほしいところですわね」  リリーが青いカップのみ並んだテーブルをもの欲しげに眺めた。 「就寝前に食べると太るぞ」  レイカは笑った。 「モーヴ殿下に嫌われたらどうする」 「のぞむところですわ!」  リリーはにんまりと笑った。 「でも、殿下はマムおばちゃんみたいな人が好みなんですって」 「あたしがかい」  レイカの左でマムが笑った。 「そうよ。かっぷくがよくて、陽気で大声で、肝っ玉かあちゃんみたいなとこがいいんですって」 「よかったな、マム。輿入れ先は決まったぞ」 「厭ですよ、あたしは。お姫さまのお子を育てあげたら、小さな土地をもらって悠々自適の余生を送るんです」 「望むなら、今すぐ暇をやるぞ」 「ご冗談を。あのマヌケ面と赤イタチの前にお姫さまを残していけるものですか。でも、お子の時代になれば安心です」 「なぜだ?」 「だって、お姫さまのお子ですからね! 聡明でおやさしいに決まってます! 王位につかれた暁には、あんな赤イタチ、王宮に置いときませんよ!」 「わからぬぞ。半分はアレの血をひくのだからな」  レイカが人の悪い笑みを浮かべる。  リリーがテーブルを叩いた。 「それが唯一気に入らないところですわ! あんなマヌケ面のふぬけの血を半分入れるなんて! お相手がイリムさまならまだしも!」  レイカは片眉をあげた。 「リリー。めったなことを言うものではない」 「でも……」 「おかしな噂をたてられては、子爵夫妻が迷惑だろう。あの夫婦は似合いだ。あの子どもたちを見ればわかるだろう?」 「そうだよ、リリー。イリムさまはお姫さまの大事なお友だちなんだからね」  マムがたしなめる。 「はい、はい、ごめんなさい。でも、イリムさまは私から見てもすてきな方だと思いますわ。不言実行、質実剛健ってタイプですわよね」 「見るからにムサいだろう。気の利いたことも言えぬぞ」  レイカがからかう。 「そうですとも」  マムが笑ってうなずいた。 「イリムさまときたら、おひとりでは奥方さまに求婚もできなかったんですからね」 「そうなの?」 「そうですとも! 誰が見たって相思相愛なのに、ぐずぐず思い悩んで。お姫さまがお気をきかして山荘におふたりをご招待した時もねえ。途中でお姫さまがお帰りになって、おふたりっきりにしてみたんだけどねえ」 「イリムさまは紳士だもの。図に乗って言い寄ったりしないわよ」 「ものには程度ってものがあるよ。なにも、朝から晩まで外で素振りしてることはないだろう。土砂降りだったっていうのに。夜になると、馬に乗って野宿に出かけるんだよ。朝はもどってくるけど、体についた泥も拭かせてくれやしない。ご自慢の髭は泥でガチガチに固まって、汗くさくて、あたしゃ、アンジェラさまがよほどお嫌いなのかと思ったよ」 「アンジェラもそう思ったのだよ」  レイカが苦笑した。 「あのときはまいったな。嫌いなら嫌いとはっきり言われたほうがマシだと泣きつかれて」 「それで、どうしたんですか?」  リリーをのぞく一同が笑った。サミーまで声をもらしている。 「だました」  レイカは笑いながら言った。 「お姫さまったら、お人が悪いんですから。みなさまと申し合わせてね、アンジェラさまが他の殿方と結婚することになったということにしたんだよ」 「じゃあ、それでイリムさまがついに……!」 「それが逆に落ちこんでしまってな。招待客として式にひきずり出したんだが……」 「じゃあ、式で愛の告白を……!」 「ダメだった」  レイカは笑った。 「しかたないので、有無を言わせず新郎の席に座らせて命令した」 「アンジェラさまと結婚しろ、さもなければ今日から友とは思わん! ってね。まったく、数々の武勲を立てた勇者も、女性の前では形無しなんですからねえ」 「私、ちっとも知りませんでしたわ。見るからにお強そうだから、てっきり……」 「おまえは行儀見習いで外に出ていたからな。どうだ、モーヴ殿下を見直したか?」 「どうしてそこで殿下が出てくるんです!」  リリーは再度テーブルを叩いた。空のカップが音を立てた。 「わかりやすくてよいだろう。子ども好きだし、よい父親にもなるぞ」 「やめてください! 殿下はあの女好きの父親の血をひいているんですよ! そりゃあ、お姫さまも半分はひいてますけど、でも、お姫さまはお母上さまの血が濃いですからね」  マムが大きくうなずいた。 「そうそう! お姫さまのお子も、きっとお姫さまの血を濃く受け継がれます。あんなマヌケ面の血なんか、もともといかにも薄そうじゃございませんか!」 「そうですとも! 父親が誰であろうと、お姫さまのお子ならなんでもかまいませんからね!」 「それは喜んでよろしいのでしょうかな」  ふいに、男の声が響いた。  赤いベストの小男が立っていた。後ろに長持ちを抱えた衛兵がふたり続いている。 「おまえ! ここをどこだと!」  マムが立ち上がり、レイカとしし鼻の小男との間に入った。 「お預かりしたものをお返しにあがりました」  衛兵が長持ちをおろす。 「お茶の時間でしたか。私もお相伴に預かってよろしいですかな」 「無礼者! おまえなんぞ……!」 「私がおりましてはマズいお話でも?」  小男はゆっくりと一同を見回す。 「よい。マム。席を用意してやれ」 「お姫さま!」 「よいから」  レイカは右にずれ、左に小男を招いた。  サミーが新しいカップを出し、マムが頃合いになった茶を一同に注ぎまわった。 「リリー。ちょうどいい。もどってきた菓子を宰相どのに出しなさい」  リリーがぎょっとレイカを見る。 「おそれながら、それは王后陛下が賜られたもの。私などがいただけるものでは……」  小男はやんわりと辞退する。 「私の出すものが食えぬと申すか?」 「いえ、そのような」  リリーは長持ちの中からクッキーとケーキの箱を出した。  渡したときと変わらず、美しく封じられている。リボンを解き、包みを解き、密封された缶を開けると、見た目にも美しい菓子が現れた。  震える手でクッキーを皿にあけ、ケーキにナイフを入れた。 「どうぞ」  うわずる声で、皿を押しだした。 「遠慮はいらぬ。ほんの気持ちだ」 「ありがとうございます」  小男はクッキーをつかんだ。  リリーが青ざめた。マムは息を飲み、サミーは無表情だった。レイカは唇の端に笑みを浮かべていた。 「いただきます」  一口に放りこんだ。サクサクとした音が小さく響いた。 「すばらしい。たいへん美味しゅうございます」  小男は次々にクッキーを口に放りこみ、ケーキを味わった。 「ところで、塩はどこですかな」 「塩?」  レイカは聞き返した。 「はい。茶に入れる塩でございます」 「塩!」  マムが笑いだした。緊張のあまり、すっとんきょうな笑い声だった。 「この上、差し湯まで欲しがらないでしょうね!」 「いかにも」  小男は怒りもせず、にこやかに返した。 「この茶は少々濃すぎますな。差し湯で少し薄めたほうが……」 「見かけ倒しの貧乏貴族の習慣です!」  マムは意地悪く笑った。 「茶葉が高くて買えない者が、見栄を張って飲むときの作法です。私どもは、そういうケチなことはいたしません」 「これはこれは失礼いたしました」  小男は茶を口にふくんだ。 「なるほど。実に芳しく、実に旨みにあふれている。王后陛下は食にわたっても賢くあらせられる」 「気に入ったか?」 「はい。茶も菓子も王后陛下のご趣味のよさをよく表しておりますれば」 「では、やろう。入れ物ごと部屋に持ち帰るがよい」  レイカは長持ちを目で指した。 「いえ、そのような。国王陛下から賜られたものなれば……」 「なんだ。私のものなど受け取れぬか」 「めっそうもない。もったいないことで」 「では、とっとと持っていけ」 「ありがたき幸せ」  小男は胸に手を当て、謝意を示す。 「なにをしておる。持っていけ」 「はい。茶をいただきましたらすぐに……」 「とっとと、と言ったろう。今すぐ持って失せろ」 「御意」  小男は笑みを浮かべ、衛兵を従えて退室した。 「お姫さま、だいじょうぶでしょうか?」  リリーが小声で訊いた。 「なにがだ」 「もし、あの赤イタチが死んだら、お姫さまのお立場がお悪くなるのではありませんか」 「なぜだ」 「お姫さまが毒殺したと……衛兵が見ていますし……」 「ああ、あの菓子か」  レイカは口の端を上げた。 「うまく複製したものだ」 「複製?」 「あの毒入り品をすべて複製したのだ。包みまですべてそのままで」 「そんなこと! どうしてそうお思いになりますの?」 「あれらを引き取った時のことを覚えておらぬか? 見覚えがあったのだろう。おそらく、何らかの形で王太后がアレに似たようなものを送ったに違いない。それは使われぬ前にあやつの手に渡ったのだ」 「そして、薬屋に同じものを作らせたのですね」 「それが流行病の正体というわけだ」 「では、この国の王や王子たちを殺したのも……」 「おそらくな。あのバアさんも気の毒なことだ。アレの殺害を企てたのだろうが、結果的に栄華に貢献することになったのだからな。教えてみたいものだな。憤死するかも知れん」  レイカは唇の端を上げた。 「あの方なら、逆手にとって脅しをかけてきますよ。憤死するようなタマですか」  マムが手を振った。  レイカは口を開けて笑った。 「違いない。まあ、とにかく、宰相はとうぶん私を殺す気はないらしい」 「なぜでございます?」 「毒抜きの菓子を返してよこしたからな。でなければ、あのように悠然とは食せぬよ」 「じゃあ、どうしてお渡しになってしまわれたのです。お菓子も服ももったいないじゃありませんか」 「毒抜きとわかってはいても、気分がよくないだろう」 「そうですけど」  リリーはつまらなさそうに茶をすすった。 「しかたないな。マム、缶入りのガレットがあったろう。出してやれ」 「お姫さま、甘やかさないでください。リリーのためになりませんよ」 「よいのだ。ついでに、もうひとり分取り分けてくれないか? アレに少し持っていってやろう」  マムとリリーは顔を見合わせた。  レイカは苦笑した。 「連日、遅くまで仕事をしておるのだ。たまには顔を見てやらないとな」 「確かに婚礼の夜以来、半ルーニーもお渡りがございませんからね。来たら来たでジャマですが、来なければ来ないで気にはなりますわね」  マムは席を立った。  茶と菓子をのせた盆をマムに持たせて、レイカは奥の棟に渡った。 「いちいち衛兵と顔を合わせるのは、厭な気分ですわね」 「それが仕事だからな。しかたない」 「でも、お渡りを数えられてるようで、気分が悪いですわ」 「王家はどこもそうだ。パーヴでも、前の国王が母の館に来る時はそうだったろう?」 「ええ、毎晩『お帰りになった』とか。そうなってしまえばむしろいいですよ! でも、これじゃ、寝所に入った回数をそのまま教えてるようなものです!」 「では、私も毎日通うとするかな。そうすれば、あざむけるんだろう?」 「もう、やめてくださいよ! 毎日だなんて、バカが移ったらどうするんです!」  やがて、ふたりは国王の寝室より手前で立ち止まった。執務室のドアの下から灯りが漏れていた。 「まだおるようだな」   レイカは襟元や裾を整え、ドアを叩いた。 「私だ。入るぞ」  ドアを開くと、真っ正面に赤いカーテンが見えた。右手奥に首をめぐらせば、大きな執務机があり、その上に国王がいた。書類は床に散乱していたが、落ちているのは紙ばかりではなかった。  ランプの灯りに照らされて色は定かではないが、淡いオレンジやピンクや白の、レースやフリルやリボンのついた艶やかな布地……。  レイカはもう一度視線を上げた。  国王は机上に伏し、その下から手足が見えた。細くか弱い女の手足。 「いや……、これは、その……」  国王は机から滑り降りた。 「仕事が忙しくてな。息抜きというか。ええと……その……」  女が何事もなかったかのように床の衣類を拾いあげ、着始める。 「ジャマしたな」  レイカは踵を返した。 「ど、どこが悪い!」  アプスが開き直ったかのように怒鳴った。 「予は国王だぞ! 情けをかけてやって、何が悪い!」  レイカは黙って部屋を出た。  マムが盆を抱えたまま後に従う。 「なんて男でしょう! お姫さまを放っておいて、あんな……」 「馴れているようだな」 「はい?」 「あの女はあわてなかった。無理強いでなければかまわぬ。私のほうが無粋だったわけだ」 「なにをおっしゃいますの!」  マムが怒鳴った。 「お姫さまは王妃でいらっしゃいますよ! そもそも、恋い焦がれて言い寄ってきたのはあの男のほうでございます。婚礼から半ルーニーで、それも一度きりのお渡りで、もうほかの女に手をつけるとは!」 「レ、レイカ! レイカ!」  ふり向くと、必死にズボンを引っ張りあげながら男が走ってきた。肩にはリンネルのシャツをひっかけていたが、前はすっかりはだけている。露わになった腹では、筋肉の代わりに脂肪がたぷたぷと揺れていた。 「ご、誤解するな!」  息を弾ませて、国王は叫んだ。 「あれは、ほんの息抜きで……。機嫌を直せ!」 「私も仕事でな」  レイカは気のないふうに言った。 「世継ぎを生むのも王妃の務めであろう。いや、ひとり合点だったかな。他でまにあうならかまわぬ。マム、行くぞ」 「レ、レイカ!」  国王は王妃の服をつかんだ。 「さみしい思いをさせて、すまぬ! それもこれも、ランベルのヤツが山ほど仕事を押しつけるから……」 「では、仕事にもどれ。女も放っておかれては気を悪くしよう」 「レイカぁ」  国王は泣きそうになった。 「まったく、国王ともあろう者が」  レイカは国王のシャツの前を合わせ、ボタンを留めた。 「このような恰好で回廊を走るな」 「レイカ、予は何度もそなたのところへ行こうとしたのだ。だが、ランベルのヤツが、仕事が終わるまではならぬと言って、衛兵まで使って予を留めるのだ。予は国王なのだぞ。もっとも偉いのだぞ。好きな時に食べ好きな時に寝て、どうしていかんのだ。みな、ひれ伏して拝むのだぞ。地位も名誉も予の気分次第なのだぞ」  レイカは小さくため息をついた。 「それではただの暴君だ」 「レイカ、まさか浮気などしておらぬだろうな? 予がいないからと言って、誰か引きこんだりしていないだろうな?」  レイカは深くため息をついた。 「レイカ! そなた、まさか、もう……」 「ばかばかしい!」  マムが怒鳴った。 「うちのお姫さまをなんだと思ってるんです! 黙って聞いてりゃ勝手なことを! モーヴ殿下を少しは見習ったらどうなんです! あの方なら、好いた女以外には目もくれませんよ!」 「モーヴ殿下といえば」  レイカは国王の顔をのぞきこんだ。 「私の部屋のある棟に入れぬと言っていた。衛兵が決して入れぬのだと。どうなっておるのだ?」 「とうぜんだ!」  国王は毅然として言った。 「王妃のいる棟は男子禁制だ。常識ではないか」 「モーヴ殿下はお姫さまのお兄さまでいらっしゃいますよ!」 「わかるものか! ランベルが言っていたぞ、レイカの父親は前のパーヴ国王とは限らぬ、諸説あるとな!」 「諸説?」  レイカは眉をひそめた。 「そうとも!」  国王は得意げに言う。 「蛮族の男だとか、母親の後見人だとか、間男だとか、カルヴ国王だとか……」  レイカの腕が伸び、アプスの胸ぐらをつかんだ。 「兄上だと? 正気か、きさま」 「ラ、ランベルが……」 「考えてから物を言え!」  レイカは夫を突き飛ばし、身を翻した。 「帰るぞ! マム!」 「はい、お姫さま」  盆を抱えた侍女は、通りしなに、床に転がった男の腹を踏みつけた。 「レ、レイカぁ」  弱々しい国王の声が回廊に響いた。  *  *  *  肌についた汗が心地よかった。  熱い茶を口にすると、いっそう汗が噴き出した。 「キリがありませんわね」  レイカの体を濡れたタオルで拭きながらマムが言った。 「また贈り物が届きましたのよ」  リリーは室内の壁一面にさげられた衣装を引きだしては品定めする。 「白とピンクのバラと黄色の小菊がたくさん」 「戸口に小山になっていたな」 「まったく、この寒い時期に、どこから集めてきたんでしょうね! それから、夜会用のドレスと、外出着が一着ずつ。大きなエメラルドのついた髪留めと、ルビーと水晶を散りばめたバッグ、見たこともない果物と……食べ方の解説がついてましたわ、それからかわいらしい籠に入ったお菓子。今朝はこんなところですわね」 「手数だが……」 「わかってます。換金して国庫に入れときます。食べ物のほうは侍女たちに配っておきますから」 「馬もほどほどにしてくださいね」  マムが腹を拭きながら言った。 「普通のお体じゃないんですから」 「暮らしぶりを変えては勘ぐられるだろう。それに、野駆けはよい。気分がすっきりする」 「心配ですよ。ご一緒なのがあの朴念仁だけじゃ、万一の時……」 「子爵は信用できる」 「こういうことに機転はききませんよ。せめて、誰か経験のある者を……」 「アンジェラは馬に乗れぬ」 「では、ほかに……」 「我々のうちで誰がおる? それとも、あやつの手のうちの者でも連れていくか?」 「おそろしい!」  マムは震えあがった。 「今度こそしくじるまいぞ」 「お腹を冷やさないでください」  リリーが下着をかぶせた。 「また男の子でしょうか」 「ふたり続いたからな。