第三部 パーヴ  第十一章 源流の魔女  腹の痛みで目が醒めた。 「腹減ったなあ」  つぶやきながら、少年は木の枝から飛び降りた。  草丈は高く、行く手をはばんだ。  かきわけて進むうち、音が耳に入った。 「水だ」  さらに行くと、急に開けて、眼下に沢が見えた。 「あぶね」  少年は草をつかんだ。足下は崖だった。おとなふたり分の高さはある。  腰を落として、滑り降りる。水ぎわに駆け寄り、膝をつく。 「飲まぬほうがよい」  女の声がして、少年は飛びあがった。 「だ、誰……」  白と黒。  まぶしいコントラストに目がとらわれた。  岩の上で、女が黒髪をすいていた。水浴び中か、白い裸体があらわである。  森の精だ。  少年はわなないた。  人間とは思えない。髪は黒すぎるし、目はひまわりの種みたいだし、きれいすぎる……。 「水浴びにはよいが、飲んでは腹を壊す。この先に泉がある……」 「化け物!」  少年は女を見つめながら、必死で叫んだ。  目が離れない! くそっ! これも化け物のしわざか? 魂を食われちまう! やっとツキが回ってきたと思ったのに!  女は眉根を寄せた。  白いものが飛んだ。弧を描いて少年の手元に落ちる。水筒だった。 「泉の水だ」  少年は、急いで水筒を開けた。  浴びるように飲む。したたり落ちる水をあごの下で拭い、もう一度見ると、女の姿はなかった。  消えた!  ぶるっと震えた。  本物の化け物か!  目を落とすと、揺れる川面に汚い子どもの姿が映った。泥が貼りついて白くこわばった髪、真っ黒に汚れた穴だらけのシャツ。大きな青い眼が、自分を見返している。  化け物!  ののしる子どもたちの声が甦る。  足で水面を蹴った。  こんなナリじゃなかったら、かあちゃんだってオレを捨てやしなかったのに!  水を飲み干すと、上流にのぼり始めた。  泉はほどなく見つかった。岩の間からほとばしる清水を腹いっぱいに飲んだ。  旨そうなキノコが木の根元から伸びていた。  あぶねぇ、あぶねぇ。  うっかり手を出した仲間を思いだす。腹をこわし、糞尿にまみれて死んだ。  あんな惨めな死に方はごめんだ。  細い踏み跡をたどりながら、赤い実を摘む。  すっぱい。けど、食えるからな。  ポケットに押しこむ。  視界が開けると、山小屋が建っていた。  しめた! メシにありつける!  車庫には馬車が、厩にはロバが入っていた。  山小屋は二階建てで、煙突から煙と煮炊きの匂いが立ちのぼっていた。  勝手口へまわると、庭先で巨漢が肉をさばいていた。  唾液がこみあげてきた。  巨漢はナタを肉につきたてる。大きな音が響いた。  こりゃあ、いただくのはムリだな……。  大柄だが、手さばきから推すに、鈍そうには見えない。  頭から、あいつを突きたてられちゃあ……。  ぶるっと震えた。  表に回ると、人の姿はなかった。  玄関から忍びこむと、目の前が食堂だった。やはり、誰もいない。  よし、こっちから食い物を……。  厨房に向かいかけて、体が宙に浮かんだ。 「どこから入りこんだ、悪ガキ」  しまった! 戸の陰にいたのか!  ひげ面の男に首根っこをつかまれ、頭の中がフル回転する。 「ね、ねえちゃんに会いに来たんだ!」  締まりそうになる襟元を必死でつかんで叫ぶ。 「ねえちゃんだと?」 「若い美人のねえちゃんだよ! 黒髪で色白の!」 「そんな客はいねぇなぁ」 「鼻がすっと通って、目がひまわりの種みたいな、美人のねえちゃんだよ!」  沢の女は、きっとここの客にちがいない! きっと、そうだ! そうに決まってる! 「アッシャでも見たか?」  ひげ面の男が笑った。  その時、食堂の前を女が通った。  とび色の髪、赤銅色の肌。だが、目鼻立ちはさっきの女だ! 「いた!」  少年は叫んだ。 「ねえちゃん! オレだよ! オレ! セージュだよ!」  女がふり向いた。 「お知り合いで?」  ひげ面の男が訊ねると、女は首を振った。 「知らんとよ。さて、親はどこだ?」 「ねえちゃんは、ケンカしたから知らんぷりしてるだけだ! ねえちゃん!」  化け物呼ばわりしたのを、根にもっているんだろうか? 「親もねぇのか。じゃあ、人買いに渡すか」  背筋が凍った。  また、逆もどりだ! せっかく親方ンとこを抜けだしてきたのに! 「ここで働かせてくれよう」  少年は涙を浮かべてみせた。 「オレ、なんにも悪いことしてないじゃないか」 「どうせ盗みにでも入ったんだろう。うちには手クセの悪いガキを置く余裕なんかないね。明日、街の人買いに引き渡してやる」  本気だ。  相手の目は揺るがない。少年は震えあがった。 「許してくれよう。腹が減ってただけなんだよ」 「縄持ってこい!」  ひげ面男が少年を抑えつけながら、厨房に叫んだ。五十前後の女が太い縄を運んでくる。 「売らないで! 売らないで!」 「うるせぇガキだな。ボロ持ってこい。口に詰めろ」 「主、すまない。その子は私の弟だ」  静かだが、よく通る声が響いた。  とび色の髪の女が、そばに立っていた。 「そんなわきゃねぇでしょう」 「離してやってくれないか。それから、この子に食事を出してやって欲しい」 「お客さん、下手な情けをかけると、タメになりませんぜ」  しぶしぶひげ面の男が手を離した。 「この子の宿代だ」  女が金を渡す。 「へへーん、みたか!」  少年はふんぞり返った。 「オレは客だぞ! 礼儀をわきまえろ!」 「わきまえるのは、どちらだ」  女が少年の襟首をつかんだ。 「洗濯桶と湯を用意してくれないか」  厨房にもどりかけた五十女に言う。 「何すんだよ!」  女は有無を言わさず、少年を湯の中に突っこんだ。  湯上がりの食事は最高だった。 「食べ終えたら発つといい」  女が財布を手渡した。  少年は中をのぞいた。金貨が二枚。  げっ。本物? 「出すな」  少年の手に、女は手を重ねた。  女のクセに大きな手だ。皮も厚くて堅い。だが、長い指や甲の形は美しい。  胸の中がむずがゆくなって、少年は手をはねのけた。  金貨が自分のモノになるなんて初めてだ。こっそりガメたら、誰かが必ず親方に告げ口して、自分はゲンコツとムチを、誰かはごほうびをたっぷりといただいたから。 「私はじきに発つ。その前に発ちなさい」 「でも、今夜の宿代、払ってくれたんだろ」 「食事のためだ。ひとりで残ると、売られるかも知れない。早く山を下りなさい」  手が伸びて、金色の髪をなでた。  少年はびくっと身を引いた。 「触んじゃねぇ!」  何考えてんだ、このアマ。  女ってのは、うす汚ぇって逃げるもんだぞ。それをごていねいに風呂にまで入れやがって。この髪だって、気持ち悪がるんだぞ。きっと呪われて色をなくしたんだって。 「言われなくても、行くさ。バーカ」  少年は金貨の入った財布を握って、山小屋を飛びだした。  馬車の音で目が醒めた。  やっとお出ましか。  枝の上で身を起こす。  いてて。食い過ぎかな?  腹をおさえて、ようすをうかがう。  ロバにひかせた小さな馬車がゆっくりと山道を下りている。  少年は木から降りて、後をつけた。  誰が逃がすか、この金づる。  女は器用に馬車を操り、狭い山道を下りていく。  急な斜面を過ぎると、なだらかな広場があった。馬車はそこで止まった。女は馬車を置き、茂みに入っていく。  しめた! このスキに!  少年は急いで御者台に飛びついた。手綱を探す。  あれ、ない?  ようやく、木の幹に縛られているのに気づく。  えーっと、どうやって外すんだ?  あちこち引いてみるが、手綱は堅く、外れない。  その手元に、影が落ちた。  見あげると、大きな馬だった。息は荒く、歯をむき出しにした。 「うああっ!」  尻もちをつき、立ちあがって逃げようとする。馬がその服をかんだ。 「旨くないっ! オレ旨くないよう!」 「その辺にしておやり」  女が馬の頬をやさしく叩いた。  どっから現れた!  少年は今度こそ逃れようと身をねじった。  馬が服を離した。 「オレンジはどうだ?」  空に弧を描いてくるのを、少年は反射的に受けとめた。  女は御者台に立ち、オレンジをかじる。  かっくいー。  腰には剣をひっさげて、立派な馬をひき連れて、片手でオレンジをがぶり……。  にげぇ。  少年は口の中のものを吐きだした。  あの女、なんで皮をむかないんだよう。こんな苦いの、よく食えるな。  皮をむいてひとつめを食べると、ふたつめが飛んできた。  ふたつめを食べると、みっつめが飛んできた。  女は馬にもオレンジを放った。器用に口でとらえ、飲みこむ馬。きれいな葦毛の馬だ。 「馬になんかやるなよ!」 「どうして?」 「オレのだぞ!」 「じゅうぶんにある。食べたければ……」 「それも、ぜんぶオレのだったら!」  馬車も荷物もロバも、その馬も、残りの金もみんな!  その時、激痛が走った。  腹だ。腹が、しめつけられるように痛い! 「ちくしょう! 毒を入れたな!」  おかしいと思ったんだ。馬車を盗むとこを見てたのに、物をくれるなんて。  だまし討ちだ、やさしくするふりをして、この女! 「ちくしょう! ちくしょう!」  うずくまる。 「見せてみろ」  女が背に手をかけた。 「うるせぇ!」  腕を振ると、逆にとられた。あっというまに仰向けに倒される。  風呂の時もそうだったが、この女、バカ力なんだ……。  手が腹を這い、激痛に少年は悲鳴をあげた。 「虫垂炎だな」  声が遠くに聞こえる。  オレ、死んじまうのかな……。 「これを飲め」  薬包が目に入る。 「いやだ! いやだ!」  これ以上苦しませようってのか、この女は!  ぐいっと鼻をつままれた。  や、やめろ!  空いた口に粉と水が注ぎこまれ、口がふさがれた。  息が! 息が苦しい!  夢中で口の中のモノを飲みこんだ。  死んじまう! オレはここで死んじまうんだ! せっかく親方ンとこを抜けだしてきたのに! 「かあちゃん!」  涙が出た。 「かあちゃん!」  意識を失った。  火の匂いで目が醒めた。  薄暗い。  どこだろう?  身を起こしかける。腹に激痛が走った。 「いででで……」 「動くな。縫ったばかりだ」  女がすぐ横にいた。 「うわあっ」  とび起きそうになるのを、女が抱き寄せた。 「動くなというに」  ぬくもり、熱い息に、少年は罪悪感のようなものを覚えた。 「オレ、オレ、なんでここに……、ここ、どこ?」 「里の農家の土間だ。一度説明しただろう? 覚えていないか?」  覚えがなかった。  なんでも、痛み止めで眠ってしまったらしい。里まで運ばれ、土間で麻酔を飲み、手術されたらしい。一昼夜も前のことだ。 「山の中で切るのは、危ないからな」  感染症がどうとか言ったが、少年には聞こえていなかった。 「ちょっと待てよ! オレの腹、かっさばいたのか?」 「キズは目立たないよう……」 「もうお終いだ! オレ、死んだ!」  少年は目を覆った。 「生きているではないか」 「すぐ死ぬよ! だって、腹ン中には大事なものがいっぱい詰まってるって聞いたよ。その証拠に、腹蹴られて死んだヤツ、いっぱいいるもん。ああ、オレはもうダメだ。こんなことなら、もっと旨いもん食っとくんだった! 肉だんごとか、鳥の蒸し焼きとか、焼きオレンジとか、まだ食ったことないのに! ミルクプディングとか、白チーズのキイチゴソースかけとか、まだ名前しか聞いたことないのに!」  涙を流しながら切々と訴える。  女が吹きだした。 「明日になれば、スープぐらいは飲めるだろう」 「旨いのにしてくれよ。今生の別れなんだから」  女が当てた布きれで鼻をかんだ。腹がズキズキした。 「やっと、かびてないパンが食べられると思ったのに。すっぱくないミルクが飲めると思ったのに。知ってるか? 飴がけの卵プディングって。スプーンでつっつくと、パリパリって音を立てて割れるんだぜ、上にかかった飴がさ。高そうなレストランで女の子が食べてるの見たことある。くそうっ、アレ食ってから死にてぇなあ。茶って知ってるか? アレもすすってみたかった! おとなになったら飲めるって聞いてたのに!」 「よくしゃべる」  女は毛布を直した。 「土間は冷える。温かくしてよく休め」  再び抱き寄せられた。  ぬくもりが、抗いがたかった。 「かあちゃん」  夢心地でつぶやいた。  翌日、馬車に乗せられて移動した。  一シクル半もすると、動き回れるようになった。 「あんた、名医だな! すげー! ホントに縫い合わせた痕がある!」  少年は腹を見て叫んだ。 「ただの薬屋だ」 「オレ、あんたみたいな名医になるよ! それで、すげー金持ちになって、王さまになる!」  少年は薪を並べた。 「馬車と馬を盗るのではなかったか?」  女はそれを並べ直した。 「それより、ずっといいよ! こんな金貨、何枚でも稼げんだろ?」  もらった財布を持ちあげてみせる。 「それで終わりだ」 「へ?」 「儲かる商売ではないし、面倒も多い。それを元手にほかの仕事を探したらいい」  少年は悟った。 「あんた、全財産をオレにくれたのか!」 「稼げば済むことだ」 「弟子にしてくれ!」 「ついてきてもロクなことはない。どこか街に出て……」 「オレに何ができるんだ! まだガキだし、知ってる人はいねぇし、どうせまた誰かにとっつかまって稼がされるんだ! だいたい、こんな色の髪、誰が近寄ってくるもんか!」 「きれいな髪だ。ウルサの人の髪と目だな」 「なんだい? ウルサって」  たき火はすっかり燃えて、湯が沸いていた。  串で突くと、輪切りの芋に通った。 「北の国だ」 「行ったことあんの?」 「商人がやってくる。北へ行けば見られるぞ」 「よし! 決めた! オレ、あんたの弟子になって、北へ行く!」 「私は流れ者だ。北に行くとは限らない」 「いいや! 行くんだ! 今決めた! でも不思議だな。あんた、沢ンとこで見た黒い髪のほうが、ずっと似あうよ。色白だしさ。いいドレスでも着たら、きっと領主さまの奥方にだってなれるぜ! いいや、お后さまかな! ホント、ホント! もったいねぇや」  バタンと仰向けになる。 「でも、あんたはオレと一緒に北へ行くんだ。そして、なんとか人ってヤツらを見るんだ、オレとおんなじ髪のヤツらを。それから、いろんな珍しい食い物……」  月がきれいだ。 「自由っていいなあ! もし、王さまにしてやるって言われたって、オレ、きっと、あんたと北へ行くよ。馬の乗り方教えてくれよ。それと、馬車の転がし方も」  ばっと起きあがる。  たき火が小さくはぜた。  女の顔が穏やかな光に浮かびあがっていた。  どきんとした。  ひまわりの種のような目が細くなっていた。 「セージュ」 「へ?」 「山ではそう名乗ったな」  それが本名だったら、どんなにいいだろう。勇者セージュ。伝説の英雄。 「違うのか? 名前は?」  こぶしを握った。  もう、ウソはつきたくなかった。 「わ、笑うなよ。ヘデロ」  早口に言った。  化け物のヘデロ。英雄に退治された、ドロドロの化け物。 「だっ、だから、虹の清水にだけは行くなよ! あんたと国中まわるけど、あそこだけは……」  女は声をあげて笑いだした。 「わ、笑うなって言ったろう!」  泣きそうになって、少年は怒鳴った。 「すまない。笑ったのは……」  軽く頬杖をついた。 「虹の清水だ。あの山小屋の辺りはそう呼ばれている」 「へ?」 「私たちが会ったのは、そこだよ」  少年は絶句した。 「ヒバリかヒタキのようだな」 「……なんだよ、ヒバリって」 「高い声でよくしゃべる」  自分のことだと知って、少年はムッとした。 「あんたこそ、バカ力で……」 「ヒース」 「なんだよ、それ」 「うん、ヒースがいい」 「だから、そのヒースって……」 「北国の木で、濃い緑の葉に、白い花をつけるのだ。夏になると、野が緑と白とで埋まる。私はリュートだ。よろしく、ヒース」 「オレの名前かよ! 花か? オレは花なのか? トビとか、ハイタカとか、なんか強そうなのねぇの?」 「それで、ヒース、年はいくつだ」  決定かよ。  少年はため息をついた。 「十一」 「三つ違いか」 「誰と?」 「私と」 「ウソっ!」  腹に激痛が走った。 「イデデデ……」 「大声を出すな。まだキズに響く」  芋汁が器に入れられた。  痛みがひくと、ヒースは汁にありついた。 「あんた、五つはごまかせるぜ」 「都合がいい」 「そりゃあな。ガキに見られちゃ仕事になんねぇし。まあ、若い時に老けてると、年とってから若く見えるって言うから、いいんじゃねぇ? でも、あんた、落ち着きすぎ」  芋汁の後は、オレンジで腹を満たした。 「なあ、あんた、生まれは?」  食後、並んで横になり、空を眺めてヒースは訊ねた。 「オレはずっとバンクの街に住んでたんだ。親方がいて、仲間がいて、毎日トロい湯治客の懐をかすめとってさ。オレ、こんなナリだろう? かあちゃんが気味悪がって捨てたんだってさ」 「誰がそのようなことを?」 「親方が言ってた。ゴミ山から拾ってやったんだ、恩を返せって」 「事実かな? 何か事情があったのかも……」 「事情って、なんだよ!」 「昔」  リュートはゆっくりと言った。 「母に置き去りにされたことがある。役立たずで捨てられたのかと思った。だが、それは身を案じてのことだった」 「じゃあ、オレもそうだっていうのか!」 「母を恨むな」 「ちぇっ。で、あんたのかあちゃんは、どうしてんだよ。郷《くに》で待ってんのか?」 「天に還った」  ヒースは一瞬口をつぐんだ。 「……あんたも天涯孤独ってヤツか」 「弟がいるらしい」 「らしいってなんだよ」 「生き別れになってな。年は、ちょうど、おまえぐらいか」 「実は、オレがその弟だったりして」 「この色は、血筋にないな」  そっと髪をなでる。 「ちぇっ。つまんねぇの!」 「少ししゃべりすぎた。もう寝よう」  静かな寝息が聞こえてきた。  早っ! もう眠ったのか?  ヒースは星空を見あげた。  体を横にずらして、くっつく。  いい匂いがした。  そして、心地よいぬくもり。  眠りについて、つぶやいた。 「かあちゃん」  第十二章 流れの薬屋  馬車は北へ向かった。 「また来やがった」  村に入ると、子どもたちが石を投げた。 「伏せていなさい」  荷台にヒースが非難すると、リュートは棒で器用に石を打ち返した。  すげぇ。  石は子どもたちの足下に落ち、ひるんだところを葦毛の馬がいなないて威嚇した。  子どもたちが逃げ、馬車は進み始めた。 「いっそ、あの馬に車を引かせて、勢いよく逃げたほうがよかったんじゃねぇの?」  馬車から顔を出すと、リュートは笑った。 「葦毛に引かせろと? それより、ケガはないか?」 「うん。なんなんだい、あいつら」 「薬屋など、このようなものだ」  リュートは多くを語らなかった。  水場でロバと馬に水をやり、自らの埃を洗っていると、村人が寄ってきた。 「キズ薬はあるかい?」 「痛み止め、よく効いたよ。また欲しいんだけどね」  彼らの腕には、魚の干物や野菜が抱えられていた。 「金になんねぇなぁ」  ヒースはため息をついた。 「頭が痛いだの、ケツが痛いだの、不景気な話ばっかりだし」 「弟子などやめてもいいぞ」 「いいや」  きっぱりと言った。 「オレはあんたと北へ行く。離れないからな!」  ヒースができることはほとんどなかった。 「薬なんて、簡単だよ! そのしわくちゃの葉をすりつぶして、混ぜりゃあいいんだろ!」  道中、リュートの作業を見ていたにも関わらず、いざとなると葉と葉の区別がつかないのだった。 「馬の餌なんて、簡単だって!」  馬にはやってはいけない毒草があるのだと初めて知った。見分けなど、まだつかない。 「メシの仕度なら、任せろって!」  焦げた魚や生煮えの野菜が並んだ。 「あんたさぁ、今度は、オレがついてくるとロクなことがないって言わねぇよな?」  あわてて先手を打った。 「弟子がいて、よかったと思うよな? ここまで連れてきたんだから、責任とるよな?」  もう、絶対もどらないぞ!  決意をこめて訊ねると、リュートが薄く笑った。 「なんだよ! 朝、こっそり置いて出ようなんて、ダメだからな!」 「よくしゃべる」  ため息をついた。 「昔を思い出しただけだ。私も母の前では、そんな顔をしていたのかな」 「そうだよ! そうに決まってる! だから、オレを連れてけよ? な? な?」 「黙って置き去りにはしない。約束しよう」  生煮えの野菜を煮直しながら、リュートはつぶやいた。 「私といても、ロクなことはないのだがな」  翌日から、ヒースは名誉挽回のため、村の女たちに声をかけた。 「煮炊きの仕方、教えてくんない? 先生にうまいもん食わしてやりてぇんだ」  薬屋の弟子、という肩書きがついただけで、女たちの態度は好意的だった。 「薬屋さんは働き者だからね」  症状によっては毎日ようすを見に来て、家事を手伝うこともあるという。 「やりすぎだよ」  その日の夕方、弟子は師に言った。 「休めばよくなるものを、休めないとなれば気の毒だろう」  やや煮崩れした野菜をつつきながら、リュートは答えた。 「でもさ、そんなんじゃ、体がもたねぇぜ」 「じょうぶだけが取り柄だからな」 「そう言えば、村の入口で石を投げたヤツら、バアちゃんが死んだの、あんたのせいだって言ってるんだってな」 「耳が早い」 「生き返らせる薬って、ないの? いっぱしの薬屋なら惚れ薬や呪いの薬ぐらい持ってるはずなのにって、村の人がぼやいてたぜ」 「それはまじない薬だ」 「それのほうが、あんたの薬より上ってこと?」  リュートは苦笑した。 「だんだんに教えよう」 「待てねぇよ! 惚れ薬ぐらいあるんだろう? 出してくれよ」 「そんなもの、どうする」 「あんたに飲ませる」  リュートは吹きだした。 「いい案だろ?」  ヒースは得意げに言った。 「そして、馬や馬車のことや、薬草や野宿のこととか、いろいろ教えさせる!」 「今と変わりなかろう」 「そうか? 少なくとも、あんたはしかめっ面しなくなるぜ。いっつもここンとこに……」  眉の間に指を立ててみせる。 「シワ立てて難しい顔してんだから」  リュートは微笑んだ。  次の村では、農場で働いた。 「この村には薬屋がある。土地の者をないがしろにして商売はできない」  最初に、現場監督の前でテストがあった。  ヒースは手押し車ひとつ扱えなかった。 「こいつは使えねぇな。ねーちゃんだけ採用だ」  リュートには三段ベッドの上段があてがわれ、ふたりはそこで寝た。馬車は農場に預け、預かり賃を毎日引かれた。食事はいつもひとり分だけがまかなわれた。 「足手まといになりたくねぇ。仕事教えてくれよ」  仕事を終えたリュートに言うと、腰を叩かれた。 「痛みはひいたか?」  手押し車を押した翌日、筋肉痛になったのだ。 「オレよか小さいのが働いてんだぜ? オレだって……」 「まずは体力をつけることだ。この細腕でなにができる?」 「器用だぜ! 足だって速いし、オレだって、ごくつぶしってわけじゃ……」  ごくつぶしのヘデロ。  親方の声が背から追ってくるような気がする。  テメェなんざ、母親からも捨てられたクズよ。誰がテメェなんか……。 「役立たずじゃねぇよ、オレ、その気になればなんだって……」  長い腕が伸びて、抱きよせられた。髪がぐしゃぐしゃにかき回される。 「母上の気持ちがわかるな。ヒース。できることからしなさい。焦っても実りはない。足下から固めていきなさい」  間近から聞く声は体ごしに伝わってくるようで、ヒースは好きだった。  翌日から、飯炊き女たちの手伝いを始めた。賃金が出るわけではなかった。 「ねえさんたちのそばにいちゃダメ? 死んだかあちゃんを思いだすんだ」  人なつっこい笑顔を浮かべてみせて、水汲みやふいご吹きにありついた。 「たいした役者だな」  師には見えすいていたが、炊事場では好評だった。 「うちの子も、あんたぐらいすなおでかわいげがあったらね」  毎日のようにおやつをせしめてきた。その半分をいつも残して、夜になると師に見せびらかした。 「芝居小屋に宗旨がえしたらどうだ」  相伴に預かりながら、師の声はまじめだった。ヒースはあわてた。 「商売にだって、愛想はいるだろ! だいたい、こんなの、薬屋になる足がかりで……」 「どうも、おまえの素質をつぶしている気がする」  リュートは苦笑した。  次に訪れたのは、にぎやかな街だった。市場には肉や野菜だけではなく、見慣れない物品が並ぶ。 「バンクの街にも店は山ほどあったけど、こんなにいろいろはなかったな」  ヒースは珍しげに店先を物色した。 「ここは交通の要所だ、湯治の街とは違う」 「商人があっちこっちから来てるってこと?」  リュートがうなずく。 「じゃあ、オレと同じ髪のヤツらもいるかな?」 「いや。もっと北へ行かなければ」  ヒースは胸をなでおろし、勢いづいた。 「やっぱり、北につれていってもらわなくちゃな!」  郊外に木賃宿を借り、大勢に混じって雑魚寝をし、大勢に混じって煮炊きをした。馬車を守るのは葦毛の役目で、煮炊きや洗濯はヒースの仕事だった。  同宿となった歌い手がヒースを弟子に欲しがった。 「歌はいっぺんで覚えるし、楽器を覚えるのも早い。なにより、いい声をしている。これぐらいで譲ってくれないかね」  高値を示されて、リュートは弟子を見た。 「領主さまや大富豪のお屋敷に泊まって、見たこともないようなごちそうがいただけるぞ。美しい奥方やかわいらしいお嬢さま方にほめられて、懐は金貨でいっぱいになるぞ。珍しい黄色い髪は、評判にもなる。どうだ、私と来ないか」 「ヤだよ」  にべもなかった。 「たとえ、王さまにしてくれるって言ってもヤだ。オレはこの人と北へ行くんだ」  歌い手はそれでもあきらめきれなかったらしく、毎日、暇さえあればヒースに歌を教えこんだ。 「せっかくの素質を。私といてもロクなことはないのに」  リュートはため息をつきながら、毎日ヒースの歌を聴いた。 「街頭で歌おうかな」  歌い手が旅立つと、ヒースは言った。 「けっこう稼げるかもよ」 「長いこと聴かせてもらった礼をしよう。外で食事にしないか?」  休みの夕刻、リュートは弟子を連れだした。 「あんたに食わせてもらっちゃイミねぇよ。うちの収入を増やさなきゃ」 「では、薬を覚えなさい。本業はどっちだった?」  西明かり時の通りは人でごった返していた。  リュートは弟子の二の腕をしっかり握って離さなかった。  街頭には楽器の音や歌声が響いていた。  ちぇっ。オレのほうが上手いや。  ひきずられてたどり着いた先は、大きな料理店だった。  ボーイが、ふたりを奥に案内すると、近くの席で食事中の若い男ふたりがあいさつした。 「姐御、いらっしゃい」  姐御!  席に着くと、ヒースはささやいた。 「あんた、いくつだって言ってんだい?」  どうみても、男たちのほうが年上だ。 「二十二だ」 「にじゅ……!」 「こんな稼業では、誰でも多少つくろう」 「つくろいすぎ!」 「そいつが例の弟分かい?」  離れた席から若い男が話しかけた。 「弟子!」  即座にヒースは言い返した。  男たちが陽気に笑った。 「いつも、ここで何言ってんだい?」 「名物は牛のステーキだ。食べてみるか?」  リュートはにこやかに笑いかけた。 「ステーキって?」 「厚切り肉を焼いたものだ」 「なぁんだ。豪勢に丸ごと焼いてくれよ」 「子どもにはデカすぎるぜ」  若い男が笑った。 「残ったら片づけてやろうか?」 「一頭丸ごと食ってやる!」  ヒースは声を荒あげた。 「頼んでくれ! 牛一頭分だ!」  リュートは指をヒースの唇にあてた。 「ひと切れ食べてもまだ空腹だったら、一頭でも二頭でも頼むがいい」  切り身が運ばれてきた。大人のてのひらのみっつ分の厚みはあった。 「豪遊してるって気分だぜ!」  半ば飽きながらうそぶくと、 「やはり、一頭のほうがよかったかな」  リュートはすましてこたえた。 「オレは二十頭でも、三十頭でもかまわねぇけど、店がつぶれちまうからカンベンしてやらぁ。で、ここには、これしか旨いもんはねぇの?」 「オレンジのシロップ煮はどうだ? いい味だぞ」 「あ、きったねぇ。今まで内緒で食ってやがったな?」 「賄いつきは、料理屋で働く利点だな」  オレンジのシロップ煮は、生のオレンジとはひと味違う旨さだった。 「オレもここで働こうかなぁ。毎日、これが食えんなら」 「気に入ったなら、また連れてこよう」  やにわに、若い男たちの目つきが険しくなった。  その視線の先で、ガラの悪い連中が店員を取り囲んでいた。 「この店じゃ、ネズミを食わせんのか?」  スープの皿に、小さな獣が見えた。  ヒースはスプーンを止めた。  気分悪ぃ。  メシん中に、ンなもんぶっこむなよ。  連中は店員をつきとばし、椅子やテーブルに手をかけた。  ヒースのそばで、若い男たちが立ちあがった。連中に近寄り、連れだって店を出た。 「なんだ、あれ」 「店の護衛だ」 「用心棒ってヤツね」  まったく、気分ぶちこわしだぜ。 「おかわり」 「今度は農園ひとつ分を食いつくすつもりか」  からかうリュートの目は笑っていなかった。 「姐御……」  ほどなく、裏口から若い男がひとり戻ってきた。  額は割れ、血が流れていた。 「ティブのヤツが……」  リュートはうなずくと、たちまち裏口へと消えた。 「だらしねぇなぁ」  ヒースは店員を呼んで道具をそろえ、応急手当てをした。 「こりゃあ、縫わなきゃダメだな。あの人が帰ってくるまで、押さえとけ」  腹の打撲もひどかった。  男はひとしきり吐くと、ぐったり横になった。 「姐御なら、きっとなんとかしてくれる」 「もうひとりのほう、もっとキズが深いのかい?」 「ヤツら、思ったより腕が立つんだ。でも、姐御なら」  イヤな予感がした。 「あの人、治療しに行ったんじゃねぇの?」 「のしに……」 「女だぞ! 年下の! 大の男が恥ずかしくないのか!」  ヒースは裏口から飛びだした。  うす暗く狭い路地。  ガタイのいい男たちが数人、おかしな恰好で倒れていた。 「ヒース、手当ての用意を頼む」  壁ぎわに、女の姿を見つけた。 「あんた、ケガしたのかい?」 「私ではない」  リュートは、若い男の止血をしていた。 「それから、中に伝えてくれ。片づいたから来るように」  ガラの悪い連中は捕縛され、役人に引き渡された。  用心棒たちはキズを縫われた。 「しばらく熱が出るから、これ飲んどきな」  ヒースが熱冷ましを持っていくと、ふたりは笑った。 「本業が薬屋だったとはなあ! で、年はいくつなんだい? 年下なんだって?」  宿にもどってから、ヒースはリュートに訊ねた。 「あんた、あの料理屋でなんの仕事してるんだい?」 「休みが台なしになってしまった。すまない」 「訊いてんだぜ、答えろ!」  リュートは少し笑った。 「わかってんのに訊くなって顔だな」 「おまえは、よく目の色を読む」 「あんた、女なんだぜ? まだ子どもなんだぜ? ケガでもしたら、どうすんだ! あいつら、かなりの腕だったって言うじゃねぇか! そんなの三人も相手にして、十四の女の子が無事でいられるわけが……」  言葉を飲みこんだ。  無事だ。かすりキズひとつない。  剣も抜かず、さやで急所を一発。神業のようだった、と用心棒は言っていた。  いったい……。  ヒースは考えこんだ。 「私が何者か訊きたいのか?」  リュートは疲れたように視線を外した。 「いいよ、そんなこと」  ヒースは手を振った。 「どうせ、言いたくないんだろ。それより、オレに剣を教えてくれよ」 「守ってやるから、女は黙って引っこんでいろと?」 「あんたを見て、そういうこと言うヤツはバカだよ」  ヒースはちゃっかり自分を棚にあげた。 「オレ、わかっちまったんだ。街頭で歌うのに、あんたが気乗りしない理由。ああいう連中にインネンつけられるからだろ?」 「だから腕っぷしを鍛えようと? くだらない。その間、学校にでも入ったらどうだ。街頭ではなく劇場を目指したらいい」 「学校なんて、そんな金、どこにあんだよ」 「働きながら通えばいい。薬の知識を身につけて、街の薬屋で……」 「薬屋にもなるし、歌い手にもなるし、剣士にもなる。あんたといると、忙しいぜ。さて、けいこつけてくれよ、先生」  リュートは腰から剣を外した。  大人が持つにも大きすぎる剣で、分厚い革のさやにおさまっていた。  両手に持ち、ゆっくりと引き抜いた。  刃が鈍く光った。それは、窓からさしこむ陽光とは異質のものだった。  汗が噴きだし、手のひらがぬるぬるするのをヒースは覚えた。 「母の形見だ」  リュートは切っ先を天井に向けた。  また、刃が光った。  耐えきれず、ヒースは目を伏せた。 「し、しまって!」  声が裏返った。  リュートは悠然と剣をおさめた。 「な、馴れれば、オレだって」  声が震えた。指先も震えていた。 「人を殺めたことはあるか?」  平然とした口調だった。  ヒースは首を振った。 「これは、殺めるための剣だ」  そうだろう。人間なんか背骨ごとすっぱり……。  想像して吐き気がした。 「あきらめなさい。向いていない」 「それじゃっ!」  ヒースは目をあげた。 「そうじゃない剣もあるってことだよな? あんただって、今日の連中を殺さなかったじゃないか!」 「急所をついただけだ。医学の知識があれば……」 「相手は動いてんだぜ! 知識だけで当たるかよ! 最初はそれでいいよ! 包丁だって、ナタだって、最初はおっかないけど、だんだんなんでもなくなるだろ? 剣だって、馴れだよ! あんただって、産まれた時から名剣士じゃなかったんだろ? オレにだって、時間は要るよ!」  リュートはため息をついた。 「そうとなれば、練習、練習! 棒を探してくるよ!」  ヒースは、その腕を叩いて飛びだした。  あれ、飾りじゃなかったんだ。  思いだすだけで背筋が凍った。  でも、いいや、あの人が持ってんなら。  刃物には魔物がとりつくって言うけど、あの人ならやっつけちまいそうな気がする。  薪割り場で、できるだけ長い枝を見つけて引き返す。 「持ってきたよ、先生。けいこ頼むよ」 「なあ、先生。北のヤツらって、すぐ見つかるかなあ」  ヒースは空をあおいだ。 「そればかりだな」  濡れた髪をタオルで拭きながら、リュートはたき火を片づけた。 「早く仕度をしなさい。昼にはノードリックの街に着く」 「うん……」  馬車に乗ると、ヒースはうなだれた。 「気分が悪いのか? 荷台で横になっていなさい」  ヒースは御者台から動かなかった。 「先生、オレ考えたんだけどさ」 「ん?」 「ヒースって、見てみると、たいそうな花じゃないのな。植え込みぐらいでしか見かけねぇ地味な木だし、花も小さくて地味だし、白くもなくて、先生が言ってた緑と白で一面が埋まってる風景なんか、どこにもねぇや」 「確かに、この辺では赤や紫しか見かけないな」 「先生、実は、弟の名前、オレにつけたろ? ヘンだと思ったんだ。オレに花なんか似あうわけねぇし」  リュートは苦笑した。 「口を滑らせてしまったな。弟のことは忘れてくれ」 「へえ」  ヒースは少し笑った。 「じゃあ、内緒にしといてやるよ。これ、貸しな」 「そういえば、昔、知人の子に弟の名をつけたことがあったな。だが、おまえの名は違う。ヒース野原は……」  リュートの目が遠くなる。 「先生?」 「うん。とても好きだった。その風景が、とても好きだった」  ヒースは横を向いた。  くそっ。やたら顔が熱いぜ。  荒れ地が畑になり、昼にはノードリックの街に着いた。 「ごらん」  入城の順番待ちをしている商人たちが並んでいた。その頭髪は金色に輝いていた。 「まだ見ない!」  ヒースは目を固くつぶった。 「オレは街の中で、市場で見るんだ!」  街に入ると、宿を見つけ、馬車を預けた。葦毛は当然にようについてきた。  ヒースは用心深く足下を見て歩いた。  風が起きて、ヒースは転んだ。誰かが走ってきてぶつかったのだ。  その証拠にほら、目の前には金髪の子どもが……。  凍りついた。  リュートが声をかけ、子どもを助け起こした。子どもは礼らしきことを言い、笑って走り去った。 「どこか打ったか?」  リュートの声が頭上から降ってきた。それは、宣告のように聞こえた。  ああ、もうダメだ。 「すわりこんでいると危ない。立てるか?」  ヒースの目は涙でいっぱいだった。 「いい馬だねぇ。いくら?」  ふいに、女が声をかけてきた。二十代半ばで、スカートが巨大にふくらんだドレスを着ている。 「売り物ではない」  リュウカはふり向きもせず答えた。ヒースに手をさし伸べる。 「お売りよ。高く買ってやるよ。あたしは貴族だからね。なんなら、そっちの子も一緒に買おうか」  ヒースの頬が熱くなった。視界がかすんだ。  リュートはハンカチでヒースの頬を拭いた。 「どちらも私の大事な連れだ。手放すつもりはない」 「ホンロに?」  ヒースは上目づかいに訊ねた。  でも、北に来ちゃったよ? オレと同じようなヤツら見ちゃったよ?  もう、ふたりをつなぐ約束はないのだ。 「鼻をかんで、さっさと立ちなさい。轢かれたらどうする」  まなざしはやさしく、背中に回る手が温かい。  立ち上がって鼻をかんでいると、女が大声で叫んだ。 「あたしは、カーチャー伯爵さまにお仕えする貴族だよ! カーチャー伯爵さまといったら、国王陛下の覚えもめでたい大貴族さまだ。この辺で商売しようってんなら、くれぐれも機嫌とっておくことだね!」 「るせぇな! 貴族だろうとなんだろうと、うちの先生に指図するな!」  ヒースは怒鳴り返した。 「おや、言葉がわかるのかい。悪いこと言わないよ、手放しちまったほうがいいよ。主人の秘密に鼻をつっこんで、外にベラベラ言いふらすに決まってんだから」  親身そうに話しかけ、とつぜん、女はぎくりとリュートの顔をのぞきこんだ。 「もしや、あんた……。やっぱり、リュートだ! 髪の色が違うんで、わかんなかったよ」  女は笑いだした。 「あたしだよ、テツ! フジノキ村の、ほら、ヒナタさまンとこで、一緒にメントルさまご夫妻を接待したじゃないか」  リュートの腕をとって振り回す。 「大きくなったねぇ! そうか、あの葦毛なら、売るはずないねぇ。ああ、おかしい」  リュートは表情を変えなかった。 「どうして、ここに?」 「聞きたいのはこっちだよ。よくも無事だったねぇ。村長があんたを追っかけたんだよ。トビ坊ちゃんが、村に戻ってきたって言うもんでね。矢でハチの巣にしたけど、川に流されて死体を回収できなかったって、悔しがってたよ」 「覚えがありません」 「じゃあ、お得意のホラ話かい。見栄っ張りだからねぇ」 「先生はお元気でしょうか」 「先生って、どっち? ああ、年寄りのほうね。死んだよ。あんたがいなくなってすぐ。もう年だったからね、風邪をひいたと思ったらぽっくりさ」  リュートはヒースを引き起こした。 「うちに寄りなよ。うちの人もきっと喜ぶ」 「所帯を持たれたのですか。お祝いを申しあげます」 「その前に、買い物つきあいなよ。荷物持ちがいてくれると助かるね」  テツは馴れたふうに市場を歩いた。  肉や野菜をねぎっては、ヒースの両腕に載せた。 「ああ、そうだ。いつも気になってたんだ」  雑貨屋の店先で、テツは立ち止まった。 「あれ、なんだい?」  オレ? オレに訊いてんの?  テツの顔を見返し、ヒースはとまどった。  見慣れない品物ばかりだ。むろん、指さされた織物がなにか、見当もつかない。 「じゃ、訊いてみな」  店主のほうに顎をしゃくる。淡い茶髪の男が青い眼を向ける。  北の異人だ。 「なんでオレが」 「生意気だね!」  テツが手をあげた。  その手を、リュートは静かに押さえた。 「私の連れだ」 「じゃあ、少しは態度ってものを教えてやりな!」  テツは手をおろした。 「まだ買い物はあるんだからね!」  リュートとヒースの腕をいっぱいにして、買い物は終わった。  荷馬車に荷をおろすと、テツは御者台にすわった。 「乗りな」 「いや、私たちは」 「じゃあ、誰が荷をおろすんだい?」  ヒースは口をへの字に曲げた。  オレたちの知ったことか。 「ゆっくり話もしたいしね。あんたは昔から融通がきかなくていけないよ。年上の言うことはすなおにきくもんだ」 「先生の郷《くに》の人?」  小声で訊ねた。  リュートの顔はこわばったままだ。  ヒースは荷台に乗った。 「それでいいよ」  満足げに女が馬にムチをくれた。 「あ」  ヒースは声をあげたが、心配はいらなかった。リュートは葦毛に乗って追ってきた。  かっくいー。  旅の間、毎日リュートは葦毛と散歩に出た。岩山でも川越えでも、人馬は一体となり、勇者セージュだってかなわないと、ヒースは見惚れたものだ。  荷馬車は大きな屋敷の中に入った。 「カーチャー伯爵さまの夏の別荘さ」  テツは得意そうに言った。 「レンフィディックのお屋敷は、もっと大きくて立派だけどね」 「あんたも貴族だって、さっき言ってたよね。でも、ここ、あんたの屋敷じゃないんだ?」 「口のきき方のわかんないガキだね」  テツはヒースを睨みつける。 「うちの人もじきに爵位がもらえるさ。由緒正しい血筋だからね」 「じゃあ、ここ、あんたんちじゃないの?」 「これだから、学のないガキは。カーチャー伯爵さまは大貴族でいらっしゃるからね、あたしたちみたいな由緒ある血筋の者しかお仕えできないんだ。だから、レンフィディックの本屋敷にも、夏や冬の別荘にも、あたしたちの部屋はご用意いただいてるんだよ。どこの馬の骨だかわかんないヤツには、とうてい縁のない話だろうけどね」  テツはにんまりと笑った。  虫の好かないヤツだぜ。  早く聞きたいことだけ聞いてしまおう。 「先生も、貴族? あんたたちみたいに」  テツはノドをのけぞらせて笑った。 「バカだね。あんな異人ヅラした貴族なんかいるはずないだろ」  勝手口の前に馬車をつけた。  ヒースは山のような荷物を抱えて、中に入った。幼児が飛びだしてくる。 「デュール!」  女の声だ。 「ヤなの!」  幼児は、ヒースの周りを回ろうとして、倒れこんだ。  押される形で、ヒースは尻もちをついた。荷物が派手に散らばった。 「こンのクソガキ……」  リュートが駆け寄ってきた。 「先せ……」 「どこか痛いか?」  ヒースを見ずに、子どもを抱き起こしている。 「デュール」  太った女が奥から出てきた。 「ケガはない?」  小さな目でのぞきこみ、リュートと目があった。 「まあ! もしかして、リュートちゃん?」  口元で両手を合わせる。 「ケガはないようだ」  リュートが手を離すと、幼児は太った女に走り寄った。 「デュール、ご挨拶なさい。あなたの名付け親ですよ。