三人めも、あるいは」 「まったく、毎年よく恵まれますこと!」 「それが仕事だ。いや、それは思い違いか……」  身支度を整えると、謁見の間に足を運んだ。 「王后陛下のおなり」  扉の際で近衛兵が叫んだ。年若いきれいな顔立ちの青年である。  名前はデュール・ヒルブルークと言ったか。  リリーを従えて中に入ると、ヒルブルークの視線を浴びた。  彼の頬は上気し、まなざしは夢見るような色をたたえていた。 「ボアレー、前へ」  光沢のある紺のドレスをひるがえして腰かけると、一段低いところに立つ貴族が声を発した。  王妃づきの侍従長でゴスコット侯という。貴族の常で恰幅よく、中背で濃茶の髭を顎一面にたくわえていた。シルクやサテンをたっぷりあしらった着衣の基調は赤で、スリットの中は虹色だった。  ずいぶん費用のかかった道化だな。  右側は一面大きな窓である。薄いカーテンがかけられ、日差しが床に落ちる。それを背に、人々が三列になって立ち並ぶ。  左の壁は四、五列、正面はもっとか?  三方の壁に貼りついた人々の中からひとりが歩み出て、檀の下でひざまずいた。  その前で、ゴスコット侯の部下が訴状を読みあげる。  退屈だ。  頬杖をつきながらレイカは思う。  最初から選り分けられた訴えではないか。  あくびをかみ殺し、冗長なあまり真意のぼやけた訴状を聞き流す。  今ごろ、国を治めるべき王は、どこぞの褥で惰眠を貪っているのだろう。昼すぎには起きて、遅い朝食をゆっくりとり、入浴後にお気に入りの貴族たちを訪問する。そして、就寝まで数々の書類にサインする。 『目が回るほど忙しいのだ。仕事が終わらぬ。しかし、終わらぬと、ランベルがそなたに会わせてくれぬのだ』  成婚の記念日には、アプスが決まって言う。 『では、早く起きて片づけてしまえばよい』  レイカが枕を並べて答えると、 『しかし、ランベルが、あれもやれ、これもやれと仕事を増やすのだ』 『そなた、自分の意志はないのか?』 『そなただと! 予は国王だぞ! 陛下と呼べ!』  もはや、自分の言うことなどきかぬ。婚礼後、顔を合わせたのがたった三度きりではムリもない。  宰相が、宰相がと言うが、しょせんその程度の熱だったのだろう。ならばいっそ、世継ぎをほかの女に生ませてやればいい。 『死産ではない。たしかに産声を聞いたのだ』  成婚の最初の記念日に訴えてみたものの、父親の反応は冷たかった。 『勘違いだろう。ランベルは死産だと言ったぞ。それより、男だったそうだな。今度は元気な子を産んでくれ』  ただ手をこまねいていたわけではない。その十月後、レイカはマムとサミーの立ち会いで出産する手はずを整えた。しかし、いよいよこれからという時になって、産婆と衛兵に締めだされた。  まさに出産にさしかかっていたレイカには、どうすることもできなかった。 『足が出てきましたわ。お姫さま、男の子ですよ!』  マムが最後に叫んだのを覚えている。ほどなくして、赤ん坊の泣き声が聞こえた。  腕を伸ばして我が子をかき抱こうとすると、声が消えた。  横たわったまま首をめぐらすと、誰かが何かを抱えて出ていった。 『子は!』 『産湯を浸かりに……』  やられた!  産室を飛びだしたが、出口で大勢の衛兵に足止めをくらわされ、行方を見失った。 『未熟でお産まれになったようで。手当ては施したのですが』  次男の遺体についてきた説明がそれだった。  今度こそ、しくじらぬ。  なんとしても隠し通し、春には人知れず……。 「王后陛下!」  レイカは夢想から引き戻された。壇の下で、ひざまづいていた男が叫んでいた。 「無礼者! 殿下に直々に声をかけるなど! 引っ立ていっ!」  ゴスコット侯が怒鳴った。 「よい。そのままに」  レイカは手をあげて押しとどめた。 「許す。申せ。ただし、要点をわかりやすくな。長いのは、もう飽き飽きだ」 「陛下、なりませぬ。形式は守っていただきませんと……」 「では、形式を改めよう。偉そうな役人の朗読は飽きた。本人から直接熱弁を聞く」 「しかしながら、陛下、儀礼というものは……」 「文句があるなら宰相から聞く。どうせこの形式とやらも宰相が決めたのだろう?」 「しかしながら、陛下、直訴は昔より死罪と……」 「おまえが今していることも直訴ではないか」 「しかしながら、陛下、私は陛下の侍従でございます。そこもととは身分も地位も……」 「どうせおまえも産まれた時はおぎゃあと泣いたのだろう? 物も食せば、クソも垂れるのだろう? それともかすみを口にし花でも出すのか? だったら考え直してもよいぞ」 「陛下!」  館内のそこかしこで忍び笑いが起こり、ここと思われる場所をゴスコット侯は睨みつけた。  レイカは壇の下に視線をもどした。 「話せ。悲痛な決意に応えられるかどうかはわからぬが。この通り、宰相どのの機嫌うかがいをする立場なのでな」  壇下の者は深く礼をし、早口に話し始めた。  今回の訴状は表面上のもので、直訴するのが目的だったこと。自分の領地は田舎だが、家族と仲むつまじく暮らしていること。年頃の娘がいるが、国王に差し出せと国命が下ったこと。 『ありがたきお言葉なれど、娘は近々嫁入りを予定しておりますれば、どうか辞退させていただきたく……』  しかし、代わりに法外な寄付を要求されたのだという。 「我が家は貴族とは名ばかり。地方の一領主にすぎませぬ。その日の糧にこそ困りませぬが、毎日領民とともに鋤《すき》鍬《くわ》を振るっております。さような私どもに、どうして多額の寄付をご用意できましょうか」 「要するに、そなたは娘を差しださず、寄付に応えられぬというのだな?」 「なんという我が身かわいさ、自分本位か!」  目の前でゴスコット侯が叫んだ。 「誰でもやっていることなのか?」  レイカが問うと、ゴスコット侯は大きくうなずいた。 「臣下の義務でございます。娘という娘はこぞっておそばに侍るのですぞ! 娘ばかりか寄付もともに差しだす家もあるというのに! 思いあがりもほどがある!」 「それは国王と宰相に言ってやれ」  レイカはニヤと笑った。 「すべての家に対して廃止しよう。一同の者、よく覚えておけ。この件に関して、尽力することを約束する。結果は私の力次第だ。いかばかりの裁量を持たされておるか、明らかになろう」 「へ、陛下! 軽々しく約束などなされては……」 「軽々しいのはどちらだ。娘をはべらすことが治者の務めか? だったら私は后を降りる。今すぐ髪を削ぎ、尼寺に参る」  甲高い耳ざわりな悲鳴が響いた。長く伸び、果てた後、ゴスコット侯がうつぶせに転がった。 「泡を吹いたか。誰か運んでやれ。丁重に解放してやるのだぞ」  近衛兵がふたり、ゴスコット侯を担ぎだした。影から黒髪で額の広い小男が現れた。鼻は小さく、唇は厚く、なにより大きくはない目が強い光を放っていた。 「補佐である私が代わりを務めますれば……」 「では、その者を保護するように。どんな危害も加えてはならぬ。それでよいか?」  壇下の地方貴族を見る。 「ありがたき幸せ。深いご温情を賜り、厚く御礼を……」 「務めを果たしただけだ。用は済んだか? ならば、さがれ。次の者は前へ。代弁は聞かぬ。訴状は自ら読め」  昼下がりまで、混乱した謁見は続いた。 「胸がスッとしましたわ」  リリーがケーキをつまみながら言った。  レイカは椅子の背にもたれ、中庭を見回した。芝生は枯れ、小菊とスミレがわずかに彩りを添えていた。 「覚悟の訴えだったからな、聞いてやろうと思ったのだ」 「でも、赤イタチが黙ってますかね。あたしは心配ですよ」  マムが茶をついだ。  白いテーブルを囲んで、イリム子爵とアンジェラも不安げな目を向ける。 「いい機会だ。このままでは、後の世代によくない。我々が戦っておかずにどうする? それに、今日のことは他人事ではないぞ。ドリスやエルシーにそのような命がくだったらどうする?」 「ふたりは心配いりませんわ」  リリーが笑った。 「年頃になったら、パーヴに行儀見習いに行かせます」 「あずかってくれる者がおらぬだろう」 「モーヴ殿下にあずけます。もう話はついておりますのよ。あの赤イタチの手が早いことはとうに存じておりますので」 「おまえ、いつのまに……」  レイカは苦笑した。 「きっと、今日の話にあった娘も、王にさしだすというのは名目で、実のところは宰相に対する人身御供ですわ。第一、ドリスはモーヴ殿下の奥方になるんです。赤イタチの毒牙になんかかけやしませんからね」 「おとなの都合で決めるな」 「いいえ、お姫さま」  リリーは得意そうに笑みを浮かべた。 「ドリスは、モーヴ殿下のお后になる! と申しておりますのよ」 「まだ子どもではないか」 「もう七つですわ。あと一〇年も経てば、母君に似てさぞ美しくなるでしょう。モーヴ殿下だって、若くて美しい娘をそばに置けば、心が動かないわけありません」 「それでよいのか?」 「よいですわよね」  リリーがアンジェラをふり返る。 「おまえのことだ、リリー」  レイカは微笑んだ。 「望むなら、今すぐ嫁いでもよいのだぞ。あの赤イタチとやらは、おまえにも気があるのだろう? 万一のことがある前に……」 「私はお姫さまのおそばにいます!」  リリーはぴしゃりと言った。 「殿下の奥方候補はいくらでもいますし、私には関係ございません。お姫さまのおそばにいたいんです。お味方も少ないっていうのに、私などにお気遣いなさっている場合じゃございません!」  小型の猟犬が駆けてきた。イリム子爵の足下で止まる。大柄な飼い主は両手で体を揉むように撫でた。 「噂をすれば」  マムが顔をしかめた。 「アンジェラ、中にお入り」  レイカが促すと、子爵夫人は礼をして屋内にさがった。  入れ違いに、赤いベストの小男が現れる。 「これはこれは、王后陛下。ご機嫌麗しゅう」  眉をひそめる一同を見渡す。 「今日も子爵夫人はご不在ですかな。麗しい顔《かんばせ》を拝見できませんで、残念至極」 「子爵夫人に用か?」  レイカは皮肉を投げかける。 「いえいえ。王后陛下のご尊顔を拝見に。おお、アッシュガース嬢、今日もお美しい」  リリーはあからさまに睨み返した。 「王后陛下、今朝お送りいたしました品々はお気に召しましたでしょうか」 「換金して国庫へもどした。税金のムダづかいだ、やめよ」 「甚だ心外。すべて私財でまかなっておりますれば」 「国ごと私財なのだろう」 「大きな誤解でございます。私は国のため、国王陛下の御ため、王后陛下の御ために、日々粉骨砕身しておりますれば」 「明日からしばらく、そなたの顔を見なくて済むと思えばせいせいする。で、何の用だ?」 「本日の謁見の件でございますが」 「ああ、私に尼になれと言いに来たか」  挑戦的に笑う。 「いえいえ。王后陛下におきましては、ご聡明にしてご温情あふれるご英断、このランベル、いたく感激しておりまする」  赤いベストの小男は胸に手をあてた。 「さっそく、王后陛下の命に従い、処理させましょう」 「処理とは?」 「娘という娘を実家に帰しましょう。お預かりいたしておりました娘については、期間と内容に見合う手当てを支払い、二度と召集はかけますまい」  レイカは瞬いた。  何を言っておるのだ? この男は。 「娘の代わりに取り立てた寄付も利息をつけて返しましょう。利息分は不肖ながら、私財にてまかなわせていただきます」 「ずいぶんとデキた話だな。代わりに何を望んでおる」 「何も。ただ、王后陛下が約束を違えることはあってはならぬと」 「そなたの面目は丸つぶれだな」 「私は陛下の哀れなしもべでございます。この身はすべて陛下にお捧げ申しあげました」 「もうひとりの陛下はどうだ?」  レイカは意地悪く笑った。 「夜ごと敵娼《あいかた》を取り替えているとか。新しい娘を調達できなくては、さぞかし困ろう」 「私におまかせください。陛下の御ために働かせていただきます」 「よく言う。国王はおまえにジャマされて、私のところには来られぬと言っておるぞ」 「心外でございます。何事も陛下の御ために身を砕いておりますれば」  レイカは椅子を蹴って立ちあがった。 「子爵! つきあってくれ。気分がすぐれぬ!」 「御意」 「リリー、剣を持て。マム、これを追い返せ」 「それには及びませぬ」  赤いベストの小男は礼をした。 「ごきげんよう。麗しい王后陛下」 「また贈り物が」  書を読むレイカに、リリーが言った。 「赤い大輪のバラがたくさん。お菓子と、旅行用のお召し物が二着、乗馬用のブーツが二足と、帽子がみっつ、大きなエメラルドの指輪に真珠のネックレスとイヤリング、サファイヤの髪飾り。帰国してから換金いたしましょう。それにしても、明日から当分こんな物を受け取らなくていいと思うと、ホッとしますわね」 「毎日手間をかけさせるな」  窓から夜風が吹きこんだ。ほてった体に心地よい。 「湯冷めなさいますよ」  リリーが窓を閉める。 「お姫さま、国王から晩餐の呼びだしが。今宵はテネラ侯のお館にいらっしゃるとか」  マムがリビングにもどってくる。 「ああ、あそこには美人の奥方と娘がいたな。どちらが目当てなのか」 「もうお断りしましたけど、よろしいですね?」 「ああ。形式にすぎぬ。のこのこ出かけては、アレも迷惑だろう。私ではなく、奥方や娘と踊りたいのだからな」  扉を叩く音がした。  三人は顔を見合わせた。 「赤イタチかしら? まったく、しつこいんだから!」 「違う。あやつなら、そのまま入ってくる」 「確かに、赤イタチめはドアなんか叩いた試しがございませんわね」  マムが戸口により、すぐにもどってきた。 「さきほど贈り物を持ってきた侍女がもどってきたんですわ。これを、お姫さまにと」  小さな封書を渡す。 「妙だな」  裏返してレイカはつぶやいた。 「封は閉じてはあるが、封蝋がない」  中には、小さな紙切れが入っていた。 『窓をお開けください』  レイカは書をテーブルに置いた。 「弓を」  マムがクローゼットから弓を持ってくる。 「影にひそんでおいで」  ふたりにささやくと、窓際に寄り、矢の先で窓を押し開いた。 「誰だ」 「スタッグ・ラノックでございます」  男のささやき声が返ってきた。 「矢をお納めください」 「知らぬ」 「本日、お声を賜りましたではありませぬか」 「顔を見せろ」 「では、矢を……」 「見せるのが先だ」  壁際からそっと人影が現れた。窓から漏れる明かりに黒髪が浮かびあがった。  広い額に小さな目鼻、強い眼光。ゴスコット侯の補佐である。 「何の用だ」 「ですから、矢を……」 「下ろせば衛兵を呼ぶが、どちらがよいか」 「陛下、私は陛下の御ために……」 「それは、私が判断する。用を言え」 「陛下のお役に立ちたいのです。ゴスコット侯はお役目を下ろされました。私が謁見の間の一切を任されました」 「どうせ、宰相の小間使いだろう」 「いいえ、とんでもない! 私は感激したのです。陛下はまさに臣民のことを考えていらっしゃいます。本日のお裁き、お見事でございました。陛下こそ、我が生涯をかけてお仕えする方です。ぜひ私めを手足としてご用立てください」 「立ててもよいが、タダというわけにはな」 「これは私としたことが」  スタッグ・ラノックは矢を見つめながら、静かにかがんだ。 「これを」  震える手に、かよわいスミレが握られていた。  レイカは片頬で笑った。 「帰れ」 「陛下……」 「申し出は考えておく。帰れ」 「はっ。ありがたき幸せ」  レイカは窓を閉め、矢をおろした。 「お姫さま」  マムとリリーが駆け寄ってくる。額は青ざめ、瞳は揺れている。 「何者でございます」 「侍従長の代理だ。私の味方になると申しておった」 「それはよかった!」  と、リリー。 「信用してよろしいのですか」  と、マム。 「どうかな」  レイカは首をかしげた。 「宰相のスパイかも知れぬ。それとも、ただの野心家か。せいぜい利用させてもらおう。バカではなさそうだからな」 「どうしてわかりますの?」 「私が賄《まいない》を催促したろう? 庭のスミレを摘んで応じおった」 「なるほど。お姫さまが賄賂を要求するわけないと踏んだわけですね」  マムの言葉にレイカはうなずいた。 「味方を作ろう。足場を固めておかねば」 「そうですわね。お子が将来この国をよく治められますように」 「気が早いな」  レイカは笑った。 「子を守ってもらうためだ。産まれても無事育つとは限らん」 「じゃあ、あのスタッグなんとかって男は信用できますの?」  リリーが訊ねた。  レイカは首を振った。 「さあ、どうかな。だが、ジャマしなければじゅうぶんだ。今日のように。直に裁ければ、恨みも買おうが、味方もできよう。そういえば、今日の近衛の顔を見たか?」 「どの近衛です?」 「デュール・ヒルブルークといったかな。最近、謁見の間の出入り口におるだろう」 「『王后陛下のおなり』って言う人ですね? よく名前なんか覚えていらっしゃいますね」 「私が裁決するたび、視線がな。ただでさえ、私を女神かなにかと誤っておるようなのに」 「では、その近衛が、まずお姫さまのお味方になりそうですわね」 「やめておけ」  レイカは笑った。 「純真さは美徳だが、さしたる力はない。巻きこまず、そのまま捨てておけ。時間を置かずして、役立つ者が近づいてくるさ」 「冷えますわね」  リリーが馬車に乗りこんだ。  息が白い。  レイカが歩を進めるたび、足下でシャリシャリと小気味のいい音が鳴る。 「どうか、お気をつけて」  侍従長補佐のスタッグ・ラノックが手を差しだす。 「ひとりで乗れる」 「しかし、私の立場が……」 「知らぬ」 「王妃さま、行ってらっしゃい」  イリム子爵夫人の足下で小さいエルシーが手を振った。 「違うでしょ。ごきげんよろしゅうって言うのよ」  姉のドリスがたしなめる。  イリム子爵は無表情だが、視線は落ちつきなくさまよった。。  レイカは微笑んで手を振った。  馬車が出発すると、リリーが大きく体を震わせた。 「私、寒いのは苦手ですわ」 「そばにお寄り」  レイカはマントの端を広げてリリーの肩にかけた。 「来ることはなかったのに。これからもっと寒いところに行くのだぞ」 「お姫さまがいらっしゃるなら、私も参ります! だいたい、ウルサの言葉がわかる者が、一行の中にどれだけいるんです!」 「あたしたちは、パーヴの王宮で聞いてるからねぇ」  マムはため息をついた。 「片言しかしゃべれないにしても、日常語はだいたいわかる。しかし、リュウインの連中ときたら!」 「長らく国交が途絶えておったのだ。ムリもない」  レイカは揺れるカーテンのひだを見た。 「リュウインの西や南に国はなく、北には大国ウルサ、東にはパーヴが接しておる。さらに東には小国がいくつもあり、山脈を経て海に出るという。リュウインが交易をするにはウルサとパーヴを無視するわけにはいかぬ」 「海って、湖みたいなものでしたわよね」 「私も聞いただけだ。イリーンの大使がアラワースで聞いたとか。海から商人が来るのだと。気球を飛ばしたあの者も、山の向こうに海があり、人がいたと申しておった」 「やっぱり、魚や貝や水草があるんでしょうかね」 「何もかも大きいとか」 「では、大きいだけで、ただの湖じゃございませんこと!」  マムは笑った。 「龍がおるかも知れぬ」  レイカは真面目に答えた。 「気球の者は、そこで雲が造られると申しておった。ならば、そこに龍がおり、雲を造って運んでおるのかも知れぬ。大きな魚が数多おるなら、そのひとつが龍であってもおかしくはあるまい?」 「では、お姫さまも海からいらしたのですか?」  マムはからかった。 「それより、赤イタチ、見送りにおりませんでしたわね。マヌケ面はともかくとして、こういうことには抜け目がないと思いましたのに」 「私も気になっておる」  その疑問は昼頃解けた。  馬車から降りようとすると、御者が手を差しだした。 「まあ、赤イタチ……じゃなかった、宰相さま」  マムが頬を覆った。 「お手をどうぞ、王后陛下」 「のけ」 「お手を」 「言葉が通じぬとみえる。誰ぞ! この赤牛をのけよ! 出口をふさいでおるぞ!」  宰相はさがった。 「どこまでついてくる気でしょうね」  マムがささやいた。 「足手まといにならねばよいが」  レイカは眉をひそめた。  その心配は現実のものとなった。  馬車で四日の予定が、八日でウルサ山脈の裾野に到着した。 「大隊では山を越えられぬ」  業を煮やして、レイカは御者に言った。 「幾度言ったらわかる」 「ご心配なく。山道は馴れております」 「峠は雪になるぞ」 「そういえば、侍者がそのようなことを申しておりましたな」 「私が伝えるように申したのだ」 「雪道など、馴れております。おそるるに足りません」 「峠の雪道は平地などとは比べ者にならぬ」 「私の兵は雪の中、王后陛下のお国と戦ったこともあるのですよ。お任せあれ」  里でレイカは人員を減らし、装備を整えた。前もって作らせていたのである。  しかし、宰相の隊は装備を替えなかった。  替えられなかった、と言ったほうが正しい。  金を積もうが脅してみようが、ないものはなく、かと言って王妃の隊から奪いとるわけにもいかなかった。 「紛れこむまではよかったですけどね。後があんまりお粗末じゃございませんか」  マムがささやいた。 「しょせん、モーヴ殿下のまねごとですからね。モデルが悪すぎますよ」  懐炉を抱きながらリリーは言った。  峠を待たずして雪は深まり、里で手に入れた馬はわかんを履いてソリを引いた。雇った里人は、よくソリを操った。わかんをつけて馬のそばを歩き、右に左に難所を避け、吸いこまれるような雪の中に声がよく通った。  新参の隊のソリは人が引いた。大金をはたいて雇った里人は鼻つまみ者だった。ソリは下りでしばしば暴走し、幾人もの兵が負傷して山を下りた。宰相は最初の転倒で荷物もろとも雪に埋もれ、以来、ずっとわかんで歩き通しだった。  道が険しく細くなると、ついに新参者たちは前に進めなくなった。 「下りよ」  レイカは言った。 「山を下りよ。我らは峠を越え、山向こうの村から馬に乗る。しかし、そなたたちには馬はなく、用立てることもできまい。我らの貨幣は通用せぬのだ」 「貨幣以外にも、馬を求める手だてはありましょう」  雪にまみれた小男は答えた。 「では、試みるか? 物も価値も言葉も異なる土地で我らを追えるか? そなたたちを待つ余裕はない。王太子の婚礼が終わってしまう」  小男は歯がみした。 「もう気が済んだろう。身のほどをわきまえよ。言葉ひとつ知らず、我らにぶらさがる気であったか」 「私と側近数人なら、なんとかなりましょう」 「まだ言うか!」 「このように厳しい山行を、麗しき王后陛下だけに強いたとあっては、男がすたります」  宰相は歩き始めた。平らに見えたその道が、もろくも崩れた。 「お姫さま!」  リリーが叫んだ。  レイカは宰相とともに雪の中を落ちていった。  宰相が首を振った。 「ここは?」 「寝ておれ」  ほの暗い中で、レイカはビスケットを宰相に放った。乱れた髪が肩からこぼれる。 「ここはどこです? ずいぶん狭い……」  薄闇の中で青みを帯びた壁が迫っていた。 「雪洞だ。かなり落ちたようだな」 「陛下。崩落に巻きこみ、申しわけございません」 「雪庇に踏みこむからだ」 「陛下は私に手を差しのべてくださいました。腕をおとりになったこと、覚えております」 「ほう。頭は明晰なようだ、残念だな」 「感謝いたしております。しかしながら、陛下は私のことをお嫌いとばかり」 「反射的なものだ。気にするな」 「雪洞まで掘られ、私まで中に入れてくださるとは」 「もののついでだ」  レイカは消えかけた固形燃料の火をロウソクに移した。沸いた湯をカップに注ぐ。 「温まるぞ」  カップの中には干し肉が溶けていた。 「恐縮でございます」  カップを受け取り、周囲を見回す。 「陛下は?」 「後でもらう。器はひとつなのでな」 「では、陛下がお先に」 「とっとと飲め。残りの湯が冷める」  固形燃料の火は消えていた。  宰相は、ほぼひと息に飲み干した。 「ごちそうさまでした」  レイカはあきれた。 「やけどしただろう」 「陛下こそ、早くお温まりください」  ため息をついた。 「あきれたヤツだ。これが我らを出し抜いて権益を得ようとする者か」 「権益とは?」 「ウルサと密約でも交わしにきたのだろう。交易は私腹を肥やすには絶好だからな。察しはついておる」 「ご明察おそれいります」 「すなおに吐いたな」 「しかし、それはもののついで」 「ほかに目的があると?」 「大それた望みなれば」  レイカは鍋をカップに傾けた。 「何を欲しておる?」 「陛下のみ心を」  思わず吹きだした。手が滑り、鍋が膝に落ちた。 「失礼!」  宰相がすばやくコートをまくりあげたが、湯はキュロットにしみていた。  レイカは立ちあがりかけ、足首を押さえた。  宰相が雪洞から飛びだし、雪を運んでキュロットに当てた。 「おみ足に痕が残らねばよいのですが」 「わからぬ男だな」  レイカは首をかしげた。 「嫌っておるのは、そなたのほうだろう。私の子をふたりも殺しておきながら。いっそ、ここで私を始末したらどうだ」 「陛下こそ、私を八つ裂きにするよい機会ではございませんか。なぜ、お助けになります?」  レイカは深くため息をついた。 「陛下、お慕いしております」 「ざれごとを」 「ともに、国を治めましょう」 「すでに、そなたが治めているようなものではないか」 「いえ。王冠は別のところにございます」 「国王になりたいのか?」  冷笑を浮かべる。  そばにいながら、宰相はますます間合いを詰めた。 「私は賤しき生まれ。冠をいただくことなど、誰が許しましょうか」 「生まれの賤しさなら、私もひけはとらぬ」 「陛下は違います。隣国の王女として輿入れなされた。私はどこまで行きましても臣下。決して王族にはなれませぬ。しかし、子ならば」 「それで私が憎いのか。娘を嫁がせる障壁となるゆえに」 「おそれながら、陛下、私には娘も息子もおりません」 「子ができぬのか」  レイカは眉をひそめた。 「おやさしい陛下。憐れみは不要でございます。子は数多恵まれました」 「病を得たのか?」 「いえ」 「まさか、始末を……」 「場合によっては、いたし方なく。しかしながら、多くは他家の子として生きております」 「なるほど。どこぞの奥方に手を出したと」  育ての父は、知らずに、この男の子を育てさせられているというわけか。  宮廷で人妻と関係するのは珍しいことではない。 「陛下。ご伴侶にどれだけの愛妾がおわすかご存じでしょうか」 「そなたがあてがっておきながら」  皮肉な笑みを浮かべる。 「私が? おそれながら、その気のないお方には手だてはございませんわけで」 「アレが悪いと申すか」 「では、お教え願いたい。誰が宰相ならば気に入るのです? 誰を宰相に据えおけば、ご伴侶がよき夫、よき君主におなりで?」 「確かに、宰相に足る人材は見あたらぬ。どれもこれも私腹を肥やそうと待ちかまえておる。しかし、そばに私がついておれば、少しはマシな君主になろうというもの」 「ご伴侶が、陛下のお言葉をお聞き入れなさると? 甘言を数多ささやかれるお立場で、陛下のお諫めにお耳を傾けると? わずかでもお気持ちさえございますれば、臣下の言葉などに鼻であしらい、陛下のもとにお渡りできますはずの、あのお方がですか?」  レイカは唇をかんだ。 「どうぞ、ご存分に私をお責めください。お気持ちがお済みになるのでしたら。しかし、私さえいなければ、陛下はお幸せになれたとおっしゃるのですか? 私さえいなければ、頭脳明晰な君主、慈愛深き君主になったと?」 「言うな」 「陛下。陛下は国母として崇めたてまつられるお方です。このような粗暴な扱いに甘んじてはなりません」 「何を今さら。そなたは私の子を……」 「陛下のお子に手を下したのではございません」 「ふざけるな!」 「あれは玉座に居座る男の子でございます」  レイカは口をつぐんだ。 「麗しい陛下。陛下のお子ならば、みめ麗しくご聡明でしょう。民ももろ手をあげて歓迎することでしょう」 「何が言いたい?」 「ともに国を治めたく……」  レイカの背筋に悪寒が走った。 「わ、私に、そ、そなたは……」  みなまで言えなかった。 「かしこき陛下。あらゆる女の頂点にあらせられる陛下。この世にこれ以上の母がおわしましょうか。陛下、私ならば、あの男のような非情な仕打ちはいたしません。一生、国母としてお守り申しあげます。陛下は何ひとつ失うことはなく、ただお子をお慈しみになっていらっしゃればよろしいのです」  この男は、私に子を産めと。誰でもない、この男の子を。 「全力でお守りいたします。陛下もお子も。ご伴侶のように口先だけではございませぬぞ。必ずや陛下のお子を玉座におつかせ申しあげます。そして、ともにこの国を治めましょうぞ」  答えるべき言葉は見つからず、ただ目を見開く。 「ご聡明な陛下はご承諾なさいます。断ることなど、どうしてできましょう。今の暮らしのどこに、女として幸せがございますか? 夫にはかえりみられず、美しいお姿は賞賛する者なく老いていくのですぞ。私なら、陛下をじゅうぶんに満足させることができます。陛下、承諾なさい。うなずくだけでよいのです。あなたは美しい。夜ごと胸に抱かれれば、もはや馬や剣などで気を紛らわす必要などないのだ。気を張って男勝りに振る舞うこともない。まことのあなたはかよわき聖女だ。馴れぬ隣国で、宮廷のしきたりや男どもの勝手な言いぐさに振り回され、おそれおののいているのだ。だが、それも昨日までの話。あなたを守ろう、オレが……」  やにわに、レイカは笑い声をあげた。  宰相の派手な抑揚つきの滑らかな舌が止まった。 「かよわき聖女か。剣や馬は満たされぬ欲求の代償か。あいにくだったな。女の幸せなど欲しておらぬ。相手を選んで口説け、色男め」  宰相は黙し、背を向けて寝転がった。  数ニックを経て、雪洞の入口が明るくなる。  レイカは雪を温めて干し肉を溶かした。宰相に与えて、後に自らも飲んだ。  どちらも、何も語らなかった。  やがて、遠くに人の声が聞こえた。 「お姫さまぁ!」 「宰相さま!」 「助けがきたようだな」  レイカは荷物をまとめて雪洞を出た。  ゆっくりと足を運ぶ。 「ここだ!」  大声で叫び返す。  歩くのは難しそうだが、ソリや馬に乗れば先へ進めるだろう。さしたる障害にはなるまい。 「陛下。昨夜のことは……」  背で、宰相がつぶやく。 「忘れろ」  レイカはふり向かずに言った。 「私と子のことは放っておけ。王位にも興味はない。欲しいならくれてやる。だが、ほかの方法を考えろ」 「黙っていると?」 「我らに手を出さなければな。静かに友や子と暮らせればじゅうぶんだ」 「子ですと? まだ、あの男に執着なさいますか」 「何をバカな」 「では、ほかの男の?」 「くどい」  何かを斬る音がした。  レイカはふり向いた。  宰相の右手にナイフが握られていた。  見覚えがある。レイカの荷物から抜き取ったに違いなかった。  左手には、黒髪がひと房巻きついていた。 「いつのまに」 「ごきげんよう、麗しいレイカ姫」  強い力で突き飛ばされた。  くじいた足首は、体勢を保つことができなかった。二、三歩よろけて倒れた。  雪はもろくも崩れた。なだれ落ち、雪煙があがった。  視線をあげると、真っ白に化粧した木々の向こうから、馬と人とが姿を現した。 「お姫さまっ!」  マムが叫んだ。  宰相は一行の中に部下の姿を認めた。手をあげる。 「やべっ!」  低い女の声が、雪煙を貫いた。 「はあ、やべっ!」  馬にまたがった女が、崩れた雪庇に飛びこんだ。  リリーが持っていた荷物を、続けざまに放り投げた。 「おっかね。いんごげね……」  足のすくんだマムの腕をとり、崖に飛びこむ。たちまち姿は雪煙の中に消えた。  宰相はあっけにとられて、見送った。  それから残りを見渡し、手をあげたまま言った。 「王后陛下は不慮の事故でお亡くなりになった。異論のある者は?」  剣を構えた部下たちに囲まれて、王妃の一行たちは黙した。  宰相は満足げにうなずいた。 「では、国へ引き返そう。早く陛下を弔ってさしあげねば」    第十章 前夜  黒い眼が見下ろしていた。赤のドレスとマントが黒髪に映えた。  だが。 「青のほうがいい」  暗褐色の髭がつぶやいた。 「陛下、探しましたわ」  巻き毛を揺らして若い女が近づいた。大きく結いあげた髪が燭台の光で幾重にも輝いていた。  国王はふり向き、ひざまずいた。 「おお、今日もいちだんと美しい」 「髪飾りのことですの?」 「それは、そなたの頭上にあってこそ美しいのだ」  年若い女の手をとって口づけた。その指は数多の石で彩られている。 「わかっておりますわ。私など、髪飾りがよいところ。黒髪にはかないませんもの」  壁の女を見上げる。ひとまわりも年をくった女。頭上には小さな銀の王冠をいただいている。 「そろそろよろしいのではありませんか」  若い美女の後ろから、赤いベストの小男が現れた。 「この御方の一周忌も済みました。民には王妃が要りますし、陛下のおそばにも、むろん」 「お父さま、妾《わたくし》は、何も要りませんの。陛下のお心をお慰めさえできれば」 「そう言ってくれるか。陛下、これからも、このはしためをはべらせてくださいますか?」  国王は女の両手を握った。 「父娘そろって欲がない。感動した! 感動したぞ!」  壁の美女を見上げる。 「レイカ、これほど主君を思う臣下がおるだろうか。予はここに誓う。キャスリーンをそなたの後にすえることを! よいな、レイカ」  芝居がかったように、父と娘それぞれに大きくうなずいてみせる。 「レイカも、これで心おきなくあの世に逝けよう」 「さすがは国王陛下。亡くなった方にまでご温情厚くいらっしゃる。では、さっそく式の準備にとりかかりましょう。日取りは三か月後の吉日で」 「もう決めるのか?」 「ご心配なく。手配はすべてお任せください。前の王妃さまに決してひけをとらぬすばらしいものにしてご覧入れます」 「失礼ながら、国王陛下」  国王づきの侍女が息を弾ませて一礼した。 「大事なお話の最中だ。退がれ」  宰相が睨む。 「おそれながら、急な用件でございます」 「退がれ。つまらぬことで陛下のお心をわずらわ……」 「王妃さまがお帰りになりました」  侍女は早口に言った。 「侍従たちがお顔を拝見いたしました。まちがいなく王妃さまでいらっしゃいます」 「どこだ!」  