こんにちは、は?」  幼児は不思議そうにリュートを眺めた。 「ごめんなさいね、まだ小さくて、よくわからないの」  太った女は困ったように笑い、それからヒースに気がついた。 「ごめんなさいね。ケガはない?」  ヒースは芋を拾いながらうなずいた。 「ええと、どなた?」 「先生の弟子だ」  文句あるかと睨んでみせると、女は微笑んだ。 「少し時間ある? 一緒にお菓子でも食べない?」 「うちの人、明け方にならないと帰ってこないの」  女の名はシズカと言った。 「でも、ゆっくりしていって。あなたも、遠慮しないでたくさんおあがりなさい」  山盛りの焼き菓子から、ヒースはひとつをつまんでみた。旨い。 「死んだと思っていたわ。無事にこっちに逃げてこられたのね。お義父さまは心配ないと言われていたけれど」  リュートは黙っていた。 「あなたがヒルブルークの街へ行ってから、いくらも経たないうちに、お義父さまは風邪をひかれて、そのまま亡くなったの。村長のところのトビが、あなたをお義父さまのところで見かけたって言うもんだから、村長がやってきて、たいへんだったのよ」 「では、先生は乱暴されて……」 「そんなことさせるわけないでしょ。うちの兄さんが追い返したわ。ずっと熱に浮かされて、あなたは龍の仔だから心配するなって何度も私の腕を叩いたのよ」  シズカは浮かんできた涙をぬぐった。 「それでね、お義父さまが亡くなった後、離れを整理してたらね、勲章とか書状とかが出てきて、お義父さまが、実はこの国の伯爵だったってことがわかったの。それで、荷物をまとめてこっちへ来たってわけ。カーチャー伯爵さまはお義父さまをご存じだったそうで、私たち、ずっとご厄介になってるの。でもねえ、リュートちゃん、貴族って、そんなにいいものなの?」  シズカは幼児に麦湯を飲ませた。 「あの人は毎日朝帰りだし、せっかく身につけた医術も、近ごろはぜんぜんやらないの。デュールが大きくなったら、なんて言えばいいの?」 「こんなところにあがりこんで!」  勝手場のほうからテツが現れた。 「奴隷は外で待ってな!」  ヒースを睨みつけた。 「オレは奴隷じゃねぇ!」  立った勢いで、椅子が倒れた。  デュールが目を丸くしている。 「異人のクセにとぼけてんじゃないよ!」 「この人はリュートちゃんの大事なお友だちよ」  シズカが怖い顔で言った。 「だから、うちの大事なお客さまです。さがりなさい」  テツがシズカを睨みつけた。 「はい、はい。年の功には逆らえませんね」  バカにしたように笑い、引っこんだ。 「どうもな、おばさん」  ヒースは椅子を起こして座り直した。 「リュートちゃんは、うちの家族だもの。デュールのお姉ちゃんだものね」  泣きベソをかいている幼児をあやす。 「あの女、貴族貴族って鼻にかけやがって」 「あの子は、リュートちゃんがうらやましかったのよ」 「先生が?」  シズカは伏し目がちにリュートを見た。 「兄さんのお友だちがいらした時、お相手をしたでしょう? それがかっこよくてうらやましかったみたいなの。だから、ユキが隣国で貴族になるんだって言いふらしたら、あの子もついてきたいって」 「先生は、なにやったって、かっこいいさ! あんな女に真似なんかできやしない。でも、それが貴族とどう関係あるわけ?」 「リュート、え、久しぶりじゃないか!」  ろれつのまわらない男の声がした。  戸口に男がよりかかっていた。妙にひらひらした服を着ている。 「ユキ、どうしたの? こんな早く……」 「亭主が早く帰ってきて、なにが悪い! さては、おまえ、オレがいないスキに……」 「まだ日も暮れないうちに、こんなに飲んで……」  近寄るシズカを、男は乱暴に押しのけた。 「え? オレが貴族さまだと聞きつけてきたのか? 家を出たのを悔やんでるのか? そうだろう、おまえはあの材木屋なんかとつるんで、オレに恥をかかせやがった。田舎医者なんかお呼びじゃないってか? だが、オレは生まれながらの貴族だった! え? いまさらお情けにすがりにきたのか? ふん。あのクソオヤジが生きてたら、見せてやりたかったぜ! 伯爵さまやお友だちは、オヤジの話がお気に入りだ。農民どもに雨乞いされて、芋だの青菜だのをお供えされて、まったくあそこまで落ちぶれりゃあなあ!」 「ユキ、そんな言い方……」 「るせぇ、田舎女のぶんざいで!」  つきとばされて、シズカの体が飛んだ。  リュートが抱きかかえた。  ヒースは男のスネを蹴飛ばした。  悲鳴が響きわたった。  男は壁から鞭をとった。風を切り、うなる。  ヒースは椅子を男の顔に投げつけた。  鞭はなんの役にも立たなかった。ぶざまに転げ、鼻血を流している。 「女子どもに手ぇあげてんじゃねぇよ、このバカ亭主」  鞭をとりあげる。 「おばさんの亭主じゃなかったら、こんなもんじゃ済まさねぇぜ」 「あんた!」  テツが入ってきて叫んだ。 「奴隷のぶんざいで! うちの人になにすんだい!」  え?  おばさんの亭主じゃないの? 「帰るぞ」  リュートが扉を出ていく。 「先生!」  リュートの足は早かった。門のところで、ようやく追いついた。 「せ、先生、あいつ、どっちの亭主なの?」 「二、三発、鞭をくれてやればよかったのだ! おまえ、今まで何を習っていたのだ!」  門を出ると、リュートは悔しそうに眉を上げた。 「じゃあ、先生が自分でやればよかっただろ」 「私に、弱い者いじめをしろというのか!」  足を踏みならした。 「おまえは、あのヤブ医者に鞭を振るわれたのだぞ! あれで気が済むのか? 昼間から飲んだくれ、妻に手をあげるのだぞ! 子どもだろうと容赦ないのだぞ! 働く気もなく、貴族の血などと威張りちらし、あげくに父親を笑いものにしておるのだぞ! どっちが……どっちがとち狂っておるのだ! 先生は、先生は……」 「せ、先生、落ちついて」  腕をつかむと、リュートは息を整えた。 「すまない。とり乱した」  周囲を見まわし、葦毛の姿を確認した。 「そうだ、市場を見ている途中だったな。続きを見にいこう」  笑顔はまだひきつっていた。  市場は広かった。テツに連れ回された一角を抜けると、見馴れない食べ物や衣服が並んでいた。 「先生、あれ、なに?」  テツに訊かれたのと同じような織物を指さした。 「あれは壁かけだ。魔除けの力があると言われている」 「へえ。どの辺が?」 「トゲのある蔓が描かれているだろう? あれはノバラを模したもので、ノバラは魔を払うと信じられているのだ」 「ふうん。知ってたんなら、あの女に言ってやりゃあよかったのに」 「訊かれもしないのに?」 「でも、知り合いなんだろ?」 「おまえに乱暴するような知り合いはいないよ。昔は、あんなふうではなかったのに」 「あの女、オレのことをさんざん奴隷よばわりしやがって。オレのどこが……」  えもいわれぬ香りが漂ってきた。  源は、山と摘んだピンク色の果実だった。 「先生、あれ、なに?」 「桃だ」  店主に金を渡し、山からふたつ、色づいたものを選ぶ。 「さんきゅ」  産毛の生えた皮はツルリと向けた。白い果肉にかぶりつくと、たちまち甘い汁がしみだした。 「旨い! 旨いよ、これ!」  あっというまに消え去った。  口の中で、溶けてるみたいだ。  物欲しそうに種の周りをなめるヒースの前に、リュートがもうひとつを差しだした。 「先生の分だろ?」 「おまえの分だ。ひとつで足りたのか?」 「わかってるぅ」  ふたつめを平らげても、まだイケるような気がした。 「先生、オレ、やっぱ、北の人間だな」 「どうして?」 「故郷の食い物は、身にしみるっていうか、体に合うっていうか」 「ずっと南でもとれるのだぞ」 「ウソっ」 「農園でも始めるか? 山ほど食べられるぞ」 「うーん」  真剣に悩んでいると、目の前を、鎖でつながれた異人たちが通った。棒で追い立てられている。  リュートに腕をつかまれた。 「せ、先生?」 「離れないようにしなさい。どさくさに紛れてさらわれては困る」 「なに、あれ?」  声が震えた。訊ねなくてもわかる。 「奴隷だ。さらってきた者を、この国で売っているのだ」  なぜ、テツが自分を奴隷と呼んだのかわかった。  この街では異人が当たり前のように売られているのだ。 「オレのかあちゃんも、奴隷だったのかな……」  うなだれてつぶやいた。 「私の祖母は奴隷だったぞ」  リュートはさらりと言った。 「さらわれて、この国で売られたのだ。今でも、東の街ガーダへ行けば、私とそっくりの奴隷を見ることができる」  ヒースは顔をあげた。 「先生はイヤじゃないの? 自分たちが奴隷なんだよ?」 「商人もいるし、兵隊もいる。きっと、薬屋や歌い手もいるだろう。北の国の人々は、決して奴隷という種族ではないよ」 「でも……」 「私の母は奴隷の腹から産まれた。その母を私はとても誇りに思うし、母譲りの髪や顔立ちも誇りに思う。おまえの金色の髪も青い眼も、私は好きだ。どの土地でどのような扱いを受けていようとも変わらないよ」  あちまち、ヒースの顔に笑みが浮かんだ。 「先生、もっと見物しようぜ! オレ、異国のことに、がぜん興味持っちゃった!」 「離れないようにしなさい」  駆けだそうとするヒースの腕を、リュートはあわててつかみ直した。 「ここには人さらいが多いのだから……」 「じゃあ、しっかりつかんでてくれよ」  青い眼がウィンクした。  葦毛の鞍の下に、リュートは剣を隠した。 「蒸し風呂と水風呂を往復するだけだ。あまりいいものではないぞ」 「でも、それが北の国流なんだろ? せっかく来たんだから試してみなくちゃ」  公衆浴場の入口に、筋肉隆々とした大男がふたり立っていた。  中は蒸していた。客が次々に荷物をカウンターに預けている。  意味不明の言葉が辺りを飛び交う。 「なにやってんの?」 「刃物や武器は持ち込み禁止ですよ。飲酒もいけません」  カウンターの向こうから、三十すぎの男が話しかけた。赤みがかった金髪で青い眼である。 「なんで?」  ヒースが訊ねると、青い眼が流暢に答えた。 「刃傷沙汰はいけません。初めてですか?」 「ええと……」 「土地の人ですか?」 「ええと……」 「浴衣がいりますね?」  カウンターに白い袷着が積まれた。 「なに? これ」 「中で着る服だ」  リュートが口を出した。 「風呂は裸で入るものだが、わけありの者や、興味で来る観光客は、これを羽織って中に入る」 「要らねえよ」  ヒースは胸を張った。 「どうせやるなら、本場通りじゃなくっちゃ! だいたい、裸のつきあいって言うだろ! 男同士、隠すことなんか……」 「男同士ではありませんね。男も女もみな一緒です」  カウンターの男が笑った。  意味がわからずリュートを見る。 「混浴だ。私はどちらでもよいのだが……」 「そうそう、混浴といいます。浴衣、よろしいですか?」 「よろしくない!」  ヒースは真っ青になって叫んだ。 「あんたもだ! ダメに決まってんじゃん!」  蒸し風呂は木造の小屋の中だった。  大人が十人も横になったらいっぱいの広さで、床は平らではなく、階段状になっていた。奥に石で囲まれた小さな池があり、水面は泡立ち、沸きたっている。  十人ほどの先客があり、みな裸だった。  ヒースはうつむいた。  すいている上段に、リュートと並んで陣取る。  ひとりが、ヒースに話しかけた。  知らない言葉で、響きがいやに強く、一本調子だった。  リュートが何か答えた。  異人がうなずいた。 「先生、言葉がわかんの?」 「少しな」 「なんて言われたの?」 「どこの生まれかと。この国の生まれで、言葉がわからないと答えた」  別の異人が、今度はリュートに話しかけた。 「今度は、なんて?」 「間柄を訊かれた。なんと答えるべきかな」 「弟子だよ、弟子!」  でも、リュートはちゃんと自分を弟子だと言ってくれるだろうか? 「ねえ、先生。弟子って、異人の言葉でなんていうの?」 「ウルサ語では……」  奇妙な言葉が響いた。 「……というな」  ヒースは真似てみた。 「カンがいいな」  リュートは苦笑した。 「聞き取りにくい音だと思うのだが……」  ヒースは、異人に向かって言ってみた。  異人が、また何か言った。 「今度はなんて?」 「なんの弟子だ、と」  通じたらしい。 「薬屋って、なんていうの?」  教わりながら答えると、異人たちはおもしろがった。 「茹だったぁ」  しばらく言葉をやりとりしてから、ヒースは舌を出した。 「オレ、外に出てるよ、先生」  小屋から出ると、肌がひやりとした。  石風呂には、大勢が浸かっていた。温度をみようと手を入れてみる。  冷たっ!  これに、入れって?  男が数人湯船から出て、小屋に入った。  ヒースを追い越して、小屋から出た客が水風呂に沈んでいく。  うひゃあ、マジかよ。  水を足にかけてみた。  冷たい。  膝にかけ、腿にかけ、徐々に馴らしてみる。しまいには、やっと湯船に浸かった。  浴衣がふくらみ、首や袖から泡が出る。  意地でも……意地でも味わってやる!  水風呂で体が冷えると、ふたたび小屋に入った。  うわ。あっち。  水風呂のほうが、まだマシだったかな。  異人たちの顔は、みな同じに見えた。先ほど話した人物かどうか見分けがつかなかった。  リュートは同じ場所にすわっていた。膝を抱き、腕に顔をうずめていた。 「先生、気分悪い?」  ずっと、中にいたのだから。  リュートは首を振った。 「先生、ホントにだいじょうぶ? 先生?」  リュートが顔をあげた。 「先にあがっているか? 外に出ないようにしなさい」 「せっかくきたんだ、たっぷり楽しまなくちゃ。先生こそ、よく、こんなとこに長くいられるね」 「私は……」  言いかけて、リュートの目から大きな雫が落ちた。  ドキン、とした。 「先生、泣いてる?」 「少しな」  リュートはまた腕の中に顔をうずめた。  ヒースはしばらく横にいたが、暑さにたまりかねて、席を立った。 「冷えたら、すぐもどるからな」  何度か往復した後、リュートが顔をあげた。 「先にあがっていなさい」 「オレ、ジャマ?」 「のぼせてしまう。何か飲みながら待っていなさい」  脱衣所を出ると、カウンターはすいていた。ヒースは飲み物を買った。 「風呂はどうでした?」  赤みがかった金髪の男が訊ねた。入館の時に話した男のようだ。 「まあまあかな」  グレープジュースを飲む。 「冷たいね、これ」 「川で冷やしていますから」  男はにこにこと笑った。 「あんた、オレたちの言葉、うまいね」 「通訳でしたから」 「今だって、通訳じゃん」 「今はただの風呂屋です。以前は、旅人に付き添っていたのです」 「ふうん。なんでやめたの?」 「風呂屋のほうが安全で儲かりますから。盗賊にも襲われませんし、乱闘にも巻きこまれません」 「たしかに、武器はぜんぶ取りあげられるし、用心棒もいるしなあ。考えたね」 「お連れさんも通訳ですか?」 「なんで?」 「きれいな言葉を話します。段階の高い人々に対して使う言葉です」 「段階の高い人々?」 「はい。この街にもたくさんいるようですね」 「よくわかんねぇけど」  ヒースは首をひねりながら答えた。 「オレたち、流れの薬屋なんだ」 「流れの……?」 「薬屋。薬売ってんの。国中を旅しながら。わかる?」 「薬売りの旅人ですか?」 「そんなもんかなあ」  ジュースを飲み干すと、男がもう一杯おごってくれた。 「どちらのご出身ですか?」 「オレ? ずーっと南のほう」 「そちらにも、我々の仲間が住んでいるのですね」 「どうかなあ? 見たことないや」 「これから、故国に帰るのですか?」 「故国?」 「我々の大国ウルサです。我が故国」 「わかんねぇや。先生に訊かねぇと」 「あの人は、故国の人ではありません。草原の国の人です」 「草原の国?」 「あなたも、故国に帰るといいです。もう二度と国を出ようと思わなくなります。いいところです」  じゃあ、なんであんたは出てきたんだ?  と訊きかけて、脱衣所から出てきたリュートに気がついた。 「先生!」  カウンターから荷物を引き取り、リュートは早々に浴場を出た。 「先生、知ってた? あの人、通訳だったんだって」 「そうか」 「通訳より、風呂屋のほうが安全でいいって言ってたよ。儲かるとも言ってた。先生の言葉はきれいだって褒めてた。通訳かって訊かれたよ」  宿につくまでの間、ヒースは夢中でしゃべった。  あらかたしゃべると、リュートが言った。 「あまり、この国のようすは話さないようにしなさい」 「どうして?」 「今は平和だが、いつウルサが欲を出さないとも限らない。できるだけ、内情は知らせないほうがいい」 「おおげさだよ」 「おまえは、自分が思うよりたくさんのことを見てきているのだよ。口をつぐむようにしなさい」  そんなのムリだよ!  ヒースは唇を引き結んだ。  試しにやってみせようか? オレがしゃべらなかったら、どんなにヘンかって。  無言の道のりは重苦しかった。  先生が謝るまで、何日だって、何週間だって、口をきいてやるもんか! 「おまえはやさしい子だな」  宿が見えてから、リュートが口を開いた。 「何も訊ねない。ヒース、私の目は腫れているだろうか? 熱い風呂に浸かっていれば、泣いても腫れないと聞いたのだが」  自分から切り出すか?  ヒースはとまどった。 「おまえに話したことがあっただろうか、私にも先生がいてな。今日訪ねたあの元医者の父君で、すばらしい人だった」  ああ、あの、風邪で死んだとかいう……。  あの元医者を見た感じじゃ、オヤジのほうもロクな人じゃなさそうだけどな。 「もう会えないと思うと、たまらなくてな。泣きたくなったのだ」 「そのために、風呂に行ったの?」 「私と一緒にいると、ロクなことがない。疫病神だな」  リュートは苦笑した。 「足手まといの私を連れて母は死に、先生も風邪などひきこまれて亡くなった」 「先生! オレはずっと一緒にいるよ!」  無言の誓いなど、どこかに吹き飛んだ。 「薬売りの手伝いもするし、歌もいっぱい歌うよ。用心棒も一緒にやるよ、異人の言葉だって覚えるよ。そしたら、さみしくないだろ?」 「おまえは、自分の生き方を探しなさい」  リュートは金髪をなでた。 「私で足りることなら教えよう。でも、それは誰かのためではないのだよ。自分のために、身につけなさい」 「そんなの、わかんねぇよ」 「私にもわからない」  リュートはため息をつき、つぶやいた。 「だが、それが母上の遺言だったのだ」  翌朝、市場へ繰りだした。 「北でしかとれない薬草がある。そろえておきたい」  リュートの腰で大きな剣が揺れている。 「先生は人を殺したことがあるんだろ?」  ふと、訊いてみる。  前々から訊きたいと思っていた。 「初めて人を殺したときは、どんなだった?」  リュートの表情は複雑だった。驚いたようでもあり、考えこんだかと思うと、少し笑った。 「得意だったな。母にほめてもらおうと思った。その時、家の者に叱られた」 「家の者って? ばあちゃん?」 「母の友人だ」  敵を斬って意気揚々としているところを、その友人とやらにひっぱたかれたという。 『敵でも殺し屋でも関係ありません!』  友人はそう主張し、母親は反論した。 『殺らねば殺られる。我が身を守ってなにが悪い』 『相手にだって、家族もあれば友だちもおります。将来だってあったでしょう。その重みを知らないで、ただの人斬りになったら、どうしますか!』 『無用だ。一瞬の迷いが命取りになる』 『だからって、自慢することじゃありません!』  リュートは苦笑しながら話をしめくくった。 「私がただの人殺しにならなかったのは、その人のおかげだな」 「びっくりだな」  ヒースは目を丸くした。 「先生って、命を狙われてたんだ?」  リュートが一瞬身をすくめる。 「先生のかあちゃんって、そいつらに斬られたの?」 「おまえといると、よく口が滑る」  リュートは市場を見まわした。 「買い物を済ませよう。この街に長居はしたくない」 「先生は隣の国にいたんだろ? そいつらに追われて、こっちに来たの? 昨日の元医者たちって、そいつらの仲間?」 「北の国の薬草を見る機会は少ない。よく見ておきなさい」  リュートは答えようとしなかった。  薬草売りの店先で、リュートは長いこと薬売りと話した。北の国の言葉で、ヒースには退屈だった。  店の片隅に、竪琴が立てかけてあった。弦を弾いてみると、音が狂っていた。見当で、弦を調整してみる。  こんなもんかな?  試しに一曲奏でてみた。  いい感じ。  声を出した。  昔々、名もなき国に気弱な王さまおりました  気も小さければ体も小さい  間尺の足りない小さな仔馬にまたがって  小さな沼を散歩しました。  高い声が、市場の喧噪を抜けていく。  気分がいいぞ。もう一曲。  若い男女が足を止めた。子どもがふたり、母親の腕を引いてくる。  集まってきた、オレの歌を聴きに。  また一曲。  もう一曲。  歌が終わるたび、コインが飛んできた。  十数曲歌うと、気が済んだ。  人が散り、ヒースはコインを拾った。 「先生、こんなに稼いだよ」  店先で、薬売りが何か言った。  リュートが怒ったように言い返した。  薬売りがヒースを指さし、さらに言う。  しばらく言い争いが続いた。 「どうしたの、先生」 「その竪琴だ。使用分を払えというのだ」  そうか。