国王は宰相の娘から手を離した。 「どこにおる!」 「すでに内門に入られ、こちらにお向かいあそばしていらっしゃるかと……」  国王は駆けだした。動悸の激しさに、たちまち歩を緩め、宰相とその娘に追いつかれた。 「陛下はごゆっくり。私が先に確かめてまいります」 「ならぬ!」  国王は怒鳴った。  宰相に手を引かせ、息を切らせながら内門の前へ出る。  粗末な幌馬車が止まっていた。幌はまくれており、中は無人だった。御者らしき男がふたり、手持ちぶさたに回りをうろうろしていた。 「レイカは! レイカはどこだ!」  御者らしき男が厩舎を指した。  国王は中に飛びこんだ。 「レイカ! レイカァ!」  暗い中で、人影が動いた。  背の高い女が馬と向きあっていた。何かを抱えている。 「これは、陛下」  よく通る女の声が響いた。 「少し見ない間に、いちだんと丸くなったな」 「レイカァ!」 「入らぬほうが……」  国王の靴の下で、何かがぬめった。 「おわっ」  前のめりに倒れ、腹を打った。 「だから申したのに」  両手に泥がべっとりとこびりついていた。粘着質のそれは、異様な臭いを放った。 「宰相どの、お久しゅう」  レイカは国王の頭ごしに微笑みかける。 「王后陛下、ご無事でなにより」  額で汗が光った。 「今のところはな」 「何をしておる! 起こせ!」  国王がわめいた。  宰相は厩舎に足を踏み入れ、同じようにひっくり返った。  その後ろで、若い女が叫んだ。  レイカは一瞥した後、国王を見下ろした。 「国王陛下にはお願いがございます」 「なんだ、改まって」 「離縁していただきたい」  国王は凍りついた。 「とはいえ、もはや故国へは帰れぬ身。どこぞ田舎にでも住まいをいただき、静かに暮らしたいと存じますが」 「まさか、尼におなりと……」  口を開いたのは宰相だった。  レイカは目を細めた。冷ややかな光がまぶたの下からこぼれた。 「いかようにでも。后の代わりなら、そこにおられるのだから」 「い、いや、レイカ、これは……」  国王が手を振った。 「隠さずともけっこう。噂は耳にしております」 「や、妬くなっ! 予はそなたがいちばん……」 「陛下のお好みなど、どうでもよろしい。私は静かに暮らしたいのです」  レイカの腕で、何かが動いた。 「なんだ、それは?」 「娘です」  こともなげに言った。 「じきに十か月になります」 「娘だと!」  国王は身を起こそうとして失敗した。突きでた腹と重い衣装があだになった。 「仮にリュウカと名づけました。しかし、父君によい名がございますれば……」 「女か!」  国王はため息をついた。 「予は男が欲しかったのに」  レイカの靴が、国王の背にめりこんだ。 「では、他の女に頼むがよろしい。競って世継ぎを生んでくれましょうぞ。私は王子は要らぬ。王位も要らぬ。夫も要らぬ」 「いやだ! レイカ!」  はいつくばったまま国王は叫んだ。 「そなたは予のものだ! どこにもやらぬ!」 「ごきげんよう、国王陛下」  レイカは去りかけ、戸口で足を止めた。深々と一礼する。 「ごきげんよう、宰相どの」 「どうしよう」  国王は頭を抱えた。 「この際、離縁なさっては」  隣で宰相がささやいた。 「跡継ぎの生めない女が実家に帰されるのはよくある話。隣国も文句は言えますまい」 「いやだ!」  国王は叫んだ。 「アレは予のものだ! 誰にも渡さん!」 「では、尼僧院にでも。どこか遠くの院に籠めて……」 「そばにおく! アレは予のものだ! 見たい時に見、会いたい時に会う!」  問答の結果、王都の郊外ウィックロウの離宮に王妃の一党は住まうこととなった。 「けっきょく、離縁はしてくれないんですのね」  はしごを押さえながらマムが言った。 「城から出られただけでもマシだ」  レイカは娘を抱きながら笑った。 「この子に、あれらの悪党面を見せずに済む」 「あたしの予定では、お姫さまのお子が、この国を正しく治めてくださるはずでしたけどね」 「元気に育ってくれればよい」  赤子は目を見開き、周囲のようすをじっとうかがっていた。  はしごからサミーが下りた。玄関に肖像画が増えた。 「やっと終わりましたわね。引っ越し祝いに、おいしいものでも食べましょう」  リリーが言った。  レイカは壁を見まわした。  玄関ホールに並ぶ、歴代の女主人の肖像画。国王の愛妾たち。 「目立つな」 「お姫さまがいちばんお美しいですからね」  リリーが赤子をのぞきこむ。 「ちい姫さまも、きっと美しくおなりですよ。髪も目も鼻も口も、みんなお姫さまによく似てらっしゃいます。あの男に似なくてよかったわ」 「連中とは無縁でいてもらいたいものだ」  リリーはうなずいた。 「まさか、ここまでは追ってこられませんわ」  その予測は外れた。  ふた月ほど経ったある朝、離宮の扉が叩かれた。 「お姫さま、訴えを聞いてほしいと」  レイカは眉をひそめた。 「城の仕事だ。断れ」  リリーは即答しなかった。困ったように立ちつくす。  レイカは言い聞かせるように、やさしく言った。 「おおかた城で謁見を断れ、未練がましく立ち寄ったのだろう。帰ってもらいなさい」 「お姫さまのおかげで、たくさんの女たちが助かったのですわ」  直訴の件か。地方の名もなき貴族を許しただけだ。 「今は名ばかりの后なのだよ。何ができる?」 「来てくださいませ」  リリーは廊下に出ると、窓の外を示した。 「ごらんなさいませ」  雪原に、人の列が続いていた。  レイカは十二まで数えてやめた。その三倍は越えているだろう。 「あの者どもを放ってはおけますまい」  男の声が響いた。廊下を額の広い男が歩いてくる。 「誰だったかな?」  レイカは首をかしげてみせた。 「侍従長の補佐のラノックでございます。現在は侍従長を任ぜられ、城外に待機しております」  さては、直訴の件に荷担したカドで、左遷させられたか。 「そなたか、あれらを案内したのは」 「人の口に戸は立てられません。いずれはこうなりますこと」 「政は城の役目だろう。私がくちばしをはさむことではない」 「おそれながら、王后陛下は現状をご存じない」  左遷された男がかしこまって答えた。 「国王陛下はキャスリーンさまに夢中で、朝は褥《しとね》に、昼からはピクニックにいらっしゃる。宰相殿下の手ほどきで狩りも始めたそうです」 「アレは馬には乗れぬ」  レイカはニヤと笑ったが、目鼻の小さな男は動じない。 「小さな馬車にお乗りです。御者をつけた二輪の馬車です」 「考えたものだな」 「御自らはお手を下されません。宰相殿下をはじめ、臣下が屠るさまをご覧になるばかりです」  アレらのやりそうなことだ。 「城はもぬけの空でございます。謁見はなくなりました」 「私には関わりのないことだ。みなに帰るよう申せ。そなたもおとなしくしていることだな。目立てば災いがふりかかろうぞ」 「給金が滞っております」 「失せろ」 「官吏や兵に踏みたおされ、商家は暮らし向きに困っております。栄えるのは娼館ばかり」  レイカは身を翻した。 「干ばつで西部の農民は苦しんでおります。水を引かなければ、開墾地は全滅でございます。東部では戦の傷跡も癒えてはおりません。親を失った子どもたちが徒党を組み、民家を襲っております……」  自室の扉を閉めた。赤子用のベッドの中から、黒い眼がじっとレイカを見つめていた。  同情を誘う安っぽい決まり文句だ。  まっぴらだ。権力など、欲しい者同志で奪いあえばいいのだ。  娘を抱きあげると、胸に重みがのしかかった。 「野駆けに行く。子爵を呼べ」  部屋を出て、リリーに言いつけた。 「お待ちください、陛下」  追いすがる王妃づき侍従を蹴りとばした。  娘は何も言わず、身動きもせず、一部始終をじっと見ている。  欠けているのではないか?  不安になる。  懐妊中の不安が、生育を妨げてしまったのか。  それとも、早産がよくなかったのか。  いや、発熱をくり返したのがいけないのかも知れない。  長くはないのだろうか。  裏口から出た。娘を馬の背にくくりつけ、雪原に伸びた細い道を歩く。風は冷たいが、薄い雲を通した日差しは強くもなく弱くもない。  娘は頬を赤くして、周囲を見まわし、耳をそばだてる。 「ドリスやエルシーもこのようだったか?」  先をゆくイリム子爵はふり返り、申しわけなさそうに首を振った。  子育てはすべて妻任せで、知らないのだろう。  醸造所へ寄ると、騒がしかった。 「人が増えたもので」  主人が頭をつるりとなでた。白い頭髪が、耳の辺りにわずかに残る。 「この時期にか? 景気がよいものだな」  レイカは銀貨を置いた。 「ご存じないので?」  主人の広い額にしわが寄った。 「この先のキットヒルんとこの醸造所をお偉い貴族さまがお買い上げになったんですよ。つぶしてお屋敷にするんだとか。私どもは御方さまにお役立てなさるとうかがったんですが?」  上目づかいに酒瓶を二本差しだす。 「聞いておらぬな」 「キットヒルんとこはオヤジが年ですからね。息子たちだって、みんな兵隊にとられちまったし。今のうちに売れて、あいつぁツイてましたよ」  では、人が入ったというのは、そこの雇われ人か? 「戦が終わって、日が経つだろう。息子たちは帰ってこなかったのか?」 「帰ってきたさ! 腕も腹もなくしてな!」  髪をくしゃくしゃにした少年が、主人の後ろに立っていた。両手に肥えた猫を抱えている。 「うちには寝たきりの病人ばっかりだ! オレがおとなになるまで、待てなかったんだよ!」  レイカを睨みつける。眼の中には憎悪の炎が見えるようだった。 「貴族なんか、大っ嫌いだ! オレたちから金を巻きあげては、そいつでオレたちの頬っぴたを叩きやがる! 誰が稼いだ金だと思ってるんだ、このタダメシ食らい!」  レイカの腕に目を止める。 「まだタダメシ食らいを増やしやがったのか!」  肥えた猫を投げつける。  レイカは身を引いた。猫が身をひねらせて華麗に着地する。 「このアホウ!」  主人が手をあげる。  レイカは二の足を踏んだ。腕にはリュウカがあり、蹴るわけにもいかない。  くぐもった音が響いた。  大柄な男の袖がへこんでいた。  主人が頭まで青くなった。 「申しわけ……」 「あんたが悪いんだ! 飛びだしてくるから!」  少年が逃げた。  イリムは黙って退がった。 「かさねがさね申しわけ……」 「よいのだ」  レイカは苦笑した。  長年の友は猫を拾いあげた。  レイカの腕の中で、娘が珍しく身動きした。興味深げに手を伸ばす。 「おやめになったほうが」  猫を近づけるイリムに主人が言った。 「ねずみ取りの猫でございます。どこで何に触っているか……」 「酒蔵にねずみか?」  レイカがおもしろそうに訊ねる。 「酒になる前の麦を守るのです。こんな図体でも、なかなか効きめはありまして」  役立たずは、われらだけか。  レイカは酒瓶を携えて帰途についた。  離宮の裏口では、ラノックが待っていた。 「そなたもしつこいな」  迎えに出たリリーに酒瓶を渡す。 「聞いたぞ。醸造所を買い取ったとか」 「お耳がお早い。謁見のためのホールと宿泊部屋を造っております」 「雨露はしのげるか?」 「それはもう。二日ほどお待ちいただければ陛下にお似合いの装飾を……」 「表の者たちを案内してやれ。そこで会う」  ラノックの顔がゆがんだ。 「お待ちください。まだ天蓋もじゅうたんも……」 「ここは狭い。大勢は入れぬ」 「ひとりずつお招きになれば」 「野ざらしか? あまり美しい絵ではないな」  娘を馬から下ろす。 「マム、出かけてくる。リュウカを頼む」  マムが奥から駆けてくる。 「どこへいらっしゃるんですか?」 「食い扶持を稼ぎにな」 「陛下、いかがなさいました」  鼻にかかった甘ったるい声が訊ねた。 「予は……男としてはどうなのか」 「ご立派ですわ」  スプーンを置いて、若い女は言った。 「たくましくて魅力にあふれていらっしゃいますわ。お声をかけられて喜ばない女はおりませんでしょう?」  国王は深々とため息をついた。 「昼前、予は例の離宮に寄ってみたのだ。田舎暮らしで不自由しておると思ってな」 「まあ、なんておやさしい!」  女が両手をあわせて叫ぶ。 「だが、追いだされてしまったのだ。謁見の時間だとか言われてな」 「さすがは王后陛下。かしこくあられる」  宰相が手を叩いた。 「予と仕事とどちらが大事なのだ。だいたい、あんな男を連れ歩きおって」 「と言いますと?」 「いつもレイカの後ろについて歩いている気味の悪い男よ。隣国から連れてきた」 「イリム子爵ですな。口の重い信頼に足るお方です。王后陛下はご趣味がよろしい」 「無礼な大男だぞ。予が近づいても、にこりとも笑わぬ! バカにしておるのか!」 「とんでもございません。王后陛下は、ただ、田舎でございますから、お心細くもあられるのでしょう。陛下なきお心のすきまを埋めるには、あれぐらいの男でなければ」 「予は、あの程度か? あんなに愛想がなく、あんなに暑苦しいか?」 「どんな男でも、国王陛下には及びますまい。ほんの間に合わせでしょう。剣や馬をたしなむという話ですから」 「予がそういうものをせぬは知っておろう!」 「さよう。国王陛下には先んずべき事柄が山ほどございますからな。しかし、王后陛下のお心をお慰めするには、ちょうどよろしいのでしょう」 「あの男が! あの男が!」  国王は奥歯をギリリと噛んだ。 「あいたた……」  あごを押さえる。 「陛下、痛みますの?」  女が国王の顔をのぞきこむ。 「デザートだ、やわらかいのを持ってこい!」  国王は声をあげた。  壁際に控えていた侍女たちが退がる。  くそっ。いまいましい虫歯め! 「ときに、王女殿下はお元気でしたか?」 「知らん」  予が欲しいのは王子だ。女など、嫁に行って終わりではないか。育てる価値もない。 「聞くところによれば、王女殿下は、アイリーンとそうお変わりないのだとか。もう、ふたつにおなりというのに」 「まあ、うちのアイリーンと、ひとつと違いませんのに」  女が大げさに驚いてみせる。 「ご病気がちだとも聞く」 「では、王妃さまのお血筋でしょうか。うちのアイリーンは風邪ひとつひきませんもの」 「それに、ほとんど口をきかれないそうだ」 「まあ。うちのアイリーンは、もう、ママパパが言えますわよ」 「しかし、馬は怖がらぬとか」 「信じられませんわ。獣じゃありませんの」  馬など、大嫌いだ。  病だと? 予は、あのおそろしい流行病を乗りきったのだぞ。おまけに、無口だと? 「どなたに似られたのでしょう」 「出かけてくる」  国王は椅子を蹴った。 「陛下、本日の狩りは……」 「やめだ、知るか!」  箱馬車に乗りこみ、侍者とともにすわっていると、思いはますます燃えるようだった。  予を笑顔で迎えてくれ。恋しくてたまらなかったとひざまずいてくれ。あんな男など眼中にはないと踏みつけてくれ。  窓の外は、いつしか緑と白に彩られていたが、国王の目には入らなかった。  離宮に着くと、車輪の止まるのももどかしく、外に飛びだした。  侍者が後ろから叫んだ。 「陛下! お靴が汚れます!」 「お姫さまはお留守ですよ」  馬車の音を聞きつけたのか、マムが玄関の扉を開けて立っていた。 「さきほども、申しあげましたでしょう。夕方までお帰りになりません。お待ちになるというなら、かまいませんけどね」 「呼べ! 今すぐあれを呼べ!」 「ご自分の侍者でも行かせてください。お姫さまがお聞き入れなさるとは思えませんけど」  国王は頬を赤く染めた。  侍女の顔に拳を入れた。  驚く顔が小気味よかった。  侍女はあおむけに倒れ、何か叫んだ。 「予は国王なるぞ!」  国王は腹を蹴った。  つま先に痛みが走った。  こんなことなら、先の固い靴を履いてくるんだった。 「こいつをぶて」  侍者に言った。 「何を用いましょうか。棒で? 鞭で?」 「鞭があるのか?」 「あの通り」  侍者が示す先には御者台があった。  国王は満足そうにうなずいた。目が光っていた。 「鞭にしよう」  侍女が逃げだした。 「追え! 追え!」  侍者が走った。  先回りしてやろう。  国王は離宮をぐるりと回った。  裏庭に出た。  低木が一面に生い茂っていた。  知っている。  既視感に襲われ、我を忘れる。  もっと若かりし頃。  王位に縁のない、田舎出の青二才でしかなかった頃。  細かい枝葉をかきわけて忍びこんだのだ。  名も知らぬ、異国風の姫。  容赦なく背を踏み、高らかに笑う凛々しい姫。  ただただ、あの黒い眼に見つめられたくて……。  夢想はとつぜん破られた。  白い花に彩られた濃緑の枝の間で、黒いものが動いたのだ。  姫!  駆け寄った。  それは、子どもだった。  肩までそろえた黒い髪。幼い顔は青白く、黒い眼が国王を見つめている。  間違うはずはなかった。  これは、レイカが生んだ、あの男の……。  頭の芯が熱くなった。  夢中だった。  首は細く、両手をかけると、たちまち事は済んだ。  子どもは抗いもせずに正体をなくした。  放り投げると、低木の上に落ちた。 「リュウカ!」  女の声があがった。  ふり返ると、黒髪の女が向かってくるところだった。 「レイカ! 帰ったか。夕方になるとか申しておったが……」  女は国王を素通りし、幼児に駆け寄った。  息を見る。  背中でも踏んでやれ。  国王は見下ろしながら思った。  もう手遅れだがな。  女は幼児の顔にかぶさった。 「息がもどった。イリム、医師を!」  駆けだそうとする男の前に、国王は立ちはだかった。 「なんで予が背中で、それが口なのだ! この男の子がそんなに大事か!」  幼児をさらった。 「始末してくれる!」  頭上に掲げたものを、渾身の力をこめて足下に叩きつける。  狙いはそれ、地面ではなく、低木に落ちた。茂みに沈んで消えた。  細かい葉と小さな花が舞った。  国王は剣を抜いた。  トドメを刺してやる!  重い音が響いた。驚いて見やると、大柄な男が倒れていた。辺りが赤く染まっている。 「陛下、ご覧ください。不貞の輩は始末いたしました」  国王は凍りついた。  あっけなく事切れた男と、流れ出る血に、思考が止まった。 「リュウカはまごうことなき陛下の娘でございます」  長い指が、剣を奪う。 「もう、お心をわずらわせることはございません。どうぞ、中へ。茶をお淹れしましょう」  一面の緑と白の中を、黒髪の美女に手を引かれて進む。  これは、言い伝えか?  国王は夢心地に思った。  黒龍の姫に導かれし国王。  成就した、と思った。  三日を過ごして、国王は戻った。 「イリム夫妻は、どうした?」  馬車がヒース野原の向こうに消えると、レイカは訊ねた。 「はい。葬儀を済ませてございます」  マムが言った。 「無縁墓地に葬りましたので、明るみになる恐れはないかと」  骨の山だ。誰の骨とは区別がつくまい。 「無事、国境を越えたかな」 「今さら、赤イタチが動こうと間に合いませんとも」  マムが東の彼方を見やった。 「傷の具合は?」 「深手でしたから。動くのがやっとで」 『逃げろ』  ささやいて斬りつけた。  意味をさとったのだろう、あのまま動かずにいてくれてよかった。でなければ、さらに斬らねばならなかった。  両手を見る。  娘と友を救うには、ほかに手だてはなかったのか。 「色じかけか」  苦笑する。  まるでビンズイ、あの人のようだ。我が子を王の娘だと言い張り、男をたぶらかす。 「血は争えぬな」 「まったくです」  マムがうなずいた。 「ちい姫さまときたら、将来大物におなりですよ。あんな目に遭われたというのに、外に出たがって」 「散歩に連れていってやろう。それから、ラノックを呼べ。三日も政を休んでしまった」  侍従長が着くまでの間、我が子を連れて外に出る。  鞍の前部にまたがる幼児の首は、あざになっていた。腕や顔はすりきずだらけだった。 「ヒースに守られたな」  つぶやきは風に消えた。  視界はいやに寒々としていた。  あれは大きかったからな。  レイカは薄く笑った。  いつも視界をふさいでおって。消えてみると、なるほど、世界は広々としておるわ。  幼子の髪に水滴が落ちた。  小さな手が伸び、青白い顔が空を仰いだ。鞍にくくりつけられているため、ふり向くことはできなかった。  その背で、レイカは声を殺した。  助けてくれ。  友は去り、夫は子の命を狙い、民はすがってくる。  何を頼りに生きよというのか?  この地獄から、誰か救い出してくれ。  短い散歩から戻ると、侍従長が待っていた。  我が子を鞍から下ろす。 「王女殿下は、おケガを?」  幼い娘はレイカにしがみついた。 「人見知りですかな」 「今日からこの子を連れ歩くことにした。面倒をかけるが」 「さしあたって、警護をつけましょう」  ラノックは、首のあざを見つめながら言った。 「勇猛果敢な龍の子でも、ヒナのうちはただの仔猫ですからな」    *  *  *  すべては順調だった。 「視察に行こうと思う」  その日の政務を終えて、レイカは言った。 「国の実情を知らなくては。というのは大義名分でな」  笑う。 「侍女たちを湯治にでも連れていってやろうと思うのだ」 「ごもっともでございます」  ラノックはおごそかに受けとめた。 「万事お任せあれ」 「うまく行きましたわね」  リリーが馬を並べて言った。 「とりあえずはな」  レイカはわが子を見た。  鞍の前部にくくりつけられたまま、首を器用にめぐらせ景色に見入っている。みっつにもなればやんちゃな盛りのはずだが、いつもおとなしく、手を煩わせることもない。  異常ではないのか?  次の子も、やはりこのようなのか?  離宮に着くと、玄関で商人がひとり待っていた。 「リリー、リュウカ、もどったか!」  鞍から娘をおろすと、商人が抱きしめて頬ずりした。  続いてリリーにも同様にしようとして失敗した。 「いつまでいるんです!」 「お頭が買いつけを終えるまでさ」  赤く染まった頬をものともせずに笑った。 「木賃宿で飯炊きとは、常勝将軍も地に堕ちましたこと!」 「馴れれば快適だぞ。うるさい敵もいなければ、面倒な女もいない」 「怖いお義母さまもね!」  声をたてて笑った。  やりこめられるのが楽しみだというのだから……。  レイカは苦笑する。  手の施しようがない。  商人に身をやつした隣国の王弟はリュウカを抱きあげた。 「ひと休みしたら、稽古をつけてやろうな」 「女はおとなしいほうがよかったんじゃございませんの」 「リュウカはおとなしいぞ。どこぞの剣士にそっくりだ」  その剣士は庭師としてひっそりと暮らしているらしい。 『グレイ侯爵というのがいてな、ちょっとした貸しがあるんだ』  王弟殿下は言ったものだ。 『その領内の地主に、庭師として雇わせた』  植木のことなど知らぬだろうに。あの無骨者には苦労をかける。  茶の後、レイカは横になった。  夕刻、目が醒めた。裏庭へ回ると、ブロンズ色のヒース野原が目に入った。  のんびりと棒を打ち合う音がこだまする。 「いい加減カンベンしろよ」 「殿下がおとなげないんです。負けてさしあげたらいいんです」 「ウソは、ならぬ!」  幼い声が凛と響いた。  棒をかまえる子どもは、姿勢がくずれていた。 「肘しめろ。ふらついてるぞ。腰落とせ」  モーヴが笑った。 「それから、剣士は引きぎわをわきまえろ。今日にこだわると、明日を失うぞ」  子どもの棒を力任せにとりあげ、抱きあげた。 「汗くさいぞ。このお姫さまが」  高々と放られて、子どもは声をあげて笑った。 「落とさないでくださいませね」  リリーがからかうように言う。 「落ちたって平気さ。この子には、ヒースの加護がある」 「なんですの? それ」 「酒商人の言いぐささ」  まるで親子だ。レイカは苦笑した。自分よりしっくりいっているではないか。  リュウカの顔がこちらを向いた。モーヴの腕から飛び降り、駆けてくる。 「危ない、転びますよ」  リリーが言うそばからつんのめった。すぐに起きあがり、レイカの腕の中に駆けこんだ。 「やっぱりお姫さまにはかないませんわね」  リリーは意地悪そうにモーヴを見た。 「リュウカはスジがいいぞ」  モーヴは気にも留めない。 「泣かんし、負けず嫌いだし。いとことは大違いだ」 「いとこ?」  リュウカがレイカの服をぎゅっと握る。 「後妻の子だよ」  兄の新しい后は王太后の遠縁と聞く。リュウカと同い年の息子を生んだが、早々に王太后にとりあげられてしまったとか。 「かんしゃく持ちの泣き虫で、手に負えないんだ」  思い通りにならないと暴れるという。 「おまけに、大のおとなたちが機嫌とりにまわるんだ」 「そんなのと、うちのちい姫さまを比べないでくださいましね」  リリーが目尻を上げる。 「ちい姫さまはお姫さまのお子なんですから」 「おつきの侍女もしっかりしてるしな」 「申しわけありませんね、たおやめでなくて!」 「せっかくほめてやったのに」  モーヴは眉をしかめた。 「まあ、気色悪いこと!」 「なんだと!」  レイカは苦笑して、館内にもどった。 「マム、湯は沸いておるか?」 「今、焚いております」  台所から顔を出した。 「もう少し横になられては」 「リュウカが泥だらけだ。風呂に入れてやりたい」 「私どもでやりますよ」  レイカは娘をおろした。 「この子もしゃべるのだな」 「おや、まあ。子爵さまじゃあるまいし」  マムは笑った。 「あいさつ以外、聞いたことがない」 「要らないことはお話しになりませんからね。賢いお子です」  母子の会話は要らないことか。避けられているのか?  足下で、娘がレイカのドレスを握った。 「ダメですよ。汚れます」  マムが幼児の手をほどいた。 「汚れるし、シワになるじゃありませんか。さあ、湯殿へまいりましょうね」 「今日は私が入れよう」 「いけません。そんなお体なのに」 「では、そばにいよう」  政務にかまけて、娘をおろそかにしていたのかも知れぬ。  湯殿で遊んでやり、夕食もともにとった。 「珍しいですこと。お姫さまがちい姫さまとお食事なさるなんて」  リュウカを寝かしつけて、リリーが言った。 「お仕事はよろしいんですの?」 「これから少しな」  暖炉で火がはぜた。 「昼間、あの子はどう過ごしておる」 「みなにかわいがられてますわ」  リリーはうれしそうに笑った。 「謁見に来られた方は、口々にお姫さまにそっくりだとおっしゃいますのよ。ちい姫さまがご挨拶なさると、賢いお子だとほめてくださります。そうそう、今日、裏の井戸で……ヒルブルークって覚えてらっしゃいます?」  ヒルブルーク? 「まだお城で謁見をなさってた頃、お姫さまのファンだった衛兵ですわ」 『王后陛下のおなり』  声が甦った。  目のきらきらした若者。 「会ったのか?」 「体を壊してお郷《くに》に帰るんですって。こちらにはご家族へのお土産を買いにきたとか。ちい姫さまを見て喜んでましたわ。お姫さまにそっくりだって」 「そうか」  そのほうがいい。城で務めるには、人がよすぎる。 「それから、井戸端には猫が何匹かおりましてね」 「野良猫か?」 「どうでしょう? 人に馴れておりますけど。ちい姫さまはいつもそこで遊んでおいでです」  人より獣が好きか。  レイカはため息をついた。 「何かご心配ですの?」 「書斎へ行く」 「ごムリはなさらないでくださいましね」  リリーが心配そうな目を向けた。 「そんなお体なんですから」  ヒースの葉がブロンズから濃緑に染まるころ、箱馬車と十数人の兵はウィックロウを後にした。 「ごゆっくりお休みください」  見送りのラノックが小さくなると、リリーはささやいた。 「うまく行きましたわね」 「まだだ」  レイカはヒースの野原を睨んだ。  リュウカはマムの膝の間に立ち、窓の外を眺めている。 「ここを出られるのは初めてですわね」 「酔いなさらなきゃいいけど」  杞憂だった。半ばですわったものの、リュウカは外の風景を食いいるように見つめていた。  昼ごろ、小さな村に着いた。  リリーは近衛兵をふたり連れて村の中へ入った。  村の中央には川が流れており、橋に立つと、境界が見えるようだった。右岸は長屋続きで、左岸は広い家屋や大きな蔵が建ち並ぶ。  橋の下から赤子の泣き声があがり、リリーはとっさにのぞきこんだ。貧しい身なりの母親が赤子をあやしていた。  胸をなでおろして先を急いだ。  洗濯場で村女をつかまえる。 「この辺で、食べ物を分けてくれそうなところはあるかしら」  村女は白髪混じりの髪に手を当てて、リリーたちを眺めまわした。 「物乞いじゃなさそうだね」 「旅の途中なの」 「王妃さまの御一行とか言うんじゃないだろうね」  つっけんどんな物言いに、リリーは黙った。 「あんた、知らないのかい。ご領主さまのお館に、今日辺り王妃さまのご一行がいらっしゃるんだとよ。そのせいで、いい牛や反物はみんな巻きあげられちまった。どこの旦那さまもカンカンだよ。あんたも日が悪かったね。きっと魚のしっぽか菜の切れ端ぐらいしかもらえないだろうさ」  リリーは何人かの村女に当たり、ようやくある屋敷で黒パンとチーズにありついた。 「浅はかだな」  もどったリリーの報告を受けて、レイカはつぶやいた。 「キツくしぼってやってくださいましね。これじゃお姫さまの評判がガタ落ちじゃありませんか。それにしても、このパンのマズいこと!」  マムが頬をすぼめた。 「リリー、もうちっとマシなものはなかったのかい? これじゃ、兵隊さんたちも 精がつかないよ!」 「すまぬな。私のわがままにみなをつきあわせてしまった」  チーズをはさんだ薄切りパンをかみしめながらレイカは言った。 「明日からは宿で弁当を用意してもらおう。リリーも手数をかけたな」 「散歩は楽しかったですわよ」  リリーは笑った。 「お弁当は兵隊さんや年寄りのマムおばちゃんの分だけにしましょう。だって、せっかくの旅ですもの、土地のものを食べなくっちゃ、もったいないですわ。ちい姫さまだって、宮廷料理ばかりじゃ、口がおごってしまいますわよ」 「本来なら私が出向くところだが。すまぬな」 「お姫さまはどーんと構えていらっしゃってください。わがまま放題でちょうどいいんです」  街道を急ぎ、夕刻には大きな街に着いた。宿となる領主の館は街外れの丘の上にそびえていた。 「今宵の宿を……」  馬車から降りて話しかけると、門番が首を振った。 「あいにく今夜はふさがっております。その人数なら、街でも宿を探せましょう。今夜はどうかお引き取りください」 「お約束をとりつけてあります。執事さんに取りついでくださらない?」 「誰も取りつぐなというのが執事の命令で」  押し問答だ。  レイカが馬車から降りた。 「王妃がきたと取りついでくれ」  門番は疲れたようにつぶやいた。 「やれやれ、またニセ王妃さまか」  リリーは門をたたいた。鉄柵が大きく鳴った。 「ご本人です!」 「朝から来る客はみんなそう言う」  門番がせせら笑った。 「あんたなんかに区別がつくもんですか!」 「ひとめでつくさ」 「つくもんですか! あんたみたいな弱いおつむで!」  門番が太い眉をあげた。 「これを見ろ!」  門柱の陰から額縁を引きだした。  あ、とリリーは声をあげた。 「うちの旦那さまは、シアケトンさまのお供でお城にあがったことがあるんだ。その時いただいた絵姿がこれだ。どうだ、似ても似つかないだろう!」  それは、家族の肖像だった。  赤いベストの小男の右に物憂げな暗褐色の髪と髭の男がすわっており、左には明るい栗色の髪の派手な女がすわっていた。その隣に、女によく似た気の強そうな女児が立っている。 「それは宰相の娘じゃないの!」  リリーは叫んだ。 「国王一家なんかじゃないわ! 本当はお姫さまが……」  白刃が閃いた。  絵が真ん中でまっぷたつに割れた。  門番があわてて飛びのいた。 「リリー、行くぞ」  剣をおさめて、レイカは身を翻した。  鉄柵の向こうで門番が怒鳴った。 「不敬罪だぞ! ロクな死に方しねぇや!」 「天罰ってものがあったらね」  リリーは怒鳴り返した。 「まずはその連中に下るでしょうよ!」  馬車にひき返すと、レイカが両手で顔を覆っていた。 「お姫さま、あんな絵なんか気にすることはありませんわ」 「そうですとも、お姫さま」  マムもうなずく。 「国王はふぬけだし、赤イタチの娘なんか下心で近づいてるだけじゃありませんか。その娘だって、本当にあのまぬけの子かどうか」 「あの赤イタチ、よくもぬけぬけとあんな絵をバラまいて!」  ふたりで悪態をついていると、レイカが顔をあげた。 「リュウカは?」  馬車の中には見あたらなかった。  リリーは外に飛びだした。 「ちい姫さま!」 「リュウカ!」  呼び声を背にしながら、門まで引き返す。 「ちい姫さま!」  幼児は鉄柵の向こう、門番の足下に転がっていた。 「ちい姫さま、こちらへ!」  幼児は起きあがり、門番を見上げてはっきりと言った。 「人殺し」 「まだ言うか、このクソガキ」  門番が蹴りつけた。  リリーは悲鳴をあげた。 「ちい姫さま! 早くリリーのところへ」  リュウカは顔をあげ、門番を指さした。 「人殺し。見つけた」 「リュウカ!」  リリーのすぐそばを黒い風が通りすぎた。 「来い! 今すぐに!」  黒髪の小さな子どもは何度か転びながら、母親の腕に飛びこんだ。 「人殺し」  門番を指して、くり返した。  レイカはため息をついて娘の髪をなでた。 「あれは、絵だ。本物ではない」  リリーは門番の手を見た。斬られた絵がさげられている。一方には国王、一方には愛妾。真ん中には……。  眉間から見事にまっぷたつだった。絵の中心人物は。  お姫さまは、あの娘に妬かれたのでも、ニセ物の家族にお怒りになられたのでもないのだわ。  リリーは悟った。  アレが憎いのだわ。 「心配だな」  馬車にひき返しながら、レイカは言った。 「父親が人殺しなどと」 「お小さいのに、覚えておいででしたのね」  リリーはうなずいた。 「忘れてくれぬものかな」 「ふたつやみっつの頃のことなど、大きくなれば忘れておしまいになりますよ。お姫さまだって、あまり覚えてらっしゃらないでしょう?」 「そうだな」  その夜は街に宿をとった。 「まるで、どこぞの王弟殿下ですわね」  マムが皮肉を言った。 「高級旅館がよかったら、次回から紹介状を持ってくるんだね」  女将が部屋に案内しながら言った。 