手元を眺める。 「勝手に使っちゃったもんなぁ。いいよ、払うよ」 「その竪琴は値打ち物だというのだ。稼げたのは、そのせいだと」  よく見ると、木枠に何か彫られていた。けっこうな細工物だったのだろうか。 「冗談ではない。たいした彫り物でもないし、弦だって上等の物ではない。払えないと言ったのだ」  確かに、たいした音色じゃなかった。調弦したのオレだし。 「すると、タダで竪琴はやると言いだした。代わりに、おまえをくれと」 「ええっ!」 「その声は惜しい、失われないようにしてやるというのだ」 「どういうこと?」 「じきにおまえの声は、大人の低い声に変わってしまう。それを止めるというのだ」  オレの声が変わる?  いやだ。 「確かに、ウルサには、そういう歌い手たちがいると言う……」 「なんで教えてくれなかったんだよ! オレの声、変わってもいいのか?」  リュートは少し驚いたように、ヒースの目をのぞきこんだ。 「声だけではない。姿形もそのままだ。おまえが望むとは知らなかった。ならば、ほかの機会に……」  待てよ? 「姿形も、そのままって言った?」  リュートはうなずいた。 「多少は変わるが、子どものままだ」 「じゃあ、やめる」 「そうだと思った」  納得したように笑った。  リュートは竪琴を返し、またもや言い合いをしてから引きあげた。 「先生、ごめん。もう薬草売ってもらえなくなったね」  ヒースは並んで歩きながら、上目づかいに見上げた。 「そんなことはない」  リュートは両手に抱えた大袋を揺すった。 「要るものは買えた」 「でも、次からは売ってくれないだろ?」 「言い争ったからか?」  リュートは笑った。 「商人はしたたかなものだよ。弱気になるのがいちばんいけない。それより、稼いだ金で竪琴を買おうか」 「ホントに?」  楽器売りの店先には、見覚えのあるものから見当もつかない楽器まで大小数十がひしめきあっていた。  ひとつひとつつまびいて、ヒースは異国風の竪琴を選んだ。少し大きかったが、明るい音色が気に入った。 「大勢で集まったときに使うそうだ」  リュートが店主の話を訳してくれた。 「音が大きいだろう。子どもや恋人に語るときは、こちらの小さいほうを使うらしい」 「じゃあ、やっぱり、これがいいや」 「もっと大きいものはどうだ?」 「運べねぇだろ」 「舞台で弾いたら……」 「先生!」  金は足りなかった。  リュートが予備の弦と込みで、残りを支払った。 「後できっと払うから」 「その分、歌をきかせておくれ」  ヒースは買ったばかりの竪琴をつまびいた。 「待ちきれないのか?」  ヒースは満面に笑みをたたえてうなずいた。 「先生が最初のお客さん」  後ろで、葦毛が鼻を鳴らした。  リュートがふり向いた。 「どうしたものかな」  表情が固かった。  ヒースもふり向いた。  子どもの泣き声が響いた。 「デュール、泣かないの、デュール」  転んだ子どもを、太った女があやしていた。 「リュートちゃん、待って。ねえ、リュートちゃん!」 「先生?」  リュートの顔は引き締まっていた。凛々しいという人もあるかもしれない。  だが、ヒースにはこわばっているように見えた。 「ヒース、手当てをたのむ」  大袋を抱えたリュートを置いて、ヒースは子どもに歩み寄った。  膝がすり向けていた。汚れを消毒して、薬を塗りこんでやる。 「おばさん、こんなとこで何してんだよ」  シズカが顔をあげた。  にっこり笑い、子どもをヒースに押しつける。 「会えてよかったわ」  リュートに駆け寄った。 「うちに来ない?」 「することがたくさんありますので」 「家族一緒に暮らしましょう。ユキもね、酔ってただけなのよ。後で、一緒に暮らしたいって言ってたわ」  リュートは黙って歩いた。  ヒースは片手に竪琴を持ったまま、子どもを背負った。手を引いては、追いつけない。 「昨日市場にいたっていうから、来てみたの。異人ばかりで、怖かったわ。でも、会えてよかった。リュートちゃんが帰ってきてくれれば、ようやく家族がそろうわ」  子どもが、竪琴に手を伸ばしてくる。 「よせったら」  叱ると泣きだした。 「触らせてあげなさい。デュールはまだ赤ちゃんなんだから」 「ゼッタイダメ! これは商売道具なんだから!」  初めて、自分で稼いだ金で買ったんだ! 「いいじゃない。まだ赤ちゃんなんだから」 「ヒース」  冷ややかな声がとんだ。 「袋にしまいなさい」 「は、はいっ」  反射的に答えて、肩から下げた革のケースに竪琴を押しこんだ。 「弦をゆるめておきなさい」  そうだった。しまうときは、必ずそうしろって言われたっけ。  立ち止まって子どもをおろした。子どもは母親を追いかけた。  竪琴を出して弦を緩め、またケースにしまった。  リュートを追う途中、デュールを追い越した。  背負ってってやったほうがいいかな? 先生の名付け子だし。  いや。先生はご機嫌ななめだ。放っといたほうがいいだろう。 「……テツったら、もう奥さんきどりなのよ。正妻は私よ。お妾のクセに」  シズカはリュートにこぼしている。 「ユキもユキよ。毎日伯爵さまのご機嫌とりばっかり! 医者なんか、下々のやることだって言うのよ? 父さんが学校まで行かせてやったのに! 感謝もなにもないんだから!」  リュートは黙々と歩いている。 「だいたい、ユキは愛情がないのよ! テツのほうがちょっと若いからって! うちの実家のほうが、今のユキよりよっぽどマシよ!」 「じゃあ、実家帰れば?」  ヒースは口をはさんだ。 「冗談じゃないわ! デュールは伯爵家の血を引いているのよ!」  反論して、シズカは周囲を見まわした。 「デュールはどこ?」 「置いてきた」  シズカは悲鳴をあげて、後ろへもどった。 「ヒース」  リュートは言った。 「走るぞ」  ふたりは駆けだした。葦毛がリュートの背を押す。  走るぐらいなら、乗れ、と言わんばかりだった。  宿まで走り、ふたりは息を切らした。不満そうに、葦毛が鼻を鳴らした。 「せ、せんせ……」  息が苦しい。 「ぜ、全力で走るほど、嫌いなの?」 「かわいそうな人だ」  息を整えるのは、リュートのほうが早かった。 「話し相手がほしいのだろう」 「うざってぇな」  ヒースは笑った。  葦毛が鼻を鳴らした。  リュートが大袋をおろした。 「棒はあるか?」 「あるよ」  ヒースは腰から棍棒を引き抜いた。 「ヤバいの?」 「誰だ!」  リュートが一喝した。明瞭な堂々とした声。凛とした張りのある声。  かっくいい。  やっぱ、先生はかっくいいぜ。 「やっと帰ってきたか」  大きな男が、宿の影から現れた。  淡い茶色と、茶色がかった金髪の異人をふたり連れている。 「その馬を目印に、夕べからずいぶん探させたんだぞ。久しぶりだなあ。すっかり美人になったじゃないか」  突き出た広い額。やたらに大きな鼻。面立ちから察するに十四、五歳か。だが、体は育ち過ぎだった。  服にはムダにビラビラしたフリルがついており、昨日見た元医者のものに似ていた。 「おまえに貧乏させておくのは不憫だからな、こうしてわざわざ迎えに来てやったんだ。感謝しろよ」 「私は用心棒をやる」  リュートはヒースに言った。 「おまえは真ん中を」 「よし、任された!」 「話を聴けよ! オレはカーチャー伯爵さまのご子息に仕えてるんだ。じきにオレも貴族の仲間入りだ。そうしたら、おまえにもそれなりの暮らしをさせてやる。おまえはきれいな服でも着て、オレのご機嫌をとってりゃいいんだよ」  リュートは男など見ていなかった。 「容赦はいらぬ。存分にたたきのめせ」 「了解!」  リュートの動きは早かった。  異人の用心棒を、素手で二発。それで終わりだった。  ヒースのほうは、そうはいかなかった。  男は細剣を抜いたのだ。  振るたびにしなり、予測が難しい。  おまけに、男は目を狙って突いてくる。リーチはヒースよりもぐんと長い。  右に左にと受け流すが、キリがない。 「オレに逆らうのは、カーチャー伯爵さまに逆らうことだぞ!」  男は低い声で脅してきた。 「へえ。あんたもあの元医者のお仲間かい。貴族の寄生虫め」 「ミヤシロ家は元伯爵家だぞ! オレもゆくゆくは伯爵になる男だ、無礼は許さん!」 「あんたが貴族だってんなら、オレは王族だね! オレのかあちゃんは、隣の国のお姫さまだぜ!」  口先なら負けねぇぜ。 「ふざけんな! 奴隷の分際で! オレはリュートの許婚だ。オレに手をあげると、リュートが放っておかないぞ!」 「たたきのめせって言ったのは、そのリュート先生でね」 「あいつは昔からすなおじゃないんだ。オレに心底惚れてるクセに。嫌い嫌いも好きなうちさ」 「イヤよイヤよ、だろ」 「うるせぇ! あいつは、毎日オレんちに通ってきたんだ。日に二回は顔を合わせたもんだ。お触れが出たときだって、オレがかくまってやるって言ったのに、あいつは恥ずかしがって逃げやがってよ!」  お触れ? 「おまえが勝手に追い回してただけだろ!」 「あいつは、本当は黒髪なんだぜ。知ってるか? 肌もずっと白いんだ。日に灼けてなきゃ、すき通るみたいなんだぜ。知らないだろう!」  灼けてんじゃなくて、染めてんだよ!  ヒースが黙っていると、相手は調子にのった。 「知ってるか? 隣の国では、黒髪の女といい馬を持ってるヤツは殺せってお触れが出たんだ。オレはあいつをかくまってやれたんだ。なのに、あいつはオレに迷惑をかけないように、ひとりで逃げだしたんだ。けなげだろう? かわいい女なんだ! この街に来たのも、オレに会いたかったからなんだ! どうだ、知らなかったろう!」  この街に来たのは、オレのためなんだよ! 「許婚に手を出して、いいと思ってんのか。え?」  ムカついた。  ああ、ムカついたとも!  剣を受け流し、背中から懐に踏みこんだ。顎に頭突きを食らわす。  剣が落ちた。  おまえなんかに、武器は要らねぇよ!  素手で殴り飛ばし、蹴り飛ばした。  男は頭を抱え、泣きだしたが、ヒースは許さなかった。  気を失うまで蹴り飛ばした。 「先生、これぐらいでいいかい?」 「すぐ発つぞ」  リュートは大袋を抱えて宿の入口に向かった。 「発つのは明日の朝じゃなかった?」  ヒースは追いかけた。 「アレはしつこい。面倒はごめんだ」  宿に出発を告げ、馬車を出そうとすると、主人が目を丸くした。 「許婚だという貴族の方が、馬車とロバをお連れになりましたけど」  リュートとヒースは顔を見合わせた。 「たぶん、伯爵とやらの屋敷だろう」 「取り返しに行く?」  門に向かうと、ふたりの用心棒と貴族もどきの男の姿はなかった。 「あきらめよう」  リュートは首を振った。 「えーっ。もったいねぇよ。あれだけの道具を揃え直すのって、たいへんじゃねぇ?」 「ぐずぐずしていると、いっそう大勢でやってくるぞ」 「先生の腕なら平気だろ。だいたいさあ、あの偉そうなヤツ、すっげぇムカつくんだよな。今度は、先生がちゃっちゃと……」 「殺めるか?」  リュートの目が冷たく光った。  ヒースの背筋に冷たいものが走った。 「次は、耐えられるか定かではない」  カタカタと、何かが鳴っていた。  リュートが手を置いた剣の、柄が小刻みに震えているのだ。 「怖いの?」 「アレは約束を破った」  リュートはゆっくりと言った。 「私を見たと触れ回った。そのために先生は……」  急に、テツの言葉がよみがえった。 『村長があんたを追っかけたんだよ。トビ坊ちゃんが、村に戻ってきたって言うもんでね。矢でハチの巣にしたけど、川に流されて死体を回収できなかったって、悔しがってたよ』  シズカもこう言っていなかったか? 『村長のところのトビが、あなたをお義父さまのところで見かけたって言うもんだから、村長がやってきて、たいへんだったのよ』  あの男が、そのトビとやらだ。約束を破って、先生を見たと言ったんだ。それで、先生も、先生の先生もツラい目にあって……。  まだ、柄が鳴っていた。  先生は、怒ってるんだ。ぶっ殺したいほど、あいつを憎んでるんだ。 「先生、あいつを斬りに行こう!」  リュートの手を引いた。 「復讐しよう! あんなヤツ、生かしちゃおけない! ね?」  リュートは首を振った。 「母上もマムも喜ばぬ。感情に任せて斬れば、ただの人殺しになりさがる」  もう一度首を振った。 「発とう」  街を出る前に、栗毛の馬を一頭買った。  薬の大袋とわずかな携帯品に二頭の馬。それがふたりの全財産だった。 「私といるとロクなことがない」  街の門を出ると、リュートは苦笑した。 「心配するなよ」  ヒースは肩にかけた革のケースを軽く上げて見せた。 「オレの美声で稼いでやるって。先生は運がいいな。オレが道連れで」 「ねえ、先生、怒ってない?」  その夜、野宿しながらヒースは訊ねた。  川魚をたき火であぶり、煙が目にしみた。 「オレが北へ行こうって言ったから、あんなヤツらに会ったんだって思ってない?」 「バカな」  リュートは笑った。 「あの街には、前にも行ったことがある。今までは運がよかっただけだな」 「あいつら、先生の家族だって言ってたね。ホント? あ、許婚はウソだってわかってるよ。いくらんでも、あそこまで趣味悪くないだろ」 「母が死んでから、しばらく厄介になったのだ。感謝すべきだろうな」 「先生のかあちゃんの親戚か何か?」 「いや」 「先生のかあちゃんって、どんな人だったの?」 「やさしい人だった」  リュートの口元が和んだ。 「賢く、勇敢で、とてもやさしい母だった」  黙った。 「どうしたの?」  気づいた。 「もしかして、オレに気ぃつかってる? かあちゃんのこと知らないから。いいんだよ。先生のかあちゃんのこと聞きたいんだ」 「だが……」 「先生のかあちゃんって、きれいだったんだろ? 前に、先生に似てるって言ったよね?」 「母のほうがきれいだった。祖母ゆずりだとか」 「奴隷だったっていう?」  リュートはうなずいた。 「決してこの国の言葉はしゃべらなかったそうだ。色目を使い、次々に男をたらしこんだと」  ヒースは口笛を吹いた。 「やるぅ」 「母には反面教師になった。まじめな人で、仕事をするかたわら、私にたくさんのことを教えてくれた。おまえの命が助かったのも、母のおかげなのだよ」 「なんで?」 「手術の現場にずいぶん連れていかれたからね。虫垂炎の手術も、幾度も見た」 「先生のかあちゃんって、医者だったの?」 「いや」 「じゃあ、とうちゃんが……」  空気がビリリと震えた。 「いや」  しまった。  地雷踏んだみたいだ。 「きょうだいはいないの?」  しまったぁ!  弟がいることは内緒だった。 「あ、えっと、し、親戚とか、友だちとか……」  リュートは少し笑った。 「いとこがいたな。夏によると遊びに行った。同い年の生意気ないとこがいてな、いつも泣かしては母上に叱られた」 「なんで? どうせいとこのようが悪かったんだろ?」 「弱い者いじめはするなと」 「じゃあ、かあちゃんの友だちにも怒られた?」 「もっとやれとふっかけられた」  ふたりは笑った。 「先生は、そのいとこのうちには行かなかったの? かあちゃんが、その……いなくなってから」 「伯父上には、私を守る力がない」 「どうして命を狙われてるの?」  リュートは少し考えた。 「定めだ。生まれ落ちた時から決まっていた。私さえいなければ母上も……」 「ちがうだろ。先生たちをつけ狙ってるヤツらがいちばん悪い!」  ヒースは魚をリュートに手渡した。 「熱いから気をつけて。今にみてなって。オレがそのうちこてんぱんにやっつけてやるから。どんどん強くなるぞ!」 「おまえには、平和に竪琴を鳴らしていてもらいたいんだがな」  リュートは魚に歯をたてた。 「先生は運がいい。オレが一緒なら、歌は聴けるし、薬屋も繁盛するし、仇討ちだってできる」 「私といてもロクなことはないぞ」 「うん、そうさ。でも、ふたり合わせたら、少しはマシなるだろ?」  熱っ。とリュートは口を引いた。 「気をつけてって言ったろう! あー、もう先生はオレがいなくちゃダメなんだから!」  リュートは水を飲んだ。 「この程度でダメなら、おまえはどうなのだ?」  うっ。  リュートは笑った。 「今に、先生より強くなってみせるからな」  ヒースはムキになって言い返した。 「頼れる弟子になってやる!」 「では、早く食べて寝なさい。明日の稽古は厳しくするから」 「げっ」  リュートはまた笑った。  先生が笑うんなら、いいや。  ヒースは思った。  笑ってくれるんなら、一緒にいるのも悪くない。    十三 リズ 「こっちよ」  リズは暗い穴に飛びこんだ。 「どうして私が……」  後ろから気弱な声が続いた。 「イヤなら来なくていいわ」  膝をついて穴をくぐると、ほどなく行き止まりになった。 「何もありませんよ、もどりましょう」 「うるさいわね。どっかに出口があるはずよ」  リズは四方をたたいた。 「おじいさまのとこは、もっとわかりにくかったわ。だいじょうぶ。こういうの馴れてるの」 「帰りましょう。女性がこんなドロボウみたいなこと……」 「あった」  木の音が響いた。取っ手をまさぐり、押すと、明かりが射しこんだ。  出たところは小さな部屋だった。壁は大小さまざまな肖像画で埋めつくされていた。すべて同じ人物が描かれていた。  天窓から入る光が、埃に反射し、きらきらとまぶしい。  暖炉とソファ、肘掛け椅子、小さな机、膝掛け。 「居間のようですね」 「おじいさまの部屋とおんなじだわ。あの人の絵でいっぱい」  あるものは鮮やかな毛織りのショールを肩にかけ、あるものは小さな帽子を頭にのせていた。襟ぐりは深くあき、黒い目は憂いを帯びていた。  こんなに悲しそうだったかしら? それに、なんだか色っぽいわ。  祖父の隠し部屋で見た絵は、どれも凛々しかった気がする。 「変わった服を着てるのね」 「そうですね」 「この人、きっとおじいさまの恋人よ。どうしてこんなところに絵があるのかしら」 「とんでもない!」  少年が強く否定した。 「この御方は、我が国の王女、レイカ姫ですよ。十数年前に、隣国リュウインに嫁ぎ、王妃となられた御方です」 「まあ。私、ちっとも」  前《さき》の王妃さま! 見たことないから、わからなかったわ。 「私、ずっと、この方がホントのおかあさんだったらいいなって思ってたの。きっと、意地悪なんかしないわ」 「厳しい御方でしたよ」  少年は得意げに顎を上げた。 「会ったことがあるの?」 「毎年、夏になるとお出でになったものです」 「どんな方だった?」 「曲がったことがお嫌いで、ご息女をよくお叱りになっていらっしゃいました」 「まあ、子どもがいたの」  少年は誇らしげにうなずいた。 「ご息女がひとり。母君にそっくりの、たいへんおきれいな方でした」  リズはがっかりした。  そうね。この方の娘なら、美人に決まってるわ。  考えてみれば、私なんかがこの方の娘になれるわけないんだわ。 「しかし、あの悪徳宰相に殺められて。いつか一族もろとも滅ぼしてやります!」  興奮して口走り、ふいに少年は口をつぐんだ。  リズの顔をのぞきこむ。 「怖がらないでください。つい感情的になってしまったのです」  きっと、青い顔をしているのだわ、私。  少年が遠くに感じられた。 「もう、出ましょう。誰かに見つからないうちに」  リズはうなずき、少年の後に続いた。  出しなに、小さな肖像画をつかんだ。  竪琴の音が中庭に響いた。  男の声は低く、よく通った。  リズは目を閉じ、その語りに耳を傾けた。  目を開ければ四十の男だが、声だけなら二十代にも聞こえる。  使者が枕元で囁く  英雄は首をふらぬ  このいましめを解けなくば  魂を渡すまじ  使者は鎌を振るった  三たびかなえた。  今こそ魂を得ん 「誰だ! 勝手に歌うのは!」  向かいの棟からから出てきたのは、昨日の少年だった。  ひどい形相で詰め寄る。  歌い手は逃げだした。 「かわいそうに! どうして意地悪するの?」 「またあなたですか」  少年はため息をついた。 「今、いいとこだったのに。セージュが死神に連れていかれるところよ」 「バカバカしい。先住民のたわごとです」 「なによ、それ」 「我々は征服者ですよ。長い間、この国を支配してきました。なのに、敗者のくだらない作り話などに耳を汚されるとは」 「じゃあ、あなたはもっとおもしろい話ができるっていうの? 英雄セージュの冒険や、冥界からもどってきたエドアルや……」 「サイアクです!」  少年はツバを吐いた。 「あの世からもどれるわけないでしょう! バカバカしい!」 「エドアルならやるわ」 「殿下!」  栗色の髪の少年が向かいの棟から歩いてきた。  リズを上から下まで眺めまわす。  ヤな感じ。  睨み返した。 「どこの公爵家のご令嬢ですかな」 「貴族じゃないの。おあいにく」  リズはあっかんべーをした。 「田舎じゃ、髪にアイロンをあてるのが流行ってるのか?」  栗色の髪が笑った。 「そんなふうに鼻をふくらませるのもか?」 「やめないか、ヴァンストン」 『殿下』がいなした。  リズに向き直る。 「お帰りなさい。ここはあなたの来るところじゃありません。誰かに送らせますから」 「帰りたいのは山々よ。ここには原っぱもないし、遊んでくれる友だちもいないし。あなた以外はね」  リズはにこにこと笑った。 