「近ごろは、お城にご機嫌とりに行く貴族連中か、訴えかお詣りに行く貧乏人か、どちらかしか通らないからねえ」 「商人はどうですの?」  訊いてから、しまった、とリリーは思った。マムがニヤニヤ笑っている。 「ここらじゃ見かけないね。もっと西へ行けばいるって話だよ。西は戦場にならなかったからね。ここらはダメさ。金はないわ、盗賊は出るわ」 「復興資金は出ているはずだが」  レイカが口をはさんだ。 「知らないよ。税金だってどんどん高くなるしね」 「税は下げたはずだ」  レイカは口の中でつぶやいた。 「ご領主が私腹を肥やしているとか?」  リリーがたずねると、女将は笑った。 「知らないね! 王さまのお伴の貴族のそのまたお伴をしたって話は聞くけどね。噂といやあ、お后さまの話を知ってるかい?」  どきりとした。 「なに?」 「十七、八の派手な人だとか、三十過ぎの中年女で田舎に引っこんでるとか、なんだかよくわからないのさ。いや、田舎にいるのは、宰相さまの娘だって話もあるけどね」 「赤イタチの!」  マムが叫んだ。 「ウィックロウにいらっしゃるのはね……!」  幼い声がぐずりだした。小さな手が母親のドレスのすそを握っている。 「ちい姫さま、怖くありませんよ。だいじょうぶですよ」  リリーがかがんで笑いかけると、幼子はドレスに顔を埋めた。 「馴れないところで、怖いのかねえ」  マムが言うと、レイカは首をふった。 「父親を思いだしたせいかも知れぬ」  自分を殺そうとした父親。ちい姫さまのお気持ちはどんなだろう、とリリーは思った。  父親の顔を知らないほうが、まだマシだ。  通された部屋にはベッドが五つ並び、それでいっぱいだった。 「鏡台もないのね」 「ごたいそうなベッドだね。すのこに布団が敷いてあるだけじゃないか」  疲れたように笑った。  湯をもらい、体を拭いた。  リュウカは服を脱ぐのを嫌がり、食事をするのも嫌がった。 「初めてのご旅行で、落ち着かれないんでしょう」  マムは言った。 「散歩をさせてくれないか。疲れればおとなしく寝るだろう」  サミーはリュウカを連れだした。  レイカはベッドに横たわった。 「おつろうございましょう」  リリーが布団をかけた。 「おまえたちも休むといい」  レイカはたちまち寝息をたてた。 「とてもお疲れだったのね」  マムに話しかけ、リリーは思わず笑った。マムもまた寝入っていた。  明かりを消し、リリーも横になる。  女の子がいいわ。お姫さまによく似た女の子。お姫さまの後をちい姫さまが、その後を女の子が、そしてその後にまた女の子……。  延々と黒髪の女の子が続くさまを思い浮かべながら、リリーはまどろんだ。 「母上!」  押し殺した幼い声で目を醒ました。 「サミーが窓から逃げなさいと」 「ちい姫さま、お母上はお寝みですよ」  眠い目をこすりこすり、リリーはたしなめた。 「サミーは、兵隊さん、起こしています」  リュウカは母親を揺さぶった。 「リュウカ!」  頬が鳴った。  子どもはひるんだが、目は光を失わなかった。 「お姫さま、お支度を」  リリーが促した。 「ここは二階だぞ。どうやって降りろと」  レイカはしぶしぶ抱いていた剣を腰に佩いた。 「布団を投げましょう」  リリーは窓を開けた。 「雨どいがあります。お姫さまはこれを伝って降りてください。私とマムおばちゃんは、このまま飛び降りますわ」 「布団を汚せば、女将に怒られるだろうな」  レイカは苦笑した。 「弁償すれば済むことですわ」 「まったく、子どものいたずらに……」 「いたずらなら、後で叱ればいいじゃありませんの」  リリーは布団を次々と放った。 「行くわよ、マムおばちゃん」 「あたしゃ、イヤだよ」  マムが両手を合わせた。 「やべ」  幼子がにっこり笑って飛び降りた。 「ほら、ちい姫さまだって」 「おっかね」  ふいに、廊下が騒がしくなった。荒々しい大勢の足音。  レイカは雨どいにとりついた。細い雨どいはたちまちぐにゃりと曲がり、そのままゆっくりとレイカを地面に降ろした。 「もう、はあ、わがんね!」  マムはリリーに手をひかれて飛び降りた。尻から布団に着地する。  サミーが植えこみから現れた。短く口走る。  リリーはリュウカを抱きあげて、マムとともに後を追う。 「馬を」  レイカが引き返そうとする。 「馬はダメです! サミーおばちゃんがさっき言ったじゃありませんか」 「なんと?」  ああ、そうだった。  郷《くに》の言葉は、お姫さまには通じない。 「サミーおばちゃんに続いてください」  塀の一角にくぐり戸があった。勝手口だろう。  サミーが戸を開けた。  出口に敵が待ちかまえていなければいいが……。  リリーの腕からリュウカが滑り降りた。くぐり戸に入る。  あ、と青ざめると、塀の向こうから男の声が聞こえた。 「ガキか」 「つかまえといたほうがいいんじゃねぇのか?」 「そうか?」 「金になるぞ」  幼い声が叫んだ。 「三人!」  レイカがくぐり戸に飛びこんだ。  刃の交わる音が響いた。  あんなお体なのに!  リリーは歯がみした。  お助けしたいのに、あたしたちは誰も剣が使えない。  生兵法は……とお姫さまは止めたけど、こんなことなら殿下に習っておけば……。  だいたい、こんな肝心なときに、なんで殿下がいないの!  殿下の役立たず!  目の前にいたら、殴りつけてやりたい。 「済んだぞ」  塀の向こう側から声がした。くぐると、レイカが神妙な顔をしていた。 「破水した」  マムの顔が緊張した。 「どうしよう」  リリーはマムの腕を叩いた。 「いまさら止められまい」  レイカが首をめぐらす。 「よさそうな場所を探しておいで」  マムが言った。 「早く! 時間がないよ!」  リリーは駆けだした。  行きずりの旅人を助けてくれるところって、どんなだろう? 出産を助けてくれるところって?  通りは白い月明かりに照らされ、静まり返っていた。  立ち並ぶ店の扉は固く閉ざされ、人の気配が感じられなかった。  途方に暮れて裏通りに入る。  明かりが見えて、ホッとする。長屋の戸からもれているのだ。  子どものはしゃぐ声が聞こえた。 「こら! もう寝ろよ!」  年輩の女性の声と、子どもたちの走りまわる音。  戸が開いて、子どもが飛びだしてきた。リリーにぶつかりそうになる。 「こら! ツバメ!」  かっぷくのいい女が姿を現した。 「助けてください」  勝手に言葉がほとばしりでた。 「主人が産気づいて、でも、誰も助けてくれる人がいないんです。場所とお湯を貸してくれるだけでいいんです。主人とお子を助けてください」  気がつくと、相手の服のすそを握りしめていた。  かっぷくのいい女は目を丸くした。 「あの、お礼ならしますから。ホントに頼る人がなくて……」 「お金持ちでも困ることがあるんだねえ」  女はリリーの身なりを上から下まで眺めまわした。 「いいよ、連れてきな。汚いとこだけど、あたしもここで、五人産んでるからね。産婆呼びにいかせようか?」  リリーは首を振った。  レイカたちを連れて、長屋にもどる。 「心臓が飛びだしそうだよ」  仕度を整えながら、マムが言った。 「だいじょうぶよ、落ちついて」  リリーは励ました。  ウルサ山脈の里での一年、マムは産婆の手伝いをしていた。今度の旅では、その技を生かし、イズレイ伯の別荘でひそかに赤子をとりあげるつもりだった。  それが、こんなことになるなんて。 「頼むぞ」  苦しい息の中、レイカが言った。  ほどなく、赤子は産まれた。 「男か? 女か?」 「……男のお子でございます」  レイカの口から大きなため息がもれた。 「どうしましょう」  リリーは途方に暮れた。  イズレイ伯の別荘近くには、先ごろ謁見した地方貴族が住んでおり、子に恵まれないのを嘆いていた。もし男児ならば、その玄関先に捨て子として置いてくる手はずになっていた。 「でも、ここからじゃ遠すぎるわ」  男子となれば、かつての王子たちの二の舞である。宰相に存在を知られてはならない。 「殿下のところへ連れていきますわ!」  閃いて、リリーは顔を輝かせた。 「あなたの子です! って押しつけてやりますわ!」 「覚えはあるのか?」  レイカが弱々しく笑った。 「そんなの問題じゃありません! あたしが産んだって言えば……」 「ほかの男の子と思って殺さないだろうか?」 「どっかの王さまと一緒にしないでください!」 「国境はどうする?」  モーヴに会うには隣国へ渡らなければならなかった。警備兵の目にさらされれば、事が露見する。 「誰かいないかねえ」  マムがため息をついた。 「近くの町で、頼れそうな人間は……」  東は国境。西にはヒプノイズ。ダメだ。頼れる人なんかいない。ヒプノイズの西は……。 「ヒルブルーク!」  リリーは小さく叫んだ。 「ここから二日のところに、ヒルブルークがありますわ」 「それが?」 「あの近衛の故郷ですよ! 確か、病気で帰ってるはずです! あの人に預かってもらいましょう!」 「遠すぎる」  レイカは首をふった。 「往復で四日だ。おまえたちがそんなに長いこと留守にしていれば、衛兵たちは怪しむだろう。かと言って、誰かに託すわけにもいかぬ」 「昼夜、馬を乗り継げば、二日でもどってこられます! あたしだけ、はぐれたことにしてください。二日後、グラッサの街で落ち合う約束をしたとでも言って。あたし、きっと、それまでには戻りますわ」 「断られたらどうする?」 「お姫さまが命じれば、喜んで火の中に飛びこむような人じゃありませんか! 私、行きます」  リリーは手早く赤子を布にくるんだ。 「元気でな」  レイカは赤子にキスした。 「なんと言ったかな。そうだ。ヒースの加護があるように」 「まあ。殿下じゃあるまいし」  リリーは努めて笑いながら、赤子を抱きあげた。ずしりと重みが肩にかかった。  長屋の女に訊ね、商家から馬を一頭調達した。夜気に冷えぬよう、赤子を懐にくくりつけた。  満月前の月が、道を照らした。  リリーは馬を駆った。  途中の村で何度もミルクと馬とを買った。  ヒルブルークにたどりついたのは、翌日の日暮れだった。 「デュールさまに取り次いでください。都から来ました。大事な用なんです」  埃まみれで必死の形相が、何かに訴えたのだろう、門番が中に入れてくれた。 「何か用かな、娘さん」  待たされた部屋に入ってきたのは、老いてはいるものの、背すじの伸びた男だった。 「デュールさまを、デュール・ヒルブルークさまを呼んでください!」 「デュール・ヒルブルークは私だが」  リリーの背に冷たいものが流れた。  あの近衛にたばかられた?  よくあることだ。出世をもくろんで、身分や名を偽るなど。  でも……。  リリーは近衛の目を思い返した。  あの人は、そういう人じゃないわ。 「まだお若いデュールさまです。お城からさがられたばかりとうかがいました」 「孫なら、ここにはおらぬよ」 「では、どこに?」  老人は天を指した。 「三日前にな」  血の気が失せた。足から力が抜ける。眠っていた赤子が泣いた。 「その子は?」  あやす気力もわかなかった。  老人が赤子を抱きあげた。 「もしや、この子は孫の……」  はっとした。  諾と言えば、領主の一族として育てられる。素性はバレず、宰相の手も及ばない。 「名は?」 「ありません」 「では、デュールと名づけよう。代々嫡子が受け継ぐ名だ」  赤子は泣きやまなかった。 「おしめを」  リリーは震える声で言った。 「長旅で、替えることもままならず……」 「今、人を呼んで替えさせよう。そこで待っていなさい。夕食とベッドを用意させるから。今夜はゆっくり休んで、明日、孫の話を聞かせておくれ。城でどう暮らしていたのかを」  老人が部屋を出ると、リリーは一目散に逃げだした。  きっと、あの人なら、若宮さまをムゲにはすまい。きっと、心の澄んだ男の子に育ててくれる。  捨てたんじゃない、お預けしたのだ。  馬を駆りながら、リリーは思った。  あたしは母さんとは違う。橋の下に置き去りにしたんじゃない。  暑い日で、マムおばちゃんが拾ったときは、日射病で死にかけていたという。  あたしは、母さんとは違う。お命を救うためだ。そして、いつの日か親子で再会し、この国を正しく治めていただくためだ。  夢中で馬を走らせると、夕闇にグラッサの街の灯りが見えた。  閉じる寸前の城内に滑りこむと、マムが待っていた。 「マムおばちゃん」  リリーは顔をくしゃくしゃにした。涙がぼろぼろとこぼれた。 「あんたには酷なことだったね。わかっているとも。お姫さまがお待ちだよ。早くお話をきかせておあげ」  そうだ。お姫さまだって、わが子をとりあげられ、どんなにおつらいだろう!  木賃宿で、レイカは待っていた。  一部始終を聞くと、皮肉な笑みを浮かべた。 「いつかは会えるだろう。おまえも大義だった。今宵はゆっくり休みなさい」  体は疲れていたが、なかなか寝つかれなかった。  自分を夏の日ざしにさらして去った母。関わりのない赤子を拾ったマム。子どもを殺され、手放さなければならなかったレイカ。  おかあちゃん。  一度ぐらい呼んでみたい。  しかし、そんな相手はいないのだ。  浮かぶ涙を、布団でぬぐった。  * * * 「今年の夏休みは、いかがしましょうか」  謁見を終え、離宮に戻ると、ラノックが訊ねた。 「西部はいかがでしょうか」  昨年の失態を挽回させてくださいと言わんばかりに胸を張った。  息子はどうしているだろうか?  レイカは思った。  旅に出れば、それとなく噂が聞こえてこようか? 「どこかご希望は?」 「ヒプノイズ」  ヒルブルークに近い街だ。 「ワインの醸造を見てみたい。ウイスキーばかりひいきにしては、マズかろう」 「御意。さっそく仕度を……」 「来るな!」  幼い叫びがあがった。 「母上! 母上!」  外か?  レイカは窓から身を乗りだした。 「どこだ!」 「裏です! 裏です!」  レイカは部屋を飛びだした。 「今行くぞ!」  裏庭に駆けつけると、壁の陰にリリーがへばりついていた。庭のヒースの根元に、リュウカが倒れている。  馬と賊の後ろ姿が二組見えた。 「リュウカ! リュウカ!」 「ちい姫さま!」  レイカとリリーが駆け寄ると、リュウカは身を起こし、服についた土を払った。 「リリー、ケガはないか?」 「ちい姫さまこそ!」 「何があったのだ」  レイカが訊ねると、リリーの目から涙があふれた。  とつぜん、ふたりの賊が斬りかかってきたこと。壁ぎわにいたリリーに、出てくるなとリュウカが命じたこと。ヒースの茂みにひそんで、賊の目に向かって矢を射かけたこと。  レイカは、幼子の手に握られている小さな弓とおもちゃの矢を眺めた。 「こんなもので……」 「母上が来てくださるまでですから」 「なぜ目を狙った」 「伯父上が、目は危ないから狙うなと」  逆手にとったか。 「モーヴ殿下のおかげで命びろいしたな」 「ヒースのおかげです!」  リリーが涙目で反論した。 「何者だ、やつらは」  アレならば、刺客までは放つまい。せいぜい、激情にかられて、自らの手を伸ばす程度だ。  宰相ならば、寵姫に男子を産ませればよいこと。ムダにこちらに手を出すまい。  では、どこかの盗賊が誘拐をもくろんだか? 「王后陛下!」  ラノックが息を切らせて駆けつけた。 「今! 早馬が!」 「賊が出たぞ」  レイカは冷ややかに言った。 「守りはどうなっておる」 「申しわけございません。それより城へ!」  ラノックはあわてふためいていた。 「ごまかすな。今、リュウカが……」 「国王陛下が大ケガを! お命に関わるやも……」 「アレは昔から大仰なところがあるからな。どんなケガだ」 「詳しくは……」 「宰相の娘がいるだろう。私の出る幕ではない」 「お宿さがり中でございます」  そう言われてみれば、三日前に女子を出産したと聞いた。宰相も、娘につきあって里帰りしているはずだ。 「リリー、仕度を」 「はい。ちい姫さまはいかがしましょう」  埃にまみれた我が子を見る。  手にかけられた男を見るのはどんな気分か。アレも、一昨年を思い出し、激情にかられまいか。  だが、今襲われたばかりだ。ここに残していくのは危険すぎる……。 「連れていく」  アレに会っている間は、別の部屋に待たせておこう。直に顔を会わせなければ、アレも怒るまい。  城に着くと、衛兵たちを蹴散らして国王の棟に入った。 「おまえたちは、ここで待っておいで」  ひと気のない書斎にリリーとリュウカを置いて、寝室に入る。  大きな天蓋つきの寝台に、病人が横たわっていた。  レイカはほっとした。  思ったより、病状はよさそうだ。顔色は悪いものの、腕は傍らの医師の服を強くつかんでいる。これだけ力があれば……。 「予を笑いに来たか!」  レイカに気づいて、病人は怒鳴った。 「お声を小さく。お体に響きます」  医師がたしなめると、病人はますますいきりたった。 「さぞ愉快だろう! バチがあたった、気味がいいと笑っているのだろうな!」 「元気そうだな。心配して損をした」  レイカはつかつかと歩み寄った。 「取るものも取りあえず駆けつけたのだぞ。死に顔でなく、安心した」 「心配してくれたのか? いや、ウソだ。