「友だちができてうれしいわ」 「無礼だぞ! この田舎ザルめが!」 「エリザさま!」  後ろから声がして、リズはギョッとした。 「隠して!」 『殿下』の後ろに回ったが、ムダだった。  着飾った侍女が眼をつりあげて、こちらに向かってくる。 「エリザさま! 毎日毎日、あなたって方は! アイリーンさまのように、おしとやかにしていられないんですか!」  嫌いだ。  いつも放っておいてくれる侍女たちが来てくれたらよかったのに。  この旅は、姐づきの侍女しか来なかったのだ。 「ここはフォッコの野じゃないんですからね! お立場をわきまえていただかないと!」 「なるほど」 『殿下』がつぶやいた。  ふり返って、リズを眺める。 「なによ!」  リズは睨み返した。 「さがりなさい」 『殿下』は侍女に言った。 「何も問題はありません。少し話をしているだけです」 「貴族風情が! この方をどなたと……」  自分だって、貴族のクセに。  どうしておねえさまの周りの人たちって、自分まで偉くなった気になるのかしら。 「私はパーヴ王カルヴの第四王子エドアルです。さがりなさい」  侍女の顔がひきつった。 「失礼いたしました」  謝罪もそこそこに逃げていく。 「ウソはダメよ」  リズは顔をのぞきこんで笑った。 「言うに事欠いて、このブスザルが……」 「退がれ、ヴァンストン」  栗色の髪を退がらせてから、『殿下』は胸に手をあてて一礼した。 「ご無礼いたしました、エリザ姫。お噂通り、姉君にはまったく似ていらっしゃいませんね」  あら、本物? 「あなた、どっちのほう? 跡を継ぐほう? それとも余ったほう?」 『殿下』は口を曲げた。 「跡は継ぎませんが、余っているわけではありません」 「よかったわ。早くおねえさまと結婚して、うちにいらっしゃいな。あなたなら友だちだし、意地悪もしないでしょ」 「誰が宰相の一族なんかと! さっさと帰るように、あなたからも言ってください」 「私の言うことなんか、きくもんですか。だいたい、私が連れてこられたのだって、並ぶとおねえさまの美しさがひきたつからよ」  胸に熱いものがこみあげてきた。 「おかあさまに似てないのは、私のせいじゃない! なによ! おねえさまなんて、顔だけじゃない! 意地悪でズルくて、頭の中はおしゃれと男の子のことばっかり!」 「私の兄もそうですよ」  エドアル殿下が大きくうなずいた。 「跡継ぎだからと特別扱いされて、いい気になっているのです。甘えん坊で意気地なしで、威張ってばかりです。勉強もしないで、女性ばかり追いかけて」 「そうよ、ろくな大人にならないわ! ご飯だって好き嫌いがたくさんあって、将来、きっと病気になるんだから!」 「そうですとも。殴った分は、やがて自分に返ってくるんです。今に見ていなさい。天は兄を見放しますから」 「おねえさまのとりまきも大っ嫌い。いつもおねえさまと比べるのよ」 「兄より劣るところばかり並べたてて、よいところは見ない」 「ほかの人たちはね、私が王女だってわかったとたん、急にいい顔するの。平気で、お世辞言いだすのよ! だから、私、できるだけ名前を教えないの」 「まったくです。美辞麗句を並べてへつらう輩は大嫌いです。信用できませんね」 「でも、おねえさまは、そういう人が大好きなの! ばかみたい」 「兄はそのうちだまされて、何もかも失うんです。そうに決まってます」 「ねえ、どうして私が王女だってわかったの?」  ありふれた名前だ。母にも姉にも似ていないし、今回送ったはずの姿絵には、自分は入っていない。見苦しいからという理由で! 「フォッコの野と、侍女がもうしておりましたでしょう。姉上からうかがったことがあります。リュウインの地名です」 「あなたのお姉さま、うちに来たことあるの?」 「リュウインの前の王妃さまのご息女ですよ。私は、あの方と結婚するはずだったのです。宰相の孫となんかではなくてね」  エドアル王子の目は、遠くを見るようだった。 「きれいな方だったんでしょ?」 「あんなにすばらしい女性はいらっしゃいませんよ! 叔母上に似て、美しく勇敢で賢く、完璧でした。あの方を女王にいただいたら、リュウインはどんなに幸せか!」  天は不公平だ。  リズは思った。  おじいさまゆずりのブスで、頭の悪い自分とは大違いだわ! 「もし、姉上がいらっしゃったら、あなたもきっとうれしいと思いますよ」 「そうかしら?」  声がとがった。 「そうですとも! 姉上はいつも兄から私を守ってくださいました。きっと、あなたのことも……」 「知らないから、そんなこと言えるんだわ。おかあさまもおねえさまも、そりゃあ意地悪なんだから! みんなからそんなに好かれてぬくぬく育った人なんかに、何ができるもんですか」 「姉上は、そこらの王女なんかとは違います! リュウインには居場所がなかったんです! そもそも、国王が叔母上を粗末にしたから! 宰相の言いなりになり、宰相の娘なんかにうつつを抜かすから!」  言葉が容赦なくリズの胸に突き刺さる。 「あんなふうに殺されなければ、私がきっとお守りしたのに!」 「どんなふうに亡くなったの?」 「知らないんですか! 国境の街エスクデールの郊外で、国王の軍隊に襲われたのです! 表向きは、軍隊に化けた賊に襲われて亡くなったことになっていますが。私に力があれば、あんな男、一族もろとも磔にして河原にさらしてやるのに! あの男の血が、ピートリークの半分を汚しているかと思うと!」 「悪かったわね! おじいさまの一族で!」  リズは足を踏みならした。  あ、とエドアルが声をあげた。 「大っ嫌い! もう、あなたなんか絶交よ!」  リズは元来たほうへ駆けだした。  なによ、なによ、なによ!  前の王妃さまの娘はさぞかし美人だったんでしょうよ! ブスでみそっかすで悪かったわね!  次に顔を会わせたのは、晩餐の席上だった。  キャスリーン妃が挨拶の口上を述べ、リズを紹介した。  主人の席には、老人がすわっていた。  おじいさまより年とってるわ。これが王さまね。  女主人の席には、不器量な女がすわっている。  おかあさまと同じぐらいの年って聞いてるけど、痩せて骨ばって、ずっと老けてみえるわ。  隣席では、わがままそうな少年が、ナイフとフォークを鳴らしている。  私なんかどうでもいいってわけね。それにしても、なんて意地悪そうな顔なんでしょう! おねえさまそっくり!  そして、もうひとり。優等生然とした少年……。 「アル、また会ったわね!」  手を振った。  キャスリーンの口上がやんだ。  エドアル王子の顔が赤くなった。 「知らない人ばっかりでイヤだったの。あなたに会えてうれしいわ」  キャスリーン妃が咳払いをした。  リズは聞こえないふりをした。 「たくさん遊んだから、おなかすいたわ。早くご飯食べたいわね」 「エリザ!」  キャスリーン妃が凍るような声を出した。  あとから、どれだけ罰をもらうかしら。納骨堂に一晩? 塔に三日? 「お見苦しい限りでございます。この子は少しおつむが弱うございまして。お許しいただければ、退けますが」 「それには及びませぬ」  パーヴの国王は笑った。 「まるで、妹を見ているようだ。どうか気楽に」  リズの目をのぞきこんだ。  このおじいさま、楽しそうだわ。 「おじいさまの妹って、うちの前の王妃さま?」  キャスリーン妃の目がつりあがった。  パーヴ国王は声を立てて笑った。 「そうだ。ひどいおてんばで、舞踏会に羊の首を持ちこんだり、剣をふりまわしたりしたものだ」 「私、そこまでひどくないわ」 「それは残念。だが、元気のいい顔をしておる。頬の色ツヤといい、目の光といい……」 「へえー。目なんかどこにあんのかな」  隣席の少年がリズの顔を眺めまわした。  その向かいで、アイリーンが聞こえよがしにくすくす笑う。 「ああ、そのでっかい穴が目か。じゃあ、そのでっかいまんじゅうが鼻か?」 「あら、こんなところに虫が」  リズはテーブルを叩くふりをして、少年の頭をしたたかにぶった。 「このやろう!」  少年がとびかかってきた。  リズはスネを蹴飛ばし、身を引いた。  少年が床に転がり、足を抱えた。  泣きわめく。 「エリザ! なんてこと! このオニっ子!」 「誰か、王太子の手当てを!」  ふたりの王妃の声が飛び交う。 「なんて人だ」  ジャマにならないよう、リズの手をひいたエドアルが目をみはっていた。 「当然よ。レディを侮辱したんだから」 「あれでレディなんですか?」  目を丸くする。 「あれ、あなたのお兄さんなんでしょ? ヤな人ね」 「後が怖いですよ。お気をつけなさい」  腕をとるエドアルの手が震えているような気がした。  朝になると、大きな花束がいくつも届けられていた。 「昨夜のお詫びを」  使者は菓子まで差しだした。  あんがい悪い人じゃないわ。  花束の中にはおかしな仕掛けはなかった。  菓子は姉の侍女にくれてやったが、腹を下したわけでもない。 「なんで、おまえだけ!」  姉が怒鳴りこんでリズの耳をつかんで引きずりまわし、 「あんまり醜いんで哀れんだんだろうよ」  母からは冷たい視線を浴びせられる始末だった。  昼さがりには、お茶に呼ばれた。 「おまえは留守番!」  アイリーンはリズの服という服を引き裂いて、呼ばれもしない茶会に出かけて行った。  リズは下着の上にカーテンの布を引っかけて表に出た。  おねえさまの思い通りになんかなるもんですか!  中庭の向かいの棟を探しまわる。  いた! 「アル! アルってば!」  パーヴの第四王子は、二、三人の少年たちと話していたが、リズに気づいてぎょっとした。 「どうされたのです! 賊にでも遭われたのですか?」 「おねえさまの意地悪よ。それより、服を用意してちょうだい。お茶に呼ばれてるの」 「服って……」 「あなたのおにいさまっていい人ね。ご好意をムダにしたくないわ」  エドアルはリズの腕を引いて、廊下の隅に連れこんだ。 「兄ですか? 茶に呼んだのは」 「そうよ。私だけなの。なのに、おねえさまが抜け駆けして……」 「おやめなさい。昨夜のことをお忘れですか?」 「今朝、お花とお菓子が届いたわ。何も仕掛けてこなかったわ。うちのおねえさまだったら、汚いものや下剤をまぜるところよ」 「兄上を侮ってはなりません」 「うたぐり深いのね! それとも妬いてるの?」 「服はなんとか手配します。お待ちください」  エドアルは侍女を呼んで、リズを案内させた。  着替えた服は、腰のしめつけが緩く、すそのボリュームをおさえた動きやすいものだった。 「侍女の服ね?」  エドアルの前に出ると、リズは訊ねた。 「うちには姫がいませんからね。我慢してください」 「こんなんじゃ、お茶会には……」 「そんなに兄上が気に入ったんですか?」  エドアルはあきれ声を出した。 「だって、生まれて初めてなんだもん! お茶によばれたの」 「では、私がお招きします。今、学友とひと休みするところだったのです。あなたをひとりにするのは危なそうだし……」 「ありがとう! アル!」  抱きつくと、エドアルはよろけて尻もちをついた。 「どうして私がアルなんですか?」 「だって、エドアルって名前は好きじゃないんでしょう?」 「だからって、そういう呼び名は……」 「早くお茶にしましょ。ね?」  リズはエドアルを引っぱり起こした。 「あっ! 昨日の賤民!」  エドアルの学友の中に、知った顔があった。 「貴族でもないヤツのことを賤民って言うんだぜ。昨日、父上に教わったんだ。来るな、下品が伝染る!」 「やめないか、ヴァンストン。この方はエリザ……」 「リズよ。アルの友だちなの。文句ある?」  リズは腰に手をあてて、ヴァンストン以外の面々に笑ってみせた。 「アルの友だちなら、私の友だちだわ。あなたたちがイヤじゃなかったらね」 「寄るな、賤民。なあ、おまえたちもまっぴらだろ」  ほかの少年たちは、エドアルの表情をうかがった。 「もう! 自分のことぐらい、自分で決めなさいよ!」  リズは足を踏みならした。 「しかし、みなはあなたのことを知らないのだから……」 「失礼よ! 友だちが連れてきたレディをお茶の仲間にも入れられないの? これならフォッコの友だちのほうがマシよ! 初めて来た子だって、すぐ仲間に入れてくれるわ!」 「下々の者とはちがうんだよ」  栗色のヴァンストンがせせら笑った。 「どこの馬の骨だか……」 「大っ嫌い!」  ヴァンストンの足を踏みつけた。  悲鳴が響いた。 「この賤民がぁーっ!」  ヴァンストンがこぶしをふりあげる。 「ヴァンストン! おまえが悪い!」  エドアルが叱りつけた。 「先に侮辱したのはおまえだ。その上、あろうことか、女性に手をあげるのか? この方は私の友人だ。今後、失礼のないように!」 「はい、殿下!」  ヴァンストンは直立した。 「エリザ姫、ご無礼を。では、まいりましょう」 「リズでいいわ」  エドアルの腕に手をかけた。 「お待ち!」  聞き覚えのある声がして、リズは体をこわばらせた。 「おまえ! おまえのせいで!」  そっと見やると、明るい栗色の髪をふり乱した姉が、恐ろしい形相でやってくるところだった。  袖や襟はとれかかり、裾は破れていた。 「おまえが! おまえが!」  アイリーンがとびかかってきた。 「アイリーン姫!」  エドアルが叫んだ。  アイリーンがハッとした。 「どうされたのです。今、誰かを呼びます。おケガなどございませんか?」 「おまえ、エドアル?」  アイリーンの目が再びつりあがった。 「許さない! 私を、この私をこんな目に遭わせて!」  黒いものが降ってきた。  臭い。  高笑いが響きわたった。 「少しはきれいになったろ、このブス!」  セージュ王太子だ。  従えた少年がふたり、バケツをかまえていた。泥水を放ったのだ。 「悪党の一味は、ひとり残らず成敗してくれる!」 「兄上! おやめください!」  まっ黒になったエドアルが抗議した。 「相手はリュウインの王女ですよ!」 「だから黒髪に染めてやってんだろ!」 「あたしたち、前の王妃さまの子どもじゃないわ!」  リズは叫んだ。  セージュと目が合った。  ニヤ、とその口に笑みが浮かんだ。 「ここに逃げこんでたのか」 「逃げたんじゃないわ! おねえさまが勝手に行ったのよ! あたし、あんたなんか怖く……」  風音がした。  エドアルが間に入った。  鞭がその背に降りた。 「エリザ姫、逃げてください」 「リズよ! それより、だいじょうぶ?」 「兄は女性にも容赦はありません。早く逃げてください」  リズは、エドアルの腰から剣を抜いた。 「あんたなんか!」  セージュも腰の剣を抜いた。  乾いた音を立てて、リズの得物が折れた。木片が散る。  ヤだ。ニセ物? 「剣でオレにかなうと思ってんのか?」  髪をつかまれた。 「おまえなんか、王女じゃねぇよ! リュウインなんか、オレが滅ぼしてやる!」  ぼとりと髪の毛が落ちた。  切られたのだ。  背を蹴られた。  床に倒れた。  頭を踏まれる。 「リュウインなんか! くたばっちまえ!」 「エリザ姫!」  エドアルが上から覆いかぶさった。 「どけよっ! この弱虫め!」  しばらく蹴り続けて、セージュは飽きたのか、とりまきとともに引きあげた。 「アル、だいじょうぶ?」 「あなたこそ、おケガは?」  周りには、アイリーンの姿も、エドアルの学友たちの姿もなかった。黒く汚れた床の上で、ふたりすわりこんでいる。 「おでこをすりむいたわ。それにしても、あなた弱いのね。剣もニセ物だったし」 「暴力は嫌いなんです。あいたた……」  うめいた。 「どこが痛いの?」 「背中が……」 「骨折れた?」 「わかりません」 「殿下! 侍医を連れてきました」  ヴァンストンが塔の陰から現れた。 「そういえば」  エドアルが顔をあげた。 「なあに?」 「私たちは絶交しているのではありませんでしたっけ」 「アル、私のこと嫌いになったの?」 「あなたがおっしゃったんですよ」 「そんなこと言ったかしら?」  言ったような気もする。 「いつまでも怒ってるの、好きじゃないの。アルだって、仲直りしたいでしょ」 「あなたって方は……」 「殿下、こちらへ。お早く!」  ヴァンストンが呼んだ。 「そうね、あの弟のほうなら考えてもいいわ」  帰りの馬車の中でアイリーンが言った。 「すましたところが気に入らないけど、兄よりはマシだわ」  アルはもっと気に入らないと思うわ。  手ぬぐいを口に詰められていなければ、反論したところだ。 「今度は、こちらにお招きしましょう。弟だけね。あなたがその気になって落ちない殿方はありませんよ」  キャスリーン妃があおった。  城に帰って二シクル経ったころ、リズは国王に呼びだされた。  不吉な予感がした。  醜い失敗作の私に、何のご用かしら?  応接間に入ると、国王は顔をあげ、うんざりしたようにため息をついた。  私の顔を見ると、必ずこうだわ。 「エリザ姫、こちらはパーヴのガーダ公でいらっしゃいます」  祖父が示した先に、青い上衣を着た、栗色の髪の男がすわっていた。四十代ぐらいか、日に焼け、たくましい感じがした。  その隣に、ブルネットの髪を高く結い上げた女がすわっている。男より十は若そうだ。 「あなたがエリザ姫か」  ガーダ公は口笛を吹いた。 「こりゃあ、健康そうだ。なあ、リリー?」  隣の女に話しかける。 「まずは、ご挨拶なさったらいかが。失礼でしょう、殿下」  リリーと呼ばれた女はトゲトゲしい。 「初めまして、ガーダ公」  リズは先に挨拶した。 「初めまして、ガーダ公爵夫人」 「殿下。いつご結婚されたんですか? きちんと説明なさってください」  リリーは冷ややかに言う。 「実質的には間違ってないだろ?」 「いいえ! 王太后さまに叱られますよ!」 「バアさんに気遣う必要ないさ」 「じゃあ、そのバアさんの目の前でそう言ってごらんなさい!」  ガーダ公はため息をついた。 「エリザ姫。こちらはリリー・アッシュガース嬢だ」  愛人かしら? 「初めまして。アッシュガースさま」 「甥のエドアルは知ってるな」  挨拶もせずに、ガーダ公は切り出した。  失礼ね! 「パーヴの王子の?」 「そうだ。弱虫のエドアル王子だ」  リズは頬をふくらませた。 「アルは弱虫じゃないわ! ただ、暴力が嫌いなだけよ」 「昔っからけいこはさぼってばかりだったからな」 「アルは紳士よ!」  私をあの乱暴なお兄さんから守ってくれたもの! 「おじさまは、アルの悪口を言うために、わざわざここに来たの?」 「婚約の申し入れに」  あら。  おねえさまがたぶらかすまでもなかったのね。  ガーダ公が皮肉な笑みを浮かべた。 「オレとしては、リュウインとの婚姻は願いさげなんだがな」 「どういう意味だ」  国王アプスがうなった。 「尻の矢キズに訊いてみろ」  ガーダ公がせせら笑った。 「それとも、ここに羊頭を運ばせようか?」 「まあまあ」  宰相ランベル公が割って入った。 「両国の友好のためです」 「ぶち壊したのは、そっちでしょ!」  リリーが睨みつけた。 「おまえが、お姫さまとちい姫さまを!」 「賊のしわざでございます」 「お姫さまがお戻りになったら、タダでは済まさないからね!」 「お亡くなりになったお方は、二度と戻られませぬ」 「この赤イタチ!」  リズは吹きだした。  ぴったり! 「リリー。ケンカにきたんじゃないぞ」 「じゃあ、連れてこないでください。この顔を見て、黙っていられると思います?」 「用件は別にあるだろう。エリザ姫。うちの城で、ずいぶんやんちゃをなさったとか」  急に話をふり向けられて、リズの体はこわばった。 「だって、あれは、セージュが悪いんだわ。子分まで連れてきて、殴る蹴るだったのよ」 「エリザ姫の奔放ぶりには、我々もひどく憂慮している」 「ご心配には及びませぬ」  宰相ランベル公が慇懃に笑った。 「これからは厳しく躾けましょう。女官の数を増やし、常に貴婦人たる自覚を促します」  とばっちりだわ! 結婚するのは私じゃないのに! 「兄は、リュウインには任せておけないと考えている。こちらから女官をつけ、城から離れた静かな場所で教育したいと」 「その教育係に、アッシュガース嬢が?」 「いや、これは私のそばに」 「あたしの希望じゃありませんけどね!」  リリーは不服そうに言った。 「おまえがいてくれないと、オレが困るだろう」 「ひと声かければ、代わりはいくらでも寄ってくるでしょ、常勝将軍!」 「おまえを残してみろ。部下たちが心配して大挙してくるぞ」 「そんなの、あなたが何とかしてください」  あんまり貴婦人らしくないな、とリズは思った。  男をたてよ、引いて従えと習ったのに。 「とにかく、婚礼までに、表に出ても恥ずかしくない貴婦人になっていただきます。女官はふたり、すでにウィックロウに向かわせました」 「ウィックロウ」  宰相ランベル公の目が光った。 「ほう。では、あのおふたりか」 「条件が飲めなければ、兄は破談にすると言っている」  国王アプスは口をへの字に曲げた。 「予は脅されるのは好かん。どうして、アイリーンではいかんのだ。アイリーンなら、非の打ちどころのないレディだぞ。改めて教育の必要もない。なにも、あんな醜い娘を選ばなくてもよかろう。予も、醜い孫など見たくないわ」  あら?  おねえさまの話じゃないの? 「じゃあ、この話はナシですわ!」  リリーは椅子を蹴って立ち上がった。 「殿下、帰りましょう! こちらの王さまは、また殿下を相手に戦をなさりたいそうですわよ!」 「リリー。すわりなさい」 「それとも。今すぐ決着をつけます? こちらの王さまも、前の戦では、さぞかし武勇伝をお持ちでしょうし!」 「リリー」 「美醜で人の価値を決めるなんて! お姫さまがいらしたら、今すぐ引き倒して踏みつけるところですわ!」 「リリー!」  ガーダ公はリリーの両肩を押さえた。 「リュウイン国王アプス陛下。兄には破談と伝えておく。では、失礼」 「いや、予は、別に……」  ガーダ公はリリーを連れてドアのほうへ歩いていく。 「陛下、友好が崩れては不利になりますぞ」  宰相ランベル公が早口にささやいた。 「待ってくれ!」  国王アプスは叫んだ。 「飲む! その条件でよいから!」 「それはよかった」  ガーダ公はにこりともしなかった。 「相変わらず、余興が過ぎる」  おとうさまより偉そうだわ。  隣国の公爵の態度は奇妙に見えた。  おまけに、たかが愛人まで、おとうさまに怒鳴るなんて。  その愛人は、リズをじろじろ眺めていた。  こんな人に貴婦人のなんたるかを説教されるのはごめんだわ。いっぺん、自分を振り返ってみたらいいのよ。 「エリザ姫。ご自分の結婚にご意見はございませんの?」  リリーが訊いた。  そう言われればそうね。  少し考えた。 「セージュだったら家出するとこだけど、アルだったらいいわ。友だちだもの」 「エドアルのヤツ、前途多難だな」  ガーダ公が苦笑した。    十四 馬盗人  岩に背もたれながら、ヒースはぬれた髪を手ぬぐいでかきまわした。  チラと後ろを盗み見ると、肌の白がまぶしかった  やっぱ、先生はきれいだぜ。  白い躯に流れるような黒い髪。せっかく垢を流したばかりだというのに、赤く染めてしまうのは惜しい。  オレしか知らないんだぜ。  長身には精悍さとともにそこはかとなく艶気が漂う。  言ってみりゃあ、先生もお年頃ってヤツだよなあ。乳なんて、あんなにいい形してるしさ。  いいなあ。オレも早くおとなになりてぇなあ。  ふたり並んだところを思い浮かべる。  長身の黒髪の美女と、さらに長身の金髪の剣士。金髪のほうはかなり美化されているが、本人は気にしない。  窓辺に腰かける女剣士に、竪琴を奏でてきかせる金髪の男。声は高く澄んで、女剣士はうっとりと目を閉じる。 「素振りをするのではなかったか」  空想は破られた。  目の前に、褐色の髪の美人が立っている。じょうぶでごわついた服を着て、腰には長剣を佩いている。 「もう、終わったよ。休んでたとこさ」 「ここはずいぶん眺めがいいな」  リュートは川を見やる。水浴びの場所が丸見えだ。 「いつでも見張れるようにさ」  ヒースは悪びれなかった。 「何を?」 「美女を襲う野獣とかさ」 「口の減らない」  リュートはヒースの頭に手を置いた。 「少しは練習しなさい。刃物は棒とは勝手が違うのだぞ」 「はいはい。傷つける度合いが違うから、正確に振れなきゃいけないんだろ。わかってるよ。今、練習するよ。ところでさ、先生」 「ん?」 「また、胸デカくなった?」  殴られた。  夕刻までにボグニーの街に入った。 「ねーさん、頼むよ。ここの料理が楽しみで、ムリを押して来たんだ。だからさ」  注文を打ち切った店に、ムリを言って入れてもらう。 「まず、ぶどうのワイン煮! それからぶどうの炭酸割りとぶどうのシャーベットと……」 「デザートだけかい」  おかみが渋い顔をした。 「鴨のシチューと青菜の炒め物、白パンとチーズももらえますか」  リュートが後を引き継いだ。 「先生、デザートだけでいいよ」 「好き嫌いはよくない」 「たまにはいいんだよ! 各地のデザートを食い尽くすのが、人生で二番めのテーマなんだから!」 「お客さん、注文はこれでぜんぶですね」  リュートがうなずく。 「えーっ、まだ半分しか頼んでねーよ」 「明日にしなさい」 「一期一会だぜ。明日、もしオレの身になにかあってみろよ。先生、ゼッタイ後悔するって。あのとき腹いっぱい食わせてやればよかったのにって」 「見かけねぇ顔だな。どこのもんだ」  カウンターで酒をくらっていた男がふり向いた。 「オレたち、親を亡くしたきょうだいでさ、ふたりで街から街をさすらってんのさ」  ヒースは軽口を叩いた。  店の客たちがゲラゲラ笑った。 「きょうだいだとよ」  ヒースはすばやく店内に目を走らせる。  突き指してるヤツがいるな。きれいに包帯を巻かれてる。  こっちのヤツは転んだのか頬に湿布を貼ってる。  どっちもシロウトの技ではない。  同業者アリか。この街じゃ、本業はムリだな。 「仕事を探してるんだ。手っ取り早く金になる仕事。なんかないかな」 「そっちのねえちゃんなら、いくらでもあるだろ」  客のひとりが下品に笑った。 「ダメダメ。うちの先生は愛想はねぇし、気が短くて。こないだなんか、言い寄ってきた男を川に投げこんじまった。力はあるんだ。マジメに稼げる仕事はないかな」  客たちが笑った。 「ジャジャ馬か。美人がもったいねぇ」 「言っとくけど、オレも力はあるよ。なんかないかなあ」 「ぶどう摘みの仕事ならあるかもなあ。農園あたってみな」  料理が運ばれてきた。  ヒースは片っ端からがっついた。 「それはなんだ?」  椅子の背にかけた袋を指さされる。 「竪琴」  ヒースはいっぱいに頬ばったまま答えた。 「弾けるのか」 「もちろん」 「陽気なのをやってくれや」 「タダじゃ弾かねぇよ」  ヒースは食べるほうに夢中だった。 「ふん、ガキが偉そうに」  カンに触った。 「一皿につき一曲かな。払ってくれりゃ歌うよ。言っとくけど、オレ上手いから」 「しょってやがる」  客は笑い、興じて一曲求めた。  ヒースは溶ける前にとシャーベットを飲みくだし、水で喉を整え、指を手拭きで念入りに拭くと、袋から竪琴を取りだした。  実は調弦済みである。  客を待たしちゃ、商売にマイナスだからな。  弦を弾いて音を確認すると、深く息を吐いた。  気が鎮まる。  歌いだした。  陽気な歌だった。 「なんの歌だ」 「ジャンデッカー村の祭りの歌さ。夜中までたき火を囲みながら踊るんだよ」 「あんたの生まれた村か」 「旅してると、いろいろ覚えるのさ。ティノ村の歌はどうだい? 成人の祭りで女の子を口説くときの歌は。それとも、笑い祭りの歌がいいか? ペンヘール村じゃ、ひと晩笑い続けると鬼が逃げるって言い伝えられてんのさ」 「どっちもやってくれ」  あっという間に、夕食の勘定はチャラになった。 「スピカータ村には龍の子の伝説があって、祭りンときには猫を池に放りこむんだぜ。どうなると思う? おっと、続きはお代をいただいてからだな」 「もう、肩代わりする皿はねぇだろ」 「じゃあ、おもしろ話を聞かせてくれよ。この村の祭りとか、できごととか、陽気なヤツをさ。今日はサービスだ、コインを出せとは言わないさ」  店には笑い声が響き渡った。 「愉快なヤツだな、今夜はうちに泊まれ!」  太った男がヒースの肩を抱いた。 「前の街でも誘われたっけな。そいつは夜中に笑いこけて、シャツのボタンがみんな弾けとんじまった。とたんに、おかみさんに追いだされたよ、ほうきをふりあげて」  手をふり回してみせる。 「よくも仕事を増やしやがって! ボタンを縫うのは馴れてるが、亭主の腹までは縫えないよってね。亭主は笑いすぎて、腹が裂けちまったのさ」  飲んべえたちが爆笑する。 「だから、遠慮しとくよ。また明日、よろしく」  酒の席での約束ごとなどアテにならない。ついて行ったあげく、おかみさんに嫌がられ、朝になって、亭主が一言。 『おめぇ、誰だ?』  そんな目には一度遭えば充分だ。  それに……。 「じゃ、そろそろお開きってことで。これから宿を探すよ。どっかいいとこないかな」  リュートが立ちあがると、酒飲みたちの視線が集中した。  腕が伸びるその前に立ち、ヒースはいちいち手を握り返した。 「あのねーちゃんなら、稼げるぜ」  誰かが言った。 「やめときな。逆さづりにされちまうぜ」  ヒースは笑っていなして、リュートを戸口から押しだした。 「あれぐらい言われても、私は何もしないぞ」  リュートがうす暗がりで苦笑した。 「オレがヤなの!」  あんなねぶるような目で見られてたまるか! オレの先生なんだぞ!  馬車に近寄ると、リュートがヒースを遮った。 「何者だ!」  一喝した。耳の奥がビリビリした。 「待ちましたぜ、この馬の飼い主ですかい?」  馬車のそばから、フードをかぶった男がゆらりと立ちあがった。 「いい馬ですねぇ。そっちの葦毛のほうですぜ。実にいい! 馬車引きなんかにゃもったいない。出すとこに出しゃ、それなりの値がつきますぜ。だが、このまま駄馬同様の扱いをしちゃあ、ムダに年をとるばかり。実力も引きだせやしない。物は相談だ。あたしに預けなせぇ。きっといい飼い主を見つけてやりますよ」 「失せろ」  リュートが低い声で言った。 「脅して値をあげさせようったって、そうはいきませんぜ。こちとら商売人だ。適正価格ってヤツで取引させてもらいましょ。剣に手をかけたってムダですよ。あたしも多少は心得がありましてね。飾りもんを振り回されたところで退がりませんよ」 「しつこいぞ」  ヒースは馬車を出した。  商人は馬に乗り、なおもついてくる。 「損はさせませんよ。あたしにお任せなさい。こんな機会、めったにあるもんじゃない」 「売りもんじゃねぇの! 先生が怒ると怖いぞ。早いうちに帰れ」 「ねぇ、坊ちゃんからも口添えしてくださいよ。あの馬は、あたしに会うために、この街に来たようなもんだ。なんてったって、隣の街には王子殿下がいらしてるっていうじゃありませんか。ご婚約者のお姫さまと一緒に」 「バァカ、もし、そうなら、この街だって大騒ぎになってるだろ。だまされるもんか」 「だから、あたしたちの情報網はバカにできないってんです。なんでも、お忍びなんだそうですよ。あの方たちに売ればいくらになると思います? あなたたちじゃ相手にしてもらえないでしょうが、あたしぐらいになると、いくらでもツテはあるもので」 「王子だろうとなんだろうと、売らないよ」 「あの馬がかわいそうだと思いやせんか? 名馬に生まれながらただの馬車馬で一生を終えるなんてねぇ。狩り場で先頭を切ってもおかしかないのに。立派な鞍に王子さまかなんか乗せてね。いやね、あたしは何も、坊ちゃん方の扱いがどうこう言ってんじゃないですよ。むしろ、たいしたもんだ、あんな名馬をこれだけ立派に育ててるんですからね。ただ、あの馬には一度ぐらい華々しい思いをさせてやっても悪かないと、こう思うわけですよ。そうだ! 坊ちゃん方も馬丁として王子さまに売りこんであげましょう。そうすりゃ馬と離れなくて済みますし、坊ちゃん方もラクしていい暮らしができる! そうだ! そうしましょう!」  オレよりしゃべるヤツがいやがる。  世の中、広いなあ。 「悪いこと言わないから、おとなしく引っこみな。うちの先生、気が短いから」 「年若いご婦人と坊ちゃんのふたり連れじゃ、行く先々いろいろ不都合もおありでしょう。金なんていくらあっても困るもんじゃあない。ここはどーんとあたしに任せてごらんなさい。王さまの馬番となりゃ、金も名誉も身の安全も、みぃんな手に入るんですぜ。こんないい話、ほかにありませんよ。王さまの馬番! ね? 気分いいでしょう?」  あーあ、地雷踏んじまった。  光が走った。  商人の喉元に長い刀身が当てられた。  動じなかった。そっと刀身を眺め、ご執心の馬上の主に笑い返した。 「この剣! この剣も値打ちものですな。この刃先! 手入れがよく行き届いていらっしゃいますな。いやあ、相当の達人とお見受けしました。すばらしい! 明るいところでよく拝見させてくださいよ。ご婦人にはちょいと重たすぎるんじゃありませんか? 手ごろなモノを探してきてさしあげましょう! 代わりに、これをあたしに預けちゃくれませんか。いやいや、もちろん差額はたっぷりお支払いしますとも。これなら、買い手は山ほどつきます。思いきり高値で買いとらせましょう。もしかして、王子さまご本人がお買いあげになるかも知れません。いや、しかし、これほどの剣の使い手となると、見当もつきませんな。強いて言うなら、昔、あたしが隣の国で見かけたきっぷのいいお嬢ちゃん、あの子が大きくなってりゃ、使いこなせるかも知れませんねぇ。そういえば、この馬とよく似た葦毛に乗って……」  商人は急にぎくりとして、リュートの顔に見入った。 「もしや、もしやと思いますが、ラノックの街で、ぶどう摘みの娘さんを助けた女剣士のお嬢ちゃん?」  リュートは剣をひいた。 「ヒルブルークの宝石商か」 「ああ、やっぱり! それならそうと早く言ってくださいよ!」 「先生、知り合い?」  ヒースが訊ねると、リュートはうなずいた。 「こう暗くなくちゃ、きっとひとめでわかったんですけどねぇ。あのときのお嬢ちゃんなら話が早い。貸しを返してもらえませんかね」  リュートは答えなかった。 「借りがあっちゃ、そちらも寝醒めが悪いでしょう。相手がお嬢ちゃんとあっちゃ、あたしもムリは申せません。そこで、だ。仔馬をくれるというのはどうで? ご心配なく、あたしが種つけは世話しますよ。これで貸し借りはナシだ。どうです? いい話でしょう!」  ダメだ。  葦毛が発情するのを見たことがない。  外見にはわからないが、おそらく去勢されているのだ。  なぜって?  いつでも使えるように。  先生はそうとうシビアなとこで育ったんだろう。  だが、わざわざ教えてやる義理はない。  ヒースは黙って事のなりゆきを見守った。 「あたしはね、お嬢ちゃんにもうけ話を持ってきたんですよ。何ひとつ損をさせやしませんよ。なんたって、あたしゃ、お嬢ちゃんにほれこんでるんだ。こうして再会できたことだって、うれしいんですよ。この国に逃げこめたのだって、あたしがお触れを先んじて教えてさしあげたからでしょう?」 「何に追われている?」  リュートが口を開いた。 「そちらもスネにキズ持つ身ではなかったか」 「それとこれとは……」 「己が逃れるために葦毛が要るのだろう? 預けたが最後、もどらぬことはわかっている」 「いえいえ、よもやそんなことは……」 「あいにく、この馬は私のほかは乗せない」 「またまたぁ、あきらめさせようったって……」 「先生はウソをつかねぇよ」  ヒースは口をはさんだ。 「あんたとちがってな。そいつ、オレが近づくだけでにらむんだぜ。餌だってまともに喰ってくれやしない。それより、何から逃げようってんだい? 先生は腕がたつし、相手と金によっちゃ相談にのるぜ」  用心棒でひと稼ぎできるかも。  いよいよ、オレも剣デビューか。  ようやく稽古は棒術や弓から剣に移ったところだ。実戦で試してみたい。 「向かい討てるような相手じゃございませんよ」  商人の顔に皮肉な笑いが浮かぶ。  目から愛想の色が消える。 「よもや、こんなところでかち合うとはね。お嬢ちゃん、あんたも気をつけなせぇよ。さっき、そこの店から出たヤツが、その葦毛をさんざん眺め回してどっかに消えましたがね。もしや、タレコミ屋かも知れませんぜ。酒を買う金欲しさに、そういうヤツはどこにでもいるもので。我らが祖国のお姫さまがご自由に出入りなされば、歓迎したくないお客人もうごめき出すわけで」 「隣国の間者がいると?」 「お尋ね者は注意するに越したことはないと。おやおや、また貸しを作っちまったかな」 「王子たちはどこにいる」 「一昨夜は西の街にお泊まりだったとか。今ごろはレンフィディックにもどられる途中だそうで。仲間うちでは、そういう話でしたけどねぇ」  リュートが何かを商人に放った。 「なんですか? 財布? はした金じゃゴマかされませんぜ」  商人はニヤニヤ笑いながら財布を開けた。  凍りついた。 「なんですか、これは」 「石だ。大金を運ぶのによいと言ったのは、誰だったかな」 「こんな大金、いったいどうしたんです」 「稼いだのさ」  得意そうにヒースは言った。 「あんたみたいに汚い手は使ってないぜ。まっとうな金さ。オレたち腕はいいんだ。ま、これで貸しはチャラな」 「ありがたくちょうだいしときますよ」  商人は何度も財布の重さを確かめた。 「借りができましたな。次にお目にかかったときには、きっと返しますよ。馬と剣の話もそのときに。ところで、この坊ちゃんはどうしたんで。髪が真っ白じゃないですか」 「よけいなこと訊いてんじゃねぇぜ。とっとと消えろ。でなきゃ、気が変わってそいつをとりあげちまうぜ」  暗がりでは色ははっきりしない。だが、金髪だと教えてやる筋合いもない。 「そりゃあ、たいへん」  商人はひやかすように笑い、手綱を引いた。 「次の機会まで預けときますよ、あたしの馬と剣」  馬首を変え、駆けだした。 「誰だい、ありゃ。貸し借りがどうの、馬がどうのってうるさいヤツだな」 「おまえに言われては終わりだな」  リュートは苦笑した。 「あれだけの大金、もったいねぇな。先生、気前がよすぎるよ」 「あぶく銭だ。どうせ身につかぬ。それに、あの男には借りがある」 「あの詐欺師に?」 「髪や肌を染めることも、手配が回っていることも、あの男に教えられた。今、また、あの国の者が来ているとも」 「ウソかも知れないぜ」 「あの男も私も、たぶん敵は同じなのだろう。ならったほうがいい、この街を出よう」 「来たばっかりなのに」 「おまえは来なくともよいのだぞ。いや、私と一緒のところを見られている。念のためだ。髪を染めなさい」  リュートの染料では明るすぎた。炭をまぶしてどうにか明るい栗色におさめる。 「多少の汗はいいが、あまり濡らさないようにしなさい。混ぜものをした分、ノリが悪い」  街を抜けて、南東へ向かった。王都レンフィディックとは逆の方向である。 「隣の国じゃ、黒髪は殺せってお触れが出たんだろ?」  馬車を葦毛と並べながら、ヒースは訊いた。 「そンとき逃げたのはわかる。でも、今度はなんで逃げるんだい? これじゃまるで、黒髪のお触れは、先生をねらって出されたみたいじゃねぇか」  笑い飛ばしてくれよ。  しかし、答えはなかった。  ヒースは解した。 「先生、何やったんだい? 敵って、誰だい?」 「私と一緒にいると、ロクなことがない。おまえはどこかで別れて……」 「先生のかあちゃんのことだから、どっかの悪党を敵に回しちまったんだろ? まったく親子そろって要領が悪ぃんだからな」  ヒースは終いまで言わせなかった。 「おまけに、あんな詐欺師に儲けをやるなんて。安心しな。オレの分が残ってる。きっと役に立つから」  前の街で用心棒をやり、誘われてバクチに加わった。ヒースはそこそこに当たったが、リュートは一発で大穴を当てた。 『金貨は重いな』  早々に石に替えた。 『いいか、ヒース。ざくろ石は色合いと透明度が命だ。ごらん。これは少し淡いだろう。こちらには混じりものがある』  たっぷりと石の講釈を受けた。  ヒースの稼ぎは少なかったから、現金のままとりおいた。  急ぎの旅となった今は、換金する間も惜しい。現金を手元に残したのは正解だった。  東南の街にたどりついたのは翌朝だった。 「馬を休ませよう。この先は、少し眠りなさい。馬車は私が操るから」 「先生が寝ろよ」 「寝ている間に置いていかれるとでも?」  リュートはからかうように笑った。  ヒースは少しホッとした。  先生にも、余裕が出てきてる。  馬車から馬を外し、飼い葉と水をやる。  馬小屋の外は、これといって変わり映えはしない  忙しげに馬車や人が行き交うだけだ。  リュートが大きなサンドイッチとスープを運んできた。 「屋台でようすを聞いた」 「どうだった?」  大口でサンドイッチに食らいつくと、たちまちむせた。ぬるいスープで飲みくだす。 「どこかの貴族が大行列で通ったばかりだとか」 「ヤバいんじゃねぇの?」  咳きこみながら答えると、リュートは少し考えこんだ。 「街は避けたほうがいいな。どこに間者が潜むか知れぬ。飼い葉を買いこんで、静かなところでほとぼりが醒めるのを待とう。髪も染めていることだし、顔見知りでもなければ、私に気づくまい。絵姿ひとつないのが幸いしたかな」  先生って、金持ちだったんだな。  ヒースは思った。  絵姿や銅像なんか庶民にゃ縁がねぇぜ。 「絵姿といえば、変わった絵師がいたな。数えきれぬほど、母を描いた。とりあげられ、決して日の目を見ることはないのに。ただ描けることが喜びだと。母はあきれていた」 「とりあげられたのに、描いたの? 何枚も?」 「それだけ母に惹かれたのだろう。珍しいことではない。大勢に慕われ敬われる、母はそういう人だった」 「そうじゃなくてさ。オレなら、描くのをやめさせるよ。とりあげる前にさ。でも、描かせておいたんだろ? じゃ、できた描いた絵は、どうしたの」  リュートは口をつぐんだ。  唇をひき結ぶ。 「急ごう」 「どうしたの?」 「絵を間者にバラまいたとしたら。私の面は割れている」 「でも、それはかあちゃんの絵なんだろ?」 「私は母似なのだ」  飼い葉と水を買って、馬車に積みこんだ。  街を出て、草地を走った。  ヒースはため息をついた。 「この辺で追いつかれたらお終いだな。隠れるとこがねぇや」  隣でリュートが答えた。 