こんな姿を笑いにきたのだろう!」 「普段でもじゅうぶんおかしいが?」 「予を侮辱するのか! 予は国王だぞ! この世でいちばん偉いのだ!」 「勝手に威張っておれ」  布団の上から軽く体を叩いた。 「予は国王だぞ! なんでも命令できるのだぞ!」 「では、病に去れと命じるのだな。何の病だ」  国王は顔を赤らめ、語らなかった。医師の口さえ封じようとした。  幾度も強いて問うと、 「御子のできないお体に」  医師はのろのろと答えた。  国王は狩りに出かけ、宰相の留守を幸いと、普段禁じられている最前線に出た。衆目を浴びる中、追われた瓜ん坊は国王の股間に衝突した。 「瓜ん坊でよかったではないか。猪なら命はないぞ」 「よくない! 予はもはや男ではないのだ!」 「女でもあるまいに」 「もう世継ぎはできないのだぞ!」  レイカの脳裏に、ふと息子がよぎった。 「養子をもらおう。賢い男の子を」  自分の子だと知らなければ、宰相も手を下すまい。そばに呼び寄せて、親子仲良く……。 「誰の子だ?」  国王の眼が異様に光った。 「今度は誰と寝た!」  レイカは眉をあげた。 「私には後ろ暗いことはないぞ。きさまこそ、どうなのだ」 「手ぬかりはないわ。ランベルが後始末を……」  語調が下がる。 「ふむ。ひとりぐらい生きておるかも知れん」  レイカは目をむいた。 「殺したのか! 我が子を!」 「後の禍にならぬようにな。君主の務めだろう!」  首を振った。 「きさまには、親子の情愛というものがないのか」 「アイリーンはかわいいぞ」  国王はいやらしく笑った。 「利発で愛嬌がある。母親に似て美人になるぞ。ただ、鼻が爺じに似ているのが難点だがな。そうだ。アイリーンに婿をとらせよう。ウルサの王子でももらって国交を回復させるか。いつかは誰かがしくじったせいで失敗したからな。それともパーヴの王子でももらうか。今度は品行方正な正真正銘の王の血族をな」  高く、頬が鳴った。  ひとつ。ふたつ。みっつ。四つ。五つ。 「ご病人ですぞ……」  か細い医師のとがめを無視し、胸ぐらをつかんだ。 「誰に申しておる?」  国王は目を白黒させた。 「きさまの前にいるのは王妃だぞ。王位はリュウカがもらう。異を唱えるなら、さっさと我らを尼寺に送れ。進んで退こうというのを、きさまが妨げておるのだ」 「く、苦ひ……」 「私を蛮族の血と呼ばわるのは構わん。だが、リュウカはきさまの娘だ。辱めるのは許さん!」  突き放すと、国王は咳きこんだ。 「予は国王だぞ。何でもできるのだぞ」 「では、人の心まで操ってみるがいい」 「あんな子どもなど、いなくなればいいのだ。そうすれば、そなたが尼寺へ行かずとも、アイリーンが王位を継げるではないか」  はっとした。 「アプス!」  首根っこをつかんだ。 「宰相は、あの男は、このケガのことを知って……」 「最初にお知らせいたしました」  失神した国王に代わって、医師が答えた。 「事故の直後にちょうど参内されましたので」  しまった!  では、ウィックロウの離宮でリュウカを襲ったのは、宰相の手の者だったのだ!  レイカは寝室を飛びだした。  書斎にはひと気がなかった。 「リリー。リュウカ」  返事はなかった。  城内を訊ねまわったが、行方はわからなかった。ただ、一組の衛兵が、不審な物音を聞いたと話した。 「厩のほうで、何か音がしましたが、馬丁が世話でもしていたのでしょう」  厩をあたってみると、馬丁があわてた。 「何も変わったことはございません!」  声が裏返っていた。  押して訊ねると、馬が一頭盗まれたのだと言う。  バレては、もはや死罪だとうなだれる馬丁の背を、レイカは叩いた。 「クビになったら、離宮に来い。雇ってやる」  盗まれた馬は、特に手をかけた隣国産の馬だったという。レイカの輿入れでもたらされたものである。残された馬を見ると、その手入れのほどがうかがえた。  いい足を選んだものだ。  さて。どこへ逃れたものか。  ウィックロウの離宮? 賊が待ちかまえておろう。見えすいている。  ウルサ山脈……はないだろう。ウィックロウ方面だ。  息子のいるヒルブルークか、それとも……?  見当がつかなかった。  二シクルほどして、レイカの元へ使いがきた。隣国の国王カルヴからである。  避暑の誘いだった。  夏の離宮には息子たちも来る、姫の遊び相手にどうか? といった文面に、レイカはため息をついた。  呑気なことを。 「いかがなさいました?」  マムが心配そうにのぞきこんだ。  レイカは手紙を投げだした。 「使者に、早々に帰ってもらえ。兄上には参れぬと伝えるよう申してな」 「おや。お姫さま、お出でになったほうがよろしいですよ」  マムはにっこり笑った。 「リリーもリュウカも行方が知らぬのだぞ」 「ここをご覧くださいませ」  手紙の端に、獣の足跡が小さく描かれていた。 「これがどうかしたか?」 「猫の足跡ですわ」  レイカはしげしげと手紙を眺めた。  龍の仔。 「しかし、いつの間に、どうやって……」 「それは直にお訊きあそばせ。では、ご使者さまに、すぐ行くとお返事いたしますわね」  マムはうれしそうに身を翻した。  ラノックに後始末を押しつけ、レイカはパーヴの夏の離宮に駆けつけた。 「まったく、山道ばかりで腰に悪いったら」  馬上でマムがこぼした。 「では、ふもとに残るか?」  レイカがからかうように笑った。 「冗談じゃありませんよ。それにしても、王族の方々は、よくもこんな難儀なところにお越しですわね」  まったくだ、とレイカも思った。  険しい山奥に離宮を造って、誰が訪れるものか。そこに国王夫妻ともあろう、贅を極めた者がやってくるなど、尋常ではない。  その疑問はすぐに解けた。一行を迎えたパーヴ国王が、笑って答えたからである。 「父上が、寵姫のために作ったのだ。ここまでは、あの母上もいらっしゃらないのでな。同じ理由で我らもここに逃げてくるのだ。ここはよいぞ。親子水入らずで過ごすには。……そろそろ戻る頃合いだな。今日も遊び疲れて帰ってこよう」 「リリーは、どういうわけでこちらに参ったのです?」  抱えていた疑問をぶつける。 「侍女が子連れで国境越えなど……」 「わからぬ。モーヴの部下が連れてきた。気の強いしっかりした娘だな。オリガが侍女に欲しがっておったぞ」  レイカは苦笑した。 「じきに義妹になりますよ」 「承諾するかな。モーヴにはガーダに行ってもらっておる。嫁げばあちらに住むことになるが、ただの田舎ではないのでな」 「問題ありますまい」  ニヤと笑った。 「お姫さま!」  叫び声があがった。戸口に二十歳を過ぎたお下げ髪の女が立っていた。 「ご無事で! 心配しておりました!」  レイカの元に飛びこんでくる。 「心配したのは、こちらのほうだ。よく無事でいてくれた。おまえの機転には頭が下がるよ」 「ちい姫さまのおかげです。窓からお庭に出られて、厩から馬を引いて、馬場の裏から逃げるよう導いてくださったのです」  馬場から通用門に出たのだろう。普段目にしない裏門だから、追跡の目をくらませられたのかも知れない。 「その後は? 国境はいかに越えた?」 「エスクデールに参りましたの。そこで商隊に加えてもらって、国境を越えました。こちらへ来てからは、殿下のお伴の方を頼りました」  レイカは身を乗りだした。 「商隊には、どのように加わった。見ず知らずの者を、そう易々と仲間には加えまいに」 「簡単ですわ」  リリーはすまして答えた。 「殿下の馴染みの木賃宿へ参りましたの。名前は先だって聞きだしておきましたから。そこで、殿下と馴染みの商人を見つけて、こう申しましたの。『ようやく仕事が軌道に乗って、呼び寄せてくださいましたの。これで親子三人、ひとつ屋根の下で暮らせますわ。でも、隣国のことはよくわかりませんの。途中まで連れていってくださらないかしら』」  レイカは吹きだした。カルヴも笑い声をあげる。 「もちろん、情けだけで動く人たちじゃありませんからね、お礼はたっぷりいたしましたのよ」 「金など、よく持ち歩いていたな」 「いいえ。殿下が押しつけていったガラクタが山ほどありましたから」  見れば、指輪もイヤリングも髪飾りもなく、さっぱりしたものである。 「あんなものでも、使い道はあるものですわね」  国境越えのことは、前もって用意していたに違いない。去年できなかったことを、胸に刻んでいたのだ。  ふと、視線を移すと、戸口に子どもが立っていた。 「リュウカ!」  レイカは立ちあがった。椅子の倒れる音が響いた。 「お話し中、申しわけありません」  娘は静かに言った。 「おじゃまでしたら、退がります」 「おいで。元気な姿をよく見せておあげ」  カルヴの言葉にも、小さな娘は動かなかった。  レイカは眉を寄せた。 「ケガでもしたか? それとも……」  自分が怖いのか? 幾度となく続く危険に、不信感を持ったのだろうか? 「おじゃまでしたら、退がります」  会いたくないのだ!  思えば、母らしいことはしていなかった。アプスとの一件以来、そばにはおいていたが、仕事にかまけてかまってやらなかった。それが……。 「おじゃまじゃありませんよ、ちい姫さま」  リリーは笑った。 「母君はちい姫さまにお会いしたくて、もう、急いでいらしたのですよ。早くおそばへ」  リュウカは静かに歩み寄った。 「ご心配をおかけしまして、申しわけありません」  眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げている。  不機嫌な顔だ。それとも、怒っているのか? 「リリーに礼を言ったか? そなたが助かったのは、リリーのおかげだ」 「とんでもない! ちい姫さまのおかげです!」 「モーヴ殿下のおかげでもあるな」 「殿下は、肝心なときには、いつもいないんです! 役立たずなんだから!」  リュウカのしわが深くなった。 「何が不満だ?」  イラだって、レイカは訊ねた。 「私はもっと役立たずです。母上をお守りすることができない……ご迷惑をおかけしてばかりです……」  ボロボロボロと涙がこぼれた。 「なんにもできない。申しわけありません」  しゃくりあげた。もはや言葉にならなかった。 「生意気言うな。そなたにどうにかできるなら、とうに母がケリをつけておる。人のことより、自分のことを考えろ」  泣きじゃくる子どもを退がらせて、レイカはため息をついた。 「誰だ? たいそうなことを吹きこんだのは。まだ子どもだぞ」 「ちい姫さまはおやさしいんですわ」 「あの子は守られても、守るほうの立場ではあるまい」 「ムチャを申すな。誰の娘だと思っておる」  カルヴが笑った。 「おとなしく守られている娘ではないわ、母親そっくりでな」  茶に呼ばれて庭に出ると、初めてパーヴの現王妃に顔を合わせた。  リリーとそう年の変わらない若い女性で、あまり見栄えはしなかった。 「お会いできてうれしいですわ」  小さな背、骨に皮が張りついたような貧相な体つきは、王太后と縁続きと聞けば納得できた。 「国王陛下からお話はたくさんうかがっておりますのよ」  前王妃と王子たちは尼僧院に送られ、代わりに王妃の椅子にすわったのが、目の前の女性である。  王太后の企みだ。この女に罪はない。  わかっていても、心中は複雑だった。  庭の片隅で、子どもが泣く声がした。 「これ、セージュ!」  王妃が怒鳴った。 「弟ですよ! 仲良くしなさい!」 「うるせぇ、くそばばあ」  逃げようとする一歳ぐらいの幼児の服をつかみながら、男の子が言い返した。 「くせぇ。うんこくせぇ」  泣き叫ぶ幼児の頭を叩く。 「セージュ! やめなさい!」 「うるせぇ! 命令するな! 逆らうとおばあさまに言いつけるぞ」  ふいに、男の子が転んだ。  黒髪がひるがえった。リュウカがつきとばしたのだ。 「この暴力女!」  男の子が手をあげたが、逆にリュウカにひねられる。 「おばあさまに怒ってもらうからな! おばあさまは怖いんだぞ!」  蹴られてひっくり返る。 「おばあさまに言いつけてやる! ゼッタイ許さないからな!」  悔し涙にくれながら、男の子は手足をバタバタさせた。  レイカは眉をよせた。 「リュウカ。弱い者いじめはよさないか」 「いいクスリですわ。セージュ、お茶にしますよ。手を洗ってらっしゃい」 「命令するな、クソババア!」  バチン、とリュウカが男の子の手を叩いた。 「やったな、この暴力女!」 「手を洗え」 「誰がおまえの言うことなんか! おばあさまがいたら……」 「いないぞ」  リュウカが間髪入れずに答えた。 「連れてきてから言え」 「ちくしょう! 今日のところは引いてやる! でも、覚えてろよ!」  セージュは手を洗って席についた。 「王太后さまは、あの子にべったりなんです」  茶の時間が終わると、王妃は言った。 「すっかり甘やかしてしまって、もう手に負えないんです。リュウカがきて助かります」 「いや、むしろご迷惑でしょう。乱暴者でどうしようもない。後でキツく叱ってやります」 「よろしかったら、しばらくいらっしゃってくださいな」  小柄でやせっぽちの王妃は言った。 「リュウカも、セージュやエドアルのいい遊び相手になってくれますし。リリーを手放すのは惜しいですわ。とてもよく気がつくし、趣味がいいのですもの。よろしかったら、お譲りいただけません? もともとこちらの人なのですし」 「これは売約済みで」  抗議したそうなリリーを眺めながら、レイカは笑った。 「お待ちくだされば、じきに義妹になります。なあ、義姉上」 「お姫さま!」  リリーが上気した顔で立ちあがった。 「あたしはお姫さまとずっと一緒です! 尼になろうと、国母となろうと、変わりませんからね!」 「尼に?」  首を傾げたのは王妃だったが、国王のほうが深刻そうだった。  前妻と息子たちが出家させられたのだから、他人事とは思えないのだろう、とレイカは推測したが、そうではなかった。 「リュウインの国王の話は聞いた」 「早耳ですな」 「リュウカが王位を継ぐのだな」 「道理が通れば。いや、その前に、命がありますかな」  レイカは苦笑した。 「では、いっそ殺してしまおう」 「陛下!」  王妃が叫んだが、レイカは静かに先を促した。 「行方知れずということになっておるのだろう? そのままにしておくがよい。リュウカはこちらで預かって、頃合いを見計らって、表に出そう」 「あのバアさんが黙っているとは思えませんが?」 「母上には伏せておく。リリーと一緒にモーヴのところで預かってもらおう。年ごろになったら、エドアルと娶せる」 「いとこですよ? 血が近すぎます」 「この国ではな。だが、そなたの国では禁じられていまい?」 「何をたくらんでいらっしゃる?」  国王カルヴは立ちあがり、窓に手をかけた。 「いっそうの平和を。リュウカとエドアルが一緒になれば、両国のきずなは深まると思わぬか?」 「私は反対です!」  リリーが強く言った。 「ちい姫さまは、お姫さまが大好きなんです。離すなんてダメです」 「レイカのそばにおけば、殺されるかも知れぬのだぞ。現に、この折りも……」 「では、次回も私がお守りします」  リリーは国王を睨みつけた。  相手が誰だろうと動じないのは、この娘のいいところではあるのだが……。  レイカは苦笑した。 「死におびえて暮らすほうがよいのか? リュウカはおまえとモーヴ殿下にはよくなついておるし……」 「ゼッタイダメです!」  リリーはレイカを睨んだ。 「こちらでも、お姫さまがご無事かずっと案じてらっしゃいました。剣のおけいこだって、お姫さまを将来守るためになさってるんですよ!」 「よけいなことだ。子どもは子どもらしく、自分のことだけ考えておればよい」 「お姫さまときたら、いつも、あれはするな、これはするな、ばっかりですわ! あんなに賢くおやさしいお子ですのに! もう、知りません!」  リリーは椅子を蹴って立ちあがった。足音荒く、戸口へ向かう。 「どちらが母親かわからぬな」  ため息まじりに苦笑すると、リリーがふり返った。 「お姫さまに決まってるじゃありませんか! こんなところをちい姫さまに見られたら、向こう一シクルは口をきいてもらえませんよ。母上をいじめたって」  リリーが出ていくと、レイカは兄に向き直った。 「あの子のことを頼みます」 「よいのか?」 「残されれば、あきらめるでしょう」  レイカは離宮を発った。  しかし、国境にさしかかったところで、早馬に引き戻された。 「国王陛下から、急を要すと」  引き返してみると、幼いセージュが飛びだし、棒をふりかざした。 「帰れ! クソババア! おまえのせいで、リュウカは! リュウカは!」  棒をとりあげ、奥へ進む。 「お姫さま!」  リリーが、レイカを見るなり目をつりあげた。 「黙って置いてくなんて、卑怯じゃございませんか!」 「リュウカがどうかしたか?」 「お姫さまがお発ちになった後、馬に乗って追いかけなさったのですよ!」 「まさか。背が届かぬだろうに」 「柱にでもよじ上ってお乗りになったんでしょうね」 「落馬したのか?」 「いいえ。途中で、みなで取り押さえて引き戻しました。そしたら、もう三日も何も召しあがらないんです。自分は足手まといだから捨てられたのだ、いっそいなくなったほうがよいのだとおっしゃられて」 「何をバカな。きちんと説明したのか?」 「バカはお姫さまです。説明なら、ご自分でなさってください。母親が納得させられないものを、なんでほかの者にできますか? とにかく、お姫さまから、ご飯を召しあがるようにおっしゃってくださいませ。ちい姫さまはおとなしいように見えますけど、どなたかにそっくりで、頑固で手がつけられないんですから」  私はそんなに頑固だったかな?  反論を飲みこんで、薄暗い部屋に入った。  ベッドの上に幼い体を探したが、空だった。 「リュウカ」  呼ぶと、床の上で何かが動いた。幼い子どもがひざまずいていた。 「何をしている。寝ていなくてよいのか」 「申しわけありません、母上」  か細い声が言った。 「ご迷惑をおかけするつもりでなかったのです」 「当たり前だ。ベッドにもどれ。倒れられてはたまらぬ」 「母上もお戻りください。お手間をとらせて申しわけありませんでした」 「ぐずぐず申してないで、とっととベッドに入れ!」  レイカに怒鳴られて、リュウカはふらふらとベッドにもぐりこんだ。 「伯父上の言うことを聞いて、おとなしくしておれ。そなたの身の振り方は伯父上が考えてくれる」 「母上は……」 「母のそばは危ない」 「母上も危ないのですか?」 「危ないのは、母ではない。そなただ。母ひとりでは、そなたを守りきれぬ。だから、伯父上に預けるのだ。モーヴ伯父上を覚えておるな? リリーが連れていってくれる。モーヴ伯父上を父と、リリーを母と思って、いい子にしているのだぞ」 「私は誰もいりません。モーヴ伯父上もリリーも母上のおそばにお呼びください」 「聞き分けがないぞ! おとなしく母の言いつけがきけないのか!」 「申しわけありません」 「まったく、私がいつそなたを足手まといと申した。勝手な思いこみで行動するのではない」 「申しわけありません」 「どうしてそう卑屈なのか。父に似たのか」 「申しわけありません」 「何度も謝るな! 謝れば済むと思っておるのか!」 「申しわけありません……」  レイカは頭を抱えた。 「もうよい。リリーや伯父上、伯母上の言うことをきいて、食事をとるのだぞ」  部屋を出ると、疲れがでた。 「話は終わった。リュウカは納得したぞ。食事を持っていってやれ」  居間へ行くと、王妃がエドアルをソファに寝かしつけていた。 「リュウカと遊びたがって、ぐずるんですよ」  王妃は笑った。 「いいお姉ちゃんですわ。レイカさまの躾がよろしいのね」 「いや、まだまだで」 「レイカさまがお迎えにいらっしゃるまで、ずっとよい子でしたのよ。エドアルの面倒は見てくれますし、セージュのわがままにもつきあってくれますし。でも、やっぱり母君が恋しいのね。毎日毎日、お迎えはいつ来るのって訊いてましたのよ」 「恐れ入ります。そのまますなおでいてくれればよかったのですが」 「かわいそうに」 「あの子のためです。ようすが落ち着き次第、帰ります」  しかし、リュウカの容態はよくならなかった。 「また、わがままを申しておるのか?」  レイカがあきれると、 「いいえ」  リリーはきっぱりと言った。 「ちい姫さまはお飲みになろうとしています。涙ながらに口に運ぶのですけれど、すべて吐いておしまいになるんです」 「わざとではないのか? 子どもがよく使う手だ。駄々をこねるために……」 「ちい姫さまはまじめです! お姫さまに申しわけないと、いつも泣いていらっしゃいます」 「また泣いておるのか。あの後ろ向きな性格はどうにかならぬのか」 「お姫さま! このままでは、ちい姫さまは死んでおしまいになりますよ! 他人事みたいな顔してないで、ちい姫のお顔でもごらんになったらどうなんですか!」  薄暗い部屋に入ると、気がめいった。 「リュウカ、入るぞ」  ベッドの上で、子どもが身を起こした。 「母上、わざわざお運びいただき、申しわけありません」 「寝ておれ」  子どもの顔色は白かった。唇は乾き、目は腫れていた。 「私のことは構わず、お発ちください」 「そうは行かぬ」 「私はだいじょうぶです。それより、母上のほうが……」 「人のことに口を出すな」 「申しわけありません」 「さっさと飲むものを飲んでよくなれ」  うなずく子どもの目から涙がこぼれる。 「入るぞ」  懐かしい声がして、背後の扉が開いた。 「モーヴ殿下か」 「伯父上! ごきげんうるわ……」 「起きなくていいぞ、リュウカ。そのまま寝てろ」  ズカズカと入りこみ、リュウカの布団を直した。 「兄上から話は聞いた。逃げてきたんだって? さすがはリリーだな。並みの女とは違う」  カラカラと笑う。 「うちに来るか? 毎日けいこつけてやるぞ」 「はい」  リュウカはしゃくりあげた。 「なんだ、母上が恋しいのか」 「いいえ!」  涙があふれた。 「いいえ!」 「ウソツキは連れていけないな。レイカ、連れて帰ってやれ」 「冗談を。そのために、はるばるガーダから来られたのだろう? リュウカも行くと言っておるし、私のもとにおれば、いつ死ぬかも……」 「今死ぬぞ。わからないヤツだな」 「わからないのは、殿下ではないか」 「もっと大きくなってから来い」  リュウカの頭をぐしゃぐしゃ撫でた。 「今回のところは、母上と帰れ。決まりだ」 「でも、伯父上……」 「この話は終わりだ。まだ二、三日はこっちにいるからな、また後で顔見に来る」  モーヴはレイカの腕をつかんで寝室を出た。 「どういうつもりだ? 勝手に決めて」 「リュウカがあれだけ厭がっているんだ。もういいだろう」 「厭がってなどおらぬ。納得している」 「泣いてたじゃないか」  レイカは眉を寄せた。 「本当にききわけのない」 「龍が猫の仔一匹守れないでどうする」 「簡単に言ってくれる」  モーヴは三日逗留した。  薄暗い寝室には時をおかず顔を出した。 「何のまじないをかけたのだ?」  レイカは問うた。リュウカの容態は目に見えてよくなっていた。 「何も考えず、抱いてやれ。なあ、リリー」  腕を伸ばすと、おさげ髪の侍女は逃げた。 「殿下が言うと、いやらしく聞こえますわね!」  別れぎわには、リュウカも見送りに出られるようになった。 「剣の腕を磨いて、母上をお守りするんだぞ」  リュウカの黒髪をぐしゃぐしゃに撫でた。 「やはり、殿下か! くだらぬ騎士道を吹きこんだのは! この子は守られる立場だぞ! 王女なのだから……」  レイカが眉を寄せると、モーヴは笑ってリュウカを抱きあげた。 「こんなしかめっ面で小言だらけの母上のほうが、かっこいい伯父上よりいいか?」  リュウカは急いでうなずいた。  一度できかず、三度もうなずいた。  一同は笑った。  モーヴは発った。  残されて、レイカはため息をついた。 「そなたには、身を守るすべを、母の知る限りすべて教えよう。泣き言は許さぬ。難儀なことよ。伯父と行けば幸せであったろうに」  なぜ自分を選ぶのか、レイカにはわからなかった。  できるだけのことをしよう。  スカートのすそを、白くなるまで握りしめている小さな手を見ながら思った。  * * * 「お待ちください」 「待つのは嫌いな性分でな」  さえぎる衛兵を、レイカは力で押しきった。 「宰相! 出てこい! 来ぬならいぶり出してやるぞ!」  大声で王妃の棟をまわる。  いや、寵姫の棟か?  内心、皮肉に笑う。 「宰相! どこに隠れて震えておる!」 「私はここに」  小男が襟を正しながら一室から出てきた。数ある客間の一室である。  レイカは閉じかけた扉から中をかいま見た。  裸の少女が、散らばった着衣の上ですすり泣いていた。  こやつは、アレより悪い。  宰相の左頬に入った刀傷を見ながら思った。  アレは合意の上だが、こやつはムリ強いだ。しかも、それを勲章のように思っている。 「ラノックを刺したな」 「ラノック?」  小男は赤いベストのボタンをしめながら、首を傾げてみせた。 「思い出せぬなら、助けてやろうか」 「いえいえ、思いだしました。なるほど、そういえば王后陛下の侍従長が、そんな名前でしたかな」 「よくもとぼける」 「だんだんに思いだしましたぞ。昨日の夕刻、何者かに刺されたとか。城からの帰りでしたかな。なんでも盗賊に襲われて虫の息だとか」 「死んだ。これでせいせいしたか」 「新しい侍従長が要りますなあ」 「その部下も一掃するつもりか」 「王后陛下にあられましては、政からも手を引かれ、王女殿下の養育にお力を注がれますよう。この国を背負われるお方ですからな。聞き及ぶところによりますれば、剣のけいこなどに励んでいらっしゃるごようす。無用ですぞ。城にもどられて、きちんと教育を授けられますよう」 「業を煮やしたか。刺客をことごとく討たれて。住処を移すつもりなどさらさらないわ。それより! ラノックを刺したのは、きさまだ」 「ご乱心めされましたか?」  レイカが剣に手をかけるのを悠然と眺める。  だから、こやつは嫌いなのだ。  レイカは思う。  ここで斬りつければ、王妃といえど、獄送りとなるかも知れない。となれば、残されたリュウカはどうなる?  したがって、レイカは剣を抜くことができない。  見通しているのだ。 「多額の不明金があるな」  レイカは低い声で言った。 「兵に払われるべき金がどこかに消えておる」 「そもそも兵の数が多いのです」  赤いベストの小男はすまして答えた。 「これからは政治がモノを言う時代です」 「国の治安はどうする。出没する賊は?」 「街や村の自治にまかせればよろしい。われわれのすべきことは、その街や村を潤すことですよ」 「潤っておるのは、そなたの懐だけではないか」 「人聞きの悪い。証拠もなく、推測だけでおっしゃるのはいかがなものかと。王后陛下」  小男の目が笑う。 「証拠をつかまれて、ラノックを刺したのだろう? ぶじに消せたのか? それとも私の手元にあるのかな。これを兵に示そうか。それとも隣国を手引きしようか。主導権は、さて、どちらにあるものか」  レイカは冷ややかに言い、扉に手をかけた。 「仕度をして出ておいで。郷《くに》にお帰り。手の者に送らせよう」  中で、まだ少女はすすり泣いていた。  小男は足早に立ち去った。  今度こそ、国王に談判しなければならぬ!  レイカは国王の棟に出向いたが、王は留守だった。寵姫たちと森へお茶に出かけたのだ。  帰りを待つか。  書斎で本を手にとる。  どう説得したものか?  図解で埋められたページを上の空でめくった。  昔のように叱りつけてどうにかなるものだろうか?  息子がいるのだと打ち明けようか? 昔は信じなかったが、今はどうだろう? 守るために宰相を遠ざけてくれるだろうか?  あの時、手をさし伸べなければよかったのだ! あの雪の中、安っぽい憐れみを持たなければ! 反射的に手を伸ばしたとはいえ、あのまま雪洞に運ばず、放置しておけば……。  ページを操る間に、うたた寝をしてしまった。  気づくと、辺りは暗かった。  足音がふたつ廊下に響き、扉の前で止まった。  ふたつ?  国王のものだとしても、ひとりではない。  とっさに、レイカは書棚の陰に隠れた。  灯りが室内を照らし、ふたつの人影が浮かびあがった。 「陛下、由々しき事態ですぞ」  ランプを掲げた小男が言った。 「予は眠いのだ。早くしてくれ」  太った男がだるそうにあくびをした。 「これにサインを」  ランプを机に置き、小男が懐から書状を取りだした。 「明日でいいだろう。予は眠いのだ」 「一刻を争うのです。さあ」  ペンをインクに浸し、太った男に渡す。 「気味の悪い書面だな。人の名前がズラズラと……文字もてんでバラバラだし。昔見た、あれだ、あの、連判状とかいうのに似ているぞ」 「その通りでございます」 「ほう。今度はなにをやるのだ?」 「まずは、サインを」 「予が訊いておるのだぞ! 答えぬか!」 「賊の討伐を」 「なんだ、つまらん」  ペンを置いた。 「予の手をわずらわせるほどのことではないわ。勝手にやれ」 「一筋縄ではいかぬ国賊で」 「ぐずぐず言わずに、さっさと首をはねてまいれ」 「手の届かぬお方なれば」 「他国の者か?」 「そうであるような、ないような」 「はっきりしろ!」 「王后陛下でございます」 「レイカだと! 話にならん!」  書状を払いのける。小男は拾いあげ、再び机に広げた。 「兄君と通じ、兵を挙げるも辞さぬと」 「おまえが何事かよからぬことを企むのは見て見ぬフリをしてきた。それで、もう、いいではないか」 「しかし、同志はこれだけおりますぞ」  紙を叩く音が響いた。 「こんなに、レイカは嫌われておるのか?」  違う。宰相が金と脅しで集めた連中だ。嫌っているわけではない。  レイカは、説明しようと足を踏みだしかけた。 「あの娘の始末はどうか?」 「なかなか。王后陛下の守りが堅く……」 「いまいましい! このままでは、不義の子に、王位を譲ることになってしまうではないか! あの口のきけぬ無礼な男の子などに! 予はアイリーンに譲ると、そなたに約束した! そなたも約束を果たしてくれなくてはな! ええい、確かにこの手で始末したと思ったものを!」  体が凍りついた。 「何年かかっておる! たかが小娘ひとりに!」  国王はイライラと手を振り、その指先が読みさしの本に当たった。  レイカはひやりとした。先ほどまでレイカが繰っていた図鑑である。 「薬草の本か」  王はつぶやいた。 「そうだ。毒を使えばよいではないか。毒入り菓子を作り、あの小娘に握らせろ。子どものことだ、すぐに口にしてくたばるだろう」 「すでに試しております」 「失敗したのか?」 「子どもながら、容易には口になさいません。王后陛下のご教育の成果と存じます」 「生意気な小娘め!」  国王は手を叩きつけた。本が鳴った。 「あの小娘さえいなくなれば、レイカも予のもとに帰ってくるにちがいないのだ! あの男を忘れてくれるのだ!」 「おそれながら、陛下。王后陛下はご自分のお命に替えても御子を守り通すご所存。もし、御子が傷つけられようものなら、隣国の兵を招き入れましょう。陛下がお選びあそばすのは、ふたつにひとつでございます」  長いこと、国王はペンを握りしめていた。 「誰か! 誰かぁ! 黒い髪の女の人が!」  廊下で叫び声があがった。幼い女の子の声で、レイカは内心飛びあがった。 「アイリーンか!」  国王が立ちあがった時には、宰相は部屋から飛びだしていた。国王があたふたと後を追う。  レイカは書棚の間から出て、机の上を見た。  このままにはしておけぬ。  丸めて懐に入れる。 「あーははは。ひっかかった!」  子どもの笑い声が響いた。 「心配いたしましたぞ。めったなことをお言いくださるな」 「だいじょうぶ! 悪い王妃さまなんか、爺じが退治してくれるって、ママ言ってたもん!」  レイカは窓から庭に出た。  この連判状で、取引ができるかも知れない。  少なくとも、新たな連判状を作るまで、いくばくか時を稼げるだろう。  しかし。  ああ! リュウカの殺害を命じたのが、誰あろう実父だったとは! 宰相を追いつめたところで、事態は変わらぬ!  もはや、安住の術《すべ》はない。一刻も早く隣国に!  離宮に到着すると、レイカは急いで一筆したためた。 「リリー! これをモーヴ殿下に届けておくれ」 「では、早馬を」  飛びだそうとするリリーの腕を、レイカはつかんだ。 「いや、おまえでなくては。大事な用件なのだ。ほかの者には任せられぬ。今すぐ発ってくれ。一刻を争うのだ」  リリーはレイカの目を見てうなずいた。  夜が更けて、今度はマムとサミーを呼びだした。 「リリーの後を追ってくれ」 「あたしたちじゃ、追いつきませんよ。早馬をやって足止めを……」 「ほかの者ではマズい。一日遅れでも構わない、今すぐリリーの後を追い、この書状をモーヴ殿下に届けておくれ」 「夜中でございますよ。それに、みんな出かけてしまっては、家の中は……」 「いいから、お行き。私には、頼れる者がほかにいないのだ。わかるな?」  ふたりは発った。 「母上。みなに暇を出したのですか?」  翌朝、ひと気のないのを不審がって、リュウカが訊ねた。 「ひと足先に行ってもらったのだ」  詳しくは告げず、買い物に連れだした。  かつて、リリーは商人に紛れて隣国へ渡った。ならって、エスクデールで商人を探そう。服は民のもののほうが目立たぬだろう。食料も要る。それから……。  娘の顔を見る。今年で十になった。まだまだ幼い。  もはや、この国の王女として生きていくことはできない。  が、これから先、暗殺を一日一日恐れる必要はなくなるのだ。 「そなたは、どんな大人になるのかな」 「母上のようになれればと」  即答に、レイカは苦笑した。 「母に似れば、夫に恵まれぬぞ。そなたはそなたの道を行け」  飲みこめない表情ながら、リュウカはうなずいた。  明日は政を片づけて、明後日の早朝にここを発とう。  兄上やモーヴ殿下には頼るまい。王太后が睨みをきかせている間は、自分たちはお荷物だろう。  しばらくは、民に紛れて生きるか。  王太后が死んだら、兄上たちを頼ればいい。  パーヴに亡命した我らに、アプスたちは口出しできまい。この連判状がある限り。  きっと、うまくいく。  東の空を見上げた。  龍は郷《くに》へ帰るのだ。