「敵も同じだ」 「先生、こっちって、ガーダの方角だよね」 「ああ」 「先生に似たヤツらがたくさんいるとこだろ? 紛れこもうって魂胆かい?」 「あの街にはできるだけ行きたくなかったのだがな」 「また、婚約者でも住んでんの?」  リュートは少し笑った。 「伯父が」 「例の、役に立たない親戚かい?」 「迷惑はかけたくない」 「姪っ子ひとり守れないの? 先生の親戚なら、腕っぷしぐらい強いかと思ったのに」 「伯父は強いぞ。人望も厚い。気さくで陽気で、おまえに似ているかな」 「その役立たずが?」  声が裏返った。  リュートは笑い声をたてた。 「少し寝ていなさい。疲れたろう」 「先生の伯父貴は、なんで先生を助けてくれないんだい?」 「助けようとするかも知れない。そうなれば害を招くことになる。いろいろ事情があってな、私が生きていてはマズいのだ」 「立ち向かわなきゃダメだよ。だって、先生、隣の国にいられなくて、こっちに逃げてきたんだろ? なのに、敵は、また追っかけてきたんだろ? キリねぇぜ。たたきつぶさなきゃ」 「もし、争いになれば、多くの罪なき血が流れるだろう。地は荒れ、街は廃れ……。よい知恵があるなら、教えてほしいものだ」  話がデカくなってきたぞ。  ヒースはツバを飲みこんだ。 「いっそ、私がいなければ済むのだが、母は生きろと言い残したのでな。しかし、母でさえかなわなかった相手に、どうしろと?」  リュートの口元に皮肉な微笑が浮かんだ。  ヒースはなんと言えばいいのかわからなかった。  剣が強くて、頭がよくて慕われるリュートの母がかなわなかった敵。やはり強くて人望のある伯父でも、逆らえば死人が出るという。そこまでして、敵は、リュートを殺すという。  オレがどうにかできるわけないよ。  いや、そんなこと問題じゃない!  ヒースは思った。  先生のかあちゃんは死んじまった。死人には、もう、なんにもしてやれることはない。  でも、先生は生きてる! まだ、手遅れじゃないんだ! 「先生は先を読みすぎるんだよ。状況なんかコロコロ変わるんだぜ。とにかく、悪いのは先生の敵とかいうヤツ。そこンとこ、忘れんなよ」 「それはそうだが……」 「まったく、先生はオレがついてないとダメなんだから!」 「おまえは、あやつを知らないから、そんなことが言えるのだ」 「じゃあ、どんな人なの」  リュートは少し考えこんだ。 「頬にキズがあってな」 「どっちの頬に?」 「左に。横暴の限りを尽くして、被ったのはそれだけだ。誰も止めることはできない。いや、唯一止められる存在がある。しかし、それはとんでもなく愚鈍で無関心で利己的で、家族を持つ資格はなく、残虐で……」  ため息がもれた。深く、長かった。 「だのに、仇を討つなとは。母上も残酷なことをおっしゃる」 「じゃあ、なおさら、オレが要るな!」  ヒースは明るく言った。 「ひとりよりふたりのほうがいいよ。敵が強いんならなおさらさ。オレ、頑張るからさ」 「きっと、いつかは殺されるぞ」 「ほら、すぐ暗くなる! よかったな、一緒にいるのがオレで。オレときたら、歌も歌えるし、話は上手いし、剣もできる!」  リュートは苦笑した。 「始めたばかりだろう。いずれにしろ、おまえには手を汚してほしくないな」 「また、それだ」  ヒースはつまらなそうに辺りを見回した。 「じゃあ、ちょっくら寝るかな。あれ?」  後方の空が黄色に染まっていた。 「先生」 「ん?」 「空ってさ、青か赤だとばっかり思ってた。黄色くなることもあるのな」  リュートがすばやくふり向いた。  馬車が止まる。 「どうしたの? 故障?」  リュートは御者台から飛び出し、馬を外す。 「なにしてんだい」 「車は捨てる」 「だって、飼い葉は? 食い物だって、薬だって……」 「空が黄色に染まるのを見たことがある」 「不吉な前兆なの?」 「数多の馬が土埃をあげているのだ。ここで追いつかれては、逃げ場がない」 「じゃあ、先生は馬車ン中に隠れて。オレがうまくやりすごすから」 「聞いてなかったのか? たったひとり始末するために、国中の黒髪を絶やす相手だぞ」  なぶり者にされる。  あわててヒースは馬を解くのを手伝った。 「この先に、森がある」 「見えねぇよ」 「街で聞いた。馬で半日だ。そこまで走るぞ」  リュートは葦毛に飛び乗った。腹を蹴ると、風のように駆けた。  ヒースの栗毛は後に従ったが、みるみるうちに引き離された。  生来の足の差に加え、馬車をひいていたのだから、当然である。  リュートは、先へ行っては待っていた。  背後の土煙は大きくなり、しまいには黒い人馬の影さえ見えるようになった。  とても森までもたない。 「とりあえず、あそこに逃げこもう」  リュートが示す先に、小さな林が見えた。 「あんなにちっちゃいの! もっと先に行こうよ。まだ、あんな遠くなんだもの。なにもできやしないよ」  林に向かう間も、影は大きくなっていった。  栗毛の脚には力がなかった。 「緩めるな!」 「限界だよ! 馬がダメになっちまう」 「蹴れ! 射程に入る!」 「まだ離れてるよ、だいじょうぶ」  人馬の群れから、空に何かが放たれた。  大きな弧を描いて、地面に何かがつき立った。  栗毛が驚いて、後足立ちになった。  ふり落とされる! 「ヒース!」  リュートが栗毛のすぐ隣につき、手を伸べた。 「おいで!」  どうやったかは、わからない。  馬の背か腹を蹴って、ヒースは飛んだ。夢中でしがみつくと、腕が力強く体を引きあげた。  気づくと、リュートの胴にぶらさがっていた。  栗毛は道を外れ、草地に入った。  やわらかなぬかるみが脚をとらえる。第二波の矢がふり注ぎ、串刺しにされた馬は沈んでいく。  底なし沼だ!  しまいまで見ることはなかった。  葦毛は林の中に入ったのである。  リュートはようやく速度を緩め、ヒースを改めて引きあげた。初めてすわる葦毛の背は、太く、安定感があった。  葦毛が不満そうに鼻をならし、体を揺すった。 「先生、さっきの、なに?」 「弩《いしゆみ》だ。大きな弓を地面に据え、数人がかりで引き絞る。私の母も、あれでやられた」 「林に入っちゃえば、もう使えないね?」 「ここで決着をつけねばなるまい」  林を出れば、また弩で狙われる。 「狭い道だ。一度に一騎か二騎しか通れぬ。ひとつひとつ向かい討つしかあるまい。  林の中には、小さな沼が点在していた。底なし沼かも知れない。道を外れるのは危険だ。  それは敵もまた、道から外れないということだ。囲まれてハチの巣にならずに済む。 「ここからは、ひとりで行きなさい」 「オレも戦うよ!」 「おまえが乗っていては、葦毛が自由にならない。かと言って、馬なしでどうやって戦う? 先に行って、どこかに隠れていなさい」 「隠れるって、どこにさ?」 「探しなさい」 「相手から馬をぶんどりゃいいだろ。それなら……」 「未熟者が足手まといになるだけだ。おまえの腕は、よく知っている」 「でも……」 「ジャマするな!」  声は静かで、鋭かった。  林の中に蹄の音が轟いた。 「死んじゃダメだよ! オレ、ゼッタイ助けにくるから!」  ヒースは下馬し、奥へと走りだした。  逃げるんじゃない!  助ける方法を探すんだ!  道は曲がりくねり、空気は湿って、うす暗かった。  人を寄せつけないわけじゃない、とヒースは思った。  道幅から推すに、訪れる人は少ない。だが、道は締まって固く、蹄の跡も多数刻まれている。  誰か、いるかも知れない。  ふと、ヒースは思った。  風雨をしのぐ林の中では、蹄の跡が散りにくい。ずいぶん前のものかも知れないし、ついさっきついたものかも知れない。  人の声が聞こえたような気がした。  風の音か?  いや、人の声だ!  胸が高鳴った。  足を速めた。  いきなり、視界が開けた。  青い空から日差しが降り注ぎ、広場を明るく照らしていた。人々は身なりがよく、フリルだの、刺繍だのが艶やかだった。男たちは朗らかに談笑し、さながら別世界だった。  周囲の木々には馬がつながれている。  なかでも目を引いたのは、たてがみとしっぽが白い、金毛の馬だった。  ごていねいにも、槍までそばに立てかけてある。  これなら、先生を手伝える!  槍なら、棒と違わないだろう。馬上で剣は使えないが、棒なら使える!  ヒースは馬を解き、槍をつかんだ。 「賊だ! 賊が出たぞ!」 「盗人だ!」  悲鳴と怒号を後にして、道を引き返した。  リュートは曲がり角に陣どっていた。  木々が弓の攻撃を防ぎ、狭い道が敵の数を限らせた。  リュートの手には、長大な剣が握られていた。鍛えられた刀身は鈍く、刃先は鋭く光った。飢えたように急所に吸いつき、命を飲み干していく。  さばいている。  ヒースにはそう見えた。  まだ、子どものケンカのほうがマシだ。なぜって……。  目の光だ。  ヒースは思った。  先生の目には生気がない。  相手を打ち負かそうとか、生きのびたいとか、何か意志があるわけではない。ただ、機械的に屠っているだけだ。 「先生!」  叫ぶと、リュートの目に光が走った。  敵のひとりが身をひるがえした。ヒースに向けて剣を突きだした。  時の流れが緩やかに感じられた。  敵の勝ち誇ったような顔、細い剣、自分の意志とは関係なく突きだした槍、練習通りの動き、首を貫く穂先、乗り手を残して道をそれる馬。そして。  敵は道に横たわり、槍は落ちて折れていた。  血の匂いがした。 「ヒース! ヒース!」  肩を揺さぶられ、ふと気づくと、リュートが心配そうにのぞきこんでいた。 「先生、オレ……、オレ……」  敵の背中はパックリと割れていた。リュートが、力任せに剣で叩きおとしたのであろう。 「オレ……」  手を見るのが怖かった。真っ赤に血塗られているような気がした。  震えた。  リュートはその両手を握った。 「ケガはないな? おまえのおかげで助かった」 「オレ……、オレ……」  刺した感覚が残っている。肉を貫く鈍い抵抗感。入っていく穂先。見開いた敵の目。勝ち誇ったままの笑み。  怖い。 「それにしても、おまえが呼んだ援軍は……。豪勢なものよ」  リュートが苦笑した。  見ると、敵の姿はとうになく、代わりに身なりの立派な連中に囲まれているのだった。 「馬盗人め!」  偉そうな男が怒鳴った。 「タダでは済むまいぞ! そこの女! おまえも同罪だ!」 「先生、どうしよう。逃げる?」  リュートは首をふった。 「もう囲まれている」 「強行突破だよ。先生の腕なら……」 「斬れと?」  リュートが苦笑した。  ホッとした。  その目はいつも通りやさしかった。決して人斬り機械ではないのだ。 「馬から下りろ! 連行する!」  下馬すると、リュートはヒースの肩を抱いた。 「おまえが無事でよかった」  胸に熱いものがこみあげてきた。    十五 逃亡  夢を見た。  内容は思い出せなかった。  大声を出したらしい。  侍女が薬湯を持ってきた。 「夢魔払いでございます」  迷信じゃないか。  飲まずに捨てた。  朝食をとる気分ではなかった。砂糖とミルクをたっぷり入れた寝醒めの茶さえ、飲む気になれなかった。  どうか一口だけでも、と侍女が泣いたけれども、うち捨てた。  上のヤツに叱られるのがイヤなだけじゃないか。心配なんかしてないクセに。  学友たちのおべんちゃらは耳に入らなかった。午前の講義ときたら、ひどいものだった。 「イリーンの東には広大な砂漠が広がり、交易人だけが命をかけて渡ってくるのです」  そんなの、どうでもいいじゃないか。  剣術も散々だった。 「突きだしたとき、左手の形はこうでなければいけません」  作法がなんだというのだ。自分には必要ない。決闘など、バカがすることだ。  食欲もまったくなかった。口元にスプーンを運び、パンをちぎってみるものの、何かを入れる気にはならないのだった。 「殿下、お体がすぐれないのですか」  ヴァンストンが訊ねた。 「ため息が多うございます」 「別に。何もかもイヤ気がさしてるだけだよ。この世は灰色だな。王子なんか義務に縛られているだけで、自由も何もない」 「まったくでございます。面倒なことはすべて上の者に押しつけられるのですから」 「わかったようなことを言うな!」 「申しわけございません」  午後はもっと悪かった。  法律の講義は何度も質問され、ひとつも答えられず師を失望させたし、ウルサ語の授業ときたら、ぼんやり窓の外を眺めるだけだった。 「どうしたのだ」  夜に、父王が部屋に訪ねてきた。 「具合でも悪いのか。食事にはほとんど手をつけていないという話だが」 「そのような御用向きでいらっしゃったのですか?」  イラ立ちを隠さず、エドアルはトゲトゲしく訊き返した。 「いや」  カルヴは気弱に笑い、そばにあった椅子に深々と腰をおろした。 「先日の、リュウインの王女だがな」 「私の婚約者は姉上だけです! あんな女とは結婚しませんよ!」  先回りして言った。 「姉上と叔母上をお助けするため、ひいてはこのパーヴの安泰のため、私のリュウイン入りはあったはずです。しかし、姉上と叔母上亡き今、私ひとり乗りこんだところで、あの国を変えられやしません。よもや、父上、私にあのイタチを退治しろとは言いますまいな?」 「あの妹のほうはどうだ? 仲がよさそうに見えたが」 「論外です!」  エドアルは怒鳴った。 「幼くて、気まぐれで、何を考えているのか、さっぱりわかりません! 平気でとんでもないことをやらかすし、その自覚も反省もないし、好き勝手に人をふり回すし、生意気だし……」 「すまぬ。それほど嫌っておるなら、勧めはせぬ。そうだな、リュウカには賢さでも勇敢さでも劣るな。何より、容姿があれでは……」 「見かけは関係ありません!」 「毎日見る顔だぞ。あの赤イタチめにそっくりの大きな目に大きな鼻……」 「似たのは本人の罪じゃありません! それに、そっくりなのは形だけで、中身がまるで違います! 父上は、あの黒目がちな目が、何でもおもしろがってよく動くのをご覧にならなかったのですか? 話を聞いて、損得にとらわれない純粋な心を持っているのに気づかれなかったのですか? あの人は王女としては幼く教養も足りないけれど、心根は決してイタチや姉姫のように腐ってはいません!」  父王はからかうように笑った。 「ずいぶんと買っておるのだな」 「言われのない非難は、放っておけないだけです。あんなふうでも、あの人は一応レディですからね」 「行く末が心配だな」 「私の関与するところではありません。あの人は他国の王女で、あのイタチの孫です」 「いわば、レイカとリュウカの仇だな」 「あの人は関係ありません!」 「イタチの一族は根絶やしにするのではなかったか?」 「あの人は別です!」 「たとえば、攻め入ったとき、そんな理由が通用するかな? ひとめでイタチの身内とわかる顔だ。言い逃れするヒマもあるまい」 「関係ないと言ったら関係ありません! 叔父上が厳しく部下に申し渡してくださればだいじょうぶです!」 「どうかな? アレのそばには、ほれ、レイカの元侍女たちがおるからな。ひとりの例外も認めるなとそそのかすかも知れん」 「それは、あの人の人柄を知らないからです! 知ればきっとわかってくれます! 私が直接説明しに行ったっていい!」  カルヴは声をあげて笑った。 「何がおかしいんです! 父上!」 「あの娘は幼い。いわば白布だ。イタチは染めるのを怠ったのだな。今後次第で何色にも染まろう」 「とんでもない! あんなじゃじゃ馬! 生意気で怖いもの知らずで乱暴で、何をしでかすかわからない危ない人ですよ! 少しそばにいるだけでとばっちりを受けるんです。父上はご存じないから、そんなきれい事をおっしゃるんです!」 「そなたは、けなしたいのか褒めたいのか、どちらなのだ?」 「どちらでもありません! 父上がおかしなことをおっしゃるから!」  カルヴはため息をついた。 「聞きなさい。この国はわしの退位後、ふたつに割れるだろう」  とうにわかっている。  兄のセージュは王太子だ。父王の正統な後継者である。しかし、それは王太后の強力な後押しによるものだ。  反王太后派は自分を推すだろう。一時は勢力を弱めたものの、王太后が孫のセージュを溺愛している間に、反王太后派は回復してきている。影にはウルサもいるようだ。  祖母は疫病神だ。  だが、誰にも追い出すことはできない。 「姉上さえ生きていらしたら」  エドアルはつぶやいた。  リュウカなら、あの老女の眼に打ち勝てるに違いない。 「繰り言を言ったところで始まらぬ。国が割れぬために、諸外国につけ入るスキを与えぬために、どうすればよいか」 「それを考えるのは、父上のお役目でしょう!」 「セージュには東国の姫をとらせる。交易に勢いをつけるためにな。そなたには西か北を抑えてもらいたいのだが、北は渋るだろう。前例があるのでな」  先王の弟に嫁いだウルサの姫は、夫殺しの末逃亡した。とは、表向きの話。  ウルサは王太后を憎んでいる。 「では、リュウインと? しかし、父上、私ひとりで、あのイタチは抑えられませんよ。叔母上と姉上がいらっしゃれば話は別ですが」 「こちらには、レイカに仕えた侍女がおる。あちらに潜む反勢力が寄ってこよう。そなたは内側からあの国をかき乱せ。我らを攻めるヒマを与えるな」 「うまく行きそうもありませんね。あの王女が、私の言うことなどききますか?」  婚姻など、しょせんは政略的なものだ。リュウカが死んでからは、形式的なものとわりきっている。  あんな鬼女でもかまいやしない。目的さえかなうものなら。 「姉姫はムリだろう。しかし、妹姫はどうかな? 母親や祖父に毒されておらぬ。レイカの侍女をつけて、こちらの色に染めてしまえばよい。なに、そなたの役目は国を治めることではない。乱すことだ。跡取りを相手と定める必要はない」  エドアルは黙った。  イタチに思い知らせてやりたい。翻弄したら、どんなに気分がいいだろう。  祖国のためにもなる。  いや、むしろリュウインのためではないか? あのイタチに泣かされてきた人々と手を組むのだ。一矢報いさせてやるのだ。  しかし、あの姫を巻きこむのか? 企みごととは無縁な、単純でまっすぐな姫を?  いや、だいじょうぶだ。  あまりは頭はよくないようだもの、内緒にしておくだけでいい。あとは、叔母上の侍女たちがうまくやってくれるさ。 「父上の命とあらば、喜んで」 「では、さっそく使者を立てよう」  東の国境から、叔父が呼びよせられた。 「腕は上がったか?」  国王との面会後、辺境の常勝将軍は訊ねた。  開放した窓から心地よい風が入り、中庭の緑が目に鮮やかだった。  熱い茶とケーキは満点のデキだった。  こんなお茶なら、あの人も喜ぶだろうな、とエドアルは思った。 「遠方より、ご足労おかけします」 「兄上のやることはまだるっこしい。とっとと攻めて潰せばいいんだ。王も后も王女も宰相もとりまきも、まとめて首を刎ねてやるのに。空いた席へおまえを据えれば、話は簡単だ」  大口を開けて、ケーキを放りこんだ。  この人は宮廷向きじゃない。  戦争をする時代でもない。  かわいそうに。時代遅れの野蛮人なのだ。 「リリー、なくなったぞ」  呼ぶと、ブルネットの婦人が奥から現れた。 「そんなにガツガツしたら、帰りまでもちませんよ」 「また焼けばいいだろ」 「簡単に言いますけどね。こちらじゃ材料が手に入らないんです」 「ケチケチするなよ。かわいい甥っ子に料理上手な愛妻の料理を食わせてやりたいだろ」 「殿下がおひとりで平らげてるんでしょう。第一、いつご結婚なさったんです!」  リリー・アッシュガース。  名門アッシュガース家の養女で、王弟の愛人におさまった女性だ。  母よりいくらか年上のはずだが、若く見える。  愛人だからな。せいぜい着飾って若作りしていればいいさ。  リリーはケーキを置くと、奥に引っこんだ。 「相手の王女は、どんなだ?」 「どんなと申されましても」 「美人か?」 「イタチによく似ています」 「そりゃあ……」  叔父は顔をしかめた。 「毎日見る顔だぞ。だいじょうぶか?」  父と同じことを言う。 「関係ありません」 「料理は?」 「一国の王女がすることではありません」 「義姉《ねえ》さんはするだろう」 「ただの趣味です」 「では、相手の王女の趣味は?」 「存じません」 「ホレた女の趣味も知らないのか?」 「何をおっしゃいますか!」  エドアルは怒鳴った。 「イタチの孫ですよ! 私はただ国を守るために婚約するんです! それが王族たる者の務めです!」  皮肉だった。  卑しい愛人などにたぶらかされ、叔父は務めを果たしていないのだ。この年にして正妻をもたないとは、なんと恥知らずか。 「形だけの夫婦なんか、ロクなもんじゃないぞ。あのバアさんがいい例だ。おかげで、おふくろも兄たちも殺された。兄上も前の后と離縁させられ、レイカは追いだされた。そのレイカだっていい例だ。嫁ぎ先で居場所をなくし、殺された」 「持論はけっこうですが、私まで巻きこまないでください」 「リュウインとの婚姻は反対なんだ。レイカの二の舞はもうごめんだ。それに、おまえは剣も下手だし」 「暴力など頼りにするものではありません。父上がおっしゃいませんでしたか? あの王女には我が国への忠誠を植えつけるのでしょう? そのために侍女をつけると」 「ホレた女と一緒になるのはいいぞ」 「ご心配なく。もしそんなご婦人が現れましたら、叔父上にならって愛人にでもします」 「生意気言うな」  叔父の声が怒気を帯びた。 「叔母上と姉上がご無事ならよかったんです!」  エドアルも負けじと怒鳴った。 「こんなことになったのは、どなたの責任です! 姉上をしっかりお守りしてくだされば、あの人と結婚なんか! あの人はおとなしいそこらの姫とは違うんです! 思い通りになんかなるものですか!」  リズの顔が浮かんだ。笑ったり泣いたり、表情がくるくる変わる。 「あの人は、こんな謀《はかりごと》に向く人じゃないんです! ひどく変わっていて、手のつけられないお転婆で、わからず屋でダダっ子で、とにかく、どうしようもないんです。まったく子どもだし……」  叔父がニヤついている。 「なんですか! 何がおかしいんですか!」 「リリー、支度してくれ。出かけるぞ」  叔父は立ちあがった。  去りざまに、エドアルの髪をかき回した。  ムカついた。  いつまでも、子ども扱いしやがって!  冷めた茶は、悔しいことに、まだ旨かった。  ガーダ公が帰還したのは、二シクルも経ってからだった。  本来なら、一シクルの行程である。  不都合でも生じたのだろうか?  エドアルの胸中は穏やかでなかった。  まさか……。  栗色の巻き毛の美少女の顔が浮かんだ。  あちらのほうと縁談がまとまったなんてことはないだろうな?  先方は、アイリーン王女とのほうが乗り気だったのだ。考えられる。 「ここにいたか。今、兄上に話してきたところだ」  中庭に面した廊下で、叔父が手をあげていた。  その腰の辺りで、女の子がうろうろしている。 「エリザ姫!」 「アル!」  リズが手を振った。 「どうしてこんなところに……」  リズはにこにこと笑った。 「あなたの叔父さまって、すてきね。私、大好きだわ」  まさか!  不吉な予感がした。  年若い娘が高位の老人に嫁ぐ。珍しい話ではない。  叔父には愛人がいるが、正妻はない。王弟の元に、隣国の姫が嫁いでも……。  目の前が真っ暗になった。  天真爛漫な笑顔を見て、甥にやるのは惜しくなったのかも知れない。日ごろ、まんまと愛人の座におさまったやり手ババアを見馴れているのだもの、さぞかし新鮮だったろう!  野蛮人だけど、女子どもに人気のある人だ、世間知らずの小娘ひとり、手なずけるのは造作もなかっただろう。  そして、ジャマな甥には、残った、あの鬼のような姫を押しつけて……。 「叔父上! あなたという方は!」 「怒るな。この子を連れてくる件でもめて遅れたんだ」 「あたり前です! とんでもないことを、よくもしでかしてくれましたね!」 「アルにも見せたかったわ」  リズが笑った。  その笑い声までもが憎らしい。 「おねえさまの顔ときたら! 顔の半分がひきつっちゃって、お医者さままで呼んだのよ。よっぽど気に入らなかったみたい。私がいるとますます悪くなるっていうから、落ち着くまで外に出されちゃった。でも、あなたに会えてうれしいわ」  ひきつりたいのはこっちのほうだ。  リズがエドアルの手をとった。 「ありがとう。私を選んでくれて。早くお礼を言いたくて、おじさまに探していただいたの」 「何の礼です?」  縁結びの礼か? 「決まってるじゃない、婚約よ」  ほら、みろ。 「お父様はイヤな顔なさったんだけど、あなたの叔父さまと叔母さまがうまくまとめてくださったの」 「叔母なんかいません!」 「あら、ごめんなさい。みんな、奥方さまって呼んでたから」  リズは照れたように、チラ、と赤い舌を出した。  息が詰まった。  鼓動が早くなる。 「みんな言ってたわ。王さまが許してくれないだけで、リリーは正真正銘の叔父さまの奥方さまだって。私もそう思うわ。それに、前の王妃さまの侍女だったっていうじゃないの! 私、たくさんお話うかがったわ。あら、アル、顔が赤いわよ。熱あるの?」  ガーダ公が笑った。 「探しものはみつかったようだし、そろそろ退がってもよろしいかな、お姫さま」 「もう行っておしまいになるの?」 「リリーが妬くからな」  いけしゃあしゃあと! 「まったく不誠実な人だ!」  ガーダ公が去ると、エドアルは憤慨した。 「それって、まさか叔父さまのこと?」 「あなたも、あんな人を信用してはいけません。年上で世間馴れしているから、錯覚しているだけだ」 「誤解しているわ。叔父さまも叔母さまもすてきな方よ。はじめはイヤな人だと思ったけど。特に叔母さまは、私のこと誤解してらしたし。でも、私が先の王妃さまが好きってわかってからは、それはもうよくしてくださって。いいお友だちになったわ」 「それはよかったですね!」  正妻と愛人が仲良しだなんて前代未聞だ。破綻するに決まってる! 「お姉さまがよくなるまで帰れないの。一緒にきた侍女がうるさい人で、イヤになっちゃう。それにお伴の近衛も、なんだか目つきの悪い人たちばっかりなの。でも、あなたと一緒にいられるのはうれしいわ。お姉さまなんか、一生治らなきゃいいわ」 「ひどい人だ!」  エドアルは息を吐いた。  叔父の婚約者なのに、ずっと自分と一緒にいるだと? 「血も涙もない。こんなことなら、姉君を選べばよかった!」 「まあ!」  リズは目を丸くした。 「あなたなら、私の気持ち、わかってくれると思ったのに!」 「わかりませんね! サイテーだ! もう、あなたの顔なんか見たくもない!」  エドアルは言い捨てて立ち去った。  自分は不幸だと思った。  世の中に、これほど不幸な人間は、ほかにあるまい。  近衛のひとりが、剣の舞を披露した。 「さすがですね。伯父君が剣の師範とはダテじゃない」  ヴァンストンが隣で言った。  エドアルの耳を、声が素通りした。  気持ちが晴れない。  頭上には青空が広がっているのに、心は周囲の森のようだ。暗くて湿っぽい。  隣国の姫が叔父と婚約しようと、どうでもいいではないか。  目的は、リュウインを混乱させ、来る日のパーヴの内輪もめに干渉させぬこと。  あの叔父ではオツムに多少問題はあるが、役目を果たせないほどではないだろう。  それどころか、エドアルは余った手駒である。ほかの役割を担える。パーヴにとっては有利ではないか。  自分だって、あのイタチの親戚になどならずに済む。  姉上の仇だ、忘れるな。 「殿下、そろそろ都にもどりましょう」  いつのまにか剣の舞は終わり、別のひとりが馬の曲芸を披露していた。 「地方の視察は、その、日を改めまして…。人も少ないことですし」  とつぜんだった。  友人と近衛だけで飛びだしてきたのだ。  父王の使いが諫《いさ》めに来たが、追い返した。 「田舎はつまらん」  エドアルはつぶやいた。  ヴァンストンの顔が輝いた。 「そうでしょうとも! では、さっそく都に……!」 「おもしろいことがあるまで帰らないぞ。昨夜の村男の踊りは田舎くさくて見ているこちらのほうが恥ずかしかった。料理は臭いし」 「都にもどれば一流のシェフがおりますし、踊りも……」 「せめて、かわいげのある女性はいないのか? どこの街に行っても、ブスばっかりじゃないか」 「では、すぐにきれいな女を手配します」 「狩りもしよう。これはと思う駿馬にまたがって、鳥やうさぎを……、いや、猪を射よう。熊もいいな」 「では、さっそく手配しましょう」 「旨い鳥獣料理の作れるシェフも欲しいな。そうだ、猪を丸焼きにして……」  ため息をついた。 「やめた。ちっともおもしろそうじゃない。もっと心躍ることはないのか。そうだ、街に出没するやくざ者を捕まえよう。治安をよくするのだ」 「すばらしい。さすが殿下でございます。さっそく、やくざ者を用意させましょう」 「街でかよわい乙女がからまれているところなんかいいな。私が助けるんだ」 「では、さっそく乙女を……」 「ダメだ」  エドアルは深くため息をついた。 「私は剣が得意じゃない。やくざ者なんかに太刀打ちできるはずがない」 「近衛に周りを固めさせましょう。やくざ者を追い払うのは近衛に任せ、殿下は乙女にやさしくお声をおかけくださいませ。乙女はゆえあってお忍びでやってきた、やんごとなき身分の姫なのです。やがて宮廷で再会することでしょう。どのような乙女がお好みですか?」 「おまえなら、どんな乙女がいい?」 「殿下にふさわしい乙女でしたら、まず淑女でなければなりません。お美しく教養があり、由緒正しく人望のある家柄でなければなりません。誰にも愛されるかわいらしい姫君で、しとやかながら心の強いご令嬢です」 「姉上が、まさにそのような方だったなあ」  エドアルはため息をついた。 「やさしく賢く強くて正しい。まことにお美しい方だった。生きていらしたら、迷わずあの方と一緒になるのに……」 「まあ! それは残念でしたわね!」  ヴァンストンの後ろで、聞き覚えのある少女の声がした。 「どうせ私は美人じゃないし、なりあがり者の孫だし、愛くるしくもないわよ!」  少年《・・》が帽子をとった。 「エ、エリザ姫!」  大きな鼻、大きすぎる目。まちがえようがない。 「どうしてここに……」 「アルが冷たいからでしょ! 仲直りできるかと思って、ついてきたんだから!」 「あなたって人は!」 「よくわかったわ! ホントは、私なんかと婚約したくなかったのね! そんなに前の王妃さまの娘がいいっていうなら、出家でもして一生弔ってあげれば!」 「え? あの……」 「大っ嫌い! どうせ一生かなわないわよ! 間に合わせにするんなら、お姉さまにしてちょうだい! きっとご病気もあっという間に治って、喜んで駆けつけるわよ!」 「エリザ姫……」 「もう、友だちでもなんでもないわ! 婚約なんか、破棄してやるんだから! あなたとなんか、ゼッタイ結婚しない!」 「殿下、馬盗人を捕らえました」  近衛が駆け寄ってきた。  エドアルはホッとしてうなずいた。 「詳しく話せ」 「子どもがひとり忍びこみまして、王家の馬を一頭盗みましてございます。直ちに追いかけ、捕らえました。首謀者と思われる子どもの連れも捕らえてございます。いかがいたしましょうか」 「連れてこい」  乙女の窮地は救えなかったけれど、悪党を裁くのは実現しそうだぞ。  ここはいいところを見せて挽回しよう。  顔が緩んで、しまらない。  そうか。私とだったんだ。  叔父上とじゃなかったんだ! 「ざけんじゃねぇ!」  引き立てられてきた少年が、近衛を三人殴り倒した。  強い。  エドアルは腰を浮かした。  小さな少年が、すばやく立ち回った。  声はきれいだが、まだてんで子どもだ。声変わりも始まっていない。  背も自分より一ハンド以上低い。  二、三歳は下だろう。 「先生に手ぇ出すんじゃねえ!」  明るい茶色の髪。粗末でほこりだらけの服。  なんだろう? 違和感がある。 「きれいな眼……」  リズが小さくつぶやいた。  青い眼。  違和感の原因はこれか。 「そのほうが盗人か」  エドアルは、可能な限り重々しく言った。 「罪人は罪人らしく頭を垂れよ」 「あんたが親玉か?」  少年は青い眼で睨みつけた。 「だったら、しっかり子分どもを教育しとけ! オレは盗人さ、捕まえられたってしょうがない。でも、先生はちがう! なのに、なんだよ! 後ろから膝の後ろを蹴りやがるんだぜ! 何度も何度も! 女だと思って甘くみんじゃねえ!」 「そのほうの連れというのはご婦人か? ふむ。確かに感心しないな。改めさせよう」  エドアルは物わかりよくうなずいてみせた。 「だが、その先生とやらが、そのほうをそそのかしたのだろう? 罪を問われるのは必定」 「ちげーよ! オレが勝手にやったんだよ!」 「だとしても、そのほうに対して責任があるのではないかな。弟子の不始末は師の不始末」 「先生は悪くねーって言ってんだろ! このわからず屋!」 「無礼であるぞ!」  近衛が三人、剣を抜いた。 「殿下、罪人は良馬を連れております」  近衛のひとりが近寄ってささやいた。 「狩りにちょうどよいですね」  ヴァンストンがうなずいてみせた。 「盗みの代償にいかがですか? 馬には馬で」  良馬に乗る自分を想像してみた。 「まあ! それじゃ、あなたたちも泥棒ってことじゃない!」  リズの声で想像はかき消えた。 「それより、あの子、すごいわ。かっこいい」  少年はたちまちひとりの剣を奪い、ほかのふたりの剣を蹴り落とした。 「先生を自由にしろ! さもないと……」  少年はすばやかった。  剣を捨て、エドアルの懐に飛びこみ、腰の短剣を抜いて喉元に突きつけた。  リズが悲鳴をあげた。 「あんたには何にもしねぇよ」  青い眼が、リズにウィンクした。 「さあ、先生を放せ」 「退がりなさい」  近衛の人だかりの向こうから、張りのある女の声が響いた。 「おまえは手が早くていけない。退がりなさい」  人をひきつける威厳のある響き。 「ちぇっ」  少年は短剣をしまった。 「こっ、殺せ!」  ヴァンストンが叫んだ。 「王族に刃を向けたのだ! 死に値する! 殺せ! 殺せ!」 「だってさ。先生、どうする?」  少年が不敵な笑みを浮かべた。 「かっこいい……」  リズが小さくつぶやいた。  エドアルの頭の中で、何かがキレた。 「斬れ。斬ってしまえ!」 「大目に見てもらえまいか」  近衛をムリヤリかきわけ、長身の女が現れた。  遅れて、大きな葦毛の馬が追ってくる。  茶褐色の長い髪。黒い眼。異国風の美しい顔立ち。 「前の王妃さま!」  リズが叫んだ。  女が、リズを見た。 「私、信じてましたのよ!」  リズは駆けよった。 「きっと生きてらっしゃるって! やっと会えた! ずっとお慕いしてました!」  女が苦笑した。 「先生、強行突破する?」  少年の手がエドアルの首にかかった。  殺される!  エドアルの背筋に冷たいものが流れた。 「放しなさい。おいで」  女のまなざしが和らぐ。 「ちぇっ。先生はいつも甘いんだからな」  少年は女のそばに飛んだ。  女が少年の頭をなでる。 「エドアル王子殿下。並びに、エリザ王女殿下。ご婚約おめでとうございます」  女が優美に宮廷風の礼をした。 「あ、姉上……」  エドアルはうめいた。  喉が渇いていた。 「生きて……いらしたのですね」  少年が首をかしげた。 「先生? 姉って言ってるけど?」  女が苦笑した。少年を見るまなざしがやさしい。  頭の中が熱くなった。 「退がれ! その方は、おまえなんかが馴れ馴れしくしていい相手じゃない!」  絶叫した。 「その方は我が父王の最愛の妹レイカ姫の愛娘にして、リュウイン王国の第一王女、そしてリュウインの王位第一継承者にして我が従姉、リュウカ姫なるぞ! ひかえよ!」 「へえー」  間延びした声が答えた。 「先生ってお姫だったのか。道理で。納得」  なんなんだ、その態度は!  頭が芯まで熱く痺れた。 「わ、我が許婚《いいなずけ》だぞ! 退がれ!」  笑い声が響いた。 「また、許婚かよ。先生、あんたって、まったく何人許婚がいるんだい?」 「ぶっ、無礼者!」 「無礼はそっち! 婚約したばっかりなんだろ? な、かわいこちゃん?」  あ!  気づいて、エドアルは青くなった。 「ありがとう。でも、お世辞はいいのよ」  リズは少年に笑いかけた。 「オレ、本音しか言えねぇんだ。なあ、先生?」  リュウカは苦笑した。 「エドアル王子殿下、ひとつ頼みがあるのだが」  エドアルは、大急ぎでうなずいた。 「なんなりと!」  リズと少年を得意そうに見やる。 「この子を預かってくれまいか。安全な場所で逃がしてやって欲しい」 「先生!」  少年が真っ青になった。 「面倒に巻きこまれた。ひとりならば逃げられようが、この子にはムリだ」  足手まといか。  エドアルの口に笑みが浮かんだ。 「よろしいですとも。こんな小さな子どもを連れておいででは、何かとご不便でしょう。誰かに世話をさせます」  少年が睨む。  快い。 「それよりも姉上、もうご安心ください。面倒ごとなら、私がおさめましょう。この国で私に逆らえる者などおりません。そして、一緒に都に帰りましょう。父も心配しております」 「伯父上はよい顔をすまい」 「なにをおっしゃいます!」 「隣国は、私の身柄を要求しよう」 「あんなところにお戻しはしません! 姉上を殺めようとしたではありませんか!」 「証拠がない。断る理由がない以上、戻らねば諍《いさか》いになる」 「では、私がお守りします! 婚約した以上、隣国へ入る理由はどうとでもなります!」 「そなたに何ができる?」 「叔父上から兵を借り、姉上の身辺を守らせます! そして、姉上と私が知恵を寄せあい、父上と力を合わせれば、赤イタチの一族などたちどころに根絶やしに!」  リュウカが苦笑した。 「姉上こそ、女王となられる方です。悪しき血を駆逐し、国を正しく治めましょう!」 「この子を頼む」 「先生! 一緒に行くよ!」  少年がリュウカにしがみついた。 「おまえはおまえの道を行きなさい」  リュウカは少年の両肩に手を置いた。 「敵は今ごろ森を囲んだはずだ。おまえを連れては行けない」 「先生、死んじまうよ! 敵は強いんだろ!」 「姉上、敵とは?」  リュウカはエドアルを見た。  鋭い眼。  エドアルはハッとした。 「まさか、赤イタチ……。しかし、ここは隣国ではありません。どうして隣国の手の者が……」 「きっと、私の家来だわ」  リズが震える声で言った。 「お父さまかおじいさまか、もしかしたらお母さまかお姉さまの命令で、前の王妃さまたちを探してるんだわ。だって、出がけにお姉さまが私に言ったもの。隣の国に隠れてる王妃さまに殺されてしまえって。だから、今度こそ、探しだして殺すいい機会だと思って……。そういえば、目つきの悪い人たちがいっぱいいたもの」 「そんなバカな。父上がそのようなこと許すはずがない!」  エドアルは怒鳴った。 「隣国の兵隊や間者どもが、自由にこの国を動きまわるなど……」 「頼りにならない伯父貴だぜ」  小さな少年がニヤと笑った。 「父上を侮辱したな!」  エドアルは立ちあがった。 「そこに直れ! 手討ちにしてくれる!」 「ホントのことだろ? 間者がいたわけだし。王子さまは王子さまで、ご婚約中のお姫さまを連れてご旅行中って噂になってるし」 「誰だ! そんな噂を流したのは! そんなはしたないこと、私はしない!」 「そこに連れてんじゃん」 「さっき気がついたばかりだ! 姫がついてきてるなんて、私は知らなかった!」 「じゃあ、あんたも利用されたクチってわけだ。あんたたちの周りをうろついてりゃ、誰にもとがめられないもんな。いい隠れ蓑だよな! で、コツコツ確実に間者網ができあがってくわけだ。まったく、婚約なんてハタ迷惑なことしてくれちゃってよぉ」 「姉上は亡くなったと、みんな思っていたんだ! 仕方ないだろ! 姉上だって、生きていらっしゃるなら出ておいでになればよかったのに!」 「で、リュウインに引き渡されて、殺されろって?」 「私がお守りするって言ってるだろ!」 「できねークセに」 「また侮辱したな! 直れ! 誰か、こいつを斬れ!」 「ヘン。自分じゃ斬れねぇんだ?」 「なにをっ!」 「いい加減に……」 「いい加減になさいっ!」  頭に一発くらって、エドアルは尻もちをついた。そばで、リズが息を弾ませている。  少年のほうも、リュウカから一発もらっていた。 「今は、お姉さまをお助けするのが先でしょ!」 「でも、エリザ姫……」 「違うのっ?」 「……はい……」 「お姉さま」  リズはリュウカに向き直った。 「森を囲まれてるって、ホントですか?」 「たぶん」  リュウカがうなずいた。 「出入り口は押さえられているだろう」 「じゃあ、出入り口のほかはいかがですか?」 「湿地に囲まれていては、出られぬよ。抜け道でもあれば、敵を出し抜けるかも知れぬが」 「私、この辺に詳しい者を連れておりますの。お使いください。前へ!」  リズが手をたたくと、近衛の中から小柄な男が進みでた。ぶかっこうで、近衛の制服が似合っていない。 「エリザ姫。いつの間に……」 「近くの村に寄ったとき連れてきたの。叔父さまから、湿地には抜け道があって、地元の人と仲良くなるとおもしろいってお話をうかがってたから」 「まったくよけいなことを!」  エドアルは立ちあがり、周りの者に埃を払わせた。 「案内を」  リュウカは葦毛に飛び乗った。  馬は大きく鼻を鳴らし、案内人を押しだした。 「姉上!」 「先生!」  エドアルが叫ぶと、少年も叫んだ。  焦れた。 「姉上、落ち着かれましたら、必ずご連絡ください! 年月が経てば、きっと安らかに暮らせる世となります」  リュウカは薄く笑った。 「どうかご自愛ください。お元気で。どうか私がお迎えにあがる日までご健在でありますよう」  正式な宮廷風の礼を優雅にしてみせた。  決まった! 「先生!」  少年の顔は涙でぐしょぐしょになり、みっともなく崩れていた。  勝った、とエドアルは思った。 「先生! オレ……」  少年は腕で涙をふり払った。  唇をひき結ぶ。  容貌が一変した。  青い目に強い光が宿る。 「先生! オレ、ゼッタイ強くなる!」  眼光はさらに強さを増した。  よく通る声が、力強く森に響きわたる。 「ゼッタイ強くなって、先生を守るから!」  リュウカの目が、まんまるになった。  くくっと笑った。 「生きのびよ」  目を細め、静かな声で言った。  案内人と人馬は木立の中に失せた。